2018年7月28日土曜日

箸墓古墳から夕月岳へのライン

箸墓古墳の 中軸線 22.3 度に 意味はあるか


 〈箸墓古墳〉の 22.3 度のラインを〈夕月岳〉からさらに延長すると、桜井市笠の〈笠山荒神社〉の南側の谷に鎮座する〈天満神社〉に至る。若干のズレは認められて、〈天満神社〉に向かう〈箸墓古墳〉からの角度の計算値は、22.03 度であった。
 ようするに、約 0.3 度だけライン上から逸れているということになる。

 ○ 『奈良県史』にこの神社の記事があった。

 天満神社 (笠字カサヤマ二四一〇)
 笠山荒神へ登る道の北側入口に鎮座する旧指定村社で、菅原道真を祀る。社伝によると建長八年(一二五六)竹林寺の執行膝円の創祀と伝える。本殿は流造・桧皮葺で朱塗。
〔『奈良県史』 「第五巻 神社」(p. 353) 〕

 ここで、あらためて〈箸墓古墳〉の中軸線が示す方角について何らかの学術的な意味が認められるのかどうか、少しだけ考えてみたい。
 これを太陽と関連づけて、日の出の方向が一致する頃に、何かしらの行事が行なわれるのだろうという推察までは容易な話だ。
 では、それは何月何日なのだろうか。ここでは簡便のために、現代のカレンダーでその日を特定してみよう。
 桜井市周辺で、日の出が東北東に、22~23 度の角度になる日付がわかる方法をインターネットで探してみた。

 幸いなことに、海上保安庁のホームページに、「日出没・正中時刻及び方位角・高度角計算」を計算してくれるページが用意してあった。


日月出没時刻方位サービス|天文・暦情報|海上保安庁 海洋情報部
http://www1.kaiho.mlit.go.jp/KOHO/automail/sun_form3.html

 そのページの選択肢で、「奈良市」を選び、今年の 5 月にカレンダーを設定すれば、該当の角度が含まれていた。結果の一部を、ここに引用すれば、次のようである。

解 説 : 出没・・太陽、月の場合は上辺が地平線に接する瞬間
    : 方位・・真北を0度とし、東回りに測った角度(単位°)

5 月の日付 : 方位(日 出)

    8     (69°)
    9     (68°)
   10    (68°)
   11    (68°)
   12    (67°)
   13    (67°)
   14    (67°)
   15    (66°)

 この結果から、おおよそ 5 月 10 日頃からの、数日間であることがわかる。
 しかしながら桜井市は盆地なので、水平線から朝日が昇ることはない。―― だからこれよりも少しだけ時間が経過した、太陽の高度が高くなった時間帯に、日の出は確認できるだろう。
 高くなるにつれ、朝日は少しずつ南へと移動していくので、つまりはもう少し夏至に近い日が、実際には該当するはずだ、と予想できることとなる。
 ようするに、現代のカレンダーには五月中旬頃にその日が書き込めるはずだ、というわけだ。
 では、五月の中旬に、そのあたりで何があるかというとこれもインターネット上の情報で、奈良県のホームページなどでも、「田植えの始まる時期」だということが、確認できるのである。
 そういう次第で、おおまかな話としてだけれども、〝箸墓は五穀豊穣の祭祀に用いられていたのではないか〟という課題が、机上の推論の結果、提案できることとなる。


 ○ 今回は最後に、長くなるけれど、こういう研究分野に対する専門家の対応の例を、先にも参照した『古墳の方位と太陽』から、引用させていただきたい。


『古墳の方位と太陽』 「第 4 章 風水と火山信仰」より

 1.(1)過去の遺跡と身近な現象
 (p. 103)
 いいかえるとこれら山裾に建てられた神社とは、背後の山並をご神体の在処にみたて、そこに祈りを捧げ祭祀を執りおこなう遙拝所としての性格をもっていた可能性を多分に秘めており、本殿の場合には背後の山からご神体を降臨させる意図を伴ったとみるべきである。こうした性格の遙拝所や本殿が背景の火山や山の峰に軸線を向けて建てられるのは当然の現象だとみてよい。

