2016年12月28日水曜日

「なるようにしかならない」と思うか「なるようになる」か

日本時間の本日早朝、日米開戦から 75 年後のパールハーバーを、
安倍総理大臣が訪問して献花、真珠湾を〈和解の象徴〉として記憶してほしいと、
世界の現在と未来に向けて発信した。
オバマ米国大統領がヒロシマの地に立ったのは、今年五月のことだった。


 年の瀬に思う。
今年も「なるようにしかならなかった」とか。
或いは「なるようになった」とか。

 実情は、どちらにしても同じことだ。
 この世がそこここ(其所此所)にあり我々はそのすべてをみることはできない。
 世界があるということは、世界は転変するということだ。
 今年があったということは、今年も移り変わったということだ。
 それを否定的な表現で吐露するか、肯定して思うか。
――自他はそこに、あるようにある。それぞれ別の事態があるわけではない。

 事情はいろいろあるだろう。
 実情はどちらにしても同じことだ。浮き世のありように、特別な境地があるわけでもない。
 道元はこれをして。凡愚は大悟を迷う。と、いったかも知れぬ。
 この迷いの結末はいかに……とて。取り出し参照したのは、日本思想大系版『道元』。

『道元 上』正法眼蔵 (しやうぼふげんざう・しょうぼうげんぞう) 」 第一
現成公按 (げんじやうこうあん・げんじょうこうあん) (p.35)

 自己をはこびて万法(まんぼふ)を修証(しゅしょう)するを迷(まよひ)とす、万法すゝみて自己を修証するはさとりなり。迷を大悟(だいご)するは諸仏なり、悟に大迷(だいめい)なるは衆生なり。さらに悟上に得悟する漢あり、迷中又迷(いうめい)の漢あり。諸仏のまさしく諸仏なるときは、自己は諸仏なりと覚知することをもちゐず。しかあれども証仏なり、仏を証しもてゆく。


 常用しているアクセスポイントが例年のごとく明日からしばらく使えなくなる。
ブログに新規投稿するたびお越しいただいているらしき数少ないながらも常連の方々に感謝しつつ来年もまた生きていればこそ。

2016年12月27日火曜日

最初からの満場一致は なんだか怪しい

 ドラッカーの著書に、次のような挿話がある。

 GMのスローンは、「それでは全員の意見が一致していると考えてよいか」と聞き、異論が出てこないときには「では、意見の対立を生み出し、問題の意味について理解を深めるための時間が必要と思われるので、次回また検討することにしたい」といった。
〔ドラッカー名著集 14 『マネジメント[中]』上田惇生訳 (p.124)

 アニメにもなったと記憶するいわゆる 『もしドラ』 を読んだことはないが……。
 ドラッカーの解説書を読んで、理解できたのは、ひとは最善の策を模索しつつ、次善の策しか選択できないからだと、いうことだ。
 すべての視点をもつことのできない人間に、唯一の、という解決策は、おそらくまやかしでしかないのだろう。
 ほかのすべての意思と意見を排除してしまうような、美麗なるオンリーワンの見解には警戒が必要なのだという。
 なにごとであろうと、唯一の選択肢しかないのであれば、次善の策など思いもつかない。
 もしその唯一の選択肢が勘違いだったなら、人類はどうやってそれを取り返そうというのか?
――きっと、それなりに、どうにかはなるのだろうが。

 ユダヤの法に、「満場一致の有罪は無罪に等しい」と、解釈できるものがある。
 その法にはまた、民事事件でない場合、つまり刑事事件の裁判に関しての特別な決めごとがある。
 有罪の判決を取り消して無罪にすることはできるけれども、一度無罪とされた事案の有罪への変更は不可とされる。
 どんなに正当化しようと人間の判断は間違っているという前提が常にある。
 不完全な人間に、完全な、判断は不可能なのだから。という根本的な理解が必然なのだ。
 だから人類はいつだって自分が間違っている可能性を忘れてはならない、のだろう。

――そして。
 最初から否定的立場の表明できかねる、唯一の方法は、全体主義への選択をともなう。


〝全体一致の原理〟の逆理 ―― 満場一致は無効の原則
http://theendoftakechan.web.fc2.com/sStage/unanimity.html

