2016年4月28日木曜日

ヨシュアの木

 旧約聖書の最後のほうに配置されている「ゼカリヤ書」では、ヨシュアがオリーブの木に象徴されています。
 メシアには「油そそがれた者」というもともとの意味がありますが、メシアにそそがれるその油は、オリーブオイルなのですね。その、オリーブの木の枝と油そのものに、ヨシュアはなぞらえられているわけです。
 そこではヨシュアと、もうひとりゼルバベルという人物が、両者ともに、メシアの候補となっているようです。
 ちなみに、ゼルバベルというのは、「バビロンの裔(バビロン生まれ)」という意味らしいです。

 その、ヨシュアの罪を訴える検察側の「告発者」が〈サタン〉であり、それは「検察側の証人」のような役割りを果たしています。その役職名が、人格的存在に対する名称となって用いられている、最初の例が、この「ゼカリヤ書」ということのようです。
 成立の年代は「ヨブ記」とほぼ同時期ですが、「ゼカリヤ書」のほうが少しだけはやいようなのですね。

 そもそもは、「妨げるもの(道をさえぎるもの)」という意味で登場したサタンですが(「民数記」 22 22 節)、それが「敵対者」という意味でもっぱら使われるようになり(「サムエル記下」 19 22 (23) 節など)、その後、人格的存在となってからは、人類を告発する者として、また《神》の使い、すなわち天使として、そしてダビデを誘惑する者として、旧約聖書には、三度、その名を刻んでいます。しかし旧約聖書では〈サタン〉はついに、《神》の古くからの「敵対者たち」とは、合体することはありません。
 その意味で、〈敵対者〉という固有名詞としての観点からは、この時点では未だ〈サタン〉は発展途上にあるといえるでしょう。

 ダビデを誘惑するという、最後の例(「歴代誌上(歴代志上)」 21 1 節)では、もともとは〈サタン〉ではなく《神》によるものとされていた伝承(「サムエル記下」 24 1 節)が、ダビデを動かしたのは敵対者〈サタン〉なのだと、そう置き換えられてしまったといういきさつがあります。
 信仰の深い(?)新しい記録者によって、それが真実であると、書き換えられたのです。

 そしてその聖書における信仰の最初は、「契約」にほかなりません。
 力ある、真実の《神》を畏怖し――おそれ――従うがゆえに、《神》はその信仰者を保護してくれるという、古来からの契約に基づいたものなのです。その古くからの――そう、旧くからの――契約を記した書が、『旧約聖書』というわけです。

 敵対者〈サタン〉が人格的存在と化して、《神》は「正義」の神へと、こちらも変貌を遂げていきます。
 ようするに悪いことは全部悪魔のせい、というのは、《神》は「すべての神」から「善なる神」に矮小化されてしまったからなのでしょうか。


the Joshua Tree
http://theendoftakechan.web.fc2.com/atDawn/quest/JoshuaTree.html

2016年4月25日月曜日

オン・ザ・ロード

 〈SHOGO HAMADA ON THE ROAD〉 というのは、ミュージシャン浜田省吾のツアー・タイトルであり、また 〈ON THE ROAD〉 は彼自身の初のライブ・アルバムでもある。
 アルバムは、1982 2 25 日に発売されたが、スタジオ録音であるタイトル曲の “ON THE ROAD” も、また、シングル盤として同時発売されている。
〔参考: ON THE ROAD (アルバム) - Wikipedia

 おそらくは、そのツアー・タイトルは「巡業中」という意味を含んでいるだろう。
 辞書によれば、“on road” で「〔野球などの〕巡業」という意味となり、“on the road” で「巡業中」となる。
 また、“off-road” は「〔道から離れた〕荒れ地の」という意味の語句となるので、“on-road” はわれわれ日本人には、「一般道路」よりも「舗装路(の)」という意味合いが強くなっている――。

 “ON THE ROAD” は数年前にフランシス・コッポラ総指揮のもと製作された映画でもある。
 原作の同タイトルの小説は、1957 年に発表されたベストセラーだ。
 そこには「放浪」という意味が入ってくる。
 新しいアメリカを求めて旅した作者は「ビート・ジェネレーション」という言葉を生み出した。