 1.(2)専門的研究者の回避姿勢
 (pp. 103-104)
 しかしながら弥生・古墳時代研究者の大多数は、たとえば古墳と背後の山との関係を検討したがらない。この種の課題設定それ自体を奇異だと受け止める研究者が多いのが実情である。吉野ヶ里遺跡と雲仙普賢岳との関係に対する学界の冷淡な反応も、そうした姿勢の延長線上にある。
 では専門的考古学研究者の間にこうした回避姿勢が顕著な理由はどこにあるのだろうか。私の経験に照らして考察するなら、おそらく次の 3 点に集約されると思われる。
 その第一は技術的な制約である。遺跡の位置を地図に落とし込んだうえで正面観や軸線の様相を検討しようとしても、20 世紀の段階では精度の高い分析が保証される環境にはなかった。たとえば広く利用されている 2 万 5000 分一縮尺の地図では、遺跡の位置についても周囲の山並との関係を検討するさいにも地図中に手書きで書き込む作業が不可欠となり、精度が低すぎて詳細な分析など不可能だったのである。
 いいかえれば位置情報を的確に処理し解析する環境下ではなかった段階で、仮に古墳と背後の山との関係を主張してみたり、遺跡の中心軸線がはるかかなたの火山に向けられている旨の主張を展開したりしてみても、それを客観的な手法によって検証するすべはないに等しかったわけである。だから主張の正否にたいする判断は当面のところ不能だとして棚上げされる。そうした状況が長らくつづいたので、未だに回避される傾向をぬぐえないのであろう。
 また第二の理由は、私たちが日常的になじんでいるはずの宗教行為を参照することへの拒否感だと推測される。物事は客観的に捉えなければ科学的とはいえない。だとすれば身近に接する神社や山岳信仰の様相が仮にそうだからといって、過去からそうだったなどとは保証できないし立証も困難である。つまり参照すべき類似例を現在の日常に求める行為は危険である。時空を隔てたアナロジーでしかなく、それは科学性に反する。歴史主義ないし実証主義とも抵触する。こうした拒絶反応である。
 さらに学問において極力排除すべきは神秘性への傾倒であるが、神社や山岳信仰は神秘主義もしくはオカルティズムの凝集である。合理的精神の対極にある存在であって、それを合理的ないし科学的に説明しようとすれば相当な事前準備が必要で、強い覚悟が求められる。しかしそれを当面の課題に据えるだけの余裕がない。安心して依拠しうる先行研究があるならそれを参照することもできようが、そのような著作も不在である。だから二の足を踏むことになる。
 つまり事前の準備が整わないまま山岳信仰と古墳とを対峙させる行為に足を踏み入れたとすれば、古墳にたいしても同質の神秘主義を投影させる結果に陥りかねない。仮にそうなったとしたら研究者自身が科学性を放棄したと同じに映る。いいかえれば神秘的な現象への眼差し自体が非科学性と直結する危険性をはらむので、極力回避したいという自己防衛反応が生まれるのである。そのためこの種の研究はアマチュア考古学者の独壇場となる。
 さらに第三の理由は、第一と第二の理由を混ぜたところから生じる感覚的な拒否反応であろう。端的にいえば、このようなテーマは専門的な訓練を受けていない素人的なそれであって、検討作業も遺跡や古墳間に線引きをおこなうだけだから分析に深みがない。仮に遺跡や古墳の軸線を延長したところに特定の山がそびえていたり、他の遺跡や神社の場所と重なるような現象に直面したり、といった場面があったとしても、たんなる偶然の結果であることを排除できない。
 ようするに不毛な作業であるとの判断が先に立ち、こうした問題と向き合う方向性を避けるのである。…………

