2017年7月28日金曜日

神々を共有する 集団の共同

 闇夜の雷鳴が恐いのは身近な危険の予感よりきっともっと根源的な感覚に近いでしょう。
 その場で理由を語れる恐怖だったら、あまり恐ろしくはないかもしれません。
 けれど、出かけようとして、突然の雷雨に見舞われるのは、日ごろの行ないが悪いせいです。
 そういう理由づけはある程度責任転嫁できた気になって、いまの自分を責めずにはすみます。
 日々の吉凶を、神や霊のもたらす賞罰とすることは、説明できないことを説明できないままに、おさめます。
 なぜ、いま、自分が……。
 人類は、その謎を、解決できないままに、超越的存在に押しつけることで解決してしまう手法に賛同しました。

 自然現象などへのある種の畏怖や信仰のような感情は、ひとまず個人で完結したのちのちには、その感情を他人と共有するために、言葉が有効だったでしょう。
 そうして日常のできごとに対する定型的な解釈が、大勢で共有され集団の文化を形成します。
 知らない人間と遭遇・対峙しても、同じ文化をもつ者同士であれば、仲間と認め合いました。
 さらには同じ超越者を信奉する者同士であれば、裏切りへの罰も期待できるので、一致団結して協力もしやすかったでしょう。その意味で超越者は安心を与えてくれます。

 裏切り者を罰するためのコストは、神々が負担してくれるシステムなのです。
 そのためにも、日ごろから、信仰心はアピールしておかなくてはなりません。
 神々に直接、捧げるための儀式は、集団の安全とズルの防止および裏切り発生の際への先行投資ですから。
 惜しんではなりません。
 神や霊が、すべてを見ている、ということは、同時に大前提とならざるをえないわけです。
 信じるための推測と解釈は相乗的に作用することが、次のように説かれています。

あなたはまず、人々が神や霊の仕業として解釈している病気や事故の事例を聞き、次に神や霊がそういったことをするだけの力をもっているに違いないと推論する。当然ながら、これら二種類の表象は互いを強め合う関係にある。神を力のある存在として記述することにより、彼らが災いを起こすということがもっともらしくなり、災いの原因として記述することで、彼らが強大な力をもつということがありえそうに思われる。
〔パスカル・ボイヤー 著『神はなぜいるのか?』 (p.255)

 神々を共有する集団が形成されていっそうの団結を高めるために、言葉は必須だったでしょう。
 でも現代人のような発声機能を、人類が獲得した時期については、よくわかっていないようです。
 音声は化石にならないし、発話の装置として特徴的な器官もまた、化石として残りにくいそうなのです。

 およそ一五〇万年前に現れた手斧が、その後一〇〇万年以上も作られつづけたのは驚くべきことである。最初期のホモ・サピエンス Homo sapiens が約二五万年前に進化してきたのち、ようやくわずかながら道具作りの腕前が上がり、使う道具類にも変化が出てきた。しかし、脳が大きくなったいまと変わらぬ現代人類が約一〇万年前に登場したのちも、道具とその材料は概して古いままであった。技術革新の大波が到来したのは比較的近年、四万年ほど前のことである。
J. メイナード・スミス E. サトマーリ 著『進化する階層』 (p.387)

 言語の起原がいつごろであったかを突きとめることは、いっそうむずかしい。けれども前章で論じたように、過去四万年間に技術的発明の能力は飛躍的な増大をとげており、言語能力の最終段階がこの時期に現れてきたとすると、いちばん説明しやすい。…………
解剖学的には、人類は喉頭が下がって、発声できる音の範囲が増した。…… 化石の記録からこの変化がいつ起きたかわかればいいのだが、これがどこまで可能かについて、今のところ解剖学者は意見が分かれている。残念なことに、この情報を与えてくれるはずの舌軟骨は、ほとんど化石として残ることがないのだ。
〔同上 (pp.439-440)

 道具を作る技術が急速に進歩した 4 万年前より少し以前の、およそ 5 万年前には、アフリカから世界中へと人類は大移動したといわれます。
 その時点ですでに、強い集団意識が形成されていたでしょう。
 残された記録は、生き残りのために協力する大切さが共通認識としてあったことをうかがわせます。
 かなり離れた地点でも文化的な交流があったことが、推測できるらしいのです。
 同じ信仰をもった集団は、生き残るのに有利であったとすれば、共有された神々の概念はさまざまな適応力として作用したといえるでしょう。
 神々や霊への信仰や宗教は、生存戦略として、相当に有効だったと、そう考えることは不自然ではないとされています。


戦略的情報と神概念
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2017年7月25日火曜日

あざなえる縄の如し吉凶の 説明としての神や霊

 凶事をもたらす超自然的な作用は、説明不能であるがゆえの信憑性を伴います。
 たとえば英語では、the evil eye 。「にらまれると災難がくる」といわれ、凶眼、邪眼と和訳されるようです。
 同等の日本語では『広辞苑』に「邪視 (evil eye) 」として、項目がありました。「他人に病気や死などの害悪を与える神秘的な能力を有すると考えられている人のまなざし」とされています。
 いっぽうで、「神の目」も、人間の悪事を見逃さない役目を果たすことで、知られます。

 さすれば。どこぞで「目の看板」を立てたとか、それだけでモラルの改善があったとかいう話題も耳にしたことがありまして。
 これなどは「他人の目」の効果でしょうが、強制された感のある公共道徳は、長期的には、道徳心の低下を招くような気もいたします。
 過剰な強制に対しては、過剰な反発が伴うでしょうし……。

