2015年11月30日月曜日

ホッブズ「知は力なり、されど乏し」

 まず、最初に見たのは、こういう原文でした。

Scientia est potentia

 次に見たのは、こういう形でした。

scientia potentia

 いずれも、フランシス・ベーコンに「帰される格言」であり、「唱道した」ものであるという触れ込みなのでした。それで――。
 その触れ込みの表現と、それなりに信頼できそうな「辞書」に記述された原文が異なる、という条件があいまって、ベーコン自身は言ったこともない成句なのだろうと、この時点でほぼ確信できたものです。

 はたして、次に見た解説文には、こうありました。

「知は力なり」というダイレクトな表現はベーコンの著作には見いだされない。ホッブズの『リヴァイアサン』ラテン語版の第一部第一〇章に ‘scientia potentia est’ というダイレクトな表現が見いだされるが、むしろそれはネガティヴな文脈で出現しているにすぎない。つまり、学問的知識は小さなものでしかない、なぜなら、それを有している人は少数だからである、という含意である。ベーコンについて言えば、『聖なる瞑想』(Meditationes Sacrae, 1597) に、‘scientia potestas est’ という表現が見いだされるが、それはあくまで、神において、その知は神の力である、という意味であって、一般に流布している意味とは異なる。

 その後しばらくして、こういう説明に巡り合うことができました。

ホッブズも「知は力なり、されど乏し[パルウア]」(19) と言っている。
(19)  T. Hobbes, De Homine, cap. X. またホッブズは「力」の種々相をあげ、「諸学は小さな力である」と言っている。『レヴァイアサン』第一部、一〇章。 

 同様な説明は、次のようにも、あります。

 このベイコンのモットーとされている言葉は、実際は彼のものではなく、ホッブスのものである。これに対応するベイコン自身の章句は『ノヴム・オルガヌム』(一-三)にある、「人間の知と力は同一のものに帰する」(scientia et potentia humana in idem coincidunt.) である。

 いずれも、我が国の第一人者と思われる研究者たちによる研究成果なのです。
 ちなみに、ホッブスは、ベーコンの秘書をしていたという、経歴の持ち主でもあります。
 これはもう、ベーコンではなくて、ホッブズによる成句として構わないのでないでしょうか。
 そうしてもって、

17 世紀 イギリスの「知と力」と革命と
〔前半〕: ベーコンとホッブズ:「知と力」と魔術
http://theendoftakechan.web.fc2.com/nStage/Hobbes.html

のページ冒頭部分で、

“Scientia potentia est, sed parva.”
「知は力なり」とホッブズはいった「だがそれはたいした力ではない」と

とばかりに断定しました。

 しかしながら、まだそのラテン語原文を、資料として、確認できたわけではありゃしません。

そういうわけで、鳥取県立図書館で原文資料を探してもらい――、
その結果、国立国会図書館から、相互貸借システムを利用して借り受けることができました。
鳥取県立図書館まで届けられた資料(館内閲覧限定)で、必要なコピーを取ってもらうこともできました。

 そうして、上の原文に間違いのないことが、確認できたのです。
 これはこれは、いかにも、図書館利用の一例のご紹介です。
 この便利な図書館機能の利用代金はというと、複写(コピー)料金以外は、無料です。
 これはこれは、いつもお世話になっている鳥取県立図書館の宣伝文句のようになっております。
 まあそういうつもりです。

その、ラテン語原典に、興味のあるかたは――、
資料名等はページ上にて、ご確認ください。ページ上の、

“LEVIATHAN” VOLUME 2

をクリックすることで、詳しい資料名が記述してある、自前の参考文献ページに移動できます。
その名を頼りに、国会図書館で、捜してみてください。〔ここで漢字が違うのは「探索」と「捜索」の違いです〕


ホッブズ「知は力なり、されど乏し」ラテン語版
http://theendoftakechan.web.fc2.com/nStage/Hobbes.html#Leviathan


 また、このたびは、別のページにも【付記】として、次のような参考資料(引用文)を挿入いたしました。
『科学革命の新研究』(日新出版、1961 年初版)に収録された、M. E. Prior による 1954 年の論文です。
 ベーコンの「博愛」について、「バーレイにあてた彼の有名な手紙」として、引用および論述されています。