 1.(3)本章の課題
 (p. 105)
 告白するが、このテーマに足を踏み入れさえしなければ、私自身も同様の拒絶感を抱きつづけていたはずだとの確信がある。そのため第三の理由が専門的考古学研究者に強く作用することはよくわかる。たとえば神社や特定の山々を結ぶ〝聖なる三角形〟説はアマチュア考古学者によって古くから喧伝されてきた。最近では伊勢神宮―平城京―出雲大社が一直線上にあることに注目する研究もある(1)。こうした主張に対し、それを〝オカルト考古学〟だと処断する感性から私自身も完全には抜け出せていない。
 しかしながらストーンヘンジへの研究史を参照したとき、こうした専門家筋からの予断に満ちた拒絶反応や棚上げ姿勢こそが議論の進展を阻むものであったことを学ばされ、自省してもいる。…………
 (p. 106)
 このような学史を学んだ現在、私はこれまでの自己認識を変更し、予見に委ねてレッテル貼りをおこなう前に、ともかく事実関係を自分の眼で検証してみることに重点を置いている。さらにこの種のテーマに関しては、アマチュア考古学者の著作に学ぶべきところも少なくないと思う。
 ではどのような方向性で対峙するなら現状を打開できるのか。この問いについては、あくまでも客観的な事実を淡々と積み重ねることを通じてしか議論を活性化する途はないのであろうと考えている。帰納法的に事実関係を積み上げて説得を試みる方向性だといえようか。

 2.(1)箸墓古墳と弓月岳
 (p. 106)
 奈良県桜井市にある箸墓古墳は最古最大の前方後円墳として著名であり、私もこの古墳を対象にして墳丘築造企画論への適用を試み「箸墓類型」を提唱したことがある(北條 1986)。…………
 (p. 107)
 その結果、現在では、本古墳の主軸線は東北東にそびえる弓月岳(嶽)409.3 m ピークに向けられている、との見解に到達している。1983 年に大和岩雄が最初に指摘した事実関係なのだが、私の作業結果もそれを追認したことになる(大和 1983 参照)。
 (p. 108)
 ① 築造企画論に即した墳丘主軸の確定 このデータは墳丘測量図に方眼を重ねることで導かれる。その結果、真北からの角度は 67°42′ となった。仮に正方位の方眼地割りを事前におこない、12 進法に即した角度出しだったと仮定すれば、12 : 5(真東に 12 単位分のところで北に 5 単位分をとれば実現される角度の割り出し)となる。
 ② 方位の示準先候補地の踏査 2009 年と 2011 年に弓月岳の現地を訪れ GPS 観測を実施し、先の主軸方位との対応関係を点検した。三角点の地点を弓月岳山頂とみなしてよければ、また箸墓古墳後円部の中心点を私の計測値に求めることが妥当だとの判断が許容されるなら、時点における方位の誤差は 0°12′(GPS 観測点でそれぞれに生じる測定誤差は ±3 m )となる。

 註 
(1)  現早稲田大学の法制史学者である水林彪が、その著『記紀神話と王権の祭り』(水林 2001)にもとづき、同様の主張を展開したことで新聞記事にも取り上げられ話題となった。〈Google Earth〉 を利用すれば簡単に検証可能であるが、緯度・経度の値を秒単位までは絞り込まない範囲での計測結果としてなら、事実だといってもさしつかえないことがわかる。問題はその計測法と角度の割り出しである。表をもちいた同緯度地点の割り出しは可能だとして、どの経路をとれば正確な距離を計測できるのか、伊勢神宮―平城京間の値を入手することは不可能ではなく、じっさいに伊勢神宮―三輪山間の計測については NHK の番組も組まれた経緯がある。問題は大極殿―出雲大社間である。現時点で私には適切な妙案が思いつかないために保留している。

 引用・参考文献
北條芳隆 1986「墳丘に表示された前方後円墳の定式とその評価 ―成立期の畿内と吉備の対比から―」『考古学研究』第 32 巻 4 号
大和岩雄 1983『天照大神と前方後円墳の謎』六興出版
水林 彪 2001『記紀神話と王権の祭り(新訂版)』岩波書店


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箸墓古墳:日輪の祭壇
https://sites.google.com/view/geshi-lines/hijiri/hashihaka

