2017年11月30日木曜日

ヴァイロファージが ウイルスを〝殺す〟

 バクテリアだと思って調べてみたら、巨大なウイルスだった、という新発見が 21 世紀のはじめに報じられました。
 武村政春氏の『巨大ウイルスと第4のドメイン』〔2015年 講談社ブルーバックス〕には、そんな巨大ウイルスに取憑くウイルスが発見された話も載っています。

 自分が寄生者で、まんまと宿主に入り込んで甘い汁を吸い、いい気になっていたら、じつは自分自身にもさらに小さな「寄生者」がいつの間にか取りついていて、甘い汁を吸われていた。
 そんなバイオハザード的な状況が、ウイルスの世界に存在したことがわかったのは、ミミウイルスの発見から数年経った、二〇〇八年のことだった。
…………
 細菌(バクテリア)に感染するウイルスのことをバクテリオファージというが、この寄生体は、「ウイルスに感染するウイルス」という意味をこめて「ヴァイロファージ」という名前が付けられ、その「愛称」として「スプートニク」という別名も与えられた。
〔『巨大ウイルスと第4のドメイン』 (p.40, p.41)

―― 「ミミウイルス」(Mimivirus) というのは、1992 年に発見された当初、細菌だと思われて「ブラッドフォード球菌」と名づけられた、巨大ウイルスのさきがけです。ようやくウイルスだとわかって命名されたその名は、2003 年に『サイエンス』誌上で発表されました。
 2008 年には、そんな巨大ウイルスの 1 種「ママウイルス」(Mamavirus) に、小さな寄生体がいることが発見されたのです。
 もっぱら〝生きてない〟と評判のウイルスにウイルスが〈寄生〉するというのはどういう状況なのか。
―― 武村政春氏はウイルスに感染するウイルスという表現をとりつつ困惑を表明しています。

しかし、彼らもやはり「ウイルス」であり、生物とはみなされない宿命を背負っている。もしウイルスが「生物ではなく物質」であるというなら、このヴァイロファージは、「物質に寄生する物質」という位置づけになる。何となく「?」マークがつきそうな状況だ。
〔同上 (p.43)

―― 氏の説明によれば、スプートニクはママウイルスに随伴するようにアカントアメーバに感染した挙げ句の果てにはママウイルスを殺してしまう(p.42) といいます。
 生きていないウイルスを〝殺す〟という比喩は、ウイルスを活動停止に追い込むという以上の意味をもつのでしょう。分解して遺伝情報を消滅させるということなのでしょうか。
 また同じページには、ヴァイロファージが真核生物の進化に大きな影響を与えてきたとされているとも語られています。
 このあたりに、なんとなく、生命現象の根元的な姿を見る思いがします。
―― ウイルスが生きていないとされる理由は多々あるようですが、特に印象に残った説明文があります。

 ミミウイルスは、その名のとおり「ウイルス」だから、生物の分類における「微生物」にはあたらない。先ほど「抗生物質は効かない」と述べたように、ウイルスは生物ではないからである。
〔武村政春『生物はウイルスが進化させた』2017年 講談社ブルーバックス (p.24)

―― 抗物質とは「生物」である細菌やカビなどに有効であると、『生物はウイルスが進化させた』の 23 ページにあり、その後も繰り返し述べられています。そしてもうひとつ。

 細胞性生物が「自立」しているのは、細胞膜の存在があって、それによって外界と内部とが明確に分かれており、いつでも「自己」と「非自己」を分け隔てできているからである。これに対してウイルスは、もしウイルス粒子をその本体であるとするならば、ウイルス粒子は感染した宿主の細胞中では完全に崩壊し、暗黒期を生じることから、ウイルス粒子を「自己」とするのであれば、その期間は完全に「自己」が消失し、非自己の中に散逸していることになる。
〔同上 (pp.209-210)

 上の引用文中の暗黒期というのは、幾何学的な形状のウイルス粒子の姿が消滅してしまう時期とされます。
 その外形はタンパク質の殻でできており、中に遺伝情報となる核酸が入っています。
 ウイルス粒子はまるで、動力装置を失って漂うカプセル型の宇宙船のようなイメージです。
 それでもって、生きた細胞というのは、偶然くっついてきたそれをパクと食べてしまう習性をもつらしいのです。
 ウイルスは消化される前に、まんまと感染するというわけです。


生命と非生命の間
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2017年11月27日月曜日

生命の〈セントラルドグマ〉

 以前(2017年10月16日月曜日)に、進化の〈セントラルドグマ〉というタイトルで書いたときには、
「遺伝子型⇒表現型」という影響は普通だけれども、
「表現型⇒遺伝子型」というその逆向きの影響は考えられない、という趣旨を中心としておりました。
―― だから、
現代の進化の総合説〈ネオダーウィニズム〉の理論が、いわゆるラマルク説〈獲得形質の遺伝〉を否定するのは、いくらキリンが切磋琢磨して首を伸ばそうと、首を伸ばした努力に見合う突然変異を DNA に起こさせるような能力はそなわっていないのだから、「首の長さは努力の賜物(たまもの)」という理屈は金輪際無理なのだ、という信念によるのだと。

 また少し前に、真核生物の〝細胞核〟について、武村政春・著『生物はウイルスが進化させた』〔2017年 講談社ブルーバックス〕に描かれる仮説なども発表されているのですが ……。と、書いておりますが、このたびは武村政春氏の別の著書から引用させていただきますれば ……。


 すなわち、遺伝情報の伝達には、「その情報が DNA から RNA へコピーされ、それがタンパク質に翻訳される」という、決まった一連の流れが存在するのである。遺伝情報はつねにこの流れにのっとり、けっして逸脱することはない。この考え、そしてこの流れこそが分子生物学の教義であり、一般的に「分子生物学のセントラルドグマ(中心定理、中心教義)」と呼びならわされているものである。
 この教義は、もともと DNA 二重らせん構造の発見者の一人、故フランシス・クリック博士が一九五八年に唱えたものであるが、二一世紀を迎えた現在においてもなお、「分子生物学のセントラルドグマ(以降、単にセントラルドグマと呼ぶ)」は、概念として生命現象の中心にあり続けている。セントラルドグマは全生物に共通のしくみであり、それゆえにこそ、地球上のあらゆる生物は、太古の昔に存在していた共通の祖先から進化してきたことがわかるのである。
〔武村政春・著『生命のセントラルドグマ』2007年 講談社ブルーバックス (p.6)

