2019年5月30日木曜日

《箸墓古墳の軸線》のことなど

 ○ 昨年の夏(2018年7月28日土曜日)、『古墳の方位と太陽』から、「箸墓古墳:日輪の祭壇」のページに、次のように引用しました。

『古墳の方位と太陽』

「第 5 章 大和東南部古墳群」

 1.(6)前方後円墳の主軸方位と太陽の運行

 ① 纒向石塚古墳 …… 箸墓古墳の軸線と弓月岳 409 m ピークは 0.1° (6′) の誤差をもち、西山古墳の軸線と高橋山 704 m ピークは 0.4° (24′) の誤差をもつ。これが資料の実態であるから、この誤差ゆえに私の主張する事実関係には厳密さが伴わないとの批判もありうることである。しかしこの程度の誤差は許容される範囲内だと私は判断するが、そのいっぽうで、纒向石塚古墳の場合には検討が必要である。その前方部は三輪山山頂を向くと判断できるか否かであるが、本古墳にたいする私の築造企画復元案では、3.2° の振れ幅をもって三輪山山頂方向に軸線を向けることになり、それを意味のある事実とみなすか単なる偶然とみなすべきかの判断は微妙である。
〔北條芳隆/著『古墳の方位と太陽』 2017年05月30日 同成社/発行 (p. 159)

 ○ またそのおよそ 10 日前には、『理科年表』から次のデータを引用しています。

『理科年表』

「暦44 (44)」

各地の日出入方位 北緯 34°

夏至    + 29.3 (°)
立夏・立秋 + 20.5 (°)
春分・秋分 + 0.6 (°)
立春・立冬 - 19.2 (°)
冬至    - 28.0 (°)
〔『理科年表』第91冊(平成30年) 自然科学研究機構 国立天文台/編 平成29年11月30日 丸善出版/発行〕


 ○ いま一度『古墳の方位と太陽』から、最近の研究を参照して、次へのステップとしたいと思います。


『古墳の方位と太陽』

「第 3 章 弥生・古墳時代への導入」

 1. 検討すべき課題

 (p. 60)
 とりわけ夏至や冬至の日の出と日の入りに向けて、人類は古今東西を問わず特別な感情を抱いたようで、その期日に合わせた祭祀が各地で同時多発的に開催されてきた。
 なぜ夏至や冬至が知覚されやすいのかといえば、一日の日照時間が最長であるか最短であるかといった次元とは別に、それぞれ前後 5 日間程度は日の出も日の入りも、みかけ上は同じ場所から登り、同じ場所に沈むからである。日の出や日の入りの場所が日ごとに移動する現象はほぼ年間を通じて観測される。それが日常的な感覚である。ところがその移動が止まるわけだから、その到来は過去の人びとに強い印象を与えたはずである。いわば非日常的感覚を促す現象だとみてよい。

 2. 日の出の方位角

 (1) 作業の経緯
 (p. 61)
 では現在の年間の日の出方位と過去のそれとはどのような関係にあるのかを検討したい。地表上から観測されるみかけの太陽の軌道は、主に歳差現象によって約 26,000 年の周期で変動しており、現在の日の出や日の入り方位と過去のそれとは異なっている。さらに現在の黄道傾斜角は 23.4 度であるが、過去 9000 年間は着実な減少局面にある。それが日の出の方位にどの程度の影響を与えるのかが判明すれば、およその理解は可能になる。

 (2) 過去と現在の日の出方位角の変遷
 (p. 64)
 上記の経緯のもと、吉井の手によって約半年間の検討作業がおこなわれた結果、完成されたものが表 3?1〔引用注:表はこのあとで一部を引用〕である。経度については唐古・鍵遺跡の古相大型建物の中心付近(東経 135 度 50 分 00 秒)に固定した。緯度については北緯 23 度を南限とし、北緯 65 度を北限とした。南限は北回帰線付近での様相を知るために設定しており、北限はストーンヘンジ近辺(北緯 51.7 度)より高緯度地帯の様相を比較する目的で設定した。途中に割り振った北緯 32 度は九州南部に、34 度は近畿地方に、36 度は関東地方に、40 度は東北地方北部にそれぞれ対応させる意図をもたせている。
 (p. 65)
 計算結果から導かれる所見を説明すると、紀元前 3000 年の夏至の日の出方位角は北緯 23 度-北緯 57 度の間で 23.84° (50.56° - 26.73° ) の差をもつが、西暦 2016 年の夏至の日の出方位角は北緯 23 度-北緯 57 度の間で 22.86° (48.86° - 26.00° ) の差となり、過去 5016 年間に 0.97° の減少であることがわかる。
 重要なのはここからだが、北緯 34 度地点でみた場合、夏至の日の出方位角は紀元前 3000 年から西暦 2016 年までの間に 0.83° (30.16° - 29.33° ) 減少したことがわかる。いっぽう北緯 57 度地点でみた場合、紀元前 3000 年から西暦 2016 年までの間には 1.70° (50.56° - 48.86° ) 減少となる。
 ようするに高緯度地帯ほど、黄道傾斜角の減少による日の出方位角への影響は高くなり、低緯度地帯ほどその影響は低くなるわけであるが、北緯 34 度地点の場合には 5000 年間で 1° 未満の減少だと見込めることになる。また同様の計算を北緯 32 度地点でおこなえば 0.81° (29.38° - 28.57° ) の減少、北緯 36 度地点では 0.86° (31.02° - 30.16° ) の減少、北緯 40 度地点では 0.93° (33.05° - 32.12° ) の減少、北緯 46 度地点では 1.07° の減少 (37.08° - 36.01° ) となる。

 (3) 学史にたいする若干の考察
 (pp. 70-71)
 カルナック神殿については、…… 夏至の日の出方位角は過去 5016 年間で 0.74° 前後の減少となる。
 ちなみに太陽の視直径は夏至と冬至とでわずかに異なり冬至(近日点)の方が大きくなるが、平均は 0.53° といわれている。したがって日の出方位角が 0.53° 違う場合に、みかけ上の太陽はちょうど 1 個分のズレを生じることになる。カルナック神殿における過去 5000 年間の夏至の日の出方位の変化は、西側から見たとき太陽 2 個分の右方向へのズレに届かず 1.43 個分のズレということになろうか。数字に置き換えると判断は微妙であるが、実際の太陽は視直径の 3 倍程度の範囲に光彩を放つから、視覚上は顕著な差でないともいえる。さらに春分は 0.15° の差、秋分は 0.27° の差となり、視覚上はほとんど動いていない。したがって年間の日の出方位の様相と遺跡の軸線との関係について、相当な絞り込みは可能であった。
 だからこれらの神殿遺跡やピラミッド遺跡において、二至二分の日の出や日の入り方位との深い結びつきが指摘され、それぞれの文化が育んだ暦や祭祀の季節性にかかわる問題が早くから指摘されてきた背景には、こうした地理的環境要因も絡んだからだと理解することが許されるのではあるまいか。
 そして悩ましいのは日本考古学界の動向であることはいうまでもない。縄文時代については、たとえば秋田県大湯環状列石と太陽の運行とが結びつく事実について、比較的早くから指摘されてきた。近年では青森県三内丸山遺跡や石川県真脇遺跡などについても積極的な検討がおこなわれている。さきに紹介した『縄文ランドスケープ』などは、こうした学界動向を代表する著作だといえるだろう。

 3. 天の北極と「北極星」

 (1)「北辰」に星なし
 (pp. 75-77)
 真北の方位を見定めるとき、通常の感覚では夜空に輝く「北極星」の位置を見れば決まると考えるはずである。たしかに現在の北極星(小熊座の α 星)は天の北極に最も近い星であり、赤緯 89 度 15 分に位置している。しかし過去を問題にするとき、このような認識は実態とかけはなれてしまう。夜の星空もまた歳差現象のもと 26,000 年周期をもって変動中であり、地上から北の空をみつめても、不動の「北極星」など存在しなかったからである。
 とはいえ天文学界では常識であっても、それが人文科学に定着するには時間がかかり、歴史学にも深刻な影響があることへの認識が広まるきっかけとなったのは、おそらく福島久雄(物理学・北海道大学)の著作ではないかと思われる。『孔子の見た星空』との表題どおり、福島は古代中国における星空の時代別変遷を再現し、孔子のいう北辰とは特定の星を指したものではなく、ましてや現在の「北極星」ではありえないことを具体的に論証した(福島 1997〔福島久雄 1997『孔子の見た星空 ― 古典詩文の星を読む ―』大修館書店〕)。
 この著作は、ともすれば不動の北極星だと勘違いしている私たちの常識に大幅な修正を迫るものであった。〈ステラナビゲーター〉の存在を私が知ったのは、福島の著作において本ソフトをもちい再現された天体図が数多く掲載されていたことによる。
 そのため本書でも福島の作業にならうこととし、〈ステラナビゲーター (10)〉を使用して歳差現象による極の変動を概観する。その状況を示したものが図 3?3〔引用注:図は省略〕である。図中の半円が歳差円である。半径約 23.4° の円を描いている。そのために、たとえば紀元前 200 年の北天には星がなく、別の星が最近似点に輝いていた。
 (p. 77)
 つまり弥生時代から古墳時代にかけて、天の北極には示準点となる「北極星」は不在だったのであり、空白の極を現在のこぐま座とおおぐま座がはさみつつ、その周囲をめぐる北天の情景だったことがわかる。歳差現象が夜空の情景に与えた作用の一端である。
 なお古代中国では周代から天体の運行が観察された記録があり、諸王朝に仕えた天官のもとで、長い天文観測の蓄積があった。だから北辰信仰とよばれる思想の拠り所となった「北辰」とは、あくまでも天の北極を指すものであって、特定の星を意味する名称ではないことも周知されていた。それゆえのちの時代になっても「北辰に星なし」と指摘されたのである。
〔『古墳の方位と太陽』(pp. 60-77)


