2019年6月29日土曜日

簡単な日時計の作り方

 下の図は、北緯 35 度に設置する日時計を横からみた形です。
 日時計の影を作る棒は、天の北極を指しています。

 天体は、天の北極を中心にして、回転運動をしますから、太陽もまた同じく、天の北極を中心にした回転運動をします。
 地球の自転が 1 回転すると、1 日が経過します。
 360 度を 15 度ずつに分割して線を引くと、24 本の線ができます。
 そのように作成した文字盤と、天の北極を指して設置する棒とを、きっちり組み合わせる必要があります。
 文字盤の中心を、棒が直角に貫いて、日時計が完成します。

 ◉ 太陽がちょうど真上に来た時には、太陽と棒と影の関係は、地面と垂直方向になるので、文字盤は正午の 12 時を、真下に向けて設置します。

 日時計を水平の台に固定すると、水平の台と天の北極を指す棒との角度は、日時計を設置する場所の緯度と同じ角度になります。

 ◎ それぞれの角、∠AOC, ∠BOD は、直角です。
 ◎ ∠COD は北緯 35 度の対頂角(向かい合った角)ですので、35 度となります。
 ◎ すると、∠BOC は 55 度となり、したがって、∠AOB は 35 度となるわけなのです。



 ※ 上の図の中で、右上の参考図の地球イメージに描かれた赤い線は赤道です。
 ※ 地軸の傾きは、北回帰線・南回帰線の 23 度 27 分 ( 23.45° ) に設定しました。

2019年6月24日月曜日

ヒポクラテスの月

ヒポクラテスの月というのは、半円内部に描かれた〝直角三角形〟と〝半円(三日月)〟の面積に関する問題です。

 JavaScript を使って Canvas に図形を描く演習問題として、ヒポクラテスの月は、格好のテーマのひとつでしょう。これは、直角三角形の 3 辺のそれぞれを直径にした、3 個の半円を描けばよいのです。




 ◎ 上の図は、描きやすさを第一と考えて、複雑な計算のあまり必要のなさそうな、30° 60° の角をもつ直角三角形を使って、それぞれの辺に円を描いてみました。

 ⟲ それを反時計回りに 150° 回転させてから、半円にしたものに、
着色したのが、下の図 ☟ となります。




◉ ヒポクラテスの定理:


上の図で、黄色の三日月形を足した面積と、直角三角形の面積は等しい。
※ 図の、⊿ABC は、∠C を直角とする直角三角形で、AB を直径とする円に内接している。


◎ ヒポクラテスの三日月の詳しい説明:

 ▸ ∠C が直角である ⊿ABC の外側に、辺 BC を直径とする半円と、辺 CA を直径とする半円を描く。
 ▸ これらの半円から、⊿ABC の外接円に含まれる部分を除いて得られる月形の図形を、それぞれ moon1, moon2 とし、moon1, moon2 の面積の和と、⊿ABC の面積を比較する。


◈ それぞれの半円の面積の関係:

 各辺の記号を次の通りとする。BC = a, CA = b, AB = c
 a を直径とする半円の面積を α
 b を直径とする半円の面積を β
 c を直径とする半円の面積を γ とすると、
円の面積 πr2 であるから、これを仮に 直径 a で表せば、
円の面積 π × a2 ÷ 22 となり、したがってそれぞれの半円の面積は、

 α = πa2 / 8
 β = πb2 / 8
 γ = πc2 / 8

となって、ピタゴラスの定理より、

 ∴ αβ = π (a2b2) / 8 = πc2 / 8 = γ


◈ ヒポクラテスの定理の証明:


 上と同様に、それぞれの半円の面積を α, β, γ とし、

  moon1 の面積 = s1
  moon2 の面積 = s2
  ⊿ABC の面積 = s3

 とすると、AB⊿ABC の外接円の直径だから、

   s1 + s2 = (αβ) - (γ - s3)

 さらに、上記(それぞれの半円の面積の関係)より、

   αβ = γ

 ∴ s1 + s2 = s3


 ◉ ヒポクラテスの月:

月形 s1, s2 は、歴史上最初に作図された「直線に囲まれた図形」に面積が等しい「曲線に囲まれた図形」である、といわれている。
〔参考文献:大田春外『高校と大学をむすぶ幾何学』2010年09月15日 日本評論社/発行 (p. 7, p.180)