 DNA を鋳型にして RNA を合成するという通常の流れに逆行したかのように、なんと RNA を鋳型にして DNA を合成するという現象が発見されたのである。
…………
 セントラルドグマにのっとらない情報伝達の報告は、一九七〇年の英科学誌『ネイチャー』誌上においてであった。ハワード・テミンと、その指導の下で実験をしていた日本人科学者水谷哲は、まだ一九六〇年代のまさにガチガチの「教義」であったセントラルドグマに真っ向から対立する現象を見つけ出した。それが、今日「逆転写酵素」として知られる、RNA を鋳型として DNA を作り出す酵素の発見であった。
「レトロウイルス」と呼ばれる RNA を遺伝子としてもつウイルスから発見された逆転写酵素は、DNA を作り出す、すなわち DNA を合成する酵素であるから、分類としては DNA ポリメラーゼの仲間である。
 レトロウイルスは、感染した宿主の細胞のなかでこの逆転写酵素を使い、自身の RNA から DNA を合成し、これを宿主の DNA に組み込んでしまうのである。
〔同上 (pp.60-61)

 テロメラーゼの RNA の塩基配列は、テロメア・リピートを構成する六つの塩基配列、TTAGGG とペアを形成できる配列となっている。……
 このことは、テロメラーゼのもつ RNA を鋳型とすれば、そこに新たに TTAGGG 配列をつくることができるということを意味している。
…………
 DNA を新たに合成できるという点で、テロメラーゼも一応 DNA ポリメラーゼの仲間なのだと思われるが、その性質は「 RNA を鋳型にして DNA を合成する」というものであるから、どちらかといえば「逆転写酵素」と呼ばれる仲間に入ると考えられている。
…………
 ほとんどのがん細胞では、テロメア末端の短縮による老化を防ぐためにテロメラーゼが発現し、活発にはたらいていることが知られている。
〔武村政春・著『DNA複製の謎に迫る』2005年 講談社ブルーバックス (p.172, p.174, p.175)


―― 癌化した細胞は、生命の〈セントラルドグマ〉に叛逆するような、進化の特異な形態の象徴でもあるのでしょうか?

 そういう単純な図式だけでとらえてはいけないと、著書の最後で武村政春氏は語っています。
セントラルドグマは、…… もっと複雑なシステムなのだ、と。」〔『生命のセントラルドグマ』 (p.206)

 ドグマ[教義]とは人間が考えたものであって、それは分子生物学の〈セントラルドグマ〉でも同様であって。
 その解釈もまた人間がしているのなら、単純化した教義をあげつらい間違っているという安直さもその通り慎むべきで。
 ニュートンの力学も、そこから始めるべき指標としてのセントラルドグマ[中心命題]も、いずれは拡張を余儀なくされて、科学の進歩が刻まれていく、という ―― 世代交代しつつ複雑化していく進化の歴史があります。
 ならばここはひとつ、科学的なドグマも、いずれは乗り越えられるためにあるのだと考えてみればよろしいかと。

2017年11月23日木曜日

カオスに潜む 進化の物語

 前回の最後のあたりで、
多細胞生物への分岐を果たした単細胞生物にはすでに遺伝子的にはその準備ができていたことが次第に明らかになりつつある。」〔『生命の起源をさぐる』所収/馬場昭次「全球凍結の余波と多細胞生物繁栄のはじまり」 (p.182)
という、一文を紹介したのですが、準備されていた新しい可能性のことについては、これまでに参照した資料にも記述がありました。

多細胞生物が登場したのは、おそらく八億年ほど前である。多細胞生物形成の道筋はよく理解されていない。しかし、それが形成されたのは、管状の原始菌類が自己の内部に壁を作りはじめたときで、それがのちに個々の細胞になっていったと一部の研究者たちは信じている。
 そしておよそ五億五〇〇〇万年前、カンブリア紀における「生物種の大爆発」の際に、すべての可能性が解き放たれた。
〔スチュアート・カウフマン『自己組織化と進化の論理』 (p.34)

 マウスはハードウェアの進歩であり、それを一九六〇年代に発案したダグラス・エンゲルバートは、マウスは新しい種類のソフトウェアを可能にすることができるだろう、と見通していた。こうして発明されたソフトウェアは、その後さらに発達した形態をとり、現在、グラフィック・ユーザー・インターフェイス (GUI) と呼ばれるものとなった。…… この話の大切なところは、次のような点である。どういうことかといえば、ある独創的なソフトウェアが〝爆発的に〟登場するためには、世界に解き放たれることを待ちわびながら閉じこめられていなければならなかった。それが待っていたのは、重大な一つのハードウェア、つまりマウスの到来であった ―― ということだ。その後、GUI ソフトウェアの広がりはハードウェアへの新しい需要を喚起し、ハードウェアは、グラフィックの必要に対処するため、否応なくより速くより大容量のものになっていった。
〔リチャード・ドーキンス『虹の解体』 (p.386)

―― ダニエル・デネットはカウフマンの理論を紹介して、次のように語っています。

サンタフェのモットーが宣言するように、窮屈な秩序と破壊的なカオスの混成地帯を作る、可能的法則の領域内の、カオスの縁[ふち]でのみ、進化は発生するだろう。…… さらに言うと、―― これこそがカウフマンの考え方の中核だと私は思うのだが ―― 進化可能性それ自体が(私たちがここに存在するためには)進化しなければならないだけでなく、進化可能性それ自体が現に進化の〈見込み〉を持つとともに、ほとんど確実に進化しもするのである。
〔ダニエル・C・デネット『ダーウィンの危険な思想』 (p.297)

―― カオスの縁を行く進化については、新しく見た資料でも触れてありました。

 さて、このような爆発的なデザインの多様性を引き起こした源は何であろうか。これを動的な自己組織化の先にあるカオスや系といった言葉で説明しようとすると何か足りないものがある。静と動の中間、つまりカオスの縁で起こる多様性の出現には、ほどよい乱れが必要なのだが、カンブリア爆発は五億四〇〇〇年前に前触れもなく突如として起こった。
 では、カンブリア爆発を生んだ「カオスの縁」はどこに生じたのだろうか。物理の力学系の世界では、外部からコントロールしてカオスを生じるような系の状態を変化させると、秩序状態→複雑性→カオス状態という状態の間を移動する。ここでいう複雑性とは「秩序」と「カオス」の境界に位置する、特徴をつけにくい状態を指す。この領域が「カオスの縁」であり、複雑系における系の柔軟性を維持し、多様な自己組織化という動的な適応状態を作り出すのだ。
講談社ブルーバックス『自己組織化とは何か 第2版』都甲潔(他)著 (pp.115-116)

