2018年5月15日火曜日

ユング派的「竜との戦い」

 スサノヲの物語をきっかけとして〝蛇退治〟とか〝竜殺し〟ないしは〝神殺し〟の神話を追っていて、このたびは自己言及的〈ウロボロス〉の物語に行きついた。ご存知かと思うが〈ウロボロス〉は自分の尾をくわえた蛇の形象で表現される。
 旅のはじまりは、そもそもはどのようであったか、少々振り返れば。

奇稲田姫(クシナダヒメ)と たなばた伝説
――(2018年3月29日木曜日)から抜粋 ――

 日本で神々を天神地祇(てんじんちぎ)という。〝天の神、地の神〟の意味になるのだけど、〝天神〟が〈天つ神〉ならば、〝地祇〟は〈国つ神〉に相当する。
 土地に根差した固有の支配と信仰があって、祀り(まつり)が正しければ、豊年は保たれる。
 けれども、どんな支配や秩序も、やがては疲弊していく。
 そこへ新しい〈力〉を携えて、なにかがやってくるのだ。

 さて。出雲の地に素戔嗚(スサノヲ)が降り立った時、その土地は〈力〉を失いつつあった。斐伊川(ヒノ川)の〈国つ神〉は、大蛇(ヲロチ)だったけれども、このままではもはや田に、来年の稔りは期待できなくなっていた。
 日本書紀の一書によれば、天神スサノヲは、地祇であるヲロチにこういったという。
「汝は、畏(かしこ)き神なり」

 この物語はいわゆるアンドロメダ型の、英雄譚であるといわれる。
 が、単純な英雄譚とは異質だという気もする。このストーリーで、奇稲田姫(くしいなだひめ)は、〈櫛(くし)〉に変化(へんげ)して、スサノヲとともにヲロチと対峙するのであるから、アンドロメダ型のただの〝捕われの姫〟ではありえない。

 クシナダヒメが、巫女であったという推論は、調べてみると、昭和 30 年の文献にすでにあった。
 松村武雄『日本神話の研究 第三巻』〔1955年 培風館〕で詳細に論じられていて、同書では、八乙女(やおとめ)という「八人一組の巫女を認取する」〔同 (p.198) 〕という視点からまず、論が展開されていく。

―― 抜粋終わり ――

 ここに「アンドロメダ型」としたものは、いわゆる「ペルセウス・アンドロメダ型」と呼ばれる神話のことだ。
―― この神話型について、昭和 51 年に刊行された本に、簡潔な説明があった。

 八岐大蛇退治のスサノオは、神というよりは、むしろ民に危害を加える怪物を殺して、乙女を救う青年英雄である。オリエントやヨーロッパなどの叙事詩や伝説に出てくる英雄は、そうした人身御供に捧げられた乙女を救い、怪物や悪龍を退治し、乙女と結婚するという筋を持っていることが多い。いわゆる「ペルセウス・アンドロメダ型」と呼ばれる民譚がこれである。ギリシアのペルセウスが、海の怪物の餌食[えじき]にされようとしたアンドロメダ姫を救う話は有名であるが、イギリスのベオウルフ、聖ジョージ、ドイツのジーグフリートなどみなそうした英雄である。これはユーラシア大陸に広く分布する、世界拡布[かくふ]型の説話であるが、東アジアでは、中国、朝鮮、インドシナ、ボルネオ、フィリピン、アイヌ、ギリヤークなどに分布し、大林太良氏などは、これを文化文明の影響下の産物であろうと述べている(『日本神話の起源』)。
〔松前健/著『出雲神話』1976年 講談社現代新書 (pp.88-89)