 M.E.プライアー(渡辺正雄訳)「ベイコンの科学者観」より
http://theendoftakechan.web.fc2.com/nStage/philanthropy.html#Prior_Bacon

2015年11月27日金曜日

〈神もしくは自然〉 の句にまつわる曖昧さ と……


「数学的帰納法」とは「演繹」である


 長い間、誤解していた。――その誤解がようやく解けたのは、上のような一文を見たときのことです。
 つまり「数学的帰納法」というのは、

条件1 すべてのAはBである
条件2 すべてのBはCである
結論  すべてのAはCである

という感じのもので、これはいわゆる「三段論法」というものなので、すなわち、「帰納法」というのは、「三段論法」なのだ――という誤解です。

∴ 帰納法は三段論法のことをいう

 この「」が間違っているのは、「帰納法」と「数学的帰納法」を同じものとみなしたことによります。
 ところが「数学的帰納法」とは、いわゆる「帰納法[きのうほう]」なのではなく、まさに「演繹法[えんえきほう]」なのでした。

条件1 数学的帰納法とはぶっちゃけ三段論法のことをいう
条件2 演繹とはぶっちゃけ三段論法のことをいう
結論  数学的帰納法の中身が演繹なのはどちらもぶっちゃけ三段論法だからである

という感じの「三段論法」が実は正しいのです。

専門家でもないものが、参考資料も見ずに、うろ覚えで書いているので、
以上の記述が、どこまで厳密な正しさを確保しているかは、とりあえず置いといて、
ぶっちゃけおおまかには、正確であるはずです。「おおまかに精確」では句が矛盾してしまいますが……。

 ここで、いま一度、確認しておきましょう。
 いわゆる「帰納法」の説明でよく引き合いに出されるのは、
「過去に観察されたカラスがすべて黒かったのでカラスは黒いことにする」という内容のものです。
 これは「反対の事例がない限り」正しい、ということを意味します。
 つまり、「すべて」ではなく「いまのところ」なのです。これが「帰納法」の正体ということになります。

∴ 帰納法は三段論法のことをいうのではない

 最初の誤解については、つまり問題は、中身が「演繹」なのに「数学的帰納法」などという紛らわしいネーミングにあったわけです。しかしながら、「数学的帰納法」はやはり「帰納法」なのであり、通常の「帰納法」と違うのは、条件に「すべて」が記述されている点にあります。

∴ 「数学的帰納法」は「いまのところ」ではなく「すべて」のカラスを黒くしてしまう手法なのである

 そしてどうやらこのあたりの曖昧さが、17 世紀の自然哲学者たちにかぎらず、現在に至るまで、受け継がれているようなのです。

 と、いうわけで――。
 いわゆる「機械論的」自然哲学者が証明に用いる手法は、「演繹法」なのであり、その代表者とされるのは、デカルトです。
 それによく対比される自然哲学者がベーコンであり、その手法は「博物誌的」な、「帰納法」なのです。
 両者の手法は異なるけれど、結論はよく似ています。その結論とは、いわゆる「人類による自然支配の可能性」についてです。

条件1 デカルトは無論「完全な自然支配」を目論[もくろ]んだ
条件2 一方のベーコンは「可能な限りでの自然支配」を目論んだ
結論  デカルトもベーコンも「自然支配」を目論んだ

 ということになって、この両者の違いの大きさが判らない御仁が多くおられるようだ、――です。
 そしてまた。
 スピノザは、「〔機械論的〕幾何学的」な論証方法で記述された『エティカ(倫理学)』を残したので、その「神の証明」は完全なものであると、スピノザが言っていると、一般には思われているようです。

 しかしながら、――スピノザは、《神》は〈無限〉という「属性」をもつ実体だと定義しているので、――人類に〈無限〉が語りつくされようはずもなく、そういうこともあってか、ゆえにゲーテは「スピノザは神の存在を論証してはいない」と手紙に書いたという話です。ちなみに、ゲーテは、スピノザを擁護する目的でこの手紙を書いたようです。
参考文献:ジョゼフ・モロー/著『スピノザ哲学』白水社、竹内良知/訳 140~141 ページ