―― カオスとは渾然一体となった状態ともいえるでしょう。渾沌とした遺伝子の混ぜ合わせのなかで、表現型として発現しない未知の可能性については、化石の見た目からではまずわからないはずです。
 進化の加速が始まる直前、すでに準備されていた遺伝子は、なにかしらの革新をきっかけとして、爆発的な現象となって多様性を顕現したのだと思われます。
 それは多様性が急激に放散されたカンブリア紀以前のエディアカラ紀までに、すでに準備されていたのでなければ、爆発的な進化というような現象にはならなかったと、推測できるわけです。

 多くの物語で、幾度も繰り返し耐え忍んで、忍耐が臨界点寸前にまで達していたヒーローが、わずかなきっかけで胸のすく活躍に転じるというシチュエーションは、それまでの圧力の高まりを示すものです。
 生命の偶然の進化の物語が、偶然にも英雄譚に似ていることがあったところで、不都合はないでしょう。


エディアカラへの道
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2017年11月20日月曜日

エディアカラへの道

変更された〈カンブリア紀〉以前の時代・再び


 前回、宇佐見義之・著『カンブリア爆発の謎』〔2008年 技術評論社〕の記述を参考に、〈先カンブリア時代〉の期間について、1994 年に修正があったようです、と書いたのですが、その 10 年後にまたも、新たな決定が行なわれていたようです。
―― 文献から参照します。

 後生動物の最古の化石が最後の全球凍結終了に続くエディアカラ紀( Ediacaran period 、六億三五〇〇万年前から五億四一〇〇万年前まで)の初期に多数みられている。
〔日本宇宙生物科学会・編『生命の起源をさぐる』2010年 東京大学出版会/馬場昭次「全球凍結の余波と多細胞生物繁栄のはじまり」 (p.178)

―― 前回の参考資料では、
一九九四年に国際委員会は五億四二〇〇万年前からカンブリア紀が始まるという修正案を出し、正式な定義となりました。」〔『カンブリア爆発の謎』 (p.81)
と、なっていましたので、確認のために、他の文献に新しい決定時期などを求めると、次のものが見つかりました。

 スプリッグの発見以後、イギリス、ロシア白海沿岸、カナダのニューファンドランドなど、南極を除くすべての大陸で、エディアカラと同様の化石が発見された。
 こうして世界中で確認された軟体性生物の化石群を、スプリッグの発見した場所にちなんで「エディアカラ生物群」とよぶ。そして 2004 年、エディアカラ生物群に代表される新たな地質時代として、冒頭で述べた「エディアカラ紀」が設定された。エディアカラ紀の年代は、約 6 億 3500 万年前~約 5 億 4100 万年前とされている。
〔土屋健・著『エディアカラ紀・カンブリア紀の生物』2013年 技術評論社 (p.21)

―― ここに引用した『エディアカラ紀・カンブリア紀の生物』は、群馬県立自然史博物館・監修となっています。
 その 38 ページに〝 「楽園」とよばれた時代〟として、『カンブリア爆発の謎』でも紹介されていた「エディアカラの園」についての記述がありました。

 エディアカラ生物群の多くは、眼も歯もトゲももたず、脚もない。基本的に軟体性で、敵から身を守るための殻などの硬組織ももたない。こうしたことから、この時代はまだ本格的な生存競争が始まっていなかった、ともみられている。「争いのない時代」ということに注目し、このエディアカラ紀を旧約聖書に登場する「エデンの楽園」になぞらえて、「エディアカラの楽園」とよぶこともある。

「エディアカラの園」以前の捕食関係のこと


 冒頭の引用文献『生命の起源をさぐる』は、さまざまな執筆者の論稿で構成されていますが、井上勲「原核生物から真核生物への進化」の一節「真核生物がもたらした新たな生態系」では、
真核細胞の起源と系統の解明は重要だが、同時に重要なことは、真核生物の出現が地球上に新たな生態系を生み出し、地球環境を変えたことを正しく認識することである。
として、次のように論じられています。

 真核生物は本来、従属栄養生物で、基本となる栄養様式は「捕食」だったと考えられる。真核生物の原始的な性質を残すとされるエクスカベート類は、真核生物が新たに獲得した細胞骨格を駆使してきわめて複雑な捕食装置を構築しているが、捕食するのは細菌である。小さな細菌をせっせと食べる。一方で、多くの原生生物は細菌だけでなく、大きな真核生物を捕らえて食べる。種類によっては自分の体より大きな細胞も捕食する。つまり、真核生物では、「細菌食」から「真核生物食」への進化が起こったと想定されるのである。真核細胞は原核細胞の一〇〇〇~数十万倍の体積があるので、真核細胞を一個食べることは、一〇〇〇~数十万個の細菌を食べることに等しい。きわめて効率のよいエネルギーの獲得を可能にしたのである。真核生物の進化において、食作用の効率化はきわめて適応的な進化で、多様な原生生物をうみ出す推進力になっていったと考えられる。原核生物のほとんどは捕食を行わず、有機物を吸収して利用するから、捕食は真核生物の出現と多様化においてエネルギー獲得の重要な方法として確立したといえる。
〔『生命の起源をさぐる』 (pp.145-146)

―― 細菌(バクテリア)は、原核生物に属する単細胞の微生物で、つまり生命体に所属しているれっきとした生き物です。
 楽園伝説の一環として「エディアカラの園」には捕食関係がなかったというようなのほほんとした見解も見受けられるようですが、上記の、真核生物において捕食装置が強化されたという考察は、その見解を撃破してあまりあります。
 〝捕食関係がなかった〟というのはおそらくは、エディアカラの園に血が流れるたぐいの捕食関係はなかったという意味なのでしょうけれど。
 植物にしたって、捕食されることで活動範囲を広げる戦略をとっているのですが、それと血が流れることは直接の関係はないでしょうし。
―― 一方で、弱肉強食の時代はすでに萌芽(ほうが)していたともいわれます。
 実際、「原核生物から真核生物への進化」で論じられたように、進化の初期にあった爆発的な革新は、〈真核細胞への進化〉ではなかったでしょうか。

