2018年1月29日月曜日

〈カオスの縁〉に創発する生命

 M・ミッチェル・ワールドロップ/著複雑系(“COMPLEXITY” 1992) の続き。第六章からのキーワードは、〈人工生命〉もしくは〈カオスの縁〉だ。
―― 第八章のサブタイトルは、〈新しい第二法則〉誕生の予感となっている。

「ぼくは生命や組織化が、ちょうどエントロピーの増大が避けがたいのと同じ程度に避けがたいものだという考え方に立っている」とファーマーはいう。「ただ、生命や組織化はときどき思い出したように事態が進行するものだし、それ自体に基礎をおいているわけだから、一見したところ、より気まぐれに思えることがある。生命はもっとずっと一般的な現象の一つの反映だ。その現象というのは、熱力学第二法則に対応した何か ―― 物が自己を組織化しようとする傾向を記述し、いつか宇宙で目にすることが予想される組織化の一般的性質を予言する何らかの法則 ―― によって記述されると考えたい」
〔『複雑系』田中三彦・遠山峻征/訳 1996年 新潮社 (pp.406-407)

 ファーマーというのは、ロス・アラモス研究所の物理学者ドイン・ファーマーのことで、彼は、スチュアート・カウフマンをイリノイ大学のコンピュータ科学者ノーマン・パッカードに引き合わせた人物だ。
 彼ら三人はカウフマンの提案で、1985 年から共同研究(自動触媒システムのシミュレーション)を行ない、翌 86 年にその成果は論文として発表された。
 いっぽうで、80 年代には、人工生命の提唱者であり命名者であるロス・アラモス研究所のクリストファー・ラングトンが、スティーブン・ウルフラムの研究モデルから、「カオスの境界」の概念を捉えていた。
 カウフマンなどの考えではその境界領域に生命現象が〈創発〉するという。
―― それが〈カオスの縁〉として有名になったのは、1988 年に発表されたパッカードの論文がきっかけであるらしい。

パッカードは、簡単なシミュレーションをしてみた。セル・オートマトンの規則がたくさんある状態からスタートして、各規則に、ある計算の実行を要求した。つぎにパッカードは、どれだけうまく計算したかによって規則を進化させるホランド流の遺伝的アルゴリズムをシステムに適用した。それでわかったのは、最終的に得られる規則、つまり計算をかなりうまくおこなえる規則は、結局のところその境界に集中してくるということだった。一九八八年に、パッカードはこの結果を『カオスの縁への適応』というタイトルの論文にまとめて発表している ―― そしてこれがたまたま、印刷物に「カオスの縁」という言葉が登場した最初のケースになった(ラングトンは公式には、まだ「カオスの〈はじまり〉」という言葉を使っていた)。
〔『複雑系』 (pp.428-429)

 ここで、〝カオス〟という表現による混乱が懸念される。
 数学的〈カオス理論〉の〝カオス〟は、1975 年のリーとヨークの論文「周期 3 ならばカオス (Period three implies chaos) 」にはじまる。この場合に意味される〝カオス〟は、決定論的な法則から必然的に導き出される、複雑で不規則で予想不可能な振舞いをする現象のこと、である。―― ここで〈カオス理論〉が〝必然としての偶然〟を保証するならば〝必然的な偶然〟とは何のことかというような、さらなる混乱が予想されるが、それはさておき、この〝カオス〟は、ギリシャ神話以来の伝統的な〝秩序(コスモス)〟と〝混乱(カオス)〟の対立の図式とは異なる概念である。
 いっぽうで〈カオスの縁 (edge of chaos) 〉は、伝統的な〝秩序(コスモス)〟と〝混乱(カオス)〟の対立のはざまに位置する。
 複雑系という同じ〝新しい体系〟に属するからといって、〝同じカオス〟とはならないと、思われる。
 すなわち、素人目(しろうとめ)には〝複雑系のカオス〟自体がまさしく混乱(カオス)状態なのである。複雑系の科学がいまだ混沌としている由縁でもあろう。

