2021年4月27日火曜日

アミターバはアミダババアのプロトタイプ

 日本にはゴジラに匹敵する有名な怪獣に憑依した、アミダババア(阿弥陀婆)という魔物、ないしは妖怪変化(ようかいへんげ)が棲んでいる。

 棲んでいる、というのは、ひとびとの脳裡にひそんでいるという意味になる。


 このアミダババアの正体を探るために、ためしにサンスクリット語で書いてみると、


अमिदबभ Amidababha


とでもなろうか、これは、〈阿弥陀仏〉のサンスクリット語である、


अमिताभ Amitābha


と非常によく似ている。―― というのは、あえて論ずるまでもない話ではあろうが、

 説明しよう。

〈阿弥陀婆〉はアミダくじを介して〈阿弥陀仏〉をそのプロトタイプ(原型)としているからなのだ。


 ⛞ というわけで、前回、〝南無阿弥陀仏〟の〈南無〉について多少語ったので、〈阿弥陀仏〉についても少々調べてみることにしました。

 そもそも〝阿弥陀(あみだ)〟には、〝アミターバ〟と〝アミターユス〟の二種のサンスクリット語があって、それぞれ、〝アミターバ〟は〝無量光〟、〝アミターユス〟は〝無量寿〟と漢訳されています。

 ですから、〈阿弥陀仏〉には〈無量光仏〉と〈無量寿仏〉という別名があります。

 とりあえずはここで、〝アミターユス〟のサンスクリット語のデーヴァ・ナーガリー文字の紹介と合わせ、いま一度、〝アミダババア〟と〝アミターバ〟も併記しておきましょう。


अमिदबभ Amidababha

अमिताभ Amitābha

अमितायुस् Amitāyus


 さて、〝アミターバ〟と〝アミターユス〟のサンスクリット語の構成は、次のように解釈されています。


अमित-आभ amita-ābha  無量・光明

अमित-आयुस् amita-āyus  無量・寿命


 まずはさきに、最後の〝アーユス(寿命)〟の部分について辞書をみると、


आयुस् āyus  生命・寿命・長寿 【漢訳】命・寿・寿命・寿量


と、なっているわけです。そして、〝アーバ(光明)〟は、


-ābha  似たる ⇒ ābhā  【漢訳】如・光

आभा ābhā  光沢・光;色・美 【漢訳】光・光明・威光

ābhā ⇒ ā-bhā

ā  近く(……の中に・……の近くに)

bha = bhā  外観・類似

bhā  光輝・光明・壮麗光 ⇒ bha  【漢訳】光明


というような具合で、構成が少々ややこしくなっています。

 最後に、共通する〝アミタ(無量)〟の語を調べてみると、これもふたつの語に分解され、のみならず、かなり複雑な構成になっていました。


a-mita  無量の

 【漢訳】無量・無有量・無極・無尽

अ a-  〔母音の前では一般に an- 〕[否定的接頭音]

 【漢訳】不・非

मित mita  [過去受動分詞]量られた ⇒ Mā

 【漢訳】有量

मा   量る;測定する、区分する;横切る

 【漢訳】量度・量知多少・検量知多少


 つまり、〝マー(量る)〟という動詞が過去受動分詞の〝ミタ(量られた)〟に変形したところに、〝ア〟という否定の接頭辞が合体して、〝アミタ(量られない・無量)〟という語が完成し、さらにはそこから、最終形態の〝阿弥陀如来〟もしくは〈阿弥陀仏〉ないしは〈無量光仏〉〈無量寿仏〉という仏陀・如来が、仏教経典に登場する次第なのですな、なるほど。


2021年4月13日火曜日

ジャータカ:仏陀の〈本生譚〉のことなど

 仏教経典の『大智度論』に〈ジャータカ〉として、《一角仙人》の物語が記述されています。

 ここで〈ジャータカ (jātaka) 〉というのは、サンスクリット語で、


जातक Born, produced.

V. S. アプテ『梵英辞典』(改訂増補版)〔昭和53年4月15日 複製第1刷 臨川書店/発行 p.733 〕


「生まれたる」

【漢訳】生、本生、受生

「嬰児」

「誕生時の星辰の位置又は観測」

【漢訳】[星宿]生処。生経、本生経、降誕経、本生、本生之事

【音写】闍陀伽

『漢訳対照 梵和大辞典』増補改訂版 昭和54年8月20日 講談社/発売 財団法人鈴木学術財団/編・刊 p.498 〕


と、辞書にあり、一般には〈本生譚(ほんじょうたん)〉という和訳も多く用いられます。

 でもって、〈本生譚〉とは、修行を終えて仏陀となった釈尊の菩薩時代の前世(過去世)の物語なのですが、まずは、仏陀(ブッダ)という語などについて解説しておきたいと思います。


