2017年8月31日木曜日

進化した表現型が 遺伝子型に作用する

 ダーウィンが『種の起原』を発表した同じ時代の 19 世紀後半のことです。
 修道士グレゴール・メンデルによって、
1865 年 2 月 8 日と 3 月 8 日の 2 回にわたって、ブルノ自然科学会例会で口頭発表された論文は、その年の、ブルノ自然科学会誌に掲載されました。その巻の実際の出版は 1866 年とされています。
〔メンデル著『雑種植物の研究』岩波文庫(1999年) 解説・岩槻邦男 (p.98)

 メンデルは修道院の庭園の一画で、豆の交配実験を数年にわたって続けていました。
 研究結果を発表した 1865 年の少し前、1856 年から 1862 年にかけて行なわれたといいます。
 彼はその当時すでに「表現型」と「遺伝子型」の違いを認めていたと、次の資料に説かれています。

 メンデルのみちびいた結論でもっとも重要なのは、「最初の世代で優性の形質と劣性の形質の配分に現われる三対一の比率は、優性形質の意味を交雑種と親の形質とに区別するなら、すべての実験で二対一対一の比率に変わる」という点だった。言い換えれば、優性形質が現われる株 ―― エンドウの実験では丸い種子をもつ株 ―― には、ふたつの優性遺伝子をもつもの (AA) と、ひとつの優性遺伝子とひとつの劣性遺伝子をもつもの (Aa) があり、その割合は AA の株が一に対して Aa の株が二となる。ここでメンデルは、現在では「表現型」と呼ばれている形質の外見と、現在では「遺伝子型」と呼ばれている外見の遺伝子的基礎とを区別していたことになる。「表現型 (phenotype) 」の語源は、ギリシャ語で「表面に現わす」ことを意味する phaino 、「遺伝子型 (genotype) 」の語源は、英語で「遺伝子」を意味する gene だ。
〔エドワード・イーデルソン著『メンデル』西田美緒子訳 2008年 大月書店刊 (p.66)

 遺伝子型というのは遺伝子の構成をいいます。表現型は、生き物の見た目のことで、表現形質とも形質ともいうようです。
 自然淘汰(自然選択)は、行動主体となる生物の表現型を通して働きます。
 ということであれば、遺伝子型の変化は、行動主体(エージェント)の表現型(形質)に影響を及ぼさないかぎり、個体の淘汰とは無関係なことになります。

 リチャード・ドーキンス著『延長された表現型』では、この表現型が、道具や影響力としても有効であるとされます。
 マット・リドレー著『繁栄』ではそれをふまえて、百万年間にわたって同じ形で作られ続けた握斧(ハンドアックス)は、人類にとって「延長された表現型」に等しい、と論じられていました。

 このように考えていけば人類は、前回の間氷期 ―― 約 12 万年前のイーミアン間氷期のころから「延長された表現型」を直接に変化させる能力をその表現型のうちに取り込みはじめたかのようです。
 それ以前でも握斧の形状に多少の変化はあったものの、以降の、道具の革新とは、較べようもありません。
 加工した道具に改良のための手を加えていく ―― まぎれもなく、それは確かな手ごたえとともに進んでいくある種の革新であり、着脱自在のオプションとして、表現型が進化していくことになります。
 その覚醒を描いた、有名な映画のシーンが思い出されます。
 ですが、太古の空高くにほうり投げられ、一瞬にして宇宙船にまで変貌を遂げた、技術の起源は、類人猿のもつ棒状の骨や未だ加工されていない道具などではなく、人類の製作した石器だったことに(いまにして思えば)……なるようです。

 またマット・リドレー著『繁栄』では、言葉が「集団的知性」を作り上げ、「集団的頭脳」が人類の文化の進歩をもたらしたとしています。
 すなわち概念の共有が、複雑な意味を共通の言葉に与えました。
 森羅万象という事実に、意味が生じて、それは伝達されていきました。
 意味は、未来予測に有効でした。
 概念や意味に、価値が、生まれました。
 気がつけば意味のない事実は、この世にありませんでした。
 集団同士にも相互のネットワークが生まれて、多くの意味と多くの価値が地域に拡散していきました。

 そのころも技術情報という「延長された表現型」の革新は、すでに「遺伝子型」とは無関係に展開しているわけです。
 現在は、もっぱら情報技術の時代といわれます。
 It is IT.
 電脳の進化が、メンデルの開拓した遺伝子の地平に、ヒトゲノムの全貌をもたらしました。
 進化した表現型が遺伝子型を読み解き、いまや種々の加工までもはじめているのです。

2017年8月28日月曜日

バクテリアは遺伝子を ヒトはメッセージを交換する

 バクテリアが抗生物質投与など環境の激変に対して、近隣同士で相互に遺伝子を交換することでたちどころに適応していく事例は、DNA レベルでの情報媒体の柔軟性を物語る。
 ヒトはやがてそれを、実体の定まらない媒体(メディア)を使った情報の交換により行なうようになった。
 たとえばその情報交換は、言葉という音声を媒介して行なわれる。
 有形無形の情報の集積は、人口が多くなるほどに高まる。技術(テクノロジー)は人口に比例するともいわれる。
 人口の多さは、専門家の存在を許し、効率の良さが、加速していく。

