2021年2月18日木曜日

漏刻(トキノキザミ)と斗鷄(トケイ)

  新井白石 (1657~1725) は、享保四年 (1719) の『東雅』に、「漏刻」の項を設けて「トキノキザミ」とカナを振っています。


『新井白石全集 第四』 〔新井白石/著・市島謙吉/編輯兼校訂〕

明治39年04月25日 吉川半七/發行

「東雅卷之七」器用第七

 (p.132)

漏刻 トキノキザミ

我國漏刻の制。いづれの頃ほひにや始りぬらむ。國史には天智天皇の太子にておはしませし時に。始て親所制造也。と見えたれば。此事をもて。其始とやなすべき。トキノキザミとは。時刻也。其制度の如きは不詳。後代に及びて其博士を置れしも。如何なる制をや用ひたりけむ。これも不詳。

慶長年中に。西洋人トケイといふ者をまいらせし事あり。其制に傚ひて作れる物。今は盛に世に行はれぬ。トケイといふ事は蕃語にはあらず。其時の事しるせし日記には。斗雞としるしたりけり。これは明の人して其蕃語を譯せしめてまいらせし所也。其器の制。北斗のかたちの如くなる者ありて。其指す所に隨ひて其時を知り。おのづから鳴りて時を報する事。雞の如くなれば。かくは名づけしにや。其器の妙用にかたとりいひし事。只二字に盡きぬ。今は其字を用ひざるにや。


 新井白石は『東雅』で、江戸時代が始まった慶長年間 (1596~1615) の舶来品に「トケイ」というものがあったことを述べるに際して、新井白石自身が発見したという、当時の日記を引用して「斗雞」の語を記しています。その文章の最後に「今は其字を用ひざるにや」と書き添えているのは、「時計」という文字による表現が当時すでに世間に流布していたためでしょう。

―― ちなみに新井白石が発見した慶長の日記というのは『異国日記』と題されたものです。また「時計」の表記は、貞享五年 (1688) に刊行された井原西鶴の「日本永代蔵」で確認することができます。


 新井白石が用いた「斗雞」の語は、宝暦十二年 (1762) に刊行された谷川士清の『日本書紀通証』で引用されたこともあってか、その後、明治期から昭和に至るまで長く用いられることになります。


 ◎ 谷川士清は、新井白石の記述を次のように引用しています。


『日本書紀通證』 〔谷川士清/撰述〕

寳暦十二年壬午冬刻也 五條天神宮藏版

「日本書紀通證巻三十一」齊明天皇紀

 (p.10)

初造漏尅 トキノキサミ

荒井氏謂慶長中日記作斗雞此明人所譯番語也葢此器有如北斗象者故曰斗自鳴而報時無差故曰雞


 ◯ 昭和になってから折口信夫が「斗鶏」という表現を使っています。


『折口信夫全集』 2 〔折口信夫/著・折口信夫全集刊行会/編纂〕

1995年03月10日 中央公論社/発行

「山のことぶれ」 〔初出:昭和二年一月「改造」第九巻第一号〕

 (p.430)

鶏犬の遠音を、里あるしるしとした詩人も、実は、浮世知らずであつた。其口癖文句にも勘定に入れて居ない用途の為に、乏しい村人の喰ひ分を裾分けられた家畜が、斗鶏[トケイ]や寝ずの番以外に、山の生活を刺戟して居た。



―― その他の各種資料を参照したページを、以下のサイトで公開しています。


暦の日本伝来と漏剋(ときのきざみ)

http://theendoftakechan.web.fc2.com/eII/hitsuge/rokoku.html


2021年2月9日火曜日

常世(とこよ)の長鳴鳥

 「鶏鳴(けいめい)」という言葉の意味を『広辞苑』で見ると、


① 鶏の鳴くこと。鶏の鳴き声。

②(一番どりの鳴く頃であるからいう)丑(ウシ)の時、すなわち今の午前二時頃。

③ 明けがた。夜明け。


とあります。ようするに鶏が鳴けば朝が来て、一日が始まる、という、古い時代からの日常基本の概念がここに網羅されているわけです。

 丑の刻は〈午前 1 時〉から〈午前 3 時〉までで、平安時代の頃は、丑の次の、寅(トラ)の刻から一日が始まったようです。


 今回のタイトルの〝常世の長鳴鳥〟というのは、「天の石屋戸」事件の際に、八百万の神が行った〝日神招喚の儀式〟のため集められた〝鳥〟のことで、これは〝鶏〟であると一般的に解釈されています。

 いまも伊勢神宮では、遷宮の際は「鶏鳴三声」を合図に、遷御の儀が行われるそうです。


 〝常世〟は、終らない世界を表現したもので、中国の神話伝説では、不死の仙人が住む〝蓬莱山(ほうらいさん)〟が、該当するでしょう。ちなみに中国の仙人は不死ではあっても、多くはどうやら不老ではないように思われます。

 中国の史書の記述には、秦の始皇帝が〝蓬莱山〟にあるという秘薬を求めて「徐福(じょふく)」〔史記に「徐市(じょふつ)」とも〕を派遣したとあり、また漢の武帝はリアルに不死の秘薬を得るため、神仙の術すなわち方術を使う方士を海上に派遣したようです。


日本の伝説にも〔古事記と日本書紀で表現された文字は多少違いますけれど〕、

 垂仁天皇の時代に、

 古事記では〝常世国(とこよのくに)〟にある「登岐士玖能迦玖能木実(ときじくのかくのこのみ)」を求めるため、「多遅摩毛理(たぢまもり)」を派遣し、

 日本書紀では同じく〝常世国(とこよのくに)〟にある「非時香菓(ときじくのかくのみ)」を求めるため、「田道間守(たぢまもり)」を派遣しています。


―― 徐福伝説を除く各種資料を参照したページを、以下のサイトで公開しています。


鷄人・鶏鳴・常世(とこよ)の長鳴鳥

http://theendoftakechan.web.fc2.com/eII/hitsuge/tokoyo.html