2018年12月27日木曜日

穴師塚は 横枕火葬墓群の 約 600 メートル西にある

 夏ごろに検討を開始してもはや年末なのだけれど、「穴師塚」の場所について推定座標の決着をつけたい。
 まず地名辞書にも出てくる「穴師山」なのだがこれは「巻向山」なのだと、書いてある。

『角川日本地名大辞典』 29 奈良県

 あなしじんじゃ 穴師神社〈桜井市〉

桜井市穴師字宮浦にある神社。旧県社。当社は「延喜式」の神名上に見える穴師坐兵主神社・穴師大兵主神社・巻向坐若御魂神社の 3 社を合祀したもので、穴師神社はその総称である。当社はもと上社と下社に分かれ、下社が穴師大兵主神社で現在地に鎮座、上社は穴師坐兵主神社で巻向山中にあったが、応仁の乱の頃に焼失したので、御神体を下社に合祀し、同時に同じく山中に鎮座していた巻向坐若御魂神社も下社に合祀されたという(穴師坐兵主神社明細帳・大和志料)。現社殿 3 棟の中央社殿が穴師坐兵主神社、左殿が穴師大兵主神社、右殿が巻向坐若御魂神社。穴師坐兵主神社はもと巻向山(穴師山)にあり、垂仁天皇 2 年に鎮祭されたと伝える(穴師坐兵主神社明細帳)。……
〔『角川日本地名大辞典』 29 奈良県 (p. 96)

 この穴師山とは、現在は三角点が設定されている〈基準点名「穴師」標高 409m 地点〉と推定される。また、同じく巻向山中にあり応仁の乱の頃に焼失したと伝えられる巻向坐若御魂神社のかつての所在地は、小川光三氏の『大和の原像』に記された、穴師塚のある場所なのであろうと思われるのである。
 小川光三氏の『大和の原像』の 127 ページに、こう記述されている。

 このあたりには、現在大兵主神社に合祀されている「若御魂[わかみむすび]神社」があったという伝承がある。

―― 小川氏がその伝承に基づいて現地を歩き、そして地元のひとびとに取材した記録が、続いて次のようにつづられている。

 以前に面識のあった元区長の N 氏を訪れると、私の目差すあたりの山中に詳しいという T 翁を紹介された。幸い在宅中の翁は突然の申し出に快く応じて、座敷に広げた地図に私が指差す地点をしばらく見守っていたが、「ふうん、横枕[よこまくら]の先の方やと穴師塚やな」。低いがはっきりした声でそう言い切った。地図を覗き込んでいた同行の O 君が、思わずニヤッとして私の顔を見上げたが、私は期待していた言葉とはいえ、こうはっきりと開かされると思わずハッとして翁の口元を見詰めた。しばらくして再び口を開いた翁は、この山の南山麓に「都谷[みやこだに]」の地名がありこれは穴師社のあったことに由来すること、そこに小祠があってこの山の方角を拝むようになっていたこと、元檜原は都谷のあたりらしいこと、更にこの山の東方約六百メートルに横枕という所があり、ここから石帯・和同開珎のつまった壺、そのほか多数の土器類・骨壺等が出土したことなどをゆっくりした口調で話してくれた。これで B 点には穴師上社(兵主神社)の父神という若御魂社があったらしいことがほぼ明らかにすることが出来たわけだが、考えてみると、御食津神の父神という伝承はまことに奇妙ではないか。これが何を意味し、何に由来するのかという手がかりは全く無く、大兵主神社にその伝承について尋ねてみたが、ただそのように伝えられているというのみで、古文書がすべて散逸した今は詳しいことがわからぬとのことであった。父神というのは、新宮[にいみや]に対する本宮[もとみや]の意味なのか、単なる奥の院的なものなのかは不明である。だが、もし前者の意味があるとすれば、この上の郷一帯に注目する必要がある。
〔小川光三/著『大和の原像』 (pp. 128-130)


―― さてこの内容から推定される座標を記録しておこう。東から、次の通り。

横枕火葬墓群」標高 500.5 m 地点 (34.556720, 135.884930 )
巻向坐若御魂神社跡穴師塚」標高 500.0 m 地点 (34.556459, 135.877737)

穴師山と思われる山頂は、基準点名「穴師」標高 409m 地点 (34.548149, 135.867378 )

である。これらの所在地が、以前(2018年7月23日月曜日)に検討した「箸墓古墳」と「天神社」および「天神山」とを結んだ〝ほぼ直角三角形〟とどのような位置関係にあるのかも、以下に書いておこう。
 ちなみに、「箸墓古墳の中軸線が示す方角」(2018年7月25日水曜日)では、次に示す引用文を説明の一部に用いていた。

