2017年2月27日月曜日

〈エントロピー〉の熱学的定義と意味

 理解し難い〈エントロピー〉というのは、〝物〟の拡散・散逸にともなう表現が、気体運動論と絡むからでしょう。そこでは恐るべし、分子の状態が「統計力学」的に記述されるのです。
 それでまずは〈エントロピー〉を、〝熱〟限定で考えてみるなら――。

 クラウジウスは、1865 年に〈エントロピー〉の定義として数式を示しました。

そこでその量を S で表すならば、われわれは

dSdq / T

とおくことができる。

 この数式の考え自体はすでに、1854 年の論文で提示されていたようです。
 重要なのは 1865 年の論文では、その量を〈エントロピー〉という新語で表現したことです。クラウジウスが造語の参考にしたのはギリシャ語で〝変化〟を示す言葉だといいます。

 ここで、数式に用いられた記号の意味をひとつずつ、確認していきましょう。

dS 〟の d は、微分方程式に出てくる、 Δ (δ)” と同じで、〝デルタ (delta)〟の d です。
S は、〈エントロピー〉と呼ばれるようになる量です。
dq 〟の d は、〝デルタ〟の d で、q は、〝熱の量〟を表わしています。
/ は、わり算の〝割る(÷)〟と同じです。
最後に、T は、〝温度〟なのですが、これは〝絶対温度 (K)〟を単位とします。

――〝デルタ〟とは、一瞬の間の「変化量」を示しますので、
dq 〟はようするに、「熱量の変化」が想定されています。
 これを、〝温度〟で割るのですが、一般的な摂氏温度(℃)で考えても、数字の大小の差しか変わらないので、意味を把握しようという今回の目的では問題ないといえましょう。
 具体的には、マイナス 273 ℃ が、0 K と変換されるので、たとえば 100 ℃ なら、373 K という数字をもとに、本来は計算しなければならないということです。
 これはたとえば、“ dq ” のほうも単位を考えず 1000 であるとしたとき、
1000 ÷ 100 となるか、1000 ÷ 373 となるかの違いです。
 もしくは、数字を変えれば、
1000 ÷ 10 となるか、1000 ÷ 283 となるかの違いです。

最初の計算の答えは、10 あるいは約 2.7 です。
第二の計算の答えは、100 もしくは約 3.5 です。

 クラウジウスの問題提起は「〈エントロピー〉が増大する」ということでした。
 そして、自然現象は「放っておけば、熱は高い方から低い方へ一方的に流れる」ということなのでした。
 このことがどちらも「熱力学第二法則」と呼ばれるものなわけです。
 これは、〝熱量〟が、どれほどの量でも、それが移動したときには、
自動的に温度は下がっているので、変化の前後で、計算の答えとしての、

変化した〈エントロピー (dS )〉は、必ず増えている」ということなのです。

 つまり、必ず「〈エントロピー〉が増大する」ということの意味は、
「熱の移動が起きたら、その〝熱の量〟を、熱が移動する前よりも、常に小さな数字で割ることになるので、必ず答えは前よりも大きくなる」
ということなのです。

 これが、「熱力学第二法則」の帰結としての「エントロピー増大の法則」の本来の意味となります。
 クラウジウスが発見した内容というのは結局、もっと大きい数字で割ると、答えは必ず、もっと小さくなる、という算数の結果なのでした。
 これがどうして凄いのかというと、それを「自然の非可逆性」の理由として位置づけようとしたからなのです。
 熱が移動すると、割り算の答えが「いつも大きくなる」と。
 常人に、そうそう可能な発想ではないと、断言できる閃きなのです。

――それで。
インクが水に落ちた際の、増大する〈エントロピー〉の算出方法については、また、いずれ可能な限りにおいて……。


気体運動論 & 電磁気学(場の理論)
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2017年2月24日金曜日

マクスウェルの魔物は熱死するか

 その理論についてヘルツが述べた言葉が残っています。

「マクスウェルの理論はマクスウェルの方程式系である。」
〔アブラハム・パイス『神は老獪にして…』西島和彦/監訳 (p.149)

 マクスウェルの天才ぶりは、その死後にようやく、電磁波がヘルツによって実験で証明されたことでも推測できましょう。
 また彼が考案した魔物は、〝物理的〟には存在しないことがすでに示されているにもかかわらず、物理学上の問題提起の代表格として語り継がれています。
 これは、ブラウン運動が分子の衝突によって起こるという理屈に確率論が絡むようです。
 マッハ (1838~1916) が死ぬまで原子の存在を信じようとしなかった時代に、分子の運動を統計的に語ろうとしたのです。

 1871 年のマクスウェルの著書『熱の理論 (Theory of Heat) 』にその魔物(デモン)は出てくるようです。
 マクスウェルの魔物は、分子のひとつひとつの動作を見極めて、それを仕分けする能力をもちます。
 ですから速度の違いを知って、速い(熱い)分子と遅い(冷たい)分子を自由に配置することができるので、結果として、自然界に温度の差が自在に設定できるという、超自然的存在なのです。
 ですがそのように〝物質〟と相互に作用可能な〝物体〟は、通常は〝物理的〟に存在しなければならないので、その魔物を実在させようとすると、「第二種永久機関」に匹敵する存在となってしまうといわれます。

