2021年3月26日金曜日

太陽と地平線の彼方の文化

 ⛞ 前回に、「機械式の時計(自鳴鐘)を中国の皇帝が手にしたのは、17 世紀の最初の年の 1 月」(1601) であることを紹介しました。中国の明王朝 (1368~1644) の時代に、キリスト教の宣教師が中心となって、西洋の文明を東洋にもたらしたわけですが、日本への布教では、フランシスコ・ザビエルによって、大内義隆に自鳴鐘が献上されたのは 1551 年のことです。


 ✐ その後、イギリスとのアヘン戦争 (1840~1842) の敗戦によって中国は開国を余儀なくされ、すると中国語を学習したキリスト教の宣教師たちの往来が活発となって、さらに多くの新しい科学が、清王朝 (1616~1912) にもたらされることになるわけです。


 ▣ 日本へは、弘化三年 (1846) に、アメリカ東インド艦隊司令長官ビッドルが、浦賀にやってきます。それからややあって浦賀沖に、ペリー率いる黒船が来航したのは、嘉永六年 (1853) のことになります。

 ▣ 慶応二年 (1866) に徳川慶喜が将軍職を継いで、江戸幕府第十五代将軍となります。そして慶応三年に「大政奉還」の上表を朝廷に提出した翌年には、明治元年 (1868) となるのです。



 ○ 中国語の刊行物を日本語訳した文献から、当時の科学書翻訳の状況を参照できます。


『中国科学技術史』 下

〔中国科学技術史稿 下冊 科学出版社(北京、中華人民共和国)、1982〕

杜石然・范楚玉・陳美東・金秋鵬・周世徳・曹婉如/編著

川原秀城・日原伝・長谷部英一・藤井隆・近藤浩之/訳

〔1997年03月20日 財団法人 東京大学出版会/発行〕


第 10 章 2. 洋務運動と西洋科学技術知識の大量流人

「科学技術書の翻訳」

 (pp.573-574)

 科学技術書の編訳・出版が、ヨーロッパの先進科学技術を学ぶ手段の 1 つとして、きわめて重要であることは改めていうまでもない。事実、アヘン戦争前後、ことに 1860 年代後半ごろから、ヨーロッパの科学技術書がつぎつぎと翻訳紹介された。

 1862 年、清朝政府は“同文館”の設立を決定、最初は外国語課程のみでスタートした[朝廷が外国語人材の養成のため機関を設立した例として最も早いのは、明初 [1638] 設立の“四夷館”である。“四夷館”は清朝に入ると、“四訳館”と改称された。また乾隆年間には、“俄羅斯館”も増設された。だが“四訳館”や“俄羅斯館”の実際の教育効果はほとんどなく、これら館員のほとんどは俸禄をうけるだけの閑職にすぎず、たとえば俄羅斯館で試験を実施したところ、講習[教師]のなかでロシア語を知っている者はわずか 1 人のみてあり、学生のなかには誰 1 人としてロシア語を解する者はいなかった。両機関はのち、同文館に吸収された]。1866 年には、“機器を製造するには必ず須らく天文算学を講求すべきに因りて、同文館内に一館を添設するを議し”、“天文算学館”を附設し、著名な数学者の李善蘭を総教習として招聘した。同時にヨーロッパに人員を派遣し、外国籍の化学・天文学・生理学などの教師を招聘した。また北京以外においても、清朝政府は 1863 年、上海に京師同文館に倣って“上海広方言館”を設立し、翌年、広州に“広州同文館”、1868 年、江南製造局に翻訳館を設置した。これらの機関は科学技術書をつぎつぎと翻訳出版した。洋務派官僚の工場経営と同じく、これらの機関もそのほとんどが外国人によって管理運営された。たとえば、同文館はアメリカの宣教師マーチン[ William A. P. Martin(中国名、丁韙良)、1827‐1916 ]が運営し、上海の江南製造局訳書館はイギリス人のフライヤー[ John Fryer(中国名、傅蘭雅)、1839‐1928 ]が運営した。


 ○ このことは、つぎのようにも語られています。


『中国語における東西言語文化交流』

〔千葉謙悟/著 2010年02月20日 三省堂/発行〕


「序論」 近代翻訳語の創出と交流

 (pp.9-10)

 西洋の諸言語を学ぶことが公式には禁じられていた時代から外国語の知識が蓄財や官途に結びつくようになる時代に至るまで、中国側における西洋言語の運用力は極少数の例外を除けば総じて低かった。当時中国の知識人のほとんどは外国への関心が低く、外国語の学習の必要性を感じていなかった。従って西欧の新知識は中国語で表現されなければ中国では理解されようがなかった。そこで西欧言語から中国語へ翻訳する努力が払われることになる。それはいわば一つの文明を丸ごと翻訳する試みに近いものとなった。

