2017年12月28日木曜日

群体を作る個虫 超個体的個体制の昆虫

 個虫(こちゅう)というのは、群体(コロニー)を構成する生物の各個体で、ヒドロムシ類でのポリプなどです。
 ヒドラのポリプは種によって群体タイプの他に単体タイプもあります。
 群体を形作る珊瑚(サンゴ)のそれぞれの個体は、個虫です。
 今西錦司人間以前の社会』〔1951年 岩波新書〕に、群体の詳しい考察が書かれています。
―― 全集版『人間以前の社会』「第三章から引用しますと。

 腔腸動物で海底に固着生活をしているものは、花虫類(サンゴを含む)でも、ヒドロ虫類(ヒドラを含む)でも、ほとんどその大部分が、群体をつくっている。ただし、偽群体にすぎないものもある。種類がたくさんあって、いろいろな形態を示すが、重要な共通点は、だい一に、一つの群体は、その全体が生理的につながっていること、だい二に、一つの群体には、少なくとも、栄養を担当する部分と繁殖を担当する部分との、分化が見られること、すなわち、栄養を担当する部分が切れて、そこから無性生殖的に繁殖することがあろうとも、いつかは繁殖を担当する部分が生じ、それをとおして有性生殖がおこなわれる、ということである。
〔今西錦司全集 第五巻『人間以前の社会/人間社会の形成』1975年 講談社 (p.68)

―― 続く第四章では、社会性昆虫について、次のように語られています。

親バチは、はじめは、個体維持も種属維持も、一匹でまかなってゆける、社会学的な個体であった。しかしそれが、一匹でまかないきれなくなったところに娘バチの必要が生じた。そこで親バチと娘バチとの分業がはじまり、前者が産卵、後者が産卵以外のいっさいをひきうける。けれどもそれと同時に、自分で食物を求めたり、子供を養ったりすることを放棄した親バチは、もはや社会学的な個体でなくなる。一方で、産卵を放棄した娘バチもまた社会学的な個体ではなくなって、親バチと娘バチとが一体となったところに、はじめて個体維持と種属維持とを全うしてゆく、社会学的な個体に匹敵したものが認められる。それゆえ、これを「超個体的個体」というのである。
〔同上 (p.94)

―― この「超個体的個体」という語は 1951 年に今西錦司が造語したものです。
 いっぽう、超個体“superorganism” の翻訳語としても用いられています。
 そういう超個体をなす社会性昆虫については、ジョン・メイナード・スミスとエオルシュ・サトマーリの共著生命進化8つの謎(“The Origins of Life” 1999) に、次の記述があります。

 さまざまな異なる種での社会性の程度は、強弱の程度の差による物差しに載せてみることができる。大部分の生物学者は「真社会性」と言われるものに興味をもっている。真社会性の動物とは、定義上、次の三つの条件を満たしていなければならない。
 (1) 生殖に関する分業。すなわち一部の個体だけが生殖すること。
 (2) コロニー内部で世代が重なり合っていること。
 (3) 育児個体が協同して子の養育を世話すること。
 この定義によれば、多細胞生物個体の各細胞たちは真社会性となることに注目しておくべきだろう。…… 真社会性はアリ、ミツバチ、スズメバチ、そしてシロアリでよく知られている。似た程度の真社会性がハダカデバネズミ、ブチハイエナ、リカオン(アフリカの野犬)、そして特に顕著なヒメグモの一種 (Anelosimus eximius) の場合をはじめ一部の社会性のクモでも認められることは、それほど知られていない。
 社会性動物のコロニーは、コロニーのレベルで適応性を示しているという意味で「超生物体」と見られることがあり、これはある程度もっともなところがある。たとえばシロアリが築いた塚は、空調システムとして役立つ通気路をもっている。この比喩で言えば、女王と生殖する雄は多細胞生物の生殖系列に当たるし、生殖しない個体は超生物体の体細胞ということになるだろう。けれどもこの比喩には用心しなければならない。数匹、それどころか多数の女王がいても、効率のよいコロニーがある。
〔『生命進化8つの謎』長野敬訳 2001年 朝日新聞社 (pp.197-198)

―― こういう昆虫の社会性について、最初にいわゆる〈超有機体 (super-organism)という表現をしたのは、
ウィリアム・モートン・ホイーラー昆虫の社会生活(“SOCIAL LIFE AMONG THE INSECTS” 1923) でした。

 成虫の生活期間の延長と家族の発達とから、必然的に重大な結果が生じる。すなわち、親と子供との関係がますます緊密になり、相互依存的になるので、われわれは 1 個の新しい有機的単位、あるいは生物(学)的全体、いわゆる超有機体 (super-organism) に直面するのであって、じっさい、その中では生理的分業により、これを構成する各個体が種々の方向に専門化し、相互の安寧や生存そのものにとって不可欠なものにまでなっているのである。
〔『昆虫の社会生活』渋谷寿夫訳 1986年 紀伊國屋書店 (pp.16-17)

―― そういえば以前、「スーパー・オーガニック 超有機的進化」と題してハーバート・スペンサーの進化論を参照したのは、今年の冒頭(1月4日)のことでありました。

 以上考察してきたスペンサーにおける進化概念は、今日の分子生物学の知見における「中立」説にもとづくとその本質的な特徴がより明確に浮上してくる。中立説は、ダーウィンの提示した自然選択における「適者生存」概念に新たな解釈を加えて展開された理論である。従来の「適者生存」概念には、自然環境に対して適用する種が進化を遂げ、逆に適用することのできない種は進化することができずに絶滅する、という二元的な進化現象観が前提におかれていた。しかし、中立説では「適用」と「不適用」のいずれにも属さないニュートラルな位置にある「中立」の変異をミクロレベルで保有する種が理論化されている。すなわち「適用」「不適用」の種は従来通りの進化、絶滅を繰り返し、その一方で「中立」の種も自然環境の影響を受けて存在し続ける。しかしその途上で、「中立」の種も分子や遺伝子といったミクロレベルにおいて確実に多様化し、長い時間をかけて可視的な変化を発現させる場合がある。これが「中立」説の骨子である。
〔挾本佳代『社会システム論と自然/スペンサー社会学の現代性』2000年 法政大学出版局 (pp.191-192)

 ダーウィンの『種の起原』に先立つこと、二年、
 1857 年に、〝スペンサーの〈進化論〉〟は上梓されたといわれています。
 スペンサーは『生物学原理』(1864-7) の第 4 章 (§202) などでポリプについて触れていますが、『社会静学』(1851) からの引用を参照すれば、群体について次のように語られています。

「まさに部位の合体(融合 coalescence )と部位ではないものの分離 ―― これはつまり、機能の細分化の増大と同じことであるが ―― は、社会の構造が複雑化する中で生じる。最も初期の社会有機体はほぼ一つの要素の反復から成る。すべての人間が、戦士、猟師、漁師、大工、農夫、道具職人である。共同体のどの部分も他のあらゆる部分と同じ義務を果たしている。それは、それぞれが薄いひと切れであるポリプの身体が胃であり、筋肉であり、皮膚であり、肺であるかのようなものである」。
〔『社会システム論と自然/スペンサー社会学の現代性』 (p.218)

 地球を超生命体とする〈ガイア仮説〉や、〈地球村(グローバル・ヴィレッジ)〉の思想は、エレクトロニクス時代に、〈グローバル・ブレイン〉の発想をもたらしているようです。
 社会的超有機体の概念は、現代になお強い影響を与えているのです。
 そしてファンタジーの世界でなく、いまや魔法のような科学が日々を席巻しています。
 進化したファンタジーは、いずれ現実と区別がつかなくなるのでしょう。


群生する個体:群体を作るポリプ
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2017年12月26日火曜日

細胞性粘菌の chtA 変異種/抜け駆けするクローン

―― 他人を蹴落としてでも生き残ろうとする習性が、自然の摂理で、もたらされるものなら。
いっそ、その存在を認めたうえで、新しい対策を講じなければならないだろう。
それとも、競争優位の戦略社会に生きるわれわれは、こすっからい生き残りの末裔であるのか。

 細胞性粘菌という、飢餓状態で多細胞化する生物が、ヒューマン』〔NHKスペシャル取材班 2012年 角川書店〕の 90 ページあたりでも取り上げられていました。そこでは単細胞アメーバのそれぞれの個体が遺伝子の命ずるままに分化していき、一部のクローン細胞以外は死んでいくさだめの擬似多細胞生物の映像が活写(ここではもちろん文章で)されていました。
―― たとえばこんな感じです。

 その成果は、圧巻というしかない。粘菌がまるで意志をもっているかのように集合し、まさにナメクジのように移動体を形成し、そして柄を伸ばし、胞子を形成していく。見事な協力の姿が記録されていたのだ。
 ニョキニョキと伸びていくその姿は、まるでキノコか何かが成長していくかのようだ。これがひとつの植物ではなく、10 万単位の粘菌が集まって繰り広げている連係プレーだと思うと、驚愕(きょうがく)してしまう。この協力が見事に感じられるのは、子孫を残すことができるのは胞子を担当した菌だけで、柄の部分を担当した菌は残すことができないということだ。
…………
 柄をつくる粘菌は自らを犠牲にして、胞子となる粘菌に貢献し、種の保存をはかっているわけではない。自分と同じ遺伝子の持ち主だから、自分という個が犠牲になっても、結局は自分の遺伝子が残る。それゆえに協力していると解釈できるのだ。
 遺伝子が命じる行動だけに、同じ条件になれば同じ行動が整然と現れる。しかし、遺伝子の命令である以上、その行動は遺伝子に利するものに限られる。自らのコピーを増やしたいという遺伝子の欲求から外れることはないのだ。

―― 遺伝子の命ずるままに分化して、死に際して役割分担する。
 これは多細胞生物が子孫を残して、自らは死んでいくのと、同じ原理なのでしょうが。
 でもこれが集団化の階層構造の幾重もの段階を経たのちの、多細胞生物同士の協同作業になると、必ずや〝抜け駆け〟を実践しようという突然変異体が発生するわけです。
 ならば、単細胞生物のクローン同士でも、そういう変異体は登場しても不思議じゃございませんな。
―― というわけで、前田靖男『パワフル粘菌には、こうありました。

 子実体における「柄」の形成は死を意味し、柄になろうとする行為は典型的な利他行動とみなされる。では、柄細胞になるのはどのような細胞であろうか。…… すなわち、“細胞が飢餓処理される時点で細胞周期のどの位相にいたかによって、その細胞の細胞集団(個体)内での位置どりが規定され、次いで、そこでの位置情報(位置価)により分化の方向が決定される”のである。この事実は、ある意味では運命論的な空恐ろしいことを暗示している。なぜなら、飢餓処理の時点で、たまたま細胞周期上の G2 の中期付近に位置した細胞は胞子に分化することによって“生”き続けるが、G2 後期、M/S 期、G2 初期にいた細胞は柄細胞に分化して結局は“死”んでしまうからである。別の表現を用いれば、「柄細胞」になるか「胞子」になるかはまったくの“偶然”により支配されていることになる。最近、チーター (cheater : 裏切り者 ) と呼ばれる変異種が後述の REMI 法により分離され、この変異をもたらす遺伝子 (chtA) はタンパク質分解に関与するタンパク質をコードしていることが示された。この chtA 変異種は単独では長い移動体を作るが子実体を形成できず、胞子への分化もほとんど認められない。しかし、これを野生型と共培養してキメラ細胞集団を形成させると、子実体が形成され、その際 chtA 変異種の細胞は優先的に胞子に分化して生き残ろうとする。また、chtA 変異種の胞子分化率は野生型との共培養の継代回数を重ねるのに伴って増大する。このように、野生型は chtA 変異種と競争し、結果として利他行動におよぶのである。この chtA 変異種による“裏切り行為 (?)”の発生学的および分子的機構は今のところ不明であるが、この変異種は野生型と共培養した場合、細胞集団内において胞子分化に有利な部域(集団内での位置)に優先的に選別されると考えられる。
〔『パワフル粘菌』2006年 東北大学出版会 (pp. 15-16)

―― つまりはこの、他人を蹴落としてでも生き残ろうとする習性が、自然の摂理で、もたらされるのなら。
 いっそ、その存在を前提として、自然の摂理は進化する生命に、どのような新しい突然変異種を対抗させ、戦略的に競争優位としたのか。
 それとも、やはりわれわれは、こすっからい生き残りの、その子たる末裔でしかないのか。
 相変わらず、無理が通れば道理は引っ込む世の中ではありますが……。

2017年12月24日日曜日

コンウェイ「ライフゲーム」: ガードナーによる紹介記事

ジョン・ホートン・コンウェイの考案した「ライフゲーム」についての参考資料として、まずは、
『サイエンティフィック・アメリカン』誌にマーチン・ガードナーが連載したコラム「数学ゲーム」があげられます。
―― 参考までに。次のような記述があります。

 1970 年に、コンウェイ (Conway) は「セル・オートマトン」を利用した「ライフ・ゲーム(Game of Life) を提案した。「ライフ・ゲーム」は、数学者ガードナー (Gardner) によって紹介され、有名になった( Gardner (1970, 1971) 参照)。
  Gardner, M.: Mathematical games, Scientific America, 223, 120‐123, 1970.
  Gardner, M.: Mathematical games, Scientific America, 224, 112‐117, 1971.
〔赤間世紀/著『人工生命入門』2010年 工学社/発行 (p.30)

―― さいわいにも、これらの「数学ゲーム」を再録した邦訳書が刊行されています。
別冊日経サイエンス 176『マーチン・ガードナーの数学ゲーム Ⅰ』[新装版]
〔マーチン・ガードナー/著 一松信/訳 2010年 日経サイエンス社/発行〕

このほかにも、「ライフゲーム」を紹介した日本語文献はいろいろとあって、
なかには〝コンピュータ・ゲーム版〟が付属している書籍もあったりします。
数学として、だけでなく、さまざまな分野に影響を与えたゲームなのです。
―― ガードナーの『数学ゲーム Ⅰ』「第 6 話 ライフゲーム」から、一部を引用しますと。

 セル・オートマトンは 1950 年頃にフォン・ノイマン (John von Neumann) が、自己複製オートマトンの可能性の証明という課題と取り組むようになったときに始まった。…………
 フォン・ノイマンは初めて「動的」な機械のモデルを証明した。それは部品の倉庫をうろつきまわり、必要な部品を探して、自分の複製にはめこむ。その後、友人のウラム (Stanislaw M. Ulam) からの霊惑的な忠告を採用して、そうした機械の可能性を、もっとエレガントに、もっと抽象的な形で証明した。
 フォン・ノイマンの新しい証明には、今日では「一様セル空間」と呼ばれる概念が使われる。それは無限のチェッカー盤と同値である。…… マス目は有限状態のオートマトンの基本的部分であり、生きているマス目の配置は、そういう機械の理想化されたモデルである。
 コンウェイのゲームは、まさにこうした空間に基づいている。彼の隣点は、そのマス目を囲む 8 個のマス目であり、各マス目は 2 つの状態(空白または石がある)をとり、そして推移規則は前に述べた誕生、死滅、生存の規則である。フォン・ノイマンは、各マス目が 29 の状態をもち、4 つの縦横の隣点を使った空間に推移規則を適用して、約 20 万個のマス目からなる自己複製的な配置の存在を証明した。
〔『マーチン・ガードナーの数学ゲーム Ⅰ』[新装版] (pp.38-39)

―― この「第 6 話 ライフゲーム」の最後のページに、
「ライフゲームについて訳者からのひとこと」として、

 ライフゲームのおもしろさは、…… きわめて簡単な推移規則で与えられ、初期状態によってすべてが定まってしまう完全決定系であるにもかかわらず、その変化が「予測不可能」だという点にある。これは、1970 年代に相次いで発見された、ある種の非線形漸化式に生じるカオス現象の一種といえるかもしれない。
〔『マーチン・ガードナーの数学ゲーム Ⅰ』[新装版] (p.47)

と、カオス理論に通じるという内容での考察が述べられています。
カオス理論は、決定論的なはずの、確定的な数式が導き出す不確定性を世に示しました。
コンピュータが登場して、進化論に、新しい時代の人工生命と複雑系の理論が絡みはじめるようです。


分化するクローン細胞 / ハイパーサイクル
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2017年12月21日木曜日

ハイパーサイクル/フィードバック・ループ

 マンフレート・アイゲンの〈ハイパーサイクル〉の発想は、いうなれば食物連鎖のような関係性を、ポジティブ・フィードバック・ループに転換して捉えたものといえましょうか。
 見返りを期待することもないままにたまたま誰かの利益になった行為が、巡り巡って、自分の利益となって返ってくるという円環のシステムです。

 それ以前にネガティブ・フィードバック・ループともいえる〈エラー・カタストロフ〉とは、アイゲンが発見し、命名したものらしく ――。
 しくじりが、自分の能力をどんどこ削ぎ落していく、こちらは負の連鎖の過程です。
 アンドレアス・ワグナーの進化の謎を数学で解く(“ARRIVAL OF THE FITTEST” 2014) に、次のような説明がありました。

 ノーベル賞を受賞してから四年後の一九七一年に、マンフレート・アイゲンは、このエラー・カタストロフを避けるのに必要な正確さを計算した。彼は、レプリカーゼが長くなればなるほど、より高い正確さが求められることを見いだした。経験則でいえば、五〇ヌクレオチドのレプリカーゼの場合、誤読は五〇のヌクレオチドにつき一以下でなければならないのに対して、一〇〇ヌクレオチドをもつレプリカーゼは、一〇〇ヌクレオチドにつき一以下でなければならず、もっと長いレプリカーゼについても同様のことが言える。
…………
これはアイゲンのパラドクスとも呼ばれているものである。すなわち、忠実な複製には長くて複雑な分子が必要だが、長い分子は忠実な複製を必要とするのだ。
〔『進化の謎を数学で解く』垂水雄二訳 2015年 文藝春秋 (pp.64-65)

