2016年10月30日日曜日

数値化された時が数直線上を動く

 もともと、というか常識的にというか、〝時〟が動くものであるのは、そもそも基準となった〝太陽〟が動くことで、〝時〟を定めたからだろう。
 つまりおそらくは原初、〝時〟というのは〝太陽〟の動きであり、それはもとより「動く」ものであった。
 けれども実際に動いているのは、〝太陽〟であって、それは、空間的な変化の相に相違ない。
 ちゃう。現在では、実際に動いているのは〝地球〟で、それは「自転」という回転なのだ。

 時を経て技術力により〝時〟は、文字盤上を無限回帰する時計の〝針〟の回転運動で定められるようになった。
 デジタル時計になって、原初に空間の変化の相であった〝時〟は、完全に数値化された。
 それでもあいかわらず、〝時〟は動き続ける。いまでは数字となって。
 そうやって、〝時〟はいつだって「動く」ものなのだと知られる。

 この、大前提は、本当なのだろうか?
――〈現在(いま)〉も同じように、仮想の数直線上を動き続けている。

2016年10月27日木曜日

1927年 ハイゼンベルク 「不確定性原理」

1900 年 量子論元年
1905 年 光量子仮説
1924 年 物質波
1925 年 行列力学(マトリックス力学)
1926 年 波動力学(波動方程式)
1927 年 不確定性原理

 量子論によれば、微視的世界では、〝光〟と同様に〝物質〟の観測結果は、〈粒子(つぶ)〉と〈波動(なみ)〉の両面から把捉する必要がでてくる。
 このことを、ボーアの〈相補性〉の概念というらしいが……。
 一般的には、ハイゼンベルクの「不確定性原理」もまた、〈相補性〉の概念の一翼を担う。
 てわけで、ここはまたも、ハイゼンベルクの著作から、引用させていただきまひょう。

たとえば、原子から出る輻射を扱うときにも「物質波」を使うと便利である。その振動数と強さとを使えば、輻射は原子内で振動する荷電分布についての情報を与えるし、その場合には波の像は粒子の像よりもずっと真相に近い。したがってボーアは両方の像の使用を支持し、互いに「相補的」であるといっている。二つの像はもちろん互いに相容れない、なぜかといえばあるものが同時に粒子(すなわち非常に小さい体積に閉じこめられた物体)であって、波動(すなわち広い空間内に拡がった場)であることはあり得ないが、しかしこの二つは相互に補足する。両方の像をあやつることにより、一方の像からもう一方の像へいき、またもどってくることにより、最後に、我々は原子的実験の背後にある奇妙なリアリティについての正しい印象を得ることができる。ボーアは量子論の解釈に当って数個所で「相補性」の概念を使用している。粒子の位置の知識と、速度または運動量の知識とは相互に補足する。もし我々が一方を高い精密度で知れば、他方を高い精密度で知ることはできない。しかも系の行動を決定するには両方とも知らなければならない。原子的事象の時間空間による記述はこれの決定論的な記述と相補的である。
W.ハイゼンベルク著/新装版『現代物理学の思想』河野伊三郎・富山小太郎訳 (pp.26-27)

物質波について、アインシュタイン関連の資料を追加しました。
(『アインシュタインここに生きる』を参照のこと)
  ↓
物理学の哲学
http://theendoftakechan.web.fc2.com/atDawn/transcend/physics.html

2016年10月26日水曜日

1926年12月25日 昭和改元

『広辞苑』 第五版 によれば、かくの如し。

大正
 大正天皇在位期の年号。 (1912.7.30~1926.12.25)
昭和
 昭和天皇在位期の年号。 (1926.12.25~1989.1.7)
平成
 日本の現在の年号。 (1989.1.8~)

なぜか、大正と昭和は、1 日重なるのに、昭和と平成は日の重なりが生じていない。
これには戦前と戦後の意識の相違もあるだろう。

元号の過去 90 年を文章にしてみると。
 大正天皇の崩御の日、大正十五年 (1926) 十二月二十五日に、昭和と改元された。
 12 月を 25, 26, 27, 28, 29, 30, 31 日と、数えて昭和元年は、ちょうど 1 週間で終わる。
 1927 年 1 月 1 日は、昭和二年である。
 そうして、日本は昭和の新時代に突入する。
 昭和維新とも、流言した。そして――。
 昭和六十四年 (1989) 一月七日の昭和天皇の崩御に伴ない、その翌日をもって、平成と改元された。
 昭和六十四年も、これはあえて数えなくとも、ちょうど 1 週間だ。
 てことは昭和の時代は、62 年と 2 週間だったということがにわかにわかる。
 それから幾星霜を経て、今年は、平成二十八年。
 おそるべし。平成元年生まれが、あっという、まもなく三十路なのだ。

 豆知識として……。
昭和の最初の日というのは、日本で改良したテレビ受像用のブラウン管に、
「イ」の文字が映し出された日でもある。

2016年10月24日月曜日

1924年 ド・ブロイ 「物質波」の学位論文

 ちょうど 3 週間前の今月初頭(10月3日月曜日)に、似たような表題で書きました、が。
 その文中には、次のように記しました。

 ド・ブロイが「物質波」の構想を発表したのが、1923 年とされており、…………。

――と。
 今回は、それのフォロー及び訂正となります。というのは――。
 その後、量子力学の歴史を再度ひもといておりますと、ハイゼンベルク関連の書籍には、閲覧したもの(せいぜい二、三冊ですが)すべてに、ド・ブロイが「物質波」の論文を発表したのは、1924 年と、書かれているではありませんか。
 目を移せば、かの 『広辞苑』 第六版 (p.2466) には、次のようにありました。