 DNA 不要の次世代型複製子として「ミーム」が語られる。
 1976 年のドーキンスによる造語以降、文化子とも呼ばれ、継続して論じられ続けている。
 その新しい複製子の増殖能力がヒトの文化を急速に発展させた要因なのだ、と。
 それが進化するシステムの最新形態だ。

 マット・リドレー『繁栄』など繙けば、ヒトの交換能力がその新しい進化システムを可能にしたと知れる。
 冒頭まず、握斧(あくふ)について語られる。
 握斧 ―― ハンドアックスとは、発明から百万年間というもの、ほぼ同じ形状を保ち続けた石器だ。
 リチャード・ドーキンスが……「延長された表現型」と呼ぶもの、すなわち、遺伝子の外的発現の一部だった〔『繁栄』〔上〕 (p.81)、とその理由が解かれる。
 つまりその道具の作成は遺伝子にもとづくもので、容易に交換可能な〝表現型の延長されたオプション部分〟として人類に与えられた。
 だからこそ人類は握斧発明以来の当初百万年もの間、なんら疑念をもつことなく本能的に、同じものを作り続けたのだ……と、考えることができるという。
 百万年が経過した後、ようやく道具の改良がはじまった。
 それがにわかに加速するのは、人類の役割分担および物々交換の発明によると、考察は展開していく。

私に言わせれば、答えは気候や遺伝子、古代の遺跡、いや全面的には「文化」の中にすらなく、経済にある。人間はあることを互いにし始め、それが実質的に集団的知性を作り上げるきっかけとなった。すなわち彼らは、血縁者でも配偶者でもない相手と、初めて物を交換し始めたのだ。…… その結果、専門化が起き、それがテクノロジーの革新を引き起こし、そのせいでさらに専門化が促進され、交換がいっそう盛んになった。…………
 交換は発明される必要があった。ほとんどの動物は自発的に物を交換したりはしない。ほかのどんな動物種も物々交換をすることは驚くほど珍しい。……「犬がほかの犬と公平かつ意図的に骨の交換をするのを見たことがある者は誰もいない」とアダム・スミスは述べている。
 …… 互恵的行為は、(たいていは)違う時点で同じものを与え合うことを意味する。交換(物々交換あるいは交易と呼んでもかまわない)は、(たいていは)同時に違うものを与え合うことを意味する。それをアダム・スミスはこう言っている。「私のほしいそれをくれれば、あなたがほしいこれをあげよう」
〔マット・リドレー/著『繁栄』〔上〕 大田直子 ()/訳 2010年 早川書房刊 (pp.88-89)

 物の交換 ―― という発明。
 自他ともに価値を認めあう、それぞれ別の品を手放すことで、物々交換をするという行為を覚え実現するのが、どれほど難しいか。
「霊長類学者のサラ・ブロスナンはチンパンジーの二つの異なる集団に物々交換を教えようとしたが、とても苦労した」〔同上 (p.92)
と、具体的な研究事例があげられて説明がある。
 ここで他資料も交えて補足すれば、チンパンジーの所有権というのは、現に手にしているものに限られるらしい。
 だから、手を離した瞬間に所有権は失われる前提があるため、チンパンジーでは交換取引は成立しにくい。
 あえてたとえるなら、ドラマなどで描かれるヤクザ同士の取引現場の緊張感がこれに近いような気もする。
 相手がいつ、相互に交換に差し出した両方の品の所有権を発動させるか、わかったものではないのだ。

 そういう事情は依然と、変わらないにもかかわらず、交換経済は、ヒトの社会で成立した。
 すべての哺乳類で分泌されるという〈オキシトシン〉が重要な信頼のホルモンとして語られる。
 それは進化上の戦略としてかなり重要だったらしい。哺乳類のすべての種で化学的にまったく同じ形で存在するという。
 オキシトシンは優しさを活性化し、他人に気前よくふるまうことで快感をもたらす。
 でもそれだけでは、人類特有の経済活動を説明できないことにもなる。

―― ここで、信頼のシステムを引き出すための重要な条件となるのが〈評判〉だ。
 評判を背景とするヒト同士の交換は、安心感がともなえば互いの利益を増殖していく。
 それが、分業の制度をも可能にした。交換を前提として、それぞれが得意技を開発・披露していくのだ。
 物々交換の時代に、互いの評判を保証したのは、おそらく仲間意識であり、同じように信じる力や信仰でもあったろう。
 超自然の媒体が、相互の信頼を強固にしていく。
 同じ神を信じる者同士であれば、もし裏切った場合のしっぺ返しまでもが、想定内となる。
 各自における神との契約が、交換経済の保証書であった。

 本能的な仕組みを利用した食料や道具などの交換がやがて、道具などを作る技術の交換となり、それが記録された技術情報の交換へと発展していくのは、文字の開発以降ともなれば容易な話だったろう。
 前提として。安心できる交換には、確かな評判が必要であり、神によって保証された評判が、もっとも確実であった。
 だから、彼らには保証書としての信仰が必需品でもあったろう。
 それが、強靱な「神のミーム」のはじまりだったろうか。