 このアイゲンのパラドクスを解決しようとした考え方が、ハイパーサイクルという仕組みです。
 ダニエル・デネットのダーウィンの危険な思想(“Darwin's Dangerous Idea” 1995) では、次のように紹介されていました。

アイゲンは、悪循環だったものが、二つ以上のエレメントを持つ「ハイパーサイクル」に拡張されることで、私たちに都合のいいものになりうることを示している (Eigen and Schuster 1977) 。これは難解な専門的概念であるが、底辺にある考え方は十分クリアである。次のような環境を考えてみよう。タイプ A の断片は B が大きな塊になる見込みを増すことができ、その B が今度は少しばかりの C の安定を促す。ループを成すように、この C は A の断片の複製がさらに作られることを可能にする。このようなことが、相互に強化を行う要素間で続き、ついにはプロセス全体が始動するに至る。このようにして、遺伝材料のストリングがどんどん長く複製されていくのに役立つような環境が作り上げられるのだ。(ハイパーサイクルの理解には Maynard Smith 1979 が非常に有効。Eigen 1983 も参照のこと)。
  EIGEN, MANFRED. 1983. “Self-Replication and Molecular Evolution.” In D. S. Bendall, ed., Evolution from Molecules to Men (Cambridge: Cambridge University Press), pp. 105-30.
  EIGEN, M., and SCHUSTER, P. 1977. “The Hypercycle: A Principle of Natural Self-Organization. Part A: Emergence of the Hypercycle,” Naturwissenschaften, vol. 64, pp. 541-65.
  MAYNARD SMITH, JOHN. 1979. “Hypercycles and the Origin of Life.” Nature, vol. 280, pp. 445-46. Reprinted in Maynard Smith 1982, pp. 34-38.
〔『ダーウィンの危険な思想』山口泰司監訳 2001年 青土社 (p.219)

 ジョン・メイナード・スミスとエオルシュ・サトマーリの共著である進化する階層(“The Major Transitions in Evolution” 1995) には、次の記述があります。

 アイゲン自身が、このパラドクスを解こうと努力した。
…………
 アイゲンは、異なる RNA 分子間にはある機能的な相互作用が必要であると主張する (Eigen, 1971) 。…… 第一のメンバーが第二のメンバーだけの複製、第二は第三の、第三は第四、そして最後が第一のものの複製を触媒するというのが、ハイパーサイクルである。
…………
 生態系がハイパーサイクルに満ちていることが理解されれば、生物学者にとってハイパーサイクルはそれほど不思議なものとは考えられない。…… 生態学者は通常、食物連鎖という言い方をするが、死んだ動物は結局植物の成長のために栄養を供給していることを忘れないことが重要である。
  Eigen, M. 1971. Self-organization of matter and the evolution of biological macromolecules. Naturwissenschaften 58: 465-523.
〔『進化する階層』長野敬訳 1997年 シュプリンガー・フェアラーク東京 (p.66, p.67, p.68)

 メイナード・スミスとサトマーリによるもうひとつの共著生命進化8つの謎(“The Origins of Life” 1999) では、次のように書かれていました。

マンフレート・アイゲンとペーター・シュスターは特別なタイプの協同的なネットワークが重要だったと主張し、それをハイパーサイクルと呼んだ。…… A 、B 、C 、および D という数種類の複製体があり、それぞれの複製速度は、サイクルの中ですぐ前の複製体の濃度の増加関数になっている。たとえば B の複製速度は A の濃度とともに増加し、同様な関係でサイクルをひと回りする。A の複製速度は D の濃度とともに増すので、サイクルは閉じた環となる。
…………
実際には生態系はハイパーサイクルに満ちている。…… 藻とミジンコとトゲウオは、どれも複製体である。ミジンコの複製速度は藻の濃度とともに増すし、トゲウオはミジンコの数とともに増す。魚は水中に窒素性の化合物を排出し、これが藻の成長を加速するので、環は閉じるのだ。
…………
分子のサイクルの場合には、もし各複製体がサイクルの次のメンバーのコピー作用を行なう「複製酵素[レプリカーゼ]」だと考えるならば、サイクルを改良するような突然変異として二種類のものが考えられる。ある分子をよりよく作用するレプリカーゼにする変異と、その分子が複製のよりよい標的になるようにする変異である。選択では後者の型の変異は有利だが、前者は有利というわけではない。
 けれども、両方のタイプの突然変異がどちらも選択で有利となるような状況が一つある。すべての分子が「区画」の中、つまり細胞の中に閉じ込められているとしよう。複製する分子の総数がもっとも速く増加するような細胞が、同時にもっとも速く分裂もするとすれば、もっとも速く複製するハイパーサイクルを含む細胞は、他の細胞に比べて頻度が高くなっていくだろう。つまり分子が細胞内に閉じ込められることによって、新しい選択のレベルが導入されたのだ。細胞内での分子間の選択とともに、いまや細胞間の選択があることになる。
〔『生命進化8つの謎』長野敬訳 2001年 朝日新聞社 (p.81, p.82, p.83)


 ハイパーサイクル (The Hypercycle) という考え方はバーチャルでなくリアルに、世界最大のネットワークと思われるインターネット環境のなかで実践されているようです。
 互いに見も知らぬ人間同士が、それぞれの共通の言語を介して、掲示板などで知恵と知識を出し合っているのは、どういう仕組みなのかと、自己中心的な計算高い人種には、理解できないかもしれません。
 人間には、誰かの役に立ちたいという欲求があって、それがまわりまわって自分の不足を補ってくれるという、壮大なネットワーク環境が構築されているわけです。
 インターネットの相互補完計画は、ハイパーサイクルのデジタル版ということにもなります。

2017年12月18日月曜日

モンモリロナイトという粘土と生命

 モンモリロナイト (montmorillonite) という粘土鉱物について、今年の 7 月に 2 回とりあげています。
 土と生命の起源を関連づけた科学的な研究の話です。その当時には「モンモリロナイトについては、他の邦訳書でも最近のもののなかに、記述を見ることができましたが、日本人による一般向けの著書では未確認です」と、書いておりました。
 他の邦訳書というのは、ピーター・ウォードとジョゼフ・カーシュヴィンクの共著生物はなぜ誕生したのか(“A NEW HISTORY OF LIFE” 2015) です。

 ヌクレオチド三〇個以上の RNA 鎖を初期の地球上(またはその内部)でつくるには、土台になる粘土が必要だったと思われる。とくに適しているのがモンモリロナイトという粘土鉱物の一種だ。この仮説によれば、液体を漂っていた単体のヌクレオチドが粘土にぶつかる。ヌクレオチドは粘土とゆるやかに結合し、その場に固定される。こうして粘土鉱物のどこかの場所にヌクレオチド三〇個以上の鎖ができる。粘土と強く結びついているわけではないので離れやすい。もしも長い RNA 鎖が何本も集まったものが存在して、それが脂質に富む液体の小さな泡(石鹸の泡のような)の中に取り込まれたとしたら、最初の原始細胞の誕生となる。
〔『生物はなぜ誕生したのか』 梶山あゆみ/訳 2016年 河出書房新社 (p.78)

 これに次いで、ようやく日本人による記述も、一般向けに書かれた出版物のなかに見ることができています。
 以前にも参照した資料の日本宇宙生物科学会編『生命の起源をさぐるに収録された論稿、澤井宏明「生命の情報を担う RNA のはじまりにありました。

 粘土鉱物の一つのモンモリロナイトは重合反応を促進させるはたらきがあり、金属イオン触媒と同じような反応経路により RNA オリゴマーが生成する。粘土鉱物の表面には RNA 合成のモノマーであるヌクレオチドやアミノ酸が吸着する。モノマーが粘土鉱物の表面に吸着した上で一〇量体くらいまで重合することをフェリスらが見出した。このような条件下でモノマー単位を次から次へと加えていくと、縮重合反応が進み、五〇量体くらいまでのびていく。RNA の鎖長が五〇量体くらいまでのびれば、生物的な機能の最低限の役割を果たせるのではないかと考えられるが、このモデル実験で得られた RNA が実際に何らかの生物学的な機能をもつかどうかはわかってない。
〔『生命の起源をさぐる』2010年 東京大学出版会 (pp.48-49)

―― そういえば分子進化の起源に触れ、サイモン・コンウェイ=モリスの著書進化の運命(“Life's Solution” 2003) では、次のように述べられていました。

 まとめよう。もしある種の鉱物が、いやむしろ多くの鉱物が、生命に至る最初のステップで、重合化などの触媒という大事な役割を果たしていなかったとしたら、その方がかえって驚きだ。しかし、どうしたらその次のステップに行けるのかは、あいかわらず五里霧中である。
〔『進化の運命』 遠藤一佳・更科功/訳 2010年 講談社 (p.111)

 モンモリロナイトという粘土鉱物が、生命の起源に関わっているのではないかという研究は、どうやら現代の生命合成の物語へと進撃を開始しているようです。
 粘土をベースに遺伝情報を形成していったというのは、もはや神話や夢物語ではなく、現実の話として展開しつつあるようなのです。


自己触媒ネットワーク
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2017年12月11日月曜日

アトラクタ 収斂する進化

 エントロピーが生成されるというのは、エネルギーが散逸する過程となる。
 散逸したエネルギーはもとに戻らないので、宇宙は平衡になっていくといわれる。平衡とは、一種の静止状態だ。
 イリヤ・プリゴジンは、平衡から遠く離れた条件下で秩序への転移が起こる動的状態を散逸構造と呼んだ。
 それはある与えられた系とその環境との相互作用を反映した状態であるとも混沌からの秩序(“ORDER OUT OF CHAOS” 1984) の 48 ページあたりに書かれている。
 続けてこう説明される。

平衡状態から、平衡を遠く離れた状態へと移行すると、繰り返しや普遍性から離れ、特異性と唯一性に至る。事実、平衡に関する法則は普遍的である。平衡に近い物質は、繰り返し同じ振舞いをする。これに対して、平衡から遠く離れた場合は、種々の散逸構造を発生させる可能性のある、多様な機構が出現する。例えば、平衡から遠く離れた場合、化学時計、すなわちコヒーレントで、リズミカルな挙動を示す化学反応が現れる場合が知られている。また、不均一な構造や非平衡な結晶を生ずるような自己組織化の過程も知られている。
〔プリゴジン(他)/著『混沌からの秩序』 伏見康治(他)/訳 1987年 みすず書房 (p.49)

―― その約 20 年後。
 サイモン・コンウェイ=モリスは、進化の運命(“Life's Solution” 2003) という著書で、収斂(しゅうれん)する進化を散逸系の運動になぞらえた。人類の進化が自然の法則性に導かれたものだという考えは、それ以前からあった。

簡単に言うと、収斂は、進化が膨大な組み合わせからなる生物の「超空間」をどのように進んでいくかを暗示してくれるのである。…… 収斂がなぜ起きるかというと、安定性の「島」があるからだ。カオス理論における「アトラクター」のようなものである。
〔『進化の運命』遠藤一佳・更科功/訳 2010年 講談社 (p.209)

 注釈では、Lee CronkThat complex whole: Culture and the evolution of human behaviour (Westview, Boulder, CO, 1999) を参照して、次の一節が引用される。
「私たちは、人類の文化のグレイト・アトラクターを探している。人類の文化をそちらにひっぱり、そうすることでその多様化にしばりを与えているまだ見ぬ塊を」(p.26)
〔『進化の運命』第10章460頁 注134 (p.514)

 そもそもダーウィンの「自然選択」が、現代進化論の基盤になっている。
 選択ないし淘汰は、個体に対して、行なわれる。その結果は偶然だという。生き物の個体はたまたま生き残ったり死んだりするのだ。
 環境への適応とは、複雑なネットワーク関係にあると、このごろの理論で説かれる。
 〈アトラクタ〉(attractor) というのは、複雑系の本に出てくる単語だ。
 井庭崇・福原義久/著複雑系入門の説明を参考にすれば次のようになっている。

 散逸系の運動は十分な時間がたつと特定の軌跡や点に落ち着く。この運動の過渡状態の後の安定した状態のことを「アトラクタ」という。
〔『複雑系入門』1998年 NTT出版 (p.69)

平衡点 (fixed point)
リミットサイクル (limit cycle)
トーラス (torus)
ストレンジアトラクタ (strange attractor)

の、4 種類があると書かれている。
 平衡点は、静止アトラクタや点アトラクタ、固定点ともいう。ある一点に収束するアトラクタとある。
 コンウェイ=モリスの、収斂する進化は、このアトラクタを想定しているものであろうか。

 いずれにせよ、高速で泳ぐ魚は、流線型にならざるを得ないだろう。
 生き物の形が、物理法則に従うという方向性をもつのは確かなのだ。
 生き物のエネルギーも、化学反応に従って、生み出され消費される。
 少なくとも生命の形に一定の制約があるのはまちがいないところだ。
 木は移動しないからある程度まで巨大化できても ……。
 大暴れする動物では、そうもいかないだろう。


収斂する進化のシステム
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2017年12月9日土曜日

訂正:長崎東京間に電信柱が並んだ年

 間違いを直したついでにまたまた間違えるというのは、負の螺旋に巻き込まれているのかどうか。
 前回、1 年ぶりの修正事項を記録したあと、日本での電信導入の歴史を追ってみました。
が、長崎-東京間の電信開通の年に誤認がありまして、またも訂正事項の確認・修正とあいなります。
 さて、前回の最後にこう書きました。

なお、その間の明治 10 年 (1877)、西南戦争では、通信分断の目的で電信分局が焼かれ、
当時の新聞によれば「野戦電信機」が投入された模様だ。
…………
日本にまだ二台しかない機械で、ドイツ人に注文したことが、記事には書かれている。
大陸と東京が〝電線〟でつながったのは、西南戦争の 1 年後のことだった。

 この最後の一行に、実はなにやら違和感がありまして、コピーしておいた手元の資料をもう一度、確認してみたのです。
 福沢諭吉の祝辞に、解答はありました。前回には、それを次のように紹介しています。

―― 『逓信事業史』にも採録されているが、「電信開業式」に参列した福沢諭吉が祝辞を寄せている。
「電信は國の神經にして、中央の本局は腦の如く、各處の分局は神經叢の如し。」
〔『福澤諭吉全集』第四卷 昭和34年 岩波書店 (p.470) 〕
この「中央電信局開業式の祝詞」は、明治 11 年 3 月 28 日の「郵便報知新聞」 2 頁 (a~b) に掲載された。

 この祝辞をよくよく読んでおけば …… と、あいも変わらず後悔は先に立たず。
 短文なのに肝心な個所をすっ飛ばして読んでおりました。
 同じページに、長崎-東京間の電信開通の年などが、ちゃんと記録されているわけです。

 電信局の年報に據れば、…… 東京長崎の線は明治六年に落成、箱館への通線は七年十月に落成、其前後東京大阪等の市中にも縦横に支線を張て、……。
〔『福澤諭吉全集』第四卷「中央電信局開業式の祝詞」 (p.470)

―― つまり、長崎と東京の間に電信柱が連なったのは、明治 6 年。
 その翌年明治 7 年には、津軽海峡に海底線が通されて、電線は北海道にまでつながっているのです。
 西南戦争で焼かれた電信分局というのは、九州南部の地域でしょう。
 そういうわけで、西南戦争以前に、電信設備はすでに九州と東京とを結んでいたわけです。
 だからこそ、電信局が襲撃されている。ということで、違和感解消の運びとなりました。
 まったくもって、なさけない理解力でありました。
 ですが、電柱をなにゆえ〝電信柱〟というのか、という謎は解けました。

 どころで九州では、明治 9 年にも、「神風連の熊本局襲撃」事件というのがあって、
『逓信事業史』第三巻 (p.94~) の記録に残されています。
 当時の憂国の士が、電信を伴天連(バテレン)の妖術と決めつけ、熊本電信分局に乱入する騒動があったようです。

2017年12月6日水曜日

〝電線〟が大陸から東京に到達した日

 1 年前の、2016年12月7日(水曜日)に
「1949年 教皇による『創世記』と〈進化論〉の研究の奨励」と題し、その最後に、

『新カトリック大事典』 第 3 巻 (p.378) 「進化論」の項には、北原隆氏により、
 1949 年、「教皇ピウス 12 世が回勅『フマニ・ゲネリス』において、公に進化と神学の関係の研究を奨励することになる。」と記述されている。
 1969 年――それはさておき、米国国防総省によるインターネットの起源は、その年とされている。

と、書いたのだけれども、実はその「進化論」の記述内容には偏りがあって、
そのうち修正しようと予定しつつも思い出すたびに忘れていて、結局 1 年が過ぎてしまったのでした。
まるまる 1 年以上も放置となってしまうのは忍びないので、とりあえずここに訂正しておきたい。

『新カトリック大事典』 第 3 巻〔2002年 研究社〕「進化論」の項は、北原隆氏により、記述されている。
―― 378 ページにある、上に引用された該当の段落を全文引用すれば、次のようになっている。

 進化論が生まれた当時の知的状況をみれば, 長い間カトリック教会がその学説に対し非常に慎重な態度を取り続けたことをある程度まで理解できるであろう. 1949 年になって初めて, 教皇 *ピウス 12 世が回勅 *『フマニ・ゲネリス』において, 公に進化と *神学の関係の研究を奨励することになる.

―― この文中の *印は、通常は参照事項を示している。
つまりは「フマニ・ゲネリス」の項目が別途に掲載されているわけで、
『新カトリック大事典』 第 4 巻〔2009年 研究社〕にそれはあった。
―― 370 ページに、久保文彦氏による内容紹介とともに、次の記述がある。

『フマニ・ゲネリス』 Humani generis
教皇ピウス 12 世の回勅( 1950 年 8 月 12 日付)
…………
【原文】 AAS 42 (1950) 561-78; DS 3875-99.