Google サイト で、本日、「歳差運動」と「暦」についてのページを公開しました。

古代の《暦》 ―― こよみ ――
https://sites.google.com/view/hitsuge/arcus/koyomi

―― その内容に、〈ヒポクラテスの定理〉についての説明を合わせたページを、以下のサイトで公開しています。

古代の《暦》 ―― こよみ ――
http://theendoftakechan.web.fc2.com/eII/hitsuge/koyomi.html

2019年6月15日土曜日

《北辰》を廻る星座

―― ほくしんをめぐるせいざ ――

歳差運動を試しに計算してみる


⌀ 歳差運動の計算に挑戦してみました。

 ◯ 北條芳隆氏の『古墳の方位と太陽』でも紹介されていた『孔子の見た星空』の内容が〈北辰〉とか、歳差運動のことにとても詳しく、かなり参考になりましたので、今後の記憶のためにも、ここで冒頭の解説などを引用しておきたいと思います。


『孔子の見た星空』

古典詩文の星を読む

序章 孔子の見た星空 ―― 歳差と古典の星空

 (pp. 1-2)
 『論語』の為政篇の巻頭に、次のようにある。

子曰[いわ]く、「政[まつりごと]を為[な]すに徳を以[もっ]てすれば、譬[たと]えば北辰[ほくしん]の其[そ]の所に居りて、衆星[しゅうせい]の之[これ]に共[むか]うが如[ごと]し」

孔子の言葉「徳を政治の指導原理とするならば、それはあたかも、〈北辰〉がその居場所に坐っていてあらゆる星がそれを中心に回転しているさまさながらに、政治も自然にうまく進んでゆく」

 この「北辰」とはどういうものか。いまのおおかたの『論語』の注釈では、「北極星」と訳されるが、果たしてそれでよいのだろうか。今からおよそ二五〇〇年前の孔子の時代の北天をコンピュータで再現してみると図1のようになる。今の北天図2と比較すると、その変化に驚く。北極点に星はないばかりか、その周辺を見てもおよそ顕著な星はない。今の北極星、こぐま座の α [アルファ]は、遙か彼方である。孔子の見た北天には、「北極星」と呼ぶような星はなかったのである。
 この変化は、地球の回転軸が星空の間を移動していくという天文現象により生じたもので、我々が日常経験している天球の日周運動、年周運動とは異なり、人間の一生の間では気がつかないほどのわずかな地軸の動きが、積もり積もって現れた結果であって、歳差運動といわれている。
 地球を、北極と南極を軸にした独楽にたとえ、その回転している独楽の芯棒が黄道面に対して首を振る状態を、歳差運動のたとえとすると、芯棒の先は二万六千年で天球上に半径二三・五度の円を描く(図3)。北極星とおおぐま座 α 星との距離が角度にして二九度であるから、おおよその見当はつくであろう。このようにスケールの大きいゆっくりとした運動に気がついたのは、人類の天文観測史上からいえば、比較的後代であって、西洋では、紀元前一五〇年頃ギリシア人のヒッパルカスによって、中国では、晋の虞喜[ぐき](三〇〇~三五〇年頃活躍)によって発見された。
 この運動の起きる原因や詳しい議論は、天文学や力学の本に譲るが、この歳差が星空に具体的にどのように現れるのか、長い歴史をもつ中国の詩文を読むときには、是非とも念頭に置かなければならないことである。特に、北天では、天球上の回転の中心点(北極)との関係において、歳差が重要視されることになる。図1図2を比較すると、今の〈北極星〉こぐま座の α は、北極点を一五度近くも離れているが、逆に、こぐま座の β [ベータ]は昔の方が接近していて七度に近い(現在では約一六度)。また、北斗七星の第一星、おおぐま座 α はかなり接近していて一八度弱(現代では二七度余)となっている。


