2019年3月30日土曜日

比婆山 ― 死と転生の呪術 ―

◈ 前回の終わりに書いた。今回の、とっかかりのテーマとなる泣く子の話だ。

◎ 出雲国風土記に記録された〈阿遅須枳高日子命〉の〝泣いてばかりで、ものいわぬ御子〟の物語は、古事記と日本書紀に垂仁天皇の〝ものいわぬ皇子〟の物語として、記述されている。

◈ このほかにも、妣を慕って〝青山(あおやま)は枯山(からやま)のごとく泣き枯らした〟神の物語が日本にはある。記紀神話の破壊的なまでに泣いてばかりの神といえば、〈八岐大蛇〉―― ヤマタノヲロチ ―― を退治した神でもある、スサノヲが世界的に有名だろう。

◎ スサノヲ の 妣の国 ◎


 ○ たとえばレヴィ=ストロースは、日本神話の翻訳を要約文で紹介していて、その和訳も時に興味深い。

『蜜から灰へ』

〈第三部〉暗闇の楽器 Ⅰ 騒音と悪臭

M311 日本 泣き虫の「赤ん坊」
 イザナギという神は、自分の妹であり妻であるイザナミが死んだ後、世界を三人の子供に分け与えた。イザナギの左目から生まれた、太陽である娘、アマテラスには空を委ねた。右目から生まれた、月である息子、ツキヨミには海を委ねた。鼻汁から生まれた、もう一人の息子、スサノオには大地を委ねた。
 その頃、スサノオは男盛りであって、長さ八アンパン〔一アンパンは手を一杯に広げたときの親指の先から小指の先までの長さ〕の髭が生えていた。しかしスサノオは大地の主の務めをなおざりにして、うめいたり、泣いたり、怒って口から泡を吹いたりばかりしていた。心配をする父親にスサノオは、あの世で母親と暮らしたいのだと答えた。それでイザナギは息子を憎み、息子を追い出した。
 イザナギ自身も死んだ妻に再会しようと試みたことがあるので、死んだ妻はもはや膿んでふくれあがった死骸にすぎず、頭、胸、腹、背中、尻、両手、両足、陰門に八人の雷神が住んでいることを知っていたのである ……。
 スサノオはあの世に亡命する前に、姉のアマテラスに別れを告げるため、空に昇る許しを父親から得た。だが空に着くやいなや、田圃を汚したので、アマテラスは憤慨して、洞窟に閉じこもり、世界から自分の光を隠した。悪行の罰として、弟は永久にあの世に追放されることになり、艱難辛苦の末あの世にたどり着いた (Aston, vol. 1, p.14‑59)

文 献
ASTON, W. G. ed. :
« Nihongi. Chronicles of Japan from the Earliest Times to A.D. 697 », Transactions and Proceedings of the Japan Society, London, 2 vol., 1896.
〔クロード・レヴィ=ストロース/著『蜜から灰へ』早水洋太郎/訳 (pp. 437-438)

The End of Takechan

比婆山の安産信仰 ― 箒神 ―


◈ 古事記の《掃持》―― 日本書紀では《持帚者》―― すなわち〈ハハキモチ〉は、葬送に描かれ、吉野裕子氏は古代の死生観を論じて、死者を未来に新生する胎児として扱う風習を紹介した。このことは、いずれ詳しく検討する予定なのだけれど、《掃守》すなわち〈カモリ〉は、産屋(うぶや)の神話に重要な役目を担って、古語拾遺〔「天祖彦火尊、娉海神之女豊玉姫命、生彦瀲尊。誕育之日、海浜立室。于時、掃守連遠祖天忍人命、供奉陪侍。作箒掃蟹、仍、掌鋪設。遂以為職。号曰蟹守。」岩波文庫『古語拾遺』(p. 130) 〕に登場する。

 ○ ここでは、箒神(ほうきがみ・ははきがみ)が、死と生の境界における守護者として信仰される習俗を文献から参照するにとどめる。古来、出産は、死と隣り合わせの時間と空間の体験でもあった。

『谷川健一全集 2』

「民俗の神」 Ⅰ

産屋と喪屋
 奄美大島では生後一年たった子どもを「ユノリがあった」という。「ユノリ」は世直りのことである。世直りというのはこのばあい、あの世からこの世に直ることを意味する。九州から南では「直る」といえば移ることである。逆にいえば生まれて一年たたないあいだは、まだ確実にはこの世に生まれ返ってないと考えられていた。生まれることが再生にほかならぬことをこのようにはっきりと示すことばはない。
 そうしてあの世からこの世に生まれ移るためには、あの世とこの世との境目に産屋がもうけられねばならなかった。

神と魔
 医学のすすんでいない時代の人間にとっては、死から生への継ぎ目を無事に移行できるかどうかということは大きな問題であった。そのためには産神[うぶかみ]の加護が何としても必要であった。出産のために命を落とす産婦は多く、誕生してもながく生きられない子どもの数はおびただしかった。
…………
 平城天皇の大同二年(八〇七)に斎部[いむべ]広成が著述した『古語拾遺』には次の文章がある。