2016年12月24日土曜日

聖夜の奇跡じゃないけども パウリの伝説

 1925 年に、ヴォルフガング・パウリの提唱した原理は、〝パウリの原理〟といわれています。
 〝排他律〟とか〝排他原理〟ともいわれていて、呼称が違う意味はよくわかりません。
 その原理の内容もしかじかにしてよくわからないのですが、たぶん――ですけども、〝パウリの原理〟は内容に〝排他律(排他原理)〟を含む、ということだと、思われます。
――で。英語にも、“Pauli principle”“Pauli exclusion principle” の、ふたつの通り名があるようです。

2 つの電子は全く同一の状態には存在しえないというパウリ排他原理によって、具体的に表される特性を電子波はもっているが、同じことは光子に対しては成り立たない。
〔P.R.ウォレス/著『量子論にパラドックスはない』 (p.36)

――与えられた型のすべての粒子の同一性の原理を “principle of identity” というようです。

すなわち、原子において個々の電子の状態が 4 個の量子数によって指定され(これはスピンの上下の状態をも勘定にいれたことになる)、その一つに同時に 2 個以上の電子が入ることはできないということである。
〔高林武彦/著『量子論の発展史』ちくま学芸文庫 (p.135)

 素粒子の同一性に関係する問題だということは、各資料に共通して解説されています。
 ようするにパウリは、同じ席に、同じ状態の電子は着席できない、という〝排他律(排他原理)〟を唱えたのです。そのあたりは、なんとのう、理解できます。
 ですが、光子は、自己同一性をもたないので、同じ席に無制限に着席できるという話にもなります。
 ここで自己同一性がない、自己同一性をもたないという表現は、区別する理由・手段がない、まったく同じである、ということです。
――
 区別のしようがない粒子の特性である〝粒子の同一性の原理〟を〝自己同一性をもたない〟という表現で説明されると、少々こんがらがることもあるのですが、これは朝永振一郎/著 『量子力学と私』 (岩波文庫)の 「素粒子は粒子であるか」 で用いられているものなのでして、〝個別性をもたない〟という意味で理解すると納得しやすくなります(つまり「ぜんぶ私」)。
 そういうわけで詳しくは『量子力学と私』にありますが、このことから、光子の実験では、例えば、確率の概念に変更を迫られます。

実は以前に、この確率の話は、竹内薫/著 『「場」とはなんだろう』 から引用しておりました。


 投げれば、同じ確率で必ず、A か B のどちらかの箱に入る、ボールを、
二つ用意して、その両方を一度ずつ投げたら、その場合は、

① A と A
② A と B
③ B と A
④ B と B

の、四つの場合に、同じ確率で、入ることになります。
つまり、それぞれの場合は、4 分の 1 ずつの確率になります。

 ところが、これを、ボールではなく、光子の場合で、実験すると、
〝A と B〟の場合と〝B と A〟の場合の区別がつかないので、

① A に 2 個
② A に 1 個と B に 1 個
③ B に 2 個

の、三つの場合に、同じ確率で、入るのです。それぞれ 3 分の 1 ずつの確率です。

 そういうわけで、素粒子に、人類の経験による常識は通じないのです。
 素粒子の常識は人間にとって、常識はずれなのです。
 それやこれやで冒頭にも記したように、〝パウリの排他原理〟の内容は、ほぼわかりません。

――が。伝説となった〈パウリ効果〉とは、そういうのとはまったく違って、
「パウリがいると、実験器具が破壊される。とにかく実験がうまくいかない」
等々と、世の物理学者たちによって、滔々と語り継がれ、伝承されているものです。

 有名な逸話に、旅行中のパウリの乗った列車が近くの駅を通っただけで、実験室の器具が破壊されたという、ありえないが故にまことしやかに語られる〔その尾鰭ばかりが躍動する進化系の物語としての〕説話があります。

 ハイゼンベルクの回想録 『部分と全体』 によると、パウリは学生時代から、そのことを自認していたようです。
 1920 年頃のことです。
僕には実験装置とのおつきあいは一切だめなのだ という、パウリの述懐が、
学生時代のゼミ教室での出来事として、語られているのです。
 パウリは、ミュンヘン大学でハイゼンベルクと同じゼミの、少し先輩なのでした。
 余談として、ユングとパウリの共著 『自然現象と心の構造』 は、因果律に関係するものです。
 1945 年、パウリはノーベル賞を受賞しています。