一 北天の星

 (p. 14)
 ~~。時代を遡れば、紀元前二八〇〇年ころに〇・一度と、今の北極星より理想的な近さの星、りゅう座の α トゥバン、すなわち三・七等星の〈右枢〉があるが、これは、三皇五帝の時代であって(図12)、孔子の時代では図1のように北極から大分離れている。
 (pp. 15-16)
 ところで、最近、香西洋樹氏は、シェイクスピアの「ジュリアス・シーザー」で、シーザーが「俺は北極星のように不動だ」という場面を引き、シェイクスピアが歳差を知らなかったため、シーザーが言うはずもない台詞を書いたと述べておられる(9)。この劇は、一五九九年(明の万暦二十七年に当たる)に書かれたという。英語に北極星 (pole star) が現れて四〇年ばかり後ということになるが、このとき北極星は、まだ真北極から三度弱離れてはいたが、次第にその座に相応しい名を認められつつあったいわば過渡期であったろう。もし、シェイクスピアが『論語』のこの部分を何らかから知ってこの台詞を書いたとしたら甚だ面白いし、その可能性も全くないとは言えないだろう。
 現在の北極星の北極との距離は紀元二〇〇〇年で〇・七四度強、二一〇二年にもっとも北極点に近づき(〇・四六度)その後は次第に離れていく。
 (p. 19)
 現在の星座では、北斗の柄のすぐ北には目立った星がない。せいぜいりゅう座の α (13)κ [カッパ](14)が推定される(15)。しかし、この両星とも四等星で、目立つ星ではない。そこで、さらに北に視線を移せば、こぐま座の α β 星(いずれも二等星)がある。β は、『晋書』では帝王と呼び、また太乙(太一)の座といういわゆる〈帝星〉、α は〈勾陳〉、つまり現在の北極星である。

[注]
9 『科学朝日』(一九九六年三月号)、のちまとめられて『シェークスピア星物語』(講談社 一九九六年)
13 りゅう座 α は〈右枢〉と呼ばれ、淳祐天文図では、この星のやや西側の小さな星を〈天一〉とするが、『史記』天官書とは異なる。
14 りゅう座 κ について、『史記』天官書の〈天一〉とは、「北斗の口の先にある三星は、北に随て鋭[とが]って(三角形)おり、見えるが若く見えざるが若き(星で)陰徳といい、〈天一〉と云う」というので、りゅう座の κ  λ を含む三星で、κ が〈天一〉であろう。
15 この項は、近藤光男「唐宋詩と星宿」(『北海道大学外国語外国文学研究』Ⅶ号)を参照した。
〔福島久雄/著『孔子の見た星空』より〕

図1 孔子の時代の北天(紀元前 500 年)*経線 1h = 15°間隔、緯線 10°間隔、以下同様。
北極点に星はなく、北極点に最も近い明るい星はこぐま座 β 

図2 現代の北天(2000 年)
こぐま座 α が北極点のごく近くに位置している。

図3 北極移動曲線(赤緯・赤経は 2000 年のもの)
歳差によって、北極点は 26,000 年で天球上に半径 23.5°の円を描く。

図12 りゅう座トゥバンの北極点への最接近(紀元前 2800 年)
北極に 0.1° まで近づいた。

The End of Takechan


歳差運動のデモンストレーション図形


◉ 以上『孔子の見た星空』のこれらの文と図による解き明かしなどから、天の北極の景観は、たとえばコンパスが 2 本の針の半径を 23.5° に固定された状態で円を一周描く、軌跡のようなイメージで、25,800 年をかけて、変化していくということが理解できます。その軌跡が〈北辰〉の軌道にあたるわけです。
⌀ この 23.5° の傾斜角というのは、有名な地球の自転軸の傾き、つまり地球が太陽の周囲を巡る公転軌道に対しての、地軸の傾きです。

⌾ さらにあらためて図3を見ると、紀元前 2,800 年頃にはまさしく天の北極だった竜座の α トゥバンが、現在の天の北極 ――〈北辰〉の周囲を右に旋回して、離れていっている様子がうかがえます。

⟳ 地球から見て、景色が右に巡っていくということは、自身は左向きに回っているということになりますね。
⟲ そしてまたこれが重要なポイントにもなりますけれど、地球から見て、自身が反時計回りの左回転をしているということは、天球の外から見た場合には、歳差運動は、右回転であるということを意味します。
⦽ 誰から見て ―― いいかえると誰が見た話なのか ―― という、前提となる視点の問題は重要なのです。