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2018年7月25日水曜日

箸墓古墳の中軸線が示す方角

箸墓古墳の中心軸と夕月岳


 今回も、小川光三氏の大和の原像の参照から始まるのだけど、箸墓復元想定図(附:日の出の方向)(p. 195) には、箸墓古墳の中心軸の向きは「至斎槻岳」―― 東西線に対して 22 度 ―― と、書かれている。これは箸墓古墳の築造時、夕月岳いわゆる穴師山 ―― 基準点名「穴師」標高 409 m 地点 ―― に向けて設計されたという推察につながるものだ。
 古代の祭祀および建造技術者は、意図的にそれを行なったのか。それともたまたま、そうなったということなのか。そのどちらでもありうる。
 この角度について調べていると、北條芳隆氏の古墳の方位と太陽(pp. 159-160) では、22.3 度と示され、夕月岳 409 m ピークに向かうラインとは0.1 度の誤差をもつと、文章と表によって記述されていることがわかった。
―― この文献の記述も、鳥取県立図書館の司書のかたがたの協力によって、見つけることができたのだということをここに補足しておきたい。

 ○ さて、北條芳隆氏の古墳の方位と太陽の 159 ページには、次のように書かれている。

箸墓古墳の軸線と弓月岳 409 m ピークは 0.1° (6′) の誤差をもち、西山古墳の軸線と高橋山 704 m ピークは 0.4° (24′) の誤差をもつ。これが資料の実態であるから、この誤差ゆえに私の主張する事実関係には厳密さが伴わないとの批判もありうることである。しかしこの程度の誤差は許容される範囲内だと私は判断するが、そのいっぽうで、纒向石塚古墳の場合には検討が必要である。その前方部は三輪山山頂を向くと判断できるか否かであるが、本古墳にたいする私の築造企画復元案では、3.2° の振れ幅をもって三輪山山頂方向に軸線を向けることになり、それを意味のある事実とみなすか単なる偶然とみなすべきかの判断は微妙である。
〔『古墳の方位と太陽』「第 5 章 大和東南部古墳群」(p. 159) 

―― 実はこれまでは、おおよそ 1,500 年前の歴史について検証するということから、角度の 1 度未満は誤差の範囲内として、あまり気にしていなかった。
 それで、桜井市周辺の、検証する地域的には〈神武天皇陵〉(N 34.49751) で北緯 34 度 30 分あたりから始まるにもかかわらず、東西線にかかわる長さの修正値も、cos35° ≒ 0.819152 の数値を用いてきたのである。
 北緯 35 度というのは、当初に、おおよそ西日本全体をカバーする北緯線として、想定したものだ。
 しかしながら、ここで 0.1 度の誤差が問題なのかどうかが、議論されている。
 今後はこの議論を踏まえたうえで、〈箸墓古墳〉の中軸線 22.3 度の数値を使わせていただきたく思うので、そういう次第で、これからは、奈良県桜井市の周辺地域の北緯線としては 34.55 度と想定を改めたい。
 北緯 34.55 度というのは天理市にある〈景行天皇陵〉(N 34.55071) のあたりの数値となる。夏至の観測ラインは、これから、北東方向に延びていく予定なのである。

―― 今後は、cos34.55° ≒ 0.8236316 の数値を用いることになる。

 ちなみに、上の修正値 (JavaScript の値では 0.823631592193872) を用いた修正版の計算式で、「箸墓古墳-弓月岳」のラインの角度は、22.38° であった。テスト版の地図上の線では、〝箸墓古墳の中軸線〟として引いた 22.3° のラインに、ほぼ重なっているように見える。

 それと、これも修正値を書いておかなければならないだろう。

 ● 修正版の計算式で、〝三輪山を東の頂点とする正三角形〟の数値は、次に示す値となった。

(新) ラインの座標       角度     水平距離

神武天皇陵 - 三輪山の山頂     29.99 °   8.374 ㎞
鏡作神社 石見 - 三輪山の山頂   29.74 °   8.371 ㎞
神武天皇陵 - 鏡作神社 石見    90.11 °   8.338 ㎞


 ● どれほどの誤差が生じるものなのか、参考のために、以前の計算式による値も書いておこう。

(旧) ラインの座標       角度     水平距離

神武天皇陵 - 三輪山の山頂     30.12 °   8.340 ㎞
鏡作神社 石見 - 三輪山の山頂   29.87 °   8.337 ㎞
神武天皇陵 - 鏡作神社 石見    90.11 °   8.338 ㎞


