2018年10月25日木曜日

越と出雲と〈ヤツカハギ〉

神魂命十三世孫 八束脛命


 ヤツカハギのことは『新撰姓氏録』に〈天神〉の直系子孫として記録されている。
―― 吉川弘文館より刊行されたその本文の研究と「考証篇」を続けて参照しよう。

『新撰姓氏錄の硏究 本文篇』 〔佐伯有淸/著〕
第二 校訂新撰姓氏錄(左京神別中)
天神
竹田連
神魂命十三世孫八束脛命之後也。
〔『新撰姓氏錄の硏究 本文篇』 (p. 219)

『新撰姓氏錄の硏究 考證篇 第三』 〔佐伯有清/著〕
 竹田連。神魂命の十三世孫、八束脛命の後なり。
(たけたのむらじ。かみむすびのみことのとをあまりみつぎのひこ、やつかはぎのみことのすゑなり。)
八束脛命
 他にみえない。『越後国風土記』逸文に「美麻紀〔崇神〕天皇御世、越国有人、名八掬脛〈其脛長八掬、多力太強、……〉」とみえ、『日本書紀』白雉四年五月壬戌条に「高田首根麻呂〈更名八掬脛。〉」とあって、八束脛命と同名である八掬脛の人名が知られる。
〔『新撰姓氏錄の硏究 考證篇 第三』 (p. 135)

◉ ところで今回のテーマは〈ヤツカハギ〉にまつわる物語なのだが、上の引用文中に、

八束脛命
 他にみえない。『越後国風土記』逸文に「美麻紀〔崇神〕天皇御世、越国有人、名八掬脛〈其脛長八掬、多力太強、……〉」とみえ、『日本書紀』白雉四年五月壬戌条に「高田首根麻呂〈更名八掬脛。〉」とあって、八束脛命と同名である八掬脛の人名が知られる。

とあり、『越後国風土記』逸文の紹介に際しては美麻紀〔崇神〕天皇御世、越国有人、名八掬脛〈其脛長八掬、多力太強、……〉と一部が省略されている。
―― この全文を、国史大系本の「釈日本紀」から引用すれば、

越後國風土記曰。美麻紀天皇御世。越國有人。名八掬脛。(其脛長八掬。多力太强。是出雲之後也。)其屬類多。
〔新訂增補『國史大系 8』「釋日本紀」 (p. 144)

で、是出雲之後也其屬類多の計 10 文字が省略されたことは、容易にわかる。
 ところで岩波書店発行の、日本古典文学大系 67『日本書紀 上』「神武天皇 卽位前紀己未年二月」の記事を補足する「補注3-一七 土蜘蛛(p. 580) では、

越後風土記逸文には土雲

と見えることが、紹介されている。どうやら「釈日本紀」の「出雲」は誤植らしいのであるが ……。寡聞にして国史大系本に、「土雲」の文字もその他の注釈も見ることができない。というわけでさらに文献を参照する。
 新訂增補『國史大系 8』「釋日本紀」の「凡例」に、

舊輯國史大系第七卷には流布刊本に校訂を加へたりしが、幸に前田侯爵家に就き特に同家の秘本を披閲することを得、之を流布刊本と比校せしに、刊本がもと同家秘本を底本としたるものなるに係はらず、誤寫脱字等多く、その舊を損せる甚しきものあり、乃ちこゝに前田侯爵家所藏本を原本とし、「新訂增補國史大系第八卷」に收めて之を公刊す。
〔新訂增補『國史大系 8』「釋日本紀」 (p. 1)

とあったのでそちらも参照したが、国史大系本にはやはりいずれも、該当箇所に、頭注等の注釈はない。

◉ ちなみに流布刊本によったという「舊輯國史大系第七卷」の記述に近い写本が「早稲田大学図書館」の所蔵資料にあり、
『釋日本紀九、十、十一、十二』(PDF ; p.25)
(http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ri05/ri05_04819/ri05_04819_0003/ri05_04819_0003.pdf)
の、PDFデータ、および、画像データ
釋日本紀卷第十「以七掬脛爲膳夫」ページ
(http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ri05/ri05_04819/ri05_04819_0003/ri05_04819_0003_p0025.jpg)
で、公開されている。

早稲田大学図書館 : https://www.waseda.jp/library/
古典籍総合データベース :
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/search.php?cndbn=%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9B%B8%E7%B4%80