 ○ 今回の引用文中〔『古墳の方位と太陽』(p. 65) 〕には、

 重要なのはここからだが、北緯 34 度地点でみた場合、夏至の日の出方位角は紀元前 3000 年から西暦 2016 年までの間に 0.83° (30.16° - 29.33° ) 減少したことがわかる。

と書かれていて、その一覧表 (pp. 66-67)西暦 250 年(p. 66) の箇所には、次の数値が記載されています。

表 3‑1 過去と現在の日の出方位(吉井理作成)
西暦 250 年 北緯 34 度
夏至 + 29.61694791
秋分 + 0.555183842
冬至 - 28.30393068
春分 + 0.257253002


 ◎ これらの数字を四捨五入して小数点以下第一位までを、現在の値と比較計算すれば、

夏至 29.6 - 29.3 = 0.3
冬至 28.3 - 28.0 = 0.3

となって〝夏至〟と〝冬至〟で、いずれも、0.3° の差が見られます。
―― これに、70 ページの記述、

ちなみに太陽の視直径は夏至と冬至とでわずかに異なり冬至(近日点)の方が大きくなるが、平均は 0.53° といわれている。

を合わせて考えると、箸墓古墳築造時と現在とで、おおよそ、太陽の見た目半分程度のズレが生じている、ということになります。
 先に再引用した記述では、専門家の見地から 1° 未満の誤差を許容範囲とするかどうかが論じられていましたけれど、しかしながら現代のカレンダーと比較するという範囲であれば、農作業のカレンダーは、太陽半分程度のズレであれば大きく異ならない、ともいえましょう。

◈ 昨年「箸墓古墳:日輪の祭壇」のページにはまた《箸墓古墳の 中軸線 22.3 度》の意味合いについて、自身の見解としてこう書いていました。


 ようするに、現代のカレンダーには五月中旬頃にその日が書き込めるはずだ、というわけだ。
 では、五月の中旬に、そのあたりで何があるかというとこれもインターネット上の情報で、奈良県のホームページなどでも、「田植えの始まる時期」だということが、確認できるのである。
 そういう次第で、おおまかな話としてだけれども、〝箸墓は五穀豊穣の祭祀に用いられていたのではないか〟という課題が、机上の推論の結果、提案できることとなる。


◉ この内容に対する、大きな変更点は、いまのところなさそうに思われます。


2019年5月24日金曜日

〈暦〉と〈朱鳥〉との関係

 ○ いま一度、中国古典を辞書で調べてみましょう。。

『広辞苑 第四版』

しょきょう【書経】

五経の一。尭舜から秦の穆公(ボクコウ)に至る政治史・政教を記した中国最古の経典。二〇巻、五八編(三三編は今文尚書、二五編は古文尚書)。孔子の編という。成立年代は一定せず、殊に古文は魏・晋代の偽作とされている。初め書、漢代には尚書、宋代に書経といった。

らいき【礼記】

五経の一。周末から秦・漢時代の儒者の古礼に関する説を集めた書。初め漢の武帝の時、河間の献王が礼儀に関する古書一三一編を編述、その後二一四編となったが、戴徳が削って「大戴礼(ダイタイレイ)」八五編を作り、その甥戴聖が更に削って「小戴礼」四九編とした。今の礼記は小戴礼をいう。大学・中庸・曲礼・内則・王制・月令・礼運・楽記・緇衣(シイ)などから成る。「周礼(シユライ)」「儀礼(ギライ)」と共に三礼(サンライ)と称。

 ✥ まず『書経』の冒頭に記述されている〈暦〉の始まりを参照します。

『書経(上)』

「真古文尚書 堯典」

第二節 堯、四岳を任命し、また曆を作る

乃命羲和、欽若昊天、歷-象日月星辰、敬授民時。分命羲仲宅嵎夷曰、「暘谷、寅-賓出日、平-秩東作。日中星鳥、以殷仲春。厥民析、鳥獸孶尾。」 申命羲叔宅南交〔曰〕、「平-秩南訛(敬致)。日永星火、以正仲夏。厥民因、鳥獸希革。」 分命和仲宅西曰、「昧谷、寅-餞納日、平-秩西成。宵中星虛、以殷仲秋。厥民夷、鳥獸毛毨。」 申命和叔宅朔方曰、「(幽都)平-在朔易。日短星昴、以正仲冬。厥民隩、鳥獸氄毛。」 帝曰、「咨、汝羲曁和、朞三百有六旬有六日、以閏月、定四時、成歲。」

乃ち羲和に、欽んで昊天に若つて、日月星辰を歷象し、敬んで民の時を授へんことを命ず。分けて羲仲に嵎夷に宅(=居)るを命じて曰く、「暘谷に、出日を寅賓し、東作を平秩せよ。日は中にして星を鳥にて、以て仲春を殷せ。厥の民は析れ、鳥獸は孶尾せん」と。申ねて羲叔に南交に宅るを命じて〔曰く〕、「南訛を平秩せよ。日は永く星は火にて、以て仲夏を正せ。厥の民は因し、鳥獸は希革せん」と。分けて和仲に西に宅るを命じて曰く、「昧谷に、納日を寅餞し、西成を平秩せよ。宵は中にして星は虛にて、以て仲秋を殷せ。厥の民は夷り、鳥獸は毛毨せん」と。申ねて和叔に朔方に宅るを命じて曰く、「朔易を平在せよ。日は短く星は昴にて、以て仲冬を正せ。厥の民は隩し、鳥獸は氄毛せん」と。帝曰く、「咨、汝羲曁び和、朞は三百有六旬有六日にし、閏月を以て、四時を定めて、歲を成せ」と。

通釈
されば、〔帝堯の政をするさまといえば、まず〕羲氏と和氏とに正しく昊天〔の運行〕にのっとって、日月星辰〔の歩度〕をはかり、〔そうして〕敬[つつし]んで民の時(農耕暦)を教え〔定め〕よ、と命じた。〔すなわち〕わけて羲仲に命じて、嵎夷におらせ、暘谷から、出る日をつつしみみちびいて、東方の作[しごと](春の耕作)を順序立てよ。日の〔長さ〕では昼夜の均等により、星では〔昏[くれ]に現れる〕朱雀によって、春分の日を正せ。〔そうすれば、〕その人民は〔耕作のため野に出て〕分居し〔て耕作にはげみ〕、鳥獣は交尾し子を産んで〔繁殖するであろう〕」といった。それに重ねて羲叔に命じて、南交におらせ、「南方の化[おいたち](夏の耕芸[こううん])を順序立てよ。日では昼の最長により、星では大火によって、夏至の日を正せ。〔そうすれば〕その人民は茵[しとね]を織り、鳥獣は毛がぬけかわって〔成長するであろう〕」といった。〔また〕わけて和仲に命じて、西におらせ、「昧[まい]谷に、入る日をつつしみ餞[おく]って、西方の成[みのり](秋の収穫)を順序立てよ。夜と昼との均等により、星では玄武によって、秋分を正せ。〔そうすれば、〕その人民は〔穀物を〕刈りとり、鳥獣は羽毛が美しくはえかわるであろう」といった。〔それに〕重ねて和叔に命じて、朔方におらせ、「北方の治[おさめごと](冬の収蔵)を順序立てよ。日では昼の最短により、星では白虎によって、冬至の日を正せ。〔そうすれば、〕その人民は室内に入って〔いこい、〕鳥獣は密毛がはえそろうであろう」といった。〔かく命じおえて〕帝は、「ああ、汝、羲氏と和氏よ。朞(一年の日数)は三百と六旬と六日とし、また閏月[うるうづき]を立てて、四時(季)を整えて、一歳とせよ」といった。