神武天皇陵についての いち考察


―― その神武天皇陵は、畝傍山東北陵という名称があるように、畝傍山の北東部に位置するのだけれども、その場所が定まったのは、そう古い話ではない。
 江戸時代、ペリー来航の 10 年後にあたる幕末期、文久三年( 1863 年)に神武陵の場所はようやく決定されたのだという。
 つまりその幕末期以降に、かなり近代的な技術を伴った、築造工事が行なわれたのである。

『大系本 古事記』を見れば、137 歳で亡くなって、御陵在畝火山之北方白檮尾上也。(p.166)
――御陵(みはか)は畝火山の北の方の白檮(かし)の尾の上に在り。と記されている。

大系本 日本書紀(上)では 127 歳で亡くなり葬畝傍山東北陵。(p.217)
――畝傍山東北陵(うねびのやまのうしとらのみさざき)に葬(はぶ)りまつるとある。

 各種文献によればしかしながら、というわけだ。そののち年ふるにつれ、7 世紀ごろにはあったかもしれない神武天皇陵も、中世には確かな所在地がわからなくなったらしいのだ。

 幕末の危機の時代に、この正三角形が、設定された。
 偶然なのか、入念な測量がなされた上でなのか。
 偶然にせよ、意図的にせよ、どちらにしてもなんだか凄い。

―― もしこれが〝意図的な正三角形〟だとするなら、

三輪山と石見の鏡作神社を結ぶラインを設定基準のひとつとして、神武天皇陵の場所は定められたことになる。

2018年7月23日月曜日

天神社 と 斎宮山

奈良県の桜井市観光協会公式ホームページに、
 小夫の村の斎宮山のふもとに南面して天神社が鎮座しています。創建された年代は明らかではありませんが、天神社の名の通り太陽信仰に関係した社で、天照大神を主神とする元伊勢の伝承地のひとつです。天児屋根命、品陀別命、菅原道真と合わせ天武帝の皇女、大来皇女を祀っています。大来皇女が天武二年に斎王として伊勢に赴く途中、ここで約一年半、潔斎のためこの地に滞在していたとされています良県桜井市小夫 天神社 斎宮山
と、紹介されている。

 この社(やしろ)は、有名な〈箸墓古墳〉から見て、ちょうど〝夏至の朝日〟が昇る、東北東 29.3 度のラインに所在する。
 北緯 34 度の夏至の日の出は、29.3 度なのである。偶然だろうか。それともいましがた計算を行なった自前の計算式に、都合のいいエラーでもあったのか。
 この角度についての話題は、小川光三氏の『大和の原像』で、図 ㉑「三角形を示す祭祀遺跡跡と三輪山をかこむ三ヶ所の斎場」(p. 120) の説明のなかで、箸墓古墳を西の頂点として形成される直角三角形として語られている。
 それを読んで、本当だろうかと、デジタルな地図上に、線を引いてみた。
 図示されているなかに、〈箸墓古墳〉の真東に〈天神山〉があることが描かれている。

  • 〈箸墓古墳〉の北緯は、34.53929 度である。
  • 〈天神山〉の北緯は、34.53917 度である。

 その北緯の差を長さに換算すると、約 13.3 メートルということになった。
 東西方向の距離は、約 6.7 キロメートルなので、これはまず真西といっていいだろう。

 山はそうそう動かせないので、〈箸墓古墳〉を、〈天神山〉を基準に築造したのだろう。
 そしてさらに、直角三角形を描くように、斎宮山のふもとに〈天神社〉を建立した。

 そう考えたとき、これが偶然でなければ、三輪山を東の頂点とする正三角形があるように、こちらも正三角形が描けるのではないかと、自然に思ったのである。
 自分としてはかなり厳密な計算に基づいて、座標間の角度などを算出しているつもりだ。
 もともとのデータとしている、緯度・経度がどの程度厳密な値なのかは、知らない。
 しかしながら、算出された角度の誤差は、1 度未満であろうと、予想している。
 遠くの山から昇る日の出の角度に、1 度程度のずれがあっても、あまり気にならないだろう。
 ちなみに、北緯 34 度の冬至の日の出は、東南東に 28.0 度である。そういうわけで、東経のラインはそのままに、北緯をそのあたりまでさげて、神社を地図上に探すと、〈威徳天神社〉という名の神社が見つかった。
 そうなのだよ。〈箸墓古墳〉から東南東に 29.57 度の角度に位置していたのだ。