The End of Takechan
日本古典文学大系 1『古事記 祝詞』補注五「土雲」
 ツチグモについては、神武紀に「又高尾張邑、有土蜘蛛。其為人也、身短而手足長、与侏儒相類。皇軍結葛綱而掩襲殺之。」とあり、常陸風土記茨城郡の条には「昔在国巣。〔俗語曰、都知久母。又曰、夜都賀波岐。〕 山之佐伯、野之佐伯。普置掘土窟、常居穴。有人来、則入窟而竄之。其人去、更出郊以遊之。狼性梟情、鼠窺掠盗、無被招慰、弥阻風俗也。」とある。文化の低い地方の土着民で、その風俗習性を動物的に表象したものである。異民族ではない。
〔日本古典文学大系 1『古事記 祝詞』 (p. 344)

 日本古典文学大系 67『日本書紀 上』「景行天皇 四十年七月」
[原文] 天皇則命吉備武彥與大伴武日連、令從日本武尊。亦以七掬脛爲膳夫。
[訓み下し文] 天皇、則ち吉備武彥と大伴武日連とに命せたまひて、日本武尊に從はしむ。亦七掬脛を以て膳夫とす。
(ふりがな文) すめらみこと、すなはちきびのたけひことおほとものたけひのむらじとにみことおほせたまひて、やまとたけるのみことにしたがはしむ。またななつかはぎをもてかしはでとす。
(頭注)
七掬脛
 記には「凡此倭建命平国廻行之時、久米直之祖、名七拳脛、恒為膳夫以従仕奉也」とある。七掬脛は、脛の長いことを示したもの。釈紀十所引越後風土記逸文に八掬脛に関する所伝がみえ、白雉四年五月条([下]三一九頁二行)に「高田首根麻呂〈更名八掬脛〉」、姓氏録、左京神別、竹田連の項に「八束脛命」と類似の称がある。
補注7-二二「膳夫」
 カシハは槲葉で、古く酒食をもる容器とした。仁徳三十年九月条にミツナカシハ。→三九八頁注一二。デはクボテ(葉椀)・ヒラデ(葉盤)のデ。カシハデは食器を扱う者の意で、天皇の食膳に奉仕するトモ(伴)。膳夫は周礼、天官に「掌王之食飲膳羞、以養王及后世子」とある。大化前代の制度としては、諸国に膳部が設定され、膳臣に率いられて天皇・朝廷の食膳に奉仕した。のちの養老令制では、宮内省の被管である大膳職に一百六十人、同内膳司に四十人の膳部が所属していた。
〔日本古典文学大系 67『日本書紀 上』 (p. 303, p. 599)

日本古典文学大系 68『日本書紀 下』「孝德天皇 白雉四年五月」
[原文] 又大使大山下高田首根麻呂、〔更名八掬脛。〕
[訓み下し文] 又の大使大山下高田首根麻呂、〔更の名は八掬脛。〕
(ふりがな文) またのおほつかひだいせんげたかたのおびとねまろ、〔またのなはやつかはぎ。〕
(頭注)
大使
 第二組の大使。
大山下
 大化五年冠位の第十二位。
高田首根麻呂
 他に見えず。高田首は姓氏録、右京諸蕃に、高麗国人多高子使主より出るとある。
八掬脛
 標註に「景行紀に七掬脛と云人見えたり。脛の長き人にや」。
〔日本古典文学大系 68『日本書紀 下』 (pp. 319-320)

The End of Takechan
 ○ 続いて『大系本 風土記』〔日本古典文学大系 2『風土記』〕を参照する。

『大系本 風土記』 〔秋本吉郎/校注〕
風土記 逸文 越後國「八掬脛」
[原文] 越後國風土記曰 美麻紀天皇御世 越國有人 名八掬脛 〔其脛長八掬 多力太强 是土雲之後也〕 其屬類多
(釋日本紀 卷十)
[訓み下し文] 越後の國の風土記に曰はく、美麻紀の天皇の御世、越の國に人あり、八掬脛と名づく。〔其の脛の長さは八掬、力多く太だ强し。是は土雲の後なり。〕 其の屬類多し。
(ふりがな文) こしのみちのしりのくにのふどきにいはく、みまきのすめらみことのみよ、こしのくににひとあり、やつかはぎとなづく。〔そのはぎのながさはやつか、ちからおほくはなはだこはし。こはつちくもののちなり。〕 そのたぐひおほし。
(頭注)
八掬脛
 今井似閑採択。
美麻紀天皇
 崇神天皇。
八掬脛
 ツカ(握)は長さの単位(握り拳の幅、約九糎)。脛(すね)の異常に長い足長男の故に名としたもの。異種族の身体的特徴を異常と見て誇張したもの。記紀に見える大和国生駒の長髄彦(ながすねひこ)も同類の称呼。
土雲
 土蜘蛛に同じ。大和朝廷の統治下に容易に入らなかった先住勢力。
(校訂注)
土 / 底「出」。栗注によって訂す。
〔日本古典文学大系 2『風土記』 (p. 466)