 またあの、ヘーゲルも、スピノザを擁護して、

「スピノザによると、神こそ唯一の実体であり、自然や世界は、スピノザのいいかたを借りると、実体ではなく、実体の情動ないし様相にすぎない。」
「スピノザの悪口をいう人びとは、神をまもろうとするのではなく、有限なものや世界をまもろうとしている。かれらは、有限なものが実体と見なされないのが、つまり、有限なものが没落していくのが、気にいらないのです。」
と、『哲学史講義』に残しています

ここで、量子力学による〈世界は影〉理論と、スピノザの〈永遠の相のもとで観想される世界〉の記述が、結びつきました。


― 神 もしくは 自然 ―  〈 God or nature 2 〉
http://theendoftakechan.web.fc2.com/nStage/Spinoza.html

2015年11月24日火曜日

〈神という自然〉 を記述する〔機械論的〕自然哲学者たちの誤謬

 太字は、このたび、アップロードした、ページの一部(冒頭)です。

 【ガリレオの場合〔参照〕
一六一八年に天に三つの彗星が観測されたとき、ガリレイには、それを自分では「眺める」ことをしない十分な理由があった。すなわち、それらの彗星に認めなければならないであろう軌道は、彼がそもそも天体を天体として承認したとすれば、あらゆる天体が描く軌道は円形だという、彼が頑強に堅持する教義に矛盾したからである。ガリレイの光学も彼自身の教義学に屈服したのであり、彼は、自分にとって不都合な現象を錯視として説明することによって、敵対者たちが木星の月に使ったのと同じ言い逃れを用いて切り抜けたのである。

 【デカルトの場合〔参照〕
 スピノザのデカルト批判は、デカルトの「松果腺」仮説への批判を起点とする。彼はいう、「スコラ学者たちが曖昧な事柄を隠れた性質 (qualitate occulta) によって説明しようとしたことを、あのようにしばしば非難した哲学者自身が、一切の隠れた性質よりも更に隠れた仮説をたてるとは、まったく驚きいったことである」(『エチカ』第五部序文)と。

 【ニュートンの場合〔参照〕
~~、17 世紀になると、感覚にかからないものでも、知性によって知ることができると認められるものがあると考えられるようになり、従来オカルトとされた対象も科学の研究対象となった。しかしニュートン自身の重力概念が、従来通りの意味でオカルトであると批判されたのである。

――

 たとえば地雷原では、先人の足跡を辿[たど]って行けば、たとえ前人がどこか途中で失敗していたとしても、その失敗した場所までは安全に移動できて、通常は、そこで自分が改めて、爆発することもない。そこから、さらに、前人未到の地に足を踏み入れることも可能だ。
 同じ場所に、新たに地雷が埋め込まれていない限りは……。
 だから、最初が肝心だ。一番信頼できそうな足跡に、自分の足を乗せることから、はじめるべきだ。そうすれば、足跡が続く限りは、安全が保障されている。
 ところが、いままでみてきたところによると、哲学理論の場合には、「同じ轍[てつ]を踏む」ことで、自分もまた、そこで同じように、爆発してしまうようだ。
 機械論的・数学的〔幾何学的〕自然哲学者の、ガリレオ然り、デカルト然り、ニュートン然り、なのであった。と、いうことなのである。

 そのついでに、次に、以前このブログにも書いた(2015年10月14日水曜日)、パスカルの遺稿中の、一節にも触れた。

 そういえば、あのパスカルも、ひとは都合のいいことばかり聞きたがるといって、都合よく改竄[かいざん]された『聖書』からの引用をしていた……。
  パスカルのその書は自身で公刊したものではない(死後に発見され遺稿として出版された)のだけれども――つまり、未定稿となる(決定稿ではない)のだが――、未定稿とはいえ、とにかく彼は下記のごとくに記述した。

 〔「幾何学的精神について」より〕
〔 4 〕~~。「耳に快いことを語ってください。そうすればあなたの言うことに耳を傾けます」とユダヤ人はモーセに述べていた(59)。快適かどうかによって信じるかどうかが決まるはずだといわんばかりに。~~。