語釈
 ◯ 辰 十二辰である。
 ◯ 羲仲 偽孔伝に「居-治スル東方之官」と。東方の方角神。
 ◯ 宅嵎夷 「宅」は偽孔伝は「居」と解する。
 ◯ 暘谷 説文に「暘日出也」、偽孔伝には「日出デテ於谷ヨリ、而天下明ナリ暘谷」と。ここで述べておきたいことは、この部分の全体を通観すると次の表によって明白な如く、四岳一連の記事は、四方支配神の考と、太陽の出没と、四季即ち春夏秋冬の考と、それが人間と動物に与える影響とを混合して記し、四方神が四季神と混合しておる。次に、これまでの句読では、「曰暘谷」「曰昧谷」「曰幽都」三句を、「暘谷と曰ふ」「昧谷と曰ふ」「幽都と曰ふ」と読み、羲仲から和叔までの四段の全文を、すべて地の文に読んでいるが、「曰く」以下は、帝の命じた言葉の文に読むべきである。
 ◯ 寅賓出日 「寅」は「敬」の意。「賓」は「擯」字に読んで「導く」の意。出日と入日を羲と和が導送するというのは、外の伝説で羲和が日の御者、即ち太陽の乗った車の御者と言われている所から来た言葉。
 ◯ 平秩東作 「平秩」は「辨序」で、順序立てる意。「東作」は、この羲仲が東方支配神である所から言われるので、字通りの意は「東方の仕事」で、農作業を言う。 ◯ 日中 春分の日の昼夜の時間の等しい意。鄭玄は「日中トハ者、日見之漏、与不者斉シキ也」と言う。
 ◯ 星鳥 南方の朱雀の七宿を言う。春分の昬に鶉火が悉く見えるから。 ◯ 以殷仲春 偽孔伝に「殷ハ正也」とあって、朱雀の七宿星が昬に南方に見えるによって春分の日を決めた。
〔新釈漢文大系 第25巻『書経(上)』加藤常賢[かとう・じょうけん]/著 昭和58年09月30日 初版 明治書院/発行 (pp. 21-23)

 ⛞ 『書経』の「堯典」には、太陽の運行と星宿=星座の位置に基づいて、四時=四季の巡りを示す〈暦〉が作られた、とあります。〝日中(春分)〟は〝星鳥〟、〝日永(夏至)〟は〝星火〟、また〝宵中(秋分)〟は〝星虚〟で、〝日短 (冬至)〟は〝星昴〟と、記述されているのですけれども、では二至二分(春夏秋冬)を示すそれぞれの星は、どの四象(四神)のもとにある星宿(星座)なのでしょうか?

 ○ 清少納言の『枕草子』(平安中期成立)では、「ひこぼし」とともに「星は すばる」と語られている〝〟ですが、「堯典」では冬至の星で《北方》の星宿になります。ということであれば、〝〟が所属する北の〈白虎〉は冬の星座ということになりますね。


『枕草子 紫式部日記』

「枕草子」

【二五四】
 星は すばる。ひこぼし。ゆふづつ。よばひ星、すこしをかし。尾だになからましかば、まいて。


(頭注)
すばる 昴とかく。倭名抄、一に「宿曜経ニ云フ、昴ハ六星火神也」とある。牡牛座にある散開星団。
ひこぼし 牽牛星の異名。鷲座の主星。天の川を隔てて織女星と相対し、伝説で名高い。
ゆふづつ 夕星。宵の明星、すなわち金星。
よばひ星 流星。「よばふ」は「呼ぶ」の継続表現。
尾だに …… 尾でもないならましてどんなにいいだろう。
〔日本古典文学大系 19『枕草子 紫式部日記』池田龜鑑[いけだ・きかん] 岸上愼二[きしがみ・しんじ] 秋山虔[あきやま・けん] /校注 1958年09月05日 岩波書店/発行 (p. 271)


 ✥ 《西方》の星宿〝〟は〈玄武〉に所属します。〝〟は秋分の星なので、西の〈玄武〉が秋の星座を統括しているということになります。

 ✥ そして《南方》、夏至の星とされる〝〟は解説(上の引用文では省略)に

星火 鄭注に「星火大火之属」と。夏至の昬に大火が東方に見えるを言う。

とあり、福島久雄氏の『孔子の見た星空』の 42~43 ページに掲載されている「図24 二十八宿全図」を見ると、〝大火〟には、蒼龍すなわち〈青龍〉に所属している〝氐・房・心・尾〟の四星宿が含まれています。

 ✥ さらに《東方》、春分の星である〝〟は、

星鳥 南方の朱雀の七宿を言う。春分の昬に鶉火が悉く見えるから。

と解説されていて「図24 二十八宿全図」を見れば、〝鶉火〟には〈朱雀〉に属する〝柳・星・張〟の三星宿が含まれます。春分には〝柳・星・張〟の三星宿が〝ことごとく見える〟ということは、それらが ―― すべて、みな ―― 全部はっきりと見えているということなのでしょう。

◈ ここで多少の注意をしなければならないのは、解説では「南方の朱雀の七宿」とありますが、「堯典」では先ほどの〈青龍〉夏至の星で《南方》の星宿でしたし、また〈朱雀〉に属するのは春分の星で、それは《東方》の星宿なのでした。

 ○ これら〝大火〟と〝鶉火〟の星々については『春秋左氏伝』の記述が、参考になります。


『春秋左氏伝(二)』

「襄公九年」


○ 九年、春、宋災。



晉侯問於士弱曰、吾聞之、宋災。於是乎知有天道。何故。對曰、古之火正、或食於心、或食於咮、以出-內火。是故咮爲鶉火、心爲大火。陶唐氏之火正閼伯居商丘、祀大火而火紀時焉。相土因之。故商主大火。商人閱其禍敗之釁、必始於火。是以日知其有天道也。公曰、可必乎。對曰、在道。國亂舞象。不可知也。


晉侯、士弱に問ひて曰く、吾之を聞く、宋、災あり。是に於てか天道有るを知る、と。何の故ぞ、と。對へて曰く、古の火正は、或は心に食し、或は咮に食し、以て火を出內す。是の故に咮を鶉火と爲し、心を大火と爲す。陶唐氏の火正閼伯、商丘に居り、大火を祀りて火もて時を紀せり。相土之に因る。故に商は大火を主とす。商人其の禍敗の釁を閱するに、必ず火に始まる。是を以て日に其の天道有るを知るなり、と。公曰く、必す可きか、と。對へて曰く、道に在り。國亂るれば象無し。知る可からざるなり、と。

通釈
 九年の春に、宋に火災があった。~~。
 晋の悼公は士弱(士渥濁の子、荘子)に、「わたしは宋では火災があり、それによって禍福を降す天の道があることがわかった、といっていることを耳にしたが、これはどういうわけか」とたずねた。すると士弱は、「古の火正の官にあった人は、あるいは心星の分野の地に封ぜられたり、あるいは咮星の分野の地に封ぜられたりして、火星の出没を観測して民に火の出納を命ずることをつかさどりました。このことから咮星を鶉火と呼び、心星を大火と呼ぶのです。陶唐氏(堯)の火正の官であった閼伯は商丘におって大火を祭り、火星の出没を観測して火を起こしたり消したりすべき時期を記録しました。その後、(商の祖先の)相土は閼伯の後を継いで商丘で火星の観測をしました。そこで商(殷)は大火を祭ることを重んじたのです。商の人は自国に起きる災禍の原因を調査してみると、きまって火災のことから始まっているので、そこで今度もその火災が禍を予告する天の道であるということを知ったものと思います」と答えた。そこで悼公は、「きっと禍がやってくるものか」というと、士弱は、「禍の有無はその国に道が行われているか否かによります。国が乱れていると様々な禍がおこるもので一定しておりません。だからどんな禍が起きるかわかりません」と答えた。

語釈
 ◯ 火正 火の出納をつかさどる官。火星の出没を観測して、民に火の出納を命ずる役人。杜注は、建辰の月(三月)の日暮れに、鶉火星(咮星)が南方に見えると、民に火を出させ、建戌の月(九月)に大火星(心星)が見えなくなれば、民に命じて火を納れ、火を放つことを禁じた、という。
 ◯ 或食於心、或食於咮 杜注は、心星の祭りに配食されたり咮星の祭りに配食されたりされると解する。…… なお、心星は東方七星(蒼龍の宿という)の一つで、七星中最も明るく、大火または大辰ともいう。咮星は南方七星(朱鳥の宿ともいう)の一つで柳星とも鶉火ともいう。
〔新釈漢文大系 第31巻『春秋左氏伝(二)』鎌田正[かまた・ただし]/著 昭和49年09月10日 初版発行 平成10年11月20日 18版 明治書院/発行 (pp. 878-881)