 最初に書いたようにこの神話の旅は巡り巡って、とうとう〈ウロボロス〉の物語に行きついたのだった。
 エーリッヒ・ノイマン/著意識の起源史』〈改訂新装版〉(“URSPRUNGSGESCHICHTE DES BEWUSSTSEINS” 1971) は、冒頭に置かれたカール・グスタフ・ユングの「序文」(1949年3月)にも書かれているように、全編が〈ウロボロス〉で貫かれている。
 実にその後半部で唐突に、〝八岐大蛇退治〟の物語が図版で登場する。図柄の右半分に英雄と姫が配置され、向かい合わせとなる左側に、大蛇(竜)が描かれているものだ。
―― 歌川豊国筆「素盞嗚命・八岐大蛇」(東京国立博物館)の絵であり、そこに添えられた説明文は、次のごとくである。

図 75 八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を退治するスサノヲ。その結果、非人格的で不滅な草薙の剣と、アニマとしての櫛名田姫を得る
〔改訂新装版『意識の起源史』林道義/訳 2006年 紀伊國屋書店 (p.389)

―― その図が指示されている本文の個所には次のように記されている。

神話の元型的諸段階を踏んでいくこうした自我の発達は、「竜との戦い」〔図 75〕の目的として明らかとなった方向・すなわち不死と永生の獲得・に向かっている。「竜との戦い」において超個人的で壊れないものを獲得することこそ、人格発達に関する限り、獲得された宝のもつ、究極の最も深い意味である。
〔同上 (p.388)

 この引用文の前後を見渡しても本文には、スサノヲは、登場しない、にもかかわらず、〝八岐大蛇退治〟をテーマとした図版がページを飾っている。
―― どういう次第であるのか、「訳者あとがき」を読むにいたって、原著にこの図はないことが明らかとなる。

 なお本文中には、イメージによる理解を助けるために原著にはない図版を挿入した。
〔同上「改訂版 訳者あとがき」 (p.612)

―― にわかに腑に落ちたところで、さて本文の全容は訳者の「解説」によっても概観できる。たとえば ……

 ウロボロスは蛇が自らの尾を食べていることによって自足を表わし、また円をなすことによって完全な一体化の状態、すべてのものが未分離のうちに融合し、渾然一体をなしていることを象徴している。したがって意識と無意識、母と子が一体となっている「原-関係」を表わすのにまことにふさわしいシンボルと言うことができる。
…………
 思春期になると元型がにわかに活性化する。元型はいろいろな具体的な姿をとって若者を襲う。あたかも英雄神話に登場するような多様なイメージをもって意識に対して出現する。これを著者は元型が分解・細分化・形象化して個人に体験される、と表現している。その最初の現われが原両親の分離であり、太母も細分化して、お伴の動物、迫害の手先である伯父・雄猪・野牛など、魔女やその姉妹、といった多様な姿をとるようになる。これはじつは自我が強化されたことに対応しており、自我が元型の世界を具体的に区別し、その中の対立を体験し認識できるようになったことを示しているのである。
…………
 ユングを多少とも学んだ者は「竜」が太母を意味し、「竜との戦い」が太母との戦いであると思っているので、父との戦いも「竜との戦い」の中に入ると言われると、いささかとまどいを感ずるかもしれない。しかしノイマンは「竜」を単に太母とのみは見ないで、ウロボロスが原両親となって、父と母とが分離してくる段階のものと捉え、その分離に応じて「竜との戦い」も重層的・段階的になっていると見ているのである。いわばこの段階の理論的整理は著者自身のよく発達した自我-意識の機能を使って綿密になされているのであり、その意味ではこの部分を十分に理解できるかどうかによって読む側の意識の発達度が測られるとさえ言えるかもしれない。ここではフロイトとユングの仮説との対決がなされ、ノイマンの独特の仮説が提示されているのである。
〔同上「解説」 (p.583, p.589, p. 593)

 ここで太母と称されるのは、ユングの〝元型論〟に登場する概念だ。
 ユング自身の論考の邦訳書元型論母元型の心理学的諸側面という論文が収録されているので、それが参考になろうかと思われる。試しにその索引でを探して該当ページを見れば、竜(すべての呑みこみ巻きつく動物、たとえば大魚と蛇)と本文中にあった。
 ユングによれば母元型の、特徴の一部であるらしい。