Pauli : 〝パウリの排他原理〟と〈パウリ効果〉
http://theendoftakechan.web.fc2.com/sStage/Pauli.html

2016年12月21日水曜日

二番では 選ばれる希望は適わない

 多数決の採用というのは、民主主義の根幹となる原則としてです。。
 多数決によって決まったことがらは、自由意思に基づいて、受け入れなければなりません。
 つまり、民主主義というのは、個人の自由意思に対して、多数意見により、制限をかける合議制です。
 そこには多数決に参加するということが、そもそも自由意思によるものであるという前提があります。

 いっぽう、パレート原理は、いかなる個人の意見にも反してはならない、という縛りがあります。
 したがって、パレート原理を信奉する限りは、時に多数決による決定は受け入れ難い暴挙と、なりましょう。

 ところで、現状の選挙制度では、「二番目」では、投票されるための基準に達することができません。
 ただ一票を与えられた有権者は、最も信頼できる候補者を選択するに違いないのですから。
 一番目に選択された候補者でなければ、ほぼというか、投票されることはないでしょう。
 誰にとっても明白に、二番目の実力では、一票すらも、獲得できないわけなのです。

 また選挙での、オンリーワンというのは、ナンバーワンであることの、別表現にほかなりません。
 人気投票のトップである、あかしとしての、特別な。
 他の追随を許さないほどの、能力・実力を発揮できる……唯一の。


Condorcet : 多数決のパラドックス
http://theendoftakechan.web.fc2.com/sStage/Pareto/Condorcet.html

2016年12月19日月曜日

つまり富の再分配は パレート原理に背く

 アマルティア・センは、こう書いている。

パレート最適性の概念は、まさしく分配に関する価値判断の必要をとり除くために生誕したものにほかならない。経済状態のある変化が誰かをよりよい状況におき、かつ他の誰をもより悪い状況におかないならば、その変化はパレートの意味における改善を意味している。ある経済状態において、他のいかなる実現可能な状態への変化を考えても、その変化がパレートの意味における改善となり得ないとき、当初の経済状態はパレート最適である。したがって、パレート最適性は、他の誰 1 人の状態も悪化させずに、誰かの状態を改善する変化を見つける余地がないことを保証しているに過ぎない。富者と貧者の経済状態にどんなに隔たりがあっても、富者の豊穣を切り詰めずに貧者の分け前を高めることができなければ、その状態はパレート最適なのである。
 われわれがケーキを分配する状況を考えてみよう。どの人間にとってもケーキは多ければ多いほど望ましいことを仮定すれば、すべての分配方法はパレート最適であることになる。ある人をより満足させるようにケーキの分配方法を変えれば、他の誰かの満足を必ず減じてしまうからである。この問題における唯一の主要なイッシューはケーキの分配方法なのだから、パレート最適性はこの論脈では完全に無力であることになる。ひたすらパレート最適性のみに関心を集中してきた結果として、せっかく魅力的な研究領域である現代厚生経済学が、不平等の問題の研究にはあまり関連性をもたないものとなり果てているのである。
〔アマルティア・セン/著『不平等の経済学』鈴村興太郎・須賀晃一/訳 (p.10)

 パレート原理は、全員一致の選好が社会的判断にそのまま反映されるべきことを求めるところから、「全員一致のルール」 (unanimity rule) のことだと解されがちである。ただし、いま問題にしている全員一致は選好全体についてのものではなく、一つのペアだけに関する一致であるから、この解釈は誤解を招きやすい。そこでそのルールの要求事項を次のように弱めたものを、「全員一致のルール」と呼ぶことにしたい――〔あらゆる選好についてではなく〕社会状態の集合全体に関して全員が同一の選好を示すならば、社会的判断はこの選好をそのままの形で反映すべきである、と。
〔A.セン/著『合理的な愚か者』大庭健・川本隆史/訳 (pp.43-44)


 そういうわけで、パレート原理とは、簡単には次のような概念によって、示すことが可能となる。

※ その社会ないし集団の誰も現状から悪くならない前提で、少なくとも 1 人が良くなる。

 これは、パレート改善の内容に一致する。
 これに対して、弱く解釈したパレート原理とは、いわゆる全員一致の原理ともされるようだ。

※ 構成員全体の総意を、その社会ないし集団が選択する。

 ここのところに、問題が潜むわけだ。
 富の再分配は、少しの利得さえ渡したくない勝者からも、奪い、敗者に分け与える。
 これは、単純に、パレート最適な状態からの、変更であり、パレート改善ではない。
 したがって、パレート原理から離れない限りは、勝者による寄付のみが、富の分配を可能にする、と思われる。としか、どうにも思いつけない。
 そのように、いまのところ、理解できたという次第……。


