2021年12月25日土曜日

ミトラス教と冬至の救世主伝説とマギ

 その昔、ローマ帝国では、

274 年に、アウレリアヌス帝が太陽神の宗教を国教化し、

12 月 25 日「不敗なる者の生誕の日」(Dies Natalis Invicti) が国の祭日とされて、

これが、クリスマスの起源となりました。


 当時のローマ周辺で、太陽神の宗教であるミトラス教が盛んだったのです。が、

その後、コンスタンティヌス帝は政治的な理由で、キリスト教徒を弾圧するのはやめて、

313 年に「ミラノ勅令」によりキリスト教信仰の自由を保証。

325 年に「ニカイア公会議」を招集。


 そしてついに「ニカイア公会議」の結果を得て、

354 年には、ミトラス太陽神誕生の日と伝承される冬至が、キリストの誕生日として制度化されたようです。


12 月 25 日は「不滅の太陽の生誕日」(Natalis Solis Invicti) とも、いわれています。


 やがてローマ帝国を再統一したテオドシウス帝が、キリスト教をローマの国教にしたのは、392 年のことでした。


 ◯ ここに登場する〈ミトラス神 (Mithras) とは、

ゾロアスター教では〈ミスラ (Mithra) とも〈ミフル (Mihr) ともいわれ、

インドの『リグ・ヴェーダ』では〈ミトラ (Mitra) と、呼ばれる神のことになります。


 そしてローマの「ミトラス教(ミトラ教)」は、『プルタルコス英雄伝』に最初の記述があります。

―― 引用します。



ちくま学芸文庫

『プルタルコス英雄伝』

〔プルタルコス/著 村川堅太郎/編 1996年10月09日 筑摩書房/発行〕


ポンペイウス 〔吉村忠典/訳〕

 (p.94)

また彼らはオリュンポス(1)で異国風の犠牲式をとり行ない、さまざまな密教の祭祀をも行なったが、なかんずくミトラ教は、彼らが最初に輸入したもので、今の世にまで伝えられている。

 (1) 有名なオリュンピアでもオリュンポス山でもなく、小アジア南岸のリュキア地方にある小邑。



 ◎ この記述の前後に「ミトリダテス戦争」と呼ばれる戦争の様子が描かれており、それは紀元前 1 世紀のこととされています。



中公新書 2523

『古代オリエントの神々』

〔小林登志子/著 2019年01月25日 中央公論新社/発行〕


 第一章「 4 ミトラス神 ―― 変容した太陽神」

 (pp.86-87)

 前一世紀前半には、アナトリアの地中海岸、特にその東部に位置したキリキア地方には海賊たちの拠点があった。多くの海賊たちの出自はヘレニズム諸王国の軍人たちであって、彼らが仕えた王国は紀元後一世紀までにはローマ帝国領に組み込まれてしまい、軍隊は散り散りになってしまう。敗残兵たちの中には身分の高い、教養のある者もいたが、アナトリア高原の盗賊や地中海東部の海賊となりはて、ローマ軍と戦った。

 中でも、ポントス王国(前三世紀前半~前六四年)のミトリダテス六世(在位前一二〇~前六三年)はローマのアジア侵攻に抵抗し、しぶとく戦った。この戦いはミトリダテス戦争(前八八~前八五、前八三~前八二、前七四~前六四年)と呼ばれ、三次にわたる長期戦だった。一時は挽回したものの、ポンペイウスの前に敗退し、ミトリダテスは自殺した。



 さて、新約聖書の「マタイによる福音書」で星に導かれてエルサレムにやってくる

占星術の学者たち》というのは、ラテン語聖書では《 Magi 》と書かれていて、

原典のギリシャ語聖書では、《 μάγοι 》と記述されています。



『聖書 新共同訳』

 新約聖書「マタイによる福音書

2. 1-2

 (p.2)

 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」



『ギリシア語 新約聖書釈義事典 Ⅱ』

〔新井献 H.J. マルクス /監修 1994年05月10日 教文館/発行〕

 (p.433)

μάγος, ~ου, ὁ [magos] 魔術師、占い師、占星術師、博士

 新約に 6 回見られる。マタイの幼な子[イエス]の物語( 2:1, 7, 16[ 2 回])によれば、「占星術の学者たち/賢者たちが東の方から (μάγοι ἀπὸ ἀνατολῶν) 」( 1 節)、生れたばかりの幼な子を拝むためにエルサレムに来る( 2 節)。

 μάγοι は、ペルシアの宗教の中で祭司の職に就き(ヘロドトス Ⅰ 101 )、天文学ないしは占星術に携っていたメディアの一部族の名前に溯る。



NESTLE-ALAND “ NOVUM TESTAMENTUM LATINE ”

EVANGELIUM

SECUNDUM MATTHAEUM 2, 1–2

 (P. 3)

 Cum autem natus esset Iesus in Bethlehem Iudaeae in diebus Herodis regis, ecce Magi ab oriente venerunt Hierosolymam 2 dicentes: «Ubi est, qui natus est, rex Iudaeorum? Vidimus enim stellam eius in oriente et venimus adorare eum».




 ◎ ここでマギの立場を考慮するなら、救世主として、ミトラ神を想定していたようでもあります。

 そして紛れもなく、クリスマスの日付設定には、ミトラス教の太陽神の誕生日が用いられているということなのです。



―― その他の資料を参照・引用したページを、以下のサイトで公開しています。


ミスラとミトラとミトラス教

http://theendoftakechan.web.fc2.com/eII/amrta/mithra.html


2021年11月28日日曜日

紀元前 5 世紀「王の道」を早馬の伝令が駆け抜ける

 紀元前 480 年に、ダレイオス 1 世の子で、ペルシャ王のクセルクセス 1 世がギリシャに遠征するのですけれど、サラミスの海戦で大敗して帰国します。その際に、真っ先に急を告げる騎馬伝令がペルシャに向けて走破したのは「王の道」と呼ばれる公道でした。

◎「王の道」とは、アケメネス朝ペルシャで中央集権を確立したダレイオス 1 世 の時代に整備された、スサからサルディスに至る 2400 km に及ぶ帝国の大幹線です。

 紀元前 5 世紀のギリシャの歴史家ヘロドトスは、「王の道」を駆け抜ける騎馬伝令を〈アンガレイオン〉の名で次のように紹介しています。



ワイド版 岩波文庫 296ヘロドトス 歴史』(下)

〔松平千秋/訳 2008年04月16日 岩波書店/発行〕


 巻八

 サラミスの海戦~クセルクセスの退却

 (p.237)

 九八 クセルクセスは右のように行動すると同時に、現在の苦境を伝える飛脚をペルシアに送った。さておよそこの世に生をうけたもので、このペルシアの飛脚より早く目的地に達しうるものはない。これはペルシア人独自の考案によるものである。全行程に要する日数と同じ数の馬と人員が各所に配置され、一日の行程に馬一頭、人員一人が割当てられているという。雪も雨も炎暑も暗夜も、この飛脚たちが全速で各自分担の区間を疾走し終るのを妨げることはできない。最初の走者が走り終えて託された伝達事項を第二の走者に引き継ぐと、第二走者は第三走者へというふうにして、ちょうどギリシアでヘパイストスの祭礼に行なう松明 [たいまつ] 競争のように、次から次へと中継されて目的地に届くのである。この早馬の飛脚制度のことをペルシア語ではアンガレイオンという。



―― 先月分も含めて、その他資料を参照・引用したページを、以下のサイトで公開しています。


有角神と一角獣の紋章

http://theendoftakechan.web.fc2.com/eII/amrta/horn.html


2021年10月29日金曜日

有角神と一角獣の紋章

◎ インダス文明の出土品について、前回の最後に参照した資料からあらためて抜粋しておきましょう。



『インダスの考古学』

〔近藤英夫/著 2011年01月20日 同成社/発行〕


 第 5 草 文明の精神世界 ―― 支配者の姿

「1 文明期の神々」

 (pp.77-80)

 インダス文明では、メソポタミアとは異なり信仰・宗教に関する文献資料が欠如している。そのために信仰に関する図柄を手がかりとして、文明期の宗教について検討していく。

 印章や銅製護符や土製護符に刻された文明の信仰図柄は、以ドのⅠ~Ⅸに分けることができる。すなわち、


Ⅰ)有角神(頭部にスイギュウの角と植物を生やす)

Ⅱ)半人半獣神(捻れたヤギの角と植物を生やす)

Ⅲ)牛男(有角)

Ⅳ)一角獣

Ⅴ)有角獣(複合獣)

Ⅵ)スイギュウ

Ⅶ)複頭獣

Ⅷ)トラと闘う神

Ⅸ)ボダイジュ


 以ド、個別にその特徴をみていく。


Ⅰ)有角神

 跏跌座像と立像とがある。いずれの場合も大きく湾曲した角をもち、両角の間には植物表現がなされている。湾曲した角はスイギュウの角を模したものと推定される。また、上・下腕いっぱいに腕輪をつけていることも特徴の一つである。

 跏跌座像は、多くは牀(胡坐用の台)の上に乗っている。三面の顔をもつといわれている。頭部には角と植物を生やし、両手を広げて膝にあて牀に座している。人物の周囲には動物が描かれている。

 もっともよく知られているのは、モヘンジョ・ダロ出土の印章に刻された有角神像である(図 24-1 )。〔略〕中央の人物がこれらの動物を従えていると解釈でき、ここからこの人物像は「獣王」の性格を有しているとされ、〝シヴァ神の祖型〟と考えられてもいる。しかし、シヴァ神の成立は文明期よりも 1000 年近くの後であり、ただちに祖型としてよいかどうかは疑問である。この人物像は周囲に動物を配さずに単体で描かれることもある。また、ハラッパー出土の土製護符には、人物像の前でスイギュウを屠っている場面が描かれている。供儀のシーンである。

 立像の場合は、頭部に角と植物を生やした長い後ろ髪の人物がボダイジュの樹の間に立つ姿であらわされる。モヘンジョ・ダロから出土の印章は、儀礼的シーンを描いたものである(図 24-2 )。〔略〕儀礼的シーンではなく、人物像が単体で描かれる場合もある(図 24-3 )。この場合も、樹の間に人物が表現されている。ドーラーヴィーラー出土の印章にもその例がある。



Ⅱ)半人半獣神

 頭部にヤギ科の動物の角と植物を生やし、下半身がトラで上半身は人間である。角は、頭部には角と植物、そして編んだ後ろ髪が表現されており、腕いっぱいに腕輪をつけている。

 〔略〕


 (p.81)

Ⅳ)一角獣(図 27 )

 想像上の有角動物である。印章に刻された全図柄の 60% がこの一角獣である。



Ⅴ)有角獣(複合獣)

 トラ、ゾウなどに角をつけて表現されたものである。これも神格の表現と考える。〔略〕


 (pp.82-83)

Ⅶ)複頭獣

 複数の首部をもつキメラ。〔略〕


Ⅷ)トラと闘う神

 中央に立つ人物が、後ろ足で立つ左右のトラをおさえている図柄である。印章・護符にみられる。人物像には角がみられず、また腕輪もつけていない。モヘンジョ・ダロ出土の印章の図柄では(図 31 )、このシーンのみであるが、ハラッパー出土の土製護符では、足下にゾウが描かれている。

 このモチーフはメソポタミアに起源するとされている。メソポタミアの場合は、両側の獣はライオンであることが多く、インダス的に変容したものと考えられる。



Ⅸ)ボダイジュ

 ボダイジュを中央におき、シンメトリーに動物などを配する図柄がある。ボダイジュと一角獣が組み合わさったものと、ボダイジュが中心で両サイドに人物が配されているものとがある。初期ハラッパー文化期以来の植物信仰の伝統が、文明期に引き継がれたととらえてよい。

 樹木を中央におき、シンメトリーに動物などを配する描き方はメソポタミア起源の生命の樹の描き方に通ずるが、彼我の関係は不明である。


「2 神々のつくり出す世界 ―― 在地の神と外来の神 ――」

 (p.83)

 以上が文明の信仰表現である。基本的には、初期ハラッパー文化期からの角と植物の信仰伝統を引き継いでいるとみてとれる。ただ、初期ハラッパー文化期と違って、文明期には信仰表現が多様化する。おそらくは、Ⅰ)有角神(図 24 )が主神であろうが、それ以外にもさまざまな神が登場する。

 (pp.84-85)