 実際は、原核と真核の細胞の間には、多くの差異があり、生物進化史上最大のギャップが横たわっている。後述のように、真核細胞の化石は最古でもアメリカで発見された二一億年前のグリパニア化石と考えられている。三八億年前に誕生した最初の生命は、原核細胞からなる原核生物としてうまれたはずだから、真核生物は、生命誕生から二〇億年近い時間を経てうまれたことになる。真核細胞からなる真核生物の出現は、その後の生物進化と生態系を大きく変えた重要な事件である。
〔同上/井上勲「原核生物から真核生物への進化」 (p.124)

 そして、その後〈エディアカラ〉へと通じる道には間違いなく、〈多細胞化への道〉が細胞間ネットワークの課題として、未知なる時代を示唆していたはずです。
多細胞生物への分岐を果たした単細胞生物にはすでに遺伝子的にはその準備ができていたことが次第に明らかになりつつある。」〔同上/馬場昭次「全球凍結の余波と多細胞生物繁栄のはじまり」 (p.182)

 原核生物同士の捕食関係が、ミトコンドリアなどの細胞小器官を付属させた真核生物の誕生につながっていったというストーリーは、誰も見ていない時間にあった物語として、アリでしょう。
 20 億年近い時間を費やした途方もない繰り返しの果てに可能になっていったというのは、同様に、真核生物の〝細胞核〟についてもいえます。
 武村政春・著『生物はウイルスが進化させた』〔2017年 講談社ブルーバックス〕に描かれる仮説なども発表されているのですが ……。けれども、それまでムキ出しだった、ゲノム DNA が、二重膜に包まれて隔離されるまでの経緯は、まだ混沌とした論議のなかにあるようです。


自己組織化 と ネットワーク・システム
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2017年11月16日木曜日

変更された〈カンブリア紀〉以前の時代

 少し前に、先カンブリア時代というのは、5 億年以上も昔のカンブリア紀にいたるまでの、約 40 億年間をいう、と書いたのですが、この〈先カンブリア時代〉の期間について、1994 年に修正があったようです。
―― 文献から参照します。

 六億三〇〇〇万年前のマリノアン氷河期(スノーボールアースの時代)が終わった後も、カンブリア紀が始まるまでの一億年弱の間、かなり寒冷な時代が続いていました。この期間については、近年国際委員会によって正式にエディアカラ紀と呼ぶことが決定されました。また、カンブリア紀の始まりは、カナダ・ニューファンドランドに見られる五億四二〇〇万年前の地層を基準とすることも近年決まりました。
…………
周りの文献を見渡してみると、五億七〇〇〇万年前からカンブリア期が始まると書かれている場合も多いと思います。しかしそれは以前の定義で、一九九四年に国際委員会は五億四二〇〇万年前からカンブリア紀が始まるという修正案を出し、正式な定義となりました。ですので現在のところ、カンブリア紀の始まりは五億四二〇〇万年前ということになります。
宇佐見義之『カンブリア爆発の謎』2008年 技術評論社 (p.51, p.81)

 カンブリア紀以前の化石資料については、スティーヴン・ジェイ・グールド『ワンダフル・ライフ』(“WONDERFUL LIFE” 1989) の日本語版 79 ページに、次の記述がある、と前回に書いたのですけれども、これにも、期間の修正が必要になっています。
エディアカラ動物群から、現生的な体の設計プランが固まったバージェス動物群まで、一億年の隔たりがある。

―― 『カンブリア爆発の謎』の記述をもとに、整理してみます。

6 億 3000 万年前にマリノアン氷河期が終わった後、カンブリア紀が始まるまでの 1 億年弱の間を、エディアカラ紀と呼ぶ
5 億 4200 万年前、カンブリア紀が始まる

5 億 8000 万年前に起こったガスキアス氷河期より後の時代のものをエディアカラ生物群という。(p.52)
5 億 6000 万年前のものが、エディアカラ生物群としては最も古いと推定される。(p.65)

カンブリア紀、澄江動物群が生きた時代はバージェス動物群よりも 2000 万年ほど古いとされている。(p.98)
―― 同書の 93 ページにある図では、
「澄江動物群」は、5 億 2100 万年前と 5 億 1700 万年前の間に位置づけられている。
「バージェス頁岩動物群」の位置は、5 億 1000 万年前と 5 億 600 万年前の間である。

―― ちなみに、サイモン・コンウェイ・モリス『カンブリア紀の怪物たち』〔1997年 講談社現代新書〕の「用語集」では、次の通り。(pp.279-282)

バージェス頁岩 (Burgess Shale) 約 5 億 3000 万年前の中期カンブリア紀の地層である。
澄江 (Chengiang) 南中国雲南省に露出する約 5 億 3000 万年前の前期カンブリア紀の堆積層。
エディアカラ動物群 (Ediacaran fauna) 原生代最後期、約 5 億 6000 万年前の化石群。

―― もうひとつちなみに、池田清彦『38億年 生物進化の旅』〔2010年 新潮社(初出:「波」 2008年 12月号 ~ 2009年 12月号)〕では、次のように記述されています。(p.56, pp.58-59)

 カンブリア大爆発の痕跡として有名なのが、バージェス頁岩[けつがん]から発見された生物の化石群である。バージェス頁岩は、古生代カンブリア紀の中期にあたる、いまから約五億一五〇〇万年前に堆積した地層である。
…………
 なお、中国の雲南省澄江[チェンジャン]でも、バージェス頁岩と同じ時期のカンブリア紀中期の地層から、化石群が見つかっている(同じ時期といっても、バージェス頁岩よりも澄江のほうが一〇〇〇万年ほど古いのだが)。それらは「澄江生物群」と呼ばれる。

―― そういうわけで、技術の進歩に伴い、発見と知見も日進月歩で、新しくなっていくのでしょう。
 核心の部分、〈カンブリアの大爆発〉は稀に見る勢いで起きた、という見解に変化がないのは幸いです。
 ただ、その爆発的な進化による繁栄の時代は、数百万年のケタではなかったようです。
 そしてその物語は、隣接する時代のエディアカラ紀の動物群が姿を消したほんの数千万年後のできごとだったのだと……。