 というわけで、「神の目」効果も未だ、敬虔な信者たちの悪事を根絶するには至らないようです、が。
 神や霊は、悪事だけでなく、何事も見逃さないので、すべては因果応報として、説明可能となります。
 説明できないどんなことでも、説明可能となるという、説明が、なぜかそれだけで説得力を持つのです。
 ところがいつからかその神や霊を説明するための説明が、必須となってきて、人間は説明不可能なものを説明するという縄に絡めとられる破目になっちまったようです。

 人間が刹那的な悪事を遠ざけるのは、未来を予測する能力を身につけたためともされています。
 長期的には、裏切りよりも、協調のほうが、総利益が大きくなることが知られています。
 けれども、利益を高めることの最終的な目標や目的を未来にゆだねるだけなら〝空虚〟な現在の刹那が残ってしまいかねません。
 それでも、大多数のひとびとは刹那的な生き方を憎みさえするようにできているらしいのです。
 列への割り込みを憎悪するのは、自然な感情のようです。
 ささやかな悪事を許せば、いずれは大きな災厄となって我が身に降りかかると、経験が教えてくれるからです。
 説明できないけれども、憎悪の感情が「地獄へ落ちろ」と、もし叫んだなら。
 少なくとも、神や霊の超自然的な存在は、必然となって、我が身に帰ってくるでしょう。
 そのとき地獄は、言霊として(心理的に)、顕現することとなります。
 危機管理上、危険には敏感なように進化してきた歴史があるのですから。
―― そういうわけで。

人を呪わば穴二つ、と書こうとすれば変換辞書に成句として登録済みだったようですが、
地獄は少なくとも、一つだけは、望んだ自身のために用意されるに違いありません。
一瞬で消え去ることが、望まれます。

2017年7月22日土曜日

間違う側が優位になる逆説と

 人間は機械のようには動けないけれど、正確に反復する機械を作った。
 間違うことが、どんな場合だって、きっと、優越性を確保することはない。
 間違うことで、人間は機械よりも優位に立てるだろうか。
 迷宮を撃ち破るための、最大のミスは、合理性だけを頼みとすることか。
 予期せぬ失敗から、新しい可能性が展望できることだってある。

 進化というものが「継続しつつ現状を破壊する」ことであるなら、生命は、それに従う本能をもつだろう。
 ただ現状を維持するのではなく「今よりももっと」と、ベクトルをもつ願いを持ち続けなければならないのだとしたなら。
 もしかするとそれが〝希望〟なのかもしれない。

―― ところで、たとえば神と呼ばれる超越的存在は、目的を説明するのに便利な概念らしい。
 説明不可能な超越的存在によって与えられた使命というのは、問題のすり替えに過ぎないかもしれないけれど。
 使命感をもたない人生は、あまり良い評判は得られないようだ。
―― たとえば、神と呼ばれる超越的存在を否定するという使命感は、どこからくるのだろうか?
 われわれを説明する目的は、どこからきたのか、どこへといくのか。
 進化したテクノロジーは、それ自体のための使命感を必要とするのだろうか。

2017年7月20日木曜日

2045 年 非生物的な性能が 脳よりも優位に立つ日

レイ・カーツワイル著『ポスト・ヒューマン誕生( 2005 年、邦訳 2007 年)に、
特異点(シンギュラリティ)となるその期日が予想されています。
カーツワイルのその邦訳書は、2016 年 4 月に、NHK 出版から[エッセンス版]として、
シンギュラリティは近いの書名でかなりコンパクトな編集版の形になって再刊されています。
そちらから引用すれば、特異点の年が明示されている記述は次のページにあります。

 ここまでくると、確かに抜本的な変化が起きる。こうした理由から、シンギュラリティ ―― 人間の能力が根底から覆り変容するとき ―― は、二〇四五年に到来するとわたしは考えている。
 非生物的な知能が二〇四〇年代半ばには明らかに優勢を占めるにしても、われわれの文明は、人間の文明であり続けるだろう。生物を超越はするが、人間性を捨て去るわけではない。
〔レイ・カーツワイル『シンギュラリティは近い』 (p.107)

この引用文の最後の部分に、
われわれの文明は、人間の文明であり続けるだろう。生物を超越はするが、人間性を捨て去るわけではない。
と書かれているのですけれども、われわれの文明人間性を捨て去ることはないとする、その理由は不明のままに終わっている感じがします。おそらくはそれがあくまでもわれわれの文明に限定された表現だから、そのことが条件となって整合性を保つのでしょう。

―― こういうことを含めて。
 性能面において人間の脳と比較にならないほどの進化を遂げた機械文明が生物的 DNA の遺伝子をなおも存続させようとする必然性は、最後まで語られていないようなのです。―― が。
 ただ思うに、これまでの進化の必然性としては、予定調和な可能性の組み合わせだけでなく、突然変異という〝間違い〟は強力な道具だったはずです。
 生命は、コピー・ミスを利用して、進化してきたといわれます。
 その最初期の段階では、可能性という多様性のために、繰り返される〈エラー〉は必須でもあったでしょう。
 極端に〈エラー〉の少ないテクノロジーに主導された文明は、進化という意味での可能性をどのように残していくのでしょうか?