 ○ さて、北條芳隆氏の『古墳の方位と太陽』の 159 ページには、次のように書かれている。

箸墓古墳の軸線と弓月岳 409 m ピークは 0.1° (6′) の誤差をもち、西山古墳の軸線と高橋山 704 m ピークは 0.4° (24′) の誤差をもつ。これが資料の実態であるから、この誤差ゆえに私の主張する事実関係には厳密さが伴わないとの批判もありうることである。しかしこの程度の誤差は許容される範囲内だと私は判断するが、そのいっぽうで、纒向石塚古墳の場合には検討が必要である。その前方部は三輪山山頂を向くと判断できるか否かであるが、本古墳にたいする私の築造企画復元案では、3.2° の振れ幅をもって三輪山山頂方向に軸線を向けることになり、それを意味のある事実とみなすか単なる偶然とみなすべきかの判断は微妙である。
〔『古墳の方位と太陽』「第 5 章 大和東南部古墳群」 (p. 159)

 北條芳隆氏の『古墳の方位と太陽』(pp. 159-160) では、箸墓古墳の中軸線は 22.3 度と示されているので、自前の計算による弓月岳に向かうラインの角度 22.38 度とは、約 0.1 度の誤差が発生することになる。
 そして、その日の出の角度というのはおおよそ五月の中旬頃になるのであるが、奈良県のホームページなどでも、それは「田植えの始まる時期」だと記述されていることを、「箸墓古墳から夕月岳へのライン」(2018年7月28日土曜日)で確認したのだった。

 今回、改めてそれらの座標を示しておこう。

箸墓古墳」(34.53929, 135.84125)
天神社」(34.57365, 135.91587)
基準点名「天神山」標高 455.06 m 地点 (34.539126, 135.914891)


―― 自前の計算式で座標間の計算を行なったその他の結果は次の通り。

● ここで「横枕火葬墓群」(34.556720, 135.884930) を A 地点として、
● さらに「穴師塚」(34.556459, 135.877737) を B 地点として、

設定すれば、A 地点は角度にして 2.52 度、 B 地点よりも北にあって、

○ A - B 間の〔水平〕距離は、0.659 ㎞ と、計算された。

 これらの数値が何を意味するのかそれとも何も意味しないのかは、さっぱりわからない。

「箸墓古墳」から東北東に 29.21 度で「天神社」に到達し、その距離は、7.824 ㎞ である。
「箸墓古墳」から東北東に 29.74 度で「穴師塚」に到達し、その距離は、3.846 ㎞ であるので、
「箸墓古墳」から「天神社」に至るほぼ中間点に「穴師塚/巻向坐若御魂神社跡」は所在するといえる。

 また一方で、横枕の火葬墳墓は、龍王山 (34.561491, 135.874389) から東南東、約 30 度で天神山に向かうライン上に、ほぼ位置する。

「龍王山」から、東南東に 33.84 度で「天神山」に到達し、その距離は、4.462 ㎞ である。
「龍王山」から、東南東に 28.79 度で「横枕火葬墓群」に到達し、その距離は、1.101 ㎞ である。

 これらの数値が何を意味するのか何も意味しないのかは、やっぱりわからない。


Google サイト で、本日、もう少し詳しい内容のものを公開しました。

穴師塚: 夕月岳 / 穴師坐兵主神社
https://sites.google.com/view/geshi-lines/hijiri/anashi

バックアップ・ページでは、パソコン用に見た目のわかりやすいレイアウトを工夫しています。

穴師塚: 夕月岳 / 穴師坐兵主神社 バックアップ・ページ
http://theendoftakechan.web.fc2.com/eII/hijiri/anashi.html


座標間の水平距離と角度は、以下のページの座標データに基づいて計算しています。

修正版 一覧表データの座標間の距離と角度を計算するページ
http://theendoftakechan.web.fc2.com/eII/hijiri/nCoord.html