―― ところで、伊庭斉志/著人工知能と人工生命の基礎という資料を見ると、カウフマンはすでに〈熱力学第二法則〉に対応した新しい法則を提唱しているようだ。

カウフマンは宇宙のエントロピー増大の法則と同じレベルの「熱力学の第 4 の法則」があることを示唆しています。
熱力学の第 4 の法則 
 生物は複雑化へ向かう本来的な傾向を持ち、自然選択が作用する可能性を制限する。 
〔『人工知能と人工生命の基礎』2013年 オーム社 (p.86)

―― 同書の続きを読めば、次のような記述もある、が。メイナード・スミスとカウフマンはそれなりに親密な交流があるようでもあり ……。

 カウフマンの実験と仮説については反論も多くあります。カウフマンがこの計算を行った当時にはヒトゲノムの遺伝子は 10 万程度と考えられていました。しかし現時点ではヒトのゲノムはおよそ 25,000 個の遺伝子しか含まないとされています。そのため、カウフマンのモデルに従えばヒトの細胞型の数はおよそ 150√25,000 になります。このことから仮説を裏付ける証拠としては乏しくなります。たとえば著名な進化生物学者のジョン・メイナード=スミスは事実の裏付けのない科学 (fact-free science) と酷評しています [41]
[41] アンドリュー・ブラウン、ダーウィン・ウォーズ ― 遺伝子はいかにして利己的な神となったか、長野敬、赤松真紀(訳)、青土社、2001。
〔『人工知能と人工生命の基礎』 (p.87)

 ここで、カウフマンが行なった計算とは〝ブーリアンネットワークを遺伝子制御のモデルとする〟とかいうものらしい。
 このあたりで、
k 個の引数を持つブール関数は、[ 2 の( 2 k 乗)乗]個ある
というような、わけのわからぬ計算が登場してくるので、詳しくは、各自そのあたりの資料を見てくだされ。
 とりあえず理解の範囲で簡単にいうなら、多細胞生物の細胞の種類の数は、遺伝子の数の平方根になるという仮説に科学的根拠を求める計算のようだ。
 20 世紀に書かれた資料だと、ヒトゲノムプロジェクトがまだ完了しておらず、遺伝子の数は、当時は 10 万程度とみなされていたため、ヒトゲノムプロジェクト完了後の新しい視点からの記述は、そのあとのことになります。


人工生命 (Artificial Life : A-Life)
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2018年1月24日水曜日

経済学における 適応と絶滅

 M・ミッチェル・ワールドロップ/著複雑系(“COMPLEXITY” 1992) を通読した。
―― 第一章に出てくるキーワードは、〈収穫逓増〉もしくは〈ロック・イン〉だ。

新古典派の理論によれば、自由市場というものはつねに最高の、そしてもっとも効率的な技術をふるいにかけている、ということになる。たしかに市場にはそういう側面もある。が、それなら標準的な QWERTY(クワーティ)キーボードの配列、実質的に西洋圏のすべてのタイプライターとコンピュータ・キーボードに使われているこの配列を、いったいどう解釈したらいいのか? ( QWERTY なる名称は上段の列に配置されている左寄りの六つの文字を並べたものからきている)。はたしてこれがタイプライターのキーを配列するもっとも効率的な方法だろうか? けっしてそんなことはない。クリストファー・スコールズという技師が、一八七三年、タイピストの手を遅くするために、この QWERTY 配列を考案したのだ。当時のタイプライターは、タイピストがあまり速く打つと動かなくなったからだ。だがその後、レミントン・ソーイング・マシン・カンパニーがこの QWERTY 配列のキーボードを大量生産した。それで多くのタイピストがそのシステムを学び、それで他のタイプライター会社も QWERTY キーボードをつくりはじめ、それでさらに多くのタイピストがそれを学び……というようになっていった。もてる者はさらに与えられる、すなわち収穫逓増。そうアーサーは考えた。そして QWERTY は何百万の人々に使われている標準だから、実質的に永久に〈ロック・イン〉(固定)されている。
〔『複雑系』田中三彦・遠山峻征/訳 1996年 新潮社 (pp.40-41)


 よくある話だ、最初のわずかな差が拡大してどうにもならない格差へとつながっていく。
―― この経済学的概念が別のいい方で〝マタイ効果〟ともいわれるのは、聖書の語句に由来する。

おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、
持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。
〔口語訳『聖書』「マタイによる福音書」第 13 章 12 節〕