〔 ※ 窓の外の誰かに向かって、腕を反時計回りにぐるぐる回して合図したら、窓の外から見ているひとには、腕を時計回りに回しているように見えるはずですね。〕

◈ 以上の条件で、簡単な作図を試みるわけなのですけれども、23.5° の傾斜角の逆円錐みたいな形というのは少々難しいので、頂角が 23.5° × 2 の角の二等辺三角形(見た目は尖った角が 23.5° の逆立ちした直角三角形がふたつ、背中合わせになっているこの下の真ん中の図)を考えてみましょう。天球代わりの円盤をくっつけておきます。この円盤の周囲を天の北極が移動していくことになるわけです。

 ✎ 絵(図柄)の細かい部分の仕上げは、各自で考えていただけるように、あとで JavaScript のコードを公開することにします(今回じゃありません)。JavaScript は、―― いまどきなパソコンさえあれば動作するという ―― ブラウザ(インターネット閲覧ソフト=インターネットを見るための道具)を(ゲーム感覚で?)操作するための、無料のプログラミング言語です(いわゆるフリーソフトというしろもので、ブラウザに標準装備されています)。

 JavaScript の使い勝手のよさは、プログラムさえ用意できれば、あとはインターネットにつながっていなくても動作するということにあります。
 ですから一度読み込んだページは読み込み完了後すぐさまインターネット接続を切り離しても、そのページを閉じたり別のページに移動しなければ、新しい外部データを必要としない限り、動作に支障がないわけです。

 次に示す図は、手動制御と自動制御が切り替えられて、おまけに自動制御の際の変速機まで実装した

――〝歳差運動のデモンストレーション図形〟で、しばらく眺めていたら、デモの実感が湧くかも知れません。

 ※「スピード・角度の指定」は クリックして 数値を選んだあと 数字キーでの入力・ Home, End ・上下キー ↑↓ でも操作可能


〔現在の基準を西暦 2100 年とする〕



 歳差運動・デモ
OFF  /   ON ・スピード 
角度の指定  ° 現在からの年数 0 年前  

◈ 上の図で、歳差運動のイメージがうまくつかめたならさいわいで、感じがまだよくわからなくても、―― さてところで。とばかりにお構いなく、次の話題になりますが、―― それでは、現在の北極星が 500 年前・1000 年前には、当時の天の北極と見た目でどのくらい離れていたのか、ということを、これから計算してみましょう。

⛞ 上の図形の右下あたりに付属した〈角度の指定〉の選択ボックス [ 0° ] を クリックして
✍ 346 と数字を入力すると 1003 年前と表示されます。

―― この 1003 年という数字の算出基準としては、先の引用文『孔子の見た星空』の 16 ページに、

 現在の北極星の北極との距離は紀元二〇〇〇年で〇・七四度強、二一〇二年にもっとも北極点に近づき(〇・四六度)その後は次第に離れていく。

と書かれていましたので、それをもとにして計算をしています。

―― この図では《 2100 年》を基準の 0 年と前提したうえで ――
⌨ 歳差運動 1 周分の年数の 25,800 年を 360 度で割ることで 1 度あたりの年数を出してから、それを単純に掛け算しただけですが、それだけでもこのおおよそ 1,000 年間に、360 - 346 = 14 度分の円周の上を、天の北極が移動したことがわかります(当然ながらも、割り算と掛け算の計算式を書いただけで、実際の計算はパソコン頼み)。
 なにやらめでたしめでたしな感じなのですけれど、ではそれがそのまま夜空の景観として、見た目の角度の違いになるかというと、あにはからんや、それが違うのです。なんとなれば『孔子の見た星空』の 2 ページには、

図1図2を比較すると、今の〈北極星〉こぐま座の α は、北極点を一五度近くも離れているが、逆に、こぐま座の β [ベータ]は昔の方が接近していて七度に近い(現在では約一六度)。また、北斗七星の第一星、おおぐま座 α はかなり接近していて一八度弱(現代では二七度余)となっている。

と記録されています。図1は 2,500 年前で、図2は現代の図となっています。箇条書きにすると、

1.〔2500年前〕今の〈北極星〉こぐま座の α は、北極点を 15° 近くも離れている
2.こぐま座の β は昔の方が接近していて 7° に近い(現在では約 16° )
3.〔2500年前〕北斗七星の第一星、おおぐま座 α はかなり接近していて 18° 弱(現代では 27° 余)となっている

