2016年3月28日月曜日

世の始めからの 〈δράκων (drakon)〉— Dragon —

 旧約聖書「創世記」第 1 2 節は、このように書かれている。

地は混沌であって、闇が深淵の面 (おもて) にあり、神の霊が水の面 (おもて) を動いていた。

 で、もって、旧約聖書「創世記」第 1 21 節には、「第五の日」の仕事として次のようにある。

 神は水に群がるもの、すなわち大きな怪物、うごめく生き物をそれぞれに、また、翼ある鳥をそれぞれに創造された。神はこれを見て、良しとされた。

 そして聖書の《神》は、「第六の日」の仕事として、人を創造する。
 だから、「第五の日」の 〈大きな怪物〉 は、人より先に造られている。
 風の噂では、この 〈大きな怪物〉 が、かのホッブズの著作タイトルとしても名高い 〈リヴァイアサン〉 であるともいう。
 その、もとのヘブライ語はここにはカタカナ表記するが、〈タンニーン〉 である。
〈タンニーン〉のヘブライ語はこちらのリンクを参照されたし『旧約聖書 ヘブル語大辞典』(p.1404)

上の参照箇所(リンク)の引用を続いて見るなら、『新聖書大辞典』(p.1501) には、
「りゅう 龍 Dragon 」のヘブライ語は 〈タンニーン (tannin) が該当し、
それが「七十人訳ギリシャ語聖書」などのギリシャ語訳では、〈δράκων (drakon)〉
すなわち英語の 〈 Dragon 〉 なのだと、そのように記述されている、と私見する。

 つまり、ヘブライ語 〈タンニーン〉 はギリシャ語 〈 drakon 〉 となり、それが英語の 〈 Dragon 〉 となった。
 それを日本語訳では、〈龍〉 という。
 そういうことであれば、〈龍〉は「第五の日」に創造されたといえるかもしれないが、もしかすると、この場合の〈タンニーン〉は〈海の巨獣〉という意味では、リアルに「鯨」を指すのかもしれない。
 そして聖書では、「鯨」を表現するのに、「レビヤタン」すなわち〈リヴァイアサン〉を用いたりするようだ。
 そういうことをつなげていけば、「鯨」という〈リヴァイアサン〉は、「第五の日」に創造されたといえよう。

しかしながら、次回に、そのあたりを辞書で詳しく見る予定なのだが、
聖書の「レビヤタン」は、〈リウィヤーターン〉のようなカタカナ表記になりそうなヘブライ語が、
別にちゃんとあるのである。

また「創世記」第 1  2 節にある 〈深淵〉 のヘブライ語 〈テホーム〉 は、
『エヌマ・エリシュ』 の 〈ティアマト〉 に関連するらしいが、それもただちに 〈リヴァイアサン〉 となるわけではない。
〈リヴァイアサン〉 は以前に見たように「ウガリット」の神話に由来するようだ。

――再度、しかしながら。実は、
今回は、そのことよりも、ヘブライ語 〈タンニーン〉 がギリシャ語 〈 drakon 〉 となったのなら、
新約聖書「ヨハネ黙示録」第 12 9 節にある、次の一文と関連づけて考えてみたかったのであった。

この巨大な竜、年を経た蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれるもの、全人類を惑わす者は、投げ落とされた。

〔以上の聖書の引用文はすべて『新共同訳 聖書』によった〕


レビヤタンとラハブ 1
http://theendoftakechan.web.fc2.com/atDawn/Messias/Leviathan.html

2016年3月22日火曜日

「唯一の神」である聖書の《神》は
『聖書』を離れて 無関係に存在しうるのか?

 2003 年に設立された同志社大学一神教学際研究センター( CISMOR )発行の〔オンラインで刊行されている〕電子ジャーナル『一神教学際研究 9』 2014 3 月発行)の論文に、次のように、書かれている。

 アッシリアが西方に勢力を拡大した紀元前 8 世紀には、古代イスラエルでは偉大な戦士なる王、ヤハウェが国民の神として崇められていた。この男性神は他の神々の上に君臨し、他の神々はヤハウェに較べると取るに足りない存在でしかなかった。この頃にはヤハウェとエルが同一視されていたと考えられる(出エジプト記 6:2‐3 参照)。エルにはアシラという妻がいたため、ヤハウェとエルが一体化した結果、ヤハウェ-エルとアシラは夫婦とみなされるようになった。
マーク・S・スミス「古代イスラエルにおける一神教と神の再定義」(p.12)