 文明は近隣の、そして遠隔のさまざまな地域と交渉をもつ。その過程で、インダス平原の信仰伝統から逸脱した神もまた文明期に現れる。そしてそれをも含み込んで、文明の神々の世界は展開する。文明期には、初期ハラッパー文化期の伝統から逸脱したものもパンテオンに加わる。

 〔略〕

 Ⅶ)複頭獣であるが、いくつもの首を描く表現は、湾岸式の印章の図柄の表現にある。モヘンジョ・ダロ出土の円形印章では、六つの有角動物の首のみが同心円上に描かれている。この動物は、丸い大きな目をもつことも特徴としてあげられる。こうした図柄の起源は、ペルシャ湾岸のバハレーン島を中心に展開したティルムン(ディルムン)文明の湾岸式印章の図柄に求めることができる。これらから考えて筆者は、湾岸の影響を受けてインダス文明版図内で成立した図柄と推測している。また、三つの首をもつウシ科の動物は、元来湾岸起源の図柄がインダス的に変容したものと考えたい。

 Ⅷ)トラと闘う神も文明圏外に起源が求められる神である。図柄の中央に描かれている人物像は角をもたない点で、インダス文明の基本的な信仰からは異質な神である。パルポラによれば、「中央の人物が左右の猛獣を抑えている」図柄はメソポタミア起源のものであり、中央の人物が猛獣を押さえるという図柄はメソポタミア、イランの諸遺跡に広く分布しているという。猛獣は、メソポタミアの場合はライオンであり、イランでは想像上の動物になる。〔略〕

 初期ハラッパー文化期以来の伝統にもとづく「スイギュウの角と植物」の有角神が在地の神とすれば、「半人半獣神」「複合獣」そして「トラと闘う神」は外来の神である。メソポタミアや湾岸に起源をもつ神が、文明のパンテオンに組み込まれたとしてよい。アフガニスタン、イラン、湾岸、メソポタミア各地域と深くかかわるグループが、文明に存在した証しであるとしたい。



◎ というわけで、

中央の人物が猛獣を押さえるという図柄はメソポタミア、イランの諸遺跡に広く分布しているという

ことと、

猛獣は、メソポタミアの場合はライオンであり、イランでは想像上の動物になる

ということが、あらためて確認できた次第です。


2021年9月1日水曜日

エジプトとインダスと英雄ギルガメシュ

 ◎ ライオンを制圧する伝説のギルガメシュ王を表現したと思われる、有名な図柄がありますが、その絵柄と同じような構図を持つ出土品が、メソポタミア以外で、エジプトとインダスの遺跡からも発見されています。


『五〇〇〇年前の日常』シュメル人たちの物語

〔小林登志子/著 2007年02月22日 新潮社/発行〕

 Ⅳ 商人が往来する世界

エジプト人と戦ったシュメル人

 (pp.162-163)

 古代のシュメル人とエジプト人との交流を示す手掛かりが残っている。たとえば、エジプトでは、先王朝時代(前五五〇〇~前三一〇〇年頃)後期の遺跡からはシュメルの円筒印章が出土しているし、同じ時期に作られた「ジェベル・エル・アラクのナイフ」は一九世紀末にフランスの考古学者 G・ベネディトが中部エジプトのジェベル・エル・アラクで購入し、ルーヴル美術館に収蔵された。フリント(火打石)製ナイフの柄は河馬の牙製で両面に装飾が施されているが、その中にメソポタミアとエジプトとの交流を物語る面白い図柄がある。一方の面には、メソポタミアにおけるウルク文化期(前三五〇〇~前三一〇〇年頃)後期の円筒印章印影図などに見られる王の姿とそっくりの人物が前後にライオンを御している。

 もう一方の面は船戦[ふないくさ]の場面で、二種類の船が見える。

 柄の真ん中よりも少し下に見える船は船首、船尾ともに垂直に持ち上がった形で、この形の船はウルク文化期の円筒印章印影図に見え、シュメルの船である。また、下の方の船はエジプト先王朝時代の土器に描かれている船と同じ形で、エジプトの船である。これはシュメル人とエジプト人が戦った記録で、エジプト人はシュメル人に勝ったことを伝えたかったにちがいない。負け戦は記録に残さないだろう。



 ◎ このナイフは、

『世界美術大全集 第 2 巻』〔 1994 年 4 月 10 日 小学館発行〕

「エジプト美術」(p.344) では、


  ナイフ

  先王朝 ナカーダⅢ期 前 3200 年頃

  伝ジャバル・アル=アラク出土

  フリント 河馬の牙 長さ 25.5 cm

  Knife with relief

  Probably from Jabal al-Arak.


と記録され、また他の文献で、次の記事とともに紹介されています。


『NHK ルーブル美術館 Ⅰ』

文明の曙光 古代エジプト/オリエント

〔高階秀爾/監修 青柳正規/責任編集 昭和60年05月20日 日本放送出版協会/発行〕

 (p.21)

ゲベル・エル・アラクのナイフ

 上エジプトのゲベル・エル・アラクから出土したのでこの名がある。先史時代紀元前 3400 年頃の重要な遺品で、淡褐色の燧石に刻まれた刃は金の薄片で固定されていたが、その跡を残すだけである。象牙製の柄の両面に精巧な浮彫が刻まれている。

 戦闘場面は、坊主頭の民族と、長く編んだ髪を垂らした民族とが、ナイル河の上で戦闘している。人物はすべて裸体で、戦死した兵士の遺体が船の間に横たわっている。坊主頭の民族は、おそらく侵入したアジア人で、他がエジプト人であろう。

 ライオンの面は、中央の突起部の周囲に、家畜がライオンに襲われている場面が展開し、首輪をつけた番犬が見られる。上方の 2 頭のライオンを締めつけているひげの男は、メソポタミアの伝説上の英雄ギルガメシュを想起させる。この浮彫は美術的にも優れているが、先王朝時代すでにエジプトとメソポタミアの交流が平和と軍事の両面で存在したことを物語る。先王朝時代。燧石・象牙製。



 ◎ インダス文明の遺跡からの出土品については、次の資料から抜粋しておきましょう。


世界の考古学 18『インダスの考古学』

〔近藤英夫[こんどう・ひでお]/著 2011年01月20日 同成社/発行〕

 第 5 草 文明の精神世界

1 文明期の神々

 (p.82)

Ⅷ)トラと闘う神

 中央に立つ人物が、後ろ足で立つ左右のトラをおさえている図柄である。印章・護符にみられる。人物像には角がみられず、また腕輪もつけていない。モヘンジョ・ダロ出土の印章の図柄では(図 31 )、このシーンのみであるが、ハラッパー出土の土製護符では、足下にゾウが描かれている。

 このモチーフはメソポタミアに起源するとされている。メソポタミアの場合は、両側の獣はライオンであることが多く、インダス的に変容したものと考えられる。



 ⛞ という次第で、上記引用文中に「人物像には角がみられず」とありますけれども、インダス文明の遺跡から出土する〝角のある人物像〟の図柄は、〈シヴァ神〉と関連づけて考えられることが多いようです。―― 有角神その他の項目、等々については、あらためて参照する予定です。



―― その他の資料を、参照・引用したページを、以下のサイトで公開しています。


須弥山は〈スメール Sumeru 〉

http://theendoftakechan.web.fc2.com/eII/amrta/sumeru.html


2021年8月26日木曜日

アレクサンドロス大王のインド攻略以降の文化交流

アレクサンドロス大王のペルシア進軍から死去まで

紀元前 334 年、アレクサンドロス大王、ペルシア征討のため、小アジアに進軍する。

紀元前 330 年、アケメネス朝ペルシアの滅亡。

紀元前 326 年、アレクサンドロス大王、さらに東方へと侵攻し、西部インドを攻略する。

紀元前 323 年、アレクサンドロス大王、東方遠征からバビロンへの帰還後に、急逝する。


 アレクサンドロス大王がペルシアに向けて進軍したのは、紀元前 4 世紀末のことでした。

 アレクサンドロス大王のインド侵攻後、インド西部はしばし、ギリシア人の軍事的制圧下にあったといわれます。

 ギリシア人のメガステネース(メガステネス)は、紀元前 300 年頃に、大使としてインドに駐在し、帰国後に『インド誌』という記録を残しました。


 また『ミリンダ王の問い』(全 3 巻)〔中村元・早島鏡正/訳 1963~1964 年 平凡社/発行〕の第 3 巻にある早島鏡正氏の解説 (pp.324-325) には、次のように記されています。


『ミリンダ王の問い』という題は、翻訳名であって、Milindapañhā あるいは Milindapañho が原名である。パーリ語で書かれた聖典の一つである。

〔中略〕

『ミリンダ王の問い』は、紀元前二世紀の後半、すなわち紀元前一五〇年ごろに、西北インドを支配したギリシアの王メナンドロス(インド名をミリンダという)と、仏教の経典に精通した学僧ナーガセーナとの間にかわされた対論の書である。



 ◎ さてアレクサンドロス大王によるインド遠征以降のインドに関する記録については、次のような文献が参考になると思われ、ここにその一部を抜粋し、紹介しておきたく思います。


『インド史Ⅱ』(中村元選集〔決定版〕 第 6 巻)

 〔中村元/著 1997年09月10日 春秋社/発行〕


 〔付篇 1 〕 マウリヤ王朝時代研究資料

 四 文献資料

 ㈠ ギリシア・ローマの記録

  ⑵ メガステネースの『インド誌』

 (pp.557-559)

 インドとギリシアとの接触を真に密接にしたのは、アレクサンドロスの遠征であった。ヘレニズムおよびローマ時代のギリシア人がインドについて知っていた主要点はメガステネース Megasthenēs 前三五〇~二九〇年ころ)の言明にもとづくものである。彼はもとは小アジアのイオーニア人であるが、『インド誌』(Indika) と称する四巻の書を著わした。この書はチャンドラグプタ王時代のインドの実情を伝えているものとしてきわめて重要である。

 アレクサンドロス大王は西紀前三二六年にインドに侵入し、西部インドを攻略したが、翌年西方に帰還し、三二三年七月バビロンで客死した。その後、西北インドはしばらくのあいだギリシア人の軍事的制圧下にあった。西紀前三一七年頃にチャンドラグプタ (Candragupta) という一青年が挙兵して、マガダ王となりマウリヤ (Maurya) 王朝を創始したが、彼は西北インドからギリシア人の軍事的勢力を一掃し、インド史上初めてインド全体を統一した。たまたまシリア王セレウコス・ニカトール (Seleukos Nikatōr) がアレクサンドロスの故地回復を志して、三〇五年にインダス河を越えて侵入して来たが、チャンドラグプタはその軍隊を撃破した。両王の講和が成立してのち、セレウコスの大使としてチャンドラグプタ王の宮廷に派遣されたのが、このメガステネースである。彼についてシャントレーヌは論じる。――

 メガステネースはギリシア人であり、イオーニアの純粋のギリシア人の家系の出身である。彼はシリア王セレウコス・ニカトールの使臣としてアラコーシア (Arachōsia) の太守 (Satrapēs) であるシビュルティオス (Sibyrtios) の宮廷に来たり、次にそこから王の大使としてパータリプトラ (Pāṭaliputra) のチャンドラグプタ王の宮廷に派遣された。インドに滞在していた期間は不明であるが、チャンドラグプタ王とセレウコスとの講和は西紀前三〇四年または三〇三年であるから、そののちまもなくインドに派遣され、西紀前二九二年ころにインドを去った。彼はおそらく西紀前三五〇~二九〇年のあいだの人であるから、したがって、後人の記すように、セレウコス・ニカトール(西紀前三五八~二八〇年)とほぼ同時代の人である。

 メガステネースはつねに首都パータリプトラに滞在し、しばしばチャンドラグプタ王と会見したが、また閑暇には視察・調査の小旅行を行なっていた。ただしこの小旅行も、今日のビハール以外の土地には及ばなかったらしい。ガンジス河以東については、彼は何も知っていない。また西方地域については、せいぜい往復の途中通過する際に皮相の観察を行なったにとどまる。デカン地方に関する記述もきわめて乏しい。メガステネースは、さほど広範囲の旅行は行なわなかった、とアリアノスは批評している。


2021年7月22日木曜日

絲綢之路/絹の道/瑠璃の道

 絲綢之路がシルクロード(絹の道)の中国語であることはよく知られています。

 ラピスラズリ(青金石)ともいわれる瑠璃は「吠瑠璃」の略で、サンスクリット語の音写による漢訳語です。

 さて。

 古代のメソポタミアを中心に流通していた宝石ラピスラズリは、現在のアフガニスタン北東部ヒンドゥクシュ山脈北側のバダフシャーン(バダクシャン)地方を原産地とするようです。