ぶっしつは【物質波】
電子などの物質粒子が回折・干渉などの波動的性質を示すときの呼称。アインシュタインの光量子説を物質に適用し、一九二四年ド=ブロイが導入。プランクの定数を運動量で割ったものに等しい波長を持つとした。ド=ブロイ波。

 今月 3 日に参考にした資料は、1 年以上前に自分でまとめたメモ――箇条書き数行程度の年表――でしたので、その作成に際して参照した原資料らしきを再度手当たり次第に尋ね求めて、ようよう 『物理学辞典』 (培風館、2005 年)にその記述が発見できました。(参考資料・文献の記録は大切であると、つくづくに身に沁みました。)
 結果、自作年表の該当箇所は〝1924年〟に本日訂正して、おりまして。
 〝構想を発表したのが、1923 年とされて〟いるというのは、不適切であろうというわけなのです。
 〝構想を誰かに伝えた〟というあたりの表現が無難であろうかと……。
 原資料の内容を引用させていただきます。

 ド・ブロイ波
 物質波ともいい、1923 年に、L. de Broglie によって、「物体の運動に付随した仮想的な波」として導入された。粒子の運動量の大きさを p とすると、その波長 λ は、ド・ブロイの関係式 λh / p で与えられる( ℎ はプランク定数)。この波長 λ はド・ブロイ波長とよばれ、古典論の適用限界を示すのによく使われる。…………。
 de Broglie はさらに、…………、幾何光学と波動光学の関係が、古い力学と新しい力学の関係であることを予言した。それが 1926 年のシュレーディンガーの波動方程式の発見につながる。…………。de Broglie の研究は、1924 年の学位論文にまとめられている。
〔『物理学辞典』三訂版 (p.1616)

 この記述によると、すなわち、ド・ブロイが「物質波」の概念を導入したのが 1923 年で、それをまとめた論文は 1924 年に発表され、「それが 1926 年のシュレーディンガーの波動方程式の発見につながる」ことになった、という経緯になるようです。
 ちなみにその間の 1925 年には、マトリックス力学(行列力学)と呼ばれる、量子力学の基礎が完成しています。
 最後に、ハイゼンベルク自身のそのあたりに関する記述も、邦訳で、引用させていただきましょう。

一九二四年に、フランスのドゥ・ブローイは、波動の記述と粒子の記述との間の二重性を、物質の素粒子に、第一にまず電子にまで拡張しようとした。彼は、光波が運動する光量子に対応するのと同じように、ある物質波が運動する電子に「対応」させられることを示した。その時にはこの文章の中の「対応」という語が何を意味するかは明らかでなかった。しかしドゥ・ブローイは、ボーアの理論における量子条件が物質波に関して何を述べているものと解釈されるべきかという考えを出した。核のまわりにまわる波動は、幾何学的な論拠から定常波でなければならない。そうして軌道の周は波長の整数倍でなければならない。このようにしてドゥ・ブローイのアイデアは、電子の力学において常に異分子であった量子条件を、波と粒子との間の二重性と結びつけた。
…………
 量子論の明確な数式化は、ついに二つの相異なる発展から現われてきた。一方はボーアの対応の原理から出発した。…………。一九二五年の夏にマトリックス力学、あるいはもっと一般的に量子力学とよばれる数学的体系に到達した。
…………
シュレーディンガーは、ドゥ・ブローイの核のまわりの定常波に対して、波動方程式を設定することを試みた。一九二六年の初めに、水素原子の安定状態のエネルギーの値を彼の波動方程式の「固有値」として導き出すことに成功し、さらに与えられた一組の古典的な運動方程式をこれに対応する多次元空間の一つの波動方程式に変形する、もっと一般的な処方を与えることができた。もっと後になって、彼の波動力学の式は前にできた量子力学の式と数学的に等値であることを彼は証明することができた。
〔W.ハイゼンベルク著/新装版『現代物理学の思想』河野伊三郎・富山小太郎訳 (pp.12-13, p.14, p.15)

 おそまつさまでございましたがな。

2016年10月21日金曜日

西田哲学的〝時空統一体〟

 単純な見解として、
〝高さの欠落した空間〟は三次元空間として意味をなさない。それを一般に〝平面〟という。
 同様に、
〝時間の欠如した空間〟は四次元時空として意味をなさない。それは通常〝平面的〟に捉えられる。
 相対性理論も、
〝ミンコフスキーが取り入れたローレンツ変換により時空が統一された〟
時間と空間の相互補足性の理論として、哲学的に捉えられたかも知れない。
そこには、〝量子力学の相補性の概念〟も垣間見られる。

 殊にローレンツ Lorentz やミンコウスキー Minkowski などによつて唱へらるゝ物理学上の相対性原理に於てはこの傾向が益々徹底して時間と空間とさへも相対化せられるやうになつた。
新版『西田幾多郎全集』第十二巻「現代に於ける理想主義の哲学(第七講)」 (p.73)

上記引用文は、大正五年 (1916) の講演記録であるが、
次の著作は、昭和十五年 (1940) のものだ。

 物質的世界と云ふのも、右に云つた如く、既に空間時間の矛盾的自己同一の世界、多と一との矛盾的自己同一の世界でなければならない。時間空間の相互補足性と云ふのも、かゝる世界の矛盾的自己同一を意味するものであらう。
新版『西田幾多郎全集』第九巻「日本文化の問題」 (p.16)