天祖彦火尊、海神之女豊玉姫命にみあひまして、彦瀲尊をあれましき。誕育之日、海浜に室をたてたまひき。その時、掃守連遠祖、天忍人命、供へ奉り侍りしに、箒を作りて蟹を掃ひたまひき。かれ鋪設をつかさどれり。それ遂に職と為りて、号をも蟹守とは曰ひき。(今の俗に之を掃守と謂ふは、彼詞の転れる也。)
あまつみおやひこほのみこと、わたつみのむすめとよたまひめのみことにみあひまして、ひこなぎさのみことをあれましき。ひたしまつりたもふとき、うみべたにうぶやをたてたまひき。そのとき、かむもりのむらじがとほつおや、あまのおしひとのみこと、つかへまつりはべりしに、ははきをつくりてかにをはらひたまひき。かれしきものをつかさどれり。それつひにわざとなりて、なをもかにもりとはいひき。(いまのよにこれをかむもりといふは、かのことばのうつれるなり。)

 この文章にみる通り、産屋を海辺に建てたので、産屋の中に蟹が入りこんだ。そこで箒[ほうき]で掃ったというのは、産屋の床に砂が敷いてあったことを推定させる。また産屋と箒とが密接な関係をもっていることが語られている。
 コズエババ(産婆)が箒で産婦の腹をなでて、「はよう安うもたせて下さいまっせ」と安産を箒神に頼む所が九州にあった。箒神を産神とみなす習俗は各地にあり、産室の隅に箒を立てて安産のまじないとする所は多い。
 朝鮮には産室の隅に藁の束を立てる習俗があるが、日本にもおなじような風習があり、産神さまがこれに腰をかけるといっている。また藁の束を産神さまとしてまつるばあいもみられる。これらのことを思いあわせてみると、箒神は、もとは藁の束ではなかったかという推測が成り立つ。産婦がすわって産をするときに、藁の束をつくってその腰にあてる風習は敦賀の立石半島にみられる。あるいは砂の上に積み重ねた敷藁を束ねて、それを産神とみなしたかも知れない。産屋の藁はたんなる藁ではなく産婦とその子どもをまもってくれる神なのである。
 それは産屋のまわりに母と子の生命をうかがう邪神がたえずうろついているからであった。産屋の生活は生と死とのたたかいであり、それは同時に産神と邪神とのたたかいの場でもあった。……
〔『谷川健一全集 2』(p. 469, pp. 476-477)

『日本民俗語大辞典』

ははき 菷

ははきがみ・ははきもち・ホウキ・掃クに関係する語。ワラシベ・モロコシの穂・シュロの葉鞘からとった繊維・竹の枝、菷草の茎を乾かし束ねた物など ―― 現在は掃除道具となっている。
…………
「古事記」・上巻で、「天若日子」の死の喪屋で、八日間、鷺が「菷持[ははきもち]」となっているのは、白い鳥が、霊魂の保管者であるという古い信仰と、殯宮での蘇生・転生を願う、招魂呪法役を、菷が期待されたのである。
〔石上堅/著『日本民俗語大辞典』(p. 1071, p. 1072)

◈ 次に、日本書紀「神代上 第五段一書〔第十〕」の記事、

乃ち唾く神を、號けて速玉之男と曰す。次に掃ふ神を、泉津事解之男と號く。
(すなはちつはくかみを、なづけてはやたまのをとまうす。つぎにはらふかみを、よもつことさかのをとなづく。)

のことであるが、その文脈から〈速玉之男〉〈泉津事解之男〉は、両方ともヨモツヒラサカにおいて、イザナミを《黄泉の国》に封じるための、結界と祓いの神だとわかる。―― その神々が、出雲の比婆山久米神社などでは、イザナミの両脇に祀られているという次第なのだ。

The End of Takechan

御墓山の安産信仰


 ○ 大正年間を編集に費やしたという地誌『日野郡史』は、大正十五年 (1926) に鳥取県の日野郡自治協会から発行された。

『日野郡史』(前篇)

 第三章 沿革「第四節 太古傳說地」

…… 遼遠の世、傳へられたる說話すら少けれども、阿毘緣(出雲風土記の伯耆國日野郡の堺阿志毘緣山とある所)の御墓山傳說の如きは、尤も有力なるものにして、將來の研究に俟つべきもの多し。左に日野郡野史中より抄錄す。……

阿毘緣の御墓山
阿毘緣村の大菅字大墓山は、出雲國能義郡と伯耆國日野郡との境に聳ゆる名山なり。上古伊邪那美尊を葬り奉りし由云ひ傳ふ。其事跡と古事記にある所と照令して考ふる時は、信憑すべき點尠からず。依て左に之を併記して尙後世探究の參考に資せんとす。
…………
故其祟避りまして伊邪那美の神は、出雲國と伯岐國との境比婆の山に葬[カク]しまつりき。 古事記

米山曰出雲國能義郡と伯耆國日野郡阿毘緣村の內大菅との間に聳ゆる字御墓山に伊邪那美尊を葬し奉れる由昔より云ひ傳ふ。同地內の井垣が塔[サコ]に其神靈を奉祀せしも、深雪の地にて里人冬期參拜に困しみ、中古より同村地內字宮の下に移し奉り、熊野神社と稱へ、伊弉冊命に事解[サカ]男命速玉男命を合祭し、古來產婦主護の御神とて遠近の崇敬甚だ厚し。此御墓山及近地を日向[ヒナ]山と總稱す。比姿山の轉訛なるべし。云々
…………