 また、岩波講座 宗教 第 3 『宗教史の可能性』 2004 2 26 日 岩波書店発行)所収の「読書案内」の解説には、次のようにある。

複数の遺跡で発見されたヘブライ語碑文などからは、王国時代、イスラエルの神ヤハウェにアシェラと呼ばれる配偶女神がいたことも判明した。
月本昭男「一神教の成立をめぐって」(p.292)


 このような新しい研究によると、聖書の《神》が「唯一の神」であると主張されるようになったのは、旧約聖書「イザヤ書」の第二部に当る〈第二イザヤ書〉が大きなきっかけであるらしい。
 果たして、「唯一の神」としての聖書の《神》は〈第二イザヤ(書)〉が創造したものなのか?
 もしそうであるのなら、「聖書に創造された『聖書』の《神》」は、その『聖書』を離れて、それとは無関係に存在できるのか?――という疑問が浮かび上がってくるのだ。

 つまり、たとえば、キリスト教の神は、地上にキリスト教が存在しなくても、存在するのか? と、いうことなのだ。

その《神》が疑うことなき、創造神であり、唯一の神であるのなら、無論、人類の有無とは無関係に、存在するのであるから。

そう考えれば、
「その人」が守るべきは、彼の信仰であり、彼の《神》ではないことが理解されるようになる。
他人を犠牲にしなければ守れない信仰を持つ「その人」とは、いったい誰なのか?
――疑問は、いつも新たに浮かび上がってくる。


〈第二イザヤ〉 と 唯一の神
http://theendoftakechan.web.fc2.com/atDawn/Messias/secondIsaiah.html

2016年3月14日月曜日

〈ヘレル・ベン・シャレム〉という仮説

 エレツ・イスラエル――イスラエルの地は、地中海の東岸に位置し、そのすぐ西方には人類黎明期からの強国エジプトがあった。
 東のメソポタミアを含めそれら、地理的な位置関係は、無論旧約聖書の時代を通じてそのままなのだが、その昔、エジプトから脱出したイスラエルの民は、その後、バビロン捕囚という時代をも迎えることになる。
 当時、その一帯は、(新)バビロニア帝国の領土の一部となり、現在は、パレスチナと呼ばれるが、それは「ペリシテ人の地」を意味するギリシア語に基づく名称だ。

 現在のイスラエルの首都となっている〈エルサレム〉の語源は、最近の定説では、「イェルゥ(礎)」+「シャレム」であるらしく、それは「黄昏 [たそがれ] の神の都」を意味する言葉となる。
 そこから遙かバビロンへの道は、「夜明けの星が輝く」まさに、〈暁 [あかつき] の星〉に至る方角にある。

 イスラエルの民が建てた都市は、エジプトとバビロンを往来する、行程の途上にあった。
 したがってそこは戦火を避けられない運命にあった。だから、いまもそうなのか?
 いまも〈エルサレム〉は世界の中心にある。

 その場所を示す地図に、〈エルサレム〉の意味を重ねると、「イザヤ書」の句を思い出した。
 〈ヘレル・ベン・シャハル〉――これは、バビロンの王をなぞらえた語句とされているが、それは「夜明けの星の子」を意味する。
 ならば〈ヘレル・ベン・シャレム〉――それは、エルサレムの王が「黄昏の星の子」であったためではなかったか。

つまり、
「夜明けの星(国)の王」は「黄昏の星(国)の王」を基準にして、語られた言葉では、なかったろうか。

 しかしながら、〈ヘレル・ベン・シャレム〉と、ググってみても、いまのところあまり多くは見つからない。ちなみに――。
 上の句〈ヘレル・ベン・シャハル〉は「イザヤ書」14 12 節にあるものだが、同じ「イザヤ書」には世界を表現して次のようにある。参考までに……

日の昇るところから日の沈むところまで
人々は知るようになる
〔『新共同訳 聖書』「イザヤ書」45 6 節より〕


Canaan(乳と蜜の流れる地) と〈エルサレム〉の神
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2016年3月7日月曜日