 収穫逓増はまた〈ポジティブ・フィードバック〉とも表現されている。
 ポジティブ・フィードバックといえば、進化論では〈ランナウェイ・プロセス〉の説明に出てきたものだ。
 そういえば『複雑系』で、経済発展が技術的な進化になぞらえて語られていた個所があった。
―― スチュアート・カウフマンとブライアン・アーサーの対話として記述されている。

カウフマンはというと、アーサーの収穫逓増という概念に興味を覚えると同時に、困惑もしていた。「それが新しいということがなかなか理解できなかったよ」と、彼はいう。「なにしろ生物学者は、何年間もポジティブ・フィードバックというものを扱ってきているからね」。新古典派の世界観がいかに静的で変化のないものかを彼が理解するまでに、かなりの時間が必要だった。
…………
 経済の歴史を眺めれば、経済理論とは反対に、技術は少しも商品のようではないことがわかると、彼〔アーサー〕はカウフマンにいった。
…………
 さらにこの技術の網の中では、生物学的エコシステム同様、進化的創造と大量絶滅という出来事が起こり得る。たとえば自動車のような新技術が登場し、馬という古い技術に取って代わると、馬とともに鍛冶屋が、ポニー速達便が、水飲み場が、納屋が、そして馬の手入れをする人間が、消えていく。馬に依存していた技術のサブ・ネットワーク全体が、突然崩壊する。あのエコノミスト、ヨゼフ・シュンペーターがいった「破壊の嵐」である。しかしその車とともに、舗装道路やガソリンスタンドが、そしてファーストフード・レストラン、モーテル、交通裁判所、交通警官、交通信号などが登場する。物やサービスの新しいネットワークが成長を開始し、先に登場した物やサービスが切り開いたニッチを、新しいものが埋めていく。
 このプロセスこそ自分のいう収穫逓増の典型例だ、とアーサーはいった。新しい技術がはじまり、ひとたび他の商品やサービスのためのニッチが開かれると、そのニッチを埋める人間がその新技術を成長・繁栄させようとする。このプロセスこそ、ロック・インという現象の背後にある主たる駆動力だ。特定の技術へのニッチの依存度合いが大きければ大きいほど、その技術を変えることは難しくなる ―― それよりずっと優れたものが到来するまでは。
〔『複雑系』 (p.152, pp.153-154)


 そうなるともう、こういう〝複雑さ〟の観点において、生命と経済の理論に共通性が見えてくるわけだ。
 この対話の舞台でもある、サンタフェ研究所の設立を発案し、初代所長になった人物は、もとロス・アラモス研究所の研究部長だった、ジョージ・コーワンだ。
―― そういう専門家による考察が、〝複雑系〟の創発につながった。

 しかし生物学もコンピュータ・シミュレーションも非線形の科学もそれぞれバラバラに興味をもたれていたから、まだようやく緒についたにすぎない、とコーワンは思っていた。それは本能的感覚からだった。彼はここに根源的統合があるはずだと感じた。究極的には、物理学と化学だけではなく、生物学、情報処理、経済学、政治科学、そして人間世界の諸事すべてを包含するような統合である。彼が頭に描いたのは、ほとんど中世的ともいえる学識の概念だった。もしこの統合が本物なら、それは生物科学と物質科学をほとんど分け隔てない ―― 科学、歴史、哲学を分け隔てない ―― 知の手法になるだろうと、彼は思った。昔は「知の織物には継ぎ目がなかった」と、コーワンはいう。そしてもしかすると、ふたたびそんなふうになれるかもしれなかった。
〔『複雑系』 (p.83)


 こういうようないきさつからなんとなく理解できるのは、〝複雑性〟の解明には、衆知を集める必要がありそうだ、ということだ。
 学際的な科学者のネットワークが必要になるのだ。
 どうやら、それが「複雑系の科学」の根本にある理念らしい。
 そして〈複雑系〉の概念そのものが、混沌としていることもまた、周知の事実らしい。


フィードバック・システム
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2018年1月18日木曜日

偶然と必然がせめぎ合う領域

偶然も必然も、決定論的な過程から導き出される、確率的な〝現実〟であるならば ――、
〈カオスの縁〉は偶然と必然がせめぎ合う領域なのかもしれない。
と、ちかごろ考えた。