 このように語られる時間と空間の理論は、〝絶対現在〟と表現される〈永遠の今〉においてすべての時空が内包される。

 西田哲学の〝絶対時空〟は、〝時空連続体〟というより、
〈永遠の今〉の表現である〝時空統一体〟とでもいうべきであろうか。


イデア:時空統一体
http://theendoftakechan.web.fc2.com/atDawn/transcend/unity.html

2016年10月19日水曜日

〝時を忘れる〟時の構図

 〝時を忘れる〟ひとときというのは、〝我を忘れる〟時間でもあろう。
 するとこの場合には〝時は我なり〟という構図が見えてくる。

 ひとは、そうやって自分の時間を生きているけれど。
――誰かと。
 〝同じ時間を生きた〟ことと、〝同じ時代を生きた〟ことには、空間的な違いが感じられる。
 〝同じ時間〟には、空間的に近接した「景色までも含めて共有する」印象がある。
 〝同じ時代〟で、共有されているのは、きっとどこまでも続く「同じ空」なのだ。
 「同じ空の下にぼくたちは生きてきた」という、空に媒介された距離感を含む風景がそこにある。

 ならば「時間を忘却した時代をぼくたちは生きてきた」というのはどうだろうか。
 それは〝時に追われて生きる時〟を意味するかも知れない。
 おそらくは「ぼくたちは自分の時間よりも時間そのものを大切にしている」。
 動く時計の針によって刻まれる時間をまるで先取りできるかのように。

 生きている自分を意識する時間の至福と不幸がある。

2016年10月17日月曜日

時が「動く」ための絶対基準

 それから現実の世界と云ふものはいつでも何か絶対の現在と云ふやうなものに接して居る。さう云ふ風に考へなければならないと思ふのですな。
新版『西田幾多郎全集』第十三巻「現実の世界の論理的構造(第五講)」 (p.233)

その無数の時をつゝむものが即ち永遠の今なのである。かゝる永遠の今のいづれの点に於ても時は消えて又新に生れる。かくて時は常に新しくどこからでも始まる。その無数の時が表から見られた時、それは一つの点に収まるとも考へられる。その一点がすべての運動をつゝむのである。その永遠の場所に於て種々なる時が可能になる。それ故に種々なる時は場所の意味を有ち、空間的な意味を有つ。
新版『西田幾多郎全集』第十三巻「生と実在と論理」 (p.124)

 すなわちここに、絶対基準が、必然である。
 永遠の場所である〈永遠の今〉において、すべての〈時〉が可能になる、らしい、のだ――。
 無条件に、その〝前提〟を〝根柢〟とする。

 ところで。もし、〈瞬間〉が一瞬前も消えてなくなっているというなら、
どのように〈無数の瞬間〉が同時存在し、
数直線状の〈時間〉を切断した切断面を〈空間〉という如き説明が可能であるか?

 そもそも、これでは直線を切った、一次元の切断面が、
零(ゼロ)次元とはならず、三次元であるというようなイメージを喚起させる
解釈ではあるが、その曖昧さはとりもなおさず基準座標としての、
〈絶対時間〉というような〝観念〟の導入を前提条件としたであろう。

 さらに〈瞬間〉が同時存在する必然として、因果律を楯に説明は可能だ。
 瞬時に消滅する〈時〉において、過去が現在にそして現在が未来にそれぞれ関係性をもって〝働きかける〟ためには、過去と現在、そして、現在と未来が、同時存在的でなければ働きかけることができないのは、存在しないものに〝働きかける〟ことができないことからも自明であろうとされる――。
 これは、プラトンの「パルメニデス」 156D~E あたりをヒントにしたものとみなされているようだ。
 西田幾多郎は論文で、プラトンによる〝イデアの影〟説を援用していう。

私が前論文において、世界が絶対矛盾的自己同一の影を映す所に、イデヤ的といった所以である。
岩波文庫『自覚について』西田幾多郎哲学論集Ⅲ「絶対矛盾的自己同一」 (p.77)
http://theendoftakechan.web.fc2.com/atDawn/transcend/sublation.html#idea
 ――リンク先は新版『全集』第八巻からの引用文――

 もし〈時〉が〈時〉に対して動くというなら、
対する〈時〉と、
それに対される〈時〉とは、
どう異なるか。異ならないのか。

2016年10月15日土曜日

右往左往する〈瞬間〉の持続と飛躍

 前回にも触れた、昭和七年 (1932) に行なわれた京都大学での講演記録の中に、つぎのようにあります。

時間は真に非連続である。しかもそれを結合するものが Sollen なのである。物理的時間ならぬ真の時間は瞬間から瞬間へ飛躍する。
 …………
我々はあらゆる瞬間に於て死して又生れるのである。そしてその時永遠の今に触れてゐるのである。しかしこゝに意味する瞬間は普通に云ふ瞬間ではない。それは幅のある鈍い瞬間ではなくして鋭いとがつた瞬間である。
新版『西田幾多郎全集』第十三巻「生と実在と論理」 (p.120, p.135)

 Sollen は、「当為」と注釈されています。『広辞苑』によれば「当為」とは、
〝人間の理想として「まさになすべきこと」「まさにあるべきこと」を意味する〟
と、あります。

 おそらくは、西田幾多郎のこの引用文中の〈瞬間〉は、〈ゼロ〉への〝極限〟としての意味をもつものでしょう。
  〈瞬間〉 = 〈ゼロ〉
ではなく、
  〈瞬間〉 → 〈ゼロ〉
と表現すべき、そういう〝極限値〟が前提された概念は、昭和十五年 (1940) の論文においても、新たに述べられています。