 2009 年 5 月 29 日、〈箸墓古墳〉の築造年代について、国立歴史民俗博物館が発表した内容が報道された。
 放射性炭素年代測定による調査結果で、それによれば西暦 240~260 年となっている。
 それは、かの有名な〝魏志倭人伝〟に記録された〝卑弥呼〟の年代と非常によく合致する。
 日本書紀の「神功皇后紀」には、西暦 266 年の、中国の文献が引用されている。
 また『晋書』の泰始二年 (266) には、こうある。

十一月己卯、倭人來獻方物。并圜丘、方丘於南、北郊、二至之祀合於二郊。

 倭人がやってきた 11 月に、円丘と方丘の、つまりは夏至と冬至の二至のまつりを、南郊・北郊の二郊で併せて行った、ということのようだ。
 〈箸墓古墳〉は、〝前方後円墳〟なのである。それは墓というよりも、祭祀遺跡なのであろうとも、いわれている。


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夏至と冬至:天神への祭祀
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バックアップ・ページでは、さらに詳しく引用文献の情報など、書いてあります。

夏至と冬至:天神への祭祀 バックアップ・ページ
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2018年7月20日金曜日

古代のパワーライン(三輪山-初瀬山)

三輪山の山頂から初瀬山を望む 夏至の日の出ライン


―― おそらくは、三輪山の山頂から初瀬山を望むラインが、夏至の日を知らす自然の暦として、最初に利用されていたのではなかろうか。

 そう書いたのは、今月 3 日のことだった。
 14 日には、そのラインが示す角度の計算をした。

―― 計算の方法をかいつまんで、振りかえってみよう。
 まずは、初瀬山の山頂の座標の値から三輪山の山頂の座標の値を引いたうえで、見た目がわかりやすい数字になるように、両方に 1000 をかける。

34.54657 - 34.53518 = 0.01139
135.89402 - 135.86722 = 0.0268
0.01139 × 1000 = 11.39
0.0268 × 1000 = 26.8

 東西方向に 26.8 、南北方向に 11.39 の値が出たわけだが、東西方向の長さは、南北方向に対して、cos35° ≒ 0.819152 を考慮しなければならないので、

x = 11.39
y = 26.8 × 0.819152 = 21.9532736 ≒ 21.953

この長さの二辺をもつ直角三角形の角度を求めればよい。
 ● JavaScript による計算(四捨五入して、小数点以下第二位まで求める)
  〔 = Math.round(Math.atan2(11.39, 21.953) * 180 / Math.PI * 100) / 100; 〕

 こうして計算結果が出た。東北東に 27.42 度の角度だった。
 この地域の北緯は約 34.5 度であり、国立天文台編集の『理科年表』によれば、北緯 34 度の夏至の日の出は、北に 29.3 度の角度をもつ位置からだったので、単純に日の出を拝するこの数字と比較するなら、やや浅い角度であると認められる。

―― 以上の計算結果に加えて、各地点(座標間)の角度を求めるページを、その同日(14 日)に追加しておいた。
それによる計算だと、真東を 0 度、真北を 90 度(真南を -90 度)として、

 ※ 神武天皇陵から三輪山の山頂に向かう角度は、30.12 度であった。
 ※ 石見の鏡作神社から三輪山の山頂に向かう角度は、 -29.87 度であった。
 ※ 神武天皇陵から石見の鏡作神社に向かう角度は、90.11 度であった。