 そしてノイマンによれば、竜との戦いは、親から自立するための一歩のようだ。
 始源の〈ウロボロス〉がふたつに解体されることで、対立が発生し、世界に境界があらわれて、秩序づけられていく。
 すなわち対立とは、
より高い質的に異なる統一体の一部となる」〔同上 (p. 166)
ための、基礎らしいのだ。
 これは他者と相互関係にありつつ自己の内部における対立物との闘争を構想する弁証法と思われる。
 ただしここには、生命の特性であり、〈ウロボロス〉のもうひとつの根本的性質であるところの、自己言及の円環は見えない。
 この円環は、自己言及の最中にはじけて回帰すべき形を見失い、螺旋(らせん)を描きはじめる。
 全体だったはずの円形の時間は、自己言及することで同じ状態には戻れなくなるのだ。
 こうして旅は円環の回帰から螺旋へ捩れる。


ウロボロス
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2018年5月8日火曜日

中国の超能力研究:流体としての人体

 ひとの想念はたとえば〝音声〟という波動に乗せて発せられ、感覚器官を通じて伝達される。
 音波は、観測装置を使って計測可能なので数値(デジタル)化され、科学的な説明が行なわれる。
 同じように自然科学の研究領域には、電気的なエネルギーとして観測され数値化された〝気〟の波動も含まれるという。
 観測された〝気〟の波動は、〝気〟が体外に発せられたものであるけれども、それはたとえば想いに含まれる情報の一部が〝音声〟に変換されたように、〝気〟という想念の一部が物理的に観測可能な領域としての〝電気〟に変換されたあとの、数値なのかもしれない。

 岩波講座に収録された論稿「気の科学」に 20 世紀後半の中国で行なわれた超能力研究が紹介されていた。
―― 気の科学における「特異功能」の分野が、1930 年代からのアメリカの「超心理学」の研究と重なるという。

 ここでは、皮膚で文字・図形・色彩を認識する児童の事例について長い間調査研究をつづけている北京大学の生理学者陳守良グループの研究についてふれておくにとどめる(20)。一九七九年の調査例では、対象となった児童は一〇代前半くらいの少年少女で、四〇名の被験者のうち識別能力を発揮した例は一六名(四〇パーセント)。対象の状態(たとえば文字や図形を記した紙片を布袋に入れて手でさぐらせるか、黒いプラスチックの箱に密封したままにするか)によって的中率は変るが、大体二〇-四〇パーセントの児童が識別に成功している。また当初識別不可能でも訓練によって能力を発揮するようになる例が多い。また一人が的中させると、次々に的中者が出てきて、周囲に心理的影響が広がる。陳教授はこの点から、超能力というものにはわりに普遍性があると言っている。識別できる部位は外耳内、腋下、膝関節内側など、つまり陰ができる部分が多い。字や図形は脳の部分にイメージ化されて出現するが、書こうとするとすぐに消失する。児童は意識を集中してイメージの出現をただ待つだけである。一〇秒以内ですぐに答えられるような場合は正確に的中しており、一〇分以上かかるような場合は誤りや不正確さが増す。被験者を児童に限ったのは、一〇代後半になるとこの種の能力は消滅してしまう場合が多いからである。
 理論的見地からみてこの研究が興味をひくのは、それがいわゆる超能力者といった特殊な事例にとどまらず、ある程度の普遍性を示しているという点である。またアメリカを中心とするライン派の超心理学は、外部から観察したデータを統計的に処理して超能力の存在を推理し証明しようとするだけなので、データの解釈をめぐる批判をさけられない上に、超能力の発現に関する内面的イメージ体験や生理的メカニズムについては全く研究の手がかりがない。中国の研究はこれらの問題について示唆を与える点が多い(21)。もう一つ筆者の注意をひいたのは、これらの事例が東洋医学で重視する皮膚の感覚に関係しているという点である。この事例は精神医学でいう共感覚( synesthesia 耳で音をきくときに色彩を感じる事例)を連想させる。