すべての絶望はかゝる責任の下に立つのである、而してその持続する各瞬間を通じて。
 絶望といふ不調和が生じたとしても、それがその自らなる結果として持続するのではない。それが持続するならば、それは自己自身に関係する関係から来るのである。即ち不調和が現れる毎に、又それが現存する各瞬間に、それは直接に右の関係から生ずるのである。病の持続は病人が一度自己に招き寄せた結果に過ぎない。各瞬間毎に招き寄せて居るとは云へない。併し絶望はさうでない。絶望の現実的な各瞬間が、その可能性に還元さるべきである。絶望者は彼の絶望して居る各瞬間に、絶望を自己に招き寄せて居るのである。そこにはいつも現在的な時がある。絶望の現実的な各瞬間に、絶望者は可能として予感する凡てのものを、現在的なものとして担つて居るのである。何となれば、絶望すると云ふことは精神の領域に於て起ることであり、人間の中の永遠なるものに関係するが故である。
新版『西田幾多郎全集』第九巻「実践哲学序論」 (p.104)

 ここで繰り返される「絶望の現実的な各瞬間」とは、〈幅がゼロの時間〉ではなく、
〝微分された (極限まで細かく分けられた) 時間〟としての〈ゼロへ向かう極限としての擬似ゼロ〉とでもいうべき、位置づけにあるようです。
 なぜならば、完全な〈ゼロ〉の「持続」であればそれはやはり〈ゼロ〉にしかならないからです。
 一般的にはどのように考えようとも、〈ゼロ〉が持続する、ということは、ずっと〈ゼロ〉である、としか解釈できないと思われるのです。
 数学者は〈極限値としてのゼロ〉を〈ゼロ〉と同一視するようなのですが、西田幾多郎はどうやらそのふたつを区別しているのでしょうか?
 また「その持続する各瞬間」には「そこにはいつも現在的な時がある」ともされています。
そして、
「真の時間は瞬間から瞬間へ飛躍する」とは、
〈鋭い尖った瞬間〉から〈鋭い尖った瞬間〉への量子力学的な意味での遷移(せんい)をイメージしたものなのでしょうか?
 その曖昧な〈瞬間〉が飛躍する、その〝時ならぬ時〟が、やがては把握できない〈現在〉として語られるのです。
 もはや、飛躍する〈瞬間〉ではなく、暗躍する〈瞬間〉とでも呼べそうな事態ではあります。

無限の過去未来が現在に於てあると考へられると共に、現在は瞬間から瞬間へと動き、現在は把握することのできないものでなければならない。現在は何処にもないものでなければならない。
新版『西田幾多郎全集』第九巻「実践哲学序論」 (p.118)

 かつて語られた

人間のみが瞬間を有つのである。……。永遠の今の自己限定として時が考へられるといふ立場から云へば、現在は無限大なる円の弧線的意義を有つたものでなければならない。かかる弧線の極限として瞬間といふものが考へられるのである。故に我々は現在は幅を有つと考へる。
新版『西田幾多郎全集』第六巻「現実の世界の論理的構造」 (p.182)

現在を瞬間的と考へるならば直線的な時の形が考へられるが、瞬間を有たない時の形も考へることができる。我々は通常経験的には現在が幅を有つと考へて居る、瞬間は達すべからざるものと考へて居る。
新版『西田幾多郎全集』第七巻「行為的直観の立場」 (p.84)

具体的現在といふのは、無数なる瞬間の同時存在と云ふことであり、多の一と云ふことでなければならない。
新版『西田幾多郎全集』第八巻「絶対矛盾的自己同一」 (pp.368-369)

というような「具体的現在」は、「把握することのできないもの」へと、すなわち移りゆく形而上的〈瞬間〉の飛躍の相へと昇華していくのでした。
 論文「行為的直観の立場」の上記引用文に続く一文ではこうもありました。
時の瞬間を極限点として考へるといふことは、要するに時を空間化することであると。

 すなわち、通常は数直線上の一点として認識される、ベルクソンが表現したところの〝数学的点〟としての〈瞬間〉から、その擬似的な〝極限〟としての〈瞬間〉が考察された際、それが〝時としての幅をもつ現在〟として考えられたにもかかわらず、今回「現在は瞬間から瞬間へと動き、現在は把握することのできないもの」と位置づけられるようになってしまったのです。
 昭和九年 (1934) の京都大学英文学会の講演では次のような表現もありました。

必ずしも瞬間的なものを考へなくとも、時間的なものは一般に生れては消えるのであります。その一々が独立の意味を有してゐる、それだけで生れてそれだけで死ぬ。単に縦の線に於てのみ現はれる一回的のものである。時間とはかかる独立なものが続いて行く事である。
新版『西田幾多郎全集』第十三巻「伝統主義に就て」 (p.250)

 少なくとも、〝一瞬にして消滅を繰り返す〟という、それぞれ独立した〈瞬間〉は〝持続〟するのか〝飛躍〟するのか、それとも両方なのか、曖昧でなく、かつ矛盾しない理解を得たいものです。
 現実としての〈この世の具体的な瞬間〉をどう理解するべきか、というシンプルな問いなのです。


〈時〉の科学 〈場〉の心理学
http://theendoftakechan.web.fc2.com/atDawn/transcend/topology.html

2016年10月13日木曜日

球体で表現される〝時空連続体〟

歴史的空間は平面的ではなくして球面的でなければならない、時を内に消すものではなくして時を包むものでなければならない。
〔新版『西田幾多郎全集』第八巻「経験科学」 (p.463)

西田幾多郎のこの論文「経験科学」は昭和十四年 (1939) に書かれたものです。
 上記引用文中の、前半部分は、どうやらイメージできるのですが、後半の、
時を内に消すもの時を包むものとが、具体的にどう違うのかが、さっぱりわかりません。
 同じ「時を包む」表現として、昭和七年 (1932) に行なわれた京都大学での講演において、次の記録が残されています。