 紀元前 3500 年頃には、アフガニスタン産のラピスラズリの交易路は、遠くエジプトにまで達していたとされます。

 またいっぽうで、ヒンドゥクシュ山脈の東側にはシルクロードの天山南路があり、そのキジルでは壁画にラピスラズリが青の顔料としてふんだんに用いられているために、「青の石窟」という別名があるようです。



 ◯ 次の資料でシルクロード以前の「ラピスラズリの路」について、詳しく語られていましたので抜粋して紹介しておきたく思います。



『漢代以前のシルクロード』運ばれた馬とラピスラズリ

〔川又正智/著 2006年10月05日 雄山閣/発行〕


 第Ⅲ章 ラピスラズリの路 ― 遠距離交渉の確認 ―

 a くりかえされる交易 ― 原料獲得の路

 (pp.39-40)

 シルクロードという名は絹を交易品代表として命名したものであり、また、絹馬交易・玉[ぎょく]ロードなどの名称もあり、宝貝・ラピスラズリ・ガラス・琥珀・毛皮なども遠距離交易のテーマとしてかたられることがおおいが、これらは生活上いわゆる贅沢品・奢侈品である。そのなかには産地を限定できるものがある。動植物・鉱物には原産地を特定できるものがあり、人工物には製作技術やデザインから生産地を決定できるものがある。ある地域に産しないものがそこにあれば、他地域から持ちこんだものにちがいなく、交易、すくなくとも何か関係のあった証拠である。

 かんがえてみれば、生物はもともと食料の確保できる地に棲息するもので、いわば自給自足で、これは人類も生物である以上おなじである。ただ、人類はある時から、実用品以外の奢侈品、あるいは実用品でもより良い物を、始めは少量であったかもしれないが段々多量に必要とするようになり、また生活技術の進歩によりそれまで知らなかった実用品を必要とする新時代になることもある。金属や石油はその代表である。その類のものはそれまで生きてきた生活圏にあるとはかぎらないし、さらに地球上の資源存在は均一ではなく偏在しているのだから、これを他地域・遠方から入手する必要にせまられるのである。

 実用品でふるくから到来品であったものは石器材料の石である。石などどこにでもあるようにおもうが、メソポタミア下流のような巨大な沖積地には無い。それに、石器はどの石でもおなじようにできるわけではなく、石器としてのよい石・わるい石がある。たとえば新石器時代の西アジアでは、現在のトルコ中・東部産の黒曜石がひろくイスラエルやイラク南部にまで分布している。とおい所は産地から、1000 km ちかくはある[ローフ 1994 pp.34‐35]。交場の実態は不明である。黒曜石は天然の火山ガラスで、非常に鋭利な刃をつくることができる。化学成分によって産地を同定できることがある。

 石器のひろがりが何故なのかはわかる。形によって機能がちがう。あの形につくればこういう場合に便利なのだ、あの形にするにはこうしてつくるのだ、とおもうだろう。それにはあの石質がよいのだ、ともおもうであろう。石器製作方法や石材はひろがっていく。

 土器の紋様のひろがりは何故であろうか。形や質は機能・つかい勝手と関係があるが、紋様まで他の村とおなじにするのは何故か。単に気に入ったデザインだから流行して行くというのか。土器はこの紋様、と決まっているのか(製作者が村々を巡回して行くとか、婚姻で入り込むとか、の説明がある)。我々はこのデザイン、という他族と区別する集団意識のようなものがあるのか。つまり、流行の範囲のことであるが、これがどう決まるのかは不思議である。


 b 〝遠方〟という意識 ― 他世界との交流

 (p.40)

 東西交渉とかシルクロードという言いかたは、文明圏・生活圏・政治圏などを超える他地域・他世界との交流・交渉ということが第一義なので、単に遠距離ということが問題なのではない。結果として遠距離交易などと言い換えることができるだけである。しかし、人は遠古からそんなに遠方と関係をもつものであろうか、ということは当然基本的な疑問としてある。もとより人類はアフリカに発生しそこから世界各地への拡散と推定されており、現生人類もその系統にはまだ諸説あるようであるが、どの説に立っても遠距離のグレイトジャーニーを成し遂げたにはちがいない。しかしこれは無意識の結果としての遠距離である。本書で問題にするのは、人類の拡散よりはずっと後の時代であり、〝遠方〟という意識がともなっている時代である。そこでまず、遠方・遠距離自体ということはやはり重要な要素であるのでそれをかんがえてみよう。〝距離〟は人間活動の上で、歴史の上で意味のあることである。


 c 宝貝の路

 (p.41)

 最古の遠距離到来奢侈品代表は宝貝(子安貝)であろう。

 (p.42)

石器時代から現代までながく、ひろく移動している物質である。

 ラピスラズリもそうであるが、現代の我々はこのような宝貝等を単なる王侯の贅沢品と解釈しがちであるが、当時は、いわば社会的宝物であったので、王侯個人の贅沢・宝物のみではなかったようである。漢字の貝字は宝貝の象形字である。これが貨・貯・財・寶など現在の意味では経済関係の文字にのこっているのは今いう通貨であったからではなくて、文字以前からもっと別な役割をになっていた名残である。


 d 金属器時代への変化

 (p.43)

 金属器時代になると、先に述べたように、金属は生物としてもともと何らかかわりのあった物質ではない新物質であり、さらに実用品でもあるので、金属は細々としたルートによる入手のみでは足らず、大量かつ継続的に原料を確保する必要が生じてくる。金属の入手は社会や経済の仕組をおおきく変えることになる。

 最近の学界では、初期金属器時代の変化としてメソポタミアのウルクや黄河流域の鄭州二里崗が大勢力化することをとりあげて、ウルクエキスパンション・二里崗インパクトなどと呼ばれる用語がつくられて議論されている。これは金属器時代に入った初期に勢力を持ち、大規模な資源探索部隊を遠征させた状況を代表する都市である。これらの都市こそが、金属のみならずラピスラズリや玉をもとめて遠距離交易を促進したのである。


 e ラピスラズリとは

 (p.44)

 ラピスラズリの古代における産地は、現在のアフガニスターン東北部ヒンドゥークシュ山脈北側バダフシャーン地方、ファイザーバード市南方コクチャ河(アム河の支流)ケラノムンジャン渓谷のサルイサング谷周辺に限定でき、現在も採掘している。


 f ラピスラズリの路

 (p.48)

 ラピスラズリの他に紅玉髄[カーネリアン]・トルコ石・容器をつくる凍石[クロライト]などの石も西アジア一帯を運ばれたものであることが最近わかっている[大津・後藤 1999 ; 後藤 2000]。またこれらは、エジプトからインダスにかけて出土するので、いわゆる古代四大文明のうちインダス・メソポタミア・エジプトはつながりのあることがわかるのである、農牧文化複合がおなじ西アジア型であることとともに。

 (pp.48-49)

 ラピスラズリの路については、関係報告書も見がたい本がおおいが、要点は『ラピスラズリの路』[堀・石田 1986]・『古代オリエント商人の世界』[クレンゲル 1983]にまとめてある。


引用・参考文献

[ローフ 1994 pp.34‐35]

  ローフ、マイケル 1994『図説世界文化地理大百科 古代のメソポタミア』(松谷敏雄監訳)朝倉書店

[大津・後藤 1999 ; 後藤 2000]

  大津忠彦・後藤健 1999『石器と石製容器 石にみる中近東の歴史』中近東文化センター

  後藤健 2000『インダスとメソポタミアの間」『NHK スペシャル 四大文明 インダス』(近藤英夫編)日本放送出版協会

[堀・石田 1986]

  堀晄・石田恵子 1986『ラピスラズリの路』古代オリエント博物館

[クレンゲル 1983]

  クレンゲル 1983「古代オリエント商人の世界」(江上・五味訳)山川出版社



―― その他の関連資料を、参照・引用したページを、以下のサイトで公開しています。


〈シルクロード Silk Road 〉の彼方より

http://theendoftakechan.web.fc2.com/eII/amrta/silkroad.html


2021年6月17日木曜日

薬師十二神将のサンスクリット語

 薬師如来の眷属である〝十二神将〟とは、12 の夜叉(薬叉)の大将のことでした。

 前回、中村元著『佛教語大辞典 縮刷版』を参照し、読み仮名を列記しましたけれども、今回はそれぞれのサンスクリット語を転記して、もとの意味をできる範囲で調べてみました。


使用した主な辞書は次のとおりです。


『佛教語大辞典』 縮刷版

中村元[なかむら・はじめ]/著

昭和56年05月20日 東京書籍/発行


『漢訳対照 梵和大辞典』 増補改訂版

財団法人鈴木学術財団/編

財団法人鈴木学術財団/刊

昭和54年08月20日 講談社/発売


Prin. Vaman Shivaram Apte,

THE PRACTICAL SANSKRIT-ENGLISH DICTIONARY

(Revised & Enlarged Edition)

V. S. アプテ『梵英辞典』(改訂増補版)

昭和53年04月15日 複製第1刷 臨川書店/発行


▣ 宮毘羅大將(くびらだいしょう)

kuṃbhīro nāma mahā-yakṣa-senāpatiḥ

kumbhīra 鰐魚(蛟・蛟龍) ⇨ 【漢訳】金毘羅

 कुम् भीरः ⇒ A shark, Crocodile

nāma ⇨ 【漢訳】雖已見、或見

 नाम ⇒ Named, called, by name

nāman ⇨ 【漢訳】名、名号

 नामन्  ⇒ A name, appellation, personal name

mahā (mahat) ⇨ 【漢訳】大、広大

 महा ⇒ The substitute महत्

yakṣa 超自然的存在 ⇨ 【漢訳】鬼神、夜叉、薬叉

 यक्षः ⇒

 N. of a class of demigods who are described as attendants of Kubera

senā-patiḥ 将軍 ⇨ 【漢訳】大将

 सेनापतिः ⇒ a general


▣ 伐折羅大將(ばざらだいしょう)

Vajro nāma mahāyakṣasenāpatiḥ

vajra 雷電;金剛石 ⇨ 【漢訳】金剛、金剛杵

 वज्र ⇒ adamantine, A thunderbolt, the weapon od Indra


▣ 迷企羅大將(めいきらだいしょう)

Mekhilo nāma mahā-yakṣa-senāpatiḥ

mekhalā 腰帯、帯[取り巻くまたは囲むものの譬喩にもちいる] ⇨ 【漢訳】帯、腰帯、宝帯

 मेखला ⇒ A belt, girdle, waist-band, zone in general


▣ 安底羅大將(あんちらだいしょう)

Antiro nāma mahāyakṣa-senāpatiḥ

anti 反対して、前に;近く

 अन्ति ⇒ Near, before, in the presence of

antika 近き ⇨ 【漢訳】近、所、処

 अन्तिक ⇒ Near, proximate

antima 最後の、最終の ⇨ 【漢訳】最後

 अन्तिम ⇒ Immediately following ; Last, final, ultimate


▣ 頞儞羅大將(あにらたいしょう)

anilonāma mahāyakṣa-senāpatiḥ

anila 風、Vāyu 神;生気 ⇨ 【漢訳】風

 अनिलः ⇒ Wind ; The god of wind


▣ 珊底羅大將(さんちらだいしょう)

Saṃthilo nāma mahāyakṣa-senāpati


▣ 因達羅大將(いんだらだいしょう)

indālo nāma mahāyakṣa-senāpatiḥ


▣ 波夷羅大將(はいらだいしょう)

Pāyilo nāma mahā-yakṣa-senāpatiḥ


▣ 摩虎羅大將(まごらだいしょう)

mahālo nāma mahāyakṣa-senāpati


▣ 眞達羅大將(しんだらだいしょう)

cindālo nāma mahāyakṣa-senāpatiḥ


▣ 招杜羅大將(しょうどらだいしょう)

caundhulo nāma mahāyakṣa-senāpatiḥ


▣ 毘羯羅大將(びぎゃらだいしょう)