Sen : リベラル・パラドックス
http://theendoftakechan.web.fc2.com/sStage/Pareto/Sen.html

2016年12月17日土曜日

グーグルブックス の奇妙な検索結果

 前回、ケネス・アローの 『社会的選択と個人的評価』 の初版においての、〝パレート原理〟という語の記述の有無について調べていて、妙なことに遭遇したので、今回、その詳しい経緯を記すことにする。

 実は最後になってから、PDF ファイルを Google 検索 した。
 検索の、キーワードは、次の通り。

Social Choice and Individual Values pdf

 この検索結果の上位 2 件が、次の通りであった。


[PDF] Social Choice and Individual Values - Cowles Foundation for ...
cowles.yale.edu/sites/default/files/files/pub/mon/m12-2-all.pdf
▼このページを訳す
COWLES FOUNDATION for Research in Economics at Yale University. SECOND EDITION. Social Choice and. Individual Values. Kenneth J. Arrow. John Wiley & Sons, Inc., New York • London • Sydney ...

[PDF] Social Choice and Individual Values - Cowles Foundation for ...
cowles.yale.edu/sites/default/files/files/pub/mon/m12-all.pdf
▼このページを訳す
into the hands of a single individual or a small group alone deemed qualified. The classification of methods of social choice given here corresponds to Professor. Enight's distinction among custom, authority, and consensus, except that I have.


 リンクをクリックすると、2 件目が、初版のファイルであることがわかる。
 そうしてその 96 ページは、“REFERENCES” の最終ページであることが、確認できる。

 一方、その前に、Google ブックス で、次の検索結果を得ていた。
 その結果の記載をよく見れば、最後のほうに「版 2 」とあるので、2 版の内容が表示されているものと、思われる。
 けれども、その他の情報はほぼ、初版の内容に即したものとなっているようだ。
 Google ブックス における事情がよくわからないので、一応、その 96 ページの表示内容をテキスト化して、参照としておいたが、これは、2 版の 96 ページの記述内容に相当する。
 2 版は 1963 年の刊行で、PDF ファイルでは 124 ページまである。
 混乱させられる検索結果だったため、その表示内容を、以下に記録しておきたい。
 1 行目の記述が、検索条件である。


Arrow "Pareto principle" 期間指定: 1951-1951 年

Social Choice and Individual Values
Kenneth Joseph Arrow
Wiley, 1951 - 99 ページ

この書籍の 5 ページで Arrow "Pareto principle" が見つかりました
96 ページ
97 ページ
98 ページ
検索結果1-3 / 5

書誌情報
書籍名 Social Choice and Individual Values
Cowles commission for research in economics: Monograph 第 第 12 号 巻
Monograph / Cowles Foundation for Research in Economics at Yale University / Cowles Foundation for Research in Economics: Monograph 第 第 12 巻 巻
Monographs of the Cowles Commission for Research in Economics 第 第 12 号 巻
著者 Kenneth Joseph Arrow
版 2
出版社 Wiley, 1951
書籍の提供元 ミシガン大学
デジタル化された日 2010年1月13日
ISBN 0300013639, 9780300013634
ページ数 99 ページ

2016年12月15日木曜日

公正な社会は関係ない 厚生経済学至上主義

 2800 年前のことだとも、風の噂に聞き及ぶ。
 ふたりのあいだのケーキ分割問題にはすでに解答が出ていたようです。
 比較的公平な方が分け、比較的貪欲な方が選ぶ、というものです。

これを、間違えて、いもうとにケーキを切らせ、おねえちゃんに選ばせると、
「おねえちゃん、ずるい。そっちは、あたしの!」などと、クレームが起きかねません。

そういう公正の理念は、さておき、各種文献を読んでおりますと、
〈パレート原理〉に反しないための厚生主義というのがあるようで、
各個人の取り分(分け前)を現状より下げないように気をつけつつ、
組織ないし社会全体の分配可能量を上げていくとするなら、
どうしても、不公平さには目をつぶらなければならないようです。