 バクテリアの適応能力の高さは、即時に対応できる遺伝子の交換能力によるといわれ、現生人類の適応能力の高さは、遺伝子によらないその場での新しい交換能力にもとづく。
 いずれにせよ、進化のスピードは、情報の伝達能力の高さによる適応にもとづくだろう。
 ヒトの交換経済が、新しい形の、DNA 不要の次世代型「進化形態」をもたらした。
 それを見知らぬ同士で可能にしたのが、まず「神のミーム」だった……。
 そんなふうにも思われる。

 その次に、都市型経済で彼らの誠実さを保証したのが、「貨幣」だった。
 コインの誠実さは、持ち主の身分さえも問わない。
 通貨はだれにも平等な価値を保証する。
 紙幣は無制限の価値を生み出す新しい信頼の媒体として流通する。


超自然の媒介者
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2017年8月25日金曜日

人類の定住と宗教施設と酒

 2 万年前に、最後の氷期が終わったといいます ――。
 それ以前、氷期は 10 万年のサイクルで繰り返されていて、現在にひってきする間氷期は約 12 万年前のイーミアン間氷期にまでさかのぼらなければならないようです。
 1 万年前からは、気候が安定して、その温暖化は現在にいたるまで継続しているわけです。
 そのころから定住と農耕がはじまり、やがて集落は都市化していきました。
 人類が繁栄を謳歌する時代が到来したのです。
 次の氷河期まで、もう少し余裕は残されているでしょう。
 さて。氷期の終わりの雪どけは、およそ 8400 年前に「黒海の洪水」をもたらしたとも唱えられています。

 氷河期ののち、氷河は融(と)けて後退し、海に流れ込んだ。海の水位は平均すると約 130 メートル上昇したと考えられる。その水が、地中海からマルマラ海に流れ込み、さらに黒海に流れ込んで、現在の姿を形成したというのが概要だ。
〔 NHK スペシャル取材班著『ヒューマン』2012 年 角川書店刊 (p.312)

 そのころに農業がヨーロッパ全体に拡がっていったのは農耕民の避難によるとする仮説も提唱されています。
 バベルの塔とは無関係に、洪水が、技術をもったひとびとを地のおもてに散らしたという話になりましょうか。

 ところで、定住と農耕革命は、人類に土地の占有と継続的な貧富の差をもたらすことになりました。が ――。
 革新(イノベーション)の黎明期に、1000 年ほどの期間が必要だったともいわれます。
 農業を成功させる地道な革命の、幾世代にもわたるモチベーションを維持できたのは、あるいは宗教的信仰の作用によるという話があります。

定住傾向 ⇒ 信仰 ⇒ 農耕、という順番になるようです。

 食料の需要に応じて農耕が自然発生したというのは、よくよく考えてみれば不自然で、いまでは人気がないようです。
 現代の知恵の集積と技術をもってしても、新しい品種を新しい土地に根付かせるのは容易ではありません。いにしえの時代の失敗は、必然的にその間の飢えっぱなしを招くと思われ、ほかからの援助は欠かせないでしょう。
 その幾星霜を、ひとびとはどのような情熱で耐え忍んだのでしょうか。
 ここで注目されるのが、トルコにある、「世界最古の宗教施設」といわれる〈ギョベックリ・テペ遺跡〉です。
 大小の石柱で構成された建造物をもつ、巨大な構造の遺跡です。

 遺跡の年代は、1 万 1600 年前~ 1 万 800 年前頃とされている。
…………
 ギョベックリ・テペ遺跡のそばにあるのは、…… カラジャダー山である。
 馴染みのないこの地名は、私たちにとってもっとも身近な植物のひとつが自生していた原生地だ。その植物とはコムギである。
 シュミット博士はその方角を指差しながら、教えてくれた。
「コムギの原産地のカラジャダー山はこの方向、ここからわずか 60 キロの場所にあります。そして、きわめて初期の農耕遺跡も、この周辺から見つかっています。当時、この地域でもっとも重要なイノベーションといえば、植物の栽培化と動物の家畜化なのです」
〔『ヒューマン』 (p.225, p.267)

その小麦を使って、ビールを醸造していたのではないかとも、いわれます。
そういえば、日本で主食の米も、アルコール飲料の主原料となっています。

 多くのひとが集まって造営された巨大な宗教施設で、アルコールがふるまわれて、やがて農業も発展したというような、めでたい話でしょうか。
 日本古来の儀式にも、酒はつきものなのですし。―― なれば。
 アルコールの味を覚えた人類が農耕革命を漸次実現したというのも、また一興(いっきょう)でしょう。

2017年8月21日月曜日

巨大化した 脳のネットワークが文化をつないだ

 本格的な、ホモ・サピエンスの出アフリカは、6 万年前ころから、はじまったともいわれます。
 バブ・エル・マンデブ海峡を通ってアラビア半島南端に上陸する「南方ルート」が有力視されているようなのですが、紅海の海峡を越えるには、聖書以前の時代とあってはモーセの奇蹟も期待できないため、渡海のための造船技術が必要となります。
 イスラエル方面へと向かうのは、シナイ半島を経由する「北方ルート」となります。