 李天岩とジェームズ・ヨークの「周期 3 はカオスを意味する」という論文がアメリカの『マセマティックス・マンスリー』に掲載された同じ年、ベノア・マンデルブロがフランス語で数学エッセイ『フラクタルなオブジェ・形・偶然・次元』を出版したという。
 数学概念の〈カオス〉と〈フラクタル〉という造語は同じ 1975 年に、世間に発表されたのだった。

 〈フラクタル〉は〝自己相似性〟を意味する。
―― なんのことやら ―― 説明しよう。まず、正三角形をひとつ思い描くのだ。
 次に、その正三角形の 3 辺をそれぞれ三等分して、辺の真ん中の 3 分 1 の場所に、そこを底辺とする 1 辺がもとの三角形の 3 分 1 になる小さな正三角形を、外向きにひとつずつ描く。そうやって描かれたのは、「ダビデの星」と呼ばれる図形となる。
 完成したダビデの星の各辺に対して、それぞれの辺を三等分した真ん中の 3 分 1 の場所に、同じように 1 辺が 3 分 1 になったさらに小さい正三角形を乗っけていく。
 この作業を、無限に繰り返す、という、想定をする。
 それが〝フラクタル構造〟と呼ばれるものだ。

 どうやら、フラクタル幾何学は、カオスに深くかかわるものらしい。
 ジェイムズ・グリックのカオス(“CHAOS” 1987) という本にも、次のような記述がある。

 一九七〇年代の初頭、ロバート・メイやジェームズ・ヨークらが、秩序的なふるまいとカオス的ふるまいの間の、複雑な境界の中に発見したパターンには、大小の規模(スケール)の関係に基いてしか説明できないような、思いがけない規則性があった。そして非線形力学のなぞを解く鍵となった構造も、フラクタルであることがわかってきたのである。さらに最も直接的な実用面ではフラクタル幾何学は、物理学者や化学者、地震学者、冶金学者、確率論学者、生理学者などが利用しはじめた一つの研究手段ともなった。そしてこういった研究者たちはみな、マンデルブロの新しい幾何学こそ自然そのものを表す形だと信じ、ひとにもそれを認めさせようと努力していたのである。
〔『カオス』大貫昌子/訳 1991年 新潮文庫 (p.201)


 ところで、カオスや複雑系の本にしばしば「力学系」という言葉がでてくるけれど、これは数学で用いられる用語で、物理学の「力学」と同じではないという。
 たとえば、次のように説明される。

力学系 (dynamical system)
物理学における力学と関係がなくても、状態がある決定論的法則に従って時間的に変化していくような系一般を力学系と呼ぶ。
〔井庭崇・福原義久/著『複雑系入門』 1998年 NTT出版 (p.67)

 そういうわけだから、カオスの最大の特徴であるストレンジアトラクタも力学系の数学表現となる。
 カオスもフラクタルも、じつのところ新しい数学なのだった。
 1986 年に講談社から新書版で出版された、数学者山口昌哉の著作が筑摩書房で新しく文庫化されている。マンデルブロが 1975 年に『フラクタルなオブジェ・形・偶然・次元』という本を出版したことは、この本のはしがきに書いてあった。
 山口昌哉は故人(1998年没)となったが、この著作の最終章では数学が〝偶然と必然〟の問題と絡めて語られる。

 今まで、カオスとフラクタルに関して、数学者としての見方から、いろいろなことを述べてきた。このような研究は、今後どうなるのだろうか。1934 年、九鬼周造は『偶然性の問題』という本を書いている。この本では、必然とは「存在がそれ自身に根拠をもつ場合」であり、そうでない存在を偶然とよんでいる。そして数学の確率論も決して偶然そのものについて論じているわけでなく、量子力学も偶然そのものを扱っていない。他の学問は結局必然性のみを論じているが、ただ形而上学だけが「偶然」に学問的にせまることができると述べている。……
 このあたりからカオスやフラクタルとの関連がでてくるように思えてならない。つまり、カオスの研究は、決して偶然性そのものの研究といってはならないが、ある種の偶然性が必然性と近づく場面を、必然性の側から眺めているというべきではないだろうか。
〔山口昌哉/著『カオスとフラクタル』2010年 ちくま学芸文庫 (p.193)