カーツワイルは、人間はサイボーグ化の技術が急速に発展して、
機械と融合していくといいます。
ダイソン球の構想を取り上げた際には、次のように語られました。

 一九五九年、宇宙物理学者のフリーマン・ダイソンは、進歩した文明において恒星の周囲を球殻で覆ってエネルギーと居住地を供給するという構想を提唱した。…………
ダイソンは知的な生物が殻や球の内側に生存すると考えたわけだが、文明は、ひとたびコンピューティングを発明すれば、急速に非生物的知能へ移行するため、殻に居住しているものを生身の人間とする理由はないだろう。
〔レイ・カーツワイル『ポスト・ヒューマン誕生』 (pp.459-460)

彼は、テクノロジーの部品で人間を改造していくことによって、
驚異的な寿命を得ることができるといいます。

 ただし、機械化した身体の生物的な部分については、何が残るのか何も残らないのかについては、よくわかりません。

われわれは現在、永遠と言えるほど長く生きる手段を手に入れた。
〔『シンギュラリティは近い』 (p.222) / 『ポスト・ヒューマン誕生』 (p.491)

 このように書かれた、そのすぐあとのページで死は悲惨だ。と、ひとつの神経系が失われることへの悲しみが語られています。
 現状では、脳のバックアップは取れないからなのです。
 ということであれば、彼の身体はその生物的脳を死なせないためにあるようです。
―― どうやら彼にとっては、人間が生きているということは、その知能が生きているということらしい。
 と、推測できるのですが、上に引用した記述のもう少しあとには、
わたしにとって人間であることは、その限界をたえず拡張しようとする文明の一部であることを意味する。
と、文明の知性が前進すべき秩序と複雑さへの道が示されています。
 またその間には、
だがときには、深い洞察により、複雑さを減少させつつ秩序を増加させることも
できると、示唆されているのも見えます。
 それらの記述のなかで、秩序の増した感情については、語られてはないようですけれど、一般的にはおそらくもっと複雑な感情になると予想されます。
 彼のいうわれわれの文明には、理性的でない人間の棲息する場所は残されているのでしょうか?
 われわれ、とは、なにものを意味しているのでしょうか。


シンギュラリティ: 加速する進化 Ⅳ
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2017年7月18日火曜日

ありえないほどの確率でも信じる愚か者じゃない

 ちぎれたハラワタを地べたからかき集めながら息絶えた男がいる。
 全身のヤケドと喉の渇きに水に飛び込み溺れた、無数の死体が、流れもせず折り重なった川がある。
 神の名のもとに与えられる恐怖と繰り広げられる地獄絵図に、連鎖反応的な憎悪を抑制する地上の努力は、いっそうの爆発をもたらしかねない。

 だからだろうか、神は誰かの幻想だという。
 神を幻視というならそれはどこにもない。妄想を敵として憎むのはナンセンスだ。
 幻を相手に戦いを挑むのは不可能だから……。
 叛逆すべき神が幻なら、戦いもそこにはなくなる。
 けれども。いつのまにか、ラテン語の名をもつ、ヘブライの堕天使さえも、そこに存在する。

 それでも。だからこそ幻に戦いを挑むというのか。進化論者リチャード・ドーキンスは『神は妄想である』といって、それらの著書で論戦を張る。
 彼の論理は、申し分ない。非の打ち所がない。
 完璧な概念には危うさを感じる。気をつけなければならない。
 彼の主張は、生命の発生と進化に神の存在を必要としないものだ。
 だから、なのか? その神を誰かの幻想だという。
 彼は、自身の戦うべき神を虚妄だという。そうじゃない。彼の論敵は人間なのだ。

 彼の天才ぶりは、多くの問題を同時に処理してしまう。
 彼の論旨は明解だ。彼の理論に神は必要ない。だから、神は存在しない、と彼は語る。
 創造論者の主張する、偶然による生命進化のありえないほどの確率に、科学者はそれほど愚かじゃないと、主張を切り返す。
設計されたものであるような見かけをもつものについての自然科学的な説明のありえなさの確率が、宇宙のすべての原子の数よりも大きな尺度で、本当にとてつもないものであるというのが真実なら、それに騙されるのは、同じようにとてつもない愚か者だけだろう。」〔ドーキンス自伝Ⅱ (p.589)
 彼は忘れず、その直後にはデザイン説の魅力を評価する。
設計(デザイン)という幻想には、驚くほどの説得力がある」〔ドーキンス自伝Ⅱ (p.590)
と前提しつつ、しかしながらも、
生命の複雑さという問題を、神と呼ばれるもう一つの複雑な実体を仮定することで解決しようという試みは明らかに無益である」〔同上〕と、きちんと付け加える。
 その間に、彼の問題解決方法が明示されている。
漸進的で累積的な自然淘汰は、この問題を解決しており」〔同上〕、そのため知的設計は必要なくなるので、こうして神の存在は否定されたかのようだ。

 彼の奉ずる進化の理論では、一方的に不利なものは、残らないだろう。
 けれど、必要ないという理由で存在まで否定されることはない。具体的には、自然淘汰の理論ではタダ乗りの遺伝子としても説明される、余分の DNA がある。
 説明に不要だからといって、必ずしも「存在しない」とは、一般的にはいえない。
 また彼の理論によれば、それほどまでに「ありえない神」を信じる者は、ありえないほどの愚か者という可能性を秘める。
 それでは。なぜ、示唆されるそれほどまでにありえない愚か者が、地球上に、これほど多く生きているのか。
 地球とは、それほどまでにありえない生命体が現存する天体だと、彼は主張しているのか?