 ホモ・サピエンスが、シナイ半島のその先、パレスチナの回廊を突破して、ヨーロッパへの出アフリカを成功させたのは、ネアンデルタール人が姿を消したころ、およそ 4 万年前のことだったようです。
 が、それより以前にアフリカを出たホモ・サピエンスは、そのころにはすでに東南アジアにまで到達していたと、証拠が示しているそうです。
 6 万年前。定住はまず、海岸線にはじまり、アフリカの東海岸から海の幸を追って、ホモ・サピエンスはうっかりアラビア半島にまで渡ってしまったのでしょうか。

 さて、人類の文化の革命的な発展は、脳の大きさと言語のことが話題の中心になります。
 現生人類ホモ・サピエンスの共通の祖先は「ミトコンドリア・イブ」説が 1987 年に発表されて、おおよそ 20 万年前のアフリカ起源が主力となったようです。また、現代人的な心の起源を「現代人的行動」の記録に求めれば、10 万年前より昔には、あまり溯れないらしいのです。
 文化と芸術の爆発は、ヨーロッパへの出アフリカを成功させた直後のことだったようです。それが 4 万年前よりもっと以前の古い時代には確認できないということから、人類文化の発展に脳と言語以外の、きっかけとなるべき要因が提唱されています。
 それは、集団の人口の多さとその密集度です。

 ネアンデルタール人が絶滅したころに、ホモ・サピエンスの集団は巨大化したということが研究発表されています。
 集団の巨大化と、言語を駆使した強大なコミュニケーション能力が、新しい文化の継承・伝承を、驚異的に拡大したということのようです。
 人類の脳の巨大化には当然のことながら限界があって、4 万年前と較べれば少し小さくもなりました。
 ですが。人口増加とともに飛躍的に発展したコミュニケーション能力により、脳のネットワーク化が急速に起きたのだといえましょうか。
―― その仮説に基づくなら。
 芸術の爆発は、目に見えない脳のネットワークが、新しい人類を創発した時代の象徴だったのかもしれません。


共同する生存者
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2017年8月17日木曜日

芸術が爆発したころ ネアンデルタール人が消えた

―― ネアンデルタール人の脳は、現代人よりも大きかったらしい。
 1856 年にドイツのネアンデル渓谷の採掘場から掘り出された化石に由来する名の人類で、およそ 4 万年前に絶滅したとされます。
 ホモ・サピエンスが神の創造した〝唯一の人類〟であることに、疑いが生じました。
 1858 年 7 月、ダーウィンとウォレスが「自然選択による進化論」の共同発表者として認められ、翌 1859 年 11 月にはダーウィンが『種の起原』を刊行した時代背景があります。
 1868 年に、フランスのクロマニョン洞窟で、また別の人骨が発見されることになります。
 クロマニョン人と、名づけられました。
 ヨーロッパでネアンデルタール人が絶滅に向かう時代に共存していた、ホモ・サピエンスとされています。最新の研究によれば、その共存の期間は 5000 年程度と見込まれているようです。
 クロマニョン人の脳は、ネアンデルタール人よりも大きくて、現代人の脳と比較すれば 1 割程度は大きかったといいます。

 かくしてネアンデルタール人が消息を絶った 4 万年前と比べると、人類の脳は縮んでいることがわかります。
 2010 年 5 月に『サイエンス』誌に掲載された論文では、ネアンデルタール人の遺伝子の数パーセントが現代人と共有されていることが、発表されました。
 クロマニョン人の文化や芸術が爆発した時代は、約 3 万 7000 年前といわれます。
 そのころに、ネアンデルタール人は姿を消しました。が、クロマニョン人との関連性は、謎のままです。

ありふれた仮説としては、現生人類が勝ち残れたのは現生人類のほうが旧人類よりも協力することに長けていたからだとか、狩猟採集で得る資源の幅が広く、魚や鳥など、よりさまざまなものを食べていたからだとか、より大きく効率的な社会ネットワークを持っていたからだといったものがある。
〔ダニエル・E・リーバーマン著『人体六〇〇万年史』〔上〕塩原通緒訳 2015 年 早川書房刊 (p.224)

 さてさて。ホモ・サピエンスは、けっして最初から人類最強だったわけではありません。
 ホモ・サピエンスとしての、第一次「出アフリカ」は、約 12 万年前とも想定されます。
 その時にはわずかな痕跡を残しただけで失敗に終わったようです。
 それが約 7 万年前のことのようです。

 インドネシア・スマトラ島のトバ山が噴火したのは、おおよそ 7 万 4000 年前とされています。
 当時は、急激に地球の寒冷化が進んで、まもなく長い冬がやってきました。
 寒冷地仕様だったネアンデルタール人も、ヨーロッパを中心に居住していたのですが獲物を求めて南下し、現在のイスラエルのあたりで、ホモ・サピエンスと出くわします。
 聖書の時代から現代に続く世界最大の紛争地帯に、トバ火山の爆発をきっかけとして、最初の衝突が記録されたようです。
 温帯・亜熱帯仕様のホモ・サピエンスは、一度そこから撤退を余儀なくされました。
 それから 3 万年。
 ホモ・サピエンスは、ようやくその回廊を突破して、出アフリカを成功させます。