現在が現在を限定する時に、限定するものなくして現在が限定されるのである。無にして現在が限定されるのである。そこに無数の時が可能になる。その無数の時をつゝむものが即ち永遠の今なのである。
〔新版『西田幾多郎全集』第十三巻「生と実在と論理」 (p.124)

 また、ヒントになる(かも知れない)似たような発言として、大正八年 (1919) の大谷大学での講演記録がありました。

全体から見れば部分は有限なものであるが、その有限の中に無限が包まれて居ると云ふやうなことである。
〔新版『西田幾多郎全集』第十三巻「 Coincidentia oppositorum と愛」 (p.83)

 そもそもは前提として〈時間〉は〈無限〉なのであって、たとえ〈空間〉が有限であったとしても、この理由でそれは可能となることになります。
 ですがいずれにせよ、当時の西田幾多郎の歴史的空間が、(無限大の)球体を基本として描かれるものだということは、これまでの記述からも明確です。
 パスカルの〝無限の球体〟を参照した論文「永遠の今の自己限定」は昭和六年 (1931) に発表されていますが、昭和九年 (1934) の、京都大学英文学会の講演では次のような表現もあります。

即ち時間は普通には過去無限から未来無限にわたる直線と考へられ、空間はそれを横に切る横断面と考へられる。…………
空間は時間の横断面であるのですが、……。
〔新版『西田幾多郎全集』第十三巻「伝統主義に就て」 (p.250, p.251)

 これは〝時空の層〟が年代とともに〝地層のごとく〟積み重なっていくイメージでしょうか?
 このような〝時空連続体〟構想は、SFではお馴染み(おなじみ)な設定でもあって、いまどきでは珍しいものでもないでしょうが、〈時空〉という言葉が発明された、その当時(ちょうど 100 年前の 20 世紀初頭の昭和初期)であれば、常識の疑われるものであったかもしれません。
 実際、「相対性理論」は発想力の常識を疑われていたようですし、「量子力学」にいたっては研究している学者自身がいまだに自分の常識を疑ってかかっているふしがあります。つまり、
「宇宙のリアルな法則は人間にとって常識的ではないところがある」と。

 それで、四次元時空の連続体が、球体として、もし構想されるとしたなら、
――それぞれの刹那の四次元時空を球体の表面部分として前提した場合――
〝ビッグバン以来の空間の拡大がそのまま、球体の表面として積み重なっていって連続体となったのが、宇宙である〟
という理屈も可能でしょう。
 まるで「木の年輪」みたいな宇宙像ですが……。
 あるいは「宇宙大のタマネギ」とか。

 さて、前回のかけ算の逆、わり算のことを、追加で説明しておきましょう。
〈瞬間〉 × 〈無限大〉 = 〈現在〉
という、この両辺を〈無限大〉で割ると、次のようになります。

〈瞬間〉 = 〈現在〉 ÷ 〈無限大〉

 これは、
〈ゼロ〉 × 〈∞〉 = 〈不定な数〉
でしたので、

〈ゼロ〉 = 〈数値〉 ÷ 〈∞〉

という内容と、同じことになります。
 これらの数式に登場する記号としての〈ゼロ〉や〈∞〉は、数学的極限値としての記号であり、
――また〈∞〉は何らかの〝具体的数値〟でもありませんが――
それら数式の、計算結果の〝極限を示す〟〈値(あたい)〉としての、意味をもつものなのでした。

 それは、
〝〈ゼロ〉に収束する〟
〝〈無限大〉に発散する〟
という言葉で表現されるものです。

 極限値が〈 1 〉であれば、
〝〈 1 〉に収束する〟
となります。

〈ゼロ〉に収束する〟ということについて。
 数学的には、それは、たとえば何らかの数を無限大で割ると、実質ゼロになる、ということを意味していて、
「具体的数値としてはゼロ」
になる、ということであり、それが〝数学的リアル〟なのでした。
 つまり、物質(あるいは宇宙)を際限なく砕いていくと、何もなくなってこれはやはり〝すべては〈ゼロ〉になる〟ということです。
 何も、宇宙には塵すらも残らない、のです。それが〝数学的リアル〟です。

数学的リアル〟と〝この世のリアル〟の違いについて。
 また一方で、〝数学的リアル〟な三角形は、〝この世的リアル〟な宇宙には、いまのところどこにも存在しません。
 西田幾多郎も、それについて大正八年 (1919) の現龍谷大学での講演で、以下のように述べています。

数学者は円とは一つの中心点から等距離にある点の軌跡であるといふが、かゝる厳密なる円はどこにも存在してゐない。
〔新版『西田幾多郎全集』第十三巻「宗教の立場」 (p.89)

2016年10月10日月曜日

〈瞬間〉×〈無数〉=〈現在〉 という魔法

 昭和十四年 (1939) の論文「絶対矛盾的自己同一」で西田幾多郎は、次のように記述しています。

具体的現在といふのは、無数なる瞬間の同時存在と云ふことであり、多の一と云ふことでなければならない。
新版『西田幾多郎全集』第八巻「絶対矛盾的自己同一」 (pp.368-369)

 ここで表現されている無数というのは、文学的な用法としての〝有限だけれども数えきれないほどの数〟ではなく、はっきりと「無限大」を指し示しています。
 それはなぜなら、というと。
 以前から、西田幾多郎の「現在」は「幅を持つ」のであり、今回それと対比されている瞬間とは「幅がゼロの時間」を示していることは述べてきましたが、

〈ゼロ〉 × 〈有限な数〉 = 〈ゼロ〉

なので、もともと〈ゼロ〉の時間がなんらかの「幅を持つ」ためには、〈無限大〉を積算(かけ算)するしかないという、いかんともしがたい理由によります。
 そういうことで、上の引用文は数式的には次の内容をもつことになります。

〈瞬間 (ゼロ) 〉 × 〈無数 (無限大) 〉 = 〈 〔限定された〕 現在〉

さて。この方程式(計算式)は、はたして成立するのでしょうか?