Vikālo nāma mahāyakṣa-senāpatiḥ

vikāla 夕方 ⇨ 【漢訳】夜、暮、日暮、非時

 विकालः, -विकालकः ⇒

 1 Evening, evening twilight, the close of day.

 -2 Improper time, unseasonable hour



―― これまでに調べたものを含めて、それなりにまとめたページを、以下のサイトで公開しています。


Sanskrit सन्स्क्रित्

http://theendoftakechan.web.fc2.com/eII/amrta/sanskrit/index.html


2021年6月5日土曜日

夜叉(薬叉)大将と八部衆

 薬師如来の眷属である〝十二神将〟とは、12 の夜叉(薬叉)の大将のことです。〈夜叉(ヤシャ)〉は「仏説薬師如来本願経」などにある表記で、また〈薬叉(ヤクシャ)〉は「薬師琉璃光如来本願功徳経」などの表記で、いずれも〝超自然的存在〟を意味するサンスクリット語の音写文字となります。

 サンスクリット語では、


यक्ष yakṣa


なので、これをカタカナで書くと〈ヤクシャ〉に近い発音になるようです。

 漢訳された仏教経典には、〝十二神将〟は、次のように名称が列記されています。


『大正新脩大藏經』第十四卷


「佛說藥師如來本願經」隋天竺三藏達摩笈多譯

 (p.404)

宮毘羅大將  跋折羅大將

迷佉羅大將  安捺羅大將

安怛羅大將  摩涅羅大將

因陀羅大將  波異羅大將

摩呼羅大將  眞達羅大將

招度羅大將  鼻羯羅大將


「藥師琉璃光如來本願功德經」大唐三藏法師玄奘奉 詔譯

 (p.408)

宮毘羅大將  伐折羅大將

迷企羅大將  安底羅大將

頞儞羅大將  珊底羅大將

因達羅大將  波夷羅大將

摩虎羅大將  眞達羅大將

招杜羅大將  毘羯羅大將



 かくして翻訳者によって漢字の選び方に流儀があり、またこれらの漢字の読み方にも複数の流派があるようです。

 今回、中村元著『佛教語大辞典 縮刷版』の記述にしたがって読めば、


宮毘羅大將(くびらだいしょう)

伐折羅大將(ばざらだいしょう)

迷企羅大將(めいきらだいしょう)

安底羅大將(あんちらだいしょう)

頞儞羅大將(あにらたいしょう)

珊底羅大將(さんちらだいしょう)

因達羅大將(いんだらだいしょう)

波夷羅大將(はいらだいしょう)

摩虎羅大將(まごらだいしょう)

眞達羅大將(しんだらだいしょう)

招杜羅大將(しょうどらだいしょう)

毘羯羅大將(びぎゃらだいしょう)


と、なります。

 さて、眷属(けんぞく)には「つき従うもの」という意味がありますが、これら〝十二神将〟は仏法僧に帰依することを宣言するだけじゃおさまらず、仏法の修行僧を守護する役目を負うことまで、この経典中で宣誓しています。

 ところで先だっては、〈阿修羅(アスラ)〉について調べておったのですけれども、その〈阿修羅〉と今回の〈夜叉〉は、ともに〝八部衆〟の一員に名を連ねているのでした。

 〝八部衆〟は「天・龍」にはじまる鬼神の名称で、〝天龍八部衆〟とも称されます。『広辞苑』には次のように書かれていました。


てんりゅうはちぶしゅう【天竜八部衆】

仏法を守護するとされる八種の異類。天・竜・夜叉・乾闥婆(ケンダツバ)・阿修羅・迦楼羅(カルラ)・緊那羅(キンナラ)・摩睺羅迦(マゴラガ)のこと。もと古代インドの神々で鬼竜の類。八部。八部衆。竜神八部。


 でもって〝八部衆〟のメンバーについては、仏教辞典から抜粋してみました。


『岩波 仏教辞典』 第二版

〔中村元福永光司田村芳朗今野達末木文美士/編 2002年10月30日 第2版第1刷 岩波書店/発行〕


 天 てん

 (p.733)

 サンスクリット語 deva の訳で、神を意味する。神の概念は仏教の救済論には本来不必要であるが、バラモン(婆羅門)文化の影響下に仏教にとりいれられた。バラモン教(婆羅門教)においては『リグ‐ヴェーダ』以来 33 神、あるいは 3339 神ともいわれる多数の神が信仰されたが、その多くは自然現象が神格化されたものである。deva(本来、輝くもの、の意)は、ギリシア語 zeus やラテン語 deus と語源を同じくし、したがってバラモン教の神の概念はギリシア神話やローマ神話のそれと共通するところがある。


 竜 りゅう [s: nāga]

 (pp.1044-1045)

 〈那伽 なが〉と音写。蛇に似た形の一種の鬼神 きしん。天竜八部衆の一つ。インド神話におけるナーガは、蛇(特にコブラ)を神格化したもので、大海あるいは地底の世界に住むとされる人面蛇身の半神。彼等の長である〈竜王〉(nāga-rāja) は巨大で猛毒をもつものとして恐れられた半面、降雨を招き大地に豊穣をもたらす恩恵の授与者として信仰を集めた。特にインドの原住民部族の間では古くからナーガ信仰が盛んであった。

 ナーガは仏教でも初期聖典以来知られ、特に仏伝 ぶつでん 文学には仏陀 ぶっだ を豪雨より護った竜王の話などが見られて、早くから仏教彫刻などの題材ともされた。後にはインド神話の上で天敵とされていたガルダ鳥(迦楼羅 かるら・金翅鳥 こんじちょう)とともに八部衆に組み入れられ、また仏法の聴聞者として〈八大竜王〉なども立てられた。中国では〈竜〉と漢訳された。中国の竜は、鳳・麟・亀とともに四霊の一つで神聖視された。角、四足、長いひげのある鱗虫の長で、雲を起し雨を降らせ、春分に天に昇り秋分に淵に隠れるといわれる。そこで仏教の竜も中国的な竜のイメージで思い浮かベられるなど、大きく変容した。わが国の竜神 りゅうじん 信仰は中国の竜と日本の蛇=水神との習合であるが、雨乞 あまごい の神、豊漁の神、海の神として信仰された。


 夜叉 やしゃ

 (p.1015)

 サンスクリット語 yakṣa に相当する音写。ヤクシャ。〈薬叉 やくしゃ〉と音写されることもある。主として森林に住む神霊である。鬼神として恐しい半面、人に大なる恩恵をもたらすともされた。ヤクシャは樹木と関係が深く、しばしば聖樹と共に図像化されている。女性のヤクシャ(ヤクシー、ヤクシニー)の像も数多く残っている。水との縁も深く、「水を崇拝する (yakṣ-) 」といったので yakṣa と名づけられたという語源解釈も存する。仏教に取り入れられて、八部衆の一つとなった。なお、〈夜叉〉は特定の神格ではなく、北方守護の毘沙門天 びしゃもんてん の眷属である鬼神の総称。またわが国では古来、夜叉に帰依して新生児の無事を祈願し、名をもらい受ける習俗があり、その名の代表的なものが女子名の〈あぐり〉である。


 乾闥婆 けんだつば

 (p.291)

 サンスクリット語 gandharva の音写。〈香神 こうじん〉〈食香 じきこう〉などと漢訳し、また〈犍達婆〉〈健闥縛〉〈乾沓和 けんとうわ〉などとも音写する。1) 天上の音楽師、楽神ガンダルヴァ。2) 中有 ちゅうう の身体。

 インド神話におけるガンダルヴァは、古くは神々の飲料であるソーマ酒を守り、医薬に通暁した空中の半神とされ、また特に女性に対して神秘的な力を及ぼす霊的存在とも考えられていたが、後には天女アプサラスを伴侶として、インドラ(帝釈天 たいしゃくてん)に仕える天上の楽師として知られるようになった。仏教では、この楽師としての半神ガンダルヴァが、歌神の緊那羅 きんなら とともに天竜八部衆の一つに数えられる一方で、また女性の懐妊・出産などにかかわるその神秘的性格のゆえか、輪廻転生 りんねてんしょう に不可欠な霊的存在とも見なされ、肉体が滅びてのちに新たな肉体を獲得するまでの一種の霊魂、すなわち微細な五蘊 ごうん からなる〈中有の身体〉を意味するという特殊な用法も生んだ。胎児や幼児を悪鬼から守るといわれる密教の(栴檀 せんだん)乾闥婆神王 けんだつばしんのう は、人間の再生に不可欠なこの中有の身体としてのガンダルヴァが神格化されたものであろう。

 なお、インドの古典文学において〈ガンダルヴァの都〉(gandharva-nagara) は蜃気楼 しんきろう を意味し、実在しない虚妄なもののたとえに用いられるが、この表現は仏典でも好んで使用された。〈乾闥婆城〉〈尋香城 じんこうじょう〉などと漢訳される。


 阿修羅 あしゅら

 (p.10)

 サンスクリット語 asura の音写。略して〈修羅 しゅら〉。〈阿素羅 あそら〉〈阿須倫 あしゅりん〉などとも音写し、また〈非天 ひてん〉〈無酒神 むしゅしん〉(いずれも通俗的な語源解釈に基づく)などの漢訳語もある。血気さかんで、闘争を好む鬼神の一種。原語の asura は古代イラン語の ahura に対応し、元来は ahura と同じく〈善神〉を意味していた。しかしのちインドラ神(帝釈天 たいしゃくてん)などの台頭とともに彼等の敵とみなされるようになり、常に彼等に戦いを挑む悪魔・鬼神の類へと追いやられた。原語を〈神 (sura) ならざる(否定辞 a )もの〉と解する通俗的な語源解釈(漢訳:非天)も、恐らくその地位の格下げと悪神のイメージの定着に一役買ったと思われる。

 仏教の輪廻転生 りんねてんしょう 説のうち、五趣(五道)説では独立して立てられないが、六道説では阿修羅の生存状態、もしくはその住む世界が〈(阿)修羅道〉として、三善道の一つに加えられている。仏教ではまた、天竜八部衆(八部衆)にも組み入れられて、仏法の守護神の地位も与えられた。また密教の胎蔵界曼荼羅 たいぞうかいまんだら では、外金剛部院にその姿を見ることもできる。図像学的には三面六臂 さんめんろっぴ で表されることが多く、興福寺の阿修羅像(天平時代)はその代表例である。

 戦闘を好む阿修羅神は、古来仏教説話などを通じてわが国にも広く知られ、悲惨な闘争の繰り広げられる場所や状況を〈修羅場 しゅらば・しゅらじょう〉、戦闘を筋とする能楽の脚本を〈修羅物 しゅらもの〉、また争いの止まない世間を〈修羅の巷 ちまた〉と呼ぶなど、多くの比喩表現も生んだ。なお、阿修羅の好戦を象徴する阿修羅王と帝釈天の戦闘は『俱舎論 くしゃろん』や正法念処経の所説に由来するもので、そのとき帝釈天宮に攻め上った阿修羅王が日月をつかみ、手で覆うことから日蝕・月蝕が発生するとも説かれる。


 迦楼羅 かるら

 (p.165)

 サンスクリット語 garuḍa に相当する音写。ガルダ。〈金翅鳥 こんじちょう〉と訳される。伝説上の巨鳥。ガルダは竜(蛇)の一族の奴隷となった母を救うために、神々と争って不死の飲料であるアムリタ(甘露 かんろ)を手に入れ、母を解放した。竜を憎んで食べるとされる。ヴィシュヌ神と親交を結び、その乗物となったという。仏教にも取り入れられて、八部衆の一つとされる。『リグ‐ヴェーダ』において、神酒ソーマを地上にもたらした鷲(スパルナ)と同一視される。


 緊那羅 きんなら

 (pp.235-236)

 サンスクリット語 kiṃnara の音写。〈人非人 にんぴにん〉〈疑神〉の漢訳語もある。歌神。天界の楽師で、特に美しい歌声をもつことで知られる。もとインドの物語文学では、ヒマラヤ山のクベーラ神の世界の住人で、歌舞音曲に秀でた半人半獣(馬首人身)の生き物として知られたが、仏教では乾闥婆 けんだつば とともに天竜八部衆に組み入れられ、仏法を守護する神となった。人非人(人とも人でないともいえないもの)や疑神の漢訳語は、この語の通俗的な語源解釈(人間 (nara) だろうか?)に基づいている。密教の胎蔵界曼荼羅 たいぞうかいまんだら では外金剛部院の北方にその姿が見える。なおわが国では、香山 こうせん の大樹 だいじゅ 緊那羅が仏前で 8 万 4 千の音楽を奏し、摩訶迦葉 まかかしょう がその妙音に威儀を忘れて立ち踊ったという故事(大樹緊那羅王所間経 1、『法華文句』2)で著名。


 摩睺羅迦 まごらが

 (p.954)