 カリカチュアされた進化論者は、おうおうにして妄想にしか存在しないという。
 カリカチュアされた創造論者も、同様に妄想にしか存在しないのだろう。
 けれどもそれらは部分的に、実例として現実の中に垣間見えてしまう。
 いずれにせよ、地獄の片鱗は地上で見ることができるし、楽園もきっとそうなのだろう。
 少なくとも、神を必要としない信念は、信仰の一種だろうと、思われる。
 だから対立しているように見える主張は、もしかして表現型の違いに過ぎないのではなかろうか。
 一神教の根本原理として、他の可能性は排除されなければならない。

2017年7月15日土曜日

粘土の結晶進化から DNA 不要の複製子へと

 前々回の引用文の最後に、粘土から RNA という物語がありました。

二〇世紀の末に、ジム・フェリスらは、モンモリロナイトのもう一つ有益な性質を明らかにした。彼らはそれが自然発生的に小さな RNA 構成要素を寄せ集めて、五〇ヌクレオチド以上の長さの RNA 鎖につなげることができるのを発見したのである。
〔アンドレアス・ワグナー『進化の謎を数学で解く』 (p.77)

 原著は、2014 年に刊行され、日本語版は、2015 年 3 月に文藝春秋から出版(垂水雄二 訳)の運びとなった邦訳書です。
 この引用文中に出てくるモンモリロナイトという粘土の名は、1986 年のリチャード・ドーキンス 著 “THE BLIND WATCHMAKER” にすでに見ることができます。その最初の日本語版は『ブラインド・ウォッチメイカー』( 1993年 早川書房)として、上下二分冊で刊行されたようです。

たとえば、モンモリロナイトというかわいい名前の粘土鉱物は、カルボキシメチル・セルロースというあまりかわいくない名前の有機分子が少量存在すると壊れてしまう性質をもっている。ところが、カルボキシメチル・セルロースの量がもっと少なければ、まったく逆の影響を及ぼして、モンモリロナイト粒子どうしが結びつくことを助ける。別の有機分子のタンニンは、泥に穴を掘りやすくするために石油工業で使われている。採油業者が有機分子を使って泥の流れや掘りやすさを操作できるのなら、累積淘汰が自己複製している鉱物に同様のものを利用させるようにみちびいてならない理由はどこにもない。
〔リチャード・ドーキンス『盲目の時計職人』日高敏隆 邦訳監修、2004年 早川書房 (p.257)

 モンモリロナイトについては、他の邦訳書でも最近のもののなかに、記述を見ることができましたが、日本人による一般向けの著書では未確認です。
 ところで興味深いのは、このあとにつづく、SF 的な展開です。

 私は『利己的な遺伝子』で、人間は現在まさに新たな種類の遺伝的な乗っ取りの入り口に立っているのかもしれないと推理した。DNA という複製子は自分たちのために「生存機械」、つまりヒトも含めた生物の体を組み立てた。体は、その装備の一部として搭載型コンピューター、つまり脳を進化させた。脳は、言語や文化的な伝承という手段で他の脳と交信する能力を進化させた。だが、文化的な伝承という新たな環境は、自己複製する実体に新たな可能性を開いた。新しい複製子は DNA でもなければ、粘土の結晶でもない。それは、脳あるいは、本やコンピューターなどのように脳によって人工的につくり出された製品のなかでだけ繁栄できる情報のパターンである。
…………
ミーム進化は、文化的進化と呼ばれる現象に現われている。文化的進化は DNA にもとづく進化より桁違いに速く進むので、「乗っ取り」ではないかと思わせるほどである。新しい種類の複製子の乗っ取りがはじまっているのなら、その親である DNA を(ケアンズ=スミスが正しければ、その祖父母の粘土も)はるか後方に置き去りにするところまで進んで行くだろうと考えられる。そうなるとすれば、コンピューターが先頭に立つのは確実だと言えるかもしれない。
〔同上 (pp.258-259)

 聖書物語は、暗喩(メタファー)として続いているようです。
 生命というものの第一義が「増殖する(ふえる)」ことにあるとするなら、その行為主体(エージェント)は必ずしも有機化合物でなくとも、さしつかえないでしょう。
 ならば、「いままではこれでいけた」という理由だけで、DNA にこだわらなくとも、有機的生命体よりもずっと耐性の高い機械の〈ミーム・マシーン〉であって、いっこうにかまわないわけです。
 人工知能の開発は、まあ、順調なようですし。
 進化ゲームの行方(ゆくえ)は、予想もつきません。


新しい表現型: 加速する進化 Ⅲ
http://theendoftakechan.web.fc2.com/ess/games/phenotype.html

2017年7月13日木曜日

脳という 表現型のインターフェース

 インターフェース (interface) というのは、システム同士を接続するための接点、あるいは接点となるプログラムや機器をさします。
 脳と外部機器をつないで操作する技術は、
「ブレイン・マシン・インターフェース (BMI) 」として知られています。
 脳波などは人体の電気信号ですが、その逆の発想といいましょうか、筋肉に電気信号を刺激として与えることで失われた筋肉動作の神経回路を復活させる技術も開発されています。
 有名なところでは、停止した心臓に与える電気ショックがあります。
 脳は表現型を外部に延長するためのインターフェースである、というのは、脳の指向性を表現型と捉えたときに可能と思われます。
 芸術表現も他者に対してスイッチを入れる作用があります。
 そういう意味では、自己表現というのは、脳による新しい表現型ともいえましょう。

 脳という巨大な神経節も遺伝子によってプログラムされたものですが、それは新しい情報システムだという考え方があります。
 つまり DNA が開発されて以来の、もっと進化した情報伝達システムだということのようです。
 さらに、コンピュータのシステムは、その脳が発明した、独自に進化する情報伝達システムのネットワークとして、急速に構築されつつあります。
 人間は言葉を発達させ、画期的な新しい情報伝達手段を得ることで、後天的な学習の、遺産と学ぶすべをも身につけることができました。
 文字の印刷技術は、それを加速させました。飛躍的な、新しい情報のコピー手段を得たのです。
 ところがコンピュータのネットワークによる、情報コピーの速さは、それまでとは比較になりません。
 インターネットへの接続が常態となった時代の、情報の拡散スピードは、過去には想定し難いものだったでしょう。
 そういう情報の内容は突然変異的に改変されて同時に広まっていきます。
 その特性から、リチャード・ドーキンスは、新しい文化的な自己複製子「ミーム (meme) 」を提唱しました。
 遺伝子は英語で「ジーン (gene) 」というのでそれに似せて造語されたものです。
 そのような話題が展開された単行本、処女作初版のエンディングはこう締めくくられます。