2018年12月14日金曜日

若草山に見られる野火の記憶

火は、土地を豊穣にし、やがて、鉄を精錬するに至る。

〈草薙剣〉の説話は国家権力によって、〈天叢雲剣〉へと変貌していき、
その剣の記念碑は、鳥取県と島根県の県境に聳える〈船通山〉の山頂に建っている。

―― と、前回の最後に書いた。
 製鉄以前の火の操作にかかわる、野焼きと、土器の製作は、日本ではともに縄文時代からの文化とされる。

◎ 人類にとっておそらく、発展的な火を制御する技術は、土器に始まったのではなく、もっと大規模な、山火事から派生した野火だったろう。

 現在でも「野火(のび)」の日本語は、「春に野山の草を焼く火」のことであり、古来それは年ごとに行なわれる「野焼きの火」であった。
―― 奈良市東部の春日山北西の丘にある、若草山嫩草山(わかくさやま)で、現在は毎年 1 月に行なわれている山焼きは、1950 年以前は 2 月 11 日の行事であったという。

 中国の歴史書に〝火耕〟という言葉がある。
 野焼き・山焼きのあとに採取される山菜は、まさに実践された火耕の成果ともいえようか。
 火が、土地を活性化することを知った人類はやがて、山地に農耕のため開墾地を求めた際にまず火耕 ―― 伐採の後の山焼き ―― を行なっただろうことは、容易に想像できる。
 そして記録に残るところでは、休耕地に、榛木(はんのき)が植樹された事例は多いようだ。ハリノキが転訛してハンノキと呼ばれたらしい。

 ○ ハイバラとも読まれる「榛原」は、もともと「榛原(ハリハラ)」であったろうし、また、野本寛一氏の著作である次の文献によれば「榛の木」は「墾の木」であるともいわれる。

『焼畑民俗文化論』

Ⅱ 焼畑系基層民俗文化の実際
 8 焼畑の循環と植物移植

 (pp. 151-152)

  1 榛

 中尾佐助氏は、ネパールでは「焼畑のあとにハンノキを植えますが、これは、空中窒素の固定をやり、土地を肥やすんです。ヒマラヤからアッサムまでの焼畑は、ハンノキ(ネパールハンノキ、ネパール名はユッティス)を使うというかなり高度な技術に達していた。台湾山地民もタイワンハンノキを使う」と述べておられる(『続・照葉樹林文化』中公新書)。
 榛の根に共生する根瘤菌が空中の窒素を蛋白質と化し、それが肥料となるともいわれ、多くの放線菌は細菌・カビ・原虫などにたいする抗生物質を生産するともいわれている。わが国の焼畑農民も経験的に榛の効用を伝承しており、榛の生えているところは焼畑に適していると伝えている。たとえば、石川県白峰村では、太い榛の木(オバル)があれば、その周囲一〇〇メートル四方は土が肥えているといい伝え、杉の植林にさいしても、初期には榛の木を伐らずに杉を植える習慣があった。……
 (pp. 153-154)
   (1) 榛と猪垣
 榛の木の苗を他の山から取ってきて、焼畑輪作の終了したところに二間間隔ほどに植え、二〇年から三〇年放置し、「アラス」と称した。二~三〇年たってふたたび焼畑にするときには、太いものは径一尺にも及んでいた。秋、木の葉のあるうちに木に登り、まず枝をおろし、幹はそのまま立てておいて焼いた。この残った幹のことを「ツモッ木」と称した。ツモッ木は春伐って、椎茸小屋で椎茸を乾燥させる燃料として利用した。さらに興味深いことに、この地では、秋、焼畑の収穫物に害を与える猪を防ぐために「せき」と呼ばれる木柵で焼畑地を囲んだのであるが、それをこの榛の木で作ったのである。……
 (p. 155)
   (2) 榛[ハリ]と墾[ハリ]
引馬野ににほふ榛原入り乱れ衣にほはせ旅のしるしに(『万葉集』五七)
白菅の真野の榛原心ゆも思はぬわれし衣に摺りつ(『万葉集』一三五四)
などと「榛原」は歌にも詠まれ、大和の榛原、遠州の榛原など古い地名として残っている。「榛」は、「はん」または「はり」と読まれており、静岡市大間ではいまでも「はり」といっている。「新墾[にいはり]」「墾間[はりま]」「墾道[はりみち]」など、わが国では開墾のことを「はり」と呼んでいるのであるが、榛の木の生えているところを好んで農地として開墾し、また、時に、新開の焼畑地の輪作を終えてアラす場合、榛の木を植える習慣があったことを考えると、「榛の木」が「墾の木」であったことが考えられるのである。榛は開墾と深くかかわった植物であった。
 静岡市日向では茶畑のなかに榛の木を植え、その説明として、昔、山犬(狼)に追われたとき、この榛の木に登って難を逃れるよう工夫したものだと語り伝えられている。『古事記』に、雄略天皇が葛城山で大猪に追われたとき、榛の木に登って難を逃れたという伝承が記されている。静岡市大間で猪垣に榛の木が用いられたことと脈絡があるのだろうか。大地を肥やし、染色の原料ともなるこの木に、一種の呪力をみてきたことはたしかであろう。