 ○ ここで、栗田寬/編纂(纂訂)『古風土記逸文』(以下『纂訂 古風土記逸文』と表記)を参照する。

『纂訂 古風土記逸文』 〔栗田寬/編纂〕

古風土記逸文卷之上  ○ 越後
 八掬脛
越後國風土記曰。美麻紀 [ミマキ] 天皇ノ御世。越ノ國ニ有人名八掬脛 [ヤツカハギ] ト。〔其脛ノ長サ八掬アリ。多力 [チカラ] 太强 [イトツヨ] シ。是ハ出雲 [ツチクモ] 之後也。〕 其屬類多シ。〔釋日本紀述義第六〕
(頭注 ○ 出、恐土訛)
〔『纂訂 古風土記逸文』 (p. 56)

◉ さて『大系本 風土記』の「解説」によると、

風土記の近世的研究は栗田寛博士の標注古風土記明治三十二年刊・纂訂 古風土記逸文明治三十一年刊・古風土記逸文考証没後明治三十六年刊によって一応集大成せられた(以上栗注)
〔日本古典文学大系 2『風土記』 (p. 24)

とあり、「栗注」の示すところはさいわいにも「国立国会図書館デジタルライブラリー」〔古風土記逸文 上〕で閲覧することができる。
( URL : http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/993824/45 )

 栗田寬博士による『纂訂古風土記逸文』では、本文中に「其脛ノ長サ八掬アリ。多力 [チカラ] 太强 [イトツヨ] シ。是ハ出雲 [ツチクモ] 之後也。」と記述された上で欄外に「出、恐土訛」と注され、正当にも、この時点で本文が改竄されることはなかった。
 しかしながら栗田寬博士の指摘を受けた後学の研究者により、その本文は「其脛長八掬 多力太强 是土雲之後也」と〝訂正〟されてしまっている。これは果たして、写本の本文を元々記述されていたものに〝正した〟という研究の成果なのであろうか。疑問が残る。

 ここでは、最後に次の文献を参照して終わるが、末尾にリンクしたサイトでは、その他の各種資料を示したうえで若干の考察を加えた。

『神道大系』古典註釋編五「釋日本紀」

 〔小野田光雄/校注〕

解 題
 (pp. 33-34)
   ㈢ 前田本釈日本紀
 前田育徳会所蔵正安三年~四年書写の釈日本紀は、国の重要文化財に指定されており、披見を自由にすることはできない。幸いに、昭和五十年、二色刷りコロタイプ印刷の影印本が出版され、これには前田育徳会常務理事太田晶二郎氏の万全の「解説 附 引書索引」が付されているので、前田本の書誌は遺憾なく理解することができる。

凡 例
 (p. 85)
一 できるだけ底本に近い形の、通読できる活字本を作ることを目標とした。
二 底本。前田育徳会所蔵の「釈日本紀」を底本とする。しかし本書は、直接に原本に拠ったのではなく、前田育徳会尊経閣文庫編刊の写真影印本『釈日本紀』を座右にし、不審の箇所は原本と対照した。前田本釈日本紀は、現伝釈日本紀諸本の源流とされている。

釋日本紀卷第十 述義六
 (p. 251)
・以七掬脛爲膳夫
越後國風土記曰。美麻紀天皇御世、越國有人。名八掬脛。〔其脛長八掬。多力太强。是出雲之後也。〕 其屬類多。
兼方案之、七掬脛者、其脛長七掬。仍爲名歟。

 (p. 260)
校注「是出46雲之後也
46 出。板本も同じ。大永本の校異はない。狩谷說「出、疑土字」。栗田寬說「出、恐土訛」。植木直一郎、秋本吉郎等「土」に改める。
〔以上『神道大系』古典註釋編五「釋日本紀」より〕