 同じ 19 世紀の後半。ケルビンの地球は「冷え切って熱的死」を迎えるという終末論を咲かせました。
 クラウジウスの終末宇宙では、やがて平衡状態になって〝熱雑音〟に蔽われ、何も起きなくなって〈熱的死〉を迎えるという未来予測のようですが、それは宇宙を「大きさの固定された閉鎖系」として前提したからでした。
 で。その「大きさが限定され、閉鎖された空間」に働きかけて、平衡状態にいたる〈熱的死〉を阻止しようとする魔物は、理屈上、まずはその魔物自身の〈熱的死〉が必然とされる仕儀となります。
 途中で死んでしまったのでは、期待された魔物とはいいようもない次第です。

 ところが――。さいわいにも宇宙はそういう魔物の必要もなく〈熱的死〉を免れる仕様に設計されているようです。
 宇宙が膨張している事実はすでに確認済みといえるので、宇宙船地球号と異なり、同じ有限な領域でも宇宙では、廃熱を棄てるべき冷たい空間は常時拡大中なのですね。
 その場所は、かつて〈ニューフロンティア〉といわれたかも知れません。

 そしてまた、このあたりが重要と思われるのですが、マクスウェルの魔物が実在しなくても、確率的には、空間の温度差は、(場合により偶然のもたらす結果として)自然に生じることとなります。
 マクスウェルの魔物の真の正体は、数学的に存在する確率の理論なのでしょう。


アボガドロの法則 及び ブラウン運動
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2017年2月21日火曜日

We'll be back. 嘉永六年:黒船来航

 1846 年、アメリカ東インド艦隊司令長官ビッドルが、浦賀に来航した。日本では、弘化三年のこととなる。
 捕鯨船の寄港地にしたいのだという。なぜに日本を中国までの間の寄港地に……?
 幕府は、その要求をつっぱねた。

 1853 年 6 月、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーが、今度は軍艦 4 隻とともに、浦賀沖に現れた。
 ペリーは予定通りに「また来る」とアメリカン・イングリッシュで言うと、すぐさま、パワーアップして戻ってきた。それはその頃からの、定番の慣用句であったろうか。
 1854 年 1 月、ペリー提督は、軍艦 7 隻とともに、ふたたび来航した。
 日本史では、それぞれの年は、嘉永六年、安政元年となっている。

 さて。言うまでもなく、といったら、通常これから言うに決まっているが、

「喜撰」は平安初期の歌人で、六歌仙のひとり、喜撰法師のことなのだが、
「上喜撰(じょうきせん)」となれば、お茶の、上級品をさすこととなる。

 言うまでもないのは、川柳には掛け言葉がつきものだということだ。

「泰平の眠りをさます上喜撰 たった四はいで夜もねむれず」
と教科書にも載った珠玉の川柳は、嘉永六年の黒船(軍艦)四隻をさすと知りつつも、残念なことに「上喜撰」がそもそもお茶であることを知らねば、面白さの味わいが半減すること間違いなしなのである。

 これが、太平の眠りを覚ました、黒船という蒸気船の正体なのである。
 江戸の庶民は、近代科学で装備された、蒸気動力の威圧的〈力〉を黒船に象徴したのだった。
 転じて、黒船を背景とした不平等条約の屈辱が〝文明開化〟を必然とする。

 さてこそ。話題も転じて。
 場合によっては、かくのごとくに、さんざんっぱら、説明しておいて、最後に「~ということは、言うまでもない」などと、のたもうてあるが、それはどういう論理なのかとわが頭を疑うことが、しばしばある。
 はっきりと「言うまでもない」ことなら、あえて言うまでもなかろうはずなのに、なぜにそこまでして、あえて詳細に言おうとするのか、と。
 つまり、これは一般常識なので専門書ではしもじもへのこれ以上の説明は本来不要だという当面の態度を示したいだけの権威かぶれの〈力の誇示〉以外の解釈を思いつけないのだ。
 ところが、調べてみると、それは〝説明不要〟なのではなく〝説明不能〟なのだという事態に、その上さらに、しばしば遭遇する。
 インターネットに情報が氾濫して、たいていのことが調べられるようになっても、そういう「言うまでもない」ことには、こと欠かないのである。――まあまあまあ。さればとて。
 いつぞは、自分がそういう説明回避のための言い回しをしないとも、限らないのだし。

 が、そういう、「言うまでもなく」の結びが〝推測文〟という事態になると、あとは、さすがにもはや言うまでもないところでもあるけれども、ここは少しばかり強調しておきたい。
「……ことは、言うまでもなかろう」という論旨ではなく、
「言うまでもなく、……、であろう」という(断定するにはいささか自信がないがそうであることは言うまでもないという)了簡なのである。

 ところがこれもまた、我が身がさっそくにもやりかねない文章構成でもあるので、始末が悪いところだ。無論、一連の文脈において不自然ではない「言うまでもない」語り口があることも、また、言うまでもなく、認められよう。
 などとは、普通に書いてしまうのだ。

