2017年10月19日木曜日

延長された表現型 と ガイア仮説

相互作用する生き物たちの進化を追い求めていくと、
ひとつの生命体としての地球に、いつか思いが及ぶ。
〈ガイア仮説〉は、そのように誕生したのだろうか。

―― J・スコット・ターナー『生物がつくる〈体外〉構造』滋賀陽子訳 (pp.292-293) から、引用すると。


 延長された表現型から、ガイアが前提とする地球規模の生理作用へ向かうのは自然な道筋だと思われる。しかし進化生物学者たちは概してこの一歩を踏み出したがらない。……
 論争の中心は、ガイアの進化には、ほぼすべての進化生物学者が除外した方法で自然選択が働く必要があるという考えのようだ。群淘汰というのは、生物や遺伝子より上のレベルに働くすべての選択過程に与えられる名前だ。一般的には群淘汰はある種の利他主義の説明に使われてきた。その例は、群れの中のあるメンバーに「種のためを思って」肉食動物の犠牲となるように仕向ける遺伝子だろう。もちろんそういう遺伝子は長くは生き残らないはずだ。ほとんどのダーウィン進化の利他主義モデルが、「利他主義者の」遺伝子の利益を実際に増進する血縁淘汰のような、遺伝的な逃げ場を用意しているのはこのためだ。ガイアと群淘汰に関しては、リチャード・ドーキンスが問題の核心を突いている。

……もし植物が生物圏のために酸素を作っているのだとしたら、酸素生産のコストを省ける変異植物が現れたらどうなるか考えたらよい。明らかにこの植物は公共精神に富む仲間に勝って繁殖し、公共精神の遺伝子は消滅するだろう。酸素生産にはコストがかからないと強弁しても無駄だ。かりにコストがかからないとしても、最もコストを低く見積もる説明ですら……酸素は植物が自分の利益のためにおこなう反応の副産物だからという、いずれにせよ科学界が受け入れているものでしかない。(Dawkins 1982, p.236)
〔文献: Dawkins, R. (1982), The Extended Phenotype, Oxford: W. H. Freeman[『延長された表現型 ―― 自然淘汰の単位としての遺伝子』日高敏隆・遠藤彰・遠藤知二訳、紀伊國屋書店、1987 ]〕

 私はこの意見に異論はない。ただし不備なのだ。酸素生産がなぜ植物にとってよいのかを問うのを忘れている。……
 植物にとっての酸素生産の真の利益は、酸素の生産がどれほど困難かを考えてもわからない。酸素がどれほど強力に電子を引き戻すかを考えればよいのだ。……


―― 以上。引用文のなかに著者による引用があるので、確認すれば、延長された表現型』日本語版の 436 ページあたりの記述に概略こうあった。


…… ラヴロック (Lovelock, 1979) の「ガイア」仮説である。延長された表現型の影響が相互に絡みあっている私の織物は、ポップ・エコロジーの文献(たとえば「エコロジスト」誌)やラヴロックの本の中でやたらにかさあげされている相互依存や共生関係が織りなす織物と外見的な類似性がある。
〔文献: Lovelock, J. E. (1979). Gaia. Oxford: Oxford University Press.
…………
ラヴロックはさらに進めて、植物による酸素生産を地球/生物体あるいは(ギリシア語の地の神にちなんで命名された)「ガイア (Gaia) 」の一部に対する適応とみなしている。つまり、植物が酸素を生産するのは、それが生命全体の利益になるからだというのである。


―― はじめの引用文、スコット・ターナーによるドーキンスからの引用箇所。
「酸素生産のコストを省ける変異植物が現れたらどうなるか」
という思考実験の提案は、
酸素を生産しなくてもじゅうぶんやっていける植物が現れたらどうなるか
という内容を含むと思われる。

 すなわち、酸素が重要ではなくなった植物の物語なのだ。そういう存在が植物といえるかどうかはさておき、そういう未知の植物が想定されていると考えられる。
 だから、酸素の利点を数え上げるやり方は、まったくの「別の論」なので、それぞれの意見は異なることになる。
 というか、乖離していく方向を向いているようだ。

 ここで唐突ではありますが……。
 延長された身体論については、戦争中に西田幾多郎が、ボーアの論文を参照して、こう書き残していることが思い出されたのです。

器械は手の延長である。何処までも我々の身体の外界射影である。ボーアは暗室に於て軽く杖に触れれば、杖は単に対象であるが、強く之を握れば、自己の身体に直接して居ると云ふ(38)
注解 (38)  ボーア「作用量子と自然の記述 (Wirkungsquantum und Naturbeschreibung) 」一九二九年、『ニールス・ボーア論文集1 因果性と相補性』岩波文庫、七三頁。
〔新版『西田幾多郎全集』第十巻 「生命」(昭和十九年十月・昭和二十年九月初出〔未完〕) (p.248)

―― 注解された岩波文庫の該当ページを確認すれば、
「しばしば心理学者によって引き合いに出される、暗い部屋のなかで杖で触ることによって位置を確認しようとするときに誰もが経験する感覚を思い出すだけでよい。杖をゆるく持つならば、触覚にとって杖は客体のように思われる。しかし、杖をきつく握るならば、それが外部の物体であるという感じをなくし、接触の感覚は、探っている物体に杖が接触している点に瞬時に局所化される。」
と、記述されていた。
 当時すでに、道具が手の延長として機能することは、世間に一般的な話ではないにしても、ひとつの説として認められていたのだとわかる。


セントラルドグマ〈中心命題〉
http://theendoftakechan.web.fc2.com/ess/dogma.html

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