というわけで、どうしたって、単純な円周上の角度と、では計算が合わないのです。

⛞ 今の〈北極星〉こぐま座の α が離れている角度の 15 度分、360 - 15 = 345 度の年数は、
✍ 角度の選択選択ボックス [ 0° ] を クリックして 345 と入力したら、1075 年前と表示されるわけですから。
―― 2500 年前という説明とは、大きく異なってしまいます ――

 この計算結果の違いの謎を解明するために、『孔子の見た星空』の 4 ページに掲載された図3の一部を加工して、自分で作図した図形の上に乗せ、それぞれの長さと角度の比率を計測してみたところ、次のような数字を得ることができました。

 ―― 今回作成したサイズの図形での数字(座標の単位は px ピクセル)――

 ◎ 現在( 2,000 年)の天の北極の中心座標 (x, y) = (430, 270)

 23.5° の円の半径  r  =  170  ( 170 ÷ 23.5 = 7.234 )
 10° の円の半径 r_10  =  72  ( 72 ÷ 10 = 7.2 )
 20° の円の半径 r_20 = 142  ( 142 ÷ 20 = 7.1 )
 30° の円の半径 r_30 = 214  ( 214 ÷ 30 = 7.133 )
 40° の円の半径 r_40 = 286  ( 286 ÷ 40 = 7.15 )
 50° の円の半径 r_50 = 358  ( 358 ÷ 50 = 7.16 )

 これにより、10° 間隔の緯線は、1° あたり、おおよそ 7.1~7.2 の比率で描かれていると、理解できます。

◯ そこでおおぐま座の一番近い星(おおぐま座 α )を通るように円を描くと、

 27° 余の円の半径 r_27 = 200 ( 200 ÷ 27.4 = 7.299 )

となり、したがって、我々のお気に入りの星々が現在の天の北極とどれくらい離れているかの角度とは、

相互の座標を中心点として、相手の座標が円周に重なるように円を描くとき〔どちらから円を描いても座標間の距離は同じになりますので〕、その円の半径がどれくらいになるか、という測定であろうということになります。

⛞ それでは、ここはとりあえず、基準の数値を 23.5°= 170 と割り当てて、計算してみましょう。

⌨ それぞれの時代に、天の北極がどのあたりにあったかの位置計算 ―― つまりは歳差運動の基準軸を中心とした、北辰が天蓋(天宮)を移動する角度 ―― は、すでに計算済みなのですけれど、あいにく逆向きの回転になってしまっているのでここは調整し直し、また 1 度あたりの年数ではなく、100 年あたりの角度を出すことにして、ざっくり右回りの角度を計算しておきましょう。


⎋ この作図は(操作してみて)、小熊座 β が天の北極にもっとも近づいていたのは、紀元前 800~1200 年頃のおよそ 400 年間だったことを示しています。

⌀ また、小熊座 β と、紀元前 800 年 (16.42° ) の青の円周がちょうど重なって、上の箇条書きリスト第 2 の「こぐま座の β は昔の方が接近していて 7° に近い(現在では約 16° )」の条件とも一致するようなので、現在の天の北極からの角度を別途計算すると約 15.65° となり、あまり大きな誤差は、ここでは生じていません。

✥ 以上の考え方で合っているかどうかは、よくわかりませんが、おおまかなところ・だいたいのところはよろしいかと思われますので、目安程度のデータとして、計算結果をかいつまんで表にしておくこととします。

今の〈北極星〉小熊座 α 星・歳差運動上の軌跡(北辰との角度) 
\    西 暦 歳差運動の移動角度 見た目の角度の違い
西暦紀元 2,001 0 ° 0.74 °
1,501 6.98 ° 3.49 °
1,001 13.95 ° 6.35 °
501 20.93 ° 9.2 °
401 22.33 ° 9.76 °
301 23.72 ° 10.33 °
201 25.12 ° 10.89 °
101 26.51 ° 11.45 °
2,000 年前 1 27.91 ° 12.01 °
紀元前 300 32.09 ° 13.68 °
500 34.88 ° 14.78 °
1,000 41.86 ° 17.5 °
1,500 48.84 ° 20.15 °
2,000 55.81 ° 22.72 °
2,500 62.79 ° 25.22 °
5,000 年前 3,000 69.77 ° 27.62 °

 ⛞ 冒頭でも触れた、北條芳隆氏の『古墳の方位と太陽』(p. 77) には、紀元前 300 年の小熊座 α 星は「天の北極から約 12.7 度離れた位置」だったことが記されています。