◉ 原典をひもとく過程では寡聞にしてついに「越後国風土記逸文」に〈土雲〉の文字は見られなかった。
――案ずるに、いわゆる大和朝廷に最後まで抵抗した〈まつろはぬ〉勢力を「出雲=土雲」と現代の研究者がみなしたということなのだろう。

 古代の出雲と高志(越)の国とは文化的な交流があったことは「出雲国風土記」から読み取ることができた。

 すなわち、中央に敵対する一大勢力の象徴が、いわゆる《出雲》であり《高志》であったのだろうから、このことにより高志の国の風土記の記述に対しては、現代の研究者にとっては「出雲」と「土雲」が完全に同じ意味をなしたので、誰にでも容易な理解が得られるようにと意味の通じやすい文字に〝改訂〟したのだろう。と、以上のような推論は可能なのだが……。


Google サイト で、本日、もう少し詳しい内容のものを公開しました。

八束脛(八掬脛)
https://sites.google.com/view/theendoftakechan/worochi/yatsukahagi

バックアップ・ページでは、パソコン用に見た目のわかりやすいレイアウトを工夫しています。

八束脛(八掬脛) バックアップ・ページ
http://theendoftakechan.web.fc2.com/eII/tsurugi/yatsukahagi.html

2018年10月13日土曜日

火の神カグツチ

◉ 今回参照した原典として「勝見名跡誌 巻之五」の文章をまずここに採録する。
(※ 上野忠親/著『勝見名跡誌』宝暦二年 (1752) 成立)

「勝見名跡誌 巻之五」

思ふに大山の智明権現といふは其実は火神軻遇突智[ほのかみかくつち]命を祭也 故に大山を上古には火神の岳[みたけ]と称したる也事は出雲風土記に見えたり 火生土とて火より土を生す 火は土の母にて土は火の子なり 故に 神代巻にも 斬軻遇突智爲三段其一段爲雷神一段爲大山祗神一段是爲髙龗 としるせり 垂加の龍雷の秘傳といふも此本文よりや見出されけん 本は吉田より出たる口訣なりとも云り 是を以て當山には火土の二神を合祭して智明大明神といふ 智明は火土に属せる言なり 當山を角磐山大山寺といふ 角磐の山号は軻遇突智の神名より出 大山は大山祗の字を拊[つけ]て寺号とするならん 大山祗は土の神なれは地蔵菩薩を習合して智明権現と称すると見えたり 素戔鳴尊は根國にまします時は金の德の御神なり 根國より出現して牛頭天王と称し奉るときは木德の神なり 故に御本地を東方薬師如来と習合する也 しかれは大山の土の神をは鷲峰の木德たる武素戔鳴尊より木尅土と尅する故に 中わろし共いひ 神軍に勝たまふといひ 大石を授たまふも金德の金を捨たまふ表示にして是すなはち祓除なるへし やまひをはらふとの御神詠も思ひ合すへし かゝる様なる子細ありて郷語にてあるなるへし
(原文の「カタカナ」は「ひらかな」で表記した)
〔「勝見名跡誌 巻之五」の「河内村 村髙二百一石余」の直前の 2 ページ〕
※ 鳥取県立図書館蔵『勝見名跡誌 五』(旧鳥取県所蔵の『勝見名跡誌 五』原書墨書のコピー版)

◎ 引用文中是を以て當山には火土の二神を合祭して智明大明神といふと記述した個所は、原文では是ヲ以テ當山ニハ火五ノ二神ヲ合祭シテ智明大明神トイフと読めるが、「(もしくは )」は、
 東京大学史料編纂所 所蔵の「勝見名跡誌」の公開資料
 (https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/400/4141.72/5/5/00000078?m=limit&n=20)
で確認した結果「(丑)→ 」と改めた。

東京大学史料編纂所 | Historiographical Institute The University of Tokyo
URL : https://www.hi.u-tokyo.ac.jp/index-j.html
【データベース選択画面】 : https://wwwap.hi.u-tokyo.ac.jp/ships/