フランス南部では、1994 年、壁画が描かれた新たな洞窟が見つかった。ショーヴェ洞窟と呼ばれ、ラスコーやアルタミラと比べても遜色(そんしょく)のない、見事な動物たちの絵が描かれていた。時代は 3 万 7000 年前、ラスコーやアルタミラよりずっと前だ。年代が測定できるものとしては人類最古の絵画といわれている。
〔 NHK スペシャル取材班著『ヒューマン』2012 年 角川書店刊 (p.187)

 ホモ・サピエンスのうち 4 万 2000 年ほど前に、ヨーロッパに進出したその人類が、クロマニョン人です。
 芸術や伝統文化の創意と継承には、ある程度の集団の大きさと、人口密度が必要になるでしょう。
 失敗の多さが成功を導くともいわれます。
 生き残るための社会性や共同作業も結束力を高めます。
 また、トバ火山の噴火にともなう天変地異のあとには、70 キロも離れた場所との交易が遺品の記録に見えるといいます。
 地球寒冷化の危機がホモ・サピエンスの飛躍と成功をもたらしたとも、推定されています。

2017年8月12日土曜日

ひとの心の起原と笑顔の奇跡

 NHKスペシャル取材班の執筆した一般向けの本『ヒューマン』が、2012 年に角川書店から発行されています。
 副題に「なぜヒトは人間になれたのか」とあります。
 21 世紀の初頭、〈ひとの心の起原〉を世界に取材した記録です。
 いろいろな過去の事例のなかでもリアルタイムの映像も残っているという、イラクでのできごとが特に印象に残りました。
 アメリカ軍の当事者だった大佐へのインタビューを中心に、再現された、紛争地帯での一場面です。
 2010 年 4 月、アメリカ合衆国の国防総省の本部庁舎、ペンタゴンで、そのインタビューは行なわれました。
 長くなるのですが、その箇所から、抜粋引用させていただきますれば。


 取材相手は、クリストファー・ヒューズ大佐。米国陸軍長官付きの行政官だ。彼は、2003 年からのイラク戦争の際、第 101 空挺(くうてい)師団第 327 歩兵連隊の第 2 大隊の司令官として、現地での作戦指揮を執った。……。
 ヒューズ大佐のイラクでの最初の任務は、バグダッドの飛行場に行くことだった。……。そこで、第 101 空挺師団には、ナジャフ市を確保する任務が与えられた。
 ナジャフはイスラム教シーア派の聖地のひとつで、スンニ派とシーア派の主要な聖職者がいるアリー・モスクがある。ヒューズ大佐は、地元の有力者である聖職者と会おうと考えた。
…………
 その話し合いのために市内に向かった先で異変は起こった。
 群衆のある者が「彼らはモスクの神聖を汚しに行くのだ。聖職者を殺しに行くのだ」と叫び、それをきっかけとして騒ぎがはじまったのだ。石を投げたり、道に止めてある荷車を押し倒したりと混乱は加速した。
 どのようにその場を収束させるのか、ヒューズ大佐は難しい判断を迫られた。
「軍隊では、群衆を静めたり、群衆の緊張をそぐためには、空に向けて銃を撃つと教えられています。ですから、最初、私は縦列の前に行き、武器の安全装置を外し、空に向かって撃つ準備をしていました。しかし、そのとき、少し冷静に考えました。もし威嚇したとしても、その後どう収束させるというのか。自分はアラブ語も話せない。誤解を解くすべもないのです」
 ヒューズ大佐の頭のなかには、誰かが銃を撃てば、誰もが撃ちはじめるという恐怖があったという。そうなれば、血みどろの収拾のつかない状況になる恐れもあった。
…………
 次の瞬間、ヒューズ大佐は部下たちに向かってこう叫んだ。
「笑え、笑うんだ」
 一瞬にしてその場の空気は変わった。大勢の人たちが、笑顔を見せる兵士たちに微笑み返したのだ。混乱は収束し、事なきをえる。
 なぜヒューズ大佐は、とっさにそんな判断をしたのだろうか。
「私は世界の 89 カ国に行っていますが、言語の壁、文化の壁、民族や宗教の壁があっても、笑顔の力が働かないのを見たことはありません。この世界で、笑顔は一つの意味しかありません。ですから暴力があり、不安があり、怒りがあり、混乱がある状況だったとしても、あなたがその人に笑顔を見せたら、少なくとも対話がはじまります。そこで、私は笑顔になりました。私が懸命に笑顔を見せると、群衆は私と一緒に笑顔になりました」
 笑顔をつくるのに一番苦労したのは、大佐の部下たちだったという。
「彼らは戦ってきたからです。町にただ歩いて入ってきて、笑顔になれといわれたのではありません。この町に入るために戦わなければなりませんでした。人が殺されるのを人生で初めて見た兵士や、人の命を奪わなければならなかった兵士もいました。何が起こるか分からない状況だったので、彼らが笑顔になるのは数分かかりました」
 このときの顚末(てんまつ)は、従軍していたニュースカメラマンによって撮影され、全米で放送されて大きな評判を呼んだ。
 その映像はいま見ても、ある不思議さを感じさせる。
 囂々(ごうごう)たる喧噪(けんそう)のなか、拳(こぶし)を振りあげて抗議の意思を示す男たち。表情を押し殺して銃を抱えて待機する兵士たち。一触即発を絵にしたような光景が一瞬のちには、交流を感じさせるムードに包まれるのだ。双方が笑顔を浮かべ、なかにはテレビカメラに手を振るイラク人の姿もあった。
〔 NHK スペシャル取材班/著『ヒューマン』 (pp.70-72)