〔 ※ このデータの比較によって、計算結果には、ある程度の明確な誤差があることが確認できます。〕

【 ⌨ 原因としてまず考えられるのは地軸の傾きの数値設定なので、《 23.5° ⇒ 23.4° 》に修正してみましたが、計算の結果は《 13.68° ⇒ 13.62° 》と、あまり変わらず、また紀元前 3,000 年頃の軌道上の位置にも 100 年程度の誤差が認められますので、この計算方法には相応の修正が必要になると考えられます。】


Google サイト で、本日、同じタイトルのページを公開しました。

日告げの宮 :《北辰》を廻る星座 ―― 歳差運動の計算 ――
https://sites.google.com/view/hitsuge/arcus/Dipper

―― もう少し詳しい内容のページを、以下のサイトで公開しています。

日告げの宮 : 北辰の星 ―― 歳差運動の計算 ――
http://theendoftakechan.web.fc2.com/eII/hitsuge/precession.html

2019年6月11日火曜日

ファルネーゼのアトラス像

◈ 前回、先月の終わりに引用した文献には、次のように述べられていました。

『古墳の方位と太陽』

「第 3 章 弥生・古墳時代への導入」

 3.1 「北辰」に星なし

 真北の方位を見定めるとき、通常の感覚では夜空に輝く「北極星」の位置を見れば決まると考えるはずである。たしかに現在の北極星(小熊座の α 星)は天の北極に最も近い星であり、赤緯 89 度 15 分に位置している。しかし過去を問題にするとき、このような認識は実態とかけはなれてしまう。夜の星空もまた歳差現象のもと 26,000 年周期をもって変動中であり、地上から北の空をみつめても、不動の「北極星」など存在しなかったからである。
 とはいえ天文学界では常識であっても、それが人文科学に定着するには時間がかかり、歴史学にも深刻な影響があることへの認識が広まるきっかけとなったのは、おそらく福島久雄(物理学・北海道大学)の著作ではないかと思われる。『孔子の見た星空』との表題どおり、福島は古代中国における星空の時代別変遷を再現し、孔子のいう北辰とは特定の星を指したものではなく、ましてや現在の「北極星」ではありえないことを具体的に論証した(福島 1997〔福島久雄 1997『孔子の見た星空 ― 古典詩文の星を読む ―』大修館書店〕)。
〔北條芳隆/著『古墳の方位と太陽』(pp. 75-76)


◉ 時代は紀元前 2 世紀のことです。紀元前 125 年頃まで生きていたとされる、ギリシャの天文学者ヒッパルコスは歳差現象の発見者として名を残しました。
 いっぽう、中国では東晋の虞喜(ぐき)が、紀元後の 4 世紀にあたる西暦 330 年代に歳差現象を独自に発見したといわれており、こちらは中国古典の記録によるはずなのですけれど、どういう事情が介在したのか、これらの情報が日本の文学者に伝達されたのは、20 世紀も終ろうとする 1997 年に発行された福島久雄著『孔子の見た星空 ― 古典詩文の星を読む ―』によってだった、ということらしいのです。


 ◯ 虞喜に関しての情報は、中村士著『古代の星空を読み解く ― キトラ古墳天文図とアジアの星図 ―』の 47 ページにある脚注に簡潔にまとめられています。

『古代の星空を読み解く』

 中国では東晋の虞喜[ぐき]が、西暦 330 年代に「歳差」を初めて発見したとされる。虞喜の場合、おなじ時節、たとえば夏至の日の日暮れに南中する星が古代の記録に比べてずれていることに気づき、黄道上の冬至点や春分点が西にゆっくり移動する、つまり歳差現象を発見した。虞喜は歳差による黄経の変化率を 50 年に 1 度(中国度)としたが、この値は真の値よりは少し大きすぎた(杜石然ほか編著、川原秀城ほか訳、『中国科学技術史(上)』、第 5 章、1997)。
〔中村士/著『古代の星空を読み解く』(p. 47)