われわれは遺伝子機械として組立てられ、ミーム機械として教化されてきた。しかしわれわれには、これらの創造者にはむかう力がある。この地上で、唯一われわれだけが、利己的な自己複製子たちの専制支配に反逆できるのである。
〔リチャード・ドーキンス『利己的な遺伝子』増補版 (p.321)

 ひとは〈神〉の概念を持つがゆえに〈神〉に敵対するという選択肢を得ることができた。
 ここでは、遺伝子が創造者と語られ、意識をもつことが可能となった人間だけが、
利己的な自己複製子たちの専制支配に反逆できると、明言されています。
 それでも、世の決定論者たちによる、ドーキンス自身が遺伝子決定論者なのだという、批判的な主張があるようです。

 意識とは、自己認識機能といえます。人間の脳が創発した、メタ認知の能力なのです。
 遺伝子は「自己複製」の過程で自己言及しますが、メタ認知というのは意識がそのまま自己言及することです。
 DNA にプログラムされた神経系によって創発されたものは、複製に拠らない「自己言及」の能力だったといえましょうか。

2017年7月10日月曜日

代謝機能と「粘土」から 生命の鎖

 生命進化の以前に化学進化があったといわれます。
 有機的進化のシステムが、新しいステージへと向かうにあたって、化学進化による発明品の「どちらが先にあったのか」ということは重要な問題であると各文献にあります。
 何が問題だったのか、専門家による一般向けの記述から引用してみますと。

DNA が複製されるためにはタンパク質が必要である。では、現在の生物においてタンパク質がどうやってつくられているかといえば、DNA の遺伝情報によってつくられているのである。つまるところ、これは、「鶏が先か、卵が先か」というような話になる。「 DNA が先か、タンパク質が先か」と考えると、答えは出なくなってしまうのだ。
〔池田清彦『38億年 生物進化の旅』 (p.16)

―― これはようするに。
 デオキシリボ核酸 (DNA) から遺伝情報を読み出すための酵素がタンパク質でできているため、ということらしい。
 周辺にある文脈をまとめると、そういうことのようです。DNA が遺伝子として機能するためには別に酵素が必要らしいのです。
 だから、タンパク質がなければ、そこに DNA があったとしても、きっと何も起こらないのでしょう。
 その点、リボ核酸 (RNA) であれば、自己触媒という作用によって複製をつくることができるらしいのです。
 そういうことが、各文献に共通して、記載されています。

 さて、「 DNA が先か、タンパク質が先か」という問題に別の角度から切り込んだ仮説が一九八六年にハーバード大学のウォルター・ギルバートによって唱えられている。それは、生物は RNA から始まったとする「 RNA ワールド仮説」である。彼がなぜそう考えたかといえば、RNA は DNA と同様に遺伝情報をもつことができるのみならず、RNA 自体が酵素になり(自分を触媒にして)自分を倍加することができるからだ。DNA はそれができない。RNA さえあれば、RNA から RNA が複製されることが可能であり、その過程で RNA の基本ユニットが DNA の基本ユニットに変換されて、より安定的な DNA による遺伝情報保持へと変わっていったのではないかとギルバートは考えたのだ。この仮説は現在でも多くの研究者によって支持されている。
〔『38億年 生物進化の旅』 (p.18)

 ちなみに、池田清彦氏によれば、
遺伝子はタンパク質を作る情報を有している DNA のこと」(同上、208ページ)とあり、
遺伝子の情報とは、おそらく「タンパク質を作る」ことに限定されているようです。
 ですから、タイムスケジュールや環境の変化によってそれぞれの遺伝子にスイッチを入れる役目は、遺伝子には与えられていません。遺伝子にスイッチを入れるのは、細胞の機能となるようです。
 さて次に RNA 以前の化学進化について各文献の記載を見ますと。
 前回にも引用した『進化する階層』には、次のような記述があります。

 これまでわれわれは暗黙のうちに、最初の遺伝物質は RNA だと仮定してきた。選択の実験のおかげで、われわれは化学と生物学の世界をつなぐ化学を発見したと考えるようになっている。これが複製重視の見方であることは認めるとしても、化学進化が複製する RNA を生みだすことができたのかということは、やはり問題にしなければならない。
…………
 このような問題からケアンズ-スミスは、原初遺伝子は RNA でなく粘土からなっていただろうと考えた (Cairns‐Smith, 1971) 。聖書物語のようなこの着想は、まったく不合理だというわけではない。粘土の結晶は、必要なイオンの飽和溶液から容易にできてくる。結晶は核の周囲で育っていき、育ちきるといくつかの小片となって剥げおちる。小片はさらに育つことができる。しかし、このような系は進化をとげるだろうか。
〔『進化する階層』 (pp.98-99)

 このことについて、新しい知見によれば、粘土から RNA の鎖ができたらしいことが報告されている、と、読める別文献の記述があります。
 吃驚仰天。おそるべし、聖書物語、というわけなのです。