 これまで、多くの先達の資料を参照してきましたが、いまのところ「西田哲学における時間の幅の意味」についてこのように論及したものは見受けられず、見当のつかない状況です。
 この際の「時間の幅」というのは「断絶した連続で成り立つ〈永遠の今〉としての自己限定された現在の幅」をいいます。
 以前(2016年10月1日土曜日)に「歴史的世界は最始から絶対矛盾的自己同一として自己自身を限定するのである。絶対の断絶の連続である、段階的である。」という西田幾多郎の記述から、
〝そうするとなると、〈非連続の連続〉 というのは、現代ふうに表現すれば、〈離散的な連続〉 ともいえましょうか。〟
と書きましたが、西田幾多郎昭和十三年 (1938) の論文「人間的存在」には、

時は断絶の連続と考へられる所以である。
新版『西田幾多郎全集』第八巻「人間的存在」 (p.275)

ともあって、「断絶した連続」は〈非連続の連続〉と同じ意味を含みます。
 すなわち〈永遠の今〉とは、「限定された現在」でありつつも、それが「段階的」に連続していく、いわば〝時空連続体〟的な様相の統合(とうごう)された綜合(そうごう)というような〝リアル〟がイメージされた、〈実体概念〉なのでしょうか?
 その〝リアル〟を構成するのが、擬似〝リアル〟であるところの、形而上的〝バーチャル〟な「瞬間」であるとされています。
 繰り返しますが、ここで「瞬間」というのは「幅がゼロの時間」であり、「無時間」を示します。
 そもそも、最初の引用文の直前の一文で西田幾多郎自身も、瞬間は時の外にあると、しています。
 これは、「瞬間」は現実的な時間で構成されているべき、「〝この世〟の外にある」と、解釈できます。
 そういう〝あの世〟的時間が〈無数〉に集まって〝この世〟の〈現在〉を構成しているという、そういうことなのでしょうか?
 少なくとも事実としては、西田哲学の〈無〉と〈無限〉がここに、同時存在的に語られています。
 さらには、実はこれまで「多の一」という表現は「多」を「有限な数」とみなしてきたのですが、ここで「多」に「無限な数」をも含めて適用する必要が出てきました。
 〈一(いち)〉と〈無限大(∞)〉を対比させるというのは、突然の新しい考え方のような気がします。

 ところで数学者の解説によると、〈無限大(∞)〉が演算に登場した時点で、それは通常の計算式ではなく、数列の計算が求められるのだと、そういうことらしいのですが、そこに記述される「=」は、「→」と同じで、「収束」もしくは「発散」する行き先(到達目標)を示すもののようです。それで、数学的には

〈ゼロ〉 × 〈∞〉 = 〈不定〉

となり、これは、一定の数値にはならないようです。
 高等数学では、〈limit〉 が用いられる世界で、「ロピタルの定理」という〝不定形の極限値を求める〟計算式の一角を占めているようです。

 この、〈ゼロ〉に〈無限大〉をかける方法というのは、また一方で、「時間」とよく対比される「空間」にも適用できるでしょう。
 この世の「空間」は〝三次元的に存在しない幅(大きさ)がゼロの点〟が「無数」に集まって構成されている、という解釈が、同じように可能となるということです。
 数学者は〔量子論的解釈とは関係なく〕、計算上はそれは可能である、とするようです。
 (つまり、素粒子は、際限なく、分割可能となります。)
 それは、「自然数全体の集合」は〈現実的無限〉という、観点から考えられているようです。
 しかしながら「自然数」は、はたして物理的な「現実」といえるのでしょうか。
 厳密にはおそらく、数学は〝リアル〟ではなく、〝リアルの近似値〟を数式で表現するものです。
 つまり形而上的〝バーチャル〟を〝リアル〟にフィードバックするための最強の道具である、ともいえます。
 また現在わかっているのは――、
量子力学は未だ発展途上にあり、最終結論などではない、ということです。


〈場所〉の論理から〈絶対矛盾的自己同一〉へ
http://theendoftakechan.web.fc2.com/atDawn/transcend/sublation.html

2016年10月8日土曜日

両立せぬ「真・偽」関係の論理学的〈矛盾概念〉

 つまり、論理上
一方が〈真〉であればもう一方は必ず〈偽〉であり、逆に一方が〈偽〉ならばもう一方は必ず〈真〉となる関係
を 〈矛盾関係〉 といい、そういう関係性のあいだに中間的なものの存在しない一対 [いっつい] 〈矛盾概念〉 という、らしいのです。

 それは、現実的に事実として〈矛盾〉しているという〝概念(がいねん)〟のことではなく、論理として、そこで対比されている両者の「論理的な帰結」が、ともに〈真〉となることはなく、さらには、ともに〈偽〉ともならない、排他的でかつ一種相互依存的な、そういう対立的な関係性のことなのだと、思われます。