 つまり、この世は〝決定論的〟なのか、それともカオス理論が語るように、この世の多くは〝たまたま〟なのか。
 上の引用文でも参照された九鬼周造の偶然性の問題では冒頭から、まさにその問題が語られている。

 偶然性とは必然性の否定である(1)。必然とは必ず然(し)か有ることを意味している。すなわち、存在が何らかの意味で自己のうちに根拠を有(も)っていることである。偶然とは偶々(たまたま)然か有るの意で、存在が自己のうちに十分の根拠を有っていないことである。
(1) ………… とくにその中の「否定」という言葉に注意したい。 ………… これらの「否定」という言葉の意味は「排除」あるいは「両立不能」という意味ではない。…… 表と裏、光と影、これらはそれぞれ相互否定を媒介にした存立関係にあって、それぞれ一方だけでは存在しえない。裏があるから表もありえ、その逆も言える。「否定」という言葉には、絶対的な分離・分裂と同時に絶対的な結合関係も含意されている。
〔九鬼周造/著『偶然性の問題』小浜善信/注解・解説 2012年 岩波文庫 (p.13)

 このあたりで、気づかされたのだった。
 われわれは、ものごとを〝偶然か必然か〟で、区分しようとする。しかし、そこには厳密な境界線などないのだ。
 つまり〝偶然か、必然か〟ではなく、〝どのていど偶然か、どのていど必然か〟なのだ。
 偶然も必然も、確率的な話でしかない。ならば ――、
〈カオスの縁〉は〝偶然と必然がせめぎ合う場所〟なのかもしれない、と。


自己相似図形/フラクタル
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2018年1月12日金曜日

カオスは ストレンジアトラクタを描く

 生物の一日の周期は、サーカディアン・リズム(概日リズム)と呼ばれる。
 リズミカルな周期運動が、生物の特徴でもある。
 化学反応的には、心臓の鼓動のような生命が刻む一定のリズムは、リミット・サイクルと呼ばれるアトラクタだ。
 リミット・サイクルは、エネルギーの投入で延々と同じ周期を描く、自己組織化の現象なのだ。
 山口陽子生物リズムと引き込みに、次の説明がある。

 生物リズムは、熱力学的には非線形非平衡開放系と呼ばれる条件で起きる「自己組織現象」であり、数学的には非線形振動、その中でも特に「リミットサイクル」と呼ばれるものである。
〔『生命現象のダイナミズム』所収 1984年 中山書店 (p.6)


 アトラクタ (attractor) は「引きつける」(attract) という意味からきた名詞だ。
 カオスのアトラクタである〈ストレンジ・アトラクタ〉とは、〝奇妙なアトラクタ〟ということになる。
 その、カオスアトラクタの図形は一定の範囲内におさまるけれど、決して ―― 永遠に ―― 同じポイントを通ることはないという。
 ヨシスケ・ウエダ(上田睆亮)の講演論文ストレンジ・アトラクタとカオスの起源では、その発見がこう述べられている。

 現在では、私が 1961 年 11 月 27 日にアナログ・コンピュータを用いて発見し採取したデータが、2 次元非自励周期系における最古のカオスの実例だといわれている。ほぼ同じころ、ローレンツ (Lorenz) 氏は 3 次元自励系でカオスを発見した。
〔『カオスはこうして発見された』所収 稲垣耕作・赤松則男/訳 2002年 共立出版 (p.27)

 講演の後半で、1978 年に上田睆亮非線形性に基づく確率統計現象」(電気学会論文誌 A 、第 98 巻、167-173 ページ)で報告されたストレンジ・アトラクタについて、
ダビッド・リュエル (David Ruelle) 教授がそれを「ジャパニーズ・アトラクタ」と命名してくれた」〔同上 (p.53)
ことが語られている。
 もっとも有名なカオスのアトラクタである「ローレンツ・アトラクタ」は、エドワード・ローレンツの発見になる。
 1963 年の決定論的な非周期的流れ(E.N. Lorenz, Deterministic nonperiodic flow, J. Atmospheric Sci., 20 (1963) 130-141.) が、カオス発見の論文として知られている。