――ここで「無論」というのは「論ずるまでもなく」と書かれていることがある。どうやらこれは「論文」に限らず〝論じている最中〟に、途中の説明抜きでも成立するので結論だけが書かれる場合に、用いられる。
 あるいはこのあたりが、便利な「言うまでもなく」の起原かも知れない。
 さてさて最後に。同じ意味の「勿論(もちろん)」の「勿(なかれ)」は「動作の禁止に用いる語」だそうな。

2017年2月18日土曜日

ケルビン卿:古典物理学の曳光

 同じ時代、英国スコットランドに、マクスウェルとトムソンは生きていた。
 ふたりとも、十代で論文を発表する、早熟な天才だったという共通点をもつ。
 1831 年、マクスウェルは、スコットランドのエディンバラで生まれた。
 1824 年に生まれたトムソンは、その 7 歳年上だが、24 年後、カルノーの原論文を再発見したトムソンはつまり、カルノーのその著書出版と同じ年に誕生したという巡り合わせになる。

――ここで訂正事項がありまして―― 先日(2月4日)の文中に、
「スコットランド人ウィリアム・トムソン――後のケルビン卿」と書いてしまったのですが、
次の資料に見るように、トムソンは、北アイルランド生まれでした。

 ケルビン卿、すなわちウィリアム・トムソンは一八二四年に北アイルランドのベルファストで生まれた。現在もアイルランド島の大部分はアイルランド共和国に属するけれども、北の一部はイギリスに属する。トムソンはここで生まれたのである。七歳のときに一家はスコットランドのグラスゴーへ移住した。父はグラスゴー大学の数学教授であった。彼には四男二女があり、ウィリアムは次男で、二つちがいのジェームズという兄があった。
 この兄は手先が器用で、機械をつくるのを好んだ。兄弟は協同してボートをつくり、「聖パトリック号」という名をつけた。聖パトリックは五世紀にアイルランドへキリスト教(カトリック)をもたらした聖人であり、アイルランドの守護聖者であった。ボートにこういう名をつけることによって、彼らはアイルランド人としての心意気を示したことになる。
竹内均/編『物理学はこうして創られた』 (p.234)

 ケンブリッジ大学を卒業したトムソンがパリに留学したのは、1845 年のことだ。そこでカルノー論文を知り、1848 年にはカルノー関数から絶対温度を定義する。
 1850 年代には、熱力学第二法則の定式化に取り組み、〝地球の熱的死〟を予言したと評判になった。
 1852 年の論文『力学的エネルギーの散逸に向かう自然の普遍的傾向について』の結論がそうだという。

――やがて、トムソンは自然哲学に《神》を復活させることになる。
 1859 年というのは、日本では、小漁村だった横浜に外国向けの港ができた年だ。その前年に、「日米修好通商条約」が結ばれたのだ。
 その 1859 年にダーウィンの『種の起原』が刊行された。トムソンはこの「進化論」に対して〝科学的〟に反論する。
――〝熱〟に基づく計算によればその冷却期間から「地球の年齢は 1 億年程度」であるからして、《神》による知的デザインを無視した〝自然選択説〟など、言語道断なのである。
 20 世紀になって、ラザフォードが新しい〝熱源〟である〈放射性物質〉を示しても、サー・トムソンの言語道断な意思はくつがえらなかった。
 ジュールの実験にただひとり拍手を送った 1847 年とは、すでに、彼の年齢という事情が違っていた。
 彼もいつしか、新しい科学的知見に対応できなくなっていたのか。

 1879 年、マクスウェルは胃がんで死んだ。48 歳だった。
 サー・トムソンは、1892 年にケルビン男爵となっていた。そしてアインシュタインの相対性理論が発表された 2 年後に死んだ。
 1907 年のことだ。――ロンドンのウェストミンスター寺院の、ニュートンの隣に、ケルビンの墓碑がある。
 古典物理学の時代の輝ける残照が、またひとつ消えた。
 マクスウェルは、有名な魔物に、ケルビンは絶対零度(絶対温度 K )に、その名を残した。
 そういえば、ケルビンは、日本からも勲章をもらっているそうだ。
 1901 年に「勲一等瑞宝章」を受勲したのだという。


マクスウェル と ケルビン
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2017年2月15日水曜日

合理的な〈最大効率〉の追求とエントロピー

 19 世紀、熱のエネルギーと力学的エネルギーが等価であり交換可能だったというのは、実に大発見なのでした。
 力学的エネルギーは「運動エネルギー」と「位置エネルギー」をたしたものだといわれます。そのエネルギーが熱の形態で出入りすることが〈エンタルピー〉の変化として表現されました。

 そしてエネルギーの最大効率に関する考察からやがては〈エントロピー〉が一方的に増えていくことが検証されたのです。
 どのように頑張ってみても、エネルギーのロスは発生してしまうのです。
 そして熱は、均一になろうとする傾向があって、それも、一方的で非可逆的なものでした。
 結果。均一になった空間は、外部からの刺激がない限り、そのままの状態が延々と続くのです。
 またそこから、〈廃熱〉イコール〈エントロピー〉という解釈もでてきます。