(20) 陳守良・賀慕厳「関于人体特殊感応機能真実性的調査報告」、陳守良他「人体特殊感応機能的普遍性的問題」、王楚他「人体特殊感応機能的図象顕示過程」(銭学森等『創健人体科学』四川教育出版社、一九八九年)。
(21) 陳守良は日本の児童を対象に試験的調査を試み、中国の児童とほぼ同じ成績をあげている。日中の研究交流の現状は、学術的著作ではないが、次の書物に具体的に(学問的節度を守って)書かれている。TBSテレビ未知能力取材班『未知能力』青春出版社、一九九二年。
〔湯浅泰雄「気の科学」/岩波講座 宗教と科学 6 『生命と科学』所収 1993年 岩波書店 (pp.377-378)

―― この論稿では、超常現象に対する、カール・グスタフ・ユングの視点も交えて、語られている。

 ユングは、超常現象は基本的に通常の因果関係をこえた立場から理解すべきである、という見解をとっている。彼は、超常現象というものの本質は心理的出来事と物理的出来事の間に起る一種の同時的同調現象であるとし、それを共時性 (synchronicity) と名づけた。このよび方は『易経』の解釈から来たもので、本論の最初にのべたように、中国科学のまなざしが共時的ホーリズムにあるという見方にもとづいている。たとえば透視やテレパシーは、集合的無意識の領域を媒体として起る一種の遠隔作用であると考えられる。感覚可能な物質的領域には通時的な因果関係の法則が支配しているが、その背後には(感覚をこえているという意味において)超越的な領域が潜在している。そういう領域からの作用がはたらくときに共時的な同調現象としての超常現象が経験される、というのが彼の考え方である。
〔同上 (p.375)

―― 上記引用文中の中国科学のまなざしが共時的ホーリズムにあるという見方というのは、それ以前の、次の個所で解説されていた。

西洋では、まず時間の経過に注意しながら、空間内部に見出される個々の自然現象の変化の過程を観察する。そしてそこから、通時的因果関係にもとづいて現象を支配する法則を引き出そうとする。これに対して東洋では、まず空間の全体に展開しているすべての現象の全体的相互連関に注目しながら、現象の全体としてのパターン変化の様相とその意味を知ろうとする。つまり全体的様相の変化に即しながら個々の現象の意味をとらえようとするのである。このような見方は、還元主義とは正反対の共時的ホーリズム (synchronic holism) の態度とよぶことができる。
 歴史的にいうと、このような見方は、古代の『易経』や『道徳経』(老子)にみえる、「道[タオ]」(太極)のはたらきの陰陽交代の様相によって自然の運行を見る態度から来ている。その「道」のはたらきがやがて「気」とよばれるようになったのである。ユングは、『易経』の世界観が中国の哲学と科学の独特な考え方の源流になったことを指摘し、その基本的原理を共時性 (synchronicity) とよんで、西洋の科学における因果性と対比させている(6)
 医学の場合も、中国人はこのようなまなざしによって人体を観察してきた。したがって人体の組織は、宇宙に流れ動いている気のエネルギーの容器として、いわば波動論的な流体モデルに従って理解されるようになった。

(6) ユング・ヴィルヘルム著、湯浅泰雄・定方昭夫訳『黄金の華の秘密』人文書院、一九八〇年、一七頁以下。ユング著、湯浅泰雄・黒木幹夫訳「易と現代」(『東洋的瞑想の心理学』創元社、一九八三年)。ユング著、河合隼雄訳「共時性 ―― 非因果的連関の原理」(ユング・パウリ『自然現象と心の構造』海鳴社、一九七六年)などを参照。ユングのいう共時性については、湯浅泰雄『共時性とは何か』山王出版、一九八七年、参照。
〔同上 (pp.350-351)

