2020年9月25日金曜日

古代中国の土圭と表(ノーモン)

 太陽と時と方位の関係より「太陽位置図を作図する」(2019年7月13日土曜日)を掲載してから早や一年以上が経過して、ようやく、その続きの資料を調べつつまとめつつ紹介しつつ、その先へとじわじわ進む作業に取りかかったところです。


―― 古代の測量事情について、すでに昨年に紹介していた資料の内容を、まずは再度掲載いたしますと。


 ◯ 北の方位を定めるのに、棒の影を利用する方法は、古代の中国から渡来したものらしく、これまで歳差運動の話題などで参照した北條芳隆氏の『古墳の方位と太陽』でも、詳しく紹介されています。


『古墳の方位と太陽』 第 3 章 弥生・古墳時代への導入

 4. 正方位の割り出し法

 (1)「表」をもちいた観測法

 ではひきつづき正方位の割り出し法の問題に入る。回答の半分についてはすでに述べたとおりである。弥生・古墳時代の倭人が夜の星空を視準することによって真北を直接見定めた可能性は皆無に近い。となると残された可能性は日中の太陽の運行を利用する正方位割り出し法となる。そしてこちらの測定法については古代中国側に詳細な記述が残されており、その手法が日本列島でも再現された可能性は濃厚である。

 それはつぎのような手法である。まず観測地点を平坦にならし、そこに「表」とよばれる長さ八尺の棒を立て、棒を中心とする適度な径の同心円を地表面に描く。つぎに太陽の光が当たることによって「表」の反対側に伸びる影を追う。影は午前中には西に向けて長く伸びるが、その後短くなりながら表の北を巡って午後には東側へと移行し、再び長く伸ばすのであるが、さきの同心円に影が接する地点に目印を付ける。目印が付けられた地点は午前に 1 回、午後に 1 回となり、二つの目印を直線で結ぶと真東西が割り出せる。さらに直線の中間点を求め、そこから表に向けて直線を引く(半折)。そうすれば正南北が割り出せる。このような観測法である。

 古代中国では古く『周礼』にこの観測法の概要が記されており、以後『周髀算経』などでも繰り返し登場する。なお古代中国では円の中心に立てる棒のことを表と記すが、イスラーム世界ではノーモンとよばれた。日時計の原理もその基本は同様であり、世界の各地で採用された普遍的な方位観測法である。インデアン・サークル法ともよばれることがある。図 3-6 には奈良文化財研究所飛鳥資料館が示す同法のイラストを引用したのでわかりやすいかと思われる(奈良文化財研究所 2013)。

 このような太陽の影を利用した方位測定法が最も現実的かつ効果的であることはまちがいなく、原理自体は単純なので、日本列島の弥生・古墳時代にもこの方法が採用された可能性が高いと考えられる。さらに「表」に類した遺構としては、のちに具体的に検討することになるが、第 1 章で触れた吉野ヶ里遺跡北墳丘墓脇に立てられた大柱があり、平原遺跡で検出された 3 本の大柱がある。

〔北條芳隆/著『古墳の方位と太陽』 2017年05月30日 同成社/発行 (pp. 82-83) 〕


 ◯ そこで引用されたもとのイラストは、奈良文化財研究所の『飛鳥・藤原京への道』に掲載されています。


『飛鳥・藤原京への道』

平成25年10月18日 印刷発行

発行者

独立行政法人国立文化財機構

奈良文化財研究所 飛鳥資料館


コラム2 古代の測量

 (p. 44)

 方位を求めるには、磁石(方位磁針)、太陽、北極星などを用いることが思い付きますが、このなかで有力なのが太陽なのです。その方法は、


① 適当な大きさの杭(「表」)を打ち立て、これを中心に円を描く。

②「表」の日影先端が円と交わる点を、午前と午後で求める。

③ 午前と午後の交点を結ぶと東西線が得られる。

④ 東西線の中点と「表」を結ぶと南北線が得られる。


 藤原京は、正方形の都城の中央に宮を置き、その周囲に南北と東西の直線道路を碁盤の目に交差させるという、中国の経書である『周礼』に記述される都城の理想型に基づいて設計されたと考えられています。まさしくその『周礼』に、この「表」を用いた太陽による方位決定法が記されているのです。ですから、少なくとも藤原京を計画する頃(飛鳥時代)には、この太陽と「表」の測量方法を知っていたはずだと考えることができるのです。