 なんとなく、この計算結果から、その三角形は限りなく正三角形に近いだろうことが予想できるのだけれど。―― 実際問題、計算式は正しいのか、地図上でも果たしてちゃんと正三角形なのかどうか。
 そこで、グーグルマップを利用して地図上にその三角形を描いたページを、角度計算とともに追加したのは、17 日のことだ。
 地図上に描かれた四角形が正三角形に見えるという見た目の見事さに、その結果をあわてて公開したのだけれど、あまりに急いで作業をしたために、このブログページと、グーグルサイトのページに、文脈の不一致たら誤植たら、はたまたマップが設定忘れで表示されていないたら、複数の不具合があらわな状態だったので、それらはとりあえず翌日までに修正してはおいたのだけれども、その過程でついでに思いついたこともあった。
 ようするに自身の書いた内容を事後に見直している途中で、角度の数値から三角形の内角を計算するのは少々面倒であることに気がついたのである。これは各辺の長さを直接比較できるようにしておいたほうがよいと。
 それで、三平方の定理で手軽にできる、選択した座標間のラインの長さを直角三角形の斜辺として算出する計算式を昨日までに追加しておいた。

 予想以上の結果が出たので、グーグルサイトのページに次の行を追加しておいた。

――〔追加行の開始〕――
 ※ 三輪山を東の頂点とする、三角形の各辺の長さは、
各辺とも約 8.34 キロメートルであることが、計算上の値として得られる。
 ※ グーグルマップの距離測定サービスでの値を参照したところ、
それよりも若干長くて、各辺とも 8.4 キロメートル前後であった。

 ※ いずれにせよ、各辺の長さはかなりの精度で、同じであることに変わりはない。

 ・北に、磯城郡三宅町石見の、鏡作神社
 ・南に、橿原市大久保町の、神武天皇陵
 ・東側に、桜井市三輪にある、三輪山の山頂
このラインを結ぶ三角形は、見た目と同様、測定上もほぼ正三角形であるといえよう。
――〔追加行の終了〕――

以上、前回までの作業を再確認したわけだけれど、実は今回の主題は、最初にも書いた、

おそらくは、三輪山の山頂から初瀬山を望むラインが、夏至の日を知らす自然の暦として、最初に利用されていたのではなかろうか。

という、仮説についてなのだ。
 この仮説が果たして実証可能かどうかは、そのラインが東北東に 27.42 度の角度だったということと、神武天皇陵から三輪山の山頂に向かう角度は東北東に 30.12 度であったという計算結果とが、どの程度一致しているとみなすかにもよるだろう。
 もうひとつ ――、神武天皇陵から初瀬山の山頂に向かう角度は東北東に 29.45 度であった。
 北緯 34 度の夏至の日の出は『理科年表』によれば、北向きに 29.3 度の角度をもつ位置からである。この数値は、神武天皇陵から初瀬山の山頂に向かうラインの角度とほぼ一致している。
 このラインが、まさしく、夏至の日の出の観測ラインの、基準線といえよう。
 そして、神武天皇陵から初瀬山の山頂に向かうラインを中心として、ほかのふたつのラインは、プラスとマイナスに分かれてそれぞれ若干の誤差がある程度だということが、これらの数値を合わせて考えることで、少なくとも認められる。
 これらのことから、三輪山をひとつの頂点とする三角形が正三角形であることと同等のレベルで、3 本のラインが示す値もまた、かなりの精度で一致していると主張したい。

 太陽が最強となる日に、三輪山の山頂(標高 467m 地点)の神坐日向神社から日の出を拝すれば、初瀬山の山頂(標高 548m 地点)よりも北側から朝日が昇ってくることになる。すなわち、光が最も強くなる日の前後は、太陽は初瀬山の山頂を通り過ぎた地点から昇る。
 おそらくは、三輪山の山頂から初瀬山を望む夏至の観測ラインは、古代に発見されたパワーラインとして、三輪王権の当初より利用されていたのではなかろうか。その延長線上に、神武天皇陵が位置する。


 さて、気のついた個所は修正済みの、前回と同じページにここでリンクを設けることとなる。

 グーグルサイトのページは地図と計算機能は独立しているのだけれど、バックアップページでは各種計算と地図にラインを表示する機能とが連動しているので、地図が表示されてなければ計算も機能しない。だから、地図が見えていない場合には、ブラウザの更新ボタンを押すなり、キーボードの F5 キーを押すなりして、ページの再読み込みをしてみてほしい。
 それで地図が表示されることもあるようだ。
 バックアップページで地図が読み込まれない際には、場所(座標)の一覧表付きの計算専用ページを利用すれば、計算結果は得られる。