 ⛞ この解説文では「鶉火星咮星)」とあり「咮星は南方七星朱鳥の宿ともいうの一つで柳星とも鶉火ともいう」とありますので、日中(春分の)〝星鳥=鶉火〟は、〈朱雀〉の〝柳宿〟であるようにも理解できます。そしてまた「大火星心星)」とありますので、こちらは〈青龍〉の〝心宿〟となります。

 ○ ただし、『孔子の見た星空』の 46 ページに紹介されている内容では「鳥〈張〉宿」とされていて、〝星鳥〟とは、〈朱雀〉の〝張宿〟であるという解釈もあります。


『東洋天文学史論叢』

「禮記月令天文攷」

(初出:『硏究報吿第十二册』東方文化硏究所、昭和 13 年)

六 月令より觀たる堯典の天象

然らば星鳥とは如何といふに、旣に東・北・西の三方宿の中央を擧げたれば略〻南方七宿の中央を指すものとは容易に想像さるべく、而も南方七宿は、朱雀と稱せられ、卽ち、鶉首・鶉火・鶉尾の三次に當てられたり。故に其の中央の鶉火を以て星鳥を代表せしめて可なり。而して鶉火の中央は張宿の初度に當れるを以て、結局、星鳥とは張宿なりと見て可なるべし。
〔能田忠亮/著『東洋天文学史論叢』平成元年11月15日 恒星社厚生閣/発行 (p. 530)

 ✥ またいっぽうで、先に参考とした『孔子の見た星空』の「図24 二十八宿全図」と南方朱雀の項 54~55 ページに書かれている内容を合わせると、〝鶉火〟のなかでもっとも目立つ星は、〝星宿( 7 星)〟の距星(各宿の初点をあらわす星)にあたる「うみへび座 α 」であると予想されます。
―― ちなみに、〝柳宿( 8 星)〟の距星は「うみへび座 δ 」で、〝張宿( 6 星)〟の距星は「うみへび座 υ 」となっていて、全体として〝鶉火〟の星宿は「うみへび座」の構成要素となっているようです。

◉ 『書経』に記録される「堯典」の時代には、

東方 春分 朱雀(鶉火)
南方 夏至 青龍(大火)
西方 秋分 玄武(虚宿)
北方 冬至 白虎(昴宿)

だったのが、『淮南子』では、

東宮 蒼龍(房・心)
南宮 朱鳥(権・衡)
西宮 咸池(天五潢)
北宮 玄武(虚・危)

となっています。

 ⛞ 太陽の運歳差運動の関係で、四季の星座が次第にずれていくため、いつしか当時の四神(四象)と後代の季節とは、一致しなくなってしまうのです。

 ◈ かくして中国古典の記録にある〈暦〉の始まりのとき、最初に、春は〈朱雀〉の星群である〝〟と関連づけられていたということが、ここまでで理解できました。

 ○ そして、辞書で調べたもうひとつの中国古典『礼記』には、「天子(君主)は南面する」の慣例にしたがって、君主が行軍する際の先導役には《南面の朱鳥(朱雀)》が配置されるべきことが記録されています。


『礼記(上)』

「禮記 曲禮上第一」

◯ 前有水、則載靑旌。前有塵埃、則載鳴鳶。前有車騎、則載飛鴻。前有士師、則載虎皮。前有摯獸、則載貔貅。行、前朱鳥而後玄武、左靑龍而右白虎、招搖在上、急-繕其怒。進退有度、左右有局、各司其局。


◯ 前に水有れば、則ち靑旌を載つ。前に塵埃有れば、則ち鳴鳶を載つ。前に車騎有れば、則ち飛鴻を載つ。前に士師有れば、則ち虎皮を載つ。前に摯獸有れば、則ち貔貅を載つ。行けば、朱鳥を前にして玄武を後にし、靑龍を左にして白虎を右にし、招搖上に在り、其の怒を急繕す。進退度有り、左右局有り、各其の局を司る。

通釈
 ◯ 進軍の前方に川を見たら青旗を掲げて、全軍に知らせ、前方に砂ぼこりの群がるのを見たら鳴くとびの旗で知らせ、敵の戦車や騎兵を見たら飛ぶ鳥の旗で知らせ、多くの敵軍を見たら虎の皮を掲げて知らせ、また敵の用いる猛獣を見たら、猛獣の旗で知らせる。―― 行軍には、先頭の軍は朱鳥の旗を立て、後尾の軍は玄武(かめ)の旗を立て、左翼は青竜の旗を、右翼は白虎の旗を立てる。そして中軍は招揺星(北斗七星)の旗を立てる。(行軍の間に機会を見つけて)軍の闘志を激しく掻き立てることに努めるが、しかし軍の進退は必ず節度を守らせ、前後左右それぞれの持ち場をわきまえて、持ち場の任務を怠らぬようにさせねばならぬ。

語釈
 ◯ 載飛鴻 載は車上に載せあげること。鴻はがんの類。 ◯ 士師 ここでは兵士や師旅。師旅とは軍団の意。 ◯ 貔貅 虎や豹の類。 ◯ 前朱鳥 …… 招揺在上 朱鳥は朱雀とも言い、南方の象徴。行軍の現実の方向はともかくとして、君主は南面することを原則とするから、先頭の軍は南方の旗を掲げる。玄武は北、青竜は東(左)、白虎は西(右)。 ◯ 招揺 北斗七星のこと。君主は中軍に居り、北斗七星は四方を指示する位置、即ち中央の象徴。 ◯ 急繕 激しくし強くする。急は激。繕は補強。
〔新釈漢文大系 第27巻『礼記(上)』竹内照夫/著 昭和46年04月25日 初版発行 平成10年09月25日 22版 明治書院/発行 (pp. 45-46)

 ✥ まとまりつかぬ様相のまとめとして、前回にも参照した語句の意味を再掲しておきましょう。

『広辞苑 第四版』

しじんそうおう【四神相応】

四神に相応じた最も貴い地相。左方である東に流水のあるのを青竜、右方である西に大道のあるのを白虎、正面である南に汙地(クボチ)のあるのを朱雀、後方である北方に丘陵のあるのを玄武とする。官位・福禄・無病・長寿を併有する地相で、わが国の平安京はこの地相を有するとされた。四地相応。


Google サイト で、本日、もう少し詳しい内容のページ公開しました。

日告げの宮 : 北辰の星 ― ほくしんのほし ―
https://sites.google.com/view/hitsuge/arcus/hokushin

―― もう少し詳しい内容のページを、以下のサイトで公開しています。

日告げの宮 : 北の果なる《竜座 α 星》
http://theendoftakechan.web.fc2.com/eII/hitsuge/hokushin.html

日告げの宮 : 鳥の百官 /〈暦〉と〈鳥〉の職制
http://theendoftakechan.web.fc2.com/eII/hitsuge/ecliptic.html

2019年5月21日火曜日

北辰の龍 ― ほくしんのりゅう ―

【前回の続きになります】
※ 前回分の修正事項(原文をコピーした文字だと、多少読みにくかったため)
CD-ROM 版『広辞苑 第四版』より
さいさうんどう【歳差運動】の項
*周期は二万五八○○年。⇒ 周期は二万五八〇〇年。
ほっきょくせい【北極星】の項
*光度二・○等の星。⇒ 光度二・〇等の星。

The End of Takechan

⛞ さて前回に書いた、いまから約 5,000 年前は、竜座の α トゥバンが〈北辰〉に 0.1° と迫った時期だったというのは、1997 年に発行された福島久雄氏の『孔子の見た星空』の 14 ページに説明されていた内容なのですけれども、その前後の記述内容につきましては、また今後に参照するとして、その少しあとのページに、天宮の四神(四象)が、重要な主題のひとつとして語られています。


『孔子の見た星空』

二 季節の星々

 (p. 40)
 二十八宿は、黄道近くにある二十八の星座(星官)である。二十八宿については次節でくわしく述べるが、大きく四象(蒼竜[そうりゅう]・白虎[びゃっこ]・朱雀[しゅじゃく]・玄武[げんぶ])に分かれる。またそれぞれの宿は、その近辺の星座を所属させる。たとえば、角宿ならば一一の星座を統括する。