 14 野焼きの民俗
  二 野焼きの実際

  1 若草山の山焼き

 (p. 236)
 一月十五日は奈良若草山の山焼きである。この日、午前中から若草山の麓にある、春日大社摂社の野上神社をはじめ、山の周囲では山焼きの準備がすすめられる。野上神社の祠の背後には高さ一メートル、径一・五メートルほどの真ん中が割れた石があり、この石が野上神社の磐座であることがはっきりとわかる。野上は「野神」で、野焼きの行われる野の神であったことが推察される。……
 (p. 237)
 標高三四二メートル、三三万平方メートルの若草山にいっせいに点じられた火は瞬時に紅蓮の炎となり、蛇のように這い、驚くべき早さで闇のなかにひろがっていった。そして約三〇分後に火は鎮まっていた。昼みると、白味を帯びた黄土色に蔽われた萱山が炎となり、やがて夜が明ければ黒褐色に変じているのである。
 一般に、若草山の山焼きの起源は、興福寺と東大寺の境界争いに由来すると説かれているが、実際の起源は食用野草の採集や草の獲得にあったものと考えられる。そして、この山焼きは大和盆地周辺の草山焼きの象徴的残存でもあった。「若草山」という名もゆかしく、遠く菜摘みの習俗とのかかわりをも思わせる。奈良公園の茶店で売られている「ワラビ餅」の発生も、広大な若草山の野焼きと無関係ではなかったはずである。
〔野本寛一/著『焼畑民俗文化論』より〕

 ○ 山口隆治氏による『加賀藩林野制度の研究』では、焼畑用地が「あらし」等と呼ばれることに関しても詳細な研究がなされている。その考察がまとめられて記述された個所から参照してみたい。

『加賀藩林野制度の研究』

第七章 白山麓の「むつし」

 一 白山麓の焼畑

 加賀藩の焼畑名称について、前記「耕稼春秋」には金沢付近の山間部で「薙畑」と称したことを記す。…… 能登国羽咋郡続きの越中国射水郡三尾・床鍋両村では「薙畑」または「ノウ(11)」、飛騨国境に位置した新川郡東猪谷村や礪波郡五箇山では「薙畑」と呼称した(12)。つまり、加賀国の山間部では焼畑を「薙畑」、能登国鳳至・羽咋両郡および越中国射水郡の一部では「薙野」または「ノウ」とそれぞれ呼称していた。このように、焼畑を「薙畑」「薙」と呼称したのは、雑木・柴草を薙ぎ倒して焼くためであったという。したがって、焼畑のため雑木・柴草を伐採することを「薙苅り」といい、火入れすることを「薙焼き」といった(13)。……
…………
白山麓では焼畑を「薙畑」または「山畑」、その用地を「むつし」または「あらし」と呼称した。前述のごとく、「薙畑」の名称は山地斜面の草木を「薙ぐ」ことから始まったもので、草木の伐採を「薙刈り」、火入れを「薙焼き」と称した。また、火入れ初年目の畑地を「新畑[あらばた]」、地力が減退したそれを「古畑[ふるばた]」と呼称した。薙畑には稗を初年目作物とする「稗薙」、蕎麦を初年目作物とする「蕎麦薙」、大根を初年目作物とする「菜薙」の三種類があり、伐採や火入れの時期、二年目以後に栽培される作物の種類、経営される面積などに若干の差異がみられた(19)
 焼畑は入会山を原則とした百姓持山で行われたが、これは農民の持高に応じて山割し、個人所有として利用する場合もあった。白山麓の村々では、各村近くの山林に大なり小なり私有地を有していた。……

(11) 『とやま民俗・24号』(富山民俗の会)四七頁
(12) 『旧白萩村の民俗』(東洋大学民俗研究会)五二頁および『越中五箇山の民俗』(富山県教育委員会)六二頁
(13) 野本寛一氏は、焼畑呼称を「火・焼地名」「輪作地名」「循環地名」「伐採形状地名」「その他」に分類し、「薙畑」とは「薙ぐ」という動詞の連用形「薙ぎ」が名詞化したもので、「伐採形状地名」に属すると考えた(前掲『焼畑民俗文化論』三〇三~三〇九頁)。
(19) 『尾口村史・資料編第二巻』一七九~一八一頁。
〔山口隆治/著『加賀藩林野制度の研究』(p. 313, p. 317) 〕