※ 上野忠親の「勝見名跡誌 巻之五」〔鳥取県立図書館所蔵の写本〕が引用して神代巻ニモ 斬軻遇突智爲三段其一段爲雷神一段爲大山祗神一段是爲髙龗 トシルセリと記述している箇所の漢文は、ここでは白文(はくぶん)で写したが、これは日本書紀「神代上 第五段 一書〔第七〕」に書かれているもので、訓みを『大系本 日本書紀 上』〔日本古典文学大系 67『日本書紀 上』昭和42年03月31日 岩波書店刊〕から参照すれば、軻遇突智を斬りて、三段に爲す。其の一段は是雷神と爲る。一段は是大山祇神と爲る。一段は是高龗と爲る。である。

◎ なぜこの文章を調べここに採録したかというと、以前に荻原直正氏による「宝暦のむかし上野忠親の記すところによれば」という記述の根拠(つまりは原典となる文献)がわからなかったためだ。きっかけとなったその一文は次のとおりである。

『因伯郷土史考』

 大神山神社はいま大己貴神を祀っているが、宝曆のむかし上野忠親の記すところによれば、此の山の祭神は迦具土の神で、迦具を角、土をハニと読んでハンとはねると盤になる。大山の別名を角盤山と呼ぶのは理由のあることだという。
〔荻原直正/著『因伯郷土史考』「山の名前」昭和36年01月20日 鳥取週報社刊 (p. 187)

大神山神社 と 迦具土の神


◉ 今回確認できた個所で、上野忠親はスサノヲを根國より出現して牛頭天王と称し奉るときは木德の神なりと説明しているけれど、スサノヲに「牛頭天王」の名称があるのは、日本書紀(神代上 第八段一書〔第四、第五〕)の新羅に関係する神だという記述が前提となっている。加えて、備後国風土記逸文に〝蘇民将来の物語〟があり、それが「祇園牛頭天王縁起」の根本縁起だと解釈されてきた歴史がある。

 このあたりが詳しく解説された文献に『神社の歴史的研究』〔西田長男/著、昭和 41 年、塙書房刊〕に収録された「『祇園牛頭天王縁起』の成立」〔民衆宗教史叢書 第五巻『御霊信仰』所収、柴田實/編、昭和 59 年、雄山閣出版刊〕がある。
 また「祇園牛頭天王縁起」は、『続群書類従』第三輯上 神祇部〔塙保己一/編纂(太田藤四郎/補)、昭和 61 年訂正三版第六刷、続群書類従完成会刊〕所収の、續群書類從卷第五十五「祇園牛頭天王緣起」に原典がある。

 ところでソシモリ曽尸茂梨)は日本書紀に記されたスサノヲに関係する地名で、曾尸茂梨は語源的には新羅と同語となるという解釈が『大系本 日本書紀 上』で紹介されていた。また、かつては「牛頭」と「ソシモリ」が関連づけられたこともあった、という先人の解説を以前に参照したことがある。

 ○ 別の論稿に、その関連づけが述べられていたので、ここに参照しておこう。

『キトラ古墳とその時代』

 『日本書紀』神代第四の一書には、スサノオノミコトが子の五十猛神[イソタケルノカミ]をつれて新羅の国に降りて「曾尸茂利[そしもり]」にいます、とある。ここにみえるソシモリとは、朝鮮語の 소머리 ソモリ のことでソ(牛)のモリ(頭)、即ち牛頭の意味である。牛頭[ごず]といえば、朝鮮各地に見える古地名が想起されるが、江原道春川の牛頭が最古例として著名である。スサノオは新羅と親縁関係にある神として常に牛頭天王と同一視されて奉じられている。
〔全浩天/著『キトラ古墳とその時代』2001年04月15日 未來社刊 (p. 192)

 ○ イソタケルについては、「釈日本紀」で〈伊太祁曾神(イタキソノカミ)〉に同一だという説が示されており、江戸中期の新井白石も同様に語る。

釋日本紀卷第七

五十猛命。
神名帳曰。紀伊國名草郡伊大祁曾神社。……
舊事本紀曰。五十猛握神。(亦云大屋彥神。)……
先師說曰。伊太祁曾神者。五十猛神也。
〔黑坂勝美/編輯 新訂增補『國史大系』 第八巻 平成11年07月20日新装版 吉川弘文館刊 (p. 109)