(黒坂貴裕 都城発掘調査部)



―― 上の資料を昨年に紹介した際には、説明された内容を把握するために、該当のイラスト太陽と「表」による方位の測量(稲田登志子 画)〉も掲載しています。


 さて、原典『周礼(しゅらい)』の日本語訳を探していたところ、鳥取県立図書館の司書の方にまたも、多角的な視点から発見していただきました。


『朱子語類』訳注 巻八十四~八十六

〔『朱子語類』訳注刊行会/監修 平成26年12月11日 汲古書院/発行〕


の「『朱子語類』巻八十六 禮三 周禮」に、『周礼』本文部分の和訳も含まれていたという次第なのです。


『朱子語類』巻八十六 禮三 周禮

 (pp.253-254)

【4】

 或問周禮、「『以土圭之法測土深、正日景以求地中。日南則景短、多暑。日北則景長、多寒。日東則景夕、多風。日西則景朝、多陰』。鄭注云『日南、謂立表處太南、近日也。日北、謂立表處太北、遠日也。景夕、謂日昳景乃中、立表處太東、近日也。景朝、謂日未中而景已中、立表處太西、遠日也』」。

 曰「『景夕多風、景朝多陰』、此二句、鄭注不可曉、疑說倒了。看來景夕者、景晩也、謂日未中而景已中。蓋立表近南、則取日近、午前景短而午後景長也。景朝者、謂日已過午而景猶未中。蓋立表近北、則取日遠、午前長而午後短也」。


 (pp.255-256)

〔訳〕

 或る人が『周礼』について尋ねた。「土圭の法を以て土の深さを測り、日景を正して以て地の中を求む。日の南は則ち景[かげ]短く、暑多し。日の北は則ち景長く、寒多し。日の東は則ち景夕にして風多し。日の西は則ち景朝にして陰多し』とあり、鄭司農(鄭衆)の注に『日の南とは、表を立つるの処、太[はなは]だ南にして、日に近きを謂うなり。日の北とは、表を立つるの処、太だ北にして、日に遠きを謂うなり。景夕とは、日昳[かたむ]きて景乃ち中す、表を立つるの処、太だ東にして、日に近きを謂うなり。景朝とは、日未だ中せずして景中す、表を立つるの処、太だ西にして、日に遠きを謂うなり』とあります」。

 答え、「『周礼』の『景夕にして風多く、景朝にして陰多し』だが、この二句は鄭司農注ではよく理解できない。おそらくあべこべに言ってしまったのだろう。そもそも景夕とは影が夕方になっていることで、地の中心ではまだ南中していないのに、表の影がすでに南中していることをいう。おそらく表を立てた場所が南に近いと、太陽に接近するために午前中は影が短く、午後には影が長くなる。景朝とは、地の中心ではすでに正午を過ぎているのに、表の影がまだ南中していないことをいう。おそらく表を立てた場所が北に近いと、太陽から遠ざかるために午前中は影が長く、午後には影が短くなるのだ」。


 (pp.258-259)

〔注〕

(1) 以土圭之法測土深

 「土圭の法によってその土地の位置を測定し、日の影の長さにもとづいて天下の中心を定める。その地が中心よりも南に位置していれば影は短く、とても暑い。北に位置していれば影は長く、とても寒い。東に位置していれば地の中心が南中した時にはすでに夕刻になっており、風が強い。西に位置していれば地の中心が南中した時でもまだ朝であり、曇りがちである」。ここにいう「土圭」とは、表(ノーモン)の影の長短を測定するための玉器、すなわちノーモン影尺のことである。垣内景子ほか『朱子語類』訳注・巻二、九四頁注 (3) および二一七頁注 (5) を参照。「測土深」とは、『周礼』注に「鄭司農云、測土深、謂南北東西之深也」とあるように、地上に立てた表の影の長短によってその地が東西南北のどこに位置しているかを測量することである。