―― ところでユングは〈集合的無意識〉という考え方でも有名だけれど、超心理学的に説明可能な「ポルターガイスト」現象にも通じるとして、〈トリックスター〉についての論考で次のように述べている。

トリックスターは集合的な影の像であり、すべての個人の劣等な性格特性の総計である。
C. G. ユング/著『元型論』[増補改訂版]所収「トリックスター元型」林道義/訳 1999年 紀伊國屋書店 (p.231)

―― 訳者による解説では、ポール・ラディンのウィネバゴ・インディアンのトリックスター神話研究をもとに、トリックスターの事例が紹介されていた。

トリックスターとは「悪戯[いたずら]者」「詐欺師」「悪漢」といった意味であるが、これは人類学や神話学において、神話の中の独特の性質をもった登場人物を指す言葉となった。
…………
ウィネバゴ物語でも、トリックスターは自分の右手と左手を争わせたり、また自分の尻に食物の番をさせておいて、尻がプープーと警告するのに眠っていて気づかず、食物が奪われると尻のせいにして尻を焼いて、結局自分がやけどするという具合に、信じられないほど愚かである。
〔同上「訳者解説」 (p.490, p.491)

 その解説のなかで、トリックスターの性質に言及して、
それは無秩序の精神、境界を無視する精神である。」〔同上 (p.491)
と語られている。
 すなわち、トリックスターは傍若無人(ぼうじゃくぶじん)をモットーとし、我が物顔に、世界を闊歩(かっぽ)する。
 そのとき、閉塞しかけた現実が、刹那に笑いで開放され、風刺が変化のきっかけを生むかもしれない。
 トリックスターの魅力は、秩序の破壊にとどまらない。秩序と無秩序の境界さえも無意味にしてしまうのだ。
 なんら悪びれもせず、この世の成り行きに、完全に無頓着(むとんちゃく)なのである。


トリックスター
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2018年5月1日火曜日

ハレとケ / 聖なる〈カオス〉

 西洋の悪魔〝デーモン〟も、もとはといえば、ギリシャ語の超自然的存在とか精霊をさす〝ダイモン〟だった。
 禁忌(きんき)を意味する英語の〈タブー (taboo) 〉は、ポリネシア語に由来する。
―― この〝聖なる禁忌〟の両義性を調べていて、吉田禎吾『魔性の文化誌』の「あとがき」に、フランスの宗教学者レナックの著オルフェウス(Orpheus, 1909) の文章を引用した記述があるのを見つけた。

【レナック『オルフェウス』からの引用文】
「ラテン語の聖 sacer という語は、聖と不浄の双方を意味しているので、それはまさしくタブーという語にあたる。聖 (sacer) なるものはすべて一般の使用から遠ざけられる」
〔吉田禎吾/著『魔性の文化誌』1976年 研究社出版 (p.245)

 この引用文の前後には、英語やフランス語、ラテン語だけでなく、ギリシャ語にもそういう両義的な〝いみ〟をもつ語のあることが記されていた。
 おそらく、この聖なる禁制の呪縛は人類に共通なのだろう。その感覚には畏怖すべき対象への〝いまわしさ〟がつきまとう。神もある意味〝不吉〟なのだ。
 日本語でも、慎み籠る期間などをさす「いみ」は、〈斎〉と〈忌〉の両方にかかる。
 実践される行ないとして、たとえば有名な四字熟語に「精進潔斎(しょうじんけっさい)」がある。〈斎〉も〈忌〉も、日常では禁じられた神聖な領域に接触するための準備であろう。
 そういう事前準備としての「物忌み」は、近い将来に予想される不吉を避けるために〝斎戒(さいかい)〟する行為なのだけれど、これは「斎(ものいみ)」と漢字一文字で書かれることもあるようだ。
 そんな次第で〈斎〉も〈忌〉も、根元にある思想としては共通する。超自然的な境域から到来する圧倒的なパワーに命が吹き飛ばされないようにするための、心構えを強靱にする準備なのだ。実践が伴わないただの呪文では役に立たない。
 その、圧倒的なパワーのみなもとを、古来〈ハレ〉という。〈聖(ひじり)〉とは〈ハレ〉との接触ということになる。
 聖域との接点として〝神の力〟をまとう場所を〈ハレ舞台〉という。すなわち、〈ハレ舞台〉でヒトは〝神の化身〟となるのだ。
 魂が神に触れる神がかりが、芸能の誕生である、といわれる。
 いっぽう〈俗〉とも称する日常を〈ケ〉という。そして、日常の力に衰えを感じる事態を〈ケガレ〉という。一説にそれは〝ケ枯れ〟なのだという。このとき〝ケ〟は毛髪などが生え伸びる生命力を示す。
 その〈ケガレ〉を払拭するために、祭りの〈ハレ舞台〉が用意された。〈ハレ舞台〉を通じて〝神の力〟が導入される。
―― この日常に蓄積していく〈ケガレ〉の観念は、増大する〈エントロピー〉に通じるかもしれない。