 二十八宿

 (pp. 40-41)
 二十八宿とは、太陽の運行する黄道付近に二八の星座を置き、太陽や月の動きをはかる目安にしたものである。西洋の、黄道十二宮に当たるものであるが、ただ、中国の二十八宿は発生的には、座標は黄道ではなく赤道を基準とした。
 「宿[しゅう]」とは、文字通り「やどる」の意味であり、中国古典の星座をいうときに用いられているが、古くは「宿」ではなくて「舎[しゃ]」であった。『史記』律書では、「二十八舎」といい、「舎は、日月の舎[やど]る所」という。『晋書』天文志でも、「二十八舎」の項目をたてる。『史記』の唐代の注である『史記索隠[さくいん]』では、「舎は止[とどま]る。宿は次[やどり]なり」という。
 なおこの「星の宿[やどり]」、星宿の場合、とくに二十八宿の宿は「しゅう」(漢字音シウで去声)に読まれる。宿願、宿舎などの宿が「しゅく」(漢字音シュクで入声)であるのとは違うことを知っておく必要がある。
 二十八宿(舎)がいつできたかについては、正確なことはわからないが、およそ周代の初めの頃といわれており、その目的は前述のとおり星の位置により、日月惑星の運行を正しく観測することであった。二十八という数は、月が天球を回るのに恒星に対して二十七・三日かかるので、それに近い数として黄道を二十八に分け、一日一宿として二十八宿を決めていったのである。これを利用して、たとえば、昨日は月が〈角宿〉に来たとか、今日は〈房宿〉に来たとかいうようにして、月の運行を星宿を基準として記録していったのである。
 だが、月の場合はよいとして、太陽はどこの星座にあるのか直接観測することはできない。そこで、太陽の位置を知るために、月と太陽が同一星座に位置する朔日(旧暦の一日、新月)を目安にする。もちろん、朔日は闇夜で月は見えないから、三日月の位置から二日遡[さかのぼ]って星宿を推定することによって、朔日、つまりは二日前の太陽の位置を知るのである。朔という字は、月の行程を遡って太陽の位置を知る「溯[さかのぼる]」から来ているという(1)。

 (p. 45)
 では、なぜ日月の運行を知る必要があったか。それは、正確な暦を作るためである。人類は、農耕を始める以前でも、動物の移動、魚類の遡上、果物の採取等、季節を知ることは生活上重要なことであった。一方で人々は、太陽の高度の変化から、冬至・夏至を認識し一年の周期を知ったであろう。さらに一年間で太陽が黄道を一周することに気づき、黄道上での太陽の移動を観測することにより、いっそう精密に季節を知り、正確な暦を作ることが可能になったのである。

 二十八宿の四方配分

 (pp. 45-47)
 『史記』天官書は、二十八宿を七宿ずつ東西南北の四宮に分けて、蒼竜[そうりゅう]・白虎[びゃっこ]・朱雀[しゅじゃく]・玄武[げんぶ]の四象を配当する。本来、回転する二十八宿を、四方に分割することは理屈に合わないことであるが、仮に、蒼竜の象の始め〈箕〉に春分点があったときに、これらの象を決めたとすれば五行の配当により、春は東ということになる。しかし、箕宿に春分点があったのは、数万年前であり、それでは四方分割が有史以前ということになってしまいおかしい。
 では、いったいどのようにして四方を定めたのであろうか。四書五経の一つ『書経』堯典によれば、次の宿がそれぞれ二分二至(春分・夏至・秋分・冬至)に南中することを観測して暦を定めたのだという。仲春は、

日[ひる]は中[ひと]しく星は鳥、以て仲春を殷[ただ]す(昼夜の長さが等しく、鳥〈張〉宿が南中する)

続いて、仲夏は〈火〉(大火心宿)、仲秋は〈虚〉、仲冬は〈昴〉と、その目安とする星宿をあげる。清の学者戴震[たいしん]は、この「日中鳥星以殷仲春」に着目して、四象を決めたのは、堯典の時代であるという(2)。つまり、南に「鳥」朱雀があるから、蒼竜は東、白虎は西、玄武は北と決まる。
 一方で、能田博士は、時代により南中する星も変わるので、いまから歳差を逆算することによって堯典の記述の時代を推定した(3)。それによると、これらの天象は、紀元前二〇〇〇年頃見られるという。
 つまり、二十八宿の四方配分は、今から四千年前に決められたといってよい。その後、歳差によって二分二至に南中する星が変わってしまったとしても、たとえば〈角宿〉〈尾宿〉という星座名は、蒼竜のそれに由来するのであるから(図33〔引用注:図は省略〕)、東宮の蒼竜の名称は変えようがない。したがって、四象は当然のことながら現代の季節とは無関係なものである。もちろん、東西南北とも関係がない。二十八宿の星は、日周運動により、東から西へと移動するのであるから、いかに東方蒼竜の象とはいえ東にばかり見えるわけではない。しかし、ときどき注釈書で方角を示していると訳注するものがあり、読者に誤解を与えることがある。訳ばかりではなく、注釈者自身が本当にその方角にあると思っているのではないかと思われる例もある。

[注]
1 内田正男『こよみと天文今昔』(丸善)
2 戴震が「続天文略巻上」で論じた説。「続天文略巻上」の解釈は、近藤光男『戴震集』(朝日新聞社 中国文明選 8 p.460)によった。
3 能田忠亮「月令より観たる堯典の天象」(『東洋天文学史論叢』所収)
〔福島久雄/著『孔子の見た星空』より〕


The End of Takechan

《四神二十八宿》


 ○ 蒼龍の語句は『史記』に書かれていることは前にも述べましたが、いっぽうの青龍は、『淮南子』の索引を見ると三度出てきます。ここらで、四神・二十八宿の意味と、中国古典の成立年代などを辞書で調べておきましょう。


『広辞苑 第四版』

しじん【四神】

①四方の神、すなわち東は青竜、西は白虎(ビヤツコ)、南は朱雀(シユジヤク)、北は玄武(ゲンブ)の称。四獣。
②中国で、四季を神に配した称。春を句芒(コウボウ)、夏を祝融、秋を蓐収(ジヨクシユウ)、冬を玄冥(ゲンメイ)という。

しじんそうおう【四神相応】

四神に相応じた最も貴い地相。左方である東に流水のあるのを青竜、右方である西に大道のあるのを白虎、正面である南に汙地(クボチ)のあるのを朱雀、後方である北方に丘陵のあるのを玄武とする。官位・福禄・無病・長寿を併有する地相で、わが国の平安京はこの地相を有するとされた。四地相応。

にじゅうはっしゅく【二十八宿】

①黄道に沿って、天球を二八に区分し、星宿(星座の意)の所在を明瞭にしたもの。太陰(月ツキ)はおよそ一日に一宿ずつ運行する。中国では蒼竜(東)・玄武(北)・白虎(西)・朱雀(南)の四宮に分け、更に各宮を七分した。東は角(スボシ)・亢(アミボシ)・氐(トモ)・房(ソイ)・心(ナカゴ)・尾(アシタレ)・箕(ミ)、北は斗(ヒキツ)・牛(イナミ)・女(ウルキ)・虚(トミテ)・危(ウミヤメ)・室(ハツイ)・壁(ナマメ)、西は奎(トカキ)・婁(タタラ)・胃(エキエ)・昴(スバル)・畢(アメフリ)・觜(トロキ)・参(カラスキ)、南は井(チチリ)・鬼(タマホメ)・柳(ヌリコ)・星(ホトホリ)・張(チリコ)・翼(タスキ)・軫(ミツカケ)。
② 1 のうち、牛宿を除いた二十七宿を月日にあてて吉凶を占う法。宿曜道の系統の選日。

えなんじ【淮南子】

①前漢の学者。姓は劉、名は安。漢の高祖の孫。淮南(ワイナン)厲王劉長の子。淮南王をつぐ。のち叛を謀って自殺。(―~前122)
②劉安の著した「鴻烈」の現存するもの二一篇をいう。老荘の説に基づいて周末以来の儒家・兵家・法家などの思想をとり入れ、治乱興亡・逸事・瑣談を記載する。

しき【史記】

二十四史の一。黄帝から前漢の武帝までのことを記した紀伝体の史書。本紀一二巻、世家三〇巻、列伝七〇巻、表一〇巻、書八巻、合計一三〇巻。前漢の司馬遷著。紀元前九一年頃に完成。ただし「三皇本紀」一巻は唐の司馬貞により付加。注釈書に、南朝宋の裴駰(ハイイン)の「史記集解」、司馬貞の「史記索隠」、唐の張守節の「史記正義」、明の凌稚隆の「史記評林」などがある。太史公書。


