2017年12月9日土曜日

訂正:長崎東京間に電信柱が並んだ年

 間違いを直したついでにまたまた間違えるというのは、負の螺旋に巻き込まれているのかどうか。
 前回、1 年ぶりの修正事項を記録したあと、日本での電信導入の歴史を追ってみました。
が、長崎-東京間の電信開通の年に誤認がありまして、またも訂正事項の確認・修正とあいなります。
 さて、前回の最後にこう書きました。

なお、その間の明治 10 年 (1877)、西南戦争では、通信分断の目的で電信分局が焼かれ、
当時の新聞によれば「野戦電信機」が投入された模様だ。
…………
日本にまだ二台しかない機械で、ドイツ人に注文したことが、記事には書かれている。
大陸と東京が〝電線〟でつながったのは、西南戦争の 1 年後のことだった。

 この最後の一行に、実はなにやら違和感がありまして、コピーしておいた手元の資料をもう一度、確認してみたのです。
 福沢諭吉の祝辞に、解答はありました。前回には、それを次のように紹介しています。

―― 『逓信事業史』にも採録されているが、「電信開業式」に参列した福沢諭吉が祝辞を寄せている。
「電信は國の神經にして、中央の本局は腦の如く、各處の分局は神經叢の如し。」
〔『福澤諭吉全集』第四卷 昭和34年 岩波書店 (p.470) 〕
この「中央電信局開業式の祝詞」は、明治 11 年 3 月 28 日の「郵便報知新聞」 2 頁 (a~b) に掲載された。

 この祝辞をよくよく読んでおけば …… と、あいも変わらず後悔は先に立たず。
 短文なのに肝心な個所をすっ飛ばして読んでおりました。
 同じページに、長崎-東京間の電信開通の年などが、ちゃんと記録されているわけです。

 電信局の年報に據れば、…… 東京長崎の線は明治六年に落成、箱館への通線は七年十月に落成、其前後東京大阪等の市中にも縦横に支線を張て、……。
〔『福澤諭吉全集』第四卷「中央電信局開業式の祝詞」 (p.470)

―― つまり、長崎と東京の間に電信柱が連なったのは、明治 6 年。
 その翌年明治 7 年には、津軽海峡に海底線が通されて、電線は北海道にまでつながっているのです。
 西南戦争で焼かれた電信分局というのは、九州南部の地域でしょう。
 そういうわけで、西南戦争以前に、電信設備はすでに九州と東京とを結んでいたわけです。
 だからこそ、電信局が襲撃されている。ということで、違和感解消の運びとなりました。
 まったくもって、なさけない理解力でありました。
 ですが、電柱をなにゆえ〝電信柱〟というのか、という謎は解けました。

 どころで九州では、明治 9 年にも、「神風連の熊本局襲撃」事件というのがあって、
『逓信事業史』第三巻 (p.94~) の記録に残されています。
 当時の憂国の士が、電信を伴天連(バテレン)の妖術と決めつけ、熊本電信分局に乱入する騒動があったようです。

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