カンブリア大爆発
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2017年11月13日月曜日

〈カンブリア大爆発〉の誤解された物語

 バージェス頁岩(けつがん)に刻まれたカンブリア紀の化石が、奇妙なものであったことから、物語ははじまる。
 スティーヴン・ジェイ・グールド『ワンダフル・ライフ(“WONDERFUL LIFE” 1989) によって、その物語は大きく世に広まったと、いろんな書で語られている。けれども、グールドの功績の大きさと、誤解された解釈の弊害が、併記されるのは、どういうわけなのだろう。
 そのことから、物語は別の展開を見せることになるのだけど、例示された突拍子もない誤解力についてまずリチャード・ドーキンス『虹の解体(“UNWEAVING THE RAINBOW” 1998) から、引用する。

『ワンダフル・ライフ』を読んで、この本が、〝カンブリア紀の門は共通祖先をもたず、なんとそれぞれ独自に生命の起源として現れてきたのだ!〟と主張していると受け取ったある哲学者との会話について、ダニエル・デネットが聞かせてくれた。デネットが、グールドにはそんなつもりはないんだ、と話すとその哲学者はこう言った。「じゃあ、一体全体この大騒ぎは何なんだね?」
〔日本語版『虹の解体』福岡伸一訳 2001年 早川書房刊 (p.275)

―― 上の引用文は、ドーキンスが書きとめた、伝聞の記録だ。
 ダニエル・デネット本人の伝ではどうだろうか。デネットは『ダーウィンの危険な思想(“Darwin's Dangerous Idea” 1995) で、次のように語っている。

たしかにバージェス頁岩動物相の繁栄と終焉は、前後の他の動物相の繁栄と終焉より漸進的ではなかったかもしれないが、だからといってそれが、生命の系統樹の形について何かラディカルなことを示していることになるわけではない。
 これではグールドのポイントをはずしていると言う人もいるかもしれない。つまり、「バージェス頁岩動物相の華々しい多様性の特別さは、それらが単に新しい〈種〉だったというだけではなくて、〈そっくり新しい門〉でもあったということなのだ。これらは、〈ラディカル〉に新しいデザインだったのだ!」というわけだ。私は、これは、グールドのポイントではないと信じている。というのは、もしそのとおりなら、回顧的な戴冠という人騒がせな間違いになってしまうからだ。すでに見たように、〈あらゆる〉新しい門(ほんとうに新しい王国!)は、ただの新しい亜変種としてスタートした後に、新しい種になるのでなければならない。
〔日本語版『ダーウィンの危険な思想』山口泰司監訳 2001年 青土社刊 (p.400)

―― この引用文中の「」(鉤括弧)内の一節は、グールドの記述を揶揄(やゆ)的に改竄(かいざん)したものと思われる。
 グールドの記述そのものではないというのは、参考文献が示されていないことでも推定できるが、それともうひとつ、すぐあとの 402 ページには日本語版『ワンダフル・ライフ』からの参照が〝渡辺政隆訳〟として、誤解のないような方法で引用されているのだ。―― 日本語版『ダーウィンの危険な思想』の担当者たちも、誤解が重箱状態にならないよう気を使うところだろう。
 鉤括弧内に書かれたモトネタとしての、グールド『ワンダフル・ライフ』の本来の記述は、おそらく次のものであったろう。

バージェスから見つかる一五から二〇種類あまりのユニークなデザインは、解剖学上の独自性からいえば独立した門に相当する。
〔日本語版『ワンダフル・ライフ』渡辺政隆訳 1993年 早川書房刊 (p.144)

―― さてさてそれでは、〝カンブリア紀の門は共通祖先をもたず、なんとそれぞれ独自に生命の起源として現れてきたのだ!〟という途方もない発言については、そこまでにいたるどういう経緯(いきさつ)があったのだろうか。
 化石の資料は、前回にも書いたけれど、約 6 億年前の「エディアカラ化石生物群」にようやく、動物と認められる多細胞生物の出現が見られるらしい。
 カンブリア紀を代表する「バージェス頁岩」の年代はおよそ 5 億 3000 万年前と推定されているようだ。
 グールドは『ワンダフル・ライフ』で、カンブリア紀の現象とエディアカラの時代の間を、1 億年程度と見込んでいる。そのことは、日本語版の 79 ページに記述がある、
エディアカラ動物群から、現生的な体の設計プランが固まったバージェス動物群まで、一億年の隔たりがある。
 それらの生物群の関連について、グールド自身の記述を日本語訳で見ると、次のようになっている。

 ドイツのチュービンゲン大学教授でわが友人でもある古生物学者ドルフ・ザイラッヒャーは、私見では現役古生物学者としてはいちばん目の利く研究者なのだが、その彼が一九八〇年代前半にエディアカラ動物群に関して従来とはがらりと異なる解釈を提唱した (Seilacher, 1984) 。彼は消極的な論拠と積極的な論拠に基づいて自らの見解を二重に擁護している。消極的な主張とは機能面に関する議論で、エディアカラ動物は類縁関係があるとされている現生動物のように機能できたはずがなく、したがって表面的な形状にはいくらかの類似性が認められるものの、現生グループの同類ではないだろうと論じている。…………
〔文献 : Seilacher, A. 1984. Late Precambrian Metazoa : Preservational or real extinctions? In H. D. Holland and A. F. Trendall (eds.), Patterns of change in earth evolution, pp. 159‑68. Berlin : Springer-Verlag.
 ザイラッヒャーがあげる積極的な論拠とは、エディアカラ動物のほとんどは単一の設計プランに基づく変異として分類学的に統合できそうだという主張である。…… このデザインは、現生するグループのどんな設計プランとも一致しない。そこでザイラッヒャーは、エディアカラ動物は多細胞動物におけるまったく別個の実験であると結論した。しかもそれは、カンブリア紀まで生き残ったエディアカラ動物はいないことから見て、これまでは知られていなかった先カンブリア時代終わりの絶滅において最終的に失敗してしまった実験である。
…………
ザイラッヒャーは、先カンブリア時代末のすべての動物が、多細胞動物において別個になされたこのもう一つの実験が設定した枠内に分類されるとは考えていない。彼はエディアカラ動物群が出土する地層にさまざまなかたちで残されたたくさんの生痕化石(足跡、這い跡、穿孔)も調べており、エディアカラ動物群が生きていた時代の地球上には現生的なデザインをもつ後生動物 ―― おそらくある種の環形動物 ―― も生息していたことを確信している。つまり、バージェスの場合同様、まさに最初から、いくつかの異なるデザインの可能性が存在していたのである。生命は、エディアカラの道をとることもできたし、現生グループの道をとることもできた。しかしエディアカラの道は完全に途絶え、われわれはその理由を知らない。
〔日本語版『ワンダフル・ライフ』 (pp.479-480, p.481)