 (59)  「出エジプト記」二〇章 19 節、「モーセにいった。あなたが私たちに語ってください。そうすれば、私たちは聞きます」の大胆な脚色。 

と、本日付のページに、記述した。
 しかしながらも、である。ひとは間違えるものなのだ。いつ、自分が同じ〈轍〉を踏むのかと、いつも気になっていたし、いまも気にしている。
 それで。今回のページは、一応はこれで決定稿なのだが、下書き状態で放置したままのページは、まだ残っている。
 参考文献ページからのリンクがある都合上、できたところまでを、とりあえず、アップロードしてある。
 ――で。次回に一応の決定稿とする予定のページに、本日、けっこうなエラーを発見してしまったのだ。
 もうすでに修正は済ませたが、そのページは、ながながと、放置状態のままで、公開されていたのだ。
 たまたま、そのページだけを、見たひとに、「これは下書きです」と、文頭に説明するのもおかしい、
「ならば、公開せぬがよかろうが」
と、一刀両断の憂き目にあうに決まっている。

 ひとは、間違えるものなのだ、問題は、それが指摘されたあとの、対応なのだ。と、しておこう。

結果ありきの推論と過程と結論では、きっとそううまくはいかない、のだろう。


― 神という自然 ―  〈 God or nature 1 〉
http://theendoftakechan.web.fc2.com/nStage/Eriugena.html

2015年11月20日金曜日

〈隠された性質〉 ― ニュートン力学による神 ― もしくは 《量子エンタングルメント》

量子力学は〈現象〉を完全に記述できるか?


16 世紀に発表されたコペルニクスの天体力学を完成させたともいえる、
17 世紀のニュートン力学が残した謎は、運動原理としての〈万有引力〉の原因であった。

20 世紀、アインシュタインが、一般相対性理論を発表し、その重力理論を完成させるが、
そのころ新たに発生した謎が、シュレーディンガーの言葉で、《エンタングルメント》 というものだ。
そしてその謎に、新しい力学である量子力学は、波動方程式でこたえたのである。――が、
しかしながら、波動方程式は、なぜそうなるのか、についての解答は導かない。

アインシュタインは、そのことが不満だった。量子力学が気に入らなかったわけではない。
量子力学でも解けない謎があることに、彼は不満だったのだ。
だから、アインシュタインらは、量子力学の不完全さを論文にして提出した。
それが、上記の副題がパクったところの
「物理的実在の量子力学的記述は完全だと考えることができるか?」
――いわゆる 《EPR論文》 である。

アインシュタインは、宇宙の完全な記述のできる物理学を、信じていた。
ガリレオと同様に 〈数学的言語は天を表現可能な神の言葉〉 と、考えていたのだろう。

ところが、現実は、そうではなさそうだ。

そもそも、自然科学は、ガリレオが「天の運行」についていったごとく
〈どのように〉 を解き明かすものであって、〈なにゆえに〉 にはこたえないものだ。
現象そのものを記述するのであり現象の意味や目的は対象からはずされる。
現代物理学でもそのことは変わらない。

宇宙は、ひとの内宇宙[インナー・スペース]と同じく、必ずしも、記述可能なものではない。


ニュートン力学と〈隠された性質〉
http://theendoftakechan.web.fc2.com/nStage/occultQualities.html

2015年11月18日水曜日

最初の〈情報戦略〉=《情報ネットワーク》構想

たとえば、
内乱(市民革命)という点で、日英で近い事件を並べてみるならば、

1649 年 国王チャールズ 1 世が斬首される (イギリスの市民戦争)
1651 年 由井正雪が反乱未遂事件で自殺する (慶安の変)

また、その後には、

1657 年 明暦の大火
1666 年 ロンドン大火

かくのごとくに江戸時代には、花のお江戸もロンドンも、大火事の記録が残されている。
そういう時代、イングランドで「王政復古」が行なわれた、その直後に、

1660 年 ロンドンの〈王立協会〉は誕生した。

 その〈ロンドン王立協会〉の事務局長に、現在に至るまで続く「科学雑誌」を創刊した、オルデンバーグというドイツ人がいる。
 〈ロンドン王立協会〉が正式に発足するのは、1662 年で、パリとロンドンで最初の雑誌が創刊されるのは、1665 年である。

