2017年12月6日水曜日

〝電線〟が大陸から東京に到達した日

 1 年前の、2016年12月7日(水曜日)に
「1949年 教皇による『創世記』と〈進化論〉の研究の奨励」と題し、その最後に、

『新カトリック大事典』 第 3 巻 (p.378) 「進化論」の項には、北原隆氏により、
 1949 年、「教皇ピウス 12 世が回勅『フマニ・ゲネリス』において、公に進化と神学の関係の研究を奨励することになる。」と記述されている。
 1969 年――それはさておき、米国国防総省によるインターネットの起源は、その年とされている。

と、書いたのだけれども、実はその「進化論」の記述内容には偏りがあって、
そのうち修正しようと予定しつつも思い出すたびに忘れていて、結局 1 年が過ぎてしまったのでした。
まるまる 1 年以上も放置となってしまうのは忍びないので、とりあえずここに訂正しておきたい。

『新カトリック大事典』 第 3 巻〔2002年 研究社〕「進化論」の項は、北原隆氏により、記述されている。
―― 378 ページにある、上に引用された該当の段落を全文引用すれば、次のようになっている。

 進化論が生まれた当時の知的状況をみれば, 長い間カトリック教会がその学説に対し非常に慎重な態度を取り続けたことをある程度まで理解できるであろう. 1949 年になって初めて, 教皇 *ピウス 12 世が回勅 *『フマニ・ゲネリス』において, 公に進化と *神学の関係の研究を奨励することになる.

―― この文中の *印は、通常は参照事項を示している。
つまりは「フマニ・ゲネリス」の項目が別途に掲載されているわけで、
『新カトリック大事典』 第 4 巻〔2009年 研究社〕にそれはあった。
―― 370 ページに、久保文彦氏による内容紹介とともに、次の記述がある。

『フマニ・ゲネリス』 Humani generis
教皇ピウス 12 世の回勅( 1950 年 8 月 12 日付)
…………
【原文】 AAS 42 (1950) 561-78; DS 3875-99.

―― このように、一般には『フマニ・ゲネリス』(1950) と、なっている。
第 4 巻のこの個所を一緒に引用し優先させておけば問題なかったろうと、いつものことながら後悔は先に立たず。
というか、だいたいは後悔覚悟で書いている。
そういえば今年の春ごろにも書いた、
世間様にさらす文章なり文字を書くということは、ハジも一緒にかく覚悟なしにはできかねる、のだ。

それはそうとして、『新カトリック大事典』における記述ゆえ、
それから以降は、北原隆氏がその年を 1949 年としている理由が何かあるのだろうと、
「進化論」について資料を調べていくうち何か判明することもあるやも知れず、と想定しつつ、
今のところ根拠はみつからないので、ただの間違いという気もする。

以上、訂正事項はそんなかんじで。さて、

 1969 年――それはさておき、米国国防総省によるインターネットの起源は、その年とされている。

と、最後の 1 行に書いたのは、その日の冒頭を、次のように書きはじめたからだ。

1633 年、有名な裁判でガリレオは有罪とされた。
1665 年、ロンドン王立協会を拠点としたオルデンバーグによる科学雑誌、
『フィロソフィカル・トランザクションズ』 “Philosophical Transactions” が刊行された。
これは新大陸アメリカをも含めた、郵便による科学文献のネットワーク化であった。

―― このあたりについても少々補足しておきたい。
 1665 年から 1969 年まで、おおよそ 300 年間。
 大洋をまたいだ文献の情報ネットワークは、最初は郵便のシステムによっていた。
 それがいまや、光の速度で、情報は伝達されていく。
 電信の設備がユーラシア大陸の東端に達したのは、日本に文明開化が訪れる以前だったようだ。

1853 年 6 月、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーが、軍艦 4 隻とともに、浦賀沖に現れた。
1854 年 1 月、ペリー提督は、軍艦 7 隻とともに、ふたたび来航した。

 このとき、ペリーによって、電信が日本に紹介されたらしい。
 それから苦節 15 年。

明治 2 年 (1869)、東京-横浜間に電信が開通した。

 本邦に電信が開通した歴史を垣間見れば次のごとくである。
遞信省・編纂『遞信事業史』(昭和十五年 遞信協會・發行)によるが、
当時の出版物ゆえ、難しい字で書いてある。

逓信省・編纂『逓信事業史』(昭和 15 年 逓信協会・発行)のように、簡便な字で、引用する。

第三篇 第二節 電信開業式 (p.98)
 九、国際線の開通
 なお電信の普及はただに国内のみでなく、国際間にもおよび、明治 4 年より丁抹(デンマーク)国の大北電信会社 The Great Northern Telegaraph Company の長崎上海間および長崎浦塩間の海底線を経て、早くも海外電信の取扱を開始し、明治 11 年 3 月、万国電信連合加盟の議決して、我国も翌 12 年 1 月より同連合の一員となることとなった。(「通信事業五十年史」に依る)
 十、電信中央局の開設と電信開業式
 かくて明治 11 年 3 月 25 日東京木挽町に電信中央局の開設を見たが、これを機とし、同局に於いて電信開業式を挙げた。けだし従前は電信取扱局所を設置するごとに、まづ試開と称して試験的に通信を送受したが、爾来技術大に進むと共に、秩序ある局所増置の方針をとるようになり、線路の延長および海外電信局との対立等、事業の大綱が完成したので、これを祝賀するものにほかならなかったのである。

―― 引用文中の「浦塩」は「浦塩斯徳(ウラジオストック)」の省略形であろう。原文は「浦鹽」と書かれている。
明治 3 年 8 月 25 日、デンマーク大北電信会社と、条約を交換。
明治 4 年 6 月、長崎-上海間の海底線が開通。
明治 4 年 11 月、長崎-ウラジオストック間も開通。
―― 『逓信事業史』にも採録されているが、「電信開業式」に参列した福沢諭吉が祝辞を寄せている。
電信は國の神經にして、中央の本局は腦の如く、各處の分局は神經叢の如し。
〔『福澤諭吉全集』第四卷 昭和34年 岩波書店 (p.470)
この中央電信局開業式の祝詞は、明治 11 年 3 月 28 日の「郵便報知新聞」 2 頁 (a~b) に掲載された。

祝辞の後半に福翁は、生きてる間に日本で電信の実物を見ようとは思いもよらなかったことをつづっている。
わずか 13 年前の慶応年間に彼が見たままの西洋事情を紹介した際には、
世間は電信なる一種の奇機を信じなかったのであるから、隔世の感もあろうかと想像される。

なお、その間の明治 10 年 (1877)、西南戦争では、通信分断の目的で電信分局が焼かれ、
当時の新聞によれば「野戦電信機」が投入された模様だ。
軍中電信機(ぐんちうでんしんき)」〔参照:「読売新聞」明治 10 年 2 月 27 日 (p.3)
野戰電信機(やせんでんしんき)」〔参照:「読売新聞」明治 10 年 3 月 1 日 (p.2)
日本にまだ二台しかない機械で、ドイツ人に注文したことが、記事には書かれている。
大陸と東京が〝電線〟でつながったのは、西南戦争の 1 年後のことだった。


【訂正】
長崎と東京の間に電信柱が連なったのは、明治 6 年。
その翌年明治 7 年には、津軽海峡に海底線が通されて、電線は北海道にまでつながっている。
次回分に間違いの言い訳などを書く。

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