 笑顔の魔法が、危機に陥った多くの人間の命を救った実話を紹介するために、長文の引用となりましたが、もとの書籍もぜひ手に取って全文を読んでいただきたく思います。
 笑顔というのは、危険への緊張が緩和されたときに自然に起きる現象でもあるという、心理学的な説明を読んだ記憶があります。
 安心感を先取りすることで、現実の安全を手に入れることもできるのだと、思い知らされました。
 笑いはたいてい、気の緩みの表明なのですね。だからその表情は、すでにリラックスして、油断している状態だと、周囲にメッセージを送ることにもなります。
 そういうわけで、油断した瞬間に策略にかかるというパターンは、笑顔の罠としてこれも人類の文化にあります。
 でも、それでも。人畜無害な魔法で、人類の危機さえも乗り越えられたら、素敵でしょう。

 感情のコントロールに関しては、悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しいのだと、そう聞いたこともあります。
 楽しいから笑うのではなくて、笑うから楽しくなるのだと、そういう話です。
 人間の感情は、顔の筋肉にけっこう支配されていて、表情の豊かさが感情を脳に伝達指令しているようです。
 感動して泣く場合は、どうなのでしょう。
 いずれにしても、人間は、他人の表情を見ただけで、その心裡状態を推察することのできる能力を手に入れて、のみならず〝感情移入〟という得意技さえほしいままに駆使します。
 かくして感情は伝播(でんぱ)するわけですが、伝播の媒体は光であったり音であったりするのです。
 視ただけ、聴いただけで、心は動き、記号化された文字を読むことでもそれは発動します。
 突然、スイッチが入るのです。
 だから、あくびや笑顔は、伝染する……想像しただけでもあくびがでそうになる、わけです。


わかりあう心の黎明
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2017年8月8日火曜日

他人をなんとかする信念

 前回の続きとなりますが、別の角度からの説明もあったのでそれを引用紹介させていただきます、と。

自分の夫や妻のパーソナリティを変えられると信じている人は、新婚夫婦を除けばだれもいないのに、だれも、「それでは、夫(あるいは妻)にどのように接するかは重要ではないと言うのですか?」とたずねはしない。夫と妻がたがいによくしあうのは(あるいは、そうすべきなのは)、相手のパーソナリティを望ましいかたちに作りかえるためではなく、満足できる深い関係を築くためである。夫あるいは妻のパーソナリティを改造することはできないと言われて、「彼(あるいは彼女)に注ぎ込んでいるこの愛情がすべて無意味だなんて、おそろしくてとても考えられません」と応答している人を思い浮かべてみよう。親と子についてもそうなのだ ―― ある人のもう一人に対する行動は、二人の関係の質に影響をおよぼす。
〔スティーブン・ピンカー 著 NHK ブックス『人間の本性を考える』[下] 山下篤子 訳 (p.227)

―― 子どもに対する期待感を大人にそのまま適用したとき、おかしな話になるけれど。
 自分の力で誰かを変えられるという信念の持ち主は、多いような気もします。
 このひとをなんとかしたいという想いになるのは自然な感情でしょう。
 でも誰かを思い通りにできるくらいなら、その能力はまず自分自身に発揮されてしかるべきとも思われます。
 自分が思い通りにならない存在であることは、たいていの大人たちが身に沁みているはずなのです。
 それとも他人をコントロールする能力は、自分には使えないという、まさに特殊な技能なのでしょうか。

 さらに考えてみれば、なにごとも作用には、反作用というのがつきもので、相手に与えた影響力だってそれなりのものが自分に返ってくるはずなのです。
 そういう影響力は、すでに失望感となって、自分自身に作用していると見受けられる場合も多々あります。
 過剰な信念は、それなりの結果を伴わない場合に、破滅的な絶望をもたらすとも予想されるので、他への逃げ道も必要でしょう。

 ところでいまさらながらですが前回の「能力の可塑性という信仰」というタイトルは少々間違えていました。
「能力の可塑性にまつわる信仰」のほうが曖昧でよかったと、思い至った次第です。
 あんまり決めつけるのは危険なのですね。
 能力の可塑性は、老若男女を問わずに、常に期待できて、かつ幼い子どものほうがその可塑性は高いと思われます。しかしながら、ベースとなる能力を無視して、後天的に与えられた技術的な効果だけですべて同じ結果をもたらすということにはならないでしょう。そういう極端な場合だけを考えていたことがタイトルに反映されてしまったわけです。
 ダーウィン的「進化」もその本質は「変化」ということでした。
 つくづく生きているということは変化するということで……。