 サンスクリット語 mahoraga に相当する音写。大蛇の意。蛇神。仏教に取り入れられて、仏法を守護する 8 種の半神的存在(八部衆 はちぶしゅう または天竜八部)の一つに数えられる。密教の胎蔵界曼荼羅 たいぞうかいまんだら では外金剛部院の北方に姿が見える。


 ようするに、おおよそ〈阿修羅〉を「鬼神」の代表格にみるとして、〈夜叉〉には「自然の精霊・森の鬼神」などのイメージがあり、天女アプサラスの伴侶でもある〈乾闥婆〉は「音楽師・音楽の神」で、〈迦楼羅〉は「不死の飲料であるアムリタ」に関係のある「伝説上の巨鳥」、《人非人》とも漢訳される〈緊那羅〉は「美しい歌声」の「天界の楽師」、〈摩睺羅迦〉は「大蛇・蛇神」ということになります。


―― その他の原典等を含めて、参照・引用したページを、以下のサイトで公開しています。


夜叉十二大将と天龍八部衆

http://theendoftakechan.web.fc2.com/eII/amrta/yaksha.html


2021年5月19日水曜日

弥勒菩薩が〈毘盧遮那〉という名の転輪聖王だった話

 前回は、「照らす」とか「太陽神」を意味する〈ヴィローチャナ〉というサンスクリット語が〈阿修羅(アスラ)〉の名前に使われていて、また

〝インドの古典『マハーバーラタ』でも、〈ヴィローチャナ〉は〈アスラ〉の名前なのですけれども、〈ヴィローチャナ〉の息子を〈バリ〉といい、〈バリ〉は〈ヴァイローチャナ〉とも呼ばれるようです。〟

とかなんとか書いた最後に、

〝続けて調べていくと、未来の救世主〈弥勒菩薩〉まで出てきて、話が転転 ……〈転輪聖王〉は「てんりんじょうおう」と読むらしいのですけれど。〟

とも書きましたが、〈転輪聖王〉とは〝世界を治める理想的な正義の王〟らしいです。

 というわけで今回は、〈弥勒(マイトレーヤ)〉が〈毘盧遮那(ヴァイローチャナ)〉という名前の〈転輪聖王〉であったことが述べられている仏教経典を参照いたしましょう。


 現在のところサンスクリット語のみで伝わっている『マハーヴァストゥ (Mahāvastu) 』という仏教の経典は、『岩波 仏教辞典 第二版』(p.957) に、

「〈大事 だいじ〉と訳される大衆部 だいしゅぶ の説出世部所伝の釈尊 しゃくそん の伝記を伝える経典」

等と説明されていて、またその内容の一部が漢訳仏典の『仏本行集経(ぶつほんぎょうじっきょう)』に一致することが知られています。

 その『マハーヴァストゥ』第 1 巻 59 ページの内容が、次のように紹介されており、それは漢訳経典では『大正新脩大蔵経』第 3 巻 656 ページの中断に該当するようです。



『渡辺照宏 仏教学論集』

〔渡辺照宏/著 昭和57年07月30日 筑摩書房/発行〕

 XIX VirocanaVairocana ―― 研究序説 ――

〔 1965 年 12 月、高野山開創千百五十年記念「密教学密教史論文集」(高野山大学)pp. 371‑390 〕

 (p.420)

 Mahāvastu I, p. 59: “Suprabhāso nāma Mahāmaudgalyāyana tathāgato ’rhaṃ samyaksaṃbuddho yatra Maitreyeṇa bodhisatvena prathamaṃ kuśalamūlāny avaropitāni rājñā Vairocanena cakravarti-bhūtena āyatiṃ saṃbodhiṃ prārthayamānena //”



『大正新脩大藏經』 第三卷 本緣部上

「佛本行集經卷第一」

 (p.656)

目揵連。我念往昔。有一如來。號曰善思多陀阿伽度阿羅訶三藐三佛陀。於彼佛所。彌勒菩薩。最初發心。種諸善根。求阿耨多羅三藐三菩提。時彌勒菩薩。身作轉輪聖王。名毘盧遮那。



『國譯一切經』 本緣部 二

〔常盤大定・美濃晃順/譯 昭和06年12月15日 大東出版社/發行〕

「佛本行集經」卷の第一

 (p.6)

 (16) 目揵連よ、我念ずるに、往昔、一如來の號して [34] 善思 (Sucinta?) 多陀阿伽度・阿羅訶・三藐三佛陀と曰へるありき。彼の佛の所に於て、彌勒菩薩、最初に發心し、諸の善根を種ゑて阿耨多羅三藐三菩提を求めき。時に彌勒菩薩、身、轉輪聖王と作りて毘盧遮那 (Vairocana) と名く。


【34】 善思、三本に「善念」に造り、大事 (Vol. I. 59) には Suprabhāsa(善光)とす。以下、彌勒及牢弓王に關する傳、大事卷一、五九~六〇頁に一致す。



✎ 引用に際しての付記:〝牢弓王に関する伝〟は、次のように始められています。


 (17) 目揵連よ、我念ずるに、往昔、一佛あり、示誨幢如來 (Aparājita-dhvaja) と名く。目揵連よ、我、彼の佛國土の中に於て轉輪聖王と作り、名けて窂弓 (Dṛḍhadhanu) と曰ふ。初めて道心を發し、諸の善根を種ゑて阿耨多羅三藐三菩提を求めき。


✐ 上の弥勒菩薩についての内容の一部をもう少しわかりやすい日本語で書くと

「彌勒菩薩、最初に發心し、諸の善根を種ゑて阿耨多羅三藐三菩提を求めき。時に彌勒菩薩、身、轉輪聖王と作りて毘盧遮那 (Vairocana) と名く。」

は、

「弥勒菩薩が最初に菩提心を起して、種々の善因・善根を積んで《阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)》すなわち《無上の真実なる完全な悟り (anuttarā samyaksaṃbodhiḥ) 》を求めた時、弥勒菩薩は毘盧遮那(ヴァイローチャナ)という名前の転輪聖王となったのでした。」

というあたりでしょうか。


―― その他の原典等を含めて、参照・引用したページを、以下のサイトで公開していますので、引用した資料の詳しい内容は、そちらをご覧くださいませ。


リグ・ヴェーダのアスラ

http://theendoftakechan.web.fc2.com/eII/amrta/asura.html


2021年5月14日金曜日

アヴェスターのアフラ/ヴェーダのアスラ

 ヴェーダの〈アスラ〉は、仏典で〈阿修羅〉という漢字が多く用いられ「あしゅら」と呼ばれています。


 ゾロアスター教やバラモン教についての解説書などを紐解きますれば、その昔イラン高原を目指したアーリア人が聖典として『アヴェスター』を残し、インドに進出した別のグループが聖典として『ヴェーダ』を残したと、おおむねそのように説かれています。

 イラン高原の聖典『アヴェスター』における最強の光の神が〈アフラ・マズダー〉で、その神格は「アフラ(主)」と「マズダー(叡智)」の、ふたつの語によって示されるといいます。

 かたやインドの聖典『ヴェーダ』では、〈アフラ〉と語源を同じくする〈アスラ〉はいつしか神々に敵対する側の勢力、すなわち魔軍の名前とされ、悪魔の一族とみなされるように変遷していきます。

 そしてそれらの神話を構成する、原始アーリア人社会には厳格な階級の区別があって、最上位に神官階級が設定されていたわけです。

 ひとまずここでそのあたりの事情を解説書から抜粋しておきましょう。


『新ゾロアスター教史』

〔青木健/著 2019年03月28日 刀水書房/発行〕


「プロローグ 原始アーリア人の民族移動」

 第一節

 (p.11)

 マルギアナ・バクトリアまで南下した原始アーリア人は、紀元前一五〇〇年ころに再びなんらかの理由で第二次民族移動を開始し、東方のインド亜大陸をめざすグループと西方のイラン高原をめざすグループに分かれた。前者は、インダス文明を築いたとみられる先住のドラヴィダ人の居住空間に入りこみ、インド亜大陸の支配者となった。インダス文明の滅亡と原始アーリア人の侵入の時期は微妙に重なるものの、両者の間に因果関係があったとは証明されていない。ともかく、地味豊穣のインド亜大陸に定住したアーリア人は、先住民族ドラヴィダ人の宗教を吸収してバラモン教を創案し、後世それをヒンドゥー教へと脱皮させながら、長くインド亜大陸の文化的規範を創りあげた。


 第二節

 (pp.14-15)

 神官階級が祈りを捧げるべき神格は多岐にわたるが、大別すれば、倫理的機能を司るアフラ神群(サンスクリット語でアスラ神群)と、自然的機能を司るダエーヴァ神群(サンスクリット語でデーヴァ神群)に二分することができる。

  • アフラ神群 ―― ミスラ、ヴァルナ、アルヤマンなど
  • ダエーヴァ神群 ―― インドラ、ナーサティヤなど

 のちに、原始アーリア人がイラン高原とインド亜大陸に分かれると、どちらの神群を重視するかの取捨選択がはっきりと分かれた。イラン高原のアーリア人は、アフラ神群を尊んで人間の倫理的規範を重視し、善と悪を峻別した。この選択で損をしたのはダエーヴァ神群で、本来はアフラ神群と対立するような存在ではない別系統の神々だったのが、一転して悪魔の地位にまで貶[おとし]められた。ゾロアスター教の善悪二元論の教えも、起源をさかのぼればこの選択の中に胚胎している。これに対し、インド亜大陸のアーリア人は、デーヴァ神群を尊んだものの、アフラ神群を排斥したわけではなかった。その結果、ヴェーダの宗教から、バラモン教、ヒンドゥー教へと、多神教的な発展を遂げていくことになる。



―― 勝てば神軍、負ければ魔軍、なのは世の常、神話の常。つまるところ、もともとは対等の神々だったふたつの神群が、その後の事情で、片方が〝悪いヤツ〟にされてしまったということのようです。

 ようするに仏教経典にも登場して、のちに《天龍八部衆》の一員にあげられる〈阿修羅〉は、そもそも単独の神ではなく、神々の派閥の名でした。バラモン教の『リグ・ヴェーダ』では、霊力の強い神々〈アスラ〉の代表として、ヴァルナとミトラが特に讃えられています。また初期の仏典でもいろいろな名前の「阿修羅王」が話題の中心にしばしば出てきます。

 そして、興味深いことには、イラン高原において〝光の神々〟であった〈アフラ〉の位置づけは、インドでも〈アスラ〉にその影響を残していたらしく、「照らす」とか「太陽神」を意味する〈ヴィローチャナ〉というサンスクリット語が、『チャーンドーグヤ=ウパニシャッド』で〈アスラ〉一族の代表者の名に用いられています。「ウパニシャッド」というのは『ヴェーダ』の〝奥義書〟とされる文献です。


 ここでさらに興味深いことにインドの古典『マハーバーラタ』でも、〈ヴィローチャナ〉は〈アスラ〉の名前なのですけれども、〈ヴィローチャナ〉の息子を〈バリ〉といい、〈バリ〉は〈ヴァイローチャナ〉とも呼ばれるようです。

 でもって、奈良・東大寺の大仏〔奈良大仏〕を〈盧舎那仏(るしゃなぶつ)〉といい、これは〈毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)〉に同じであるとされていて、〈毘盧遮那仏〉は最終如来である〈大日如来〉の別名なのですね。

 そしてこの漢訳された〈毘盧遮那〉は、サンスクリット語の〈ヴァイローチャナ〉であるという次第です。


 続けて調べていくと、未来の救世主〈弥勒菩薩〉まで出てきて、話が転転 ……〈転輪聖王〉は「てんりんじょうおう」と読むらしいのですけれど。


2021年5月7日金曜日

ウルヴァシーとフラワシもしくは魂のウルヴァン

 もはや先月のことになりますけれども、仏教経典の『大智度論』に〈ジャータカ〉として、《一角仙人》の物語が記述されている、ということを書きました。〈ジャータカ (jātaka) 〉というのは、もともとサンスクリット語で、一般には〈本生譚(ほんじょうたん)〉という和訳も多く用いられるわけです。

 この、《一角仙人》の物語はインドの古典『マハーバーラタ』では、次のようになっています。


『マハーバーラタ』 第二巻

〔山際素男/編訳 1992年05月15日 三一書房/発行〕

 森の巻 ❖ ヴァナ・パルヴァン[第三巻]

「ユディシュティラの巡礼」 角のある聖仙の話

 (pp.144-145)

 更に彼らは、大聖仙カシュヤパの息子であるヴィバーンダカの子、リシュヤシュリンガ(かもしかの角をもつものの意、仏教では一角仙人といわれる)聖仙の隠棲地に辿りついた。