The End of Takechan

◎ 人類は、草を焼き、土を焼き、やがて土塊(つちくれ)から、金属を得た。

 日本で縄文時代から弥生時代へと移行する頃、大陸では、すでに鉄の時代が始まっていたようだ。
 稲作と、青銅と鉄の文化が、日本列島に同時に入ってきたのだ。

 それから数世紀を経て、日本で〔全文が現存する〕歴史書が成立した西暦 700 年代。
 なぜ、古事記と日本書紀はともに、伯耆国と出雲国の国境にある鳥上の峰 ―― 鳥上之峯 ―― すなわち船通山(せんつうざん)を舞台とする戦闘神話を記録に残し、その地からの戦利品として、日本書紀にいう〈天叢雲剣〉すなわち〈草薙剣〉―― 古事記原文では〈草那藝之大刀〉―― をスサノヲによって、獲得させるという、出雲国重視の物語構成にいたったのか。
 のみならず、古事記には「其所神避之伊邪那美神者、葬出雲國與伯伎國堺比婆之山也。」という記述があって、

其の神避りし伊邪那美の神は、出雲の國と伯伎の國との堺の比婆の山に葬りき。
(そのかむさりしいざなみのかみは、いづものくにとははきのくにとのさかひのひばのやまにはふりき。)

ここにも、出雲国と伯耆国との国境が登場し、大地母神の墓所として〈比婆之山〉が記録される。

 船通山の北東に位置する伯耆大山の山麓には、鳥取大学の山本定博氏によって、「鳥取県内の黒ボク土腐植もその黒さはわが国でも第一級である」と評される黒ボク土がある。

 その黒ボク土は、おそらく数千年にわたって毎年焼かれ続けた、野火の記憶だろうと、推察されるのである。
 そして、そもそも戦闘は、新墾(あらき)もしくは、すでに開墾された土地を巡って繰り返されたはずだ。
 播磨国風土記によって、渡来の神との戦闘の神話が、現代にまで伝承されている。自然の災害に強い、豊饒な大地が、権力者の求めたものであったろう。
 敵対者や、反乱軍に遭遇することのない、広大で豊かな土地を、我が物と宣言したかったのだ。
 必然として。―― 権力者は、同時に、武力を欲したのだった。


Google サイト で、本日、もう少し詳しい内容のものを公開しました。

榛原(ハリハラ)・墾間(ハリマ)
https://sites.google.com/view/theendoftakechan/worochi/harima

バックアップ・ページでは、パソコン用に見た目のわかりやすいレイアウトを工夫しています。

榛原(ハリハラ)・墾間(ハリマ) バックアップ・ページ
http://theendoftakechan.web.fc2.com/eII/tsurugi/harima.html

2018年12月4日火曜日

焼畑の伝承と〈草薙剣〉

 前回参照した山野井徹氏による『日本の土』の書評が掲載された
GSJ 地質ニュース Vol.4 No. 10(2015 年 10 月)(https://www.gsj.jp/data/gcn/gsj_cn_vol4.no10_309-310.pdf)
の書評ページが PDF 化されてインターネット上にあった。それによれば、嚆矢となった論文は 1996 年に発表され、日本地質学会から表彰されている。

山野井徹「黒土の成因に関する地質学的検討」
(URL : https://ci.nii.ac.jp/els/contents110003013763.pdf?id=ART0003437151 )
(地質学雑誌 第 102 巻 第 6 号 526?544 ページ、1996 年 6 月)

 そのような新しい視点を含む、伯耆大山の土壌についての研究論文が、一冊の文献にまとめられて『鳥取県農業と土壌肥料』(1998) として発行されており、その中に次の論述が見られる。

 ○ ここでは引用に際して、「図 4」の〝図〟は省略するがその説明文は図 4 全国各地の火山灰土壌腐植層中の腐植酸の光学的特性(埋没腐植層は除く。黒印は大山起源)腐植酸型の分類は熊田の方法による。」とあり、その図の前後の本文中において、火山灰土壌を黒ボク土として特徴づける化学的理由についての考察が述べられ、火山灰土壌=黒ボク土であるかというと必ずしもそうではないと、ひとつの結論が出されている。

『鳥取県農業と土壌肥料』 Ⅱ 鳥取県の自然と土壌

「3. 鳥取の黒ボク土」(鳥取大学農学部 山本定博)