 たしかに、〈廃熱〉になってしまったエネルギーを回収して再利用することは、困難です。
 その再利用には、回収された以上のエネルギーが、往々にして必要となります。
 ですから、〈廃熱〉も一方的に増えていくものです。
――が。〈廃熱〉がそのまま〈エントロピー〉なのではありません。

 〈廃熱〉の説明は、あくまでも一例としてであり、「たとえば」という〝但し書き〟が不可欠なのです。
 ところが、いつのまにか、そういう〝但し書き〟はそれこそ一方的に非可逆的に失われて、
――〈廃熱〉イコール〈エントロピー〉という便利な解釈もでてきてしまうのです。

 〈エントロピー〉が増えた状態を一般に「混乱した状態」とか「混沌としている」とかいいます。
 どうやら、均一状態というのは、混乱している様子をさすみたいです。
 見た目が一様であるのは、整然と美しい場合もあると思うので、おそらくは整然としていない均一状態がここでは想定されているのでしょう。
 そうしてこのあたりで自分の頭のエントロピーが増えてきて、「混乱状態」となります。
 そうやって。どうやらようやく、〈エントロピー〉が少し理解されるのでした。
 つまり「ノイズが増える」ことが「エントロピーの増大」ともいえるのでした……。たしかに。こんな話は、ほおぉっと、してきます。

 ここで気をつけなければならないのは、もうひとつ。
 〝排熱〟はそのまま〝廃熱〟と同じなのではありません。
 時に〝排熱〟には、まだ、利用されていない価値が残されています。
 けれども、〝排熱〟も〝廃熱〟も〝エントロピー〟も全部ノイズになってしまえば、それは混同可能です。

 そういう混同され混乱した状態を好む御仁がおられるようで、〈エントロピー〉が相当に好きだとしか思えません。

 ところで、〈エンタルピー〉は熱に関する状態量だったのですが、同じ状態量でも〈エントロピー〉は熱に限って使われるものではないようです。
 有名なところで〈情報エントロピー〉というものがあります。
 「情報のエントロピーが増大する」というのは「雑音(ノイズ)と成り果てた情報が増える」ということです。
 いくら気をつけても、インターネットは、その加速装置です。

改めて詳しく資料を見たいと思いますが、量子論の創始者プランクは、
〈エントロピー〉に関する誤解を憂 (うれ) えていたようです。
そのひとつが〈エントロピー〉を熱エネルギーに限定した誤解です。
たとえばインクが水に落ちても〈エントロピー〉はあっという間に増えます。
―― 1922 年の、とある脚注に、こう書いているようです。

この場合は、「エネルギーの散逸」というよりは「物質の散逸」という方がより適切であろう。


時の矢 : エントロピーの増大
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2017年2月13日月曜日

〈最後の魔術師〉の末裔 最後の〈自然哲学者〉

 「第二次世界大戦」と呼ばれるほどの大きな戦争が終わった翌年のこと。
――
経済学者のケインズは、1946 年英国ケンブリッジ大学の
「ニュートン 300 年祭」における講演で、並みいる学生たちを前に、こう語りました。

ニュートンは理性の時代に属する最初の人ではなかった。彼は最後の魔術師であり、最後のバビロニア人でまたスーメル人であり、一万年には少し足りない昔にわれわれの知的遺産を築き始めた人たちと同じような目で、可視的および知的世界を眺めた最後の偉大な人物であった。
J.M.ケインズ「人間ニュートン」『人物評伝』 316 ページ

 かつて(2015年11月12日木曜日)「ニュートン 〈最後の魔術師〉」と題したものの冒頭です。
 それでというか今回、最後の〈自然哲学者〉として少々まとめてみました。

ヒューエル (1794~1866) が、“scientist” という単語を発明したのは、
そのニュートン力学の直系であることを自認する
ラプラス (1749~1827) が死去した後の、
1834 年のこととされています。

当時は、聞きなれぬ新しい言葉に対し、その評判はかんばしくなかったようです。

ファラデーは終生自分のことを、科学者=サイエンティストとは呼ばなかった。
サイエンティストなる厄介な命名は、ときの自然学者の猛反対に遭遇し、一九一〇年ころまでは「科学する人」(a man of science)という呼称の方が一般的であった。たとえばオクスフォード英語辞典の一九一四年までの版の扉頁には、サイエンティストではなくマン・オヴ・サイエンスの方が採用されていた。
井山弘幸『偶然の科学誌』 (p.196, p.197)

では、その頃、現在では一流の科学者と見なされているファラデーは、何者であったか、
――と問うなら、一般的な呼称としては〈哲学者〉もしくは〈自然哲学者〉だったでしょう。
あるいは、より専門的には〈物理学者〉であったかも知れません。