―― よくよく読めば、グールドが記述したザイラッヒャーの主張では、エディアカラからカンブリア紀につながる道は研究の一部としてちゃんと示されている。
 ただここで紛らわしいことに、「エディアカラ動物群」のなかでも、カンブリア紀にまで生き残らなかったタイプの生き物をカンブリア紀まで生き残ったエディアカラ動物はいないと、グールドは、書いているのである。
 まったくもって非常に紛らわしいのだけれども、「エディアカラ動物」というのは、「エディアカラ動物群」のなかで、子孫を残せないままに絶滅していった生き物たちを特定している、と読むことができる。
 つまり、「エディアカラ動物群」のなかでも、限定されたエディアカラ特有の生き物たちを「エディアカラ動物」と称しているらしい。
 そして、エディアカラの道は完全に途絶えたのだけれど、カンブリア紀にまで生き残った、その時代の生き物の子孫たちも同時に想定内である、ということなのだ。
 ここでも、完全に途絶えた「エディアカラの道」というのは、その後に見られなくなったエディアカラ特有のパターンの意味に解釈すべきであろう。

 デネットは、だから、グールドは誤解されたようなことをいっているつもりはない、と、擁護したのだと思われるのだが……。
 自著の考察のなかで、デネットはこう述べている。
私が思うにそれはグールドを自分の願望で誤読しただけのものだ。
〔日本語版『ダーウィンの危険な思想』 (p.354)

 グールドは専門家なのだから、彼が専門とすることについては〝まっとうな〟ことをいっているに違いない、とそれぞれの読者によってそれなりに想定されて読まれるのだろう。
 しかしながら、読み手側の〝まっとうな〟見解というのは、十人十色(じゅうにんといろ)であることも間違いなく推定可能であるということなのだ。

2017年11月9日木曜日

生命と文化の感染拡大 ないしは 大爆発

 ダニエル・デネットは『ダーウィンの危険な思想(“Darwin's Dangerous Idea” 1995) で、次のように語った。
文化的進化は、遺伝的進化よりも何桁も大きな速さで働き、それが私たちの種を特別なものとしているのであると。
〔日本語版『ダーウィンの危険な思想』山口泰司監訳 2001年 青土社刊 (p.448)

 文化的進化の速さがどのようなものか、バクテリアが薬剤耐性を獲得するスピードのたとえは、わかりやすいだろう。
 文化は伝染するとも、しばしばいわれる。ルイジ・ルカ・キャヴァリ=スフォルツアの『文化インフォマティックス(“GENI, POPOLI E LINGUE” 1996) では、感染拡大のイメージが用いられた。

 われわれは周囲から文化を得て、それを他人に渡す。だが、文化伝播の形態には区別が必要で、それは重要である。疫学から術語を借りてきて二通りの伝播の道筋を記述する。垂直伝播によって、親から子への情報の伝達を表す。水平伝播には、肉親関係のない個人間の道筋をふくめる。垂直伝播では進化は遅い。それは遺伝子の遺伝に似ている。時間単位が世代の推移だからである。それに反し水平伝播は急速に起こり、感染した個人と罹患しやすい者との直接的な接触で伝染病がひろがるのに似ている。
〔日本語版『文化インフォマティックス』赤木昭夫訳 2001年 産業図書刊 (pp.222-223)

 水平伝播する文化の進化スピードに、多細胞生物の世代交代が、たちうちできるはずはない。
 遺伝子進化を待たず、人間の脳はフィードバック・ループを繰り返して環境の変動に対応していくことが、ジェフリー・ミラー『恋人選びの心(“THE MATING MIND” 2000) に書かれている。

進化心理学の仕事は、環境からの手がかりを自分の適応度を上昇させる行動に変換するこれらの心的適応が、進化によってどのように構築されてきたのかを分析することである。脳が大きくなるほど、行動を導くために脳が利用することのできる環境の手がかりは複雑になり、それにつれて行動も複雑になる。一世代という長い時間のサイクルを必要とする遺伝的な進化の中に、脳は、ずっと速いフィードバックのループを何百万回と挿入することができる。秒の単位で、脳は、生存と繁殖を上昇させる新しい機会を追跡しているのである。脳が存在する理由は、まさに、環境が変わるたびに遺伝子が変わらなくてもよいようにするためなのだ。
〔日本語版『恋人選びの心 Ⅱ』長谷川眞理子訳 2002年 岩波書店刊 (p.553)

―― 現在(いま)の環境には、現在の生き物が最適者だというのは正しいだろう。生き残っているからだ。
 適応できなかったものたちは、もういない。
 過去、進化の大爆発がカンブリア紀にあった。そして大量の絶滅が起きた。
 それ以前の、先カンブリア時代というのは、5 億年以上も昔のカンブリア紀にいたるまでの、約 40 億年間をいう。40 億年に比べれば、一瞬の閃きにも似た、爆発的現象なのだろう。
 約 6 億年前の「エディアカラ化石生物群」にようやく、動物と認められる多細胞生物の出現が見られるらしい。

 けれどカンブリア紀に、何が起きたにしても、10 万年とか、20 万年の話ではない。
 類人猿と分岐したあと、数百万年もかけて人類は、現在に至るという。いずれにしても、人間の物語は、数千万年のケタではない。
 真に爆発的な現象は、20 世紀というたったの 100 年間に起きたかもしれない。
 5 億年先の未来には、この 1 万年に何が起きたのかも、詳しい記録が残らなければ〝文化の大爆発〟が起きたとしか、いいようがないのではなかろうか。
 いつのころか文化は、突然に進化をはじめた。突如、コンピュータが登場して、人間が機械化されたということに、話は落ち着くのだろうか。
 ならば、カンブリア紀に、突如として、親とは似ても似つかない生き物たちが生まれたとしても、不思議ではない。
 その場合の突如は、おそらくは遙かな時間を経由した、突如だろう。
 数千万年ののちには、先祖とは似ても似つかぬ生き物たちがうようよしていたとして、文句をつける筋合いはなかろう。
 それはけっして、たかだか数千年というレベルの話じゃないのだから。
 突如、の時間レベルが、遺伝子と文化の進化スピードのように混同されてはならないのだし。
 それとも ―― 突如、というのは、それ以前とは異なり、21 世紀に生まれた人類は、誕生の瞬間からインターネットと共存している、というレベルの物語なのか。
 そういう物語なら、いつだって、突如としてはじまる。