3 ) 鳥取県の黒ボク土のおいたち
 (2) 黒ボク土の腐植とその生成条件
 火山灰土壌を黒ボク土として特徴づけるのは、多量に集積した黒色腐植である。多量の腐植の集積は世界の陸成土壌のうちでは最も顕著であるが、黒ボク土の腐植はその集積量もさることながら黒色味の強さという点で、他の土壌の腐植とは質的に大きく異なる。一般に土壌からアルカリ性の溶液で抽出された腐植のうち酸で沈殿する画分を腐植酸、沈殿しない画分をフルボ酸と呼ぶ。腐植の黒味は腐植酸に起因する。黒ボク土では腐植酸は量的にフルボ酸を上回り、その黒色味は非常に強い(数ある土壌の中で最も黒い)。いわゆる熊田による A 型腐植酸である。鳥取県内の黒ボク土腐植もその黒さはわが国でも第一級である(図 4 )。
 ところで、火山灰土壌の中には、腐植が多量に集積し、活性アルミニウムにも富み、一人前の火山灰土壌の特性を持っているにもかかわらず、黒ボク土のものとは全く異なる黒色味の弱い腐植(非 A 型腐植酸)を含む土壌がある。身近な例では、大山山麓のブナ林下にもみられる。炭素含量は 10% 程度あり、真っ黒な土壌断面をしているが、腐植は黒ボク土とは化学構造的にも全く異なるものである。図 4 に示すように、含まれる腐植酸は A 型以外の腐植化度の低い B, P, Rp 型である。このような土壌は火山灰土壌ではあるが黒ボク土とはいえない。火山灰土壌=黒ボク土であるかというと必ずしもそうではない。腐植の量ではなく質が問題なのである。
〔鳥取県土壌肥料研究会/発行『鳥取県農業と土壌肥料』 (p. 28) 〕

 ○ 焼畑に関する近年の資料としては次のものがあり、冒頭で日本三代実録(貞観九年三月)の記事が紹介され、また、41 ページでは焼畑のオッタテビと記紀神話との関連が指摘されている。

『焼畑民俗文化論』

Ⅰ 焼畑系民俗文化論の視座
「1 焼畑系民俗文化論の経緯」

 かつて、焼畑は八重山諸島から北海道に及ぶ空間的な広がりの中で行われていたのであった。それは、時間的にも稲作以前から行われていた可能性が指摘され、近代に至るまで連綿と続けられてきたのだった。『三代実録』貞観九年三月二十五日の条に、「令大和国禁止百姓焼石上神山播蒔禾豆」とあり、石上の聖域近くにまで焼畑が及んでいたことがわかる。『万葉集』東歌には、「足柄の箱根の山に粟蒔きて実とはなれるを逢はなくも恠し」(三三六四)と歌われ、『拾遺和歌集』巻十六に「片山に畑やくをのこかの見ゆるみ山桜はよきて畑やけ」という藤原長能の歌がある。焼畑は都近くにおいても、地方においても属目の風景だったのである。
 こうして、昭和二十年代までは焼畑が生業として営まれていた地も多かったのであるが、三十年代に入り衰退の歩を早め、高度経済成長期に入り完全に終焉を迎えたのであった。

Ⅱ 焼畑系基層民俗文化の実際
「1 焼畑の名称」

 富山県・石川県・福井県・岐阜県では焼畑のことを「ナギ」と称した。ここでも夏焼きの焼畑のことを「菜ナギ」「蕎麦ナギ」など、作物を冠して呼ぶ風があった。福井県大野市の中洞では、菜ナギ・蕎麦ナギは草山畑、稗や粟を作る春焼きナギは木山畑という仕分けをしていた。「ナギ」も、北陸・中部のみではなく、遠く、大分県国東半島の富来に「ナギノ」という呼称があった。「ナギ」は「薙ぐ」という動詞の連用形の名詞化で、「刈り払う」という意味である。こうしてみると、焼畑呼称の一類型として<刈る>という意味を示すものが大きな勢力を占めていたことがわかる。「カノ」も「ナギ」も、発生的には、草地や叢林を「刈り」「薙ぐ」ことから始まったものと見てよい。…………