アリストテレスとヒッパルコス


 ◯ また、『古代の星空を読み解く』の第Ⅱ部 「第 5 章 『アルマゲスト』の解析とトレミー疑惑」には、エラトステネスとヒッパルコスの業績が紹介されています。――〝トレミー (Claudius Ptolemaeus, または Ptolemy, 西暦 90 頃‐168 頃?)〟というのは、「プトレマイオス朝(紀元前 304‐紀元前 30 年)」との混同を避けるために著者の中村士氏が採用した表記で、人物としての〝プトレマイオス〟のことと 118 ページの脚注で説明されています。

『古代の星空を読み解く』

5.1 古代ギリシアの初期の天文学と宇宙観

アレキサンドリア

 ギリシア人が球形と考えた地球の大きさを、科学的に初めて測定したのは地理学者で天文学者だったエラトステネス (Eratosthenes of Cyrene, 紀元前 276‐紀元前 195 頃) である。彼はムセイオンの館長だったため、その所蔵パピルス文書によって、アレキサンドリアの南方、アスワン地方のシエネでは、夏至の正午に深い井戸の底を太陽が照らすこと、つまり、太陽が真上にくることを知った。エラトステネスは、この事実とアレキサンドリアにおける太陽高度の観測とを組み合わせ、両地点が地球の中心で張る角度は地球全周 360 度の 50 分の 1 と求めた。そして、アレキサンドリアとシエネの距離と組み合わせ、地球の全周長を約 3 万 9,000 km と算定した。この数値は真の値 4 万 km からわずか 3% しか違っていなかった。


5.2 ヒッパルコスとトレミー

ヒッパルコスの天文学的業績

 ヒッパルコス (Hipparchus, 紀元前 190‐紀元前 125 頃) は古代ギリシアの最大の天文学者と称えられる。彼は思弁的な天文学者とは異なり、アレキサンドリア市の所領だったロードス島で 40 年間も精密な天体観測を行ない、それを基礎にして数多くの目覚ましい天文学的業績をあげた。ただし、それらの成果は、後にトレミーがその著書『アルマゲスト』の中で言及しているだけで、ヒッパルコス自身が書いた著作はほとんど残されていない。唯一知られているものは、『アラトスとユードクソスの天文現象についての註釈』と題した著作だけである。
〔中村士/著『古代の星空を読み解く』(pp. 113-114, p. 115)


 ◯ ヒッパルコス以前にも、古代ギリシャのアリストテレス(前384~前322)は、天が球体であることは必然であり、地もまた球体であると著書のなかで論じています。

『アリストテレス全集 5』

「天界について」

第 2 巻 第 14 章

 だがまた感覚のもとに捉えられる現象によっても〔大地が球形であることは知られる〕。すなわち〔もし大地が球形でなかったとしたら〕月の蝕がもつ切断線はそのようなものではなかっただろう。じっさい、朔望月における形状変化ではあらゆる分断の形をとるのに対し(確かに直線にも凸曲線にも凹曲線にもなる)、蝕の場合には常に分断線は凸曲線であって、それゆえいやしくも月蝕は大地が前にあって遮ることから起こるのだとすれば、大地の周囲が球状であることが蝕の形の原因であろう。
 さらに星々の見かけの現象からは大地の輪郭が円形であるのみならず、大きさの点で巨大なものではないことも明らかである。われわれが南もしくは北に少し場所を移すと地平線は顕著に異なるものとなって頭上の星々は大きく変化する、すなわちわれわれが北もしくは南に移動すると同じ星々は見えなくなる。幾つかの星々はエジプトやキュプロス島周辺では見られるが、北方の国々では見られず、星々のうち北方の国々では終始すがたを現わしているものがかの地方では沈んでしまうのである。したがってそれらの事象からは大地の形が円形であるのみならず、その球が巨大なものではないことも明らかである。もし巨大であったとしたら、そんなにも短い距離を移動することでそんなにも速やかに顕著な変化をもたらしはしなかっただろう。
 それゆえヘラクレスの柱周辺の場所はインド周辺の場所と繋がっており、そのようにして海は一つであると想定する人々はまったく信じがたいことを考えているとも思われない。彼らが象をも推定の手掛かりとして言うのは、最遠の地であるそれらの場所の周辺にはともに象の種族がいて、それはそれら最遠の場所が互いに繋がっていることによってそのような共通性をもつからだということである。
 数学者たちのうち大地の周囲の大きさを算出しようと試みた人々もそれは四〇万スタディオンに及ぶと言っている。
 以上のことから推定すれば、大地の塊体は球形であるのみならず、他の星々の大きさと比較して大きいものではないのが必然である。
〔山田道夫・金山弥平/訳『アリストテレス全集 5』(pp. 138-139)