 第四章 神社「第四節 村社」

  九、熊野神社
三、記錄
 口碑傳說
二 神 社 ノ 來 歷
(口碑傳說)伊弉冊命ハ神避リマセシ時出雲國ト伯耆國トノ境ナル比婆山ニ葬ルト舊事記古事記ノ兩書ニ顯然トコレアリ然ルニ往古ヨリ現今ノ社地ヲ隔ツル事拾餘町ナル雲伯ノ境ニ比那山御墓ト唱フル山アリ(比那山ハ比婆山ナルヲ後世ノ人誤リテ比那山ト申セシナラン)~~
三、神社及祭神ト其地方トノ關係
當神社ノ社地ハ往古ハ前項比那山御墓ニアリシモ中古(年代詳カナラズ)參拜者ノ便利ヲ圖リ現今ノ社地ニ移シ氏神トシテ奉祀セシモノナリト殊ニ伊弉冊命ノ安產ノ守護神トシテ著シキ靈顯アリトテ村民ハ勿論附近ノ村落ヨリ參詣スルモノ少ナカラズ
 明治四十三年六月
社掌 木山昌精調査
〔『日野郡史』(前篇)(pp. 36-37, pp. 411-412)

◈ 上記引用文中米山曰として、深雪の地にて里人冬期參拜に困しみ、中古より同村地內字宮の下に移し奉り、熊野神社と稱へ、伊弉冊命に事解男命速玉男命を合祭し、古來產婦主護の御神とて遠近の崇敬甚だ厚し。と語られた一文は興味深く、これは明治四十三年六月 社掌 木山昌精調査とあるものと同内容でもあり、それは明治四十五年の『鳥取縣日野郡阿毘緣村是』(p. 2) に、

殊に伊弉册命は安產の守護神として靈顯ありとて村民は勿論附近の村落より參詣するもの少からず 云々

と記述されているのであるが、ここに安産信仰すなわち箒神の信仰が垣間見えるようだ。果たして、いにしえの《伯耆の国》とは、ユング的《太母の国》であると同時に、箒神の国 ――《箒の国》であったか?

The End of Takechan

比婆山の神々


◉ 島根県の、式内社久米神社(比婆山久米神社熊野三社大権現)の記録にある信仰内容の記述、

【祭祀】 例祭は五月九日で、秋祭は九月九日で、規定の祭典である。當日は姙娠・安産・子育ての祈願や、開願御禮詣りの御祈禱が非常に多い。
〔『式内社調査報告 20 』(p. 183)

と比較するとき、鳥取県の『伯耆志』(p. 587) に記録された產土神熊野權現 社方五尺 祭日九月九日という祭日も秋祭の日と一致し ―― のみならず、祭神と信仰も同じなのだけれども ―― たとえばこのあたり一帯を全体として神代の比婆山と想定するなら、いまは出雲と伯耆に区分されて所在するそれぞれの〈熊野権現〉は、もとは同じ神社(かみのやしろ)であったとして、不自然ではない。
 島根県の〈比婆山久米神社熊野三社大権現〉の縁起巻に、延宝三年 (1675) の写本「比婆山三所大権現縁記」があり、鳥取県の旧くは〈熊野大権現〉と称した〈熊野神社〉の棟札には、延宝八年以後のものがあるというけれど、そのころにいわゆる「比那山御墓」の地に、出雲と伯耆の国境(くにざかい)の峰に、〈熊野大権現〉として勧請されたのではなかろうか。まさしくそれを江戸時代の終わりに『伯耆志』(pp. 587-588) は、

當社出雲國能儀郡 比婆山熊野神社に同し 彼社は延喜式に久米神社と見えたるを後世熊野に作れり 云々 古事記に出雲與伯耆境とある伊弉冊尊の葬地は此地ならんといへる一說なとありて爰にも熊野神社を祭れるものにや何れにても後世の勸請なる事は論なし

という文章で記述したのであろう。

◎ そして太古は線引きがなかったはずの、国々の境についてであるが、645 年の大化改新(たいかのかいしん)以降に国境が定められた際には、出雲国風土記に記された、意宇郡の〈久米社〉は出雲の国に、粟嶋と関連の深い〈夜見嶋〉は伯耆の国に編入されることとなった、という想定は可能だし、無理がないように思われる。

◉ 国境がそのように定められたので、712 年成立の古事記におけるその場所の表現は必然として、

故、其の神避りし伊邪那美の神は、出雲の國と伯伎の國との堺の比婆の山に葬りき。

という記述となった。―― と、そのような、経緯もあっただろうか?