 変わりようのないひとには「なにをいっても無駄」ということになるわけで。
 頑固な大人や年寄りには何を言っても変わらない、というのも偏見で。
 それを暗黙の前提とせず、相互理解のきっかけをあきらめない信念も、必要になってきましょうか。

2017年8月5日土曜日

能力の可塑性という信仰

 子供は無限の可能性をもつ、とか、もっともらしく語られる。
 ざっくりとした標語的なものだったら、特に大きな問題もない。
 ところが個別の親子関係においても、それが主張的に語られる。
 環境次第で、子供はなんにでもなれる、と。

 たとえば近ごろの、高学歴信仰を基盤としたかのような教育方法についてのテレビ番組などの展開では、個人の特性に拠らず教育次第で人間の能力はいかようにも開花すると、本気で思い込んでいるかのごとくに、感じられてしまう。
 どうやらそれらの教育論の中身は、中心が子供ではなく、親の側の方法論に焦点があっているようだ。
 傾向として、そういうものが多いような気がする。
 傾向として、子供の特性はその個別性にはなく、可塑性に求められる。
 可塑性(かそせい)とは、変形のしやすさ、というような意味だ。
 西欧でその理論は、たとえば〈ブランク・スレート〉として語られる。
 極論としてそれは、親や教師は神のごとくに、子供をデザインできるという。
 粘土細工の作業結果でも、同じにはならない。素材と技術の両面が問われるだろう。
 ところが人間形成は、それよりも容易に、同じ結果を出せるかのようだ。
―― 家庭の教育の現実は、親とその子という構成で進行するだろう。
 仮に親子の組み合わせのどちらかが、別人になったところで、教育者の側の技術さえしっかりしていれば、将来的な結果は変わらないのだろうか。理論的にはそれは、両方ともが別人の組み合わせでも、構成要素などいっこうに気にしなくても、同じ結果を保証するというのだろうか?

 こういう疑念を抱いていたところに、グッとタイミングもよろしく。
 つぎのような書籍に巡りあいました。
 西欧では、社会ダーウィニズム(社会進化論)と優生思想を悪用したナチズムの悪夢が 21 世紀にいたってなお、学問の世界を含めて社会全体に影響を色濃くとどめていてトラウマのようになっているため、それとは反対の側が思想的に正しいような反動が生じているらしいのです。それで、遺伝子とか個人の特性について語ることが、あまり好まれないらしいのです。


「生まれと育ちについての本なんて、もうたくさんだよ。心が空白の石版[ブランク・スレート]だなんて、そんなことを信じている人なんか、まだ本当にいるのか? そうじゃないのは、子どもが二人以上いたり、異性愛の経験があったりすれば、いやでもわかるんじゃないのか? それとも、人間の子どもは言葉を憶えるけれどペットは憶えないとか、人には生まれつきの才能や気質があるとか、そういうことを知っていれば。みんなもう、遺伝か環境かなんて単純な二項対立はとっくに卒業していて、行動はすべて生まれと育ちの相互作用から生じると認識しているんじゃないのか?」
 この本のプランを説明したとき、私は同業の仲間たちからこうしたたぐいの反応を受けた。ちょっと聞くと、もっともな反応に聞こえると思う。生まれ (nature) か育ち (nurture) かの問題は、本当にもう終わった問題なのかもしれない。

論理学者は、たった一つの矛盾が一連の言説をそこない、そこからどんどん嘘が広がってしまう場合があることを私たちに教えてくれる。人間の本性というものは存在しないとする教義は、人間の本性は存在するという科学的な証拠や一般常識が示す根拠にさからって、まさにそのような悪影響をおよぼしている。
 まず、心はブランク・スレートであるという教義は、人間についての研究をゆがめ、ひいてはそうした研究をよりどころにして下される判断を、公私を問わずゆがめてきた。たとえば育児に関する方針の多くは、親の行動と子どもの行動との相関関係を見る研究を手がかりにしている。愛情豊かな親の子は自信をもっている。威厳のある態度の親(いきすぎた自由放任ではなく、それほど懲罰的でもない親)の子は行儀がいい。話かけをする親の子どもは言語スキルが高いなど。そういう相関があるという研究結果をふまえて、いい子に育てるためには、親は愛情豊かに、威厳のある態度をもち、口数を多くすべきで、うまく育たなかったらそれは親の落ち度だという結論がだされる。しかしその結論は、子どもはブランク・スレートだという思い込みに依拠している。親は子どもに家庭環境だけではなく、遺伝子もあたえる。親と子の相関関係が示しているのは、親を愛情豊かで威厳のある、話好きのおとなにしているのと同じ遺伝子が、その子どもを自信のある、行儀のいい、話上手な子にしているというだけのことかもしれない。養子の子ども(養親から環境だけをあたえられ、遺伝子はあたえられていない子ども)を対象にして同じ研究が実施されるまでは、そのデータは、遺伝子がすべての差異をつくりだしている可能性とも両立するし、育児がすべての差異をつくりだしている可能性とも、その中間に位置するあらゆる可能性とも両立する。それなのに、ほぼすべての事例で研究者は、もっとも極端な立場 ――「育児がすべて」という立場 ―― しか考えにいれていない。
 人間本性に関するタブーは、研究者に目隠しをしてその視野をせばめてきただけでなく、人間本性についてのあらゆる議論を撲滅[ぼくめつ]すべき異端の説に変えてしまった。生得的な人間の資質が存在することを示唆する所見の信憑[しんぴょう]性をそこなおうとやっきになるあまり、論理も礼儀もかなぐり捨ててしまった著述家もたくさんいる。「一部」と「すべて」、「おそらく」と「つねに」、「である」と「べき」との初歩的な区別さえ、さかんに無視されているが、それは人間本性を過激な教義に見せかけて、読者をそこから遠ざけるためである。
〔スティーブン・ピンカー 著 NHK ブックス『人間の本性を考える』[上] 山下篤子 訳 (p.7, pp.11-13)