 ところで普通 (かどうかは意見も異なりましょうが)、〈偽〉といえば 〈False〉 で、それはラテン語の「だます」を語源とするらしいのですが、パソコンのプログラムの世界では、一般的に〝 0 〟の意味を持ちます。
 もう片方の〈真〉は、〈True〉 でそれはコード的には〝 0 以外〟なので、二進法を身上とするパソコンとしては、〝 0 〟以外の数字を〝 1 〟しか持ち合わせてないゆえに、〈True〉 は〝 1 〟と解釈されても仕方のない状況となります。
 通常の初期値は〝 0 〟なので、〈False〉 からすべては始まる前提なのですね。
 この状況下で初期化すると、〝すべては 0 になる〟のです。

 いうなればそれらは「有る」と「無い」の表現でもあります。ここからも、〈真偽(しんぎ)〉は〈有無(うむ)〉の関係性ともいえましょうか。

 ここでにわかに西田哲学の話になるのですが、そういう〈有・無〉の対立が解消されて、すなわち止揚(しよう)していくための、便利な道具が、〈弁証法〉ということになります。
 また「世界は弁証法的でなければならない」というような表現がその過程でよく見受けられるのですが、世界がそのようであるのならば、たちどころにすべての論理的〈矛盾〉など、解決してしまいそうに思われるのに、どうやらそうなっていないのは、ここに至るまでの以上の解釈の過程に、エラーがあったのでしょう。
 それとも。〈弁証法〉で論理的な〈矛盾〉は解決されても、現実の問題は、〈弁証法〉とは関係なく別にあるものなのでしょうか?

2016年10月6日木曜日

捏造(ねつぞう)されかねない〈矛盾〉

 事実としての現実が 〈矛盾〉 するのは困難であるが、概念は容易に 〈矛盾〉 する
――という、現実がある。
 いまここに、〝文字〟という「記号」が何であるかを考えてみる。
 とりあえず、アルファベットの大文字を例にとって考えることにする。

 もし、〝文字〟が〝 A 〟であるならば、〝文字〟は〝 B 〟ではない。
 すなわち〝文字〟が〝 A 〟であると同時に〝 B 〟であることはできない。
 〝文字〟が〝 A 〟であると同時に〝 B 〟であるというのは、矛盾している。
 しかしながら実際には、現実として、〝 A 〟は〝文字〟であり、同時に〝 B 〟も〝文字〟である。

 おそらく。いまこの〝文字〟は、数学的には、未知数〝 x 〟であると、仮定されている。
 そこで、その〝文字〟を記号としての未知数〝 x 〟で表現する。

 未知数〝 x 〟が〝 A 〟であると同時に〝 B 〟であることはできない。
 しかしながら、実際には現実として、〝 A 〟は〝文字〟であり、同時に〝 B 〟も〝文字〟であった。
 ようするに、事実としては、未知数〝 x 〟は〝 A 〟であると同時に〝 B 〟でもあるので、したがって、現実に適用して考えるならば――。
 最初の記号としての、未知数〝 x 〟は〝文字〟ではなく、その〝(限定された)文字〟――〝その文字〟――と、するべきであったろう。

 〝その 〔ひとつの〕 文字〟が〝 A 〟であると同時に〝 B 〟であることはできない。
 しかしながら、〝 A 〟は〝文字〟であり、同時に〝 B 〟も〝文字〟である。
 この場合、未知数〝 x 〟は〝 A 〟であると同時に〝 B 〟ともなる。
 現実に、〝文字〟は〝 A 〟であると同時に〝 B 〟でもあり〝 C 〟などでもある。
 つまりは、未知数〝 x 〟の設定の曖昧さ に、問題の所在があったのであろう。
 〝文字〟なのか、その〝(限定された)文字〟すなわち〝その文字〟なのか。

 〝 A 〟は〝 A~Z 〟という集まりの要素ではあるが、全体ではない。
 また〝 A 〟がなければ〝 A~Z 〟という集まりは成立しない。
 現実には、このことに、矛盾している形跡はどこにも、一向に見受けられない。

 結局はただ、最初の設定で、厳密さを考慮するか、それとも考慮しないか、だけの話であったのか。
 曖昧な概念は、容易に〈矛盾〉と馴れ親しむのだろう。

 蛇足ではあろうが――ここで少し丁寧には――ありましょうが、以上の解釈及び説明と〝 A 〟がそのまま〝 B 〟である世界観とは異なる、ものです。

2016年10月3日月曜日

1923年 ド・ブロイ 「物質波」

 西田幾多郎の 1938 年の論文「人間的存在」に、次の表現があります。
 岩波文庫『論理と生命』西田幾多郎哲学論集Ⅱ の 370 ページにありますが、以下に『全集』から引用させていただきます。

歴史的・社会的世界に於ては、物は表現作用的に、制作的に、自己自身を表現するものでなければならない。かゝるものとして、その存在性を有つのである(私は歴史的物質といふものを、かゝる意味に於て自己矛盾的存在と考へるものであるから、今日の物理学に於て物質と波との矛盾的結合といふのも、かゝる理由に基くのではないかと思ふ)。
〔新版『西田幾多郎全集』第八巻「人間的存在」 (p.282)

 ド・ブロイが「物質波」の構想を発表したのが、1923 年とされており、その 15 年後になります。
 その 「物質波」 というのは 「物質だとか波動だとかいうのは真実の一面でしかない」 というような内容 のものです。
 そういえば、前回のリンクページには、次のような一文を引用させていただいておりました。

現実は相反する方向の自己同一即ち矛盾の自己同一として(ボールの相互補足性 Komplementarität (8) の如く)、自己自身を形作るものであるのである。
(8) ボーア『ニールス・ボーア論文集1』岩波文庫、第七論文「因果性と相補性」、一二九-一三一頁ほか。
新版『西田幾多郎全集』第八巻「実践と対象認識」 (p.124)