 ノーベル賞を受賞したプリゴジンは、スタンジェールとの共著でこう述べています。

ニュートン的科学への挑戦は、フーリエが熱伝導を支配する法則を定式化したときに始まる。それは実際、古典力学では捉えることのできないもの、不可逆過程を、定量的に記述した最初の例であった。
 「複雑性の科学」の誕生した日付を、筆者はイゼール県知事ジャン=ジョセフ・フーリエ男爵が固体中の熱伝導の数学的記述によってフランス科学アカデミーの賞を得た一八一一年とすることを提案したい。
フーリエは、ラプラスの学派がヨーロッパ科学を支配していたときに、彼の結果を定式化した。ラプラスやラグランジュやその弟子たちは協力してフーリエの理論を批判しようとしたが、退散せざるをえなかった。ラプラスの夢は、その栄光の頂点で最初の挫折を経験した。運動の力学法則と同程度に、あらゆる点で数学的に厳密であり、しかもニュートン的世界とは完全に異質な、新たな物理学理論が創造された。このとき以来、数学・物理学・ニュートン的科学の三者は、同義語ではなくなった。
〔『混沌からの秩序』伏見康治(他)訳 (p.47, p.158, p.159)

 ここで「複雑性の科学」といわれるのは、新しい「熱力学」の研究対象となるものです。
 いずれにせよ、偶然の一致でも、「物理学」が「ニュートン力学」とまったく同じではなくなった時代に、新しい時代の〈科学者〉が提唱されたことになります。
 そのヒューエルの提唱のしばらく後――。
 1850 年には、クラウジウスの「熱は必ず高温物体から低温物体へ移動する」という原理が発表されることになります。
 その当時、ニュートン力学の正統な後裔であったラプラスは、〝最後の〈自然哲学者〉〟のひとりとして死んだといっても、無理はなさそうです。

2017年2月10日金曜日

ブレイクスルーの壁と「仮説」の放棄

 物理学の歴史では、理論がジレンマに落ち入ってどうしようもなくなったとき、それまでの理論の一部を棄てて一歩退くことによってブレイクスルーをなしとげることがある。このクラウジウスの発見もその一つである。後にアインシュタインが光を伝えるエーテルを棄てたのも、このような場合と同様であった。
戸田盛和『いまさら熱力学?』 (p.47)

「私の意見では、科学の進歩は仮定を落とすことでなされるのが普通だよ!」とボームは答えた。
 そのときにはただ面目なく黙らされたような気がしたが、私はデイヴィッド・ボームのこの言葉をいつまでも忘れることができなかった。歴史は彼が正しかったことを示している。科学上の大きな進歩は、正統的なパラダイムが、支配的な理論とは合致しない一組の新しいアイデアあるいは新しい実験的証拠と衝突したときにしばしば起こる。すると、だれかが大事にされてきた仮定、ことによるとほとんど自明のことと見なされ、あからさまに語られることのなかった仮定を放棄することによって、突然、すべてが転換する。新しい、もっとうまくいくパラダイムが生まれたのである。アインシュタインが特殊相対論を定式化したときにはこれが起きた。だれもが、考えることさえせずに、時間は絶対的で普遍的である、と仮定していた。古典物理学全体がこの信念の上に築かれていた。しかし、それは誤っていた。ニュートンの運動法則を電磁気と光信号のふるまいと矛盾させたのがこの根拠のない仮定だった。アインシュタインがこの仮定を落とすと、すべてがぴったり納まった。
ポール・デイヴィス『時間について』林一訳「第9章 時間の矢」 (pp.286-287)

 つまりそれまでは常識的なレベルで「当たり前」であったことが、疑われた結果としても、パラダイム・シフトは起こりうるというわけです。
 パラダイム・シフトとは、このことをふまえて「前提となる理論の放棄による拡張的移行」とでもいえましょうか。
 熱力学第二法則も、そういうパラダイム・シフトであったのです。
 察するに、そこに立ちはだかる〝壁〟とは、それこそ〝いうまでもない前提〟であることが多いというわけなのでしょう。
 ブレイクスルー (breakthrough) とは、そういう〝壁〟を突破することをいいます。
 上に引用させていただいたのは、たまたまいずれもアインシュタインによる〈前提の放棄〉なのですが、論者によって、〔例示される〕捨てられた前提は〈エーテル〉であったり〈絶対時間〉であったりします。
 それだけこの〝突破〟は、偉業であったということのあかしでしょう。

 逆にその〝いうまでもない前提〟を、〝いうべき前提〟としたのが、クラウジウスだったということにもなります。
 そしてそこにいたる準備を整えていった先人が、カルノーでありケルビンであり、またジュールやフーリエなどです。
 山本義隆氏の論文「力学と熱学」では、次のように語られていました。

 世の中には「当たり前」のことはいくらもあるが、そのあまたある「当たり前」から「熱は自発的には高温から低温にしか流れない」という唯一つを選びだして、それを「原理」としたことの重要性は、強調しすぎることはない。「力学理論の適用範囲がどうであれ、それは熱現象には適用されない」「自然哲学のこの部分は、力学理論には結びつかず、それに固有の原理を持つ」と喝破したのは、完全非可逆現象である熱伝導の解析化に初めて成功したフーリエである。
『熱学第二法則の展開』所収 (p.16)

 ところで。
 現在では、真空の何も無い場所で、瞬間的に〈物質〉と〈反物質〉が生成消滅することが理論化されているようです。
 まさに瞬時の生滅らしいのですが、真空の〝ゆらぎ〟には、無限のエネルギーが隠れているとしたら……
 エネルギー保存の法則も、この先には、どうなりますことやら。
――ですが。
 真空からエネルギーを取り出す〈永久機関〉というのは、いまのところ、非現実すぎるでしょう。
 ゲームや、ファンタジーのネタなら、そこそこにはリアルでしょうが。
 少なくとも現在の日本では「自然法則に反する永久機関の特許」が認められることはないようです。