 ローマシャは、そこでリシュヤシュリンガの行った奇跡について物語った。

「昔、聖仙ヴィバーンダカが長く厳しい苦行を行い、疲れた体を癒そうと湖に行き、体を洗った。その時、天界一の美女と謳[うた]われたアプサラス、ウルヴァシーの姿を見、欲情を覚え思わず水中に射精してしまった。ちょうどその時梵天ブラフマーの命[めい]で牝鹿になったウルヴァシーが渇きを癒そうと、その水を飲み聖仙[リシ]の精液も一緒に飲んでしまったのだ。そして身籠[みごも]ったのがリシュヤシュリンガである。生れつき彼の額には小さな角がありそのためリシュヤシュリンガ(鹿の角を持つ者)と呼ばれるようになった。



 ここで物語の舞台はインドを離れて、その西側の、とある湖へと移ります。

 興味深いことには、ゾロアスター教の伝説によると、ザラスシュトラ(ゾロアスター)の末裔が、救世主として 3 人生まれるというのです。

 というのは現在ではハームーン湖と呼ばれる湖(伝承ではカンス海)に、ザラスシュトラの精子がおそらくは〝冷凍保存〟されているからであって、世界が終末期を迎えると、その始まりから 1000 年ごとに、由緒ある 15 才の少女が、その湖の水を飲んでサオシュヤントと呼ばれる救世主をそれぞれ受胎するからなのでした。


 ⛞ そして、そのザラスシュトラの精子をフラワシ(守護霊・守護天使)がその間ずっと守り続けているということが、ゾロアスター教の聖典『アヴェスター』の「フラワルディーン・ヤシュト」に記述されているのでした。


『ゾロアスター教』神々への讃歌

〔岡田明憲/著 1982年10月25日初刷 1998年04月30日四刷新装版三刷 平河出版社/発行〕

「フラワルディーン・ヤシュト」 第二十節

 (pp.284-285)

62

義なる者たちの、善き、強き、聖なるフラワシを我らは祭る。

彼らは、彼の義なるスピターマ・ザラスシュトラの精子を見守る〔註150〕

九万九千九百九十九〔柱のフラワシ〕は。


註150 中世ペルシア語書『ブンダヒシュン』によれば、ザラスシュトラが彼の第三夫人たるフウォーウィーに近づいた際に大地に落ちた精子を、ナルヨー・サンハが受け、アナーヒターがカンス海へ運んだとされる。そして、このカンス海で水浴したる乙女によってサオシュヤントが出生するのである。



 ⛞ いっぽう、漢訳された仏教経典では「天女」などとされている、サンスクリット語のアプサラス (apsaras) の、もともとの意味は「天上の水精女」であることが辞書に書かれています。

 そして、『マハーバーラタ』の物語において、湖の水を飲み、一角仙人を生んだ、ウルヴァシー (Urvaśī) は、そのアプサラスたちの中でも特別扱いされていて、リグ・ヴェーダにも登場して半神族のガンダルヴァらと人間界をつなぐ役目をする、代表的な存在でした。


  そして「フラワルディーン・ヤシュト (§62) 」で、救世主の誕生までを見守るフラワシ (fravaši) は、


 フラワシを祭るハマスパスマエーダヤ(万霊節)は、ゾロアスター教の七大祭の一つであった。一年の最後に祝われるこの祭りの夜、フラワシは生ける人びとのうちに帰ってくるのである。

〔ちくま学芸文庫『宗祖ゾロアスター』前田耕作/著 2003年07月09日 筑摩書房/発行 p.216〕


と、位置づけられ、イランの言語で「霊魂」を意味するウルヴァン urvan(ソグド語 rw’n, ’rw’n )は《盂蘭盆》の原語であったとも考えられている、という次第であることが、そのほかのさまざまな文献からみえてきたのでした。


―― でもって、和訳された原典等を参照・引用したページを、以下のサイトで公開しています。


アヴェスターの救世主サオシュヤント

http://theendoftakechan.web.fc2.com/eII/amrta/avesta.html


2021年5月1日土曜日

2021年4月27日火曜日

アミターバはアミダババアのプロトタイプ

 日本にはゴジラに匹敵する有名な怪獣に憑依した、アミダババア(阿弥陀婆)という魔物、ないしは妖怪変化(ようかいへんげ)が棲んでいる。

 棲んでいる、というのは、ひとびとの脳裡にひそんでいるという意味になる。


 このアミダババアの正体を探るために、ためしにサンスクリット語で書いてみると、


अमिदबभ Amidababha


とでもなろうか、これは、〈阿弥陀仏〉のサンスクリット語である、


अमिताभ Amitābha


と非常によく似ている。―― というのは、あえて論ずるまでもない話ではあろうが、

 説明しよう。

〈阿弥陀婆〉はアミダくじを介して〈阿弥陀仏〉をそのプロトタイプ(原型)としているからなのだ。


 ⛞ というわけで、前回、〝南無阿弥陀仏〟の〈南無〉について多少語ったので、〈阿弥陀仏〉についても少々調べてみることにしました。

 そもそも〝阿弥陀(あみだ)〟には、〝アミターバ〟と〝アミターユス〟の二種のサンスクリット語があって、それぞれ、〝アミターバ〟は〝無量光〟、〝アミターユス〟は〝無量寿〟と漢訳されています。

 ですから、〈阿弥陀仏〉には〈無量光仏〉と〈無量寿仏〉という別名があります。

 とりあえずはここで、〝アミターユス〟のサンスクリット語のデーヴァ・ナーガリー文字の紹介と合わせ、いま一度、〝アミダババア〟と〝アミターバ〟も併記しておきましょう。


अमिदबभ Amidababha

अमिताभ Amitābha

अमितायुस् Amitāyus


 さて、〝アミターバ〟と〝アミターユス〟のサンスクリット語の構成は、次のように解釈されています。


अमित-आभ amita-ābha  無量・光明

अमित-आयुस् amita-āyus  無量・寿命


 まずはさきに、最後の〝アーユス(寿命)〟の部分について辞書をみると、


आयुस् āyus  生命・寿命・長寿 【漢訳】命・寿・寿命・寿量


と、なっているわけです。そして、〝アーバ(光明)〟は、


-ābha  似たる ⇒ ābhā  【漢訳】如・光

आभा ābhā  光沢・光;色・美 【漢訳】光・光明・威光

ābhā ⇒ ā-bhā

ā  近く(……の中に・……の近くに)

bha = bhā  外観・類似

bhā  光輝・光明・壮麗光 ⇒ bha  【漢訳】光明


というような具合で、構成が少々ややこしくなっています。

 最後に、共通する〝アミタ(無量)〟の語を調べてみると、これもふたつの語に分解され、のみならず、かなり複雑な構成になっていました。


a-mita  無量の

 【漢訳】無量・無有量・無極・無尽

अ a-  〔母音の前では一般に an- 〕[否定的接頭音]

 【漢訳】不・非

मित mita  [過去受動分詞]量られた ⇒ Mā

 【漢訳】有量

मा   量る;測定する、区分する;横切る

 【漢訳】量度・量知多少・検量知多少


 つまり、〝マー(量る)〟という動詞が過去受動分詞の〝ミタ(量られた)〟に変形したところに、〝ア〟という否定の接頭辞が合体して、〝アミタ(量られない・無量)〟という語が完成し、さらにはそこから、最終形態の〝阿弥陀如来〟もしくは〈阿弥陀仏〉ないしは〈無量光仏〉〈無量寿仏〉という仏陀・如来が、仏教経典に登場する次第なのですな、なるほど。


2021年4月13日火曜日

ジャータカ:仏陀の〈本生譚〉のことなど

 仏教経典の『大智度論』に〈ジャータカ〉として、《一角仙人》の物語が記述されています。

 ここで〈ジャータカ (jātaka) 〉というのは、サンスクリット語で、


जातक Born, produced.

V. S. アプテ『梵英辞典』(改訂増補版)〔昭和53年4月15日 複製第1刷 臨川書店/発行 p.733 〕


「生まれたる」

【漢訳】生、本生、受生

「嬰児」

「誕生時の星辰の位置又は観測」

【漢訳】[星宿]生処。生経、本生経、降誕経、本生、本生之事

【音写】闍陀伽

『漢訳対照 梵和大辞典』増補改訂版 昭和54年8月20日 講談社/発売 財団法人鈴木学術財団/編・刊 p.498 〕


と、辞書にあり、一般には〈本生譚(ほんじょうたん)〉という和訳も多く用いられます。

 でもって、〈本生譚〉とは、修行を終えて仏陀となった釈尊の菩薩時代の前世(過去世)の物語なのですが、まずは、仏陀(ブッダ)という語などについて解説しておきたいと思います。


 後に仏陀と呼ばれる、古代インドの釈迦 (Śākya) 族の王子の名前が、ゴータマ・シッダールタです。

 ゴータマは姓にあたり、サンスクリット語では Gautama となり、パーリ語では Gotama となっていて、もっぱら瞿曇(くどん)と漢訳されています。

 シッダールタはサンスクリット語の名で Siddhārtha という発音で書かれ、いっぽうパーリ語ではシッダッタ Siddhattha という発音になっていて、悉達多(シッダッタ)・悉陀(シッダ)など種々に漢訳されます。

 仏陀を〈釈迦〉というのは〈釈迦牟尼(しゃかむに)〉の略称で、〈釈迦牟尼(シャーキャ・ムニ)〉はサンスクリット語で〝釈迦族の聖者〟の意味となります。

 サンスクリット語のムニ muni はもともと〝霊感を得た人〟の意味をもち、漢訳経典では「牟尼、牟尼尊」のほかに「仙、仙人、大仙、神仙、默、寂默、寂默者、仁、尊、仏」なとど訳されているようです。


 この釈迦族の王子ゴータマ・シッダールタが、聖者として、シャーキャ・ムニと尊称されるわけです。

 シャーキャ・ムニ Śākya-muni は、〈釈迦牟尼〉と音写され、また〈釈尊〉と漢訳されています。この漢訳は〝釈迦族の尊者〟という意訳の省略形と考えればよさそうです。


 そしてサンスクリット語の過去受動分詞であるブッダ buddha が、〈仏陀〉と音写され、「覚者(かくしゃ)」あるいは「目覚めた人」と意訳されるわけです。この言葉はそもそも「目覚めた、完全に目覚めた」などという意味をもつ過去受動分詞なので、サンスクリット文献では、仏教に特有の用語というわけではないのですね。


 また、仏教の場合には、悟りを求めて修行中だった菩薩 (Bodhisattva, Bodhisatta) が、修行を完成して、最終形態の如来 (Tathāgata) となるわけですが、この如来(にょらい)という最終形態も仏教以前からの用語らしく、ジャイナ経典にも登場するそうです。

 ちなみに、タターガタ Tathāgata の tathā は〝その如く(そのごとく)〟というような意味で、gata は〝来れる(きたれる)〟という意味なので、合わせれば〝その如く来れる〟で〈如来〉となり、この漢訳が用いられるのは後漢の安世高に始まるようです。


 そして、仏教ではたとえば〈阿弥陀仏〉=〈阿弥陀如来〉で、すなわち〈仏陀〉は〈如来〉と同等の意味をもちます。

 そういうわけで、〝釈迦族の聖者である仏陀〟が〈釈迦牟尼仏〉=〈釈迦如来〉ということになります。


 ここで余談になりますけれども、称名念仏(しょうみょうねんぶつ)の代表格である〝南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ・なもあみだぶつ)〟の南無はサンスクリット語のナマス namas (namo) の音写で、「帰命(きみょう=帰依すること)」の意味なので、〝南無阿弥陀仏〟では「阿弥陀仏に帰依します」の意味をもつことになります。

 サンスクリット語の原典としては、『法華経』の〈南無仏〉という漢訳の部分が、

 namo 'stu buddhāya

〝仏に帰依したてまつる〟として、比較的容易に確認できるようです。

〔中村元著『広説佛教語大辞典 縮刷版』平成22年7月8日 東京書籍/発行 p.1277 〕


 namo 'stu buddhāya

『ブッダに敬礼(帰命)すべし』

 訳注 131

 buddhāya は、WT. では属格の buddhāna となっているが、その必要なし。namo 'stu buddhāya は、「仏陀に敬礼すべし」という決まり文句である。