 そもそもに、その パレート原理 の正体ですが。
 ようやく見つけた、パレート原理 のわかりやすい説明 としては、
社会の構成員全員が一致してある社会状態を選好するならば、社会全体にとってもその状態を選択するのが望ましいと判断されなければならない
という、長沼健一郎氏によるものがあります。
〔「〈書評〉 政策評価とパレート原理」『日本福祉大学経済論集』第 24 号 (p.200) 脚注〕

 この説明だけを読むなら、特段の問題も感じられませんけれども、これをつきつめていくと、あたかも社会厚生の政策が困難窮まる様相となり果てていくがごとしなのです。
 そこで、パレート原理を優先 させようとする政策を、厚生経済学至上主義 ともいうようです。
 脚注を引用させていただいた上記〈書評〉には、199 ~ 201 ページで次のように語られています。

 本論文は「いかなる非・厚生主義の方法による政策評価も、パレート原理に違背する」と題され、論文の趣旨・結論を端的にあらわしたタイトルとなっている。すなわち何らかの政策を評価する際には、厚生主義 (welfarism) ――その政策が個人の「厚生」 (welfare/well-being) に及ぼす影響如何――“のみ”により評価を行うべきであり、「公正」 (fairness) の観念をはじめとする別個の要素を独立して勘案すべきではない(排除すべきである)。そうしないとパレート原理に抵触し、個人の厚生を損ねる (worse off) 結果となってしまう、というものである。

 経済学者の中にも、厚生主義とは別の要素を政策評価の手法に組み入れる論者がいる。たとえばマスグレーブは社会的厚生の指標として水平的公平を取り入れ、またA・センは個人の効用よりは「潜在能力 (capabilities) 」に着目すべきだとしている。実際多くの論者は、公正や正義など、個人の効用以外の独立した要素を社会厚生関数に勘案することを認めている。
 しかしながら、このような非・厚生主義 (non-welfarist) による政策評価(いいかえれば、非・個人主義的な社会的厚生関数)においては、パレート原理に違背する事態が生じる。すなわち個々人の効用以外の要素を勘案すると、その社会の構成員の効用を悪化させる事態につながるのである。このような、個人の厚生と、(それとは離れた)社会的厚生 (social welfare) というコンセプトとの緊張関係は、意外に深刻である。社会的厚生を追求することが、その社会の構成員“全員”の効用を低下させてしまうこともあるからである。

 これらの諸問題は、〈アローのパラドックス〉ともいわれる〈一般可能性定理〉に端を発するようですが、それは民主主義がもしかすると〝夢想〟なのではないかとも疑われかねないパラドックス――〈投票の逆理〉が根本のテーマとなっているようです。
 アロー (Kenneth Joseph Arrow) は、〈不可能性定理〉とも称されるそれの証明を行なったのですが、最初の証明は〈一般可能性定理〉の成立が一般的な状況では不可能であることがじきに証明されてしまいました。
 その次第がごっちゃになって、「一般不可能性定理」と、つい間違って覚えてしまいました。
 その後、1963 年にアローは著書の第二版で〈一般可能性定理〉の証明に修正を施していますが、その修正証明には、日本の村上泰亮(むらかみ やすすけ)などの論文が援用されています。


Arrow : 一般不可能性定理
http://theendoftakechan.web.fc2.com/sStage/Pareto/Arrow.html

2016年12月12日月曜日

イソップ物語 パレート最適なキツネの活躍

 前回、「ケーキ分割問題」を持ち出して、実はうっかりというか〝イソップ物語〟までも思い起こしてしまったのです。あの有名な〝パレート最適なキツネ〟の物語です。
 同等のお話が〝ハンガリー民話〟としてもあるようですが、ここに、猫が脇を固めるイソップ版をもとに脚色してみましょう。さてさて……

 二匹の猫が、けんかをしています。
 いつもは仲良しなのに、見つけたごちそうの、取り合いを始めたのでした。
 けんか、といっても、くちげんかなので、流血騒ぎにはなりません。
 そこへ、通りすがりの、パレート最適なキツネが横車を思いつき、公平に分けてやろうと、口車。
 天秤のはかりを、もってくるようにいいつけて、自分でごちそうを二つに分けました
 そうして天秤のお皿の左右に乗せると、きっちりと、その重さを比べてみま
「あれあれ、右のほうが、重いぞ」ぱくり、右から少し減らします。
「今度は、左のほうが、重くなっちまった」ぱくり、左からちょっと減らします。
 ぱくり、ぱくり。というのは、公平なキツネが、どんどんごちそうを減らしていく擬音です。
 猫たちは、勝手にごちそうを食べていくキツネをあっけにとられて見ているばかり。
「あれれ。こんなに、小さくなってしまっちゃ、もう上手に、はかれやしない」
 ごちそうはもう豆つぶほどの、大きさです。キツネは、猫たちをかわるがわるに見つめます。
「しかたがないから、おじさんが、すっかり片づけてあげよう」ぱくり。
 はい。ごちそうさん。
 パレート最適なキツネに、ほんとは公平さなど、なかったのです。
 どんな理不尽でも、全部なくなれば、〈パレート最適〉なのですから。