―― このように、一般には『フマニ・ゲネリス』(1950) と、なっている。
第 4 巻のこの個所を一緒に引用し優先させておけば問題なかったろうと、いつものことながら後悔は先に立たず。
というか、だいたいは後悔覚悟で書いている。
そういえば今年の春ごろにも書いた、
世間様にさらす文章なり文字を書くということは、ハジも一緒にかく覚悟なしにはできかねる、のだ。

それはそうとして、『新カトリック大事典』における記述ゆえ、
それから以降は、北原隆氏がその年を 1949 年としている理由が何かあるのだろうと、
「進化論」について資料を調べていくうち何か判明することもあるやも知れず、と想定しつつ、
今のところ根拠はみつからないので、ただの間違いという気もする。

以上、訂正事項はそんなかんじで。さて、

 1969 年――それはさておき、米国国防総省によるインターネットの起源は、その年とされている。

と、最後の 1 行に書いたのは、その日の冒頭を、次のように書きはじめたからだ。

1633 年、有名な裁判でガリレオは有罪とされた。
1665 年、ロンドン王立協会を拠点としたオルデンバーグによる科学雑誌、
『フィロソフィカル・トランザクションズ』 “Philosophical Transactions” が刊行された。
これは新大陸アメリカをも含めた、郵便による科学文献のネットワーク化であった。

―― このあたりについても少々補足しておきたい。
 1665 年から 1969 年まで、おおよそ 300 年間。
 大洋をまたいだ文献の情報ネットワークは、最初は郵便のシステムによっていた。
 それがいまや、光の速度で、情報は伝達されていく。
 電信の設備がユーラシア大陸の東端に達したのは、日本に文明開化が訪れる以前だったようだ。

1853 年 6 月、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーが、軍艦 4 隻とともに、浦賀沖に現れた。
1854 年 1 月、ペリー提督は、軍艦 7 隻とともに、ふたたび来航した。

 このとき、ペリーによって、電信が日本に紹介されたらしい。
 それから苦節 15 年。

明治 2 年 (1869)、東京-横浜間に電信が開通した。

 本邦に電信が開通した歴史を垣間見れば次のごとくである。
遞信省・編纂『遞信事業史』(昭和十五年 遞信協會・發行)によるが、
当時の出版物ゆえ、難しい字で書いてある。

逓信省・編纂『逓信事業史』(昭和 15 年 逓信協会・発行)のように、簡便な字で、引用する。

第三篇 第二節 電信開業式 (p.98)
 九、国際線の開通
 なお電信の普及はただに国内のみでなく、国際間にもおよび、明治 4 年より丁抹(デンマーク)国の大北電信会社 The Great Northern Telegaraph Company の長崎上海間および長崎浦塩間の海底線を経て、早くも海外電信の取扱を開始し、明治 11 年 3 月、万国電信連合加盟の議決して、我国も翌 12 年 1 月より同連合の一員となることとなった。(「通信事業五十年史」に依る)
 十、電信中央局の開設と電信開業式
 かくて明治 11 年 3 月 25 日東京木挽町に電信中央局の開設を見たが、これを機とし、同局に於いて電信開業式を挙げた。けだし従前は電信取扱局所を設置するごとに、まづ試開と称して試験的に通信を送受したが、爾来技術大に進むと共に、秩序ある局所増置の方針をとるようになり、線路の延長および海外電信局との対立等、事業の大綱が完成したので、これを祝賀するものにほかならなかったのである。

―― 引用文中の「浦塩」は「浦塩斯徳(ウラジオストック)」の省略形であろう。原文は「浦鹽」と書かれている。
明治 3 年 8 月 25 日、デンマーク大北電信会社と、条約を交換。
明治 4 年 6 月、長崎-上海間の海底線が開通。
明治 4 年 11 月、長崎-ウラジオストック間も開通。
―― 『逓信事業史』にも採録されているが、「電信開業式」に参列した福沢諭吉が祝辞を寄せている。
電信は國の神經にして、中央の本局は腦の如く、各處の分局は神經叢の如し。
〔『福澤諭吉全集』第四卷 昭和34年 岩波書店 (p.470)
この中央電信局開業式の祝詞は、明治 11 年 3 月 28 日の「郵便報知新聞」 2 頁 (a~b) に掲載された。

祝辞の後半に福翁は、生きてる間に日本で電信の実物を見ようとは思いもよらなかったことをつづっている。
わずか 13 年前の慶応年間に彼が見たままの西洋事情を紹介した際には、
世間は電信なる一種の奇機を信じなかったのであるから、隔世の感もあろうかと想像される。

なお、その間の明治 10 年 (1877)、西南戦争では、通信分断の目的で電信分局が焼かれ、
当時の新聞によれば「野戦電信機」が投入された模様だ。
軍中電信機(ぐんちうでんしんき)」〔参照:「読売新聞」明治 10 年 2 月 27 日 (p.3)
野戰電信機(やせんでんしんき)」〔参照:「読売新聞」明治 10 年 3 月 1 日 (p.2)
日本にまだ二台しかない機械で、ドイツ人に注文したことが、記事には書かれている。
大陸と東京が〝電線〟でつながったのは、西南戦争の 1 年後のことだった。


【訂正】
長崎と東京の間に電信柱が連なったのは、明治 6 年。
その翌年明治 7 年には、津軽海峡に海底線が通されて、電線は北海道にまでつながっている。
次回分に間違いの言い訳などを書く。

2017年11月30日木曜日

ヴァイロファージが ウイルスを〝殺す〟

 バクテリアだと思って調べてみたら、巨大なウイルスだった、という新発見が 21 世紀のはじめに報じられました。
 武村政春氏の『巨大ウイルスと第4のドメイン』〔2015年 講談社ブルーバックス〕には、そんな巨大ウイルスに取憑くウイルスが発見された話も載っています。

 自分が寄生者で、まんまと宿主に入り込んで甘い汁を吸い、いい気になっていたら、じつは自分自身にもさらに小さな「寄生者」がいつの間にか取りついていて、甘い汁を吸われていた。
 そんなバイオハザード的な状況が、ウイルスの世界に存在したことがわかったのは、ミミウイルスの発見から数年経った、二〇〇八年のことだった。
…………
 細菌(バクテリア)に感染するウイルスのことをバクテリオファージというが、この寄生体は、「ウイルスに感染するウイルス」という意味をこめて「ヴァイロファージ」という名前が付けられ、その「愛称」として「スプートニク」という別名も与えられた。
〔『巨大ウイルスと第4のドメイン』 (p.40, p.41)

―― 「ミミウイルス」(Mimivirus) というのは、1992 年に発見された当初、細菌だと思われて「ブラッドフォード球菌」と名づけられた、巨大ウイルスのさきがけです。ようやくウイルスだとわかって命名されたその名は、2003 年に『サイエンス』誌上で発表されました。
 2008 年には、そんな巨大ウイルスの 1 種「ママウイルス」(Mamavirus) に、小さな寄生体がいることが発見されたのです。
 もっぱら〝生きてない〟と評判のウイルスにウイルスが〈寄生〉するというのはどういう状況なのか。
―― 武村政春氏はウイルスに感染するウイルスという表現をとりつつ困惑を表明しています。

しかし、彼らもやはり「ウイルス」であり、生物とはみなされない宿命を背負っている。もしウイルスが「生物ではなく物質」であるというなら、このヴァイロファージは、「物質に寄生する物質」という位置づけになる。何となく「?」マークがつきそうな状況だ。
〔同上 (p.43)

―― 氏の説明によれば、スプートニクはママウイルスに随伴するようにアカントアメーバに感染した挙げ句の果てにはママウイルスを殺してしまう(p.42) といいます。
 生きていないウイルスを〝殺す〟という比喩は、ウイルスを活動停止に追い込むという以上の意味をもつのでしょう。分解して遺伝情報を消滅させるということなのでしょうか。
 また同じページには、ヴァイロファージが真核生物の進化に大きな影響を与えてきたとされているとも語られています。
 このあたりに、なんとなく、生命現象の根元的な姿を見る思いがします。
―― ウイルスが生きていないとされる理由は多々あるようですが、特に印象に残った説明文があります。

 ミミウイルスは、その名のとおり「ウイルス」だから、生物の分類における「微生物」にはあたらない。先ほど「抗生物質は効かない」と述べたように、ウイルスは生物ではないからである。
〔武村政春『生物はウイルスが進化させた』2017年 講談社ブルーバックス (p.24)

―― 抗物質とは「生物」である細菌やカビなどに有効であると、『生物はウイルスが進化させた』の 23 ページにあり、その後も繰り返し述べられています。そしてもうひとつ。

 細胞性生物が「自立」しているのは、細胞膜の存在があって、それによって外界と内部とが明確に分かれており、いつでも「自己」と「非自己」を分け隔てできているからである。これに対してウイルスは、もしウイルス粒子をその本体であるとするならば、ウイルス粒子は感染した宿主の細胞中では完全に崩壊し、暗黒期を生じることから、ウイルス粒子を「自己」とするのであれば、その期間は完全に「自己」が消失し、非自己の中に散逸していることになる。
〔同上 (pp.209-210)

 上の引用文中の暗黒期というのは、幾何学的な形状のウイルス粒子の姿が消滅してしまう時期とされます。
 その外形はタンパク質の殻でできており、中に遺伝情報となる核酸が入っています。
 ウイルス粒子はまるで、動力装置を失って漂うカプセル型の宇宙船のようなイメージです。
 それでもって、生きた細胞というのは、偶然くっついてきたそれをパクと食べてしまう習性をもつらしいのです。
 ウイルスは消化される前に、まんまと感染するというわけです。


生命と非生命の間
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2017年11月27日月曜日

生命の〈セントラルドグマ〉

 以前(2017年10月16日月曜日)に、進化の〈セントラルドグマ〉というタイトルで書いたときには、
「遺伝子型⇒表現型」という影響は普通だけれども、
「表現型⇒遺伝子型」というその逆向きの影響は考えられない、という趣旨を中心としておりました。
―― だから、
現代の進化の総合説〈ネオダーウィニズム〉の理論が、いわゆるラマルク説〈獲得形質の遺伝〉を否定するのは、いくらキリンが切磋琢磨して首を伸ばそうと、首を伸ばした努力に見合う突然変異を DNA に起こさせるような能力はそなわっていないのだから、「首の長さは努力の賜物(たまもの)」という理屈は金輪際無理なのだ、という信念によるのだと。

 また少し前に、真核生物の〝細胞核〟について、武村政春・著『生物はウイルスが進化させた』〔2017年 講談社ブルーバックス〕に描かれる仮説なども発表されているのですが ……。と、書いておりますが、このたびは武村政春氏の別の著書から引用させていただきますれば ……。


 すなわち、遺伝情報の伝達には、「その情報が DNA から RNA へコピーされ、それがタンパク質に翻訳される」という、決まった一連の流れが存在するのである。遺伝情報はつねにこの流れにのっとり、けっして逸脱することはない。この考え、そしてこの流れこそが分子生物学の教義であり、一般的に「分子生物学のセントラルドグマ(中心定理、中心教義)」と呼びならわされているものである。
 この教義は、もともと DNA 二重らせん構造の発見者の一人、故フランシス・クリック博士が一九五八年に唱えたものであるが、二一世紀を迎えた現在においてもなお、「分子生物学のセントラルドグマ(以降、単にセントラルドグマと呼ぶ)」は、概念として生命現象の中心にあり続けている。セントラルドグマは全生物に共通のしくみであり、それゆえにこそ、地球上のあらゆる生物は、太古の昔に存在していた共通の祖先から進化してきたことがわかるのである。
〔武村政春・著『生命のセントラルドグマ』2007年 講談社ブルーバックス (p.6)

 DNA を鋳型にして RNA を合成するという通常の流れに逆行したかのように、なんと RNA を鋳型にして DNA を合成するという現象が発見されたのである。
…………
 セントラルドグマにのっとらない情報伝達の報告は、一九七〇年の英科学誌『ネイチャー』誌上においてであった。ハワード・テミンと、その指導の下で実験をしていた日本人科学者水谷哲は、まだ一九六〇年代のまさにガチガチの「教義」であったセントラルドグマに真っ向から対立する現象を見つけ出した。それが、今日「逆転写酵素」として知られる、RNA を鋳型として DNA を作り出す酵素の発見であった。
「レトロウイルス」と呼ばれる RNA を遺伝子としてもつウイルスから発見された逆転写酵素は、DNA を作り出す、すなわち DNA を合成する酵素であるから、分類としては DNA ポリメラーゼの仲間である。
 レトロウイルスは、感染した宿主の細胞のなかでこの逆転写酵素を使い、自身の RNA から DNA を合成し、これを宿主の DNA に組み込んでしまうのである。
〔同上 (pp.60-61)

 テロメラーゼの RNA の塩基配列は、テロメア・リピートを構成する六つの塩基配列、TTAGGG とペアを形成できる配列となっている。……
 このことは、テロメラーゼのもつ RNA を鋳型とすれば、そこに新たに TTAGGG 配列をつくることができるということを意味している。
…………
 DNA を新たに合成できるという点で、テロメラーゼも一応 DNA ポリメラーゼの仲間なのだと思われるが、その性質は「 RNA を鋳型にして DNA を合成する」というものであるから、どちらかといえば「逆転写酵素」と呼ばれる仲間に入ると考えられている。
…………
 ほとんどのがん細胞では、テロメア末端の短縮による老化を防ぐためにテロメラーゼが発現し、活発にはたらいていることが知られている。
〔武村政春・著『DNA複製の謎に迫る』2005年 講談社ブルーバックス (p.172, p.174, p.175)


―― 癌化した細胞は、生命の〈セントラルドグマ〉に叛逆するような、進化の特異な形態の象徴でもあるのでしょうか?

 そういう単純な図式だけでとらえてはいけないと、著書の最後で武村政春氏は語っています。
セントラルドグマは、…… もっと複雑なシステムなのだ、と。」〔『生命のセントラルドグマ』 (p.206)

 ドグマ[教義]とは人間が考えたものであって、それは分子生物学の〈セントラルドグマ〉でも同様であって。
 その解釈もまた人間がしているのなら、単純化した教義をあげつらい間違っているという安直さもその通り慎むべきで。
 ニュートンの力学も、そこから始めるべき指標としてのセントラルドグマ[中心命題]も、いずれは拡張を余儀なくされて、科学の進歩が刻まれていく、という ―― 世代交代しつつ複雑化していく進化の歴史があります。
 ならばここはひとつ、科学的なドグマも、いずれは乗り越えられるためにあるのだと考えてみればよろしいかと。

2017年11月23日木曜日

カオスに潜む 進化の物語

 前回の最後のあたりで、
多細胞生物への分岐を果たした単細胞生物にはすでに遺伝子的にはその準備ができていたことが次第に明らかになりつつある。」〔『生命の起源をさぐる』所収/馬場昭次「全球凍結の余波と多細胞生物繁栄のはじまり」 (p.182)
という、一文を紹介したのですが、準備されていた新しい可能性のことについては、これまでに参照した資料にも記述がありました。

多細胞生物が登場したのは、おそらく八億年ほど前である。多細胞生物形成の道筋はよく理解されていない。しかし、それが形成されたのは、管状の原始菌類が自己の内部に壁を作りはじめたときで、それがのちに個々の細胞になっていったと一部の研究者たちは信じている。
 そしておよそ五億五〇〇〇万年前、カンブリア紀における「生物種の大爆発」の際に、すべての可能性が解き放たれた。
〔スチュアート・カウフマン『自己組織化と進化の論理』 (p.34)

 マウスはハードウェアの進歩であり、それを一九六〇年代に発案したダグラス・エンゲルバートは、マウスは新しい種類のソフトウェアを可能にすることができるだろう、と見通していた。こうして発明されたソフトウェアは、その後さらに発達した形態をとり、現在、グラフィック・ユーザー・インターフェイス (GUI) と呼ばれるものとなった。…… この話の大切なところは、次のような点である。どういうことかといえば、ある独創的なソフトウェアが〝爆発的に〟登場するためには、世界に解き放たれることを待ちわびながら閉じこめられていなければならなかった。それが待っていたのは、重大な一つのハードウェア、つまりマウスの到来であった ―― ということだ。その後、GUI ソフトウェアの広がりはハードウェアへの新しい需要を喚起し、ハードウェアは、グラフィックの必要に対処するため、否応なくより速くより大容量のものになっていった。
〔リチャード・ドーキンス『虹の解体』 (p.386)

―― ダニエル・デネットはカウフマンの理論を紹介して、次のように語っています。

サンタフェのモットーが宣言するように、窮屈な秩序と破壊的なカオスの混成地帯を作る、可能的法則の領域内の、カオスの縁[ふち]でのみ、進化は発生するだろう。…… さらに言うと、―― これこそがカウフマンの考え方の中核だと私は思うのだが ―― 進化可能性それ自体が(私たちがここに存在するためには)進化しなければならないだけでなく、進化可能性それ自体が現に進化の〈見込み〉を持つとともに、ほとんど確実に進化しもするのである。
〔ダニエル・C・デネット『ダーウィンの危険な思想』 (p.297)

―― カオスの縁を行く進化については、新しく見た資料でも触れてありました。

 さて、このような爆発的なデザインの多様性を引き起こした源は何であろうか。これを動的な自己組織化の先にあるカオスや系といった言葉で説明しようとすると何か足りないものがある。静と動の中間、つまりカオスの縁で起こる多様性の出現には、ほどよい乱れが必要なのだが、カンブリア爆発は五億四〇〇〇年前に前触れもなく突如として起こった。
 では、カンブリア爆発を生んだ「カオスの縁」はどこに生じたのだろうか。物理の力学系の世界では、外部からコントロールしてカオスを生じるような系の状態を変化させると、秩序状態→複雑性→カオス状態という状態の間を移動する。ここでいう複雑性とは「秩序」と「カオス」の境界に位置する、特徴をつけにくい状態を指す。この領域が「カオスの縁」であり、複雑系における系の柔軟性を維持し、多様な自己組織化という動的な適応状態を作り出すのだ。
講談社ブルーバックス『自己組織化とは何か 第2版』都甲潔(他)著 (pp.115-116)