 ここまで読んだところで、この観点からの説明が、日本の現状に通じるところがあると思ったのです。
―― そういうわけで本日この場に、ながながと引用紹介させていただきました。
 原著は、2002 年の出版で、2004 年には、日本語版が全 3 冊で刊行されました。

2017年8月1日火曜日

猫も杓子も進化する

次の資料の説明に、ぽんと膝を打ち、タイトルに使わせていただきました。
出典の紹介および解き明かしのため文脈ともに引用させていただきますと。

 したがって、進化現象をアルゴリズムのプロセスとして見るダーウィニズムは、生物学と本来かかわりのないものをも研究対象にすることができる。ドーキンスが「ミーム」(文化の伝達や複製の基本単位)の概念を用いて人間文化を研究することを提案したのは、単なるアナロジーや思いつきによってではない (Dawkins 1976=2006) 。それは生物だけでなく非生物も、物体だけでなく言葉やアイデアといった非物体的なものも扱うことができる。適切に運用されるならば、非生物を対象とした進化論も、ダーウィニズムの比喩や応用ではなく、ダーウィニズムそのものでありうるだろう。このようにダーウィニズムは、アルゴリズムの基質中立性を通してデザインの複雑性を説明する、生物学の枠組にとらわれない汎用的な理論となる可能性を秘めている。だから猫も杓子も進化すると言ったところで、それはダーウィニズムにとっては比喩ではない。実際に進化するものとして猫も杓子も扱うことができるのである。
〔吉川浩満『理不尽な進化』2014年 朝日出版社 (pp.249-250)

著者の吉川浩満氏は、1972 年、鳥取県米子市生まれということで、
鳥取県立図書館では「郷土人物」コーナーに配架されていました。
『理不尽な進化』という書名は、地球でこれまでに誕生した生物種の 99.9 % が、
理不尽ともいえる運に左右されて絶滅したという事実に由来するようです。

そういう不運の代表格として、巨大隕石の落下による環境の激変があります。
落ちてきたとき、まさに落下地点で隕石の直撃を受けた、などは最たるものですが、
それだけでなく、たまたまその時代に、栄華を誇っていたという理由で、
最適者は、環境の急変に対応しきれず、たちまち絶滅候補の筆頭に押し上げられてしまう、
といったことも考えられるようです。
そういった、どうにもならない因果が、螺旋のように巡っていくわけです。

――
 そのほかに語られている内容としてたとえば、専門家の「進化論」と一般的な理解がズレていて、一般的に用いられている「進化」はたいてい「進歩・発展」の意味なので、これはラマルクやスペンサーの論じたところなのだということが、解き明かされます。
 ダーウィンの「進化論」は、無目的な偶然の変化を最大の特徴としており、その論ずるところは、結果としてそうなった、という、事実の連鎖です。
 したがって、なんでもかんでも「進化」しなければ生き残れないようなこの時代に、努力目標としてもっぱら吹聴されている進化論は、絶滅したはずの「社会進化論」だったというわけです。

 それでも、ダーウィン的「進化論」にもとづいて「猫も杓子も進化する」ことは、論理的には可能という話です。
 ダーウィンの自然淘汰は、結果的に生き残ったという以外にいいようのない、「適者生存」の成句で表現されます。
 この言葉を正当に理解すれば、〝生き残るために進化する〟という表現が、勝者の論理でしかないことは見当がつきます。
 歴史的に、勝者は、1000 分の 1 の確率でしか存在していないことを考えると、
「努力が報われた」当事者も、その確率でしか想定できません。
 現実の歴史は、環境に対応した結果、たまたま生き残った、ということになるようです。
 それでも、変化できなければ、置いてけぼりになる確率は、増えるのでしょう。
 山で遭難した際にも、やたらと動き回らないほうがいい場合だってあるけれども、行動を起こした結果、助かるかもしれません。
 努力がたまたま報われることもあるのです。
 座して死をまつか、目の前の問題くらいは片づけようと頑張ってみるか。
 杓子も、現在の姿になるまでに、幾多の失われた形状があったことが偲ばれます。