 ↓ 〝ハンガリー民話〟版の内容も、こちらに引用させていただきましたので。

イソップ物語:パレート最適なキツネの話
http://theendoftakechan.web.fc2.com/sStage/Pareto/Aesop.html

2016年12月10日土曜日

パレート原理からの「ケーキ分割問題」

 どうも〝パレート原理〟というのが、よくわからなかったので、調べてみた。
 それ以前に「パレートの法則」というものを「二八そばの法則」と覚えていた。
 二割が八割を牛耳るという内容だったかと、記憶する。そばはこのさい関係ない。

 そういう権威の名を冠する、経済の〝原理〟であるが、こちらは後世に成立したもののようだ。
 イタリア人パレート (Vilfredo Federico Damaso Pareto) は、つまり〝パレート原理〟を死ぬまで知らなかったと思われる。
 無論、死後にも、死んでいるので知りようもない。

 しかしながら、その〝原理〟は「厚生経済学」の基本定理にかかわるものらしい。
 そのあたりを研究したアマルティア・セン (Amartya Kumar Sen) は、ノーベル経済学賞を受賞した。
 センが証明したのは 『岩波 哲学・思想事典』 (p.1292) を参照すれば次の如くだ。

パレート原理と最小限の自由(誰もが個人的なことについては自己決定することができるということ)の保証とを同時に満足するような社会的決定は不可能だということである。

 ちなみに、どれほど不公平な結末でも、
〝ケーキが全部食べつくされた状態を「パレート最適」というらしい が……。
 なんだか途方もない「ケーキ分割問題」がこの奥にあるみたいな気がする。


パレート原理
http://theendoftakechan.web.fc2.com/sStage/Pareto/index.html

2016年12月7日水曜日

1949年 教皇による『創世記』と〈進化論〉の研究の奨励

1633 年、有名な裁判でガリレオは有罪とされた。
1665 年、ロンドン王立協会を拠点としたオルデンバーグによる科学雑誌、
『フィロソフィカル・トランザクションズ』 “Philosophical Transactions” が刊行された。
これは新大陸アメリカをも含めた、郵便による科学文献のネットワーク化であった。

 約百年を経て、アメリカ合衆国が「独立宣言」をしたのは 1776 7 4 日だ。
 新たな百年を経て、「南北戦争」が戦われたのが、1861~1865 年の間のことになる。
 ちなみに、ペリーによる日本のいわゆる「開国」は 1854 年のことだ。
 明治維新は 1868 年である。日本はこれを「文明開化」といった。
 そうして〝電信〟が、大陸から日本にもつながった。
 ようするに「文明開化」というのは世界がネットワーク化していく過程の出来事だ。
――その情勢のただなか。

 1859 年、ダーウィンが 『種の起原』 を発表した。
 その後アメリカで〝聖書の無謬性〟を主張するキリスト教「原理主義」の運動が激しいものになったのは、〈進化論〉と対峙するためであったとしてもさして不思議はなかろう。
 1910~1915 年に出版された “The Fundamentals” というパンフレットが、「原理主義」という名称の由来とされる。
〔参考:越後屋朗「アメリカの原理主義における聖書理解」『ユダヤ教・キリスト教・イスラームは共存できるか』所収
 その教義は、科学的に実証できない〈進化論〉を『聖書』の教えに反するとして、学校教育からの追放を主張すると聞くが、カトリック教会の総本山であるバチカンでは、少し事情が異なるようだ。
『新カトリック大事典』 第 3 巻 (p.378) 「進化論」の項には、北原隆氏により、
 1949 年、教皇ピウス 12 世が回勅『フマニ・ゲネリス』において、公に進化と神学の関係の研究を奨励することになる。と記述されている。