 また鳥取県立図書館の蔵書に、中国で出版された『周禮注疏』があり、原典そのままの内容を確認することもできました。

 かえすがえすも、図書館の威力に感服せざるを得ませんな。


 で、引用文中に、ここにいう「土圭」とは、表(ノーモン)の影の長短を測定するための玉器、すなわちノーモン影尺のことであると、解説してある《表(ノーモン)》と《土圭(ノーモン影尺)》という語句の出典について調べたところ、


『朱子語類』訳注 巻一~三

〔平成19年07月25日 汲古書院/発行〕

 (p.94)

〔注〕

(3) 南北表

 「表」は日影の長さを測るために地面に直立させた柱状の天文儀器、ノーモン。「南北表」といっているのは、日の影の長さを測定する「ノーモン影尺〔(土)圭〕」と組み合わせて構成された「圭表」という儀器をイメージしての発言かもしれない。ここでは単に観察する天の方向を固定するために使われている。ジョセフ・ニーダム『中国の科学と文明』第五巻「天の科学」(思索社、一九七六〔一九九一新版〕、一二七~一五二頁を参照。


ということが、書いてあったので、『中国の科学と文明』第五巻「天の科学」を参照したところ、次のように記述されていました。


『中国の科学と文明』第5巻 天の科学

〔ジョゼフ・ニーダム (Joseph Needham)/著 1991年09月20日 新版 思索社/発行〕


第 20 章 天文学 (g) 天文器具の発達

(1) ノーモンとノーモン影尺

 (p.129)

 『淮南子』は、10 尺の長さのノーモンが古代に使われたという伝承を伝えているが(これは、すでに述べた周時代の 10 進法度量衡の存在に対する強力な証拠となろう)、これは早期に、たぶんそれが直角三角形の辺に関する簡単な計算の助けには容易にならなかったために、棄てられた。+544 年の虞鄺の 9 尺のノーモンのようないくつかの例外はあるが、一般に、古代および中世の文献に記されているのは 8 尺の長さである。元の時代、精度を高めるためさらに大きな構造を持ったときでさえ、8 尺の倍数 40 尺が選ばれたのは、後に見るとおりである。完全に水平な台と完全に垂直な棒が必要であることは、漢以前によく理解されていた。なぜなら、『周禮』に水準器および錘を吊るすひもについての記述があるからである。漢の注釈者はこれを同じ長さのひもが、台のおのおのの隅に一つずつ固定されているという意味に取ったが、唐の賈公彦は、吊るすのに 4 つの測鉛線を使ったと推測した。もしそうだったとすると、この器具はローマ時代の測量官が用いていたグローマ (groma) と非常によく似たものであった。

 影の長さの最も初期の測定は、もちろん当時の物差しで行われた。しかしこれらは役人の指示と地方の習慣によって一定でないことがわかったので、標準の碑玉の板(土圭)で、ノーモン影尺 (gnomon shadow template) と呼べるようなものが、この目的のためのみにつくられた。それは『周禮』に記されており、実物は素焼きの土製で、+164 年のものが現存している。



⛞ ここまでに出てきた語句(表と土圭)の意味を、簡単にまとめておきましょう。


 ▣ 古代中国の日時計では、一般的に、八尺の棒である表(ひょう)を基準の長さとした。

 ▣ 表の影(かげ)の長さを測る装置=器具が、土圭(とけい)である。

 ▣ 表には、ジョゼフ・ニーダムの『中国の科学と文明』で「ノーモン (gnomon)」の語があてられた。

 ▣ 土圭は、同書で「ノーモン影尺 (gnomon shadow template)」と表記されている。

 ▣ 土圭と表を合わせて「圭表(けいひょう)」と呼ばれることがある。


また、


 ▣ 影は『周礼』で日景(ひかげ)と書かれ、『周髀算経』では晷(ひかげ)と記述されることが見える。

  〔『周髀算経』の内容は、あらためて確認する予定〕



―― 各種資料を参照した詳しい内容のページを、以下のサイトで公開しています。


古代中国の土圭 ―― とけい ――

http://theendoftakechan.web.fc2.com/eII/hitsuge/tokei.html