 これら、物質と波との矛盾的結合ボールの相互補足性とは、同じ内容のことがらを示しておりまして、つまりは「ボーア (Bohr) が量子力学に導入した相補性の概念」のことです。
 この「相補性の概念」のことは、ハイゼンベルクの「不確定性」とともに、改めて詳しくみていく機会もありましょう。

 それはそうと論文「人間的存在」については、「進化の頂点に立つ、西田哲学の神話」と題して以前(2016年5月19日木曜日)にブログで触れたこともありました。
 今回は、『全集』からの引用文で、そこのところをちょいと振り返ってみましょう。

 絶対矛盾の自己同一として、作られたものから作るものへと自己自身を形成する世界は、作られて作るものの極限に於て人間に到達する、人間は所謂創造物の頂点である。そこでは与へられたものは何処までも作られたものであり、否定せらるべく与へられたものである。作るものより作られたものへと考へられる。神がおのが像に似せて人間を作つたとも云はれる所以である。我々の身体といふものも、既に表現作用的として、超越的なるものによつて媒介せられたものであるが、作られて作るものの極限に於て、我々は絶対に超越的なるものに面すると云ふことができる。そこに我々の自覚があり、自由がある。我々は歴史的因果から脱却し得たかの如く考へるのである。
〔新版『西田幾多郎全集』第八巻「人間的存在」 (pp.290-291)

 ここで、神がおのが像に似せて人間を作つたとも云はれる所以であるの「所以(ゆえん)」というのは、「理由・わけ」なので、「その前に提示した理由から、このようにいわれるのはもっともだ」という文脈とあいなります。
 で、その理由というのが、人間は所謂創造物の頂点であるという一句と解釈されます。
 その一句にある「所謂(いわゆる)」というのは「世間で言われている」という意味なので、まとめますと「人間は世間でいわれているように創造物の頂点なので、神に似せて作られたといわれるのも、もっともな話である」という、意味内容となります。
 どうやら、モンテーニュ式の「人間が神を自分に似せて作った」という〈哲学的〉解釈は、世間の流行からは出なかったもようです。そしてモンテーニュはどうだか知らぬが、自分の意見は〈世俗的〉な多数意見から見てもそうであると、そういうことになりましょうか?
 このあたりが、少々乱暴な理論展開であるように、思われるのです。――自戒を含めて。

 ひとまずは、これにて。

2016年10月1日土曜日

〈純粋持続〉≠〈非連続の連続〉ということ

 ベルクソンという人物は時間を〈純粋持続〉と考えて、分割不可能なものとしました。
 西田幾多郎はそれに対して〈非連続の連続〉ということを、時間に限らず、すべてに適用します。

 論文「論理と生命」ではたとえば、連続とは、
「直線的に(連続的に)」という表現があります。
新版『西田幾多郎全集』第八巻「論理と生命」 (p.24)
 これは、切れ目のない「数直線」とかのイメージからきているものでしょうか。
 そうであるとすると、連続とは、無限からなる「つらなり」ということになりましょう。
 なぜなら、0 と 1 あるいは、1 と 2 のあいだにすら、無限の数が数えられるからです。
(それがたとえば、0.5 と 0.6 のあいだでも、表現可能な数は無限です。)

 また一方、「実践と対象認識 ――歴史的世界に於ての認識の立場――」においては、次の表現が見られます。
「時間即空間、空間即時間、個物的限定即一般的限定、一般的限定即個物的限定として弁証法的一般者の自己限定といふものである(即といふ語はいつも矛盾的自己同一といふことである)。」
新版『西田幾多郎全集』第八巻「実践と対象認識」 (p.174)

 上記の丸カッコ内の表現と同様の、
(こゝに即といふのは矛盾的自己同一の意である)は、その以前の、143 ページにおいてなされています。

 その後の、「種の生成発展の問題」では、
「歴史的世界は最始から絶対矛盾的自己同一として自己自身を限定するのである。絶対の断絶の連続である、段階的である。」
新版『西田幾多郎全集』第八巻「種の生成発展の問題」 (p.197)
という説明がなされています。

 あるいは、そういう〈限定された場所〉というのは、ちょいと量子論ふうな表現を用いるなら、〈離散的時空〉ともいえるでしょうか。
 量子論というのは、ものごとを量子化して考えることをいいます。量子化、というのは、「エネルギー=質量」をパッケージ化して、なだらかな曲線ではなく、いわば、デジタル音楽のサンプリング波形の棒グラフのように、段階的なものとして、いってみれば断続的なものとして考えるようです。
(もしかすると、「ひとかたまり」という意味に通じる「パケット」という言葉のほうが、理解しやすいかも知れません。)

 そうするとなると、〈非連続の連続〉 というのは、現代ふうに表現すれば、〈離散的な連続〉 ともいえましょうか。
 とともに西田幾多郎の〈限定〉というのは、「パッケージ化」を示す言葉とも、解釈できます。
 いずれにせよ、西田幾多郎の哲学には、当時発展途上にあった量子力学の考察は欠かせないと思われます。

 最後に、もうひとつ。前回の事がらに関連すると思われる次の一文がありました。
 岩波文庫『論理と生命』西田幾多郎哲学論集Ⅱ の 329 ページにありますが、以下に『全集』から引用させていただきます。

歴史的現在に於て、いつも矛盾的自己同一的構成を中心として、即ち歴史的・身体的構成を中心として、その自己否定的方向、空間的方向に、自然科学的知識が構成せられ、その自己肯定的方向、時間的方向に精神科学的知識が構成せられるのである。
新版『西田幾多郎全集』第八巻「行為的直観」 (pp.236-237)


行為的直観:行為する主体
http://theendoftakechan.web.fc2.com/atDawn/transcend/vector.html