 ローレンツの著書カオスのエッセンス(“The Essence of Chaos” 1993) の索引を見ると、ローレンツアトラクター(参照:バタフライアトラクター)」となっている。
 ローレンツはまた〝バタフライ効果〟の提唱者としても知られているが、このバタフライはカオスのアトラクタとのあいだに、どのような関連があるのか。
 どうやらそれはアトラクタの形状が蝶に似ているということらしい。

 バタフライ効果という言葉の起源がちょっとはっきりしない理由は、私が初めて詳しく研究したカオス的なシステムの特性にある。私はこのシステムにおいて、「ストレンジアトラクター」として知られる特殊な一群の状態を簡略化して図に表したのだが、その後、それが蝶の形に似ていることがわかり、まもなくバタフライとして知られるようになった。
〔『カオスのエッセンス』杉山勝・杉山智子/訳 1997年 共立出版 (p.12)


 カオス現象も、栄光の過去の観点からは新発見の事実が認められず、発見あるいは発表後しばらくは、冷遇される時期が続いた。
 1960 年代前半に、あいついで発見されていたストレンジ・アトラクタだけれども、ようやくその名で呼ばれるようになるのは 1970 年代初めのころらしい。
 その「非線形」の理論に〈カオス〉という言葉が使われたのも同じ 1970 年代になってからのことだ。
 李天岩(リ・ティェンイェン)とジェームス・ヨークの 1975 年の論文周期 3 はカオスを意味する(T.Y. Li and J.A. Yorke, Period three implies chaos, Amer. Math. Monthly, 82 (1975), 985-992.) で、〈カオス理論〉は有名になった。

―― カオスを典型例とする〈複雑系〉の理論はいまや百花繚乱ではあるけれど。
 よく知られているようにアインシュタインも終生、決定論的な世界観の枠組みにとらわれ続けた。新しい時代を築いた人間だって自身の成功体験にしばられかねないのだ。
 旧式な頭脳が権威ともなれば、それは新時代の足枷(あしかせ)として機能するほかはない。

 新しい枠組みは、すでに成功した権威者によってはただのエラーとみなされかねない歴史が、いまなお繰り返されている。
 科学のパラダイムシフトにも、進化と同じく人間の世代交代は必要ということなのだろう。


発見されたカオス理論
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2018年1月8日月曜日

闇と光が交わる場所に 生命が創発する

 昆虫社会に創発した〈超個体〉は、ひとつひとつの個体を職能でしか区別しない。
 するとそれをそのまま、人間社会に当てはめて考えるには、いささか無理がでる。
 人間の社会の相互作用は、個体の識別が前提となっている。

 人間には感情がある。
 感情は数値化できないうえに、合理的ではないから、ないことにしよう。
 などといって、構築された完全な理論では、そもそも前提が間違っていることになる。
 理論は完璧かもしれない。けれど、それを採用した現実は崩壊するのだ。

 中央統制的な理論は、プラトン以来の伝統だが、理想の組織もやがては腐敗するだろう。
 社会性昆虫のコロニーに限らずとも、集団や社会のネットワークの秩序は混沌の中から立ち現れるともいう。
 集団や社会には、区分としての境界がある。
 集団の内部が、外部と接触する領域を、周縁という。
 そこが新しいシステムの、創発の現場となる。

 その仕組みを〈カオス〉の理論にヒントを得て考察した試みがある。
 大澤真幸「社会システムの基底としての「カオス」は、
『現代思想』〔青土社、1994 年 5 月号〕に掲載された。
―― それは単行本、大澤真幸社会システムの生成』の、
第Ⅰ部 社会システムの基礎理論 「第 4 章」 に、収録されている。

外部は、出来事(コミュニケーション)が、システムの内部の要素に対しては当然に期待することが可能であるような形式を必ずしも持たない領域として、表象される。つまり、それは、過剰な複雑性を担った「システム環境」の空間的な投影なのである。「まれびと」のような外来する身体を利用するということは、規範的に正価値を帯びた秩序をもたらすために、わざわざ規範的な負価値を担う要素に訴求すること、つまり秩序をもたらすために、あえて秩序の反対物と連合している要素に訴求することを意味するだろう。言ってみれば、複雑性を縮減するために、敢えて過剰な複雑性を導入しているのである。
〔『社会システムの生成』2015年 弘文堂 (pp.182-183)