〔植木雅俊訳『梵漢和対照・現代語訳 法華経 上』2008年3月11日 岩波書店/発行 pp.118-119, p.157 〕


 さて冒頭に、仏教経典の『大智度論』に〈ジャータカ〉として、《一角仙人》の物語が記述されています、と書きましたけれども、この物語は『大智度論』の著作者が、おそらくはインドの古典『マハーバーラタ』から採用したものです。

 ちなみに『大智度論』の著作者は、多少の疑いを残しつつ龍樹(ナーガールジュナ Nāgārjuna )ということになっていて、その龍樹は西暦 150~250 年頃のインドの人です。


―― でもって、それらの和訳された原典等を参照・引用したページを、以下のサイトで公開しています。


一角仙人と天女ウルヴァシー

http://theendoftakechan.web.fc2.com/eII/amrta/veda.html


2021年3月26日金曜日

太陽と地平線の彼方の文化

 ⛞ 前回に、「機械式の時計(自鳴鐘)を中国の皇帝が手にしたのは、17 世紀の最初の年の 1 月」(1601) であることを紹介しました。中国の明王朝 (1368~1644) の時代に、キリスト教の宣教師が中心となって、西洋の文明を東洋にもたらしたわけですが、日本への布教では、フランシスコ・ザビエルによって、大内義隆に自鳴鐘が献上されたのは 1551 年のことです。


 ✐ その後、イギリスとのアヘン戦争 (1840~1842) の敗戦によって中国は開国を余儀なくされ、すると中国語を学習したキリスト教の宣教師たちの往来が活発となって、さらに多くの新しい科学が、清王朝 (1616~1912) にもたらされることになるわけです。


 ▣ 日本へは、弘化三年 (1846) に、アメリカ東インド艦隊司令長官ビッドルが、浦賀にやってきます。それからややあって浦賀沖に、ペリー率いる黒船が来航したのは、嘉永六年 (1853) のことになります。

 ▣ 慶応二年 (1866) に徳川慶喜が将軍職を継いで、江戸幕府第十五代将軍となります。そして慶応三年に「大政奉還」の上表を朝廷に提出した翌年には、明治元年 (1868) となるのです。



 ○ 中国語の刊行物を日本語訳した文献から、当時の科学書翻訳の状況を参照できます。


『中国科学技術史』 下

〔中国科学技術史稿 下冊 科学出版社(北京、中華人民共和国)、1982〕

杜石然・范楚玉・陳美東・金秋鵬・周世徳・曹婉如/編著

川原秀城・日原伝・長谷部英一・藤井隆・近藤浩之/訳

〔1997年03月20日 財団法人 東京大学出版会/発行〕


第 10 章 2. 洋務運動と西洋科学技術知識の大量流人

「科学技術書の翻訳」

 (pp.573-574)

 科学技術書の編訳・出版が、ヨーロッパの先進科学技術を学ぶ手段の 1 つとして、きわめて重要であることは改めていうまでもない。事実、アヘン戦争前後、ことに 1860 年代後半ごろから、ヨーロッパの科学技術書がつぎつぎと翻訳紹介された。

 1862 年、清朝政府は“同文館”の設立を決定、最初は外国語課程のみでスタートした[朝廷が外国語人材の養成のため機関を設立した例として最も早いのは、明初 [1638] 設立の“四夷館”である。“四夷館”は清朝に入ると、“四訳館”と改称された。また乾隆年間には、“俄羅斯館”も増設された。だが“四訳館”や“俄羅斯館”の実際の教育効果はほとんどなく、これら館員のほとんどは俸禄をうけるだけの閑職にすぎず、たとえば俄羅斯館で試験を実施したところ、講習[教師]のなかでロシア語を知っている者はわずか 1 人のみてあり、学生のなかには誰 1 人としてロシア語を解する者はいなかった。両機関はのち、同文館に吸収された]。1866 年には、“機器を製造するには必ず須らく天文算学を講求すべきに因りて、同文館内に一館を添設するを議し”、“天文算学館”を附設し、著名な数学者の李善蘭を総教習として招聘した。同時にヨーロッパに人員を派遣し、外国籍の化学・天文学・生理学などの教師を招聘した。また北京以外においても、清朝政府は 1863 年、上海に京師同文館に倣って“上海広方言館”を設立し、翌年、広州に“広州同文館”、1868 年、江南製造局に翻訳館を設置した。これらの機関は科学技術書をつぎつぎと翻訳出版した。洋務派官僚の工場経営と同じく、これらの機関もそのほとんどが外国人によって管理運営された。たとえば、同文館はアメリカの宣教師マーチン[ William A. P. Martin(中国名、丁韙良)、1827‐1916 ]が運営し、上海の江南製造局訳書館はイギリス人のフライヤー[ John Fryer(中国名、傅蘭雅)、1839‐1928 ]が運営した。


 ○ このことは、つぎのようにも語られています。


『中国語における東西言語文化交流』

〔千葉謙悟/著 2010年02月20日 三省堂/発行〕


「序論」 近代翻訳語の創出と交流

 (pp.9-10)

 西洋の諸言語を学ぶことが公式には禁じられていた時代から外国語の知識が蓄財や官途に結びつくようになる時代に至るまで、中国側における西洋言語の運用力は極少数の例外を除けば総じて低かった。当時中国の知識人のほとんどは外国への関心が低く、外国語の学習の必要性を感じていなかった。従って西欧の新知識は中国語で表現されなければ中国では理解されようがなかった。そこで西欧言語から中国語へ翻訳する努力が払われることになる。それはいわば一つの文明を丸ごと翻訳する試みに近いものとなった。

 欧米人 ― 特に 19 世紀初頭に来華したイギリス人宣教師ロバート・モリソン( Robert Morrison、中国名馬礼遜)をはじめとするプロテスタント宣教師 ― は中国人に中華世界以外の「文明世界」が存在するということを知らしめる必要があった。彼らの宗教が尊崇され改宗するに値する価値を持つことは、キリスト教を基礎に発展した科学とそれを応用した技術を認めさせることによってこそ示しうると彼らは考えた。同じ道理から、中国を中心とした世界地理の認識を改めさせることも彼らの任務の一部分となった。特に 19 世紀においては布教に際しキリスト教の教義が「夷人」の妄言にすぎないという偏見を打破しなければならなかったのである。



 ○ いっぽうで、中国の科学技術については、つぎのような研究もあります。


『中国の科学と文明』 第5巻 天の科学

ジョゼフ・ニーダム (Joseph Needham) /著

吉田忠・高柳雄一・宮島一彦・橋本敬造・中山茂・山田慶児/訳

〔1991年09月20日 新版 思索社/発行〕


第 20 章 天文学 (g) 天文器具の発達

 (6) 渾儀と他の大きな観測機械 (i) 渾儀の一般的発展

 (p.216)

張衡の時代以後のほとんどの説明用渾儀 ―― すなわち望筒の代わりに中心に地の模型を置き、後には地平線を示す上端の平たい箱の中に埋められた渾儀 ―― は、水力によって回転された。この動かし方は初めはかなり粗雑なものであったに違いない、しかし一行と梁令瓚が脱進機の形式を発明し、さまざまの種類のジャッキの作用を渾儀の回転と結び付け、本質的な意味ですべての機械時計の第 1 号をつくった +725 年がひとつの転機となった(第 27 章 h を参照)。その後の時計、張思訓の +979 年の時計は動力としては水の代わりに水銀を使用した。



 そのむかし、キリスト教の布教と同様に、中国への仏教の布教においても、西域からの仏教僧が多くの仏教経典を漢訳しています。そのはじめは、2 世紀のことだとされています。

 しばらくは、そのようなキリスト教の布教状況と同様の時代が経過したのち、中国人僧侶の法顕が天竺めざして、400 年ころに中国と西域を往復した記録が残されています。

 そして日本への仏教の伝来と同時期の 6 世紀には、中国の漢字文化のみならず科学的な技術が百済を経由して(奈良県の明日香村に)到来したことが、日本最初の本格的寺院である飛鳥寺(あすかでら)の発掘調査によって知られているのです。


『飛鳥寺』

〔坪井清足/著 昭和39年02月10日 初版 中央公論美術出版/発行〕


「4 百済の工人の指導のもとに」

 (pp.20-21)

 さきに南の石敷広場の北縁が、伽藍中心線と七度ずれていることを注意したが、飛鳥寺伽藍の中軸線は、実測の結果ほぼ真北をさしており、その誤差は分以下の単位であることがわかった。これは飛鳥寺の造営にあたって、その地割りの基本線を天測による真南北線にもとめたことを物語っており、これと直角にまじわる東西の線は、各建物によって一度ないし一度半もくるっている。このようなことは奈良の薬師寺でも例があって、地割りをした人と、建物を建築した技術者がちがっていたことを示すものであろうと考えている。


「7 歴史の中の飛鳥寺」

 (pp.34-35)

 わが国に仏教が伝えられたのは、六世紀の中頃のことで、帰化系の人々を中心としてその信仰がひろまり、一部に尼寺がつくられはじめた。ところが、新来の異国の宗教と、古来の神道のいずれをとるべきかという論争がはげしくなり、やがて当時の進歩勢力の代表である蘇我氏と、旧守勢力の代表である物部氏の政治的闘争となり、数十年の長きにわたって争うことになった。

 この争いが、物部氏の敗戦によって仏教派の勝利に帰した翌年、すなわち崇峻天皇元年 (588) に、本格的な僧寺の建立が計画され、これに必要な指導をあおぐために、はじめて百済国に僧侶や技術者の派遣が要請された。こうして百済から派遣された六名の僧侶をはじめとし、大工、塔の屋上にとりつける露盤つくり、瓦師などの指導によって本格的な工事がはじめられた。つまり法興寺(飛鳥の地につくられたため一般には飛鳥寺とよばれている)の建立である。この造営は蘇我馬子によって命ぜられ、帰化系の山東漢直麻高垢鬼[やまとあやのあたいまこくき]や意等加斯[おとかし]らが多数の部民を使役しておこなわれたことが、『日本書紀』と『元興寺縁起』にみえている。また、崇峻天皇三年 (590) には、山に入って寺の材をとり、五年 (592) に仏堂、歩廊(回廊)などを建てはじめ、翌推古天皇元年正月十五日に、塔の心礎に舎利をおさめ、翌日心柱をその上に建てた。推古天皇四年 (596) に塔が完成し、寺僧が住みはじめたと記されている。推古天皇十三年 (605) に、天皇は聖徳太子はじめ馬子大臣以下に、銅製と刺繡製の丈六仏をつくるようにとの詔勅をだされ、鞍作鳥を造仏工に任ぜられた。


 ✥ 飛鳥寺の発掘調査は、昭和 31~32 年 (1956~1957) に、行われました。


―― その他の各種資料を参照したページを、以下のサイトで公開しています。


〈太陽〉と〈地平〉の彼方の文化

http://theendoftakechan.web.fc2.com/eII/hitsuge/horizon.html


2021年3月3日水曜日

自鳴鐘:西欧の機械式時計

 記録によれば、中国の皇帝がキリスト教宣教師からの贈り物として、渡来の「時を告げる時計(自鳴鐘)」を手にしたのは、明の万暦 28 年 12 月(西暦 1601 年 1 月)で、これは 17 世紀の最初の年の 1 月となるのですけれども、日本への西欧時計の伝来は、それよりも半世紀早い 16 世紀の中頃で、フランシスコ・ザビエルによって、大内義隆に献上された 1551 年(天文 20 年)が最初とされています。


 その後、慶長 17 年 (1612) の『異国日記』に記された、徳川家康へのノビスパニヤ国主からの贈り物の目録に「斗景」とあり、この〈トケイ〉を新井白石が享保 4 年 (1719) の『東雅』で、「斗鶏」と記して紹介したわけです。

 現代まで用いられている「時計」の文字の登場については、その間の貞享 2 年 (1685) の日付がある『京羽二重』に「時計師」という職人が記録されています。

 つまり、西暦 1680 年代には、日本で、西欧式の時計の製作などが行われていたようなのですけれども、これは振子時計であることが、西鶴の作品によって推定されます。


 井原西鶴の「好色一代男」は天和 2 年 (1682) の処女作、「日本永代蔵」は貞享 5 年 (1688) の刊行です。


日本古典文学大系 47

『西鶴集 上』

〔麻生磯次・板坂元・堤精二/校注 1957年11月05日 岩波書店/発行〕

「好色一代男 卷五」

 (p.131)