 クエン酸回路の自己触媒反応は RNA レプリカーゼのとらえどころのない自己触媒反応とは異なっている。クエン酸回路は自身を直接コピーするわけではないし、回路の他の分子をコピーもしない。その代わりに、回路の反応のネットワーク全体を通じて間接的にコピーされるのだ。仮想の RNA レプリカーゼは自己複製分子ではあるかもしれないが、クエン酸回路は化学反応の自己触媒ネットワークなのだ。これは、クエン酸回路の欠点ではなく、生命の特性を定義するのに、RNA 複製因子とその遺伝情報は必要ないかもしれないという、もう一つのヒントなのである ―― 生命は遺伝子に先だって存在することができるのだ。
 クエン酸回路がすべての代謝活動の始祖であったかどうかは(まだ)わかっていない。RNA 複製因子に先立ってなんらかの種類の代謝が出現したかどうかもわかっていない。けれども、私たちにわかっているのは、この地球の歴史において、生きていると呼ぶに値するまさに最初のモノは、その飢えを鎮めるために自己触媒的な代謝をもつ必要があったということだ。
 そうした代謝は、単なる部品の供給連鎖以上のものである。なぜなら、部品供給者のそれぞれがさらに多くの供給者をつくりだすので、たえずより多数の部品を生産していくことができるからである。…………
 熱水噴出孔がこの回路の接続をも助けることができたというのは、たぶん偶然の一致以上のことなのだろう。というのも、熱水噴出孔にはモンモリロナイトと呼ばれるもう一つの興味深い触媒が含まれているからだ。この名はフランスのモンモリヨンという町の名にちなむもので、この地で農民たちは水持ちの悪い土壌で水分を保つために、この粘土鉱物を用いていた。二〇世紀の末に、ジム・フェリスらは、モンモリロナイトのもう一つ有益な性質を明らかにした。彼らはそれが自然発生的に小さな RNA 構成要素を寄せ集めて、五〇ヌクレオチド以上の長さの RNA 鎖につなげることができるのを発見したのである。
〔アンドレアス・ワグナー『進化の謎を数学で解く』 (pp.76-77)
参考文献として挙げられているものの一部:
  Ferris, J. P., et al. “Synthesis of Long Prebiotic Oligomers on Mineral Surfaces.” Nature 381 (1996): 59-61.
  Huang, W. H., and J. P. Ferris. “One-Step, Regioselective Synthesis of Up to 50-mers of RNA Oligomers by Montmorillonite Catalysis.” Journal of the American Chemical Society 128 (2006): 8914-19.

 確かに ――、生命の最初の機能は、
〝複製〟なのか〝代謝〟なのかという問いには、答えが出ないようでいて、
多数の部品を生産していくことができなければ、〝複製〟はすぐにも止まってしまうことは、予想可能です。
 それならば、〝複製〟に先立って、無制限に原材料を生産できる〝代謝〟の設備が必要であったはずとなります。
 その設備のもと。ようやく、最初の生命の部品となる〈自己複製子〉が「粘土」から発明されたようです。
 おおいなる創造物語の果てに、いずれにせよ、化学進化は、生命進化へと飛躍を遂げることとなりました。
 生命進化の過程には、共生と、多細胞化という次なる跳躍が次第次第に準備されたようです。
 こうして進化のシステム自体が繰り返し進化していくことになるわけです。


J. Maynard Smith & E. Szathmáry ; 複雑性の進化(進化するシステム)
http://theendoftakechan.web.fc2.com/ess/games/agent.html

2017年7月8日土曜日

弱毒化した ウサギの粘液腫ウイルス

 ウイルスの毒性が弱まる向きに進化する事例が書かれた本についてです。
 今回のタイトルとした話題はその方面ではもっとも有名な話らしいのですが、一般向けに日本語で書かれた詳しい文献がなかなか見つかりませんでした。
 このたび発見できた邦訳書だけでも、それなりの収穫と思えたので、そこからの引用文です。


このウイルスは最初、南アメリカのウサギ類縁種の片利共生者だった。最初ウイルスは感染後一~二週間でウサギを殺した。だがこんにちでは、ウイルスは時にはウサギを殺すが、何週間でなく何カ月を要する。この変化は、ウサギに抵抗性が進化してきたことに加えて、ウイルスの毒性も低くなったことから生じたとわかっている。個体群生物学者のロバート・メーとロイ・アンダーソンがこの事例を分析した。宿主を殺さないようにすることは寄生者にとって引き合うだろうが、新しい宿主に非常に効率よく伝わるようにすることもまた引き合うだろうというのが彼らの主張である。最大化されるのは、これら二つの要因、つまり宿主の生き残りと感染性を掛け合わせた積のようなものになるだろう。
〔ジョン・メイナード・スミス エオルシュ・サトマーリ 著『生命進化8つの謎』 (p.166)

 粘液腫の進化についてのメイとアンダーソンのモデルによって分析されているのは、この事例である (May & Anderson, 1983) 。共生者は、宿主と寄生体を一緒に殺すような過剰な毒性と、新しい宿主の感染率を下げてしまう不充分な毒性の間で、最適の妥協を進化させるだろう。
〔 J. メイナード・スミス E. サトマーリ 著『進化する階層』 (p.270)
 参考文献:
  May, R. M. & Anderson, R. M. 1983.
 Epidemiology and genetics in the coevolution of parasites and hosts.
 Proceedings of the Royal Society of London B219: 281-313.