 欧米人 ― 特に 19 世紀初頭に来華したイギリス人宣教師ロバート・モリソン( Robert Morrison、中国名馬礼遜)をはじめとするプロテスタント宣教師 ― は中国人に中華世界以外の「文明世界」が存在するということを知らしめる必要があった。彼らの宗教が尊崇され改宗するに値する価値を持つことは、キリスト教を基礎に発展した科学とそれを応用した技術を認めさせることによってこそ示しうると彼らは考えた。同じ道理から、中国を中心とした世界地理の認識を改めさせることも彼らの任務の一部分となった。特に 19 世紀においては布教に際しキリスト教の教義が「夷人」の妄言にすぎないという偏見を打破しなければならなかったのである。



 ○ いっぽうで、中国の科学技術については、つぎのような研究もあります。


『中国の科学と文明』 第5巻 天の科学

ジョゼフ・ニーダム (Joseph Needham) /著

吉田忠・高柳雄一・宮島一彦・橋本敬造・中山茂・山田慶児/訳

〔1991年09月20日 新版 思索社/発行〕


第 20 章 天文学 (g) 天文器具の発達

 (6) 渾儀と他の大きな観測機械 (i) 渾儀の一般的発展

 (p.216)

張衡の時代以後のほとんどの説明用渾儀 ―― すなわち望筒の代わりに中心に地の模型を置き、後には地平線を示す上端の平たい箱の中に埋められた渾儀 ―― は、水力によって回転された。この動かし方は初めはかなり粗雑なものであったに違いない、しかし一行と梁令瓚が脱進機の形式を発明し、さまざまの種類のジャッキの作用を渾儀の回転と結び付け、本質的な意味ですべての機械時計の第 1 号をつくった +725 年がひとつの転機となった(第 27 章 h を参照)。その後の時計、張思訓の +979 年の時計は動力としては水の代わりに水銀を使用した。



 そのむかし、キリスト教の布教と同様に、中国への仏教の布教においても、西域からの仏教僧が多くの仏教経典を漢訳しています。そのはじめは、2 世紀のことだとされています。

 しばらくは、そのようなキリスト教の布教状況と同様の時代が経過したのち、中国人僧侶の法顕が天竺めざして、400 年ころに中国と西域を往復した記録が残されています。

 そして日本への仏教の伝来と同時期の 6 世紀には、中国の漢字文化のみならず科学的な技術が百済を経由して(奈良県の明日香村に)到来したことが、日本最初の本格的寺院である飛鳥寺(あすかでら)の発掘調査によって知られているのです。


『飛鳥寺』

〔坪井清足/著 昭和39年02月10日 初版 中央公論美術出版/発行〕


「4 百済の工人の指導のもとに」

 (pp.20-21)

 さきに南の石敷広場の北縁が、伽藍中心線と七度ずれていることを注意したが、飛鳥寺伽藍の中軸線は、実測の結果ほぼ真北をさしており、その誤差は分以下の単位であることがわかった。これは飛鳥寺の造営にあたって、その地割りの基本線を天測による真南北線にもとめたことを物語っており、これと直角にまじわる東西の線は、各建物によって一度ないし一度半もくるっている。このようなことは奈良の薬師寺でも例があって、地割りをした人と、建物を建築した技術者がちがっていたことを示すものであろうと考えている。


「7 歴史の中の飛鳥寺」

 (pp.34-35)

 わが国に仏教が伝えられたのは、六世紀の中頃のことで、帰化系の人々を中心としてその信仰がひろまり、一部に尼寺がつくられはじめた。ところが、新来の異国の宗教と、古来の神道のいずれをとるべきかという論争がはげしくなり、やがて当時の進歩勢力の代表である蘇我氏と、旧守勢力の代表である物部氏の政治的闘争となり、数十年の長きにわたって争うことになった。

 この争いが、物部氏の敗戦によって仏教派の勝利に帰した翌年、すなわち崇峻天皇元年 (588) に、本格的な僧寺の建立が計画され、これに必要な指導をあおぐために、はじめて百済国に僧侶や技術者の派遣が要請された。こうして百済から派遣された六名の僧侶をはじめとし、大工、塔の屋上にとりつける露盤つくり、瓦師などの指導によって本格的な工事がはじめられた。つまり法興寺(飛鳥の地につくられたため一般には飛鳥寺とよばれている)の建立である。この造営は蘇我馬子によって命ぜられ、帰化系の山東漢直麻高垢鬼[やまとあやのあたいまこくき]や意等加斯[おとかし]らが多数の部民を使役しておこなわれたことが、『日本書紀』と『元興寺縁起』にみえている。また、崇峻天皇三年 (590) には、山に入って寺の材をとり、五年 (592) に仏堂、歩廊(回廊)などを建てはじめ、翌推古天皇元年正月十五日に、塔の心礎に舎利をおさめ、翌日心柱をその上に建てた。推古天皇四年 (596) に塔が完成し、寺僧が住みはじめたと記されている。推古天皇十三年 (605) に、天皇は聖徳太子はじめ馬子大臣以下に、銅製と刺繡製の丈六仏をつくるようにとの詔勅をだされ、鞍作鳥を造仏工に任ぜられた。