「2 焼畑の技術伝承」 二 火の技術伝承

  1 防火帯の技術と名称
 焼畑の火の延焼に関する話は各地で耳にする。…… 山の火は上へ上へとのぼり、横にもひろがるのである。
……………………
  3 火入れの技術
 焼畑地の火入れにはことのほか神経を使った。風のない日を選び、暦のまわりのよい日を選んだ。…………
 焼畑の火入れ方法として全国的に共通していることは、傾斜地の上部から火を入れるということである。土佐池川町椿山では上部を「ホクチ」(火口)と呼び、静岡市大間では、焼畑上部の右端を「ホサキ」(火先)、左端を「テシタ」(手下)と呼んだ。大間では、焼畑組の長老を「行司」と言い、行司が全体の火を見て、「ホサキをさげよ」「テシタをさげよ」などと号令をかけて作業を進めた。
……………………
 …… 椎葉では、春焼きは「オロシ風」が吹くのを見はからって火を入れるので夜になることが多かったという。
 こう見てくると、火入れは上から下へが原則であったことがわかる。下から火を入れることを避けた理由は、延焼の防止とともに、火が上走りをして焼け残りが出ることを避けたからである。静岡市中平には「ウシが残る」という言葉がある。火が表面を走って焼け残りが出ることである。しかし、上から火をつけて三分の二から四分の三焼けたところで下から火を入れるという方法は各地にあり、静岡県榛原郡川根町、同磐田郡水窪町などではこれを「オッタテビ」(追い立て火)と呼んだ。神奈川県山北町箒沢では「ムカエビ」と称しており、途中で火と火がぶっつかって消えることになり、まさに『古事記』の「ヤマトタケル」「迎え火」と一致しているのである。
 上下の原理は、左右の風速が激しい時には左右にも適用された。南風が強い時には四分の三ほど北側を焼いておいてから南からも火を入れたのであった。
〔野本寛一/著『焼畑民俗文化論』 (p. 3, pp. 26-27, p. 37, p. 40, p. 41) 〕

 ○ 注目すべき言葉として「颪(オロシ)」の語を国語辞典で見ておこう。

『日本国語大辞典 第二版』 第三巻

おろし【下・卸・颪】〔名〕

(動詞「おろす(下)」の連用形の名詞化)
① 高い所から下の方へ移すこと。おろすこと。「雪おろし」「神おろし」「たなおろし」などのように、名詞に付けて造語要素として使う場合が多い。
② 神仏の供え物をとりさげたもの。また、貴人の飲食物の残りや使い古しの品物のおさがり。御分(おわけ)。……
③ 家来に食糧を支給すること。……
④(颪)山など高い所から下へ向かって風が吹くこと。また、その風。秋冬の頃、山腹の空気が冷えて吹きおろす風。おろしのかぜ。……
…………
おろしの風(かぜ) 山から吹きおろす風。山おろし。*類従本元良親王集(943頃か)「惜みつつなげきのかたき山ならばおろしの風のはやく忘れぬ」
〔小学館『日本国語大辞典 第二版』 第三巻 (pp. 64-65) 〕

―― また、焼畑で用いられる「向火」は、国語的には「むかえび(ムカヘビ)」よりも「むかいび(ムカヒビ)」の訓みのほうが、どうやら意味が通じやすいようだ。

The End of Takechan

 ○ 文字構成として〈畑〉は〝火田〟であり、〈畠〉は〝白田〟となる。これらの語は和名抄にも載る。

『諸本集成 倭名類聚抄〔本文篇〕』を参照すれば、それぞれの語の冒頭で、

火田は夜歧波太(ヤキハタ)、
白田は陸田・波太介(ハタケ)、

と説明されている。

 ○ 紀元前に成立した中国の『礼記』に「火田」という言葉が出てくる。さらに、「火耕水耨」という語も紀元前成立の『史記』にすでに見られることもまた、次の文献で指摘される。

地球研ライブラリー 17『焼畑の環境学』

史料論1 中日火耕・焼畑史料考(原田信男)

 (1) 中国の火耕・焼畑
…… もちろん焼畑は日本語で、中国文献には、火田・火耕として、いくつかの文献に登場する。
 まず紀元前三世紀以前成立の『礼記』王制第五に、天子・諸侯・百姓の田猟の記事があり、火田を禁じている。

獺祭魚、然後虞人入沢梁、豺祭獣、然後田猟、鳩化為鷹、然後設罻羅、草木零落、然後入山林、昆虫未蟄、不以火田、不麛、不卵、不殺胎、不殀夭、不覆巣、(竹内照夫『礼記 上』新釈漢文大系二九、明治書院、一九七九年)

 田には、田猟すなわち狩猟の意味もある。「かり」の訓をもつ畋の文字も同様で、耕作と狩猟は近しい行為であった。
 そして『爾雅』釋天第八「祭名」も、火田を狩猟とする。

