2017年10月11日水曜日

ダーウィンと中立的な淘汰 その後

 ダーウィンは『種の起原』で〈自然選択〉と同時にその作用にひっかからない進化について語っています。
 進化というのは、生き物の変化のことです。

 第 4 章「自然選択」の冒頭部分です。この章題は第五版で「自然選択」のあとに「最適者生存」が追加され、文中にある〈自然選択〉の説明文も同様に「〈自然選択〉あるいは〈最適者生存〉」と改められています。
 その説明部分は、もともと次のように記述されていました。岩波文庫から邦訳を引用させていただきますと。

有利な変異の保存と有害な変異の棄却とを、私は〈自然選択〉とよぶのである。有用でもなく有害でもない変異は、自然選択の作用をうけず、不定的な要素としてのこされるであろう。そのことは、たぶん、多型的とよばれる種において、みられるであろう。
〔岩波文庫『種の起原』(上)八杉竜一 訳 (p.108)

 ダーウィンの考察した、有用でもなく有害でもない変異が自然選択では不定的な要素としてのこされるというのは、もっともな話です。自然選択では個体の形質とか表現型と呼ばれるもの、つまり強さや見た目や言動の違いなどが淘汰の対象になるわけです。この表現型の違いが生存条件と無関係だったならば、特に適者でも不適者でもないのです。
 表現型は遺伝子型と環境との相互作用により、また遺伝子型は、遺伝情報の実体である DNA の相違で定まります。
 まったくもって、DNA の突然変異が自然淘汰に中立であれば、自然淘汰では無視されることでしょう。

 現実の事例として、個体の表現型に影響しない DNA の突然変異には、次のようなものがあります。
 タンパク質を構成するアミノ酸には 20 種類があるのですが、それを指定する DNA とはぶっちゃけ 4 種類の塩基の連なりとして、染色体上にあります。
 簡単な説明だと、DNA 塩基 3 個がアミノ酸 1 個に対応しているのですが、セットになった 3 番目の塩基が突然変異で他の種類のものに変化したところで、まったく影響のない場合があるということです。

たとえば、ヴァリンというアミノ酸には四種類の遺伝暗号が対応する。おもしろいことに、第一、第二位置はすべて GT だが、第三位置はアデニン (A)、シトシン (C)、グアニン (G)、チミン (T) という四種類の塩基すべてが存在している。
〔斎藤成也著『自然淘汰論から中立進化論へ』 (pp.131-132)

 つまり 3 番目は、塩基 4 種類のうち、どれでもかまわん、という現実がここにあります。
 どういうことなのでしょうか。
 4 種類のもので、20 種類のアミノ酸を指定するのですが、セットになった 3 つの位置すべてが指定に関わるなら、

  4 × 4 × 4 = 64

で、64 種類のモノを指定できてしまい、2 番目までだと、

  4 × 4 = 16

で、16 種類しか、指定できません。
「オビに短しタスキに長し」とか、いいますが、オビかタスキか、場合に応じて二者択一にするという方法は、有効でしょう。
 3 番目の塩基の違いが大きな違いの場合もあるでしょう。
 一方で、3 番目の塩基はあまり気にならないシチュエーションも遺伝子にあるようです。
 その詳細が気になれば、20 種類のアミノ酸すべてでどうなっているのか、インターネットで調べることも可能かと。
 さらには、アミノ酸の違いが、タンパク質にどう影響するのかも。

―― それはさておき。
 人間の例では遺伝情報の伝達形式として、遺伝子を乗せた「配偶子(生殖細胞)」は「減数分裂」で作られます。
 普通に細胞分裂したのでは、もとと同じものが増えるだけです。
 減数分裂で染色体の数を半分に減らした生殖細胞を、その後、母体中で(もしくは人為的に)合体させればもとの数、という仕組みになっています。
 前回にも ――、こういう生き物を「二倍体」と称すといいました、が。
 二倍体の生き物で、もともとある遺伝子タイプのすべては、子孫へと伝来するわけではありません。
 二倍体の生き物でも、相同位置にある「遺伝子座」に「遺伝的多型」が存在しなければ、いかに「減数分裂」の際に半分しか遺伝子が確保できなくても、もともとある遺伝子タイプのすべては、子孫へと伝来していくでしょう。
 けれど、現実に、遺伝子多型は存在して、その遺伝情報のいずれが配偶子ごとに、選ばれるのかは、偶然によるわけです。

 問題は、つまり、「減数分裂」は「自然淘汰」とはまったく関係のないシステムだということなのです。
 以前に本を読んだ記憶では、まったく省エネルギーなメモリーですが〝ワンペアの染色体が減数分裂ではいったん混ざり合ってから半分になる〟とされていました。
 結局、ありあわせで作られたその「配偶子」の遺伝子構成は、生存に有利なこととは関係なく、定まるのです。
 つまり偶然が、その後に繁殖していく子孫の遺伝子タイプを左右していることになります。
 これが、「遺伝的浮動」と呼ばれて、「分子進化中立説」の基盤となっているようです。