 いろいろと探してみた結果、同じ共著者による記述を合わせれば、おおよその内容と原資料まで、辿れるという次第。
 訳者も、同じ方でした。
『進化する階層』長野敬 訳、1997年09月30日 シュプリンガー・フェアラーク東京刊。
『生命進化8つの謎』長野敬 訳、2001年12月10日 朝日新聞社刊。

 それにしても不思議なのです。自然界の何が〝淘汰圧〟となって、ウイルスの毒性は弱められたのでしょうか?
 群淘汰説によるならば、〔存続するという〕全体の利益のため、と解釈されましょう。
 ですが、群淘汰という考え方への支持率は、現在ではほぼ壊滅状態らしいのです。
 そうはいっても、このウイルス進化の方向性は、個体淘汰(個体選択)では、ストレートに説明できかねるものと思われます。
 利己的遺伝子でも、同様です。
 利己的でしかない〔と想定される〕遺伝子に対してどのような〝淘汰圧〟がはたらけば、強い毒性の立場は悪くなるのでしょうか?
 考えられるのは、強い毒で宿主が死滅した結果、周辺で目立たなかった弱い毒性のウイルスしか宿主と共に生き残れなかった、というあたりでしょうか。
 苦しまぎれな説明ですが、ウイルスは弱毒化したのではなく、強毒性の集団が全滅しただけ、なのでしょうか?
 それとも宿主がウイルス遺伝子の表現型にはたらきかけて、弱毒化をもたらしたのでしょうか?
 共進化する際には、共生の道が選択されて、ウイルス遺伝子が宿主の遺伝子に組み込まれてしまう場合も考えられるようです。
 しかしながらも、利己的遺伝子の宿命でやがては強毒性を獲得した集団が再登場して、そうして歴史は繰り返されるのでしょうか?
 いまのところ、弱毒化は個体淘汰によるという日本語での説明文にも、遭遇した記憶はありません。
 もしや過去のどっかに落として、もしくは見落としてしまっただけかもしれませんが。

2017年7月6日木曜日

インテリジェントデザイン説とタコの眼・ヒトの眼

 日本語で「知的設計」とも表現される。
 インテリジェント・デザインは《神》の創造物を意味する。
 そこで展開される論拠の、代表的なものに〝ヒトの眼〟が挙げられる。
 このように複雑な構造物が、「偶然にできた」とは、とてもじゃないが思いようがない。

 ところが、よくよく調査してみると、絶賛される構造物の機能に比して、デザインのセンスはいかがなものか。
 網膜のひとつひとつの細胞から脳へと延びてゆく視神経のケーブルは、いったん光の来る方向に突き出ているのだ。
 だから視神経の束は、網膜の一点に穴をあけて、にわかに、正常な向きへと、方向転換する必要ができた。
 盲点として知られる、それが、ヒトを含む、〝哺乳類の眼〟全般にある構造体の特徴だ。
 〝ヒトの眼に与えられた盲点〟はインテリジェント・デザインでは説明できない盲点ともなる。

 どうしてそういう「芸術的な設計」となったか。
 その都度、生存のための毎回のテーマが課せられて、生き延びてきた生命がある。
 進化の歴史は、いま、この瞬間をしのがなければ、明日はないと保証付きなのだ。
 日々のその場しのぎに改良された構造物が、最初から「知的に設計された」とは、とてもじゃないが思いようがない。

 ここまでは、よく目にする、論点だ。
 けれど。ここにもうひとつの盲点がある。デザイン上の盲点は、〝哺乳類の眼〟には与えられているけど、海洋生物の〝タコの眼〟などには与えられていないようなのだ。
 と、すれば《神》の「知的設計」は、〝タコの眼〟に発揮されたといえよう。
 やろうと思えば、《神》にも技術的に正常な設計は可能と、実証された。
 なればこそ。論をまとめれば構造体としての《神》の眼には盲点があったらしく、だからこそ、「神の似姿」であるヒトにも、盲点があるのだ、と説明可能となる。
 盲点をもつという、一見不完全さが、それを超克する《神》の完璧さをいっそう物語る。

 説明というのは、都合のいいものだ。
 事実は、それぞれが何を信じるかで、変わる。
 第二の盲点となった〝タコの眼〟にまつわる物語は、リチャード・ドーキンス著『盲目の時計職人 (p.165) で初めて目にした。〝タコの眼〟のことはあまり語られないようなので、一般論としては盲点なのかもしれないというわけで、引用しておく。

異なった進化系列は、その起源が独立であることを、細部における数多くの点で示している。たとえば、タコの眼はわれわれの眼にとてもよく似ているが、その視細胞から伸びている軸索は、われわれの眼のように、光のくる方に向いてはいない。この点では、タコの眼はより「気のきいた」設計になっている。タコの眼とわれわれの眼は、ひじょうに異なった点から出発して似たような終点へ到達している。

と、邦訳書のそのページには記されている。
 別々の基礎構造から出発して、似たような表現型をもつに至るという、進化が秘めたある種のベクトルがテーマとなっていて、そのベクトルは同じ段落中に〝力(パワー)〟と表現される。
 シャチは獰猛な種類のサメと比較されがちだし、それ以上に姿形がそっくりでまったく別種の生物は多いと聞く。
 かくして、試行錯誤の歴史自体が、並進しつつ繰り返されているのだ。
 全貌は見えない。だからこそ、というべきか。
 まだまだ多くの思考錯誤も語られよう。そこに何を信じつつどこに事実を展望するか。

2017年7月4日火曜日

3 度に 1 度は「やられてもやり返さない」戦略

ときにそのひとは、「やられたら必ずやり返す」という性質の向きと聞き及ぶ。
〝むくいは受けねばならぬ〟とはいいつつも、
感謝のお礼参りもたまには忘れたって、それで普通と思われようし。
報復も「必ずやる」というのでは、敬遠されて、
世間を狭くしかねない、と内心のところで思われましょうか。