選択 と 選好(選り好みの進化):変化をともなう由来
http://theendoftakechan.web.fc2.com/ess/Miller.html

2017年11月6日月曜日

調子こいて 浮かれた脳が 進化したとして

 〈配偶者選択〉の淘汰圧が、浮かれたホモ・サピエンスの男を作ったとして、
 男どもは生きるのに直接役に立たないような、夢物語を語りたがるにしても、
 女たちを喜ばそうと血道をあげた果てに、名もなき勇者の多くは野垂れ死に、
 同じ遺伝子が、あるときは女の役割りを演じ、またあるときには男の境遇で、
 夢物語のなにがしかは文化と呼ばれて、生きることの憂さを晴らしてくれる。

人間の脳が目立って大きくなったのは、
孔雀の雄の尾羽がやたらと目立つように進化したのと似たような理由だと、
ジェフリー・ミラー『恋人選びの心(“THE MATING MIND” 2000) には書かれています。
日本語版(長谷川眞理子訳 2002年 岩波書店刊)は二巻本として出版されています。

 全容は、現物を手に取って確認していただくしかないのですが。
 脳の〈ランナウェイ・モデル〉では、男女双方向からの〝選り好み〟を理論づけることができないので、―― 次の引用文のごとくに ――、
第 4 章において別の考え方が提示されます。


突然変異が長期にわたって蓄積していくのを避けるために、有性生殖はわずかなチャンスに賭ける。今、平均的な数の突然変異を持った両親がいるとしよう。二人とも、子どもに自分の持つ遺伝子の半分を伝える。ほとんどの子どもは、両親が持っているのとほぼ同じ数の突然変異を受け継ぐだろう。しかし、あるものは幸運にも父親と母親の双方から、平均以下の数の突然変異を受け継ぐかもしれない。そういう子は、平均よりもよい遺伝子を受け継ぎ、よりよく生存して繁殖するチャンスを持つだろう。突然変異量が相対的に少ない彼らの遺伝子は、将来の世代に広がっていくだろう。別の子どもは、もっとずっと不運かもしれない。彼らは、父親と母親から、平均以上に多くの突然変異を受け継ぎ、まったく胚発生することができなかったり、幼くして死んでしまったりするかもしれない。彼らが死ぬと同時に、そのからだにあったたくさんの突然変異も、進化の闇の奥に消えていく。
…………
からだと心における個体の遺伝的変異の多くは、おもてに現れてくるものだ。ある形質は、別の形質よりも多くの情報量を持つ。クジャクの尾羽のように、個体差の非常に大きい複雑な形質は、とくに情報量が多いだろう。形質が複雑だということは、その発達に、多くの遺伝子がお互いに影響しあいながら関わっているということだ。それは、より複雑であるゆえに、より多くの遺伝情報を総括している。そして、目に見えるレベルでからだと行動において個体差があるということは、配偶者選択のときに、その遺伝的な差異を感知することができるということだろう。性淘汰が働くときには、このような形質には特別の注意が払われるようになるだろう。
 このような形質は、「適応度指標」と呼ばれている。適応度指標は、その動物の適応度をことさらに宣伝するために進化してきた生物学的形質である。
…………
 性淘汰では、動物の感覚能力が、なんらかの形で彼らが選んでいる配偶者候補の突然変異のレベルに結びつかないとならない。適応度指標は、適応度を実際に見せる形質であるから、結びつきはここで起こる。それらが表すものが配偶者選択の対象となり、配偶者選択で有利になるものが、性淘汰によって進化する。適応度指標は、性淘汰に、有害突然変異をすくいとらせるためのふるいなのである。
…………
いったん、脳が潜在的な適応度指標として配偶者選択の対象となると、脳はもうそれに抵抗することはできない。求愛行動によってなんらかの適応度を表さなかった人は、誰も恋人としては選ばれなかったのだ。彼らの祖先の、小さくて、有能で、無駄なことは一切せず、石橋をたたいて渡るタイプの、突然変異を頑強に拒む脳は、彼らとともに絶滅してしまった。そのあとに、大きくて、コスト高で、危うくて、派手な、私たちの脳が進化したのである。
〔日本語版『恋人選びの心』Ⅰ (p.143, pp.144-145, p.146, p.147)


―― 「適応度指標」と呼ばれる考え方から導かれるものが、ザハヴィの〈ハンディキャップ原理〉に近いものになることは、著者自身によって示されます。


予算を無視した高価な信号よりも予算を考慮に入れた高価な信号のほうが、ずっと容易に進化する。この予算の制約に対する敏感さは、生物学者たちが「条件依存性」と呼んでいるものだ。これは、適応度指標は適応度に依存しているという直感を反映して、「適応度依存性」と呼んでもよい。
…………
 ザハヴィのハンディキャップの原理と条件依存性の考えは、同じものを違う面から見ただけである。
〔同上 (p.178, p.180)


―― 〈配偶者選択〉の淘汰圧が、こうして浮かれたホモ・サピエンスの男を作ったとして。
それが脳のとてつもない巨大化をもたらしたとして。調子こいていろんな文化ができたとしても。

 それぞれの生き物を特徴づける形質(表現型)の見事さに驚嘆しつつ、それが特異なものであれば配偶者選択によるものであるとするのは、そう無理な設定でもないでしょう。
 このさいおおまかにいって、〈適者生存〉は、〈適者繁殖〉のための必要条件と、いえるでしょう。
 進化に目的があるとするなら、それは〝生存〟ではなく〝繁殖〟だとするのは、理にかなっています。
 進化は、世代交代をしなければ、成立しませんから。繁殖は、進化の絶対条件になります。
 そのためには特に大型の哺乳類などは、繁殖期まで成長するためにも、数年は生き延びる必要がでてきます。
 すると〝生存する適者〟であることは、その存在の目的ではなく、手段であることは明白となってくるでしょう。
 繁殖が終われば、すぐに死んでしまう生き物も、その命の目的は達成できているわけです。
 たまたま生きているのは、おまけでしょう。
 生きてるだけでも儲けものというのは、実際、丸儲けと考えて差し支えないかと、思えてくる次第です。
 そうすると、誰でもみずから利益還元祭というのは、余生の必需品として。どうせなら。