 1969 年――それはさておき、米国国防総省によるインターネットの起源は、その年とされている。

2016年12月5日月曜日

さすれば 人生すべて塞翁が馬

 日本のことわざにも「吉凶は糾 (あざな) える縄の如し」とあります。

 これは 『広辞苑』 第六版 に「あざなう」の項で、載っています。
 表題にある塞翁 (さいおう)」「辺境の砦に住む翁。北の翁。」との説明につづいて、

塞翁が馬
淮南子 人間訓 塞翁の馬が逃げたが、北方の駿馬を率いて戻って来た。喜んでその馬に乗った息子は落馬して足を折ったが、ために戦士とならず命長らえたという故事。人生は吉凶・禍福が予測できないことのたとえ。塞翁失馬。「人間万事塞翁が馬」

と解説されています。
 以前から、このたとえ話を、「いちいち一喜一憂するは愚かなことだ」と、解釈していたのですが、このほどどうやら、「いちいち一喜一憂するのが人間だ」と、思うようになった……のは如何かと。
 それがどうした、といわれたらそれまでですが。

さうすれば新しい〝入口〟だけ作り、「淮南子 (えなんじ) 人間訓」の一部を引用しておきませう。

Principles II :(原理のページ 第二期)
http://theendoftakechan.web.fc2.com/sStage/index.html

2016年12月3日土曜日

問題解決の方策 補足及び修正

 かつて、こう書きました。…今回はその補足と修正です。

1923年 ド・ブロイ 「物質波」 (2016年10月3日月曜日)

 絶対矛盾の自己同一として、………… 神がおのが像に似せて人間を作つたとも云はれる所以である。我々の身体といふものも、既に表現作用的として、超越的なるものによつて媒介せられたものであるが、作られて作るものの極限に於て、我々は絶対に超越的なるものに面すると云ふことができる。そこに我々の自覚があり、自由がある。我々は歴史的因果から脱却し得たかの如く考へるのである。
新版『西田幾多郎全集』第八巻「人間的存在」 (pp.290-291)

 ここで、「神がおのが像に似せて人間を作つたとも云はれる所以である」の「所以(ゆえん)」というのは、「理由・わけ」なので、「その前に提示した理由から、このようにいわれるのはもっともだ」という文脈とあいなります。
 で、その理由というのが、「人間は所謂創造物の頂点である」という一句と解釈されます。
 その一句にある「所謂(いわゆる)」というのは「世間で言われている」という意味なので、まとめますと「人間は世間でいわれているように創造物の頂点なので、神に似せて作られたといわれるのも、もっともな話である」という、意味内容となります。
 どうやら、モンテーニュ式の「人間が神を自分に似せて作った」という〈哲学的〉解釈は、世間の流行からは出なかったもようです。そしてモンテーニュはどうだか知らぬが、自分の意見は〈世俗的〉な多数意見から見てもそうであると、そういうことになりましょうか?
 このあたりが、少々乱暴な理論展開であるように、思われるのです。――自戒を含めて。

 ひとまずは、これにて。

 ……と、そう締めくくりましたが、西田幾多郎はその後、最後の完成論文で、

宗教と云へば、非科学的、非論理的と考へられる、少くもそれは神秘的直観と考へられる。神が自己に似せて人間を作つたのでなく、人間が自己に似せて神を作つたとも云ふ。
新版『西田幾多郎全集』第十巻「場所的論理と宗教的世界観」 (p.295)

と、記述していますので、今回、そのことを補足させていただきましょう。
 そうして実はもうひとつ、ずっと気がかりなことがあったのですが、ちかごろ、ようよう解決の方策が見えてきました。
 それは〈時間の矢〉についての疑問です。
 便利な解釈が、ただのツジツマ合わせにならぬように、気をつけたつもりではあります。

物質的世界に於ては、時は可逆的と考へられる。生命の世界に至つては、時は非可逆的である。生命は一度的である、死者は甦らない。
新版『西田幾多郎全集』第十巻「場所的論理と宗教的世界観」 (p.298)