金子務『オルデンバーグ』(中公叢書、2005 年)という本には、

 いま、まず『トランザクションズ』に先行してパリで刊行が始まったフランスの学術誌、『ジュルナル・ド・サヴァン』との関連を見ておこう。 (P. 141)

とあり、ロンドンの「フィロソフィカル・トランザクションズ」と、
創刊がそれに二ヵ月先行したフランスの雑誌にも触れてある。

 その本の「第四章」には、また、《学会》の起源としての勉強会などの必然性が、
――つまり――
面[つら]つき合わせて語ることの必要性として、語られる。……このことは重要である。
そこに記述された〈暗黙知〉の理論は、まさに〈クラスター理論〉の核心に迫るものだ。
――ありがちな話ではあるけれども――
飛躍のヒントは、記号化された言語では語られない部分に潜んでいることがある。

 科学の共同体形成の上で、大枠としての科学通信システムという神経ネットワークの形成が不可欠であることについては、まず異論はないであろう。しかし、同時に見逃されてならないのは、もう一つのヒューマン・ネットワーク、フェイス・ツー・フェイスの人物リンケージの重要性である。 (P. 194)
 というのは、科学通信の手段がなんであれ、通信によるネットワークは知識が言葉で表現できること、情報パッケージに分割可能なことを前提にしている。あくまでもそれは、顕在知について有効な手段なのである。 (P. 195)
金子務『オルデンバーグ』(中公叢書、2005 年)「第四章」

 この続きも、引用文として、多少記させていただいている。
 最後に、今回オルデンバーグについて学んだことを、自分の言葉として、書いた内容を、書き写させていただきます――。このオルデンバーグの戦略的発想は、まさしく現代のインターネットに受け継がれているのです。

 ほとんど単独で行われた――フランシス・ベーコンの理想を受け継ぎ、衆知を集めんとして、ヨーロッパの全域を網羅し、また新大陸アメリカをも結ぶ最初のネットワーク構築による〈情報戦略〉――


王立協会の設立とオルデンバーグの〈情報戦略〉
http://theendoftakechan.web.fc2.com/nStage/Oldenbourg.html

2015年11月16日月曜日

《自然支配》 批判 を展開する文芸作品のこと

 前回に 「このお話は また次回」 と書いちまいましたが、その、
イギリスで〈情報戦略〉が継承された時代のことを話題にする前に、ひとつ、
今回は、自分のための覚え書きという体[てい]の内容を挿入するのであります。
――

デカルトは、自明の理であると主張して、ほぼ独断に近い推論で〈自然哲学〉を構成しました。
〔このことでデカルトの天才を否定しようというつもりは毛頭ありませんけれども、しかしながら〕
それを「デカルト自然学というロマン」と語ったホイヘンスと、
「仮説を捏造しない」と言い放ったニュートンのことには、前回触れました。が、
そのときリンクを記載した、

ニュートン-17世紀科学革命
http://theendoftakechan.web.fc2.com/nStage/theRevolution.html

の引用文中にある、
自然破壊の首謀者として引き合いに出されるベーコンについて書かれた一段で、

 そこで、論者の中には、フランシス・ベイコンを指弾して、このような事態を引き起こした元凶はベイコンであると言う人々がいる。しかし、読者にはすでにおわかりのように、これは、ベイコンを知らず、歴史的認識をもたぬ人々の、ベイコンヘの見当外れの責任転嫁に他ならない。
渡辺正雄『文化としての近代科学』講談社学術文庫版 255 ページ

という表現によって、擁護が行なわれていることが、かなり印象に残っているのです。
この引用文は、かなり以前に記録させていただいていたもので、それは「魔女狩り」について調べはじめるより前のことなのです。
――実はそれで当時のイギリスの時代背景などを調べてみたという経緯[いきさつ]もございます。


ここまでをまとめますと、以下のごとくです。

「デカルト自然学」は〈自然哲学〉として、論ぜられました。
この自然学理論が間違っているなら、〈自然哲学〉の分野から批判が行なわれてしかるべきです。
それでもって、結果として、ニュートンによって、否定されるべき部分は否定されたのです。

