2017年11月3日金曜日

脳は巨大化を続け 石器文化は停滞を続けた

 握斧 ―― ハンドアックスとは、発明から百万年間というもの、ほぼ同じ形状を保ち続けた石器だ。(2017年8月28日月曜日付 の記載から)

これは邦訳された、マット・リドレー『繁栄(“THE RATIONAL OPTIMIST” 2010) の記述に基づいて、そう書いたのだった。
 マット・リドレー『やわらかな遺伝子(“NATURE VIA NURTURE” 2003) を読めば、石器文化の記念碑のごとき握斧(あくふ)が、ヒトの脳の巨大化にともなって、どのように進化したのかが綴られている。
―― 多くに支持された一説によれば、ヒトの能力と、文化と、脳の大きさには、それなりに相関関係が想定されるようだ、と。

 ヒトが記号によるコミュニケーションを手に入れたとたん、逆転不能の文化の歯車が回りだす。文化が増えるとより大きな脳が必要になる。そして脳が大きくなると、より多くの文化が獲得できるようになるというわけだ。
〔『やわらかな遺伝子』中村桂子・斉藤隆央 訳 2004年 紀伊國屋書店 (p.291)

―― 続けて、大いなる足踏みと題し、次のように記されているのだ。

一六〇万年前、ナリオコトメの少年が生きていた時代の直後、地球上に素晴らしい道具が現れた。アシュール型握斧(あくふ)である。これは、ナリオコトメの少年と同じ、それまでになく巨大な脳をもつホモ・エルガステルのメンバーが考案したにちがいなく、これ以前のもっと原始的で不規則な形をしたオルドヴァイ型の道具から大きく発展している。…… それは、ホモ・エレクトゥスの移動にともない北はヨーロッパまで普及し、石器時代のコカコーラとなった。しかもなんと一〇〇万年にわたって技術文化を支配しつづけた。わずか五〇万年前にもなお使用されていたのである。…… 逆転不能の文化の歯車は回らず、センセーショナルな革新は起きず、実験もなされず、競合製品は生まれず、ペプシは登場しなかったのだ。ただひたすら、握斧独占の時代が一〇〇万年続いた。「アシュール型握斧株式会社」は、まさに大当たりで、ぼろ儲けだったにちがいない。
 文化の共進化の理論はこんなことを予言していない。むしろその理論によれば、いったんテクノロジーと言語が組み合わさると、変化が加速するはずなのだ。この握斧を作った人類は、それを作り、作り方を仲間から学べるだけの大きな脳と器用な手をもっていたのに、その脳や手を製品の改良に利用しなかった。彼らが、一〇〇万年以上経ってから突然、槍投げ器から犂(すき)、蒸気機関、ついにはシリコンチップへと、怒濤のように急激な進歩をなし遂げたのは、なぜなのだろう?

―― 人類の脳は、ホモ・エレクトゥスの時代には、大きくならなかったとかいう話ではない。
脳はあいかわらず、膨張を続けていたらしい。
石器はしかし、まったくといっていいほど、かわり映えがしなかった。

 つまるところマット・リドレーの疑念は、当然すぎるという話でしかない。
 たとえば、〝遺伝子と文化が共進化する〟にしても、いつからいつまでの時代の話として、想定されているのか?
 それは共進化という表現ではなくただ普通に相互作用というのでは、いけなかったのか。

 〝共進化〟には日本語で〝いたちごっこ〟の意味合いがあるだろう。つまりは、行為の結果、たがいに差はつかない。
 日本ではもしかしてそれは〝痛み分け〟のように、認め合う内容かもしれないけど。
 大きな差がつけば、日本人は、きっと文句をいう。この場合、文句というのはただの文言(もんごん)ではなく苦情(クレーム)のことだ。
 最終的に多少の利益を得たとしても。つまりは相対的な、相手との差が気になるのだ。
 英語では、ケタ違いの差がついたとしても、〝ウィン ‐ ウィン〟の関係とかいって、両方の勝利を相互に認め合うというのか。

 さて『やわらかな遺伝子』の「第 9 章」では、前回にも触れた、ジェフリー・ミラーの理論が、好意的に紹介されている。
 一方でリチャード・ドーキンスも、同様にミラーの説を参照して、次のように論じた。

ジェフリー・ミラーは、『恋人選びの心』において、ヒト遺伝子のかなり高い割合、ひょっとしたら最大五〇%までが、脳内で発現していると述べている。ここでもまた、話を明解にするために、雄を選ぶ雌の立場からのみ語るのが便利である ―― しかし、逆にしてもよいし、両方向から同時に見ることも可能である。ある雄の遺伝子の性能に関する透徹した解読を追究する雌は、その雄の脳に関心を集中するのがよいだろう。雌は文字通りの意味で脳を見ることができないので、そのはたらき方を調べる。そして、雄がその性能を広告することによって調べやすくするはずだという理論に従えば、雄は自らの知的能力を謙虚に頭のなかに隠しておいたりはせず、おおっぴらにするだろう。彼らは踊り、歌い、おだて、冗談を言い、音楽や詩をつくり、それを演奏ないし朗読し、洞窟の壁面やシスティナ礼拝堂の天井に絵を描く。…………
 この見方に立てば、人間の心は、精神的なクジャクの尾なのである。そして、脳は、クジャクの尾の拡大に駆り立てたのと同じ種類の性淘汰のもとで膨張したのである。ミラー自身は、フィッシャー版の性淘汰説よりもウォレス流の説明のほうが好きなようだが、結果は基本的に同じである。脳は大きくなり、しかもそれは迅速かつ爆発的に進行するのだ。
〔日本語版『祖先の物語』(上) (pp.395-396)

―― 脳が大きくなったのは、異性にウケたからだという。
 ただただ、浮かれておっきくなってた脳が、突如、実用性に目覚めたというのは、どうなのだろう。それにしても、覚醒のきっかけはどんな物語にも、説得力として必要になってくるに違いない。
 どんなストーリーが、用意されるのか。
 たとえば脳の大きさに男女の差がほとんどないのは、女性は男性の能力を見極める能力を必要としたからだという。
 結局のところ、男の内心など、女には見え見えでしかないということなのか。


相互作用する脳 の ランナウェイ
http://theendoftakechan.web.fc2.com/ess/runaway.html

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