永久機関 及び ヘスの法則
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2017年2月7日火曜日

ニュートン力学の隠れた性質と〈減衰する慣性力〉

 その瞬間をきっかけとして、すなわちリンゴの落下が機縁となって、コペルニクスとケプラーの「天体の理論」と、ガリレオの「地上の力学」が、ひとつとなったのです。
 ニュートン力学は、機械論的可逆的性質を、その特徴とするといわれます。
 つまり、ニュートン力学では、過去と未来を入れ替えて、時間を逆転することが可能なわけです。
 19 世紀初頭の、ラプラスの『天体力学』は、そのニュートン力学の帰結として位置づけられることになります。そこに神が不要となったのはまったくもってニュートン理論のおかげなのだと、ラプラスは認めていたようです。

ラプラスはニュートンの理論体系そのものの真理性について確信をもっただけではなく、ある意味ではそれ以上にこの理論の決定論的な性格に強烈な印象をうけたといってよい。決定論的性格とはある力学系の初期条件についての正確な知識を手にすることが可能である場合には、その系のその後の状態を正確かつ確定的に演繹することができる、ということである。したがって世界の完全な知識への唯一の障害は初期条件についての無知ということになる。ニュートン理論に対するラプラスの確信は、彼の『確率についての哲学的試論』の序論の中の有名な一節に印象的に語られている。この個所で彼は任意の時点で宇宙にあるすべての粒子の状態(位置および速度)とその粒子に作用しているすべての力の両者を一挙に把握[はあく]できる超人的な英知を想定する。このような英知、いわゆる「ラプラスの魔」にとっては、「不確かなものは何一つなく、未来といえども過去と同じように見とおせるであろう。人間の精神が天文学に与えることの完全さの中に、この英知の未熟なスケッチを見ることができる」
井上健「十九世紀の科学思想/第二部 十九世紀の科学思想」『世界の名著 65』解説 (p.51)

 しかしながら、17 世紀から 18 世紀に生きた〝自然哲学者〟ニュートンの本質は、実際〝錬金術師〟にあったので、そこに世界の「第一動因」としての《神》は、必須なものでした。
 その著書『諸原理(プリンキピア)』には、また同時に、「わたくしは仮説を立てません」という有名な言葉も記されています。

太陽に向かう重力は、太陽の各構成部分に向かう重力から合成され、太陽から遠ざかるにつれて、精確に距離の 2 乗に比例して減少します。それが土星の軌道の遠きにまで及ぶことは、この惑星の遠日点の静止から明らかに見られるとおりです。いやさらに、もっとも遠い彗星の遠日点にまで、その遠日点が静止しさえすれば、達するといえましょう。しかし実際に重力のこれらの特性を現象から導くことは、わたくしにはこれまでできませんでした。けれどもわたくしは仮説を立てません。といいますのは、現象から導きだせないものはどんなものであろうと、「仮説」と呼ばれるべきものだからです。そして仮説は、それが形而上的なものであろうと形而下的なものであろうと、また隠在的なものであろうと力学的なものであろうと、「実験哲学」にはその場所をもたないものだからです。
『世界の名著 26』ニュートン「自然哲学の数学的諸原理」〈一般的注解〉より

――そして、山本義隆氏の論文「力学と熱学」〔『熱学第二法則の展開』所収〕を参照すれば、〈減衰する力〉というのは、〈減衰する慣性力〉のことでもあったと理解できます。
 すなわち隠在的力学的という言葉の対比でここに登場する、いわゆる〈隠れた性質〉は、〈減衰する力〉を補完する〈能動的原理〉として、ニュートン自身によって著書『光学』で語られていきます。
 そしてそのことに疑問を呈したのが、ライプニッツでした。

ニュートン氏とその一派は、神の作品についても、とても変わった見解を持っています。彼らによると、神は、時々、自分の時計を巻く必要があるのです。さもないと時計が止まってしまう、と。神は時計に永久運動をさせるだけの展望を持っていなかったことになってしまいます。
私の見解では、この機械には、同一の力と勢い (vigueur) が常に存続していて、それが自然の諸法則と予定された美しい秩序 (le bel ordre préétabli) に従って、物質から物質へとただ移行するだけなのです。
『ライプニッツ著作集 9』 (pp.264-265)

 ここに、ライプニッツによって〈力学的エネルギー保存の法則〉が明記されていると、いえましょう。
 すべての現象には必ず原因がある(= 充足理由律)としたライプニッツは、その原因のすべてが人間によって解明可能だという立場であったでしょうか。
 しかしながら、その力学の理論の完璧さを誇っていたはずのラプラスも、晩年には、こう述懐したといわれています。
われわれの知っていることは極めてわずかであるが、われわれの知らないことは極めて多い
〔井上健「十九世紀の科学思想/第二部 十九世紀の科学思想」『世界の名著 65』解説 (p.53)