文化は、そういった視点から見ると、絶えず増大するエントロピーとの葛藤の過程として捉えることができる。その能力を失うと、エントロピーの増大によって、文化は無為[イナーシア]と退行に追い込まれる。これに対して、エントロピーを組み込むことに成功している文化では、「文化起動装置」が比較的順調に働いているということになる。
〔山口昌男/著『文化と両義性』2000年 岩波現代文庫 (p.103)

 物理的に、外部に開かれていない閉塞した世界では、きっと文化は停滞して衰えるのだろう。
―― 日常の〈俗〉に対しての〈聖〉を置いて、神聖の概念の両義性を論じたのは、エミール・デュルケムだという。

不浄なる事物ないしは邪悪な力が、本性を変えることなく、外的状況の単なる変化によって、神聖な事物ないしは守護的な力になることがしょっちゅう起きていて、またその逆も同様である。はじめのうちは恐るべき原理であった死者の霊魂が、ひとたび喪が明けると、いかにして守護霊に変貌するかはすでに見た。同様に、はじめは恐怖と反感しか引き起こさなかった屍体も、後になると崇[あが]められるべき聖遺物として扱われるようになる。
…………
 したがって浄と不浄とは、二つの別個の類[ジャンル]なのではなく、すべての聖なる事物を含む同一の類の二つの変種なのである。聖なるものには、一方の吉と他方の不吉の二種が存在するのであり、対立するこれら二つの形態のあいだには、断絶が存在しないのみならず、同一の客体が、本性を変えることなく一方から他方へと移行しうるのである。浄なるものから不浄なるものが作り出され、また逆も成り立つ。聖なるものの両義性は、このような転換が可能であることによるのである。
〔エミール・デュルケーム/著『宗教生活の基本形態』(下)山﨑亮/訳 2014年 ちくま学芸文庫 (p.367, p.368)

―― このあたりの〈聖〉と〈俗〉の考察は、次の文献に詳しい。

〈聖なるもの〉が「善き聖」=浄と「悪しき聖」=不浄の対極的な二項からなる、ある種の両義的観念であることを、わたしたちはデュルケムの所論によりつつ跡づけてきた。しかし、こうした〈聖なるもの〉を両義的にとらえる視点そのものが、原初的混沌としての〈聖〉が二極的に分化してのちの産物であることには、ふれておく必要がある。
…………
 禁忌[タブー]の語源であるポリネシア語の tabu は、神聖であれ不浄であれ、日常的世界から遠ざけられ接触を禁じられた対象[モノ]をさしている。禁忌にはいわば、二つのあい反する心的態度、つまり神聖ゆえの畏敬と不浄ゆえの忌避とが分かちがたいものとして孕まれている。分化以前の〈聖なるもの〉が、この禁忌 tabu なる語の背語にも透けてみえる。
 それゆえ、原初的には、世界は〈聖〉なる領域(混沌[カオス])と〈俗〉なる領域(秩序[コスモス])とに二分されていた、と想定することができる。両者は、たがいに浸透しあうことのない、厳しい浄化儀礼なしには接触することさえ禁忌された二つの領域であり、いたるところに設けられた可視的な、また不可視的な境界によって分割されていた。
〈聖〉と〈俗〉にわかたれた原初的世界においては、二つの領域をなかだちする祭儀の執行者は、〈俗〉なる人々から峻別された禁忌の対象であった。それは本来、共同体の全成員によってになわれる〈聖〉なる役割であったはずだが、社会の階層分化につれて出現してくる、シャーマン・呪術師・司祭などの専門聖職者によって独占されるようになる。
〔赤坂憲雄/著『異人論序説』1985年 砂子屋書房 (p.107, p.108)