 ✥ 飛鳥寺の発掘調査は、昭和 31~32 年 (1956~1957) に、行われました。


―― その他の各種資料を参照したページを、以下のサイトで公開しています。


〈太陽〉と〈地平〉の彼方の文化

http://theendoftakechan.web.fc2.com/eII/hitsuge/horizon.html


2021年3月3日水曜日

自鳴鐘:西欧の機械式時計

 記録によれば、中国の皇帝がキリスト教宣教師からの贈り物として、渡来の「時を告げる時計(自鳴鐘)」を手にしたのは、明の万暦 28 年 12 月(西暦 1601 年 1 月)で、これは 17 世紀の最初の年の 1 月となるのですけれども、日本への西欧時計の伝来は、それよりも半世紀早い 16 世紀の中頃で、フランシスコ・ザビエルによって、大内義隆に献上された 1551 年(天文 20 年)が最初とされています。


 その後、慶長 17 年 (1612) の『異国日記』に記された、徳川家康へのノビスパニヤ国主からの贈り物の目録に「斗景」とあり、この〈トケイ〉を新井白石が享保 4 年 (1719) の『東雅』で、「斗鶏」と記して紹介したわけです。

 現代まで用いられている「時計」の文字の登場については、その間の貞享 2 年 (1685) の日付がある『京羽二重』に「時計師」という職人が記録されています。

 つまり、西暦 1680 年代には、日本で、西欧式の時計の製作などが行われていたようなのですけれども、これは振子時計であることが、西鶴の作品によって推定されます。


 井原西鶴の「好色一代男」は天和 2 年 (1682) の処女作、「日本永代蔵」は貞享 5 年 (1688) の刊行です。


日本古典文学大系 47

『西鶴集 上』

〔麻生磯次・板坂元・堤精二/校注 1957年11月05日 岩波書店/発行〕

「好色一代男 卷五」

 (p.131)

[原文] 里へ帰[かへ]る御名殘[なごり]に、昔[むか]しを今に一ふしをうたへばきえ入[いる]斗[ばかり]、琴彈[ことひき]歌[うた]をよみ、茶[ちや]はしほらしくたてなし、花[はな]を生替[いけかえ]土圭[とけい]を仕懸[しかけ]なをし、

(頭注)

土圭を仕懸なをし 当時昼夜の時間の長短があったので毎日分銅を調節する必要があった。


日本古典文学大系 48

『西鶴集 下』

〔野間光辰・/校注 1960年08月05日 岩波書店/発行〕

「日本永代藏 卷五」

 (p.141)

[原文] 年[ねん]中工夫[くふう]にかゝり、昼夜[ちうや]の枕[まくら]にひゞく時計[とけい]の細工[さいく]仕掛置[しかけをき]しに、



 ◎ ようするに、オランダとの交易が行われていたその当時《不定時法》を用いていた日本では、早くも 1680 年代にはすでに、ある程度の振子時計が国内生産されていたらしいのです。

 《不定時法》というのは、日の出とともに朝が始まり、日の入りで夜の時間帯となる、つまり生活が太陽とともにある、自然のリズムを基調とするものです。

 そのため、季節によって昼夜の時間の長さが変化するので、時間間隔が一定しない、という問題が発生するわけです。また、昼と夜の長さが同じなのは、一年で春分と秋分の日だけなので、振子の長さを調整することで時計の時間間隔を変化させることのできる振子時計は、大変有効なものであったと思われます。


―― ところで、〝早くも 1680 年代には〟という表現を、ここで使ったのには次のような理由があります。


 ヨーロッパに、最初の機械式時計が登場したのは、西暦 1300 年頃といわれます。それから 100 年余が経過して 1400 年代の 15 世紀には、時計の小型化が進みますが、その正確さはいまひとつでした。

 ガリレオがイタリアで振子の等時性を発見したのは、伝説的記録によって、1583 年頃 19 才のときであるとされるようです。その後、1656 年から時計の研究をはじめたオランダ人ホイヘンスは、翌 1657 年には振子時計を設計しています。それからまもなく、完全な等時曲線は〈サイクロイド〉であることが、1659 年にホイヘンスによって発見されることになるのです。


 つまり、1657 年にホイヘンスによって設計された振子時計はリアルタイムで船舶に搭載されたでしょうし、そのようにして舶来しただけでなく、1680 年代の日本の市中に、恐らくは国産品として出回っていたことが日本の刊行物の記録によって理解できるわけです。

 のみならず、日本独自の工夫として、振子に調節のための尺度が描かれたものを、尺度計(尺時計)と称したことが、知られています。


―― その他の各種資料を参照したページを、以下のサイトで公開しています。


自鳴鐘:西欧の斗鶏 ―― とけい ――

http://theendoftakechan.web.fc2.com/eII/hitsuge/shizhong.html