 ✥ 原典として、まず『淮南子』にある《青龍》の記述を一ヶ所参照します。

新釈漢文大系 第62巻

『淮南子(下)』

「卷十五 兵略訓」

十四

所謂天數者、左靑龍、右白虎、前朱雀、後玄武。

所謂天數とは、靑龍を左にし、白虎を右にし、朱雀を前にし、玄武を後にするなり。
(いはゆるてんすうとは、せいりょうをひだりにし、はくこをみぎにし、しゅじゃくをまへにし、げんぶをうしろにするなり。)

通釈
 いわゆる天の数とは、左側に青龍[せいりょう]、右側に白虎[びゃくこ]、前方に朱雀[すじゃく]、後方に玄武が配されていることをいう。
語釈
 ◯ 天数 数は法則・道理。 ◯ 左青龍、右白虎、前朱雀、後玄武 「朱雀」を、北宋本は「朱鳥」に作る。青龍・白虎・朱雀(鳥)・玄武は、東西南北の星宿の呼び名。四神獣と称し、四神は天帝の守護とされる。『呉子』治兵篇に「三軍の進止、豈に道あるか」という武侯の問いに対して呉子が答える文中に同文が見え、また『礼記』曲礼上には「行けば(進軍するときは)、朱鳥を前にして玄武を後にし、青龍を左にして白虎を前にし ……」とあり、その注に「此の四獣を以て軍陳(陣)と為すは、天に象(かたど)るなり」、疏に「此れ軍行、天文に象り、陳法を作(な)すを明らかにす」とある。以上から知られるように、この記述は前後左右の軍隊を天の星宿になぞらえることを意味するものであって、四軍は、それぞれ青龍・白虎・朱雀・玄武を画いた旗を持つことから四者は旗の名称ともなっている。
〔楠山春樹/著『淮南子(下)』新釈漢文大系 第62巻 昭和63年06月10日初版・平成10年04月01日7版 明治書院/発行 (pp. 866-868)


 ✥ 『淮南子』の解説で参照されている『礼記』曲礼上の記事は、『書経』堯典の記事「日中星鳥、以殷仲春」(日は中・星は鳥、もって仲春をただす)と合わせて、次回にあらためて確認することとし、今回の最後に『史記』で語られた四神の記述の概略を見ておきたいと思います。

新釈漢文大系 第41巻

『史記 四(八書)』

「天官書 第五」

中宮天極星。其一明者、太一常居也。旁三星三公。或曰、子屬。後句四星、末大星正妃、餘三星、後宮之屬也。環之匡衞十二星、藩臣。皆曰紫宮。前列直斗口三星、隨北端兌。若見若不曰陰德。或曰天一。紫宮左三星、曰天槍、右五星曰天棓。後六星、絶漢抵營室、曰閣道。
北斗七星、所謂旋璣玉衡、以齊七政。杓擕龍角、衡殷南斗、魁枕參首。用昏建者杓。杓自華以西南。夜半建者衡。衡殷中州河濟之間。平旦建者魁。魁海岱以東北也。斗爲帝車、運于中央、臨-制四鄕。分陰陽、建四時、均五行、移節度、定諸紀、皆繫於斗。

中宮は天極星。其の一の明らかなる者は、太一の常居なり。旁らの三星は、三公なり。或いは曰く、子の屬なりと。後ろの句する四星は、末の大星は、正妃、餘の三星は、後宮の屬なり。之を環りて匡衞する十二星は、藩臣なり。皆、紫宮と曰ふ。前列は斗口の三星に直たり、北端に隨つて兌なり。若しくは見れ若しくは不らざるは、陰德と曰ふ。或いは天一と曰ふ。紫宮の左の三星を天槍と曰ひ、右の五星を天棓と曰ふ。後ろの六星は、漢を絶り營室に抵る、閣道と曰ふ。
北斗の七星は、所謂旋璣玉衡、以て七政を齊ふるものなり。杓は龍角に擕なり、衡は南斗に殷たり、魁は參首に枕す。昏を用つて建する者は杓なり。杓は華より以西南なり。夜半に建する者は衡なり。衡は中州河濟の間に殷たる。平旦に建する者は魁なり。魁は海岱より以東北なり。斗を帝車と爲し、中央に運り、四鄕を臨制す。陰陽を分かち、四時を建て、五行を均しくし、節度を移し、諸紀を定むる、皆、斗に繫る。
(ちゅうきゅうはてんきょくせい。そのいちのあきらかなるものは、たいいつのじゃうきょなり。かたはらのさんせいは、さんこうなり。あるいはいはく、このたぐひなりと。うしろのこうするしせいは、すゑのたいせいは、せいひ、よのさんせいは、こうきゅうのたぐひなり。これをめぐりてきゃうゑいするじふにせいは、はんしんなり。みな、しきゅうといふ。ぜんれつはとこうのさんせいにあたり、ほくたんにしたがつてゑいなり。もしくはあらはれもしくはしからざるは、いんとくといふ。あるいはてんいつといふ。しきゅうのひだりのさんせいをてんさうといひ、みぎのごせいをてんぼうといふ。うしろのろくせいは、かんをわたりえいしつにいたる、かくだうといふ。
ほくとのしちせいは、いはゆるせんきぎょくかう、もつてしちせいをととのふるものなり。しゃくはりょうかくにつらなり、かうはなんとにあたり、くわいはさんしゅにまくらす。くれをもつてけんするものはしゃくなり。しゃくはくわよりいせいなんなり。やはんにけんするものはかうなり。かうはちゅうしうかせいのあひだにあたる。へいたんにけんするものはくわいなり。くわいはかいたいよりいとうほくなり。とをていしゃとなし、ちゅうあうにめぐり、しきゃうをりんせいす。いんやうをわかち、しいじをたて、ごぎゃうをひとしくし、せつどをうつし、しょきをさだむる、みな、とにかかる。)

通釈
 天の中宮は北極星座である。その中の最も明るいのは太一といい、太一(の神)がいつも居るところである。その傍らの三星は三公といい、太一の子の一属ともいう。太一のうしろで曲がって列[なら]ぶ四つの星のうち最も端の大きな星が正妃で、他の三星は後宮のものたちである。天極星をめぐって内をただし外を護る十二星は藩屛の臣で総称して紫宮という。その前列で北斗の口に当たる三星で、北の端が鋭く出っぱり、見えたり隠れたりするのを陰徳とか、また天一ともいう。紫宮の左の三星は三槍といい、右の五星を天棓という。そのうしろの六星で、天の河を横ぎり、営室まで連なているのを閣道と名づける。
 北斗七星はいわゆる旋・璣・玉衡などの七星で、日月五星(火・水・木・金・土)を斉えることをつかさどるといわれている。(七星の中の第五から第七の)杓の部分は東の方竜角に連なり、衛星は南斗に対応し、魁星は参星の先端に対している。夕方に寅の方向をさすのは杓星で、杓は土地で言えば華山から西南の地をつかさどる。夜半に寅をさすのは衡星で、中原の黄河・済水の間の地に当てられる。夜明けに寅をさすのは魁星で、渤海・泰山から東北の地方をつかさどる。北斗は天帝の乗車で、天帝はこれに乗って天の中央をめぐり、四方を統一し、陰陽を分け、四季を立て、五行の活動をなめらかにし、季節を移すなどもろもろの政法を定むるなどは皆北斗にかけられた仕事である。
語釈
 ◯ 太一 泰一。天帝の別名。天神の最尊貴名である。 ◯ 三公 太師・大傅・太保。 ◯ 後句 「句」は曲屈。 ◯ 匡衛 「匡」は内を正し、「衛」は外を守る。 ◯ 北斗七星・旋璣玉衡 書経堯典が出典。「七星」とは枢・旋・璣・権・玉衡・開陽・揺光。枢から権までの四つを「旋璣」といい、玉衡から揺光までの三星を「玉衡」という。北斗星の別称である。七星とは日・月・火・水・木・金・土で日月五星。 ◯ 杓 北斗星の杓。 ◯ 擕竜角 東方の星宿に連なる。 ◯ 衡殷南斗 玉衡星は中央にあたる。「殷」は中(あ)たる。

東宮蒼龍、房・心、心爲明堂。大星天王。前後星子屬。

東宮は蒼龍、房・心、心を明堂と爲す。大星は、天王。前後の星は子の屬。
(とうきゅうはさうりょう、ばう・しん、しんをめいだうとなす。たいせいは、てんわう。ぜんごのほしはこのたぐひ。)