◈ 次に。ではなぜその場所が、出雲と伯耆の国境付近であったのか。

 阿毘縁地区は古くから、良質な鉄の産地として知られ、〈印賀鋼〉の刀剣は明治の末期にも、「明治四十年五月吉日久松山麓に於て兼次作」の銘を残したと、記録されている。
〔『山陰道行啓錄』「鳥取縣」(p. 74) 参照(国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧可能)〕


 日本の中央から遠望して、阿毘縁地区を山嶺の南に擁する地帯、比婆の山は《死と転生の呪術》の象徴だったのではあるまいか。

◉ エリアーデの著書に、こう書かれていた。

「鍛冶師とシャーマンは同じ巣からやってくる」とヤクート族の俚諺はいっている。
〔『鍛冶師と錬金術師』(p. 95)

◉ また、康忠熙「古代朝鮮の製鉄技術」には、紀元前の頃のこととして次の記述があった。

朝鮮の古代製鉄技術発展のなかでもう一つ注目されることは、鋼材の質を高めるための熱処理がなされていたことである。
〔『朝鮮古代中世科学技術史研究』(p. 81)

 比婆の山の横屋には、いにしへの時代より、日本海の朝日を目指し渡来した神々とシャーマンが宿り、そこでは新しい神々の秘術を駆使した製鉄と鍛冶の技術を通じて、新しい世を築こうとする〝鉄と火の新時代に向かう生誕の儀式〟が行なわれていたのだ。
 そしてその最大の象徴となる剣(つるぎ)が、ヤマト朝廷の神璽のひとつとされ、〈草薙剣〉またの名を〈天叢雲剣〉として、スサノヲとヤマトタケルの名とともに、日本神話に記され日本人の記憶に刻まれたのだった。


Google サイト で、本日、もう少し詳しい内容のものを公開しました。

比婆の山 / 妣の国
https://sites.google.com/view/emergence2/tsuge/hiba-yama

バックアップ・ページでは、パソコン用に見た目のわかりやすいレイアウトを工夫しています。

比婆之山 / 妣(はは)の国 バックアップ・ページ
http://theendoftakechan.web.fc2.com/eII/tsurugi/hiba-yama.html

2019年3月15日金曜日

神度の剣 ― かむどのつるぎ ―

波比岐神 / ハヒキの神


 古事記に、波比岐(はひき)の神という名の神が登場する。
 同時に記述された阿須波(あすは)の神とともに、どういう神であるかは、あまり知られていない。

○ 西宮一民氏の校注になる古事記から、本文と解説を抜粋する。

新潮日本古典集成『古事記』

古事記 上つ巻(本文)

次に、庭津日[にはつひ]の神。次に、阿須波[あすは]の神。次に、波比岐[はひき]の神。

付 録 神名の釈義
庭津日の神
名義は「家の前の広場の神霊」。「庭」は今日のような植込みの庭ではなく、家屋の前の広場をいう。穀物を干したり、農耕祭祀をしたりする場所であるから、庭そのものを神格化した。須佐之男[すさのお]命の子の大年[おおとし]神と天知迦流美豆比売[あめちかるみずひめ]との間に生れた九神中の第三子。
阿須波の神
名義は「宅地の基礎が堅固なこと」。「足磐[あしいは]」の約「あしは」が「あすは」に音転した語。…… 須佐之男[すさのお]命の子の大年[おおとし]神と天知迦流美豆比売[あめちかるみずひめ]との間に生れた九神中の第四子。
波比岐の神
名義は「宅地の端から端へ線を引き区画をすること」。「端引[はひ]き」の義で、宅地の境界を掌る神。名義未詳として著名の語であった。前項「阿須波[あすは]の神」とコンビで名を見せる神名で、宅地の神であることだけは間違いない。……「端を引くこと」と解すれば、まさに境界の表象である。須佐之男[すさのお]命の子の大年[おおとし]神と天知迦流美豆比売[あめちかるみずひめ]との間に生れた九神中の第五子。
〔新潮日本古典集成『古事記』(p. 76, p. 388)

◉ 吉野裕子著『祭りの原理』では次のように、まとめてあった。

『祭りの原理』


  • ハハキ神の神名は古事記にもみえており、祈年祭の祝詞では阿須波神と同じく座摩巫のまつる神である。
  • ハハキ神は大神宮大宮地の東南隅鎮座、同じく西北に鎮座の宮比神と相並んで祭祀をうける神である。
  • その宮比神はハハキ神阿須波神の同胞神である庭津日神のことではあるまいか。

〔吉野裕子/著『祭りの原理』(p. 93)

―― これは阪本廣太郎氏の『神宮祭祀概説』を若干の調整を加えて引用したうえで、それを要約したものだ。

○ いっぽう式内社調査報告書の記事に、ハヒキの神は現在の通說では波比伎は灰吹きの意で、製鐵の重要なたたら(ふいご)にちなんだ名稱ではないかとされる。とも、述べられている。