アトラスの天球儀


 ナポリ国立考古学博物館に所蔵されている「ファルネーゼのアトラス像」の肩には、大きな天球儀が乗っかっています。

 ◯ この天球儀については、『新訳 ダンネマン 大自然科学史 1〈復刻版〉』の本文と訳注で、次のように説明されています。

『新訳 ダンネマン 大自然科学史 1〈復刻版〉』

 天と地は球形であるという観念は、すでに古代において球儀の製作に導いた。まずはじめに天球儀があらわれた。それらの一つは「ファルネーゼの球儀」として、今日まで伝わっている。それはナポリの国立博物館に保存されている大理石の球で、「ファルネーゼのアトラス像」の肩にのっている(※五)
(※五・三五六ページ) アレッサンドロ・ファルネーゼは法王パオロ三世。ミケランゼロが彼のために建てたファルネーゼ宮のコレクションがのちにナポリに移管された。
〔Friedrich Dannemann/著、安田徳太郎/訳・編『新訳 ダンネマン 大自然科学史 1〈復刻版〉』(p. 356, 366)



 ◉ この「ファルネーゼのアトラス像」の肩の天球儀がヒッパルコスのデータに基づくものであるらしいという『日経サイエンス』に掲載された記事が、『古代の星空を読み解く』の脚注 (p. 123) で紹介されていました。


『日経サイエンス』 02 2007  Vol.37 No.2

 星座の起源
 The Origin of the Greek Constellations

 (SCIENTIFIC AMERICAN November 2006)

B. E. シェーファー (Bradley E. Schaefer)(ルイジアナ州立大学)

(翻訳協力:槇原凛)


「星の位置を変える歳差運動」

星座の位置
 星座は長い時間をかけて天の経線(赤経線)と赤道に対する座標上の位置を変えているため、年代推定の指標として用いることができる。例えば「ファルネーゼのアトラス像」(次ページの囲み参照)は、肩に載せている天球儀のおひつじ座の位置を分析すると、紀元前 125 年ごろ最初の像が作られたとわかる。おひつじ座の角の先端が天の経線上にさしかかった年代だ。


 (p. 91) MELISSA THOMAS




 (p. 92) © MUSEO ARCHEOLOGICO NAZIONALE, NAPLES, ITALY /
 BRIDGEMAN ART LIBRARY (left);〔上〕
 GERRY PICUS, COURTESY OF GRIFFITH OBSERVATORY (right)〔下〕

「ファルネーゼのアトラス像」

 現存最古のギリシャの星座の天球図は、2 世紀に古代ローマで作られた「ファルネーゼのアトラス像」に見ることができる。美術史研究家によれば、古代ギリシャ時代の像をもとに複製したものだという。天球を肩に担ぐアトラス神の姿の彫像は大理石製で、現在はナポリにある。
 天球儀の星座の位置を分析すれば、誤差 2° 以内で、つまり誤差 55 年以内で紀元前 125 年のものであることがわかる。このことは、元になったデータが星表のように系統的で正確なものだったことを示している。ヒッパルコスの星表は、当時のものとしては現存する唯一の存在だ。また、アトラス像の天球儀の星座と一致する文献はヒッパルコスの『注釈』だけだ。
 もちろん、同時代のほかの天文学者によって星表が作成されていた可能性はあるが、現存しているという情報はない。ヒッパルコスの星表がアトラス像の天球儀のデータとなっていることはほぼ間違いない。
〔『日経サイエンス』2007 年 2 月号 (p. 91, p. 92)


◉ 2000 年以上が経過して、ヒッパルコスのデータが視覚的に印象づけられる時代が新たに到来しているようです。


Google サイト で、本日、前回分と合わせ、もう少し詳しい内容のページを公開しました。

日告げの宮 : ファルネーゼのアトラス
https://sites.google.com/view/hitsuge/arcus/Atlas

―― もう少し詳しい内容のページを、以下のサイトで公開しています。

日告げの宮 : 春分の星座 ―― 歳差運動の発見 ――
http://theendoftakechan.web.fc2.com/eII/hitsuge/Hipparchos.html