通釈
 東宮は蒼竜星で、房・心の二星がその代表で、心星は天子が政治を執る明堂にあたる。その中の大きな星が天王星である。その前後の星はその子供たちになる。
語釈
 ◯ 東宮 東方の星座のことで、北極星より四十度以南にある。角・亢・房・心・氐・尾・箕の七宿を包含して総称を蒼竜星どいう。 ◯ 明堂 王者が政を執る堂。 ◯ 大星 心の三星の中の大きい星。その前の星を太子とし、後の星を庶子とする。ゆえに後文に「子属」とある。
〔吉田賢抗/著『史記 四(八書)』新釈漢文大系 第41巻 平成07年05月20日初版・平成10年04月01日再版 明治書院/発行 (pp. 145-146, pp. 148-149)

The End of Takechan


◉ 『史記』「天官書」の冒頭にある、

前列直斗口三星、隨北端兌。若見若不曰陰德。或曰天一。
その前列で北斗の口に当たる三星で、北の端が鋭く出っぱり、見えたり隠れたりするのを陰徳とか、また天一ともいう。

という記事ですが、これは『孔子の見た星空』35 ページの[注]でも参照されていて、

[注] 14
 りゅう座 κ について、『史記』天官書の〈天一〉とは、「北斗の口の先にある三星は、北に随て鋭[とが]って(三角形)おり、見えるが若く見えざるが若き(星で)陰徳といい、〈天一〉と云う」というので、りゅう座の κ λ を含む三星で、κ が〈天一〉であろう。

とあるように、その記事内容には、竜座の星々の一部が含まれていると考えられます。

 ✥ 奇(く)しくも、竜座のしっぽ、κ 星と λ 星が、北斗七星が形作るひしゃくの口の、ちょうど正面に位置するのです。α トゥバンの隣が κ で、しっぽのさきっちょが λ になります。そして、

北斗七星、所謂旋璣玉衡、以齊七政。杓擕龍角、衡殷南斗、魁枕參首。
北斗七星はいわゆる旋・璣・玉衡などの七星で、日月五星(火・水・木・金・土)を斉えることをつかさどるといわれている。(七星の中の第五から第七の)杓の部分は東の方竜角に連なり、衛星は南斗に対応し、魁星は参星の先端に対している。

の文中にある杓擕龍角 杓は龍角につらなり」の記述は、北斗七星の第七星から、その南の空へと辿れば、東方の守護神〈蒼龍〉の星宿《(すぼし)》と《(あみぼし)》がちょうど位置しているということを示しますが、ただし「龍角」の〝〟は宿星の《(すぼし)》のことではなくて〝はじまりのかどっこ〟的な意味のようです。


―― 前回と合わせ、もう少し詳しい内容のページを、以下のサイトで公開しています。

日告げの宮 : 北の果なる《竜座 α 星》
http://theendoftakechan.web.fc2.com/eII/hitsuge/hokushin.html

2019年5月17日金曜日

北の果なる《竜座 α 星》

 歳差運動のことを調べてみました。

 大熊座にある北斗七星が、天の極北の頂点 ――〈北辰〉―― に最接近したのは、どうやら今から 5,000 年くらい前のことのようです。当時は、座の α トゥバンが、〈北辰〉0.1° と迫った時期でした。

―― もしかして以前に調べていた、

旧約聖書の〈 暁の星 ― あかつきのほし ― 〉で紹介した「ヨブ記」とか、
「イザヤ書」の〈北の果なる集会の山〉というのは、

  その時代に、〈北辰〉に君臨した《竜座 α 》を夜の闇のなかで、象徴としていたのかも知れません。
  その時代以降、天の北の宮に立った竜 ―― 天空の竜は、天の中心から少しずつ離れていったのでした。


〈旧約聖書 ⅩⅡ〉

『ヨブ記 箴言』

「ヨ ブ 記」並木浩一訳

 (p. 87)
23-9
 北でも彼は身を隠しており一〇、彼を見ることができない、
 私が南に転じても、彼とは出会えない。

一〇 北西セム族では神の在所は「北の山」であると考えられていた。その山は「ツァフォーン」と呼ばれ、イスラエルも神の山を示す言葉として採択した(二六 7)。この語の動詞の基本的語義は「隠す」であり、この意味で使用されている(一〇 13、二四 1)。神話に批判的なヨブ記作者は、ここではこの語の神話的な使用を避けている。

 (p. 93)
26-7
 北の山一六を空虚の上に張り、
 地を何もないところに架ける一七

一六 「北の山」ツァフォーン。23-9 の注 一〇 参照。
一七 神が空虚な空間の上に地を創造したとの考えは、旧約聖書中でここだけに見られる。
〔旧約聖書翻訳委員会/訳『ヨブ記 箴言』 2004年03月26日 岩波書店/発行


『聖書』口語訳

旧約聖書「イザヤ書」第一四章

 (p. 961)
 一二
  黎明の子、明けの明星よ、
  あなたは天から落ちてしまった。
  もろもろの国を倒した者よ、
  あなたは切られて地に倒れてしまった。
 一三
  あなたはさきに心のうちに言った、
  『わたしは天にのぼり、
  わたしの王座を高く神の星の上におき、
  北の果なる集会の山に座し、
 一四
  雲のいただきにのぼり、
  いと高き者のようになろう』。
 一五
  しかしあなたは陰府[よみ]に落され、
  穴の奥底に入れられる。
〔日本聖書協会『聖書』口語訳 「旧約聖書」 1955年改訳〕


『聖書 新共同訳』

 旧約聖書「イザヤ書」

 (pp. 1082-1083)
14. 12-14
 ああ、お前は天から落ちた
 明けの明星、曙の子よ。
 お前は地に投げ落とされた
 もろもろの国を倒した者よ。
 かつて、お前は心に思った。
 「わたしは天に上り
 王座を神の星よりも高く据え
 神々の集う北の果ての山に座し
 雲の頂に登って
 いと高き者のようになろう」と。
〔共同訳聖書実行委員会『聖書 新共同訳』 旧約聖書続編つき 2001年 日本聖書協会/発行〕

『新共同訳 旧約聖書注解Ⅱ』

 「イザヤ書」 注 解

 一四・三-二三 バビロンの滅亡

 (p. 288)
 第三小節(一二-一五節)では、天の王座に着こうとしたバビロンが宇宙的表象によって描かれている。ここでも冒頭に「エーヒ」という詠嘆の間投詞が置かれている。ネブカドレツァルが建設した壮麗をきわめるバビロンの都と、神のようにそこに君臨した王の有様がここで神話的表象によって描かれている。《明けの明星》と訳されたヘブライ語「ヘーレール」は単に「輝くもの」を意味するに過ぎないが、英語ではこのイザヤ書の言葉から「ルーシファー」という神に逆らう反逆の天使、魔王という表象が生まれた(一二節)。一三節の《北の果ての山》は古代オリエント以来、神々の集う山とされている。ギリシア神話でこれに相当するのは、オリンポスの山である。詩四八・三の《北の果ての山》もこれと同じ表象である。一四節の《いと高き者》はヘブライ語で「エルヨーン」というが、申三二・八などでは、ヤーウェの称号とされ《いと高き神》と訳されている。
〔監修=高橋虔/B.シュナイダー 編集=石川康輔/木田献一/左近淑/野本真也/和田幹男『新共同訳 旧約聖書注解Ⅱ』 1994年11月20日 日本基督教団出版局/発行〕


The End of Takechan

 ◯ さて天の北の宮の、歳差運動のことでした。偶然にも手元に CD-ROM に収録された『広辞苑 第四版』があったりするので、「歳差運動」の意味を辞書でも確認しておきましょう。

『広辞苑 第四版』

さいさうんどう【歳差運動】

(precession)
①傾いて回っているこまの心棒に見られる、すりこぎのような円錐運動。
②地球の自転軸が黄道面に垂直な軸の回りに行うすりこぎ運動。月・太陽の引力によって起る。周期は二万五八〇〇年。

 ◯ 簡便さのあまりに、「北極星」を調べてみると、次のように書かれていました。

『広辞苑 第四版』

ほっきょくせい【北極星】

(Polaris ラテン) 天球の北極に近く輝く星で、小熊座の首星。日周運動によってほとんど位置を変えないので、方位や緯度の指針となる。黄色で、光度二・〇等の星。子(ネ)の星。

 ◯ はたまた「北斗七星」を調べてみると、北斗星に同じ、とあって、「北斗星」の項には次のように書かれています。

『広辞苑 第四版』

ほくとせい【北斗星】

(Dipper) (七つが並んで斗ヒシヤク状をなすのでいう) 北天の大熊座にある七つの星。斗柄に当る第七星を揺光といい、一昼夜に十二方を指すため、古来これによって時を測った。北斗。北斗七星。七つの星。