 後に仏陀と呼ばれる、古代インドの釈迦 (Śākya) 族の王子の名前が、ゴータマ・シッダールタです。

 ゴータマは姓にあたり、サンスクリット語では Gautama となり、パーリ語では Gotama となっていて、もっぱら瞿曇(くどん)と漢訳されています。

 シッダールタはサンスクリット語の名で Siddhārtha という発音で書かれ、いっぽうパーリ語ではシッダッタ Siddhattha という発音になっていて、悉達多(シッダッタ)・悉陀(シッダ)など種々に漢訳されます。

 仏陀を〈釈迦〉というのは〈釈迦牟尼(しゃかむに)〉の略称で、〈釈迦牟尼(シャーキャ・ムニ)〉はサンスクリット語で〝釈迦族の聖者〟の意味となります。

 サンスクリット語のムニ muni はもともと〝霊感を得た人〟の意味をもち、漢訳経典では「牟尼、牟尼尊」のほかに「仙、仙人、大仙、神仙、默、寂默、寂默者、仁、尊、仏」なとど訳されているようです。


 この釈迦族の王子ゴータマ・シッダールタが、聖者として、シャーキャ・ムニと尊称されるわけです。

 シャーキャ・ムニ Śākya-muni は、〈釈迦牟尼〉と音写され、また〈釈尊〉と漢訳されています。この漢訳は〝釈迦族の尊者〟という意訳の省略形と考えればよさそうです。


 そしてサンスクリット語の過去受動分詞であるブッダ buddha が、〈仏陀〉と音写され、「覚者(かくしゃ)」あるいは「目覚めた人」と意訳されるわけです。この言葉はそもそも「目覚めた、完全に目覚めた」などという意味をもつ過去受動分詞なので、サンスクリット文献では、仏教に特有の用語というわけではないのですね。


 また、仏教の場合には、悟りを求めて修行中だった菩薩 (Bodhisattva, Bodhisatta) が、修行を完成して、最終形態の如来 (Tathāgata) となるわけですが、この如来(にょらい)という最終形態も仏教以前からの用語らしく、ジャイナ経典にも登場するそうです。

 ちなみに、タターガタ Tathāgata の tathā は〝その如く(そのごとく)〟というような意味で、gata は〝来れる(きたれる)〟という意味なので、合わせれば〝その如く来れる〟で〈如来〉となり、この漢訳が用いられるのは後漢の安世高に始まるようです。


 そして、仏教ではたとえば〈阿弥陀仏〉=〈阿弥陀如来〉で、すなわち〈仏陀〉は〈如来〉と同等の意味をもちます。

 そういうわけで、〝釈迦族の聖者である仏陀〟が〈釈迦牟尼仏〉=〈釈迦如来〉ということになります。


 ここで余談になりますけれども、称名念仏(しょうみょうねんぶつ)の代表格である〝南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ・なもあみだぶつ)〟の南無はサンスクリット語のナマス namas (namo) の音写で、「帰命(きみょう=帰依すること)」の意味なので、〝南無阿弥陀仏〟では「阿弥陀仏に帰依します」の意味をもつことになります。

 サンスクリット語の原典としては、『法華経』の〈南無仏〉という漢訳の部分が、

 namo 'stu buddhāya

〝仏に帰依したてまつる〟として、比較的容易に確認できるようです。

〔中村元著『広説佛教語大辞典 縮刷版』平成22年7月8日 東京書籍/発行 p.1277 〕


 namo 'stu buddhāya

『ブッダに敬礼(帰命)すべし』

 訳注 131

 buddhāya は、WT. では属格の buddhāna となっているが、その必要なし。namo 'stu buddhāya は、「仏陀に敬礼すべし」という決まり文句である。

〔植木雅俊訳『梵漢和対照・現代語訳 法華経 上』2008年3月11日 岩波書店/発行 pp.118-119, p.157 〕


 さて冒頭に、仏教経典の『大智度論』に〈ジャータカ〉として、《一角仙人》の物語が記述されています、と書きましたけれども、この物語は『大智度論』の著作者が、おそらくはインドの古典『マハーバーラタ』から採用したものです。

 ちなみに『大智度論』の著作者は、多少の疑いを残しつつ龍樹(ナーガールジュナ Nāgārjuna )ということになっていて、その龍樹は西暦 150~250 年頃のインドの人です。


―― でもって、それらの和訳された原典等を参照・引用したページを、以下のサイトで公開しています。


一角仙人と天女ウルヴァシー

http://theendoftakechan.web.fc2.com/eII/amrta/veda.html