―― カオスとは渾然一体となった状態ともいえるでしょう。渾沌とした遺伝子の混ぜ合わせのなかで、表現型として発現しない未知の可能性については、化石の見た目からではまずわからないはずです。
 進化の加速が始まる直前、すでに準備されていた遺伝子は、なにかしらの革新をきっかけとして、爆発的な現象となって多様性を顕現したのだと思われます。
 それは多様性が急激に放散されたカンブリア紀以前のエディアカラ紀までに、すでに準備されていたのでなければ、爆発的な進化というような現象にはならなかったと、推測できるわけです。

 多くの物語で、幾度も繰り返し耐え忍んで、忍耐が臨界点寸前にまで達していたヒーローが、わずかなきっかけで胸のすく活躍に転じるというシチュエーションは、それまでの圧力の高まりを示すものです。
 生命の偶然の進化の物語が、偶然にも英雄譚に似ていることがあったところで、不都合はないでしょう。


エディアカラへの道
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2017年11月20日月曜日

エディアカラへの道

変更された〈カンブリア紀〉以前の時代・再び


 前回、宇佐見義之・著『カンブリア爆発の謎』〔2008年 技術評論社〕の記述を参考に、〈先カンブリア時代〉の期間について、1994 年に修正があったようです、と書いたのですが、その 10 年後にまたも、新たな決定が行なわれていたようです。
―― 文献から参照します。

 後生動物の最古の化石が最後の全球凍結終了に続くエディアカラ紀( Ediacaran period 、六億三五〇〇万年前から五億四一〇〇万年前まで)の初期に多数みられている。
〔日本宇宙生物科学会・編『生命の起源をさぐる』2010年 東京大学出版会/馬場昭次「全球凍結の余波と多細胞生物繁栄のはじまり」 (p.178)

―― 前回の参考資料では、
一九九四年に国際委員会は五億四二〇〇万年前からカンブリア紀が始まるという修正案を出し、正式な定義となりました。」〔『カンブリア爆発の謎』 (p.81)
と、なっていましたので、確認のために、他の文献に新しい決定時期などを求めると、次のものが見つかりました。

 スプリッグの発見以後、イギリス、ロシア白海沿岸、カナダのニューファンドランドなど、南極を除くすべての大陸で、エディアカラと同様の化石が発見された。
 こうして世界中で確認された軟体性生物の化石群を、スプリッグの発見した場所にちなんで「エディアカラ生物群」とよぶ。そして 2004 年、エディアカラ生物群に代表される新たな地質時代として、冒頭で述べた「エディアカラ紀」が設定された。エディアカラ紀の年代は、約 6 億 3500 万年前~約 5 億 4100 万年前とされている。
〔土屋健・著『エディアカラ紀・カンブリア紀の生物』2013年 技術評論社 (p.21)

―― ここに引用した『エディアカラ紀・カンブリア紀の生物』は、群馬県立自然史博物館・監修となっています。
 その 38 ページに〝 「楽園」とよばれた時代〟として、『カンブリア爆発の謎』でも紹介されていた「エディアカラの園」についての記述がありました。

 エディアカラ生物群の多くは、眼も歯もトゲももたず、脚もない。基本的に軟体性で、敵から身を守るための殻などの硬組織ももたない。こうしたことから、この時代はまだ本格的な生存競争が始まっていなかった、ともみられている。「争いのない時代」ということに注目し、このエディアカラ紀を旧約聖書に登場する「エデンの楽園」になぞらえて、「エディアカラの楽園」とよぶこともある。

「エディアカラの園」以前の捕食関係のこと


 冒頭の引用文献『生命の起源をさぐる』は、さまざまな執筆者の論稿で構成されていますが、井上勲「原核生物から真核生物への進化」の一節「真核生物がもたらした新たな生態系」では、
真核細胞の起源と系統の解明は重要だが、同時に重要なことは、真核生物の出現が地球上に新たな生態系を生み出し、地球環境を変えたことを正しく認識することである。
として、次のように論じられています。

 真核生物は本来、従属栄養生物で、基本となる栄養様式は「捕食」だったと考えられる。真核生物の原始的な性質を残すとされるエクスカベート類は、真核生物が新たに獲得した細胞骨格を駆使してきわめて複雑な捕食装置を構築しているが、捕食するのは細菌である。小さな細菌をせっせと食べる。一方で、多くの原生生物は細菌だけでなく、大きな真核生物を捕らえて食べる。種類によっては自分の体より大きな細胞も捕食する。つまり、真核生物では、「細菌食」から「真核生物食」への進化が起こったと想定されるのである。真核細胞は原核細胞の一〇〇〇~数十万倍の体積があるので、真核細胞を一個食べることは、一〇〇〇~数十万個の細菌を食べることに等しい。きわめて効率のよいエネルギーの獲得を可能にしたのである。真核生物の進化において、食作用の効率化はきわめて適応的な進化で、多様な原生生物をうみ出す推進力になっていったと考えられる。原核生物のほとんどは捕食を行わず、有機物を吸収して利用するから、捕食は真核生物の出現と多様化においてエネルギー獲得の重要な方法として確立したといえる。
〔『生命の起源をさぐる』 (pp.145-146)

―― 細菌(バクテリア)は、原核生物に属する単細胞の微生物で、つまり生命体に所属しているれっきとした生き物です。
 楽園伝説の一環として「エディアカラの園」には捕食関係がなかったというようなのほほんとした見解も見受けられるようですが、上記の、真核生物において捕食装置が強化されたという考察は、その見解を撃破してあまりあります。
 〝捕食関係がなかった〟というのはおそらくは、エディアカラの園に血が流れるたぐいの捕食関係はなかったという意味なのでしょうけれど。
 植物にしたって、捕食されることで活動範囲を広げる戦略をとっているのですが、それと血が流れることは直接の関係はないでしょうし。
―― 一方で、弱肉強食の時代はすでに萌芽(ほうが)していたともいわれます。
 実際、「原核生物から真核生物への進化」で論じられたように、進化の初期にあった爆発的な革新は、〈真核細胞への進化〉ではなかったでしょうか。

 実際は、原核と真核の細胞の間には、多くの差異があり、生物進化史上最大のギャップが横たわっている。後述のように、真核細胞の化石は最古でもアメリカで発見された二一億年前のグリパニア化石と考えられている。三八億年前に誕生した最初の生命は、原核細胞からなる原核生物としてうまれたはずだから、真核生物は、生命誕生から二〇億年近い時間を経てうまれたことになる。真核細胞からなる真核生物の出現は、その後の生物進化と生態系を大きく変えた重要な事件である。
〔同上/井上勲「原核生物から真核生物への進化」 (p.124)

 そして、その後〈エディアカラ〉へと通じる道には間違いなく、〈多細胞化への道〉が細胞間ネットワークの課題として、未知なる時代を示唆していたはずです。
多細胞生物への分岐を果たした単細胞生物にはすでに遺伝子的にはその準備ができていたことが次第に明らかになりつつある。」〔同上/馬場昭次「全球凍結の余波と多細胞生物繁栄のはじまり」 (p.182)

 原核生物同士の捕食関係が、ミトコンドリアなどの細胞小器官を付属させた真核生物の誕生につながっていったというストーリーは、誰も見ていない時間にあった物語として、アリでしょう。
 20 億年近い時間を費やした途方もない繰り返しの果てに可能になっていったというのは、同様に、真核生物の〝細胞核〟についてもいえます。
 武村政春・著『生物はウイルスが進化させた』〔2017年 講談社ブルーバックス〕に描かれる仮説なども発表されているのですが ……。けれども、それまでムキ出しだった、ゲノム DNA が、二重膜に包まれて隔離されるまでの経緯は、まだ混沌とした論議のなかにあるようです。


自己組織化 と ネットワーク・システム
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2017年11月16日木曜日

変更された〈カンブリア紀〉以前の時代

 少し前に、先カンブリア時代というのは、5 億年以上も昔のカンブリア紀にいたるまでの、約 40 億年間をいう、と書いたのですが、この〈先カンブリア時代〉の期間について、1994 年に修正があったようです。
―― 文献から参照します。

 六億三〇〇〇万年前のマリノアン氷河期(スノーボールアースの時代)が終わった後も、カンブリア紀が始まるまでの一億年弱の間、かなり寒冷な時代が続いていました。この期間については、近年国際委員会によって正式にエディアカラ紀と呼ぶことが決定されました。また、カンブリア紀の始まりは、カナダ・ニューファンドランドに見られる五億四二〇〇万年前の地層を基準とすることも近年決まりました。
…………
周りの文献を見渡してみると、五億七〇〇〇万年前からカンブリア期が始まると書かれている場合も多いと思います。しかしそれは以前の定義で、一九九四年に国際委員会は五億四二〇〇万年前からカンブリア紀が始まるという修正案を出し、正式な定義となりました。ですので現在のところ、カンブリア紀の始まりは五億四二〇〇万年前ということになります。
宇佐見義之『カンブリア爆発の謎』2008年 技術評論社 (p.51, p.81)

 カンブリア紀以前の化石資料については、スティーヴン・ジェイ・グールド『ワンダフル・ライフ』(“WONDERFUL LIFE” 1989) の日本語版 79 ページに、次の記述がある、と前回に書いたのですけれども、これにも、期間の修正が必要になっています。
エディアカラ動物群から、現生的な体の設計プランが固まったバージェス動物群まで、一億年の隔たりがある。

―― 『カンブリア爆発の謎』の記述をもとに、整理してみます。

6 億 3000 万年前にマリノアン氷河期が終わった後、カンブリア紀が始まるまでの 1 億年弱の間を、エディアカラ紀と呼ぶ
5 億 4200 万年前、カンブリア紀が始まる

5 億 8000 万年前に起こったガスキアス氷河期より後の時代のものをエディアカラ生物群という。(p.52)
5 億 6000 万年前のものが、エディアカラ生物群としては最も古いと推定される。(p.65)

カンブリア紀、澄江動物群が生きた時代はバージェス動物群よりも 2000 万年ほど古いとされている。(p.98)
―― 同書の 93 ページにある図では、
「澄江動物群」は、5 億 2100 万年前と 5 億 1700 万年前の間に位置づけられている。
「バージェス頁岩動物群」の位置は、5 億 1000 万年前と 5 億 600 万年前の間である。

―― ちなみに、サイモン・コンウェイ・モリス『カンブリア紀の怪物たち』〔1997年 講談社現代新書〕の「用語集」では、次の通り。(pp.279-282)

バージェス頁岩 (Burgess Shale) 約 5 億 3000 万年前の中期カンブリア紀の地層である。
澄江 (Chengiang) 南中国雲南省に露出する約 5 億 3000 万年前の前期カンブリア紀の堆積層。
エディアカラ動物群 (Ediacaran fauna) 原生代最後期、約 5 億 6000 万年前の化石群。

―― もうひとつちなみに、池田清彦『38億年 生物進化の旅』〔2010年 新潮社(初出:「波」 2008年 12月号 ~ 2009年 12月号)〕では、次のように記述されています。(p.56, pp.58-59)

 カンブリア大爆発の痕跡として有名なのが、バージェス頁岩[けつがん]から発見された生物の化石群である。バージェス頁岩は、古生代カンブリア紀の中期にあたる、いまから約五億一五〇〇万年前に堆積した地層である。
…………
 なお、中国の雲南省澄江[チェンジャン]でも、バージェス頁岩と同じ時期のカンブリア紀中期の地層から、化石群が見つかっている(同じ時期といっても、バージェス頁岩よりも澄江のほうが一〇〇〇万年ほど古いのだが)。それらは「澄江生物群」と呼ばれる。

―― そういうわけで、技術の進歩に伴い、発見と知見も日進月歩で、新しくなっていくのでしょう。
 核心の部分、〈カンブリアの大爆発〉は稀に見る勢いで起きた、という見解に変化がないのは幸いです。
 ただ、その爆発的な進化による繁栄の時代は、数百万年のケタではなかったようです。
 そしてその物語は、隣接する時代のエディアカラ紀の動物群が姿を消したほんの数千万年後のできごとだったのだと……。


カンブリア大爆発
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2017年11月13日月曜日

〈カンブリア大爆発〉の誤解された物語

 バージェス頁岩(けつがん)に刻まれたカンブリア紀の化石が、奇妙なものであったことから、物語ははじまる。
 スティーヴン・ジェイ・グールド『ワンダフル・ライフ(“WONDERFUL LIFE” 1989) によって、その物語は大きく世に広まったと、いろんな書で語られている。けれども、グールドの功績の大きさと、誤解された解釈の弊害が、併記されるのは、どういうわけなのだろう。
 そのことから、物語は別の展開を見せることになるのだけど、例示された突拍子もない誤解力についてまずリチャード・ドーキンス『虹の解体(“UNWEAVING THE RAINBOW” 1998) から、引用する。

『ワンダフル・ライフ』を読んで、この本が、〝カンブリア紀の門は共通祖先をもたず、なんとそれぞれ独自に生命の起源として現れてきたのだ!〟と主張していると受け取ったある哲学者との会話について、ダニエル・デネットが聞かせてくれた。デネットが、グールドにはそんなつもりはないんだ、と話すとその哲学者はこう言った。「じゃあ、一体全体この大騒ぎは何なんだね?」
〔日本語版『虹の解体』福岡伸一訳 2001年 早川書房刊 (p.275)

―― 上の引用文は、ドーキンスが書きとめた、伝聞の記録だ。
 ダニエル・デネット本人の伝ではどうだろうか。デネットは『ダーウィンの危険な思想(“Darwin's Dangerous Idea” 1995) で、次のように語っている。

たしかにバージェス頁岩動物相の繁栄と終焉は、前後の他の動物相の繁栄と終焉より漸進的ではなかったかもしれないが、だからといってそれが、生命の系統樹の形について何かラディカルなことを示していることになるわけではない。
 これではグールドのポイントをはずしていると言う人もいるかもしれない。つまり、「バージェス頁岩動物相の華々しい多様性の特別さは、それらが単に新しい〈種〉だったというだけではなくて、〈そっくり新しい門〉でもあったということなのだ。これらは、〈ラディカル〉に新しいデザインだったのだ!」というわけだ。私は、これは、グールドのポイントではないと信じている。というのは、もしそのとおりなら、回顧的な戴冠という人騒がせな間違いになってしまうからだ。すでに見たように、〈あらゆる〉新しい門(ほんとうに新しい王国!)は、ただの新しい亜変種としてスタートした後に、新しい種になるのでなければならない。
〔日本語版『ダーウィンの危険な思想』山口泰司監訳 2001年 青土社刊 (p.400)

―― この引用文中の「」(鉤括弧)内の一節は、グールドの記述を揶揄(やゆ)的に改竄(かいざん)したものと思われる。
 グールドの記述そのものではないというのは、参考文献が示されていないことでも推定できるが、それともうひとつ、すぐあとの 402 ページには日本語版『ワンダフル・ライフ』からの参照が〝渡辺政隆訳〟として、誤解のないような方法で引用されているのだ。―― 日本語版『ダーウィンの危険な思想』の担当者たちも、誤解が重箱状態にならないよう気を使うところだろう。
 鉤括弧内に書かれたモトネタとしての、グールド『ワンダフル・ライフ』の本来の記述は、おそらく次のものであったろう。

バージェスから見つかる一五から二〇種類あまりのユニークなデザインは、解剖学上の独自性からいえば独立した門に相当する。
〔日本語版『ワンダフル・ライフ』渡辺政隆訳 1993年 早川書房刊 (p.144)

―― さてさてそれでは、〝カンブリア紀の門は共通祖先をもたず、なんとそれぞれ独自に生命の起源として現れてきたのだ!〟という途方もない発言については、そこまでにいたるどういう経緯(いきさつ)があったのだろうか。
 化石の資料は、前回にも書いたけれど、約 6 億年前の「エディアカラ化石生物群」にようやく、動物と認められる多細胞生物の出現が見られるらしい。
 カンブリア紀を代表する「バージェス頁岩」の年代はおよそ 5 億 3000 万年前と推定されているようだ。
 グールドは『ワンダフル・ライフ』で、カンブリア紀の現象とエディアカラの時代の間を、1 億年程度と見込んでいる。そのことは、日本語版の 79 ページに記述がある、
エディアカラ動物群から、現生的な体の設計プランが固まったバージェス動物群まで、一億年の隔たりがある。
 それらの生物群の関連について、グールド自身の記述を日本語訳で見ると、次のようになっている。