『式内社調査報告 24 』

疋野(ヒキノ)神社

【由緒】 この神社は日置[ヘキ]氏の氏神を祀つたものと考へられ、その盛衰は日置氏とともにあつたやうだ。この日置氏は大化前から玉名地方に下つてきて勢力を廣げ、郡司の地位までになつたとされる。…… また菊池川の上流には日置の地名も現存する。『宇佐大鏡』の伊倉別符についても「件別符は當郡々司日置則利先祖相傳之私領也」とあることで、日置氏勢力の一端を知ることができる。
 菊池川下流域には、銀象嵌銘入り直刀や大陸からの輸入品など數多くの優秀な副葬品を出土した江田船山古墳をはじめ、有力な古墳や古墳群が分布し、肥後においてこの地方が重要な據點であつたことが判明する。このやうな重要な地域で日置氏が强大な力を有してゐた理由には、肥沃な土地と鐵生産といふしつかりした經濟基盤があつたことがあげられる。河口には元玉名から梅林にかけて條里制遺構が認められ古くから生産の高い水田が拓かれてゐたことが知れる。鐵については、これも菊池川の河床の砂鐵が利用されたらうとするが、この玉名市周邊(小代山を含む)に約二十ケ所の製鐵遺跡が確認されてゐる。ここで製作された鐵製品が大宰府へ運ばれ、日置氏-大宰府-中央政府といふルートができてゐたと考へられる。
 以上のことが阿蘇を除いたら肥後においてここだけにただ一つの式内社が出現した理由ではないかとされてゐる。
…………
【祭神】 傳說では祭神は疋野長者となつてゐる。……
 また波比伎神が主神ともされてゐる。この波比伎神については古事記にもみえるが、延喜式では宮中神三十六座の中の一座でもある。…… この波比伎神について本居宣長も『古事記傳』で波比入君[ハイイリギミ]で門より舍屋[ヤノ]內に入るまでを司る神とし、波比伎を灰木とするは非なりと說く。しかし、現在の通說では波比伎は灰吹きの意で、製鐵の重要なたたら(ふいご)にちなんだ名稱ではないかとされる。傳說の疋野長者の前身は山麓の炭燒きといふこともそれを想起させる。
 卽ちこの波比伎神は日置氏の重要な經濟基盤であつた製鐵の神といふことである。
(坂本經昌)
〔『式内社調査報告 24 』(pp. 191-192, pp. 193-194)

◎ 刃物を《サヒ》ともいい、障の神・塞の神・道祖神(さいのかみ・さえのかみ)は境界の神である。そこに〈掃う神〉―― すなわち〈ははく神〉―― の存在も同時に想定されようか。

The End of Takechan

持帚者・掃持 / ハハキモチ


◈ 伊勢神宮の「建久三年皇太神宮年中行事」では、戌亥(西北)に祀られるミヤヒの神と、 辰巳(東南)に祀られるハハキの神が、対(つい)となる方角に、祭祀されていた。その二神と比較研究された、アスハ・ハヒキの神は記紀神話では古事記にしか描かれていないけれども、延喜式の神名帳と祝詞に「座摩巫祭神五座」のうちの二神として登場している。
 いっぽう、《ハヒキ・ハハキ》という音韻に通じる《ハハキモチ》は古事記と日本書紀の両方に、記述がある。

◉ アメノワカヒコの葬儀に、これまた正体不明のキサリモチとハハキモチが描かれ、そのあとの記述で、死人に間違えられたアヂスキタカヒコネが激怒して、

「朋友の道、理相弔ふべし。故、汚穢しきに憚らずして、遠くより赴き哀ぶ。何爲れか我を亡者に誤つ」といひて、則ち其の帶劒かせる大葉刈 〔刈、此をば我里と云ふ。亦の名は神戶劒。〕 を拔きて、喪屋を斫り仆せつ。此卽ち落ちて山と爲る。今美濃國の藍見川之上に在る喪山、是なり。

という次第となる。これは日本書紀「神代下 第九段〔本文〕」の記事である。古事記では、

「我は愛しき友なれこそ弔ひ來つれ。何とかも吾を穢き死人に比ぶる。」と云ひて、御佩せる十掬劒を拔きて、其の喪屋を切り伏せ、足以ちて蹶ゑ離ち遣りき。此は美濃の國の藍見河の河上の喪山ぞ。其の持ちて切れる大刀の名は、大量と謂ひ、亦の名は神度の劒 〔度の字は音を以ゐよ。〕 と謂ふ。

となっている。

アヂスキタカヒコネの剣


◉ 古事記でアヂスキタカヒコネが帯びていた剣は其持所切大刀名、謂大量、亦名謂神度劒。と記述され、日本書紀では其帶劒大葉刈、〔刈、此云我里。亦名神戶劒。〕であった。―― 記紀神話に描かれたアヂスキタカヒコネの剣の名称を、箇条書きにしてみよう。

日本書紀

  • 大葉刈 おほはがり
  • 神戶劒 かむどのつるぎ

古事記

  • 大量 おほはかり
  • 神度の劒 かむどのつるぎ


 両方の神話でほぼ同じ名が併記されていることがわかる。――〝大葉刈・大量〟の語義を〝大刃剣〟とし、またアジスキタカヒコネ(阿遅須枳高日子命)は出雲国風土記の「神門郡(かむどのこほり)」に、二度登場するので、それ故に〝神戸剣・神度剣〟を〝神門剣〟とする解釈がある。

The End of Takechan

◈ ヤマタノヲロチの神話に関連した論考を参照していて、谷川健一氏の『青銅の神の足跡』のなかに、「朝鮮語では刀をカルという。草薙剣[くさなぎのつるぎ]を都牟刈[つむかり]の大刀ともいう。」と語られたあとに、野だたらの炉の炎が空をこがしているありさまという表現があった。