2017年11月3日金曜日

脳は巨大化を続け 石器文化は停滞を続けた

 握斧 ―― ハンドアックスとは、発明から百万年間というもの、ほぼ同じ形状を保ち続けた石器だ。(2017年8月28日月曜日付 の記載から)

これは邦訳された、マット・リドレー『繁栄(“THE RATIONAL OPTIMIST” 2010) の記述に基づいて、そう書いたのだった。
 マット・リドレー『やわらかな遺伝子(“NATURE VIA NURTURE” 2003) を読めば、石器文化の記念碑のごとき握斧(あくふ)が、ヒトの脳の巨大化にともなって、どのように進化したのかが綴られている。
―― 多くに支持された一説によれば、ヒトの能力と、文化と、脳の大きさには、それなりに相関関係が想定されるようだ、と。

 ヒトが記号によるコミュニケーションを手に入れたとたん、逆転不能の文化の歯車が回りだす。文化が増えるとより大きな脳が必要になる。そして脳が大きくなると、より多くの文化が獲得できるようになるというわけだ。
〔『やわらかな遺伝子』中村桂子・斉藤隆央 訳 2004年 紀伊國屋書店 (p.291)

―― 続けて、大いなる足踏みと題し、次のように記されているのだ。

一六〇万年前、ナリオコトメの少年が生きていた時代の直後、地球上に素晴らしい道具が現れた。アシュール型握斧(あくふ)である。これは、ナリオコトメの少年と同じ、それまでになく巨大な脳をもつホモ・エルガステルのメンバーが考案したにちがいなく、これ以前のもっと原始的で不規則な形をしたオルドヴァイ型の道具から大きく発展している。…… それは、ホモ・エレクトゥスの移動にともない北はヨーロッパまで普及し、石器時代のコカコーラとなった。しかもなんと一〇〇万年にわたって技術文化を支配しつづけた。わずか五〇万年前にもなお使用されていたのである。…… 逆転不能の文化の歯車は回らず、センセーショナルな革新は起きず、実験もなされず、競合製品は生まれず、ペプシは登場しなかったのだ。ただひたすら、握斧独占の時代が一〇〇万年続いた。「アシュール型握斧株式会社」は、まさに大当たりで、ぼろ儲けだったにちがいない。
 文化の共進化の理論はこんなことを予言していない。むしろその理論によれば、いったんテクノロジーと言語が組み合わさると、変化が加速するはずなのだ。この握斧を作った人類は、それを作り、作り方を仲間から学べるだけの大きな脳と器用な手をもっていたのに、その脳や手を製品の改良に利用しなかった。彼らが、一〇〇万年以上経ってから突然、槍投げ器から犂(すき)、蒸気機関、ついにはシリコンチップへと、怒濤のように急激な進歩をなし遂げたのは、なぜなのだろう?

―― 人類の脳は、ホモ・エレクトゥスの時代には、大きくならなかったとかいう話ではない。
脳はあいかわらず、膨張を続けていたらしい。
石器はしかし、まったくといっていいほど、かわり映えがしなかった。

 つまるところマット・リドレーの疑念は、当然すぎるという話でしかない。
 たとえば、〝遺伝子と文化が共進化する〟にしても、いつからいつまでの時代の話として、想定されているのか?
 それは共進化という表現ではなくただ普通に相互作用というのでは、いけなかったのか。

 〝共進化〟には日本語で〝いたちごっこ〟の意味合いがあるだろう。つまりは、行為の結果、たがいに差はつかない。
 日本ではもしかしてそれは〝痛み分け〟のように、認め合う内容かもしれないけど。
 大きな差がつけば、日本人は、きっと文句をいう。この場合、文句というのはただの文言(もんごん)ではなく苦情(クレーム)のことだ。
 最終的に多少の利益を得たとしても。つまりは相対的な、相手との差が気になるのだ。
 英語では、ケタ違いの差がついたとしても、〝ウィン ‐ ウィン〟の関係とかいって、両方の勝利を相互に認め合うというのか。

 さて『やわらかな遺伝子』の「第 9 章」では、前回にも触れた、ジェフリー・ミラーの理論が、好意的に紹介されている。
 一方でリチャード・ドーキンスも、同様にミラーの説を参照して、次のように論じた。

ジェフリー・ミラーは、『恋人選びの心』において、ヒト遺伝子のかなり高い割合、ひょっとしたら最大五〇%までが、脳内で発現していると述べている。ここでもまた、話を明解にするために、雄を選ぶ雌の立場からのみ語るのが便利である ―― しかし、逆にしてもよいし、両方向から同時に見ることも可能である。ある雄の遺伝子の性能に関する透徹した解読を追究する雌は、その雄の脳に関心を集中するのがよいだろう。雌は文字通りの意味で脳を見ることができないので、そのはたらき方を調べる。そして、雄がその性能を広告することによって調べやすくするはずだという理論に従えば、雄は自らの知的能力を謙虚に頭のなかに隠しておいたりはせず、おおっぴらにするだろう。彼らは踊り、歌い、おだて、冗談を言い、音楽や詩をつくり、それを演奏ないし朗読し、洞窟の壁面やシスティナ礼拝堂の天井に絵を描く。…………
 この見方に立てば、人間の心は、精神的なクジャクの尾なのである。そして、脳は、クジャクの尾の拡大に駆り立てたのと同じ種類の性淘汰のもとで膨張したのである。ミラー自身は、フィッシャー版の性淘汰説よりもウォレス流の説明のほうが好きなようだが、結果は基本的に同じである。脳は大きくなり、しかもそれは迅速かつ爆発的に進行するのだ。
〔日本語版『祖先の物語』(上) (pp.395-396)

―― 脳が大きくなったのは、異性にウケたからだという。
 ただただ、浮かれておっきくなってた脳が、突如、実用性に目覚めたというのは、どうなのだろう。それにしても、覚醒のきっかけはどんな物語にも、説得力として必要になってくるに違いない。
 どんなストーリーが、用意されるのか。
 たとえば脳の大きさに男女の差がほとんどないのは、女性は男性の能力を見極める能力を必要としたからだという。
 結局のところ、男の内心など、女には見え見えでしかないということなのか。


相互作用する脳 の ランナウェイ
http://theendoftakechan.web.fc2.com/ess/runaway.html