 ドイツのチュービンゲン大学教授でわが友人でもある古生物学者ドルフ・ザイラッヒャーは、私見では現役古生物学者としてはいちばん目の利く研究者なのだが、その彼が一九八〇年代前半にエディアカラ動物群に関して従来とはがらりと異なる解釈を提唱した (Seilacher, 1984) 。彼は消極的な論拠と積極的な論拠に基づいて自らの見解を二重に擁護している。消極的な主張とは機能面に関する議論で、エディアカラ動物は類縁関係があるとされている現生動物のように機能できたはずがなく、したがって表面的な形状にはいくらかの類似性が認められるものの、現生グループの同類ではないだろうと論じている。…………
〔文献 : Seilacher, A. 1984. Late Precambrian Metazoa : Preservational or real extinctions? In H. D. Holland and A. F. Trendall (eds.), Patterns of change in earth evolution, pp. 159‑68. Berlin : Springer-Verlag.
 ザイラッヒャーがあげる積極的な論拠とは、エディアカラ動物のほとんどは単一の設計プランに基づく変異として分類学的に統合できそうだという主張である。…… このデザインは、現生するグループのどんな設計プランとも一致しない。そこでザイラッヒャーは、エディアカラ動物は多細胞動物におけるまったく別個の実験であると結論した。しかもそれは、カンブリア紀まで生き残ったエディアカラ動物はいないことから見て、これまでは知られていなかった先カンブリア時代終わりの絶滅において最終的に失敗してしまった実験である。
…………
ザイラッヒャーは、先カンブリア時代末のすべての動物が、多細胞動物において別個になされたこのもう一つの実験が設定した枠内に分類されるとは考えていない。彼はエディアカラ動物群が出土する地層にさまざまなかたちで残されたたくさんの生痕化石(足跡、這い跡、穿孔)も調べており、エディアカラ動物群が生きていた時代の地球上には現生的なデザインをもつ後生動物 ―― おそらくある種の環形動物 ―― も生息していたことを確信している。つまり、バージェスの場合同様、まさに最初から、いくつかの異なるデザインの可能性が存在していたのである。生命は、エディアカラの道をとることもできたし、現生グループの道をとることもできた。しかしエディアカラの道は完全に途絶え、われわれはその理由を知らない。
〔日本語版『ワンダフル・ライフ』 (pp.479-480, p.481)

―― よくよく読めば、グールドが記述したザイラッヒャーの主張では、エディアカラからカンブリア紀につながる道は研究の一部としてちゃんと示されている。
 ただここで紛らわしいことに、「エディアカラ動物群」のなかでも、カンブリア紀にまで生き残らなかったタイプの生き物をカンブリア紀まで生き残ったエディアカラ動物はいないと、グールドは、書いているのである。
 まったくもって非常に紛らわしいのだけれども、「エディアカラ動物」というのは、「エディアカラ動物群」のなかで、子孫を残せないままに絶滅していった生き物たちを特定している、と読むことができる。
 つまり、「エディアカラ動物群」のなかでも、限定されたエディアカラ特有の生き物たちを「エディアカラ動物」と称しているらしい。
 そして、エディアカラの道は完全に途絶えたのだけれど、カンブリア紀にまで生き残った、その時代の生き物の子孫たちも同時に想定内である、ということなのだ。
 ここでも、完全に途絶えた「エディアカラの道」というのは、その後に見られなくなったエディアカラ特有のパターンの意味に解釈すべきであろう。

 デネットは、だから、グールドは誤解されたようなことをいっているつもりはない、と、擁護したのだと思われるのだが……。
 自著の考察のなかで、デネットはこう述べている。
私が思うにそれはグールドを自分の願望で誤読しただけのものだ。
〔日本語版『ダーウィンの危険な思想』 (p.354)

 グールドは専門家なのだから、彼が専門とすることについては〝まっとうな〟ことをいっているに違いない、とそれぞれの読者によってそれなりに想定されて読まれるのだろう。
 しかしながら、読み手側の〝まっとうな〟見解というのは、十人十色(じゅうにんといろ)であることも間違いなく推定可能であるということなのだ。

2017年11月9日木曜日

生命と文化の感染拡大 ないしは 大爆発

 ダニエル・デネットは『ダーウィンの危険な思想(“Darwin's Dangerous Idea” 1995) で、次のように語った。
文化的進化は、遺伝的進化よりも何桁も大きな速さで働き、それが私たちの種を特別なものとしているのであると。
〔日本語版『ダーウィンの危険な思想』山口泰司監訳 2001年 青土社刊 (p.448)

 文化的進化の速さがどのようなものか、バクテリアが薬剤耐性を獲得するスピードのたとえは、わかりやすいだろう。
 文化は伝染するとも、しばしばいわれる。ルイジ・ルカ・キャヴァリ=スフォルツアの『文化インフォマティックス(“GENI, POPOLI E LINGUE” 1996) では、感染拡大のイメージが用いられた。

 われわれは周囲から文化を得て、それを他人に渡す。だが、文化伝播の形態には区別が必要で、それは重要である。疫学から術語を借りてきて二通りの伝播の道筋を記述する。垂直伝播によって、親から子への情報の伝達を表す。水平伝播には、肉親関係のない個人間の道筋をふくめる。垂直伝播では進化は遅い。それは遺伝子の遺伝に似ている。時間単位が世代の推移だからである。それに反し水平伝播は急速に起こり、感染した個人と罹患しやすい者との直接的な接触で伝染病がひろがるのに似ている。
〔日本語版『文化インフォマティックス』赤木昭夫訳 2001年 産業図書刊 (pp.222-223)

 水平伝播する文化の進化スピードに、多細胞生物の世代交代が、たちうちできるはずはない。
 遺伝子進化を待たず、人間の脳はフィードバック・ループを繰り返して環境の変動に対応していくことが、ジェフリー・ミラー『恋人選びの心(“THE MATING MIND” 2000) に書かれている。

進化心理学の仕事は、環境からの手がかりを自分の適応度を上昇させる行動に変換するこれらの心的適応が、進化によってどのように構築されてきたのかを分析することである。脳が大きくなるほど、行動を導くために脳が利用することのできる環境の手がかりは複雑になり、それにつれて行動も複雑になる。一世代という長い時間のサイクルを必要とする遺伝的な進化の中に、脳は、ずっと速いフィードバックのループを何百万回と挿入することができる。秒の単位で、脳は、生存と繁殖を上昇させる新しい機会を追跡しているのである。脳が存在する理由は、まさに、環境が変わるたびに遺伝子が変わらなくてもよいようにするためなのだ。
〔日本語版『恋人選びの心 Ⅱ』長谷川眞理子訳 2002年 岩波書店刊 (p.553)

―― 現在(いま)の環境には、現在の生き物が最適者だというのは正しいだろう。生き残っているからだ。
 適応できなかったものたちは、もういない。
 過去、進化の大爆発がカンブリア紀にあった。そして大量の絶滅が起きた。
 それ以前の、先カンブリア時代というのは、5 億年以上も昔のカンブリア紀にいたるまでの、約 40 億年間をいう。40 億年に比べれば、一瞬の閃きにも似た、爆発的現象なのだろう。
 約 6 億年前の「エディアカラ化石生物群」にようやく、動物と認められる多細胞生物の出現が見られるらしい。

 けれどカンブリア紀に、何が起きたにしても、10 万年とか、20 万年の話ではない。
 類人猿と分岐したあと、数百万年もかけて人類は、現在に至るという。いずれにしても、人間の物語は、数千万年のケタではない。
 真に爆発的な現象は、20 世紀というたったの 100 年間に起きたかもしれない。
 5 億年先の未来には、この 1 万年に何が起きたのかも、詳しい記録が残らなければ〝文化の大爆発〟が起きたとしか、いいようがないのではなかろうか。
 いつのころか文化は、突然に進化をはじめた。突如、コンピュータが登場して、人間が機械化されたということに、話は落ち着くのだろうか。
 ならば、カンブリア紀に、突如として、親とは似ても似つかない生き物たちが生まれたとしても、不思議ではない。
 その場合の突如は、おそらくは遙かな時間を経由した、突如だろう。
 数千万年ののちには、先祖とは似ても似つかぬ生き物たちがうようよしていたとして、文句をつける筋合いはなかろう。
 それはけっして、たかだか数千年というレベルの話じゃないのだから。
 突如、の時間レベルが、遺伝子と文化の進化スピードのように混同されてはならないのだし。
 それとも ―― 突如、というのは、それ以前とは異なり、21 世紀に生まれた人類は、誕生の瞬間からインターネットと共存している、というレベルの物語なのか。
 そういう物語なら、いつだって、突如としてはじまる。


選択 と 選好(選り好みの進化):変化をともなう由来
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2017年11月6日月曜日

調子こいて 浮かれた脳が 進化したとして

 〈配偶者選択〉の淘汰圧が、浮かれたホモ・サピエンスの男を作ったとして、
 男どもは生きるのに直接役に立たないような、夢物語を語りたがるにしても、
 女たちを喜ばそうと血道をあげた果てに、名もなき勇者の多くは野垂れ死に、
 同じ遺伝子が、あるときは女の役割りを演じ、またあるときには男の境遇で、
 夢物語のなにがしかは文化と呼ばれて、生きることの憂さを晴らしてくれる。

人間の脳が目立って大きくなったのは、
孔雀の雄の尾羽がやたらと目立つように進化したのと似たような理由だと、
ジェフリー・ミラー『恋人選びの心(“THE MATING MIND” 2000) には書かれています。
日本語版(長谷川眞理子訳 2002年 岩波書店刊)は二巻本として出版されています。

 全容は、現物を手に取って確認していただくしかないのですが。
 脳の〈ランナウェイ・モデル〉では、男女双方向からの〝選り好み〟を理論づけることができないので、―― 次の引用文のごとくに ――、
第 4 章において別の考え方が提示されます。


突然変異が長期にわたって蓄積していくのを避けるために、有性生殖はわずかなチャンスに賭ける。今、平均的な数の突然変異を持った両親がいるとしよう。二人とも、子どもに自分の持つ遺伝子の半分を伝える。ほとんどの子どもは、両親が持っているのとほぼ同じ数の突然変異を受け継ぐだろう。しかし、あるものは幸運にも父親と母親の双方から、平均以下の数の突然変異を受け継ぐかもしれない。そういう子は、平均よりもよい遺伝子を受け継ぎ、よりよく生存して繁殖するチャンスを持つだろう。突然変異量が相対的に少ない彼らの遺伝子は、将来の世代に広がっていくだろう。別の子どもは、もっとずっと不運かもしれない。彼らは、父親と母親から、平均以上に多くの突然変異を受け継ぎ、まったく胚発生することができなかったり、幼くして死んでしまったりするかもしれない。彼らが死ぬと同時に、そのからだにあったたくさんの突然変異も、進化の闇の奥に消えていく。
…………
からだと心における個体の遺伝的変異の多くは、おもてに現れてくるものだ。ある形質は、別の形質よりも多くの情報量を持つ。クジャクの尾羽のように、個体差の非常に大きい複雑な形質は、とくに情報量が多いだろう。形質が複雑だということは、その発達に、多くの遺伝子がお互いに影響しあいながら関わっているということだ。それは、より複雑であるゆえに、より多くの遺伝情報を総括している。そして、目に見えるレベルでからだと行動において個体差があるということは、配偶者選択のときに、その遺伝的な差異を感知することができるということだろう。性淘汰が働くときには、このような形質には特別の注意が払われるようになるだろう。
 このような形質は、「適応度指標」と呼ばれている。適応度指標は、その動物の適応度をことさらに宣伝するために進化してきた生物学的形質である。
…………
 性淘汰では、動物の感覚能力が、なんらかの形で彼らが選んでいる配偶者候補の突然変異のレベルに結びつかないとならない。適応度指標は、適応度を実際に見せる形質であるから、結びつきはここで起こる。それらが表すものが配偶者選択の対象となり、配偶者選択で有利になるものが、性淘汰によって進化する。適応度指標は、性淘汰に、有害突然変異をすくいとらせるためのふるいなのである。
…………
いったん、脳が潜在的な適応度指標として配偶者選択の対象となると、脳はもうそれに抵抗することはできない。求愛行動によってなんらかの適応度を表さなかった人は、誰も恋人としては選ばれなかったのだ。彼らの祖先の、小さくて、有能で、無駄なことは一切せず、石橋をたたいて渡るタイプの、突然変異を頑強に拒む脳は、彼らとともに絶滅してしまった。そのあとに、大きくて、コスト高で、危うくて、派手な、私たちの脳が進化したのである。
〔日本語版『恋人選びの心』Ⅰ (p.143, pp.144-145, p.146, p.147)


―― 「適応度指標」と呼ばれる考え方から導かれるものが、ザハヴィの〈ハンディキャップ原理〉に近いものになることは、著者自身によって示されます。


予算を無視した高価な信号よりも予算を考慮に入れた高価な信号のほうが、ずっと容易に進化する。この予算の制約に対する敏感さは、生物学者たちが「条件依存性」と呼んでいるものだ。これは、適応度指標は適応度に依存しているという直感を反映して、「適応度依存性」と呼んでもよい。
…………
 ザハヴィのハンディキャップの原理と条件依存性の考えは、同じものを違う面から見ただけである。
〔同上 (p.178, p.180)


―― 〈配偶者選択〉の淘汰圧が、こうして浮かれたホモ・サピエンスの男を作ったとして。
それが脳のとてつもない巨大化をもたらしたとして。調子こいていろんな文化ができたとしても。

 それぞれの生き物を特徴づける形質(表現型)の見事さに驚嘆しつつ、それが特異なものであれば配偶者選択によるものであるとするのは、そう無理な設定でもないでしょう。
 このさいおおまかにいって、〈適者生存〉は、〈適者繁殖〉のための必要条件と、いえるでしょう。
 進化に目的があるとするなら、それは〝生存〟ではなく〝繁殖〟だとするのは、理にかなっています。
 進化は、世代交代をしなければ、成立しませんから。繁殖は、進化の絶対条件になります。
 そのためには特に大型の哺乳類などは、繁殖期まで成長するためにも、数年は生き延びる必要がでてきます。
 すると〝生存する適者〟であることは、その存在の目的ではなく、手段であることは明白となってくるでしょう。
 繁殖が終われば、すぐに死んでしまう生き物も、その命の目的は達成できているわけです。
 たまたま生きているのは、おまけでしょう。
 生きてるだけでも儲けものというのは、実際、丸儲けと考えて差し支えないかと、思えてくる次第です。
 そうすると、誰でもみずから利益還元祭というのは、余生の必需品として。どうせなら。

2017年11月3日金曜日

脳は巨大化を続け 石器文化は停滞を続けた

 握斧 ―― ハンドアックスとは、発明から百万年間というもの、ほぼ同じ形状を保ち続けた石器だ。(2017年8月28日月曜日付 の記載から)

これは邦訳された、マット・リドレー『繁栄(“THE RATIONAL OPTIMIST” 2010) の記述に基づいて、そう書いたのだった。
 マット・リドレー『やわらかな遺伝子(“NATURE VIA NURTURE” 2003) を読めば、石器文化の記念碑のごとき握斧(あくふ)が、ヒトの脳の巨大化にともなって、どのように進化したのかが綴られている。
―― 多くに支持された一説によれば、ヒトの能力と、文化と、脳の大きさには、それなりに相関関係が想定されるようだ、と。

 ヒトが記号によるコミュニケーションを手に入れたとたん、逆転不能の文化の歯車が回りだす。文化が増えるとより大きな脳が必要になる。そして脳が大きくなると、より多くの文化が獲得できるようになるというわけだ。
〔『やわらかな遺伝子』中村桂子・斉藤隆央 訳 2004年 紀伊國屋書店 (p.291)

―― 続けて、大いなる足踏みと題し、次のように記されているのだ。

一六〇万年前、ナリオコトメの少年が生きていた時代の直後、地球上に素晴らしい道具が現れた。アシュール型握斧(あくふ)である。これは、ナリオコトメの少年と同じ、それまでになく巨大な脳をもつホモ・エルガステルのメンバーが考案したにちがいなく、これ以前のもっと原始的で不規則な形をしたオルドヴァイ型の道具から大きく発展している。…… それは、ホモ・エレクトゥスの移動にともない北はヨーロッパまで普及し、石器時代のコカコーラとなった。しかもなんと一〇〇万年にわたって技術文化を支配しつづけた。わずか五〇万年前にもなお使用されていたのである。…… 逆転不能の文化の歯車は回らず、センセーショナルな革新は起きず、実験もなされず、競合製品は生まれず、ペプシは登場しなかったのだ。ただひたすら、握斧独占の時代が一〇〇万年続いた。「アシュール型握斧株式会社」は、まさに大当たりで、ぼろ儲けだったにちがいない。
 文化の共進化の理論はこんなことを予言していない。むしろその理論によれば、いったんテクノロジーと言語が組み合わさると、変化が加速するはずなのだ。この握斧を作った人類は、それを作り、作り方を仲間から学べるだけの大きな脳と器用な手をもっていたのに、その脳や手を製品の改良に利用しなかった。彼らが、一〇〇万年以上経ってから突然、槍投げ器から犂(すき)、蒸気機関、ついにはシリコンチップへと、怒濤のように急激な進歩をなし遂げたのは、なぜなのだろう?