○ さらに別のページにはアジスキタカヒコは、ぴかぴかした金属を思わせる美麗な神という記述もある。

『谷川健一全集 9』

『青銅の神の足跡』
〔初出:1979年06月20日 集英社発行〕
「第一部」
 第一章 銅を吹く人

 伊福部氏は雷神として祀られる
 ここに大葉刈という剣の名が出てくる。これは大きな刃をもつ刀剣と解釈される。朝鮮語では刀をカルという。草薙剣[くさなぎのつるぎ]を都牟刈[つむかり]の大刀ともいう。この刈もまたおなじく刀剣の意である。アジスキタカヒコネは鉄製の利器を所有する神であったことがこれによってもわかる。
 さて、前の引用文では、アジスキタカヒコネは、うるわしい容儀をそなえていて、二つの丘、二つの谷の間に映り渡ったとあり、また、その歌には「み谷二渡[たにふたわた]らす」とある。いくつもの丘や谷に照りかがやく鉄器とは、何を表現する比喩なのであろうか。それは芭蕉の『猿蓑』の中の「たたらの雲のまだ赤き空」という去来の句のように、野だたらの炉の炎が空をこがしているありさまを叙したものではないだろうか。

 第三章 最後のヤマトタケル

 水銀を採取する人びと
 …… アジスキタカヒコは、ぴかぴかした金属を思わせる美麗な神であり、「み谷二渡[たにふたわた]らす」と形容された。これは雷神の雷光を想像させもするが、また野だたらの炎が谷の夜空をかがやかす光景とも受けとれる。……
〔『谷川健一全集 9』(p. 64, p. 134)


◎ 日本書紀には「下照媛」の兄として、
◎ 出雲国風土記に「大神大穴持命御子 阿遲須枳高日子命」
と記録された〈アヂスキタカヒコネ〉は、
◎ 古事記で「阿遲鉏高日子根神者、今謂迦毛大御神者也」と伝えられている。

その所持する十握剣を〈大葉刈〉といい、また〈神度剣〉ともいう。

と、かつて書いたことがある。

◎ 出雲国風土記に記録された〈阿遅須枳高日子命〉の〝泣いてばかりで、ものいわぬ御子〟の物語は、古事記と日本書紀に垂仁天皇の〝ものいわぬ皇子〟の物語として、記述されている。
―― 鳥取部(ととりべ)の名をその記録に留め、または鳥取造(ととりにみやつこ)賜姓の縁起譚ともなった記紀神話の内容は、あらためて参照するとして、アヂスキタカヒコネの〈神度剣〉が喪山を造成することとなった葬送の記事に登場する、掃持(ははきもち)―― 日本書紀では「持帚者(ははきもち)」―― の役割が未だよくわかっていないというのが、いささか気になるところではある。

● そういうわけで、初代の「掃う神(はらうかみ)」に関する資料を探してみた。

The End of Takechan

◈ 平田篤胤の「古史成文〔十九〕」〔『新修 平田篤胤全集 第一巻』(pp. 25-26)、古史成文 一之卷「神代上」〕に、「掃之時成坐神(はらひたまふときになりませるかみ)」という語句があり、その前後の文章が日本書紀「神代上 第五段一書〔第十〕」の記事をもととすることは、「古史徴」〔『新修 平田篤胤全集 第五巻』(p. 295)、古史徵 二之卷下「○ 第十九段」〕に述べられている通りである。

◉ 平田篤胤の論を「古史伝」から抜粋しておきたい。

『新修 平田篤胤全集 第一巻』

古史傳 五之卷

〔十九〕於是伊邪那岐命見畏而。吾不意。到伊那志許米伎。汚穢國矣詔而。逃還之時。…… 乃唾之時。成坐神之名。速玉之男神。次掃之時成坐神之名。豫母都事解之男神。亦名謂大事忍男神。凡二神矣。今世人。夜忌燭一火者。此其緣也。
(コヽニイザナギノミコトミカシコミテ。アレオモハズモ。イナシコメキ。キタナキクニニイタリケリトノリタマヒテ。ニゲカヘリマストキニ。…… スナハチツバキタマフトキニ。ナリマセルカミノミナハ。ハヤタマノヲノカミ。ツギニハラヒタマフトキニナリマセルカミノミナハ。ヨモツコトトケノヲノカミ。マタノミナハオホコトオシヲノカミトマヲス。アハセテフタバシラマス。イマモヨノヒト。ヨルヒトツビヲトモスコトヲイムハ。コレソノコトノモトナリ。)

○ 掃之時。此は何を以て、いかにして掃ヒ給へりと云こと、今知べきにあらねど、若は御衣[ミケシ]の袖にて掃[ハラ]ひ給へるならむか。〔其は今も、心よからぬ物を掃ふとては、然爲ることあるを思フべし。〕
〔『新修 平田篤胤全集 第一巻』(p. 296, p. 300)

―― さて。延宝三年 (1675) の写本が残されている「比婆山三所大権現縁起(比婆山三所大權現緣記卷)」に、

所祭神三座、左事解之男神、中伊弉册尊、右速玉之男神。

という記述がある。島根県の〈久米神社〉を、地元では「比婆山さん」とも、呼ぶらしい。


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神度(カムド)の剣
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神度(カムド)の剣 バックアップ・ページ
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2019年3月1日金曜日