 20 世紀、アインシュタイン等の言葉もまた、次のようにつづられています。

読めば読む程、「自然の書物」の構成には非の打ちどころのないのがわかります。もっとも私達が進むにつれて真の解決は却って遠ざかって行くようにも思われますけれども。
岩波新書『物理学はいかにして創られたか 上巻』より

 19 世紀に成立した熱力学の第一法則は拡張された「〔力学的および熱的〕エネルギー保存の法則」で、その第二法則は、ニュートン力学の原理とは異なる〝不可逆性〟を特徴とします。が、第二法則で示された「エントロピー増大」いうなれば〈減衰する力〉は同時に、解明不可能として、ニュートンの理論で探究されなかった原理だったのかも知れません。
 けれども、上に見たように、ニュートンの理論が、みずから〈減衰する力〉の存在を排除したわけではありません。
 時を経てひとつの頂点をみた〈ニュートン力学〉がニュートンの理論からそれを削除したのです。


エネルギー保存の法則
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2017年2月4日土曜日

黒いダイヤのもたらす富の価値

 イリヤ・プリゴジンとディリプ・コンデプディとの共著のテキスト本文は、次のように始まる。

 Adam Smith (1723~1790) の国富論は 1776 年に刊行された。James Watt (1736~1819) が蒸気機関に関する発明で特許を得た 7 年後である。2 人とも Glasgow 大学に勤めていた。それでも、Adam Smith の偉大な仕事のなかで、石炭のただ一つの用途は勤労者に熱を供与することであった〔文献 1 〕。18 世紀の機械はまだ風力か、水力か、動物の力によって動かされていた。Alexandria の Hero が水蒸気の力で球を自転させることを知ってから、ほとんど 2000 年もの年月がたっていたが、運動を引き起こし、機械を動かす火の力はまだおおい隠されたままであった。Adam Smith は石炭にこの隠れた富を見出すことはできなかったのである。
 しかし、やがて蒸気機関は新しい可能性を切り開くことになった。熱を機械の動力へ変換するという発明は、産業革命を先導したばかりでなく、熱力学という科学の誕生をも促したのである。天体の運動の理論に端を発するニュートン力学とは異なり、熱力学は熱が運動をつくり出す可能性という、より実用的な関心から生まれたのである。
 文 献
1.   Prigogine, I. and Stengers, I. Order Out of Chaos. 1984, New York: Bantam.
〔『現代熱力学』妹尾学・岩元和敏/訳 (p.2)

 19 世紀( 1800 年代)初頭、石炭のもたらす動力源という〝価値〟の可能性と効率性に、いち早く注目したのが、カルノーだった。
 “Order Out of Chaos” ――邦訳 『混沌からの秩序』 168 ページには、ラザル・カルノーの息子として、サディ・カルノーが辿った道程が語られている。
 そして、169 ページにはこう記述されている。

異なった速度で動く物体間の接触をすべて避ける力学的機関と同様に、理想的熱機関は、異なった温度の物体間の接触をすべて避けなければならない。
それで、理想的なカルノー・サイクルは、かなり巧妙な装置であって、温度の違う物体の接触を伴わずに、温度の異なる二つの熱源の間に熱を伝達するという逆説的な結果を達成している。

 サディ・カルノーの論文は、1824 年に、600 部が自費出版で刊行されたあと、祖国フランスからは、忘れられた。
 カルノーはまもなく、1832 年にコレラで死亡し、その感染防止のために、遺品は焼却処分された。
 カルノーの兄弟が保管していた遺稿のノート「覚え書き」は、1878 年まで公開されなかった。
 そのノートには、驚くべきことに〈熱量〉がエネルギー換算されていた。立脚点としての〈熱素〉説を放棄する内容だ。
――熱エネルギーと、力学的エネルギーとの間の比例定数は「熱の仕事当量」とよばれる。

 ちくま学芸文庫『熱学思想の史的展開 2』 (p.305) には、カルノーのこの当量は、
1 cal = 3.63 J と、計算されている。
 前出の『現代熱力学』 (p.52) には、その計算結果は、
1 cal = 3.7 J と、書かれている。

 ジュール (J) は、〔力学的〕仕事量を表わすエネルギーの単位で、1 カロリーは、1 グラムの水の温度を 1 度上げるために必要な熱のことだ。

 現在では、1 カロリーに相当するその 1 度の範囲までが、厳密に定められている。
 ちなみに、『現代熱力学』 (p.24) には、
ランフォードによるその見積もりは、
1 cal ≒ 5.5 J とされ、
現在の数値は、
1 cal = 4.184 J であることが、記されている。

 フランス人カルノーの〈熱量〉に対する思考の出発点は、物質としての〈熱素〉説であった。
 それが、最終的には、「エネルギー保存の法則」へとその方向性が正されている。
 また大前提として、カルノーは、自身の理想的な、カルノー・サイクルは、実際には存在し得ないと、認めていた。
 熱には、力学的エネルギーの現実における摩擦と同じように、必ずロスが発生するのだ。