 一方、日本にも旅のロングセラーがある。沢木耕太郎著『深夜特急』だ。
 その「第十三章」に、「ビーイング・オン・ザ・ロード」という言葉がある。
 ユーラシア大陸を西に向かう旅の途中の安宿で、禅について問われ、彼はこう答えるのだ。

「禅とは……途上にあること……だと思う」

 最高な、フレーズだ。
Where is the street has no name
と、頭に浮かんで。

今回アップ・ロードしたページは、次のように結んだ。

 1987 年に発表された U2 の名盤 “The Joshua Tree” は、アイリッシュ・アメリカンである彼らが見た「神の国」アメリカの原風景を「魂の叫び」に昇華したアルバムだ。
 その一曲目のタイトルが、〈Where The Streets Have No Name〉 である。
 その〈名もなき街〉は、「地図にない」場所なのか、それとも「地図がない」場所にあるのか……。

 旧約聖書に「ヨシュアの木」を見つけた、と思った。
 オリーブの木が、ヨシュアの象徴として表現されている。


on the road …… 途上、のこと
http://theendoftakechan.web.fc2.com/atDawn/quest/ontheRoad.html

2016年4月20日水曜日

大口をたたくサタンのツラ(顔)は輪郭からハミ出ても表現可能であるか?

 ――ようするに、絵を描けないから、文字で勝負しようということになる。
 すると、映像表現不可能な描写を編み出したくなってくる。

 ということで、その一例が「輪郭をはみ出すデカいツラ」なわけだ。
 誰の顔でもよかったのだが、ここは名のあるところで、口から出まかせいいたい放題しそうなサタンにモデルになってもらうことにした。

 旧約聖書のあいだは、ただの化け物ごときに象徴されていた神の敵も、サタンと合体することで、人語を解し、発するようになる。
 ――すると、やにわに、例えば、新約聖書冒頭の「マタイ福音書」第 4 章で、さっそくイエスを試みはじめたりする。
 サタンを拝めば、全世界の栄華すらも、イエスの思いのままだという。
 サタンは、偽りの父であり、またこの世の王であるから、イエスに地上の権力を与えることも楽勝に可能なのだ。
 なんだか、ここは嘘をついていないような気がするが、サタンにもある程度の説得力は必要なわけで……

 そういう次第で、サタンの態度は、横柄とはいえないけれども、とにかくデカいのである。
 そういう態度に対しては、一般に「大口をたたく」という。「大きな顔をする」ともいう。
 そういうわけで、どんどん顔が大きくなっていくのである。
 よくカタカナで書かれる「つら」、というのはそういう顔のことだが、漢字では「面」という字になる。
 その理でことわざの「カエルのツラにションベン」を漢字で書くと、「蛙の面に小便」となる。

 その一方で、サタンのツラはどんどん大きくなっていくのである。
 デカいにもほどがあろうと、よく見れば、その外縁は明らかに枠をはみ出ていた。
 輪郭からはみだしつつも機能する顔というのは、あるいはサタン特有の超常現象であろうやも……?

2016年4月14日木曜日

正統と異端 —— 新たなる闘争

 今回の引用文献では、かのオリゲネスが 〈レビヤタン〉 と 〈ディアボロス〉 を「ヨブ記」のなかで同一視する様子がうかがえました。〈ディアボロス〉というのは、ヘブライ語の〈サタン〉をギリシャ語に翻訳した際に用いられた語句です。
 つまりここから、敵対者 〈サタン〉 は、ついに「古き竜」と同一視される道を辿る というか、合体していくことになるわけです。

 また、イエスの活動以降は聖書の闘争神話に新たなる局面が加わったようで、それは、異教の神との闘争のみならず、キリスト教内部での「正統」と「異端」の論争にまで発展していきます。

 そこまでを、ひと区切りとして、漠然としてはいますが感想めいたものをひとつの問いかけとして記しましたので、次にコピペします

――
 なんだか、〈Lucifer〉 というキーワードで、思考停止に陥っているような気がしないでもない。
 つまり、「いうまでもなく」というのは、日本語にもよくある思考停止のキーワードなのだが、海外でも同様に、「みなさんよくご存じの」〈ルシファー〉という次第であるような気がするのだ。
 そして、もしかすると、その延長上に、「正統」と「異端」の論争があるのではなかろうか。
 無論――「いうまでもなく」、「正統」とは自説のことであり、「異端」とは自説に対立する他の諸説のことであって、最終的に勝者が「正統性」を勝ち取りその他は「異端」として世間から排斥されることになる。