カガミの舟: 海を渡る蛇

○ 吉野裕子著『蛇 ―― 日本の蛇信仰』に《カガミの舟》を考察した興味深い論がある。

『吉野裕子全集 4』

『蛇』〔初刊:1979 年 2 月 法政大学出版局 / 再刊:1999 年 5 月 講談社(講談社学術文庫)〕

 第二章 蛇の古語「カカ」

〈二 カガミ〉
「故、大国主神、出雲の御大[みほ]の御前[みさき]に坐[ま]す時、波の穂より天の羅摩[かがみ]船に乗りて、鵝の皮を内剝[うつはぎ]に剥ぎて衣服として、より来る神ありき。ここにその名を問はせども答へず。また所従[みとも]の諸神に問はせども皆「知らず」と白しき。ここにたにぐくまをしつらく「こはくえびこぞ必ず知りつらむ」とまをしつれば、即ちくえびこを召して問はす時に「こは神産巣日[かみむすび]神の御子、少名毘古那神[すくなひこなのかみ]ぞ」と答へ白しき。…… 故、それより大穴牟遅と少名毘古那と、二柱の神相並ばして、この国を作り堅めたまひき。さて後は、この少名毘古那神は、常世国に渡りましき。故その少名毘古那神を顕し白せしいはゆるくえひこは、今に山田の曽富騰[そほど]といふぞ。この神は足は行かねども、ことごとに天の下の事を知れる神なり」(『古事記』上巻)。

「頃時[しまらく]ありて一[ひとり]筒の小男[をぐな]あり。白蘞[かがみ]の皮以ちて舟とし、さざきの羽以ちて衣として、潮のまにまに泛び到りき、大巳貴[おうなむち]の神、掌中に取り置きて、もてあそびしかば跳りてその頬[つら]をくひき。その物色[かたち]を怪みて使を遣して天つ神に白[まを]しき。時に高皇産霊[たかみむすび]の尊、聞しめしてのりたまひしく、「吾が産める児すべて一千五百座あり。その中に一の児いと悪しくして教養[をしへ]に順はず、指間[たなまた]より漏きおちしはかならず彼[それ]ならむ。宜愛[うべめぐ]みて養[ひた]せ」とのりたまひき。こは少彦名命[すくなひこなのみこと]なり」(『日本書紀』巻一、傍線筆者、以下も同じ)。

 このように同じ「カガミ」の語に対して、『古事記』には「羅摩」の字が宛てられ、『書紀』ではそれが「白蘞」となっている。
 またここにはじめてみえる山田の「曽富騰[そほど]」は、『記伝』によれば『古今集』以下の歌に見える「そほづ」と同じで「案山子[かかし]」のこととされ、これが定説となっている。
 それではこの羅摩(蘿摩)と白蘞は古来、どのように解釈されているのだろうか。
 『和名抄』には、
「芄蘭。本草云蘿摩子一名芄蘭。和名加加美
と見え、『重修本草綱目啓蒙 十五 蔓草』には
「蘿摩。カガミグサ・ガガイモ・チチグサ
山野に最も多し。春旧根より苗を生じ、藤蔓繁延す。…… 茎葉を断ずれば白汁出、夏月、葉間に穂を生ず。長さ一・二寸の小花を開く。五弁にして、形、鈴鐸の如し ……。」
と説明されている。
 一方、『紀』において少彦名命の舟とされている白蘞は、『和名抄』には、「夜末賀々美[やまかがみ]」と訓まれ、『重修本草綱目啓蒙 十五 蔓草』は、これを次のように説明している。
「白蘞。和産なし …… 春、宿根より苗を生ず。藤蔓甚長し。其葉、初生するものは円にして尖り、次に生ずるものは三尖となる。並に鋸歯ありて蛇葡萄[のぶどう]葉に似たり ……」
 神話に登場する二つの「カガミ」、つまり「蘿摩」と「白蘞」は右のように解説されている。……
〔『吉野裕子全集 4』(pp. 56-58)