 この個所を最初に見て以来、前後の文脈も含めてこの文章の時は可逆的という記載に不自然さを感じていました。
 だから以前、後悔するのを覚悟で次のように書いたのです。

一即多(いっしょくた) (2016年8月26日金曜日)
 話は変わるが、アインシュタインが、1905 年の〝特殊相対性理論〟を発表した年に、別の論文で言及していることがある。
 〈ボルツマンの原理〉 という。ボルツマンの墓には、〈ボルツマンの方程式〉 が刻んである。
 熱力学の 〈エントロピー増大の法則〉 にかかわるものである。
 ちなみに、〈ボルツマンの方程式〉は、量子論の元祖でもあるプランクが、最初に作成している。
 この、〈エントロピー増大の法則〉は、熱力学の第二法則であり、宇宙はいずれ「熱死」する、という結論を導くものだ。
 だからそれは 〈涅槃原則〉 ともいわれる。
 ひらかなで「ねはんげんそく」、英語は “nirvana principle” である。
 すなわち――。
 時間が、一方通行なのは、「生命」の特権ではない。宇宙全体の〈原則〉なのである。
 ところが、この〈エントロピー増大の法則〉は、物理学を基盤とするはずの西田哲学には含まれないようだ。
 だから、〈時間の矢〉 により繰り返しがきかないのは、「生命」に限って語られることになる。
 西田幾多郎はまた、〝時空の相対性〟を「時間と空間はたがいに相対する」と解釈したりもする。
 西田哲学の基礎となる論理構成が正しいとする前提に立てば、理解が困難になるのは、もっともな話だと思われる。
 西田幾多郎が築いたものはすごいと思う。けれども人間なのだし、欠点もあるのだ。

 ……と、これまたそう決めつけたものの、西田幾多郎はそれ以前に「熱力学」を知っていたはずだし、真意はいずこにあるのだろうと、そのことについてもまた、ずっと不思議に思っていたものです。
 さすれば、こう読み解いてみましょう。
 この場合の「物質的世界」とは「幾何学的空間」のことであると。

然るに物理的世界と云ふのは、何処までも一の自己否定的多として空間的なるが故に、その自己自身を限定する形と云ふのは、数学的たらざるを得ない。物理現象的関係、力の関係は、何処までも数学的に把握せられねばならない。遂には非直観的と考へられるにも到るのである。併し物理学は何処までも幾何学となるのではない、力学は運動学でもない。
新版『西田幾多郎全集』第十巻「物理の世界」 (p.32)

 空間とは如何なるものであるか。私が此処に問題とする空間とは幾何学的空間を意味するのではない、実在的空間をいふのである。空間といふのは、時と正反対に考へられるものである。空間に於ては物は同時存在的である。空間は物と物との可逆的関係である。物が同時存在的であり、物と物との関係が可逆的であるといふことは、時を否定することである。併し時を否定した実在的空間といふものがあるのではない、実在的空間は時間的なるものを包むものでなければならない。
新版『西田幾多郎全集』第七巻「行為的直観の立場」 (p.86)

 この「幾何学的空間」とは、ニュートンの運動方程式に基づいて計算できる「力学的作用」の考察可能な世界です。
 ここで西田幾多郎は、「実在的空間」=「物理的空間」は、そういうただの「幾何学的空間」ではないとしています。
 たとえば実際の宇宙というか世界で、〈生命〉の生滅するさまを見れば、そこでは時間が一方通行なのは当然となり、ひるがえって、〈物質〉の生滅もまた、非可逆的だと知られるのでした。
 実際〔彼の論文をよく読めば〕、西田幾多郎は熱力学の〈エントロピー〉について、最後の完成論文 (昭和二十年 (1945) 「場所的論理と宗教的世界観」) の直前に書かれた論文で、「非可逆的」世界の肯定として言及していたのです。

そこには、時は何処までも空間面的である。併しそれでも世界は作られたものから作るものへと、絶対意志的に非可逆的である。そこに世界は自己自身の実在性を有つのである(世界はエントロピー的である)。
新版『西田幾多郎全集』第十巻「生命」 (p.258)

 ボルツマンという記述はそれ以前の昭和十三年 (1938) にあります。

(それでも物質的要素を無数と考へるならば、ボルツマンの如く自然の非可逆性といふことを考へ得るであらう)。
新版『西田幾多郎全集』第八巻「歴史的世界に於ての個物の立場」 (p.320)

 結局、幾何学的と考察される空間はニュートン力学的に可逆だが、物理的である空間はそうではなく時間的でもあるので、非可逆である。
 そこで西田哲学の「空間的時間・時間的空間」という概念が、この解決のバトンを渡します。
この解釈は如何かと。


抜き書きと まとめのページ:周縁ないしは境界なき超越
http://theendoftakechan.web.fc2.com/atDawn/transcend/rim.html