―― 人類の脳は、ホモ・エレクトゥスの時代には、大きくならなかったとかいう話ではない。
脳はあいかわらず、膨張を続けていたらしい。
石器はしかし、まったくといっていいほど、かわり映えがしなかった。

 つまるところマット・リドレーの疑念は、当然すぎるという話でしかない。
 たとえば、〝遺伝子と文化が共進化する〟にしても、いつからいつまでの時代の話として、想定されているのか?
 それは共進化という表現ではなくただ普通に相互作用というのでは、いけなかったのか。

 〝共進化〟には日本語で〝いたちごっこ〟の意味合いがあるだろう。つまりは、行為の結果、たがいに差はつかない。
 日本ではもしかしてそれは〝痛み分け〟のように、認め合う内容かもしれないけど。
 大きな差がつけば、日本人は、きっと文句をいう。この場合、文句というのはただの文言(もんごん)ではなく苦情(クレーム)のことだ。
 最終的に多少の利益を得たとしても。つまりは相対的な、相手との差が気になるのだ。
 英語では、ケタ違いの差がついたとしても、〝ウィン ‐ ウィン〟の関係とかいって、両方の勝利を相互に認め合うというのか。

 さて『やわらかな遺伝子』の「第 9 章」では、前回にも触れた、ジェフリー・ミラーの理論が、好意的に紹介されている。
 一方でリチャード・ドーキンスも、同様にミラーの説を参照して、次のように論じた。

ジェフリー・ミラーは、『恋人選びの心』において、ヒト遺伝子のかなり高い割合、ひょっとしたら最大五〇%までが、脳内で発現していると述べている。ここでもまた、話を明解にするために、雄を選ぶ雌の立場からのみ語るのが便利である ―― しかし、逆にしてもよいし、両方向から同時に見ることも可能である。ある雄の遺伝子の性能に関する透徹した解読を追究する雌は、その雄の脳に関心を集中するのがよいだろう。雌は文字通りの意味で脳を見ることができないので、そのはたらき方を調べる。そして、雄がその性能を広告することによって調べやすくするはずだという理論に従えば、雄は自らの知的能力を謙虚に頭のなかに隠しておいたりはせず、おおっぴらにするだろう。彼らは踊り、歌い、おだて、冗談を言い、音楽や詩をつくり、それを演奏ないし朗読し、洞窟の壁面やシスティナ礼拝堂の天井に絵を描く。…………
 この見方に立てば、人間の心は、精神的なクジャクの尾なのである。そして、脳は、クジャクの尾の拡大に駆り立てたのと同じ種類の性淘汰のもとで膨張したのである。ミラー自身は、フィッシャー版の性淘汰説よりもウォレス流の説明のほうが好きなようだが、結果は基本的に同じである。脳は大きくなり、しかもそれは迅速かつ爆発的に進行するのだ。
〔日本語版『祖先の物語』(上) (pp.395-396)

―― 脳が大きくなったのは、異性にウケたからだという。
 ただただ、浮かれておっきくなってた脳が、突如、実用性に目覚めたというのは、どうなのだろう。それにしても、覚醒のきっかけはどんな物語にも、説得力として必要になってくるに違いない。
 どんなストーリーが、用意されるのか。
 たとえば脳の大きさに男女の差がほとんどないのは、女性は男性の能力を見極める能力を必要としたからだという。
 結局のところ、男の内心など、女には見え見えでしかないということなのか。


相互作用する脳 の ランナウェイ
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2017年10月31日火曜日

ミラーニューロン: 脳のランナウェイ

 〝ミラーニューロン〟と名づけられた神経細胞があります。
 まるで鏡のように相手の動きを真似している神経ということなのですが、ミラーニューロンは、サルの研究をしていたイタリアのパルマ大学で偶然発見されました。
 その偶然の時間は研究中のおやつタイムに訪れたということです。
―― アイスクリームを食べようとしたら、マカクザルの脳に刺しっぱなしだった電極が反応したらしい。
 ささやかなざわめきから転じて、部屋中が色めき立っていくグラデーションが目に浮かぶようですな。

 偶然というのはこのようにおそろしいもので、なにが大発見をもたらすのか、予想もつきません。
 かくしてミラーニューロンを知ってから、テレビなど見ているときに他人の口元を眺めていると、食事の風景を見ている側の口が動いているシーンに出くわしたりします。
 なにがすごいかというと、説明すれば、これは、他人の動作からその心境を読み取る能力につながっていくのだ ―― という、シナリオへと転じていくのです。

 ミラーニューロンは、パルマ大学のリゾラッティらの研究室で発見されたのですが、
『ミラーニューロン』(“SO QUEL CHE FAI.” 2006) という、ジャコモ・リゾラッティとコラド・シニガリアの共著になる単行本が、邦訳(柴田裕之訳/茂木健一郎監修 2009年 紀伊國屋書店刊)されています。
 人間の言葉の起源は「身振り」だったのではないかという説が、そこで詳しく語られています。動物の模倣能力について、以前からの研究を紹介しつつ、最新の理論展開がなされていくわけです。
―― 次の引用個所は、174-175 ページです。


私たちはミラーメカニズムのおかげで、相手が最初に動いた瞬間からその行為を理解するばかりか、自分の意図しない反応が生み出した結果についても確実に理解することになる。こうして、私たちの手と相手の手の間に相互に作用する関係が生まれるのだ。この相互作用は、「身振りによる会話」とさほど変わらない。ミードによれば、「身振りによる会話」は、戦いから求愛、子供の世話から遊びに至るまで、動物の多様な行動の予備段階の特徴となっているという。

ヒトよりも下等な動物にさえ、性質上、身振りとして分類してよさそうな行為の領域[……]がある。それは、他者から本能的な反応を引き出す行為の始まりから成る。これらの行為の始まりが引き出す反応は、すでに開始されていた行為の再調整につながり、この再調整がさらに別の反応の始まりにつながり、それがまた相手の再調整を引き出す[注19]
〔注19  MEAD, G.H. (1910), “Social Consciousness and the Consciousness of Meaning”. In Psychological bulletin, 7 (12), 398. Also in Selected Writings of George Herbert Mead. University of Chicago Press, Chicago.[『創造的知性』、清水幾太郎訳、河出書房、1941]〕

 この「相互再調整」によって、動物の行なう行為に社会的価値が加わり、それに伴い、多くの点で真に意図的なコミュニケーションの先駆けとなる、親密な関係が構築される。しかし、真に意図的なコミュニケーションには、ミラーニューロン系を制御したり、身振りが他者の行動に対して持つ効果を運動知識の中に組み込んだりする能力が必要となる。その能力があれば、他者がその身振りを行なったときに、そうと認識できるからだ。


―― ここで、相互に作用する再調整能力というのは、正のフィードバックをもたらすと、予想されます。
 巨大化した人間の脳が、その相互作用システムにじゅうぶん対応できる能力を備えていたというのは、あまり無茶な話でもないでしょう。
 霊長類の脳の大きさについて、リチャード・ドーキンス著『祖先の物語』(“THE ANCESTOR'S TALE” 2004)(上)〔垂水雄二訳 2006年 小学館刊 (pp.131-132, pp.133-134) 〕に、次のような記述がありました。

ハリー・ジェリソンは、特定の種が脊椎動物や哺乳類などの大きな分類群のメンバーであるときに、その体の大きさからして「あるべき」脳の大きさよりもどれだけ大きいか、あるいは小さいかを表す尺度として、大脳化指数( Encephalisation Quotient 、略して EQ )という指数を提案した。…… 現代のチンパンジーの脳は、典型的な哺乳類があるべき大きさのおよそ二倍であり、アウストラロピテクスもそうである。おそらくアウストラロピテクスと私たちとの中間段階であると思われるホモ・ハビリスとホモ・エレクトゥスは、脳の大きさでも中間型である。両者ともおよそ四という EQ をもち、このことは、同じ大きさの哺乳類がもつべき大きさよりも、およそ四倍大きな脳であることを意味する。
…………
いかなるダーウィン主義的な淘汰圧が過去三〇〇万年のあいだに脳の拡大に駆り立てたのだろうか。
 それは私たちが後ろ脚で立ちあがった後に起こったことだから、脳の膨張に駆り立てたのは、両手が自由に使えるようになり、そのために正確にコントロールできる手先の器用さが与えられたことではないかと述べる人々もいる。一般的には、私はこれが妥当な考えだと思っているが、他に提案されているいくつかの考え以上に説得力があるわけではない。私は、膨張的な進化には、特別な種類の膨張的な説明が必要だと考えている。私は自著『虹の解体』のなかの「脳のなかの風船」という章で、「ソフトウェアとハードウェアの共進化」と呼ぶ一般理論において、この膨張的なテーマを展開した。……
 大きくなった人間の脳、あるいはむしろボディペインティング、叙事詩、儀式的なダンスといった脳の産物が、一種の精神的なクジャクの尾羽として進化してきたということはありうるのだろうか。私は長いあいだこの考え方に特別な愛着をもっていたが、英国で研究中の若きアメリカ人進化心理学者ジェフリー・ミラーが『恋人選びの心』を書くまでは、それを適切な理論の形に発展させる人間は誰もいなかった。


 ドーキンスはこの著書で、〈性淘汰〉による脳の巨大化の仮説を展開しています。
 ジェフリー・ミラーが『恋人選びの心』(“THE MATING MIND” 2000) を単行本として出版したからなのです。きっかけとなったその本は、さいわいにも日本語(長谷川眞理子訳 2002年 岩波書店刊)で参照することができます。
 ここでもまた先人達の肩に乗ってその向こう側の景色を、なんとなくでも、眺めることができるのです。感謝。

2017年10月27日金曜日

ボールドウィン効果が有効だった時代を経て

 100 年以上前に、アメリカの心理学者ジェイムズ・マーク・ボールドウィンというひとが提唱した理論は、現在〈ボールドウィン効果〉として、進化論に大きな影響を与えています。

この過程はボールドウィン効果と呼ばれる。多くの世代にわたってある経験に繰り返しさらされた種では、その経験に対処する遺伝的傾向を持つ子孫がいずれ生き残る。なぜか? その状況に対処する傾向を持つようにたまたま生まれついた子は、他の子より生き延びる確率が高いからだ。
〔マット・リドレー著『進化は万能である』大田直子(他)訳 2016年 早川書房刊 (p.86)

 そしてあらかじめセットになっているかのように、ボールドウィンといえばラクトースという話題が続きます。酪農の起源と牛乳にふくまれる乳糖(ラクトース)の消化能力のことです。
 人類も、初期設定では、成人になって牛乳をのむと、誰しもが具合悪くなる仕様だったようです。けれども、
ラクターゼ(訳注 乳糖を分解する酵素)遺伝子のスイッチを切らずにおくことで、ヒトは大人になってからも乳糖を消化する能力を進化させた。」〔同上〕
という次第です。

 一般に哺乳類は、離乳後には、ラクトースの消化能力を失ってしまうらしいのですが、人類は酪農を成功させることで、成人でも牛乳の飲める身体を手に入れてしまったわけです。
 これは人類誕生後の出来事なので、初期設定の変更された遺伝子が、酪農の開始以降に勢力をのばして繁栄したということになります。
 いまでは人類の行動や文化が、突然変異した遺伝子の自然淘汰に影響を与えた具体例の、説得力ある話として有名になりました。
 遺伝子と文化の共進化というのは、〝遺伝子と集団環境の共進化〟とも、いいかえられるのではないでしょうか。
 適者繁栄のことわりはすべての環境が作用した複合体です。
 地理的条件だけでなく、地域ごとに異なる集団の文化が、その土地ごとに選ばれ残されていく、遺伝子の傾向に関係ないはずはないでしょう。自然環境だけでなく、個体を取り巻く環境として、所属集団という環境は無視できないわけです。

 思えば、最初に環境を激変させた生き物は、植物の祖先でした。
 特に作意もなく、植物が発生させた大量の酸素は、それまで主流だった生き物を隅に追いやって、そうして猛毒のはずの酸素をうまく扱える生き物が誕生して繁栄していったわけです。
 植物と共生した葉緑体の遺伝子の効果が環境を変え、その環境にうまく適合した動物が植物と共存していったのです。

 遺伝子は環境を変える能力を持つし、それが文化的と称される環境であれば、随時変わっていくでしょう。
 そして、集団環境からのフィードバックは、適者とされる、遺伝子をさらに選択することになります。
 この過程は、ランナウェイ・プロセスだとしても。

 乳児期以降のラクトース分解能力を手に入れた人類の話も、千年単位のはずです。

 活版印刷術は、1450 年頃、グーテンベルクによって発明されたといわれますが。
 その後に人類が《脳の外の》外部記憶領域に記録した情報量は、拡散の一途です。
 インターネットの発明は、それを爆発状態にまで移行させました。
 このところというか、時代の変化スピードに人類の遺伝子は、とうに追いつけなくなっているはずと、思われるのです。
 共進化しているのは、遺伝子ではなく人類の技術、つまり〈技術と文化の共進化〉であって、生き物としての人間はそこからおいてけぼりをくらっているのに、気づけないまま慢心している霊長類なのかも知れません。
 ようするに、文化が進化するほどには人類の遺伝子は進化できないという、自明の理を隅に押しやって……

 ちなみに細菌が薬剤耐性を獲得する進化スピードはいまのところ、人間の対応技術よりも相当に速い、という進化スパンの違いもあります。


脳の巨大化 と 遺伝子と文化の共進化
http://theendoftakechan.web.fc2.com/ess/coevolution.html

2017年10月22日日曜日

共進化の拡張〈遺伝子と文化の共進化〉

〈遺伝子と文化の共進化〉というのは、学術的に提唱された研究テーマらしい。
サミュエル・ボウルズとハーバート・ギンタスの共著協力する種(2011)
日本語版(竹澤正哲監訳 2017年 NTT出版)29 ページで、
それは次のように説明されている。
―― ちなみに、この日本語版の副題は制度と心の共進化となってます。

 人間における遺伝子と文化の密接な相互作用を認識していたエドワード・ウィルソン、チャールズ・ラムスデン、ロバート・ボイド、ピーター・リチャーソン、ルイジ・ルーカ・カヴァリ=スフォルツァ、マーカス・フェルドマンといった人々は、1970 年代に遺伝進化と文化進化、そしてその相互作用に関する研究を独立に開始した。そこから生まれたのが遺伝子と文化の共進化 (gene-culture coevolution) と呼ばれるモデルである。

―― ということだ、が。
〈共進化〉というのはそもそも、
たがいに異なる種(しゅ)のあいだに発生する仕組みであって、
つまりは生き物の、種と種の関係性を示した
〝変化をともなう相互作用〟だと、認識していた。
そのもともとの意味と〈遺伝子と文化の共進化〉という成句が導き出された事情が、
チャールズ・ラムズデンとエドワード・ウィルソンの共著精神の起源について(1983)
第 5 章 プロメテウスの火」注 (1) に、けっこう詳しく述べられていた。
日本語版(松本亮三訳 1990年[新装版] 思索社)では、270 ページから。

 厳密な生物学上の用法では、共進化 (coevolution) という言葉は、第一の種の遺伝的進化が、第二の種の進化に反応して起こり、さらに第二の種が第一の種に反応して変化することをいう。つまり、二つの種のシステムが、ある程度一つの単位として進化するのである。二つの種が相互に依存しあっているときには、共進化は強く働く。たとえば、ミツバチは、花の特定の色や香りに対する自動的な反応を進化させた。ミツバチは、花を訪れ、その報酬に蜜と花粉をもらう。一方、花を咲かせる植物は、ミツバチを誘う色と香りを発達させた。その報酬は、異花受粉と生殖の成功である。われわれは、この用語を敷衍して、人類に見られる遺伝子変化と文化変化の互酬的効果をも意味させることにした。…… Durham は、共進化という言葉によって、遺伝子と文化が並行はするが別々に変化することを表現している。

―― もはや進化するのは、遺伝子をもつ生命体だけの話ではなくなっている。
なにしろ制度と心の共進化が研究される時代なのだ。
言語や技術がコピーミスの過程で、とんでもない〈突然変異〉を起こすのは昔から知られていることだった。
〈進化〉を〝生物に限定する〟用語だとこだわるのは、もう時代遅れなのだろう。
そんな時代だから〈遺伝子と文化の共進化〉以来、猫も杓子も共進化している。
いずれは猫と杓子が共進化する啓蒙書も期待できよう。
それでは〈文化〉の進化は、いつはじまったのか。
精神の起源について「第 5 章」では、
第三の課題:なぜ人間だけがというセクションの冒頭に、次のような記述があった。

 化石時代の地層には、ひょっとすれば同じことをもっと早く達成していたかもしれない、脳の大きな動物の遺残が散らばっている。……「恐竜人」とは、古生物学者デイル・ラッセルが、高い知能をもった、恐竜の想像上の子孫につけた名前であるが、恐竜人が、人間に一億年も先んじてテープを切ることも可能だった。
 しかし、その機会は訪れなかった。巨大な頭足類も爬虫類も絶滅し、代わって大きな脳をもった哺乳類が分化した。…… まだどれも、遺伝子=文化共進化の自己推進的巡環に入ってはいない。無数の個体が生まれては死んでいった何億世代もの間、何百万種もの動物が、考えうるあらゆる環境変化と機会に直面し、小進化の実験のなかで天文学的な数の遺伝子を切り混ぜていった ―― このすさまじく膨大な活動すべてが、やっとただ一つの種に閾をこえさせ、高い文化へと至る自家触媒作用を起こさせたのである。非常に特殊で強力な何かが、それまでの進化のシステムを抑制していたに違いない。
〔邦訳『精神の起源について』 (pp.204-205)

―― じつはこの引用文中の、最後の一文が、どうにも気になるのだ。
非常に特殊で強力な何かが、それまでの進化のシステムを抑制していたに違いない。
ということであるなら、その非常に特殊で強力な何か抑制がはずれてしまったので、
現在の人類の進化が、ようやく達成された、ということになるのだろう。
そうして〝進化の原動力〟に変化が起きた。進化のシステムの変更が実現したのだ。
人類進化の解明には、そういう、未知の力学が必要になるらしい、となると。
なんだかハリウッド映画のような途中経過である。

2017年10月19日木曜日

延長された表現型 と ガイア仮説

相互作用する生き物たちの進化を追い求めていくと、
ひとつの生命体としての地球に、いつか思いが及ぶ。
〈ガイア仮説〉は、そのように誕生したのだろうか。

―― J・スコット・ターナー『生物がつくる〈体外〉構造』滋賀陽子訳 (pp.292-293) から、引用すると。


 延長された表現型から、ガイアが前提とする地球規模の生理作用へ向かうのは自然な道筋だと思われる。しかし進化生物学者たちは概してこの一歩を踏み出したがらない。……
 論争の中心は、ガイアの進化には、ほぼすべての進化生物学者が除外した方法で自然選択が働く必要があるという考えのようだ。群淘汰というのは、生物や遺伝子より上のレベルに働くすべての選択過程に与えられる名前だ。一般的には群淘汰はある種の利他主義の説明に使われてきた。その例は、群れの中のあるメンバーに「種のためを思って」肉食動物の犠牲となるように仕向ける遺伝子だろう。もちろんそういう遺伝子は長くは生き残らないはずだ。ほとんどのダーウィン進化の利他主義モデルが、「利他主義者の」遺伝子の利益を実際に増進する血縁淘汰のような、遺伝的な逃げ場を用意しているのはこのためだ。ガイアと群淘汰に関しては、リチャード・ドーキンスが問題の核心を突いている。