 実際の進化の過程では、生物集団中には常に新しい突然変異が生じており、その多くは有害で、数代の後には集団から自然淘汰により除去される。しかし有害でない、すなわち自然淘汰に無関係(中立)、またはごくまれには有利な突然変異が生じており、これらが進化の原動力となっているわけである。注意すべき点は、中立な突然変異は言うに及ばず、有利なものでも、集団にたった 1 個だけ起こった突然変異について言えば、大部分が集団の中から消失する点である。
 その理由は、生物は繁殖に際して自己の持っているあらゆる遺伝子を、子供に伝えるわけにはいかないからである。もし子供の数が無限大であれば、親の代のすべての遺伝子は子供に伝えられるので、すべての遺伝子は個体レベルでの淘汰すなわち自然淘汰(ダーウィン淘汰)を受けることになる。しかし生物集団は多くの場合、その大きさが代々ほとんど一定に保たれ無制限に大きくなることはないわけで、ある遺伝子が親から子へ伝えられるのは、自然淘汰に有利であっても偶然に依存する。
 脚注
 遺伝的浮動(ドリフト)/ある生物の個体数が仮に無限大であれば、対立遺伝子の頻度はメンデルの法則に従うが、実際には個体数が有現であるために、世代間で偶然的に変動する。これを遺伝的浮動(ドリフト)という。
〔太田朋子著『分子進化のほぼ中立説』 (pp.18-19)

 この分子進化のほぼ中立説では、同じページの本文で、
「繁殖にともなう遺伝子頻度の偶然による変動」
が、遺伝的浮動だと、説明されています。また、その後に短い記述で、中立説の説明が次のようにおこなわれています。

 分子進化中立説(中立説)は、分子レベルの進化の大部分は、「自然淘汰によくも悪くもない中立な突然変異が、偶然、すなわち遺伝的浮動によって集団中に広がり固定することによる」と主張する。
〔同上 (p.28)

 故木村資生の論じた「分子進化の中立説」は、海外でも、注目されています。
 オレン・ハーマン著親切な進化生物学者の日本語版 363 ページあたりにも、そのことが触れてありました。
 ジョージ・プライスがイギリスで研究していたころ、ジョン・メイナード・スミスとの共同研究の直前のことだとされています。
―― その共同研究で、進化的に安定な戦略 (ESS) のモデルが誕生する、前夜のことでした。

 ジョージは最適突然変異率のモデルを研究していた。それは、「木村のものよりはるかにすぐれています」と、彼は先頃ノーベル賞を受賞した MIT のポール・サミュエルソンに書いた。

―― グールドは著作の「日本語版への序」で、次のように記しました。

しかし進化理論の多くの新しい潮流(そのなかでも特筆すべきは、木村資生氏ら日本の集団遺伝学者が発展させた中立説である)が、淘汰主義の支配をうち破り、生物体全体とその成長と相関を進化生物学の中心へと引戻してきたのである。
〔スティーヴン・J・グールド著『個体発生と系統発生』 (p.6)

―― ドーキンスも、「光が投げかけられるであろう」という一文で、次のように詳しく論じています。

 ダーウィン主義的な視点からすれば、中立的突然変異はそもそも突然変異とはいえない。しかし、分子的な視点から見れば、一定の変異速度が分子時計を信頼できるものにするので、きわめて有益な突然変異である。木村によってもたらされた唯一の論争点は、どれだけ多くの突然変異が中立的かという点である。木村は、大多数がそうだと考えており、もしそうなら、分子時計にとって非常に好都合である。適応的な進化については、ダーウィン主義的な淘汰が依然として唯一の説明であり、巨視的な世界(分子のあいだに隠れた世界に対するものとしての)で実際に見られる進化的な変化のすべてとはいわなくとも大部分が適応的で、ダーウィン主義的であると主張することが可能である(私はそう主張したい)。
〔リチャード・ドーキンス著『悪魔に仕える牧師』 (p.135)

―― 続けて収録されている「ダーウィンの勝利」では、同じく日本語版の 156 ページあたりに次の記述があります。

木村資生が〝遺伝的空間における進化的な歩みの大部分は誰にも舵を取られない歩みである〟と言い張るのが正しい可能性はきわめて大きい。…… 木村自身は正しく、自分の「中立説は、形態と機能の進化はダーウィン主義的な淘汰によって導かれるという大切にされてきた見方に対立するものではない」と力説している。

 ドーキンスはこのあと「原注」で、メイナード・スミス経由のこぼれ話を紹介する熱の入れようです。引用部分を箇条書きにまとめますと、

 ダーウィン主義的な視点からすれば、中立的突然変異は …… 突然変異とはいえない。
 木村によってもたらされた唯一の論争点は、どれだけ多くの突然変異が中立的かという点である。木村は、大多数がそうだと考えて〔いる〕。
 適応的な進化については、ダーウィン主義的な淘汰が依然として唯一の説明で〔ある〕。
 実際に見られる進化的な変化のすべてとはいわなくとも大部分が適応的で、ダーウィン主義的であると主張することが可能である(私はそう主張したい)。
 木村資生が〝遺伝的空間における進化的な歩みの大部分は誰にも舵を取られない歩みである〟と言い張るのが正しい可能性はきわめて大きい。
 木村自身は正しく、自分の「中立説は、形態と機能の進化はダーウィン主義的な淘汰によって導かれるという大切にされてきた見方に対立するものではない」と力説している。

 この論点では、「適応的な進化」であるダーウィン主義的な進化と、偶然による突然変異の淘汰を主張する「分子進化中立説」は、かならずしも対立するものではない、ということのように思われます。
 自然選択は「適者生存」で、雌雄選択は「適者繁栄」ならば、分子選択も「たまたまの組み合わせによる伝来」で、どの生き残り方にしたって、それぞれの事情はあるというものでしょう。


淘汰に中立な突然変異(ほぼ中立説): 分子進化中立説
http://theendoftakechan.web.fc2.com/ess/Kimura.html

0 件のコメント:

コメントを投稿