2022年8月16日火曜日

日本語資料のヘロドトスと「王の目」「王の耳」に関する記述 のこと

 ◎ あくまで日本語文献の一例として、なのですけれども、記述の内容を引用させていただきますと、次のようになっています。


〈世界の歴史 4〉

『オリエント世界の発展』

〔小川英雄・山本由美子/著 1997年07月25日 中央公論社/発行〕


4 アケメネス朝ペルシアの成立と発展

 ペルシア帝国の体制の確立

 (pp.133-134)

 中央集権制

 ダレイオス一世は、キュロス大王によって建てられたペルシア帝国を、整備し完成させたといえるだろう。大王のもとにすべての権力や情報が集まったという点で、それは中央集権的であった。しかし、各地方はアッシリアの軍管区制にならって任じられたサトラップが支配し、かなりの自律性をもつ約二〇から二九のサトラペイアに分けられていた。サトラップは原則としてペルシア人が任命されたが、そうでないこともあった。それぞれのサトラップは、毎年きめられた貢ぎ物(税)をおさめ、大王の戦争には軍隊を率いて参集するという義務を負ったが、領内は独自の伝統や文化に基づいて自由に統治できた。もちろん自由とはいっても、「王の目」や「王の耳」といわれた王直属の官僚によって常に監視されていた。この「王の目」や「王の耳」という官職名はヘロドトスの記述にあるもので、ペルシア語でどのように呼ばれていたかは実はわかっていない。「王の目」とはおそらく監視官のようなものであったろう。それにあたるペルシア語として、さまざまな職名が想定されてはいるが、史料上断定しうるほど明確な職名は見出されていない。しかし「王の耳」については、おそらくスパイのようなものだろうが、ガウシャカつまり「聴く人」という意味の言葉が、パピルス文書にある。



 ◎ というわけで、ここに引用させていただいた文中に、


「王の目」や「王の耳」という官職名はヘロドトスの記述にある


と、明言されているのですが、それがヘロドトスの記述のどの個所なのかが、不明確なので、いろいろと調べてみたのですけれども、結局ヘロドトスの記述からは、判明しませんでした。


 また、このほかの文献・資料でも〈ヘロドトスと「王の目」「王の耳」〉を関連づけたものを、いろいろと探してみたのですけれども、結局ヘロドトスの記述では(官職名としての「王の耳」は)発見できませんでした。



◎ 前回にも紹介したように、ヘロドトスの『歴史』には、「王の目」に関しては次のような記述があるのですけれども。


ワイド版 岩波文庫 294

Herodotus HISTORIAE

『ヘロドトス 歴史』(上)〔全 3 冊〕

〔松平千秋/訳 2008年02月15日 岩波書店/発行〕


 巻一

 (pp.105-106)

 114 この子供が十歳になったとき、この子供の身に次のようなことが起って、その素姓が明るみにでることになった。ある日その子供は村の路上で ―― 牛飼たちの牛舎もその村にあったわけだが ―― 同じ年頃の子供たちと遊んでいた。そして遊びの間に子供たちは、牛飼の子ということになっていたこの子供を、自分たちの王様にえらんだのである。王様にえらばれたその子供は、子供たちの分担をきめ、家を建てるもの、王の護衛をするもの、また一人はいわば「王の目」となるもの、また王にいろいろな報告をする役のもの一人、というふうに子供ひとりひとりに役目を与えた。さて子供の中に、メディアでは名士であったアルテムバレスという者の子供も一緒に遊んでいたが、キュロスから言い付かったとおりしなかったので、キュロスはほかの子供たちにその子供を捕えさせ、捕えてくるとその子を鞭で打ってさんざんな目に遭わせた。やがてその子供は放してもらうと、自分のようなものが受けるはずでない仕打を受けたという気持から一層腹が立ち、町へ帰りキュロスからされたことごとを父に訴えたのである。もちろんキュロスはその頃はまだキュロスという名ではなかったから、アルテムバレスの子も、キュロスとはいわず、アステュアゲス王の牛飼の子だといったのである。アルテムバレスは怒ってその子供を連れてすぐさまアステュアゲスの許へゆき、怪しからぬ目に遭いました、といい、

 「王よ、私どもはお抱えの奴隷、牛飼奴の伜からかような狼藉に遭いました。」

と子供の両肩を示した。



―― その他の資料を参照・引用したページを、以下のサイトで公開しています。



サトラプ制と「王の目・王の耳」の関連資料

http://theendoftakechan.web.fc2.com/eII/amrta/satrap.html