古史通卷之二

神名式紀伊國名草郡伊太祁曾[イタキソ]神社大屋都比賣[オホヤツヒメ]神社都麻都比賣[ツマツヒメ]神社共に名神大社と見へたり舊說に其伊太祁曾[イタキソ]は五十猛神也といふ
繹日本紀 ○ 按ずるに五十猛讀でイタケといふべし神名式出雲國の韓國伊太氐[カラクニイタテ]神社紀伊國の伊太祁曾[イタキソ]神社並に皆此神を祭れる也 イタケ。イタテ。イタキ。皆是一聲の轉ぜし也。
〔今泉定介/編輯兼校訂・吉川半七/発行『新井白石全集 第三』明治39年01月25日 (p. 252)

 ○ ここで「カグツチ」の「カグ」は「カグヤヒメ」の「カグ」に通じるという解説を参照しておこう。

『竹取物語評解』〔増訂版〕

解題 二 竹取物語の成立
 更に山田孝雄博士が近年「かぐや姫」を「かくや姫」と清音に読むことを主張された。主として中世以降の海道記以下の文献に赫奕、赫屋、赫映など「カク」の音の漢字を用い、また古写本や古版本の仮名書にも「ぐ」とするのがない事実による(昭和校註竹取物語)。これに対して塚原鉄雄氏は古事記に讃岐氏と深い関係にある迦具夜比売命があり、その「かぐ」の意は、かぐの木の実、香具山、かぐはし、火の神の軻遇突智、光を意味するかげなど関係ある、光り輝く意味をもつ語で濁音であったと説かれた(解釈二の二)。私も全く同感で、恐らく、かぐや姫と伝承されていたのを記録する折、「赫奕」「赫映」などと、中国で光明のかがやく貌をいう語として古くから熟用していた漢字に宛てたため、その漢字にひかされてカクヤと読むようになった。つまり変体漢文化されたためにあらわれた現象で、伝承上にはやはりカグヤとして伝っており、後世復活したものではなかったかと思っている。

評解 一 かぐや姫のおひたち
 三、翁竹を取る事[語釈・語法]
 ○ なよ竹のかぐや姬 ―「なよ竹」は撓[たわ]み寄るような柔い竹で、女竹とも言われる。姫の柔軟性とその生れとを示している語。…………「かぐや姫」という名は歴史上に見られ、開化天皇の御孫に讃岐垂根王[さぬきのたりねのみこ]が居られ、その垂根王[たりねみこ]の女に迦具夜比売[かぐやひめ]が見え、垂仁天皇と結婚されている。「讃岐」と言い、姫の名と言い、何か竹取物語と関連があるように思われる。その他遙か後世の大鏡によると、小野の宮の大臣実頼の女に、「かぐや姫」がいる。恐らく「かぐや姫」という名は天照大神[あまてらすおおみかみ]、光明皇后、衣通姫[そとおりひめ]、源氏物語の光君の如く、光る美によって美の円満具足を表現しているものと思われる。「かぐ」は古事記に「火之炫毘古[かがびこ]神」「火之迦具[かぐ]土神(ツチのツはノ、チは男称)」とある「カガ」「カグ」と同じく、光り輝く貌というのであろう。なお「輝」は古く清音でカカヤクであり、姫の名も「かくや姫」が正しいという説がある。(「解説」参照)
〔三谷栄一/著『竹取物語評解』〔増訂版〕1988年09月10日 有精堂出版刊 (p. 103, p. 125)

 ○ 次に「カグツチ」ではないが「カグヤマ」の「カグ」が「」の文字で表現されることについての資料を参照したい。

日本古典文学大系 4『萬葉集一』

  中大兄 [なかつおほえ]〔近江宮御宇天皇〕 三山歌
13
高山波 雲根火雄男志等 耳梨与 相諍競伎 神代從 如此尒有良之 古昔母 然尒有許曾 虚蟬毛 嬬乎 相挌良思吉

  中大兄〔近江宮に天の下知らしめしし天皇〕 の三山の歌
香具山は 畝火雄々しと 耳梨と 相あらそひき 神代より 斯くにあるらし 古昔も 然にあれこそ うつせみも 嬬を あらそふらしき
(かぐやまは うねびををしと みみなしと あひあらそひき かみよより かくにあるらし いにしへも しかにあれこそ うつせみも つまを あらそふらしき)