 そこでは、〈両義性〉という語がキーワードとなる。
 現場に投入された、契機となる〈力(パワー)〉そのものは、善でも悪でもない。
 たとえば、ヒーローは多くの場合、モンスターでもある。
 ハリウッド映画では、暗黒面に取り込まれまいとするヒーローが活躍をする。
 日本でも、初代仮面ライダーは、世界征服をたくらむ悪の組織ショッカーの改造人間であった。
 どうやら日本では、悪の出自をもつヒーローが好まれるようだ。スサノヲ的といえようか。
 極め付きというべきか、悪魔と戦うためには最強の悪魔の能力を手に入れなければ勝てない、デビルマンの物語がある。

 こぎれいなだけの秩序では、混沌に手をこまねくのだろう。
 あの世は、〈両義性〉とともに、到来する。
 そうして、混沌と秩序、闇と光が交わる場所に、生命が創発する。
 その周縁を〈カオスの縁〉というらしい。


超個体・群体・群知能
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2018年1月5日金曜日

超個体・群知能・超生命体

 昨年末(12月29日)、NHK・Eテレ「今そこにある未来」(「人間ってナンだ? 超 AI 入門」特別編)が放映された。
 インタビュー映像で、人工知能 (Artificial Intelligence : AI) の未来像が語られていた。
 人間は〝バックアップ〟を備えることで不死になると、主張され、インターネットが〈超生命体〉となる可能性が、示唆される。
 どうやら〝バックアップ〟というのは、知識の〝バックアップ〟のことらしいが、おそらく個人的な記憶の〝バックアップ〟を意図している。
 しかしながら、神経細胞のネットワークは、〝バックアップ〟可能なものなのだろうか。

 人間はすでに個人情報をコンピュータに管理されはじめている。それに加えて完全な遺伝情報があれば、もはや人間は人間から生まれることはなくなり、必要に応じて、機械が人間を再構築する時代を迎えることになるかもしれない。
 そのとき、世代交代をしなくなった人間の進化は止まる。
 世代が新しくならなければ、成長はあっても進化はない。
 生物学の分野で、〈超有機体〉とも〈超個体〉とも表現される〈スーパーオーガニズム〉は、世代交代をする存在だった。
 だから、その〈超個体〉にはまだ進化があった。

 バート・ヘルドブラーとエドワード・O・ウィルソンの共著蟻の自然誌(“JOURNEY TO THE ANTS” 1994) では、昆虫のコロニーにおける「超個体進化」の可能性について、次のように述べられる。

1960 年までに、「超個体」という表現は、科学者の用語からはほとんど消え失せた。
 しかし、科学において、古い概念が完全に死んだためしはない。…… 現在では、生物個体レベルで鍵となるプロセスは形態形成だと考えられている。これは、細胞がその形と化学的特性を変化させ、全体として生物個体をつくり上げる過程である。もうひとつのレベル、つまりコロニーを解く鍵となるプロセスとは、個体がカーストや行動を順に変化させることによりコロニーを形づくる過程、すなわち社会形成だ。生物学全体にとって興味ある問題は、形態形成と社会形成の類似性、すなわち両方に共通する法則とアルゴリズムにある。その共通の原理が明確に定義される範囲においてなら、これらを生物学全般の重要な法則と見なしても的外れではあるまい。
 この見地に立てば、コロニーは科学者にとって、一時的な興味の対象以上のものということになる。
〔『蟻の自然誌』辻和希・松本忠夫/訳 1997年 朝日新聞社 (p.159)

―― そして〈超個体〉の概念は、1980 年代末の〈群知能〉の提唱とともに、「複雑系」をタイトルに冠する文献にも登場するようになった。

 群知能 (swarm intelligence: SI) は、1989 年に Beni, G.(ベニ)と Wang, J.(ワン)によって提唱された(たとえば [1] を参照)。SI は非知的エージェントの集団的な知的行動特性に基づくもので、特定の中央制御系を持たず、局所的なエージェント間の対話の相互干渉によりエージェントの集合全体の知的行動を創発するものである。
[1] G. Beni and J. Wang. Swarm Intelligence in Cellular Robotic Systems. Proc. of the NATO Advanced Workshop on Robots and Biological Systems, 1: 703-712, 1989.
〔電気学会 進化技術応用調査専門委員会/編『進化技術ハンドブック』 第Ⅰ巻 基礎編 「第 13 章 群知能」 2010年 近代科学社 (p.168)