いっぽう、ベーコンに対して行なわれている批判は、どうやらそういう類[たぐ]いではなさそうなのです。
そのことが気になって、今回の件を調べてみたという次第です。

 ――
先だって(2015年11月5日木曜日)のこのブログ上で、
「文芸作品」というのは〈省略〉で構成されており、その〈行〉を介して〈行間〉を読ませるものだけれども、
「学術論文」の場合はすべてを〈明示〉しなければならない、というようなことを書きました。
それは、両者の分野が違うということでもあります。

実はその際にリンクを記載したページに、その翌日に追加した、最後の箇所があります。
あまりにも厖大な注釈の量に圧倒されていくらか血迷ってもおりました。

前田達郎「レトリックと方法―― F.ベーコンの二つの顔 ――」 の注釈の部分です。
その最後の最後に、

 ベーコンの「知は力」の思想が、現代における自然と人間の疎外の根源として現代哲学で非難されることがある(フランクフルト学派)。しかしベーコンこそ科学の背景にある宗教的エートスを明らかにし、それからの歪曲を警告し、科学を文化、倫理、宗教などとのトータルな連関で捉えることを説いた人なのである。
リンクにて参照のこと

という、記述がありまして、結果として、それにヒントを得ることができました。
〈フランクフルト学派〉について調べてみることにしたわけです。
いや、本当に、それまで〈フランクフルト学派〉という名称さえも知らない、無知な状態だったのです。

悪戦苦闘で一週間は夢のうち――。
キーワードが 「ベーコンの悪口を言っているフランクフルト」 だと、どうにも料理の悪口のようになり、
検索もままなりませんでしたが、多くの〔巨人の〕肩たちの協力により、果たして、
〈フランクフルト学派〉というのは、文芸作品による社会学のような位置づけにあるらしいことが、
これはまるで予言されていたかのように、わかってきたのです。

〈フランクフルト学派〉が人文科学である社会学のそれも 《文学》 であるならば
それはもう完全に 《表現の自由》 の世界なのであり、「世界観の違い」 で片づけるしかないようにも思われます。

すると、今後は、違う畑からそれに文句をいうほうが、〈お門違い〉 のようにもなってきまして、
あぁ、これは、どの土俵で相撲を取るかという、お話しになってしまいましょうか……。

今回はこれでおしまいです。まったくもって鵺[ぬえ]のようにわけのわからぬ話になっちまいました。
最後に、〈フランクフルト学派〉文献の訳者の解説を引用文として、提示させていただきます。


 『啓蒙の弁証法』は永らく「幻の名著」と言われてきた。アドルノの、あるいはフランクフルト学派の代表作と言われ、もっとも大きな影響を与えたともてはやされながら、その名のみ高く、内容は暗闇に包まれていたからである。この本の難しさは、ユダヤ神学などの背景にもあるだろう。しかし、ドイツ語原文を覗いた方ならおわかりのように、それは何よりも、そこに記されている文章の――無類のと言っていい――難解さに基づく。極端に省略を利かせ、語順を倒置し、アレゴリーと逆説と飛躍に充ちた論旨を、絢爛たるボキャブラリーをちりばめながら緊張をはらんで展開していく文体――それはアドルノに固有のもので、この本における彼の主導性を推測させる一つの論拠となるものだが――、こういう文体を生かしながら、文意を解読し、転調の中に一貫した筋道を浮し出し、それを「わかる日本語」に移し代えることは、きわめて困難な作業だった。(以下略)
〔M.ホルクハイマー他/著『啓蒙の弁証法』徳永恂訳、岩波書店 1990 年、「訳者あとがき」 420 ページ〕

2015年11月12日木曜日

ニュートン 〈最後の魔術師〉

 「第二次世界大戦」と呼ばれるほどの大きな戦争が終わった翌年のこと。
――
経済学者のケインズは、1946 英国ケンブリッジ大学の
「ニュートン 300 年祭」における講演で、並みいる学生たちを前に、こう語りました。

「ニュートンは理性の時代に属する最初の人ではなかった。彼は最後の魔術師であり、最後のバビロニア人でまたスーメル人であり、一万年には少し足りない昔にわれわれの知的遺産を築き始めた人たちと同じような目で、可視的および知的世界を眺めた最後の偉大な人物であった。」
〔J.M.ケインズ「人間ニュートン」『人物評伝』 316 ページ〕
と。

