2015年8月27日木曜日

ガリレオの望遠鏡

ガリレオが開発した天体望遠鏡は、悪魔の発明と恐れられ、世の自然哲学者たちから忌み嫌われた。
ガリレオの失敗とは何だったのか?

ひとは、見たくないものは、見たくないのだし、だから見えないのだし、
かりに見えたとしても、ちゃんと認識できないのであって……、と、いうことに尽きるようだ。
そのことは、それを嘆いたガリレオにしても、同様に思われた――。

人間は自然を、結局は見たいようにしか、見てないのだろうし、見えてないのであろう。

『コペルニクス的宇宙の生成 Ⅲ』 に、詳しい説明がありましたので、その引用文にて。

 ⇒ ガリレオの望遠鏡


覚え書き
 そのための、新しいインデックスページに、これまでの主な文献登場人物の生没年を、時代に従ってまとめてみました。
 それと、このブログへの逆リンクをトップページと、マップページに、設置しました。


ガリレオの望遠鏡
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2015年8月21日金曜日

『デカルトの誤り』及び養老孟司『唯脳論』での推論

アントニオ・R・ダマシオ『デカルトの誤り』という本で、

デカルトの誤りを一つだけ選ぶとすれば、デカルトの〈どの〉誤りを選ぶべきかが、考察されて、
『方法序説』にフランス語で “Je pense donc je suis” と書かれ、あるいは、
『哲学の原理』にラテン語で “Cogito ergo sum” と書かれた、あの有名な
「我思う、ゆえに我在り」が選ばれるべきだろうというようなことが、記述されているが、

「『原理』では ego cogito, ergo sum (私は考える、ゆえに私はある。第一部七節)」

という、山田弘明『方法序説』ちくま学芸文庫 (P. 235) の「訳注」は残念ながら、
彼らには遅すぎたようだ。

この件は、日本のウィキペディア「我思う、ゆえに我あり」にも掲載されており、
日本の読者なら、そのラテン語の誤りは、その気になればすぐにでも調べがつくはずだ。

どうやら著者は
R. Descartes (1637). The Philosophical Works of Descartes, rendered into English by Elizabeth S. Haldane and G. R. T. Ross, vol. 1, page 101. New York: Cambridge University Press (1970).
を参照したようだが、あいにく、その該当箇所を確認するには至っていない。
そういえば、コピーライト表示のページの原書名にも、ささやかなエラーが見受けられた。


そういえば――ということで、ついでに養老孟司『唯脳論』の勘違いにも言及しようとして、
まったくの悪口になるはずが、こちらはどういうわけか、
「調べなかったがゆえの、前進」を発見することになり、
「デカルト自身は、自らの出版物に “Cogito, ergo sum” と書いたことは一度もないようだ」
と知っていたなら、とてもこのように見事な論説は不可能であっただろう、という、ようわからん結論に現在は至っている。

そういえば――ということで、夏目漱石の『吾輩は猫である』にもデカルトは出現していた。


 そんなこんなで、デカルトの「コギト」について、自分なりに資料をまとめてみました、とさ。


デカルトの「方法」
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デカルト 「第一原理」
http://theendoftakechan.web.fc2.com/nStage/Descartes.html

2015年8月14日金曜日

自然の光 という自然哲学的思想

自然神学と自然哲学との関わりから、

2015年7月1日水曜日
謂ゆるスピノザの「神即自然」というガラパ学説 について

2015年7月8日水曜日
《知は力なり》という学説 というより慣用句

という表題でこの場に文章を書いてから、はや、ひと月以上が経過して、

スピノザが論点とした、デカルトの「思惟」と「延長」について、
あるいは、ベーコンやデカルトが、拠り所としようとした「自然の光」について、
もしくは、打ち破ろうとしたアリストテレス主義というものについて、

『アリストテレス全集』の解説でも触れられていたボエティウスから、

トマス・アクィナスに続く道が、ようやく見えてきたような感じです。

それに加えて、イスラム経由のアリストテレス哲学がなぜ危険視され、異端視されたか、
その理由もある程度、明確化された記述にも、行き当たることができました。

ぶっちゃけ、新しい思想は、その完成度が高ければ高いほど、
危険視され、排除されようとする、ということのようです。
それは、つまり、
旧(保守)勢力の既得権益がそれだけ阻害され、破壊されてしまう危険性が高くなるためなのです。

そしてそれと同じことは、アリストテレスがキリスト教神学の礎となった後[のち]にもまた、
繰り返されることになったのです。

異端視される者たちは、現在のように刷新された当時と同様の思想を「新しい言葉」で語り、
それが受け入れられた後には、もっと「新しい言葉」で語られた彼らの思想を、
異端として、敵視してしまうようなのです。

トマスもベーコンもデカルトも、「神の知」と「人の知」について、
結局は、同じことをいっているように思われます。

――すなわち、ひとは思い上がってはいけない、と。

デカルトの言葉を、『デカルト著作集 3』(P. 77) から引用してみましょう。

 しかし、他のすべてに先立って、最高の規則として記憶に銘じておかなければならないことがある。それは、神によってわれわれに啓示されたことは、すべてのうちで最も確実なものであると信じなければならないということである。そして、たまたま理性の光が何かそれとは他のことを、このうえなく明晰で明証的なこととしてわれわれに暗示するように思われることがあっても、われわれ自身の判断によりもむしろ神の権威のみに、信を置くようにすべきである。~~。  〔第一部 76〕


ちなみに、トマス・アクィナスは『神学大全』第 3 問第 2 項で、「延長的量」に言及しており、

「延長的量」quantitas dimensiva とは、縦、横、高さの三次元に拡がる量である。
という解説が訳者により施されています。


〔再 (7月1日)〕 スピノザ ―― 《 自然という書物 》
http://theendoftakechan.web.fc2.com/nStage/LiberNaturae.html

〔再 (7月8日)〕 ベーコン ―― 自然の光 1
http://theendoftakechan.web.fc2.com/nStage/Bacon.html

自然の光 2
http://theendoftakechan.web.fc2.com/nStage/LumenNaturale.html