 その後、イギリスからフランスへの留学中に、3 年がかりで、忘れられたカルノーの論文を発掘したスコットランド人ウィリアム・トムソン――後のケルビン卿は、その論文を再検討した結果、「熱力学第二法則」にいたる。
 それは「エントロピー増大の法則」ともいわれる。
 1850 年、トムソンの論文などから、ドイツのルドルフ・クラウジウスが先に気づき、その 2 年後に、トムソンもそこへ辿りついたとされる。〈エントロピー〉の語は、1865 年にクラウジウスの論文で名づけられた。
 「熱力学第一法則」は、「エネルギー保存の法則」である。


カルノー・サイクル:熱量保存則 及び カルノーの定理
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2017年2月1日水曜日

〈熱素〉説の呪いは世紀末を生き延びた

 ラボアジエは、実は「質量保存則」と「熱量保存則」のふたつを残して、世紀末に散ったのでした。
 その後の半世紀にわたって、〈熱〉が〈エネルギー〉じゃなく〈物質〉だという考えは、権威筋の信じるところとなります。
――と、前回の最後に書いたあたりを、もう少し詳しく調べようとして、種々に難渋しております。

 時は、18 世紀末( 1700 年代)、ラボアジエの残した〈熱素(カロリック)〉説は、世紀をまたいでフランスへの呪縛となったわけです。

 1783 年に、ラボアジエはラプラスと共同研究を発表しました。
 1789 年の著書 『化学原論』 では、〈熱素 (calorique) 〉が、元素とされています。
 1789 年にフランス革命が勃発、1794 年、ラボアジエはギロチンで処刑されます。

 「熱素」は 『広辞苑』 の旧版 には、後半部が次のように記されています。
一七九八年、ランフォード (Rumford 1753~1814) の実験はこれを否定したが、熱素説はその後半世紀生きのびた。

 ところが、その後の最新版では次のような記述となり、〈熱素〉はあたかも、19 世紀を待たずして、命運尽きたかのような印象さえ与えられます。

ねっそ【熱素】
(caloric) 熱を一種の元素と考えて、ラヴォアジエがつけた名。物体の温度変化は、物体内の熱素の多少によって起こるとされた。一七九八年、ランフォードの実験で否定された。
〔『広辞苑』 第六版 (p.2174)

 ここはひとつ、〈熱素〉説が 19 世紀初頭のヨーロッパを惑わしたのは、もはや「言うまでもない」こととして、省略されたのでしょうか? それともところによっては、ランフォードが渡した引導で、〈熱素〉は大往生したのでしょうか?
――〈熱素〉が成仏したのはいつなのか。それとも未だ亡霊となって、世界を惑わし続けているのか。
 手がつけられない状況となっているという噂の〝将門の首塚〟伝説を思い出してしまいました。

 そうしてようようにして、先だっても参照した資料をあらためて繙くほどに、次のような文章に巡りあうことができたのでございます。
 読めば、ランフォードの実験によりこうして熱のカロリック説は葬られた。と、125 ページには、書かれていました。
 読むほどに、その後の事情として――。

 一八〇四年にランフォードはロンドンからパリへ移り住んだ。当時イギリスとフランスとは交戦状態にあり、フランスはイギリスへの侵入を企てていた。ランフォードたちの研究にもかかわらず、有名な化学者アントワーヌ・ラボアジエ(一七四三~一七九四)を中心とするフランスの科学者たちは、熱のカロリック説を信じていた。彼らを説得することもまた、ランフォードがパリへ移り住んだ一つの理由である。
 ………… そのラボアジエの未亡人と、ランフォードは一八〇五年に結婚した。
〔竹内均/編『物理学はこうして創られた』 (p.130)

 一八四七年にヘルムホルツは、「力の保存について」と題する論文をベルリン物理学会で講演した。それは「エネルギー保存の法則」を主張する、一九世紀における画期的な論文の一つであった。
 これより先の一八四〇年に、ドイツの医者で物理学者のロベルト・マイアー(一八一四~一八七八)が、熱がそれまで考えられていたような「実体」ではなく、「作用」ではないかと主張する論文をある雑誌に発表しようとした。
 当時はまだ、熱は《カロリック》という名の実体であると考えられていた。しかしドイツで医学を修めたのち、ジャワ連絡の船の船医となったマイアーは、船員たちの静脈の血がまるで動脈の血のように赤いことに気づいた。これは暑い熱帯を旅行する人によく見られる現象であった。そもそも動脈の血が赤いのは、酸化作用によるものである。したがって熱と酸化作用との間には関係があり、これは熱が作用であることを示すものではないか、とマイアーは論文で主張したのである。
 作用をエネルギーと考えれば、これはまことに正しい主張であった。しかしそのときには、こんな奇妙な論文は困ると、雑誌への掲載を断られたのである。
〔竹内均/編『物理学はこうして創られた』 (pp.183-184)

 どうやらラボアジエの死後ほどなくして 18 世紀末には、イギリスのロンドン王立協会の周辺で、「熱のカロリック説は葬られた」のですが、大陸側の趨勢(すうせい)は、それをたやすくは認めなかったということなのでしょう。
 アメリカの独立に、フランスが加担したという事情なども絡んでいたでしょうか。
 その頃の、イギリスとフランスの関係は「交戦状態」だったようですし……。

ラボアジエの未亡人と、ランフォードは、結婚の四年後には、離婚したようです。