 イギリスで、最後の魔術師が生きた時代は、同時にまた、フランシス・ベーコンからロンドン王立協会に連なる、最初の〈情報戦略〉が継承された時代でもありました。 〔このお話は また次回……〕

 そしてまた、

デカルトの親友の息子で著名な物理学者(光の波動説)のクリスティアン・ホイヘンスは、デカルトについて「デカルト自然学というロマン」と評している。
〔前田達郎「レトリックと方法 ―― F.ベーコンの二つの顔 ――」『哲学の展開 哲学の歴史 2 』 80 ページ〕

とかいう、こともございまして、――宇宙戦艦並みの――その「デカルト自然学というロマン」による
「仮説の捏造」 に、ニュートンとしては、どうにも我慢がならぬのでありました。

ニュートンの有名な決めゼリフ――

「私は仮説を作らない」


は、実のところ、デカルト一派に対して、
「私は仮説を捏造しない」と、

高言したもののようであります。

その、最後の魔術師の最大の功績は、『プリンキピア』 1687 年)で、
ついに地球を完全に動かすことのできる運動理論(力学)を完成させたことでした。
ニュートンは、〈魔術師〉の名にもふさわしく《本当に!》地球を動かしてしまったのです。

――「地動説」はこれ以降、なぜか〈異端審問〉に引っかからなくなったようでごじゃります。
〔デカルトの「幾何学」はもっと評価されてしかるべきだと思うのではありますが、それは、〕
デカルトが「ガリレオ裁判」に慄[おのの]いて慌てて自説を〔巧妙に〕隠蔽しようとした
『方法序説』 1637 年)から、ちょうど 50 年後のことでした。


ニュートン-17世紀科学革命
http://theendoftakechan.web.fc2.com/nStage/theRevolution.html

2015年11月10日火曜日

戦略としての〈フィランソロピー〉と そのはじまり

マイケル・E・ポーターは、現代の経営戦略の旗手といえようが、
彼の〈クラスター理論〉は、日本国家の公式な刊行物にも、
ほとんどそのまんまの文章が用いられるほどの、人気と権威を博している。
その該当箇所について詳しくは、今後触れる機会もあろうかと思うが、
とりあえずは、日本政府による文献資料の明示だけしておこう。

文部科学省編 『平成14年版 科学技術白書』 (P.71) 〔平成 14年 6月 7日発行〕
(M.E.ポーター『競争戦略論Ⅱ』 67 ページ)

その彼が発表した論文に、〈フィランソロピー〉が謳われたのは、2002 年のことだった。
『ハーバード・ビジネス・レビュー』誌に発表されたそれは、
「競争優位のフィランソロピー」 と題された邦訳がある。
DIAMOND ハーバード・ビジネス・レビュー 2003 年 3月号 ダイヤモンド社/発行)

Michael E. Porter
“The Competitive Advantage of Corporate Philanthropy”
Harvard Business Review, Dec. 2002.

この邦訳は、『DIAMOND ハーバード・ビジネス・レビュー』 2010 年 9月号に、抄録されている。

さて、日本政府も全面的な推進を行っている〈クラスター理論〉というのは、
アメリカの「シリコンバレー」に見られるような形態を、
〈産業集積〉の概念として、積極的に推し進めていこうというものだ。
「情報産業」でさえも、企業が一ヵ所に集約されることで、相乗効果を生むのだ。

――

で。今回は、〈フィランソロピー〉なのであるが、「競争優位のフィランソロピー」には、
『DIAMOND ハーバード・ビジネス・レビュー』 2010 年 9月号(抄録)の冒頭部分(P.97) を見ると、