 この地球上にはさまざまな生物が存在し、それぞれが自分のおかれる生活環境において生命を営み、子孫を残すために必死に生活をしている。そこでの生活環境はまさに生物学的複雑系とよぶもので、複雑な経路で物質やエネルギー、情報等がやりとりされ、生物は互いに相互作用しあいながらそれぞれのニッチを占めている [Mau99]
…………
群知能は、典型的には社会性昆虫とよばれるアリやハチ、魚や鳥の群などに見ることができる。そこでは、群を構成する個々はそれほど複雑な行動はみせないが、群になることによってあたかも高度な知能をもった一つの生命体のように振る舞う。そのような個体群は超個体とよばれる [SS97]
 [Mau99] スチュアート・マウフマン著、米沢富美子監訳、「自己組織化と進化の論理」;日本経済新聞社 (1999) 。
 [SS97] J・メイナード・スミス、E・サマトーリ著、長野敬訳、「進化する階層」;シュプリンガー・フェアラーク東京 (1997) 。
〔大内東(他)/著『生命複雑系からの計算パラダイム』2003年 森北出版 (p.1, p.2)

―― いちおう、念のため付け加えておくなら、参考文献の、
[Mau99] スチュアート・マウフマン著、米沢富美子監訳、「自己組織化と進化の論理」……とは、
スチュアート・カウフマン著『自己組織化と進化の論理』のことで、
[SS97] J・メイナード・スミス、E・サマトーリ著、長野敬訳、「進化する階層」……とは、
J. メイナード・スミス、E. サトマーリ著『進化する階層』の誤植であろう。
 ちなみに、進化する階層(“The Major Transitions in Evolution” 1995) では、〈超個体〉の概念に触れて、次のように記述されている。

 昆虫のコロニーと生物個体の類似は「超個体」の概念をもたらした。この類推にはある程度意味がある。個々のアリ、ハチ、シロアリは生殖能力を失い、彼らが遺伝子をひろめていくには、コロニーの成功を確保するしかない。体細胞が遺伝子をひろめるには、その個体の成功を確保するしかないことと同じである。それゆえコロニーは、その成功を確保するのに適した特徴をもっていると考えられ、最適化の概念を個体でなくコロニーに適用しても ―― たとえばオスターとウィルソン (Oster & Wilson, 1978) が著書のなかで昆虫のカースト制度に対してそうしたように ―― おかしくはない。
 しかし本書にとっては、超個体の概念はほとんど無益である。動物社会の起原を理解するには、生殖可能な個体が協同を進めていくなかでなぜ大部分が生殖能力を失ってしまったのか、それを問わねばならない。動物社会が維持されていることを理解するには、だましあいなどが起こって社会が破滅することがない理由を説明しなければならない。個々のワーカーは体細胞と違って、相互に関係はあるが遺伝学的に同一でない。それゆえコロニー内部で矛盾対立がひろく見られてもいいはずだし、実際にそういうことが起こっている。ワーカーが卵を生むとか、性比をめぐる対立とかの事例は、以下に論ずる。これまで論じた移行の場合と同じく、問題は、この対立がどうやってある枠内に収めらているかを説明することにある。
 Oster, G. F. & Wilson, E. O. 1978. Caste and Ecology in the Social Insects. Princeton University Press, Princeton.
〔『進化する階層』長野敬/訳「第 16 章 社会の起原」 1997年 シュプリンガー・フェアラーク東京 (pp.352-354)

―― この二段落に含まれる二ヵ所である。「索引」で確認しても、この二ヵ所以外にはないようだ。
 文献として特に『進化する階層』が選ばれた理由は素人にはよくわからないけれど、この個所を読んで、群知能というのは、分散型システムを体現することは多少なりとも理解できよう。

〈超個体〉の概念はいまのところ〝昆虫限定である〟という以外、スペンサーの〈スーパー・オーガニック〉と比較して違いは見つけられない。
そしていつしか、インターネットが〈超生命体〉となる可能性は現実的な議論となっている。