春猟為蒐。夏猟為苗。秋猟為獮。冬猟為狩。宵田為獠。火田為狩。(長沢規矩也編『和刻本 経書集成』正文之部 第三輯、古典研究会、汲古書院、一九七六年)

 つまり「火田」とは火を用いた焼狩りと理解すべきで、この場合にも焼畑が伴っていたと考えてよいだろう。
 なお火田に関する記事としては、『宋史』志大一二六食貨上一に、大中祥符四年(一〇一一)の詔があり、先の『礼記』を承けて宋代には、火田が明確に禁止されている。

火田之禁、著在礼経、山林之間、合順時令、其或昆虫未蟄、草木猶蕃、輒縦燎原、則傷生類。(脱脱等撰『宋史』第一三冊、中華書局)

…………
 なお火耕の語については、五世紀に成立した『後漢書』文苑列伝第七〇上の杜篤伝に、

田田相如、鐇钁株林、火耕流種、功浅得深、(范曄撰『後漢書』第九冊、中華書局)

とあり、おそらく後漢すなわち一~二世紀ごろには用いられていたものと思われる。この「火耕流種」とは、まさしく林を切り開く焼畑を指すものであろう。
 さらに唐代の欧陽詢撰『芸文類聚』巻二六人部十言志所載にも、以下のようにある。

夾江帯阡、布濩井田、通逵交迸、高門接連、人腰水心之剣、家給火耕之田、爾乃樹之榛栗、椅桐梓漆、(欧陽詢撰『芸文類聚 上』中華書局、一九六五年)

 ただ、江蘇という地域的な問題からすれば、これは次に述べる火耕水耨の田を意味する可能性が高い。

火耕水耨 古代中国の農業史研究では、長江南部における火耕水耨に関する論争が行われてきた。火耕水耨の語については、紀元前九一年ごろの成立とされる『史記』の二ヶ所に登場する。

平準書第八:
是時山東被河菑、及歳不登数年、人或相食、方一二千里。天子憐之、詔曰、江南火耕水耨。令飢民得流就食江淮間、欲留之処、遣使冠蓋相-属於道護之、下巴蜀粟、以振之。(吉田賢抗『史記 四』新釈漢文大系四一、明治書院、一九九五年)
貨殖列伝第六九:
楚越之地、地広人希、飯稲羮魚、或火耕而水耨。果陏臝蛤、不待賈而足。地勢饒食、無饑饉之患、以故呰窳偸生、無積聚而多貧。是故江淮以南、無凍餓之人、亦無千金之家。(重野安繹『史記列伝 下』増補漢文大系七、冨山房、一九七三年)
〔『焼畑の環境学』所収、原田信男「中日火耕・焼畑史料考」(p. 522, p. 523) 〕

 ○ 最後に、後漢書「火耕」についての注釈を、邦訳文とともに参照しておきたい。

『全譯後漢書』 第十七册

文苑列傳第七十上(范曄「後漢書卷八十上」)

 杜篤傳
【原文】
火耕流種、功淺得深[九]。
[李賢注]
[九]以火燒所伐林株、引水漑之而布種也。

《訓読》
火耕流種し、功は淺くして得ることは深し[九]。
[李賢注]
[九]火を以て伐る所の林株を燒き、水を引きて之に漑ぎて布種するなり。

[現代語訳]
田畑の雑草を焼いて種をまきますと、わずかな手間で多くの稔りを得られます。
[李賢注]
[九]火で伐採した株を焼き、水を引いてこれに注いで種をまくのである。
〔渡邉義浩・髙橋康浩/編『全譯後漢書』 第十七册 (pp. 759-764) 〕


―― 今回の内容は、錯綜している。
 整理すれば、まず「富山県・石川県・福井県・岐阜県では焼畑のことを「ナギ」と称した」という一文に、ヤマトタケルの〈草薙剣(くさなぎのつるぎ)〉の原型を見たように思った。
 すなわち、ヤマトタケルの神話に、焼畑で用いられる「向火」の技術が伝承されたのだと思われた。
 また、日本の「焼畑」の語は中国の「火耕」を元とするようである。
―― 野焼き・山焼きを、火耕と称してかまわないのなら、農耕の以前に、人類は、土地を火で耕すことから始めたのだとも、いえようか。

火は、土地を豊穣にし、やがて、鉄を精錬するに至る。


〈草薙剣〉の説話は国家権力によって、〈天叢雲剣〉へと変貌していき、
その剣の記念碑は、鳥取県と島根県の県境に聳える〈船通山〉の山頂に建っている。


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草薙ぎ / 狩り野 / 煆野畑
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