[原文] 里へ帰[かへ]る御名殘[なごり]に、昔[むか]しを今に一ふしをうたへばきえ入[いる]斗[ばかり]、琴彈[ことひき]歌[うた]をよみ、茶[ちや]はしほらしくたてなし、花[はな]を生替[いけかえ]土圭[とけい]を仕懸[しかけ]なをし、

(頭注)

土圭を仕懸なをし 当時昼夜の時間の長短があったので毎日分銅を調節する必要があった。


日本古典文学大系 48

『西鶴集 下』

〔野間光辰・/校注 1960年08月05日 岩波書店/発行〕

「日本永代藏 卷五」

 (p.141)

[原文] 年[ねん]中工夫[くふう]にかゝり、昼夜[ちうや]の枕[まくら]にひゞく時計[とけい]の細工[さいく]仕掛置[しかけをき]しに、



 ◎ ようするに、オランダとの交易が行われていたその当時《不定時法》を用いていた日本では、早くも 1680 年代にはすでに、ある程度の振子時計が国内生産されていたらしいのです。

 《不定時法》というのは、日の出とともに朝が始まり、日の入りで夜の時間帯となる、つまり生活が太陽とともにある、自然のリズムを基調とするものです。

 そのため、季節によって昼夜の時間の長さが変化するので、時間間隔が一定しない、という問題が発生するわけです。また、昼と夜の長さが同じなのは、一年で春分と秋分の日だけなので、振子の長さを調整することで時計の時間間隔を変化させることのできる振子時計は、大変有効なものであったと思われます。


―― ところで、〝早くも 1680 年代には〟という表現を、ここで使ったのには次のような理由があります。


 ヨーロッパに、最初の機械式時計が登場したのは、西暦 1300 年頃といわれます。それから 100 年余が経過して 1400 年代の 15 世紀には、時計の小型化が進みますが、その正確さはいまひとつでした。

 ガリレオがイタリアで振子の等時性を発見したのは、伝説的記録によって、1583 年頃 19 才のときであるとされるようです。その後、1656 年から時計の研究をはじめたオランダ人ホイヘンスは、翌 1657 年には振子時計を設計しています。それからまもなく、完全な等時曲線は〈サイクロイド〉であることが、1659 年にホイヘンスによって発見されることになるのです。


 つまり、1657 年にホイヘンスによって設計された振子時計はリアルタイムで船舶に搭載されたでしょうし、そのようにして舶来しただけでなく、1680 年代の日本の市中に、恐らくは国産品として出回っていたことが日本の刊行物の記録によって理解できるわけです。

 のみならず、日本独自の工夫として、振子に調節のための尺度が描かれたものを、尺度計(尺時計)と称したことが、知られています。


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自鳴鐘:西欧の斗鶏 ―― とけい ――

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2021年2月18日木曜日

漏刻(トキノキザミ)と斗鷄(トケイ)

  新井白石 (1657~1725) は、享保四年 (1719) の『東雅』に、「漏刻」の項を設けて「トキノキザミ」とカナを振っています。


『新井白石全集 第四』 〔新井白石/著・市島謙吉/編輯兼校訂〕

明治39年04月25日 吉川半七/發行

「東雅卷之七」器用第七

 (p.132)

漏刻 トキノキザミ

我國漏刻の制。いづれの頃ほひにや始りぬらむ。國史には天智天皇の太子にておはしませし時に。始て親所制造也。と見えたれば。此事をもて。其始とやなすべき。トキノキザミとは。時刻也。其制度の如きは不詳。後代に及びて其博士を置れしも。如何なる制をや用ひたりけむ。これも不詳。

慶長年中に。西洋人トケイといふ者をまいらせし事あり。其制に傚ひて作れる物。今は盛に世に行はれぬ。トケイといふ事は蕃語にはあらず。其時の事しるせし日記には。斗雞としるしたりけり。これは明の人して其蕃語を譯せしめてまいらせし所也。其器の制。北斗のかたちの如くなる者ありて。其指す所に隨ひて其時を知り。おのづから鳴りて時を報する事。雞の如くなれば。かくは名づけしにや。其器の妙用にかたとりいひし事。只二字に盡きぬ。今は其字を用ひざるにや。


 新井白石は『東雅』で、江戸時代が始まった慶長年間 (1596~1615) の舶来品に「トケイ」というものがあったことを述べるに際して、新井白石自身が発見したという、当時の日記を引用して「斗雞」の語を記しています。その文章の最後に「今は其字を用ひざるにや」と書き添えているのは、「時計」という文字による表現が当時すでに世間に流布していたためでしょう。

―― ちなみに新井白石が発見した慶長の日記というのは『異国日記』と題されたものです。また「時計」の表記は、貞享五年 (1688) に刊行された井原西鶴の「日本永代蔵」で確認することができます。


 新井白石が用いた「斗雞」の語は、宝暦十二年 (1762) に刊行された谷川士清の『日本書紀通証』で引用されたこともあってか、その後、明治期から昭和に至るまで長く用いられることになります。


 ◎ 谷川士清は、新井白石の記述を次のように引用しています。


『日本書紀通證』 〔谷川士清/撰述〕

寳暦十二年壬午冬刻也 五條天神宮藏版

「日本書紀通證巻三十一」齊明天皇紀

 (p.10)

初造漏尅 トキノキサミ

荒井氏謂慶長中日記作斗雞此明人所譯番語也葢此器有如北斗象者故曰斗自鳴而報時無差故曰雞


 ◯ 昭和になってから折口信夫が「斗鶏」という表現を使っています。


『折口信夫全集』 2 〔折口信夫/著・折口信夫全集刊行会/編纂〕

1995年03月10日 中央公論社/発行

「山のことぶれ」 〔初出:昭和二年一月「改造」第九巻第一号〕

 (p.430)

鶏犬の遠音を、里あるしるしとした詩人も、実は、浮世知らずであつた。其口癖文句にも勘定に入れて居ない用途の為に、乏しい村人の喰ひ分を裾分けられた家畜が、斗鶏[トケイ]や寝ずの番以外に、山の生活を刺戟して居た。



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暦の日本伝来と漏剋(ときのきざみ)

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2021年2月9日火曜日

常世(とこよ)の長鳴鳥

 「鶏鳴(けいめい)」という言葉の意味を『広辞苑』で見ると、


① 鶏の鳴くこと。鶏の鳴き声。

②(一番どりの鳴く頃であるからいう)丑(ウシ)の時、すなわち今の午前二時頃。

③ 明けがた。夜明け。


とあります。ようするに鶏が鳴けば朝が来て、一日が始まる、という、古い時代からの日常基本の概念がここに網羅されているわけです。

 丑の刻は〈午前 1 時〉から〈午前 3 時〉までで、平安時代の頃は、丑の次の、寅(トラ)の刻から一日が始まったようです。


 今回のタイトルの〝常世の長鳴鳥〟というのは、「天の石屋戸」事件の際に、八百万の神が行った〝日神招喚の儀式〟のため集められた〝鳥〟のことで、これは〝鶏〟であると一般的に解釈されています。

 いまも伊勢神宮では、遷宮の際は「鶏鳴三声」を合図に、遷御の儀が行われるそうです。


 〝常世〟は、終らない世界を表現したもので、中国の神話伝説では、不死の仙人が住む〝蓬莱山(ほうらいさん)〟が、該当するでしょう。ちなみに中国の仙人は不死ではあっても、多くはどうやら不老ではないように思われます。

 中国の史書の記述には、秦の始皇帝が〝蓬莱山〟にあるという秘薬を求めて「徐福(じょふく)」〔史記に「徐市(じょふつ)」とも〕を派遣したとあり、また漢の武帝はリアルに不死の秘薬を得るため、神仙の術すなわち方術を使う方士を海上に派遣したようです。


日本の伝説にも〔古事記と日本書紀で表現された文字は多少違いますけれど〕、

 垂仁天皇の時代に、

 古事記では〝常世国(とこよのくに)〟にある「登岐士玖能迦玖能木実(ときじくのかくのこのみ)」を求めるため、「多遅摩毛理(たぢまもり)」を派遣し、

 日本書紀では同じく〝常世国(とこよのくに)〟にある「非時香菓(ときじくのかくのみ)」を求めるため、「田道間守(たぢまもり)」を派遣しています。


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鷄人・鶏鳴・常世(とこよ)の長鳴鳥

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2021年1月27日水曜日

唐獅子の〈宝珠〉・ 高麗犬の〈一角〉

 たとえば、ネパールの獅子像にあって最も注目に値する特色は、頭上にある「宝珠」だろう。

―― というのは、『獅子』

〔荒俣宏/著・大村次郷/写真 2000年12月27日 集英社/発行〕

「ネパールの宝珠を冠った獅子」(p.56) にある一文です。


 日本の神社に鎮座する《狛犬(こまいぬ)》は《高麗(こま)犬》のことだとされますが、お寺にある仁王像のように「阿吽(あうん)」が一対となっていて、そもそもは口を開けた「阿」が《獅子》で閉じた「吽」が《狛犬》という役割分担があって《獅子・狛犬》と呼ばれていました。

 そして古くは、《獅子》には頭頂に〈宝珠〉があって、《狛犬》の頭頂には〈一角〉がある場合が多いのです。


 頭頂に〈一角〉をもつ《一角獣》は、西洋ではユニコーンとして知られていますけれども、日本には、《狛犬》のほかに幻獣《麒麟》とか《麒麟獅子(きりんじし)》とかがいるわけです。


 日本への伝来以前を考えると、中国に野生のライオンはいないため、漢の時代に《獅子》を語る中国人にとって《獅子》は幻想動物に近かったかもしれません。

 また幻想動物(合成獣)である《麒麟》の最大の特徴としては、『大漢和辞典』でも「頭上肉に包まれた一角あり」と解説されるように、〝角の先端が肉に覆われている一角獣〟ということでしょう。


 この〝角の先端が肉に覆われている〟状態は、ネパールにある獅子像の〈宝珠〉と見た目は同じであるともいえます。

 実際に、その見た印象は、ネパールの獅子像と同じような〈宝珠〉だったとしても、〈一角〉を持つ青銅の鍍金像が中国の河南省から出土した際には、後漢の時代の《麒麟》の像であるとされるわけです。


 頭頂にあるのが〈宝珠〉ならば《獅子》で、〈一角〉ならば《麒麟》であると前提するなら、もしかして《狛犬》はもともと《麒麟》の担当であったかもしれないと、空想は飛翔していきますが。

 中国では、いまも各地に残る、角や翼のある巨大な霊獣の像を麒麟像と呼ぶ場合があるようです。


 そこから時空を超え、西域から渡ってきた霊獣《獅子》と、中国の《麒麟》伝説が融合した千年以上も先の未来、日本の江戸時代に〝麒麟獅子舞〟が因幡国で行われるようになった次第でありましょうか。


 ところで、ライオンを表す漢語は〝獅子〟ですが、〝獅〟という文字は、ペルシャ語の「シール (shīr) 」の音写であるとも、サンスクリット語の「シンハ (shṃha = shṁha) 」を翻訳したものであるともいわれています。


 サンスクリット語に近いパーリ語では、ライオンは「シーハ (sīha) 」で、それと似た発音の「シンガ (siṅga) 」では「角、角笛、角の容器」とか「若獣、子牛」の意味になります。

〔水野弘元/著『増補改訂パーリ語辞典』(p.357, p.354)〕


 また、玉を持つタイプの唐獅子を「狻猊(さんげい)」といって、この言葉はチベット語「センゲ」“seṅ ge (seng ge)” の音写であるともいわれます。


⛞ チベット語の〝獅子〟“seṅ ge” は、次のように記述されます。

〔〝獅子座〟“seṅ geḥi khri” は、仏陀の座る場所のことになります。〕


『チベット語字典』 草稿本(縮刷版)

〔芳村修基/編 法蔵館/発行〕

 (p.1021)

སེང་གེ ① siṁha 狮子

 (p.1022)

སེང་གེའི་ཁྲི (日)狮子座


⛞ サンスクリット語の〝獅子〟「シンハ “siṁha” 」は、次のように記述されます。


V. S. アプテ『梵英辞典』(改訂増補版)

〔昭和53年04月15日 複製第1刷 臨川書店/発行〕

 (p.1679)

सिंहः 1. A lion


 そして、興味深いことには、「ライオン」の意味をもつスワヒリ語が「シンバ(スィンバ)」という発音なのでした。


 ちなみに、現実の《一角獣》は、インド原産の「一角犀」しか存在しないといわれています。


―― 各種資料を参照した詳しい内容のページを、以下のサイトで公開しています。


《一角獣》と《獅子》と《狛犬》

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