「フィランソロピー(企業の社会貢献活動)が低迷している。」

という一文があり、おおよその、概念が、日本語化されて示されている。

〈フィランソロピー〉というのが、「企業の社会貢献活動」なのであれば、
――いまさらながらではあるが――、そのようなことは、

日本の故松下幸之助が、昭和の初期、第二次世界大戦敗戦前の日本で、
「水道哲学」と称される経営理念として掲げているのである。
それは、1932 のことであった。


そういう、いわば、21 世紀型の経営理念として、再評価を受ける〈フィランソロピー〉は、
〈人類愛〉とも邦訳されるが、そもそもそれが英語で用いられるようになったきっかけは、
どうやらフランシス・ベーコンあたりの、時代らしい。

“The Oxford English dictionary” Second Edition
『オクスフォード英語辞典』〔第二版〕にも、
最初の用例として挙げられているのが、ベーコンの著作物からの引用なのである。

どういうわけだか、はこれ以上問わないことにして、
――今回は〈人類愛〉が戦略として有効であるということではない――
そういうわけで、ベーコンの〈 Philanthropyが、注目されるのである。


 ロンドン王立協会は、ベーコンの理念を受け継いでいると、評される……。
 そしてヨーロッパは、〈科学革命〉から〈産業革命〉の時代へと移行していく。


17 世紀 イギリスの「知と力」と革命と
〔後半〕: ベーコンと実験哲学:「知と力」の革新
http://theendoftakechan.web.fc2.com/nStage/philanthropy.html

2015年11月5日木曜日

蟷螂の斧 ― とうろうのおの ―

「ひとはパンのみにて生きるにあらず」
と、誘惑する悪魔に告げたイエスは、
彼にしたがう飢えた群衆に、パンだけではなく、魚もあり余るほどに与え、
十字架の上で死んだのち弟子たちの前に現れた際には、
肉体をもって復活した、あかしとして、焼いた魚を食べてみせた。


『聖書』の解釈が困難であるというのは、そこに記述されていることが、寓意に充ちているからだろう。
〈聖書〉――特に〈旧約聖書〉はそもそも預言者による〈預言書〉であり、
「預言[よげん]」とは、「預[あず]けられた神の言葉を知らしめるために語る」ことだったのだ。
それは、いわゆる「民間宗教」などによる「予言」とは、根本的に性質を異[こと]にするものだが、
一般の「予言書」と比較して、〈聖書〉が寓意に充ち満ちていることは、同様なのである。

それは、読者のそのときどきの状況により、いかようにも解釈可能なものなのである。
そういうことと、関係があるないか、
今回は、次のような文章を、下記のページ〔前半〕に記述した。

 寓話は、特定の意味をもたない。特定の比喩も想定されてはいない。暗喩さえも意図されない。
 そこに意味を見つけるのは、読者の想像力だ。
 あなたの頭の中にある「筋書き」にしたがって、その「物語[ストーリー]」が示唆する、特定の意味が見いだされていく。寓話というのは、そのようなものをさす。

――

上述のように記したのは、「論文」が「文芸作品」のようであってはならない、と突然思ったからだ。

「文芸作品」というのは〈省略〉で構成されており、その〈行〉を介して〈行間〉を読ませるものだ。
一方「論文」はすべてを〈明示〉しなければならない。
「書かれていないこと」を〈論拠〉として論を進めるのは、「暴論」というものだ。
「あとはご想像におまかせします」というのでは、まるで「芸術」もどきなのである。

いったい「藝術」をやりたいのか「学術的な論文」をものしたいのか、どうなのか。

 データは、意味をもたない。だが情報は意味をもつ。そこには解釈が介在する。
 つまり、結果が意味をもつのは、ひとの主観がそこに加わったときである。

宇宙という時空そのものが、ひとつの寓話なのだ。

最近は、ゴミのようにしか扱われなかったデータを再検討することでノーベル賞につながった、
――とかいうような、事例に遭遇することが多い気がする。

「芸術は〔爆発力ともいわれる〕発想力〔と技術力〕がすべて」みたいな、厳しい世界のようだ。
その入り口だけを都合よく拝借して、それで「何かが完成する」というような、都合のいい話にはならないだろう。
いずれにせよ、中途半端なままでは、中途半端にしかならない。

ああ、なんだか中途半端な書き方にしかならない。
肝に銘じたい――。

 でも、ドン・キホーテで構わない。


17 世紀 イギリスの「知と力」と革命と
〔前半〕: ベーコンとホッブズ:「知と力」と魔術
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