香具山 高をカグと訓む。➝補注。
畝火 畝傍山。奈良県高市郡畝傍町(現在、橿原市)。
雄々しと 男らしく立派だと感じて。
耳梨 耳梨山。奈良県磯城郡耳成村(現在、橿原市)。
相あらそひき 互に競争した。香具山と耳梨山とは共に女性の山と認められる。
然にあれこそ そうであるからこそ。
うつせみ 現世。
〔大意〕香具山は畝火山を男らしく立派だと感じて、その愛を得ようと耳梨山と競争した。神代からこうであるらしい。昔もこのようであったからこそ、現世でも一人の愛を二人で争うことがあるものらしい。○ 畝火山を女性、他の二山を男性と見て、ヲヲシを「を愛(を)し」と解する説もある。
補 注
 香具山  原文の高の字音はカウであるから、カグの音にあてて用いるはずはない、従ってタカヤマと訓むべきであるという論がある。しかしカウは呉音以後の音であって、漢魏の音は別である。董同龢氏の「上古音韵表稿」(歴史語言研究所集刊第十八本)(一九四八年)によれば、高は上古音の宵部に属し、kɔg の音と推定される。従って、カグの音にあてて用いることは、十分考えうることである。孝徳紀の猪名公高見、天武紀の韋那公高見について、威奈大村の墓誌銘に、卿諱ハ大村、檜ノ前五百野ノ宮御宇天皇之四世、後ノ岡本ノ聖朝、紫冠威奈ノ鏡ノ公之第三子也」とあるのを見れば、高見は鏡にあたる。すなわち、ここにも高をカガにあてた例がある。呉音カウは kɔg の g が u に転じて成立した音で、上古音の韻尾の g が中古音において u に転じる例は少なくないのである。
〔日本古典文学大系 4『萬葉集一』1957年05月06日 岩波書店刊 (pp. 16-17, p. 327)

―― 現実として 万葉集の時代に「高山」は「香具山」の表記として用いられた ――


◉ またいつの頃か「高見」は「鏡」と訓まれた。


◎ 火の神カグツチは、日本書紀でホムスヒ「火產靈(火産霊)」とも書かれている。
 古事記でワクムスヒ「和久產巢日神(和久産巣日神)」は、イザナミの「尿に成れる神の名」であり、その神の子は伊勢外宮の祭神トヨウケビメ「豐宇氣毘賣神(豊宇気毘売神)」となっている。
 ワクムスヒは日本書紀では「稚產靈(稚産霊)」と表記され、火の神カグツチ「軻遇突智(軻遇突智)」と土の神ハニヤマビメ「埴山姬(埴山姫)」の子で「軻遇突智、埴山姬を娶きて、稚產靈を生む。此の神の頭の上に、蠶と桑と生れり。臍の中に五穀生れり。」〔 神代上 第五段一書〔第二〕〕とある。
 ムスヒの神は、タカミムスヒとカミムスヒが有名だけれども、ホムスヒとワクムスヒの系譜もここに語られているのだ。この系譜でイザナミを〝地母神〟と考えれば、山野の大地を焼いて五穀豊穣に至る〝焼畑(やきばた)〟の起こりが連想されよう。また、分断される神〈カグツチ〉が五穀を生む〈ワクムスヒ〉の父である、というのは「ハイヌウェレ型神話」と呼ばれる農業の起源を説明する神話につながる要素ともなる。この神話型については、今後オホゲツヒメが登場したときに詳しく参照する予定だ。

豐宇氣毘賣神(とようけびめのかみ)


「豊は美称、宇気は食物の意で、食物を掌る女神。伊勢の外宮の祭神である。」
『大系本 古事記』頭注 (p.60) より

 伊勢神宮の「建久三年皇太神宮年中行事」〈矢乃波波木(やのははき)〉の神があり、

「宮北矢野波々木ノ御前ニ各二筋。豐受宮ヲ奉祝石疊ニ二筋。」
「至于其外別宮並宮 比矢乃波波木御料者。彼祭ノ間ハ奉納外幣殿也。」

などと書き記されている。〔『続群書類従 第一輯上』(p. 364, 444) 〕

 〈波波木神〉は辰巳(南東)の方角を守護するので、一説に、〈伯伎国〉〔伯耆国(ははきのくに)〕に関係するという。ハハキについては、あらためて検討してみたい。

Google サイト で、本日「鳥取県立図書館所蔵『勝見名跡誌 五』」の 2 ページ分の画像を追加した、もう少し詳しい内容のものを公開しました。

火の神カグツチ
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サブページ「火産霊 / 稚産霊(火の神カグツチ)」
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火の神カグツチ バックアップ・ページ
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