……もし植物が生物圏のために酸素を作っているのだとしたら、酸素生産のコストを省ける変異植物が現れたらどうなるか考えたらよい。明らかにこの植物は公共精神に富む仲間に勝って繁殖し、公共精神の遺伝子は消滅するだろう。酸素生産にはコストがかからないと強弁しても無駄だ。かりにコストがかからないとしても、最もコストを低く見積もる説明ですら……酸素は植物が自分の利益のためにおこなう反応の副産物だからという、いずれにせよ科学界が受け入れているものでしかない。(Dawkins 1982, p.236)
〔文献: Dawkins, R. (1982), The Extended Phenotype, Oxford: W. H. Freeman[『延長された表現型 ―― 自然淘汰の単位としての遺伝子』日高敏隆・遠藤彰・遠藤知二訳、紀伊國屋書店、1987 ]〕

 私はこの意見に異論はない。ただし不備なのだ。酸素生産がなぜ植物にとってよいのかを問うのを忘れている。……
 植物にとっての酸素生産の真の利益は、酸素の生産がどれほど困難かを考えてもわからない。酸素がどれほど強力に電子を引き戻すかを考えればよいのだ。……


―― 以上。引用文のなかに著者による引用があるので、確認すれば、延長された表現型』日本語版の 436 ページあたりの記述に概略こうあった。


…… ラヴロック (Lovelock, 1979) の「ガイア」仮説である。延長された表現型の影響が相互に絡みあっている私の織物は、ポップ・エコロジーの文献(たとえば「エコロジスト」誌)やラヴロックの本の中でやたらにかさあげされている相互依存や共生関係が織りなす織物と外見的な類似性がある。
〔文献: Lovelock, J. E. (1979). Gaia. Oxford: Oxford University Press.
…………
ラヴロックはさらに進めて、植物による酸素生産を地球/生物体あるいは(ギリシア語の地の神にちなんで命名された)「ガイア (Gaia) 」の一部に対する適応とみなしている。つまり、植物が酸素を生産するのは、それが生命全体の利益になるからだというのである。


―― はじめの引用文、スコット・ターナーによるドーキンスからの引用箇所。
「酸素生産のコストを省ける変異植物が現れたらどうなるか」
という思考実験の提案は、
酸素を生産しなくてもじゅうぶんやっていける植物が現れたらどうなるか
という内容を含むと思われる。

 すなわち、酸素が重要ではなくなった植物の物語なのだ。そういう存在が植物といえるかどうかはさておき、そういう未知の植物が想定されていると考えられる。
 だから、酸素の利点を数え上げるやり方は、まったくの「別の論」なので、それぞれの意見は異なることになる。
 というか、乖離していく方向を向いているようだ。

 ここで唐突ではありますが……。
 延長された身体論については、戦争中に西田幾多郎が、ボーアの論文を参照して、こう書き残していることが思い出されたのです。

器械は手の延長である。何処までも我々の身体の外界射影である。ボーアは暗室に於て軽く杖に触れれば、杖は単に対象であるが、強く之を握れば、自己の身体に直接して居ると云ふ(38)
注解 (38)  ボーア「作用量子と自然の記述 (Wirkungsquantum und Naturbeschreibung) 」一九二九年、『ニールス・ボーア論文集1 因果性と相補性』岩波文庫、七三頁。
〔新版『西田幾多郎全集』第十巻 「生命」(昭和十九年十月・昭和二十年九月初出〔未完〕) (p.248)

―― 注解された岩波文庫の該当ページを確認すれば、
「しばしば心理学者によって引き合いに出される、暗い部屋のなかで杖で触ることによって位置を確認しようとするときに誰もが経験する感覚を思い出すだけでよい。杖をゆるく持つならば、触覚にとって杖は客体のように思われる。しかし、杖をきつく握るならば、それが外部の物体であるという感じをなくし、接触の感覚は、探っている物体に杖が接触している点に瞬時に局所化される。」
と、記述されていた。
 当時すでに、道具が手の延長として機能することは、世間に一般的な話ではないにしても、ひとつの説として認められていたのだとわかる。


セントラルドグマ〈中心命題〉
http://theendoftakechan.web.fc2.com/ess/dogma.html

2017年10月16日月曜日

進化の〈セントラルドグマ〉

 現代の進化の総合説〈ネオダーウィニズム〉の理論が、いわゆるラマルク説〈獲得形質の遺伝〉を否定するのは、いくらキリンが切磋琢磨して首を伸ばそうと、首を伸ばした努力に見合う突然変異を DNA に起こさせるような能力はそなわっていないのだから、「首の長さは努力の賜物(たまもの)」という理屈は金輪際無理なのだ、という信念によります。
 これは、遺伝子型は表現型に影響を及ぼすけれども、その逆の作用はあり得ない、という前提によっています。

発現ではまずは DNA から RNA が転写され、タンパク質をコードする遺伝子の場合は mRNA からタンパク質がつくられる。この遺伝子発現にかかわる遺伝情報の流れの大原則を分子生物学におけるセントラルドグマ[中心命題]といい、DNA 二重らせん構造を発見した人物の一人、クリックによって提唱された。
〔田村隆明著『分子遺伝学』 (p.29)

―― つまりこの〈セントラルドグマ〉によって定められたルートを逆に進む現象はあり得ないということです。

 発生学の歴史をたどると、たった一つの細胞からどうやっておとなの生物ができあがるのかについて、二つの対立する学派がありました。後成説(レシピとケーキの関係)の学派と前成説(青写真と家の関係)の学派です。もしも私たちが青写真発生学の世界に生きていたとしたら、獲得形質の遺伝も可能だったでしょう。ラマルク理論では、ある世代に生じたからだの変化が次の世代に組み込まれるために、からだから遺伝子に向かっての情報の流れが必要です。もしも発生が青写真的に起こっているのならば、からだと遺伝子(または DNA 、遺伝子が遺伝に関する情報を担っているところの物質)という発生的プロセスの両端は同じ構造を持っているはずです。形は違ってももとは同じというわけで、自動的に、指示のプロセスは逆行も可能なようにできてくるでしょう。そうなると、表現型(ワイズマンの言う体細胞 ―― 目、翼、貝殻、花びらなどなど、遺伝子が自らの影響を表現したもの)は、遺伝子型(生物の遺伝的ななりたち、それが持っている特定の遺伝子のセット)に読み直されることが可能で、その情報がまた次の世代の表現型に読み返されることが可能となるでしょう。
〔ヘレナ・クローニン著『性選択と利他行動』長谷川真理子訳 (p.76)

―― この引用文の前提にある共通の理解が必要なので、説明しよう。
「レシピとケーキの関係」では、調理過程という環境の作用が大きく影響するので、目の前の「ケーキ」からもとになった特定の「レシピ」を決定するのは困難だけれども、「青写真と家の関係」では、目の前の「家」から「青写真」を再現するのは容易である、という、たとえ話が、その界隈には流布されているのだ。
 そういうわけだから、このたとえのように、遺伝子型から表現型が形態形成される際には、環境の影響が大きいので、同じ遺伝子型でも、表現型に違いが起きるだろう、という予測は容易となります。
 だから人間ではそこらへん実際どうなのだろうと、一卵性双生児の成長過程に、興味がもたれるわけです。

―― ラマルク説は、〈用不用説〉ともいわれます。
「不用なものは退化する」という説明なんかに使われます。

英国では、一九世紀の後半までには、(ダーウィン自身も含めて ―― ただしウォレスは違いましたが)ほとんどのダーウィン論者が「用の遺伝」の概念を進化を生み出す補助的経路として認めていたのです。彼らは、自然選択こそもっとも強力な要因だと考えていましたが、それ以外のメカニズムが少しは手助けしてくれることも歓迎したのです。「用の遺伝」の概念、さらにもっと一般的に獲得形質の遺伝ということに反対の声をあげたのは、ドイツの著名な生物学者で熱心なダーウィン論者であった、アウグスト・ワイズマンでした。
〔『性選択と利他行動』 (p.65)

―― てことは、もう一度説明しよう。
ようするにダーウィンの進化論は、最初、〈獲得形質の遺伝〉を補助的な説明として受け入れていたのだ。
 それを問題視したのがワイズマン (August Weismann) ということになります。カタカナでは、ワイスマンともヴァイスマンとも表記されるようです。
 ダーウィンは、1882 年に死んでいます。そして〈獲得形質の遺伝〉を捨て去ったダーウィンの進化論〈ダーウィニズム〉は強化されて新世紀を迎えることになります。
 新世紀初頭には、すでに〈ネオダーウィニズム〉という呼び名が、この強化型ダーウィンの進化論にあたえられていたようです。

 新世紀の進化論では、遺伝する獲得された変異というのは、もっぱら有利な突然変異を起こした遺伝子だということになり、進化の〈セントラルドグマ〉は、20 世紀の半ばを過ぎて提唱されました。
 核となる中心的教義として進化の〈セントラルドグマ〉は揺るぎないものですが、それに逆行するのではなくて、まるで円を描くように一周して表現型は、直接、遺伝子型に影響を及ぼす時代が、新世紀には到来しました。
 それは、遺伝子操作であったり、人為的に選ばれた遺伝子をもつ配偶子を、人工授精の技術で、ひとりの人間として誕生させたりするものです。
 思いがけないことには……
 表現型としての人間の技術が、進化の〈セントラルドグマ〉を無効にする日は、未来へのルートにあるのでしょうか。

2017年10月11日水曜日

ダーウィンと中立的な淘汰 その後

 ダーウィンは『種の起原』で〈自然選択〉と同時にその作用にひっかからない進化について語っています。
 進化というのは、生き物の変化のことです。

 第 4 章「自然選択」の冒頭部分です。この章題は第五版で「自然選択」のあとに「最適者生存」が追加され、文中にある〈自然選択〉の説明文も同様に「〈自然選択〉あるいは〈最適者生存〉」と改められています。
 その説明部分は、もともと次のように記述されていました。岩波文庫から邦訳を引用させていただきますと。

有利な変異の保存と有害な変異の棄却とを、私は〈自然選択〉とよぶのである。有用でもなく有害でもない変異は、自然選択の作用をうけず、不定的な要素としてのこされるであろう。そのことは、たぶん、多型的とよばれる種において、みられるであろう。
〔岩波文庫『種の起原』(上)八杉竜一 訳 (p.108)

 ダーウィンの考察した、有用でもなく有害でもない変異が自然選択では不定的な要素としてのこされるというのは、もっともな話です。自然選択では個体の形質とか表現型と呼ばれるもの、つまり強さや見た目や言動の違いなどが淘汰の対象になるわけです。この表現型の違いが生存条件と無関係だったならば、特に適者でも不適者でもないのです。
 表現型は遺伝子型と環境との相互作用により、また遺伝子型は、遺伝情報の実体である DNA の相違で定まります。
 まったくもって、DNA の突然変異が自然淘汰に中立であれば、自然淘汰では無視されることでしょう。

 現実の事例として、個体の表現型に影響しない DNA の突然変異には、次のようなものがあります。
 タンパク質を構成するアミノ酸には 20 種類があるのですが、それを指定する DNA とはぶっちゃけ 4 種類の塩基の連なりとして、染色体上にあります。
 簡単な説明だと、DNA 塩基 3 個がアミノ酸 1 個に対応しているのですが、セットになった 3 番目の塩基が突然変異で他の種類のものに変化したところで、まったく影響のない場合があるということです。

たとえば、ヴァリンというアミノ酸には四種類の遺伝暗号が対応する。おもしろいことに、第一、第二位置はすべて GT だが、第三位置はアデニン (A)、シトシン (C)、グアニン (G)、チミン (T) という四種類の塩基すべてが存在している。
〔斎藤成也著『自然淘汰論から中立進化論へ』 (pp.131-132)

 つまり 3 番目は、塩基 4 種類のうち、どれでもかまわん、という現実がここにあります。
 どういうことなのでしょうか。
 4 種類のもので、20 種類のアミノ酸を指定するのですが、セットになった 3 つの位置すべてが指定に関わるなら、

  4 × 4 × 4 = 64

で、64 種類のモノを指定できてしまい、2 番目までだと、

  4 × 4 = 16

で、16 種類しか、指定できません。
「オビに短しタスキに長し」とか、いいますが、オビかタスキか、場合に応じて二者択一にするという方法は、有効でしょう。
 3 番目の塩基の違いが大きな違いの場合もあるでしょう。
 一方で、3 番目の塩基はあまり気にならないシチュエーションも遺伝子にあるようです。
 その詳細が気になれば、20 種類のアミノ酸すべてでどうなっているのか、インターネットで調べることも可能かと。
 さらには、アミノ酸の違いが、タンパク質にどう影響するのかも。

―― それはさておき。
 人間の例では遺伝情報の伝達形式として、遺伝子を乗せた「配偶子(生殖細胞)」は「減数分裂」で作られます。
 普通に細胞分裂したのでは、もとと同じものが増えるだけです。
 減数分裂で染色体の数を半分に減らした生殖細胞を、その後、母体中で(もしくは人為的に)合体させればもとの数、という仕組みになっています。
 前回にも ――、こういう生き物を「二倍体」と称すといいました、が。
 二倍体の生き物で、もともとある遺伝子タイプのすべては、子孫へと伝来するわけではありません。
 二倍体の生き物でも、相同位置にある「遺伝子座」に「遺伝的多型」が存在しなければ、いかに「減数分裂」の際に半分しか遺伝子が確保できなくても、もともとある遺伝子タイプのすべては、子孫へと伝来していくでしょう。
 けれど、現実に、遺伝子多型は存在して、その遺伝情報のいずれが配偶子ごとに、選ばれるのかは、偶然によるわけです。

 問題は、つまり、「減数分裂」は「自然淘汰」とはまったく関係のないシステムだということなのです。
 以前に本を読んだ記憶では、まったく省エネルギーなメモリーですが〝ワンペアの染色体が減数分裂ではいったん混ざり合ってから半分になる〟とされていました。
 結局、ありあわせで作られたその「配偶子」の遺伝子構成は、生存に有利なこととは関係なく、定まるのです。
 つまり偶然が、その後に繁殖していく子孫の遺伝子タイプを左右していることになります。
 これが、「遺伝的浮動」と呼ばれて、「分子進化中立説」の基盤となっているようです。

 実際の進化の過程では、生物集団中には常に新しい突然変異が生じており、その多くは有害で、数代の後には集団から自然淘汰により除去される。しかし有害でない、すなわち自然淘汰に無関係(中立)、またはごくまれには有利な突然変異が生じており、これらが進化の原動力となっているわけである。注意すべき点は、中立な突然変異は言うに及ばず、有利なものでも、集団にたった 1 個だけ起こった突然変異について言えば、大部分が集団の中から消失する点である。
 その理由は、生物は繁殖に際して自己の持っているあらゆる遺伝子を、子供に伝えるわけにはいかないからである。もし子供の数が無限大であれば、親の代のすべての遺伝子は子供に伝えられるので、すべての遺伝子は個体レベルでの淘汰すなわち自然淘汰(ダーウィン淘汰)を受けることになる。しかし生物集団は多くの場合、その大きさが代々ほとんど一定に保たれ無制限に大きくなることはないわけで、ある遺伝子が親から子へ伝えられるのは、自然淘汰に有利であっても偶然に依存する。
 脚注
 遺伝的浮動(ドリフト)/ある生物の個体数が仮に無限大であれば、対立遺伝子の頻度はメンデルの法則に従うが、実際には個体数が有現であるために、世代間で偶然的に変動する。これを遺伝的浮動(ドリフト)という。
〔太田朋子著『分子進化のほぼ中立説』 (pp.18-19)

 この分子進化のほぼ中立説では、同じページの本文で、
「繁殖にともなう遺伝子頻度の偶然による変動」
が、遺伝的浮動だと、説明されています。また、その後に短い記述で、中立説の説明が次のようにおこなわれています。

 分子進化中立説(中立説)は、分子レベルの進化の大部分は、「自然淘汰によくも悪くもない中立な突然変異が、偶然、すなわち遺伝的浮動によって集団中に広がり固定することによる」と主張する。
〔同上 (p.28)

 故木村資生の論じた「分子進化の中立説」は、海外でも、注目されています。
 オレン・ハーマン著親切な進化生物学者の日本語版 363 ページあたりにも、そのことが触れてありました。
 ジョージ・プライスがイギリスで研究していたころ、ジョン・メイナード・スミスとの共同研究の直前のことだとされています。
―― その共同研究で、進化的に安定な戦略 (ESS) のモデルが誕生する、前夜のことでした。

 ジョージは最適突然変異率のモデルを研究していた。それは、「木村のものよりはるかにすぐれています」と、彼は先頃ノーベル賞を受賞した MIT のポール・サミュエルソンに書いた。

―― グールドは著作の「日本語版への序」で、次のように記しました。

しかし進化理論の多くの新しい潮流(そのなかでも特筆すべきは、木村資生氏ら日本の集団遺伝学者が発展させた中立説である)が、淘汰主義の支配をうち破り、生物体全体とその成長と相関を進化生物学の中心へと引戻してきたのである。
〔スティーヴン・J・グールド著『個体発生と系統発生』 (p.6)

―― ドーキンスも、「光が投げかけられるであろう」という一文で、次のように詳しく論じています。

 ダーウィン主義的な視点からすれば、中立的突然変異はそもそも突然変異とはいえない。しかし、分子的な視点から見れば、一定の変異速度が分子時計を信頼できるものにするので、きわめて有益な突然変異である。木村によってもたらされた唯一の論争点は、どれだけ多くの突然変異が中立的かという点である。木村は、大多数がそうだと考えており、もしそうなら、分子時計にとって非常に好都合である。適応的な進化については、ダーウィン主義的な淘汰が依然として唯一の説明であり、巨視的な世界(分子のあいだに隠れた世界に対するものとしての)で実際に見られる進化的な変化のすべてとはいわなくとも大部分が適応的で、ダーウィン主義的であると主張することが可能である(私はそう主張したい)。
〔リチャード・ドーキンス著『悪魔に仕える牧師』 (p.135)