 学者・研究者であれば、自説の正統性などではなく、何が正しいのか、を論証すべきであろうことは誰しも認めることに違いないのだ。
 ところが、結局は、自己の正当性のみをふりかざして、それが「唯一の真理」であると主張して、歴史は、そのように繰り返されてきた。
 すなわち西欧の多くには、「唯一の神」が論拠の大前提としてあるのだから、そこに「唯一の真理」がなければならないのだろう。
 ところが旧約聖書には複数の可能性が記述されていることは、すでに見てきたとおりだ。そのことは、新約聖書でも、同様なのである。
 彼らの『聖書』のもとに選択肢はひとつではないことが、そこに示唆されているのだ。
――

 さて……。
 この数か月間、『聖書』に関して日本人には不案内であろう〔と推測される〕ことがらを、列挙し、原典やら学説やらを調べつつ書き連ねてきたのではあります、が……。
 ここに至り、どうやら「本当のこと」は西欧の(少なくともアメリカの)キリスト教徒でも、ほとんどの大衆は知らないようだと、そういうことが書いてある書籍に遭遇してしまいました。
 それを読めば、まるで、本当のことを伝えれば、信徒たちの信仰が揺らぎかねないような、教会の態度ではありませぬか。
 この世の王とは、やはり教会のことなのですか?


正統と異端 ―― イエス以後・新しい闘争の時代
http://theendoftakechan.web.fc2.com/atDawn/Messias/newCombat.html

2016年4月8日金曜日

〈イエス〉と〈インマヌエル〉

 イエスは、インマヌエルである、という聖書の記述についてです。

 ラテン語聖書では〈インマヌエル〉は 〈Emmanuhel〉 もしくは 〈Emmanuel〉 であり、これはギリシャ語に音写したヘブライ語をラテン文字表記したものなのです。
 ちなみに、ラテン語表記の違いは次のようになります。

VULGATA 聖書では、〈Emmanuhel〉
NESTLE-ALAND 聖書では、〈Emmanuel〉

 この〈インマヌエル〉、もしくは〈エンマヌエル〉ですが、ヘブライ語の冒頭の音が、ギリシャ語では「イ」から「エ」に変化した音で習慣化して発音されて、定着したようなのです。そういう次第でなのかどうか、ギリシャ語研究者によるカタカナ表記は〈エンマヌエル〉となっているようです。
 もうひとつちなみに、日本語訳聖書での表記は主だったところで「口語訳」「新共同訳」「新改訳」のいずれも〈インマヌエル〉となっています。原典であるヘブライ語から翻訳すると、そういうことになるのだと思われます。
 そいうわけで、このたびは基本的に〈インマヌエル〉と表記することにしました。

 その、〈インマヌエル〉の意味は英語では “God with us”、これを日本語に訳すと「神は我らとともにありとなりまして、上記のどの日本訳聖書もそういうような意味の訳文となっています。
 そして、〈イエス〉の意味は『新カトリック大事典』第 1 (p.305) によりますと YH(主なる神)は救いである」ということのようです。
 このことは『新共同訳 新約聖書注解Ⅰ』(p.36) では、
  神名「 YHWH 」と「救う」(ys‘) を結びつけたもので、「主は救い」を意味する
と記述されています。
 また、『旧約新約 聖書大事典』(p.102) には、その意味について「フィロン『改名』121 参照」とありますが、田川健三氏は『新約聖書 訳と註』 第一巻 (p.512) で、次のように述べておられます。

なお念のため、「イエス」という名前は「主(神)が救い給う」という意味だ、という説明は、語義的には間違いである。単に「救う者、救いに関わる者」といった程度の意味。単語そのものには「主が」という意味は含まれていない。しかし宗教的な意味づけを好む人たちが、フィロンの例からもわかるように、これに「主の救い」という宗教理念を読み込んだのである。語義と、意味づけは違う事柄だから、混同してはいけない。