  『史記』では蒼龍(そうりょう)と記述されている青龍(せいりょう)は、中国では古来、東方の守護神でありますが、偶然にもおもしろいことには、遷移した《天空の龍》もまた、現在の北の空で北斗七星の東側に配されて、天の北極 ――〈北辰〉の周囲を巡っているわけなのです。

 最初に書いた、座の α トゥバンが、天の北極に 0.1° と迫った時期だったというのは、福島久雄氏の『孔子の見た星空』〔1997年03月20日 大修館書店/発行〕の 14 ページに、挿図付きで説明されていた内容です。

⛞ その『孔子の見た星空』の内容が〈北辰〉とか、歳差運動のことにとても詳しく、かなり参考になりましたので、今後の記憶のためにも、次回はその冒頭の解説などを参照してみたいと思います。

2019年5月10日金曜日

鳥の百官 /〈暦〉と〈鳥〉の職制と

○ 萩原秀三郎氏の論を参照すると、『春秋左氏伝』には鳥と暦との関係について記述が見られるとあります。それは次の通りです。

『稲と鳥と太陽の道』

第Ⅰ章 太陽と鳥の信仰 「二 太陽の樹と鳥」

 鳥官が暦を司る

 (pp. 77-78)
 鶏が時を告げれば、日が昇る。太陽の呼び出しや「時間」に鳥は重要な役割を果たす。『春秋左氏伝』には鳥の名をもつ官職=鳥官は暦の官であることを記している。『春秋左氏伝』が現行のかたちに整理されたのは前漢末以後であるが、鳥官については殷代の官職を受け継いでいるものとされている。

鳳凰氏は暦正(暦の官)なり。玄鳥(燕)氏は分(春分・秋分)を司どるものなり。伯趙(百舌鳥)氏は至(夏至・冬至)を司るものなり。青鳥(鶯)氏は啓(立春・立夏)を司るものなり。丹鳥(雉)氏は閉(立秋・立冬)を司るものなり。

とある。鳥の名をもつ官名は鳥が時間や季節を告げ、予兆するものであることから名づけられたと考えられている。なかでも季節順からいえば立春立夏の青鳥氏をあげるべきなのに、玄鳥氏を筆頭にあげるのは理由がある。
 殷では生産暦の折り目として二分(春分・秋分)が重んじられており、玄鳥はその春分に渡ってくる鳥とされていたからである。殷の始祖・舜が、玄鳥の卵から生まれたとする〝玄鳥説話〟をみても、玄鳥(または春分)の重要性がわかる。
〔萩原秀三郎/著『稲と鳥と太陽の道』 1996年07月01日 大修館書店/発行〕


○ この鳥と暦との関係を記した、萩原秀三郎氏による『春秋左氏伝』の記事引用は、2002 年の『縄文ランドスケープ』への寄稿文にもあります。記事内容を考察した語句に若干の違いがありますので、こちらも該当箇所を引用しておきましょう。

『縄文ランドスケープ』

「東アジアの民俗事例から見た立柱祭」

(萩原秀三郎)
 (p. 59)
 鳥がさえずれば、日が昇る。太陽の呼び出しや「時間」に鳥は重要な役割を果たす。『春秋左氏伝』には鳥の名をもつ官職=鳥官は歴の官であることを記している。

鳳凰氏は暦正(暦の官)なり、玄鳥(燕)氏は分(春分・秋分)を司るものなり。伯趙(百舌鳥)氏は至(夏至・冬至)を司るものなり。青鳥(鶯)氏は啓(立春・立夏)を司るものなり。丹鳥(雉)氏は閉(立秋・立冬)を司るものなり。

とある。つまり、生産暦の折り目は、二至・二分、つまり太陽が告げるものであり、太陽の周期性を知ることが、あらゆる生業活動にとって必須[ひっす]の要項だったのである。
〔『縄文ランドスケープ』 2002年10月26日 NPO法人 ジョーモネスクジャパン機構/発行〕


○ こうなればならぬか。原典確認のためには、なんと、日本語版『春秋左氏伝』という便利なものがありました。


新釈漢文大系 第33巻

『春秋左氏伝』(四)

「昭公十七年」

 (p. 1453)
[通釈
 秋に、郯子(郯の君)が魯に来朝した。昭公は郯子と宴を開いた。昭子が郯子に向かって、「少皞氏が鳥の名をもって官職につけたのはなぜでございますか」と質問すると、郯子は、「わたしの祖先のことですから、わたしは知っております。
昔、黄帝氏は(受命のときに雲が瑞祥として現れたことから、)雲を守護神として万事を統べ治めたので、みずから雲を祭る首長となって雲の名を部下の百官につけました。(黄帝氏の前の)炎帝氏は同様に火を守護神として万事を統べ治め、みずから火を祭る首長となって火の名を百官につけましたし、また、その前の共工氏は水を守護神として万事を統べ治め、みずから水を祭る首長となって水の名を百官につけ、その前の大皞氏は竜を守護神として万事を統べ治め、みずから竜を祭る首長となって竜の名を百官につけました。

わが祖先の少皞(名は)摯が位についたときは、鳳鳥がたまたま飛んで来たので、鳥を守護神として万事を統べ治め、みずから鳥を祭る首長となって鳥の名を百官につけました。かくてその部下の鳳鳥氏は暦をただす役人であり、玄鳥氏は春分・秋分をつかさどる役人、伯趙氏は夏至・冬至をつかさどる役人、青鳥氏は立春・立夏をつかさどる役人、丹鳥氏は立秋・立冬をつかさどる役人、祝鳩氏は民を教え導く役人、鴡鳩氏は法をつかさどる役人、鳲鳩氏は水土をつかさどる役人、爽鳩氏は盗賊を取り締まる役人、鶻鳩氏は農事をつかさどる役人で、以上の五つの鳩氏は民を集め安んずる役を務めました。
また、五つの雉氏を五種の工人の長に任命し、器具類を便利にし、尺度や目方の標準を正しくきめて、民の生活を安楽にさせました。
また、九つの扈氏を九種の農の長に任命して、民の欲望を抑え止めて、わがままかってなことをさせないようにしました。

ところが(少皞氏の次の)顓頊氏から後は、人事からかけ離れた雲とか竜などを守護神として万事を統べ治めることができなくなり、そこでもっと身近な人事をもって万事を統べ治めることにし、みずから民の首長となって、民に直接関係のある事柄の名を百官につけるようになったのは、人事からかけ離れたものではやってゆけなくなったからです」と答えた。

仲尼はこれを聞いて、郯子に面会して以上の故実を学んだ。やがて仲尼は人に語って、「わたしは、『天子が官制を乱してしまうと、それに関する学問は、四方のえびすに残っている』ということを聞いているが、やはり真実である」といった。
〔鎌田正/著「新釈漢文大系 第33巻『春秋左氏伝』(四)」 昭和56年10月20日 初版・平成10年04月01日 13版 明治書院/発行〕


―― 萩原秀三郎氏は『縄文ランドスケープ』への寄稿文に、「『春秋左氏伝』には鳥の名をもつ官職=鳥官は歴の官であることを記している。」と紹介されていますけれど、もう少し正しく表現するなら〈『春秋左氏伝』には鳥の名をもつ官職=鳥官は歴(=暦)の官でもあったことを記している。〉となりましょうか。

◎ 記述の根拠となる『春秋左氏伝』をひもとけば、先の資料では、

鳥の名をもつ官名は鳥が時間や季節を告げ、予兆するものであることから名づけられたと考えられている。

と記述された内容は、実は原典では、

わが祖先の少皞(名は)摯が位についたときは、鳳鳥がたまたま飛んで来たので、鳥を守護神として万事を統べ治め、みずから鳥を祭る首長となって鳥の名を百官につけました。

という意味内容の文脈をもつ記事であったことが、理解されるのです。

◉ なんということでしょう、話が違うではありませんか。つまりはその時代にその王朝では《鳥の名は、すべての重要な官職に名づけられた》のでありました。おまけにその命名方法も、時の流れとともに、新しい世代には通用しなくなってきて、次の時代には早くも廃止になったということなのであります。

◎ 革新期にはファンタジーが時勢として受け入れられても、時流が安定期になれば、現実的なわかりやすい名前が世間に好まれたということなのでしょう。

◈ しかしながらも、萩原秀三郎氏の主張にも「あらゆる生業活動」とあるように、農作業の基(もとい)となる《暦を司る官職》が《百官の筆頭》に語られるほどに重視されていたことは、おそらくは世代を超えた、継続的な事実だったようです。
―― 暦が重要なのです。この記事への着目点は、きっとたぶん、そこにあるのだと思われます。