○ また一方で、焼畑に関する資料に「カガシ(カカシ)」についての次のような記録がある。

『焼畑民俗文化論』

Ⅱ 焼畑系基層民俗文化の実際

「9 害獣との戦い」

  一 猪 〈一 防除法〉
  1 臭気による防除
 猪は嗅覚の鋭い獣である。この猪の性質を逆用して猪を防除する方法があった。その、臭気による猪の防除法を大別すると、1・クタシ系、2・カガシ系、3・カコ系の三種となる。
…………
  ◍ 節分呪法「ヤイカガシ」の起源 ◍
 「ヤイカガシ」は「焼き嗅がし」の意である。ここで想起されるのは、全国各地で節分の日に広く行われる「ヤイカガシ」である。…… 静岡市閑蔵では、樒に鰯の頭を包み、柊、ビンカ、エビ蔓(野ブドウ)を添え、家の主の箸にはさんで揷す。箸も、柳、山椒など木を選ぶ地が多い。
 節分のヤイカガシの発生基盤が焼畑の害獣除けにあったことは、次の諸点によって明らかになろう。 ⑴ 悪臭物を焼き焦がして嗅がせることによって外来の侵入物を遮断、防御する。 ⑵「ヤイカガシ」という共通の名称が見られること ⑶ 境に設置すること ⑷ 静岡市奥仙俣に、椿の葉に毛髪をはさんで立てる形の猪除けが残っているが、ここに、樒の葉に鰯の頭を包む方法の原型を見ることができること ⑸ 箸または箸状のものにはさんで立てること ⑹ 宵の口に焦がすこと などである。節分は、追儺と民間信仰が習合したものと考えられているが、その中の「ヤイカガシ」は、焼畑文化圏で発生した民俗なのである。焼畑農民が、生活経験の中で強臭物を焼き焦がして害獣を防いだ経験から、その方法を住居に侵入する病魔・悪霊を遮断、追放する呪術に応用したのであった。これが、広く、稲作文化圏にも及んだものと見てよかろう。静岡県榛原郡本川根町土本では節分の日、ヤイカガシを作った時に、家の畑一枚一枚に樒の枝を揷す習慣があった。節分のヤイカガシと畑のヤイカガシの脈絡の残存と見てよかろう。
〔野本寛一/著『焼畑民俗文化論』(p. 162, pp. 168-169)

The End of Takechan

◎ 古事記と日本書紀の記述に共通している《海から来る神》と、蛇(セグロウミヘビ)に関する考察をここで参照しよう。―― ちなみに「虹霓虹蜺(こうげい)」という言葉があって、古くは虹を竜の一種と考え「雄を虹、雌を霓・蜺といった」ことが辞書に載っている。

『谷川健一全集 4』

『古代海人の世界』〔初出: 1995 年 12 月 10 日、小学館発行〕

 第一章 古代海人の世界 「三 海霊と海神」
〈海霊から海神へ〉

 威霊であるタマがあり、それがやがて人格的なカミに発展した、という説を折口信夫は唱えている(「霊魂の話」)。常世国から訪れた威霊が、大国主命(大己貴[おおなむち]神)に付着して国土経営の力を与えたが、その威霊がやがて少彦名[すくなびこな]命という人格神になった、と折口は考える。
 大国主命のヌシは、ニジと同じく蛇(類)と語源を一[いつ]にする言葉であるから、大国主の別名、大国魂のタマも、蛇(類)のもつ威霊と無縁ではないだろう。『日本書紀』は、少彦名命が常世に帰っていったあとで、「神[あや]しき光海[うな]に照[てら]して」やってくるものがいた、と記している。大国主命がその正体を問うと、「自分はお前の幸魂奇魂[さきみたまくしみたま]である」と答えた。「どこに住みたいか」と聞くと、「大和[やまと]の三輪山に住みたい」と答えた、とある。
「神しき光海に照して」やってくるものが、ほかならぬセグロウミヘビであることを、私はすでに明らかにしている(『神・人間・動物』)。それが大国主命の幸魂奇魂というのであるが、幸は幸運をもたらす威霊であるから、セグロウミヘビの動物霊が外来の威霊となって、大国主命に付着した、ということになる。三輪山の神が蛇であることは、三輪山伝説が伝えるところである。こうしてみると、大国主命の別称の大国主神、または大国魂神という場合の神は、集団の人格神を強調するために、のちに付加したものであることが分かる。海霊から海神へという観念の発展過程は、この例からも立証できる。
〔『谷川健一全集 4』(p. 320)


〈ミアレの浜〉に依りきたる《海から来る神》


◈ 古事記では、オホクニヌシとスクナビコナが出会ったのは、ミホのミサキであった。そしてスクナビコナが常世の国に去ったあと、オホモノヌシが、スクナビコナと同じように海からやって来る。
◈ 日本書紀では、オホクニヌシは出雲のイササの浜でスクナビコナと出会い、その直前の記述として、出雲の海でオホモノヌシと出会う。

◎ スクナビコナが乗り、出雲の浜に漂い着いた《カガミの舟》とは何か?
 「ミ」は十二支で「巳」であり「蛇」をさす、が ……。
 大和の三輪山に代表される〈ミモロの山〉の「ミ」が神の意であるなら、おそらく出雲の〈ミアレの浜〉の「ミ」も「神」のことであろうし、そうであるなら「御大之御前」の〈ミホ〉も〈ミサキ〉も、神がかりしてくる。すなわち、神や貴人が誕生ないしは降臨する「みあれ」は現代に「御生・御阿礼」と書かれるように、その「ミ」は「御」とも表記される。
 ようするに「御」はそもそも〈カミ〉を意味する「ミ」であったと思われる。
 そして「」は古く清音で「カカヤク」であった。〈カカ〉といい〈カガ〉というのは、〈輝くモノ〉の意であり、それは〈蛇の目〉の表現でもあったろう。
―― ならば。出雲の〈ミアレの浜〉に依りきたる《カガミの舟》の〈ミ〉が、もし〈神〉の意であるなら、それは《蛇神の舟》を意味することになる。

◉ 日本海に面した島根半島のミアレの浜へと、陰暦の十月、アナジの風の吹くころに、金色に光るセグロウミヘビが沖から漂着し、その海蛇が出雲の社(やしろ)の神事で重要な役割をもつという。

出雲の神在月に、海を照らしてやって来る神は、色鮮やかな海蛇であった。



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カガミの舟: 海を渡る蛇
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