―― 続けて収録されている「ダーウィンの勝利」では、同じく日本語版の 156 ページあたりに次の記述があります。

木村資生が〝遺伝的空間における進化的な歩みの大部分は誰にも舵を取られない歩みである〟と言い張るのが正しい可能性はきわめて大きい。…… 木村自身は正しく、自分の「中立説は、形態と機能の進化はダーウィン主義的な淘汰によって導かれるという大切にされてきた見方に対立するものではない」と力説している。

 ドーキンスはこのあと「原注」で、メイナード・スミス経由のこぼれ話を紹介する熱の入れようです。引用部分を箇条書きにまとめますと、

 ダーウィン主義的な視点からすれば、中立的突然変異は …… 突然変異とはいえない。
 木村によってもたらされた唯一の論争点は、どれだけ多くの突然変異が中立的かという点である。木村は、大多数がそうだと考えて〔いる〕。
 適応的な進化については、ダーウィン主義的な淘汰が依然として唯一の説明で〔ある〕。
 実際に見られる進化的な変化のすべてとはいわなくとも大部分が適応的で、ダーウィン主義的であると主張することが可能である(私はそう主張したい)。
 木村資生が〝遺伝的空間における進化的な歩みの大部分は誰にも舵を取られない歩みである〟と言い張るのが正しい可能性はきわめて大きい。
 木村自身は正しく、自分の「中立説は、形態と機能の進化はダーウィン主義的な淘汰によって導かれるという大切にされてきた見方に対立するものではない」と力説している。

 この論点では、「適応的な進化」であるダーウィン主義的な進化と、偶然による突然変異の淘汰を主張する「分子進化中立説」は、かならずしも対立するものではない、ということのように思われます。
 自然選択は「適者生存」で、雌雄選択は「適者繁栄」ならば、分子選択も「たまたまの組み合わせによる伝来」で、どの生き残り方にしたって、それぞれの事情はあるというものでしょう。


淘汰に中立な突然変異(ほぼ中立説): 分子進化中立説
http://theendoftakechan.web.fc2.com/ess/Kimura.html

2017年10月8日日曜日

有害か有益か 環境でことなる

 進化論で「有害」な突然変異というのは、「自然淘汰に不利」な場合をいうらしい。つまり「淘汰されやすい」ので、次世代に残りにくい、突然変異ということです。
 人間の遺伝子でも逆に「自然淘汰に有利」な場合には「有益」な突然変異となります。
 マラリア発生地域では、鎌状赤血球の遺伝子は、ひとつの場合、生き残りに有利です。

 ざっくりとした説明ですが……。
 片方の親からやって来る染色体を、ひと組の「ゲノム」といい、合わせてワンペアの「ゲノム」をもつ生き物を「二倍体」といいます。たとえば人間のようにふたりの親から、ペアとなるべき染色体つまり DNA の組み合わせを得て、ひとつの細胞になる形態です。
 父母から伝わった特徴がそれぞれの遺伝子で同じタイプだと「ホモ接合体」といい、違うタイプでは「ヘテロ接合体」といいます。
 異なるタイプの遺伝子があることを「遺伝的多型」と称すようです。
 専門家の文章から引用しますと……

 生物集団において、ゲノムの中の相同位置にある塩基配列(遺伝子座)を比較したとき、一塩基でも異なっている場合に、その集団のその塩基配列には「遺伝的多型」が存在すると言う。
〔斎藤成也著『自然淘汰論から中立進化論へ』 (pp.215-216)

 たとえば、血液型は、
ABO 式血液型は、人間で最初に発見された遺伝的多型であるが、A 、B 、O という主要三対立遺伝子が一遺伝子座に共存して〔同上 (p.79)いると、説明されます。
 この本ではまた、ロナルド・フィッシャーが 1922 年に発表した優性比率についてという論文の内容が、次のように語られています。

〔フィッシャーは、〕ヘテロ接合体のほうがホモ接合体よりも生存に有利であれば、平衡状態になると述べている。これは数的に明記されているわけではないが、超優性淘汰(ヘテロ接合体のほうがホモ接合体よりも生存に有利である場合)を指摘した最初であろう。
…………
鎌状赤血球を引き起こすヘモグロビン S 遺伝子も、アフリカの一部では、野生型のヘモグロビン A 遺伝子と共存している。このような多様性をもっている遺伝子座には、まさにフィッシャーの予想した、ヘテロ接合体のほうがホモ接合体よりも生存に有利となる、超優性淘汰が働いている可能性が高い。
〔同上 (p.75, p.79)

 進化論の本ではこのようにしばしば、鎌状赤血球の話題が出てきます。
 上に引用した本では、基礎知識の項目で、次のように説明されていました。

 アミノ酸の変化は、タンパク質の中の起こる場所によってさまざまな影響を与えうる。…… ヘモグロビン S の場合には、タンパク質の表面における変化なので、立体構造に大きな影響はない。ところが、ヘモグロビン分子表面のこのわずかな変化が、以下に示すような大規模な影響を引き起こすのである。すなわち、アミノ酸一個の変化のために、ヘモグロビンの別の場所に以前から存在していた部分と結合しやすくなり、ヘモグロビン S が数珠つなぎになる。柱状に連なったヘモグロビン S が赤血球の中を横断し、ついには赤血球全体の形態変化が引き起こされるのである。
 この新しい形状の赤血球は、丸くて中央がくぼんでいる正常な赤血球と異なり、鎌の形に似ているので「鎌状赤血球」と呼ぶ。なんと、塩基一個という分子レベルの変化が、光学顕微鏡で観察できる細胞レベルの変化を引き起こしたのである。さらに、このような鎌状赤血球をもつ個体は貧血になるが、マラリア耐性となることが知られている。
〔同上 (p.208)

―― マラリア耐性と貧血が遺伝子によって表現された形質のセットとなって現れるのです。
 いろんな本で説明されているところによれば、鎌状赤血球の遺伝子がひとつなら、死ぬほどの貧血にはならず、またマラリアが流行した際には、生き残りやすいらしいのです。
 そのひしゃげた赤血球では、マラリアの病原体が増殖できないということのようです。
 ようするに、両方の親から鎌状赤血球の遺伝子をひとつずつ、つまり合わせてふたつ受け継いだ際には、それは死を引き起こすような「致死遺伝子」となるのですが、片親からだけであれば、マラリアに強い人生が送れるということなのです。
 以上のざっとした表現でも、マラリアさえなければ、これは有害な遺伝子だと、判断が可能でしょう。でも、地域によっては、マラリアはときに流行し、その遺伝子は、有益な遺伝子として、生き残っていくわけです。

 ある日、その突然変異は、滅亡に至る災厄を生き残って、選ばれた、ということなわけです。
 であれば、ときに有害である突然変異は、やがては人類の滅亡さえも、救うのかもしれません。―― かすかな希望として。

2017年10月3日火曜日

威信を誇示する〈ハンディキャップ原理〉

 先日来、アモツ・ザハヴィ/アヴィシャグ・ザハヴィ著『生物進化とハンディキャップ原理』をざっと読んだのです。
 前回にも書いたけれど、原著 “The Handicap Principle” は 1997 年の出版です。
 日本語版は、大貫昌子訳で、2001 年に白揚社から発行されています。
 著者アモツ・ザハヴィは、〝テルアヴィヴ大学自然保護研究所動物学教授〟とあります。
 アヴィシャグ・ザハヴィは、彼の夫人で、〝 1969 年から 1988 年まで、イスラエル国立農業研究所ヴォルカニ・センター植物生理学教授〟と紹介されています。

 日本語版ハードカバーの表紙と背表紙に「解説:長谷川眞理子」と記されています。
 解説者の名が宣伝、アピールされるのは、あまりみかけません。
 訳者のプロフィールには在米翻訳家とあり、訳書紹介のなかに『QED・私の量子電磁力学』が記載されています。
 その邦訳本の原題は QED: THE STRANGE THEORY OF LIGHT AND MATTER で、著者はリチャード・ファインマンです。
 QED: ……” の日本語版は 1987 年に『光と物質のふしぎな理論』(副題:私の量子電磁力学)というタイトルで岩波書店から発行され、2007 年には、岩波現代文庫『光と物質のふしぎな理論 ―― 私の量子電磁力学』として刊行されています。
 長谷川眞理子著『クジャクの雄はなぜ美しい?』〈増補改訂版〉第 1 章の終わりに、そのファインマンの著作から、引用がありました。

ファインマン先生は、クジャクの雌の配偶者選びの研究を知らずに亡くなりましたが、彼が次のように述べたとき、それはまったく正しかったのです。
「皆さんもきっと、あのクジャクやハチドリの羽のまばゆいほどの色はどうしてできるのだろうと不思議に思ったことがあると思いますが、これでわかったはずです。どのようにしてあの輝かしい色に変化してきたかということも、また興味ある問題です。私たちがクジャクに感心して見とれるときには、何世代もの間つれあいを選ぶ鋭い目を持ち続けた、あのぱっとしない雌鳥たちに大いに敬意を表さねばならないと思います。」(『光と物質の不思議な理論 ――私の量子電磁力学』、岩波書店より)

 さて ――、生き物の世界で不自然なほどの装飾といえばまずはその〝クジャクの尾羽〟でしょうが、
本当はあれは尾羽ではない。尾の上にかぶさっている上尾筒という羽が長く伸びて美しくなっているのであり、本当の尾羽はその下にあってつつましいものだ。
と、解説に書いてありました。そういえばこのことは『クジャクの雄はなぜ美しい?』〈増補改訂版〉でも触れてあったと記憶にあります。
 さまざまの事情はさておき。
 その、上尾筒(じょうびとう)は、実はクジャクのオスがハンデとして身につけたディスプレイだというわけなのです。
 それが〈ハンディキャップ原理〉の中心を構成します。―― 『生物進化とハンディキャップ原理』は、〈ハンディキャップ原理〉を提唱した本人による、一般向けの手引書です。
 解説にも述べられているごとく思考の回路をひっくり返させるような、意表をついたアイデアが述べられた本です。

 群れをなして生活する鳥類、哺乳類などが、捕食者をいち早く捕捉した際、発見者が警告の言動を行なうらしいことは、ずいぶんと以前から知られていました。
 それはいずれも仲間に報せるための〝警告の叫び〟の一種だと、考えられていました。ところがそれは、捕食者に対しての〝警告〟なのだという話に、一転してしまうのですから、天地もひっくり返ろうというものです。
 被食者(たべられてしまうがわのもの)が、捕食者(たべてしまうがわのもの)を威嚇するというか、自分の強さを誇示して、食べられるのを未然に防いでいるというのです。
―― こんなに強靭かつ勇猛優秀なワタシを食べようとしているアンタは、そのあいだ腹ペコのままなのさ。
―― だから、未練たらしくしてないで、もっと弱っちいヤツ等のいる場所にいきなされ。

 ここで強さを誇示する余裕をもたない被食者のなかでの弱者は、威嚇する間もなく、いち早く逃げ出してしまいます。
 威嚇してくるような被食者には目もくれず、捕食者は、とっとと逃げ出した弱者に狙いを定めるというのですから。
 効果的な威嚇は、効率的な生存には欠かせないわけです。

 このシステムでは、真実優秀な個体でなければ、威嚇した瞬間に、カブリとやられてしまうだけでしょう。
 捕食者も命がけなのですから、安直なイカサマに引っかからないだけの眼力は、共進化で獲得する方向へと進むでしょう。
 そして両者ともに、その資質を発現させるための「コスト」の負担に耐えられる能力がなければなりません。
 ザハヴィはこれを〈信号選択〉と呼びました。
 マネのできない有能さこそが、互いにやり取りされるメッセージとして生き残るわけです。
 信号は、本物だけが、個体の生き残りをかけて選ばれ進化していくのです。

 この理屈は、ダーウィンの〈雌雄選択〉にも応用が可能です。
 クジャクのオスは、勇者の証明である勲章をジャラジャラとぶら下げひきずりながら誇り高く、まさに雄々しさをみせびらかしつつ生きているという次第なのです。
 そういうわけでインチキ野郎には到底マネのできない、〝負荷(ハンデ)〟をしょって生きていくことこそが、モテる秘訣なのだそうです。
 人間の男でも、やたらと重い物を持ち上げたがる〝祭り(イベント)〟に生きザマを求めたりします。
 やはり他者の追随を許さない運動能力の持ち主はカッコイイのです。
―― そのことわりを、邦訳された本文から引用してみましょう。

 自然選択はしばしば相反する二つの異なった過程を含むものと、私たちは考える。その一つは直接的な効率性をめざす選択で、信号以外のすべてに働く。これは信号を除き、効率がよく浪費の少ない特徴を作る選択で、私たちはこれを実用的選択と呼ぶことにしたい。もう一種の選択はいかにも「浪費」と見えるような「高価な」特徴や形質を生むもので、これによって信号が進化するのだ。その高価さ、つまり発信者が信号に投入する大きな努力こそが、その信号の真実さを証明するのである。この過程を「信号選択」と呼ぶことにしよう。
〔『生物進化とハンディキャップ原理』 (p.78) 〕

 ハンディキャップとは恣意的なものではない。特定のハンディキャップは、ある特定の資質や能力を正直に表すための信号として、進化するのだ。そしてこの自然選択のうちの「信号選択」という一チャンネルは、能率性を目指す単純な「実用選択」の逆に働くのである。
〔同上 (p.158) 〕

このあたり、なかなかに納得力を喚起される議論に満ちていました。
第 12 章にある威信と利他行動の進化 ―― 利他行動はハンディキャップかというセクションでは、次のごとくです。

 ひとたび利他行動を、その実行者の能力と意図を示す信号として見れば、利他主義はもはや進化の謎ではなくなる。利他行動に注がれる努力は、その信号の信憑性を保証する要素なのだ。利他行動のコストつまり無駄は、言うなればあの華麗で巨大な重い尾を生やして背負って歩かなくてはならないクジャクが強いられるエネルギーの浪費や、複雑なあずまやを作らなくてはならないニワシドリの無駄な努力と、ちっとも違ったところはない。こうした信号も他のどの信号も、それにかかるコストは、その信号がたしかに信用できるもので、発信者は正真正銘彼の宣伝どおりの者なのだということを証明するハンディキャップなのだ。そう考えれば、利他主義の進化を説明する特別な進化のしくみなど、もはや探す必要はない。それどころか利他行動を信号とする私たちの説明は、チメドリなどの鳥だけでなく、人類も含む哺乳動物、おまけに社会性昆虫にも単細胞生物にさえも当てはまるものと、私たちは信じる。
〔同上 (p.243) 〕

―― ここで利他行動とはハンディキャップであり、オスの威信をかけたモテるためのディスプレイだというわけです。実力がなければ保護などかないません。
 だからこそ、実質を伴わないという、評判の、フィッシャーの〈ランナウェイ・プロセス〉は否定されるのです。イカサマなインチキ野郎のペテン師からは子孫繁栄の栄誉は未来永劫、取り上げられてしかるべきなのです。
 かくして〈ハンディキャップ原理〉は、勇者を選別するための装置として、機能していくことになります。
 このあとも、魅力的な論はもちろん続くのですが、実は先の引用文の直前に、しばし納得できない理屈があったのです。
それは。

 私たちがここで提唱するハンディキャップの原理は、フィッシャーのモデルとは異なり、求愛の結果配偶者も手に入ればライバルにも勝って退けることのできるその動物の資質と、それが示す特定の誇示との関係を説明するものである。私たちのモデルによれば、その誇示のコストあるいは「浪費」こそが、その信号の信憑性を増す要素そのものなのだ。このモデルでは、雌はただ単に他の雌が皆選ぶからというだけの理由で、派手な雄に惚れこむ面食いの尻軽女ではなく、とりわけ立派なディスプレーをするだけの力のある雄を選ぶことによって、その子のために最高の父親を選んでいるのだ。
〔同上 (p.78) 〕

―― という叙述は、
このモデルでは、雌はただ単に他の雌が皆選ぶからというだけの理由で、派手な雄に惚れこむ面食いの尻軽女ではなく、とりわけ立派なディスプレーをするだけの力のある雄を選ぶことによって、その子のために最高の父親を選んでいるのだ。
という説明文を、次のように書き換えても、同じ意味を表現している気がするのです。
―― 個人的な好みよりも多数派の意見にしたがうことで、堅実性と将来性と安定を求める安全パイ指向型ではなく、とりわけ派手なディスプレーで目を引いて力のパフォーマンスを見せつけようとするオスに目移りする尻軽女は、その子のために最高の父親を選んでいるはずなのだ。

―― こうなると、ただのわるくちにしか、思えず。
 そういうこともあって、本文もなかばあたりから、理論というより、強引な理屈で自論を展開している感じになってきたような印象があるのです。
 ザハヴィが語るのは、誇り高き勇者の物語が中心となっているようです。
 むろん、個人的な感慨にすぎません。
 でも個人的には、なんだか、統一的な理論を求めるあまりに、ほかの可能性を排除していく姿勢に、旧約聖書の神に通じるものを感じてしまったのです。
 ハンディキャップの原理の考え方はもっと広まっていてもいいと思うだけに、なんだか残念な展開なのでした。
 人間の女性にも、キズついたひとが好きなタイプ、だという意見はあるようです。
 こんなになってそれでもまだ生きている、というあたりがいいのでしょう。


進化的に有利な ハンディキャップ (ハンディキャップ原理)
http://theendoftakechan.web.fc2.com/ess/Zahavi.html