現象としての「七転八起」

 世に、
七転八起――しちてんはっき――といい、
七転八倒――しちてんばっとう――という。

昔から、「七転八倒」はわかるが「七転八起」は理解不能であった。

だが、今年になって、突然気づいたのである。
これは「二泊三日」の旅を「七泊八日」とすることで容易に考えることができる、と。
最初の状態を「転んでしまっているという現在完了形」から始めれば、
たちどころに実現可能なものとなることは、世に明らかなことであったのだ。

――つまり?
 これをさらに「ゼロ泊何日」の規模で考えるなら、今後一度も転ばなくとも複数回にわたって起き上がることすら可能であるかもしれない、という話になるかも知れない。

 超常現象としてではなく、「七転八起」――これは実際に可能である。
 少なくとも、「七転八倒」するよりは、望ましいと思われる。

現在は打ちのめされていないという都合のいい話で始めようとするからその話が見えなくなる。

――そういえば。
決して諦めない話として、
「アポロ」というウエブページを作ってほぼ一年が経過した。

これはリアルとフィクションが混乱すると、
高名な学者によって〔実話のように〕書かれた例題から、
「〔実は、〕夢だけど、夢じゃなかったっ! 映画だった!!
というお粗末な結果が導き出されるという教訓でもありました。

そういうわけで、今回は過去ページから、以下抜粋します。
(こんな感じの内容が、当時、記述されていました、とさ!)
最初の、「現在のホームページ」公開宣言でもありますので、一周年というわけで……。
 ↓


2015年3月5日木曜日

Apollo ; Lost Moon

昨日、今までの内容を整理して、ホームページとしてアップしました
http://theendoftakechan.web.fc2.com/

本日に更新した内容は、次の通りです。
http://theendoftakechan.web.fc2.com/Apollo.html

2016年3月4日金曜日

「最初の殺人」 — カインの物語 — と、都市文明

最初の人間ともされる「アダムとイブの物語」は有名だ。
余談ではあるが、「イブ」は日本語聖書では「エバ」ともっぱら表記されている。

そのアダムとエバの長男が、カインであり、次男がアベルだ。
「アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。」

当時は、エデンの東で暮らす、この四人家族が、全人類であったはずだ。
そして長男カインが、次男のアベルを殺す。
それを知った《神》は、エデンの東から、同じくエデンの東の地へと、カインを追放する。

――で。聖書には、次のような《神》に対するカインの供述があるのである。

あなたは、きょう、わたしを地のおもてから追放されました。わたしはあなたを離れて、地上の放浪者とならねばなりません。わたしを見付ける人はだれでもわたしを殺すでしょう
〔『聖書 口語訳』旧約聖書「創世記」第 4 14 節〕

カインが殺されることのないよう、《神》はカインに「しるし」をつけ、
そして、このあとで、カインは妻を得て、子をもうける。

これはもう、『聖書』の記述が、自身で、
《神》による人類創造が「創世記」だけの物語ではないことを、吐露しているのである。
すなわち「創世記」は『聖書』の記述以外の人類創世を示唆している、といえよう。

 この同じ地球上(と推定される場所)で〈植物〉と〈人類〉の登場する順番が異なる、二種類の「人類創造譚」が「創世記」で続けて語られていることで、『聖書』の《神》による「人類創造」が一度ではなかったとする解釈も一部に見えるが、同一の時間軸上に、一度しかなかったはずの「初めての登場シーン」が順番を変えて二度あったと考えることは不自然であり、これは同じ「人類創造譚」の〝別バージョン〟とするのが妥当と思われる。

(身近といえるかどうか、我々日本人にとってより親しみやすい身近な例では、日本神話の編集過程において『日本書紀』が採用した〔並列記載の〕手法と、はからずもこれは同じ編集手段を用いているといえよう。)

つまり、
「創世記」を真摯 [しんし] に読めば、それが〈人類創造〉の一部でしかないと、推定可能なのだ。

そうしてカインの物語の最後では、彼は都市文明の祖ともされる。
しかし、定住と都市文明は、《神》への挑戦として解釈され、
アダムの子孫の別系統であるノアの物語の直後に、「バベルの塔」の物語が記述されている。

《神》は、人類が思い上がらないようにと、人間同士の意思疎通を阻んだのだ。
――どうやら聖書の《介入する神》は、人類の「横のつながり」を嫌うらしい。


〈 Babylonia 〉定住と農耕
http://theendoftakechan.web.fc2.com/atDawn/Messias/culture.html