 コンピュータ・シミュレーションによる〝進化ゲーム〟の実験結果を参照するなら。
「善行には 9 割報いて、悪行も 3 分の 1 は大目に見るべき」ことが示唆される。
―― そういう集団は安定的だという。
 どうやら、感謝の気持ちも 9 割程度で示すのがほどほど、ということらしい。
 いっぽうで怒りの気持ちは、3 分の 2 あたりに抑制するのが、明るい未来を導くようだ。
 あくまでもコンピュータ・シミュレーションによる〝進化ゲーム〟での、参考数値なのだが。

―― そういう集団は安定したのちに。
 やがては「やられても決してやり返さない」集団に移行するという。
 そういうわけなので、次には「やられる前に必ずやる」集団がのし上がってくる。
 このときに、「やられたら必ずやり返す」という性質の集団が復活する。
 もとに戻っちまった。

 この、揺れ動く周期を打開する、世渡り上手が、
「勝ったらそのまま、負けたら変更」戦略を採用した集団であるという。
“Win-Stay, Lose-Shift (WSLS)” と、英語で表記される。
 Pavlov(パブロフ)とも呼ばれるこの戦略に手を染めたらば、「やられても決してやり返さない」相手など、とっとと食いものにしてしまうらしいのだ。
 それだからこそ、成功できるのだと、いえようか。
「やられたら必ずやり返す」戦略など、これに比べれば、児戯に等しく、自棄的とも見えてくる。

合理的な経済人には、この
「勝ち残り・負け逃げ」の冷静かつ冷徹な判断が求められるのかも知れない、などと思いつつ。


Martin A. Nowak & Karl Sigmund ; GTFT 寛容なしっぺ返し
http://theendoftakechan.web.fc2.com/ess/games/generousTFT.html

2017年7月1日土曜日

互恵主義的な戦略の強さと弱点

 繰り返し型の「囚人のジレンマ・ゲーム」のコンピュータ選手権で、〈やられたらやり返す〉戦略は最強だった。
 互恵主義的な戦略の頂点にあるかのようだ。
 けれども、いくつかの弱点は、すでに指摘されている。

 繰り返されるゲームの最中に、前回のゲームで〝協調した〟相手と〝裏切った〟相手の、判断を誤るというミスは容易に想定できる。
 ジレンマ・ゲームの背景に生じたほんの小さなノイズでさえも、結果に大きな影響を与えることになりかねない。
 相手が同じ〈やられたらやり返す〉戦略だって、同様のエラーは起きよう。
 たった一度のエラーが、〝裏切り〟の応酬をもたらすことになる。
 アクセルロッドの想定実験では、多くは二度目のエラーで打ち消されて修正されたというが、そうでなければ、二度目の誤解で、特定の相手同士では〈いつも裏切る〉戦略と見分けがつかなくなってしまうだろう。
 二度目のミスが最初のミスを修正するというのは、ほんの偶然に過ぎない。

 こういう破目に陥らないために、『聖書』の金言はある。
悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。
〔口語訳『聖書』「マタイによる福音書」 5 章 39 節〕

 さてここで。さらに重要なポイントとなる弱点は、もっと危機的だ。
 本来的には〈裏切りやすい〉戦略は、この集団に侵入できないといわれる。
 けれども、〈協調しやすい〉戦略であれば、〈やられたらやり返す〉戦略と遭遇したときに、ほとんど見分けがつかないため、たとえばそれが〈いつでも協調〉戦略なのであれば、そういう〝互恵主義的な戦略〟のなかで共存共栄できるだろう。
 いつかその戦略がひとつの集団としてまとまったなら、せいぜい〈やられたらやり返す〉戦略に想定されるエラーが修正されたプログラムとして、安定性の強化が長所として勘違いされる程度だろうか。
 のみならず、相手のエラーさえも、その場でたちどころに修正してしまうのだ。
 その、エラー修正機能を搭載した安定性が特徴の戦略がやがては〝平和ボケ〟した集団全体に、便利なものとして、おそらく拡散するだろう。
 そのとき、〈裏切りやすい〉戦略が接触してきたなら、乗っ取られかねないのだ。
 集団は、修正型〈やられたらやり返す〉戦略ではなく、〝平和ボケ〟戦略に席巻されてしまっているからだ。
 それでもその時点で、本来の〈やられたらやり返す〉戦略が全体の 1 割弱でも残っていたなら、巻き返せるというが。

 そうでなければ〈いつも裏切る〉戦略が台頭して、やがては自滅する。
 集団は全滅するだろう、〈いつも裏切る〉戦略が自滅するのは、その本質が〝寄生者〟だからだ。
 エサとなるべき〝平和ボケ〟集団が絶滅したあとには、飢え散らかした殺伐としたヤツらしか残っていないわけだ。
 ウイルスなどでも、猛威を振るったあとには、〝宿主〟が全滅しないようにか、その毒性を弱めるというけれども。
 〈いつも裏切る〉戦略に、その、ウイルスが発揮する程度の修正プログラムが搭載されているという保証はない。
 だから、決して反撃しない〈いつでも協調〉戦略の蔓延は、世界を滅ぼすと、指摘されている。
 であれば。もともといつだって背後に〝最強〟が控えているのでなければ、右の頬に次いで左の頬を差し出す習性はやめたほうがいいこととなろうか。
 それが〝たまに〟ならいいだろう、けれど〝いつも〟なら、終わりの日はすぐにもやって来る。
 悪人には手向かう必要もある。
 滅びた世界に君臨する〝権力〟を望まないのであれば。