 ここに「シャーマン」という言葉が出てきたけれども、新しい時代に来訪する「シャーマン」は〈サイボーグ〉であると提唱する論がある。
 それは、デジタル時代の、神話だ。
 現代の〈異人〉とは、AI を搭載したロボットであり、われわれは彼らを〝歓待〟して祝福されるのか、それともその逆の選択をするのかという、現代にまさに進行形の神話なのだ。
―― ジョージ・ザルカダキスの AI は「心」を持てるのか(“In Our Own Image: Will Artificial Intelligence Save or Destroy Us?” 2015) を読んでいくと第 6 章 神の帰還に、次の一段落が記されている。

 まるで旧石器時代の意識のビッグバンからちょうど一周してきたかのようだが、サイボーグは新しいシャーマンだと言える。グーグルグラスや、その他新しい増強型サイバーテクノロジーの産物を装着しているとき、私たちは新しいトーテミズムの記号を「ボディーペインティング」しているのだ。シュターデル洞窟の半人半ライオンは、二一世紀には半人半マシンに生まれ変わる。このように見たとき、サイボーグは、人工知能の新しいまだ見ぬ神々とコミュニケートしている。なぜなら、身体の部分をメカニカルな補綴物に置き換え続けていくと、最終的にはすべてがメカニカルな存在、知的ロボットに到達するからだ。サイボーグへの還元の論理的な帰結は、人の部分がなくなることだ。この新しいトーテミズムでは、知能のある非人間は、増強された能力、強い身体、遍在、不死という特徴を持つ。これは、すべて古い神の特徴だ。しかも、私たちは工場や研究所でこのような神々を実際に作ることができる。彼らは、私たちの似姿になっている実体のある神々である。サイボーグとしての自分を想像するときに見えるものは、無限の知恵と知識を持つ新しいデジタルの神と一体化した自分だ。皮肉にも、これら新しい神々が私たちに要求するものは、古い神々とは異なり、私たちの魂だ。神々と一体になるためには、人間性を諦めなければならない。
〔ジョージ・ザルカダキス/著『 AI は「心」を持てるのか』長尾高弘/訳 2015年 日経BP社 (pp.137-138)

 先の『異人論序説』からの引用文には、
原初的には、世界は〈聖〉なる領域(混沌[カオス])と〈俗〉なる領域(秩序[コスモス])とに二分されていた
と、あった。
 古き時代に周縁から復活の〝力〟をもたらしてきた〈カオス〉の境域は、神々の棲む〈聖〉なる場所だったのであり、それがそのまま禁忌を意味した。
 新しい神々は、まぎれもなく、〈秩序[コスモス]〉の側からやって来る。
 いにしえの、連続の世界に棲むアナログの神々は、ひとの心に、不連続なデジタルの神々の来訪を把捉する。
 そのとき〈混沌[カオス]〉は、原初の〈聖〉なる領域から駆逐されるのだろうか。
 それとも〈秩序〉から抜け落ちた〝取るに足りない〟領域に〝聖なる禁忌〟はひそむのか。


異人〈ストレンジャー〉
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