 どちらの説を支持してよいものやら、まったくもって、さっぱりわかりませぬが、なんとなく、「主が救う」ほうが、「マタイ福音書」の文脈としては、うまくまとまりそうです。

マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。
…………
 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。
 その名はインマヌエルと呼ばれる。」
この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。
『聖書 新共同訳』「マタイによる福音書」第 1 章 21, 23 節

 こういうことも、各自の判断が、それぞれに、重要なのだと思われます。


Emmanuhel :「イザヤ書」と「マタイ福音書」
http://theendoftakechan.web.fc2.com/atDawn/Messias/Emmanuhel.html

2016年4月4日月曜日

〈ティアマト〉と〈テホーム〉ないしは〈ラハブ〉

今回は、〈ラハブ〉と〈ラハム〉が同一視されない理由について、
調べておこうと、思ったのだ。それは簡単に解決した。
 次のように、調べがついたので、コピペする。

〈海の怪獣ラハム (the monster Lahamu)〉を造った〈ティアマト(フブル)〉は、以下の解説文に見るように、〔「エヌマ・エリシュ」の〈ティアマト〉は〕聖書の〈ラハブ〉と同じであるという解釈さえある――のだけれども、〈ラハブ (Rahab)〉が〈ラハム (Lahamu)〉と同一視されることはない。なぜか?――と、いう問いはここに至れば愚かともいえようか。それはたとえば、英語で「光・軽い (Light)」は同じ語句といえようが、「右・権利 (Right)」とは異なる語句なのだということなのである。
〔参照:英文「エヌマ・エリシュ」

以下の解説文」というのは、今回引用させていただいたもので、↓ のページにあるもの。

かように、あっけない話だったので、次に、
〈ティアマト〉と〈ラハブ〉が同一視される理由について、調べてみた。
 結論だけ、コピペする。

 さまざまな起源をもつヘブライの怪獣たちが、海獣という「くくり」で、〈ラハブ〉と同一視される過程があったようだ。
 そうして、バビロニアの〈ティアマト〉はヘブライの〈テホーム〉から〈ラハブ〉へ、そこから〈ヤム〉さらには〈タンニーン〉や〈レビヤタン〉と同一視されていくことになった、と思われるのである。
〔経緯も含めて→ まとめとして――。 参照〕


ちなみに〈ヤム〉というのは「海」のヘブライ語だ。
〈テホーム〉というのは、前回にも少々触れたが、ヘブライ語の「深淵」という単語で、
「創世記」第 1 2 節に早くも登場する。

〈レビヤタン〉の訳語としても用いられる、ギリシャ語の〈竜〉は、
そもそもは、海の怪物〈タンニーン〉であり、その初登場は、「創世記」第 1 21 節であった。
聖書の〈レビヤタン〉は、「鰐(わに)」になったり「鯨(くじら)」になったりもするが、
念を押しておくと、その英語読みが〈リヴァイアサン〉なのである。

「エヌマ・エリシュ」の〈ティアマト〉は、いわゆる〈海〉の化生 (けしょう) した怪物なのであるが、
ヘブライ神話でも、その〈海(ヤム)〉の制圧が、「出エジプト記」で具体的に語られる。
――「出エジプト記」で二分されたのは、〈テホーム〉だが、それはつまり〈ヤム〉であり、
「ヨブ記」などでは、〈ラハブ〉という表現ともなり、〈レビヤタン〉ともなる。
〈ティアマト〉が海であるということは、辞書に次のように記述されている。

バビロニアの叙事詩エヌマ・エリシュでは、ティアマト(塩水の海)とアプスー(淡水の海)から神々が誕生する。
『旧約新約 聖書大事典』(p.1023)

聖書では、「創世記」第 1  6 節で、
「大空」の上下に二分された〈水〉の間に世界が形成される。

 どうやら、聖書の闘争神話も、ここから始まっているようだ。

もとのヘブライ語の表記などは、このたびアップしたページで、確認してくだされ。
 ↓

レビヤタンとラハブ 2
http://theendoftakechan.web.fc2.com/atDawn/Messias/Rahab.html