纒向石塚古墳: 立春の祭祀遺跡
https://sites.google.com/view/geshi-lines/hijiri/makimuku


纒向石塚古墳: 立春の祭祀遺跡 バックアップ・ページ
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一覧表データの座標間の距離と角度を計算するページ
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2018年7月17日火曜日

纒向石塚古墳: 立春の祭祀遺跡

三輪山・大神神社


 ○ 大神神社(おおみわじんじゃ)には、有名な〝三ツ鳥居〟がある。大神神社編集の一般向け資料『大神神社 〈増補第三版〉』〔中山和敬、2013 年 12 月 25 日、学生社発行〕からその概要を引用したあとで、説明に添えられた境内図を転載させていただき、その配置等の理解の助けとしたい。

〔『大神神社 〈増補第三版〉』 「一〇 三ツ鳥居」より〕
 (p. 144)
 山を神体とし、本殿のないことで有名な大神神社の建造物で、古来「一社の神秘なり」と伝えられてきたものは「三ツ鳥居」である。全国に鳥居は多いが、この独特の形をした三ツ鳥居は大神神社だけのものである。~~。
 拝殿と御棚  まず、参拝者がぬかずく現在の「拝殿」は、その棟札にも見られるように、寛文四年(一六六四)徳川四代将軍家綱の造営にかかり、大和国高取藩主植村右衛門家吉の奉行によって再建されたものである。

 (p. 148)
 三ツ鳥居と瑞垣[みずがき]  拝殿正中の奥、つまり拝殿とお山との境に有名な三ツ鳥居がある。昭和二十八年十一月十四日に重文に指定されている。指定書には「木造三ツ鳥居附瑞垣・左右延長一六間(約二九㍍)」と記されている。

 (pp. 150-151)
 この三ツ鳥居は、明神形式の鳥居の両側に、やや小型の脇鳥居が組合わされ、本柱二本、脇柱二本はいずれも丸柱の掘立式で、柱根の土中には、それぞれ東西に一本の根械(ねかせ)が設けられている。また本鳥居には厚板の内開式御扉が取り付けられ、石の唐居敷が据えられ、また両方の脇鳥居には扉がなく、瑞垣と同形式の透塀で塞[ふさ]がれており、まことに奇異な感をうける。文字通り独特の鳥居形式であり、通称三輪鳥居といわれる所以でもある。
 いま、三ツ鳥居の主要寸法をあげると、

  中央の間              八尺(約二・四二㍍) 
  高さ(敷石より笠木上端まで)    一五・三尺(約四・六三㍍) 
  両脇の間(柱真)          七尺(約二・一二㍍) 
  高さ(敷石上端より笠木上端まで)  九・一尺(約二・七㍍) 

 (p. 154)
大神神社境内の主要建物配置図
〔以上『大神神社 〈増補第三版〉』 「一〇 三ツ鳥居」より〕

―― 上に転載した図の、上のほうが東である。
 〝三ツ鳥居〟および〝拝殿〟は、ほぼ真東を向いて〝禁足地〟に面していることがわかる。
 現在までに確認した大神神社の位置は「北緯 34.52877 度、東経 135.853 度」であり、三輪山の山頂は「北緯 34.53518 度、東経 135.86722 度」なので、この数字に従うなら神社からは北向きに 25 度程度の角度がなければ、山頂の方向を拝することにはならない。
 では、鳥居の正面には何があるかというと、禁足地であり、その向こうから〈春分の日の出〉が昇り来るはずなのである。―― そしてさらには〝三ツ鳥居〟の中央の鳥居が〈春分の日の出〉に対応しているとするなら、左の鳥居は〈夏至の日の出〉、右の鳥居は〈冬至の日の出〉に対応しているということができるだろう。
 つまり、大神神社は「日輪」に正対しているということができる。これは三輪山の山頂にあるという〈神坐日向神社〉の名称にも合致するようだ。

 実はこの考え方は、すでに 45 年前に示されている。前回の最後にも触れた、小川光三『大和の原像』〔大和書房、1973 年 1 月 25 日 (p. 110) 〕では、この祭祀形態が、図を添えて解説されているのだ。


鏡作神社 / 纒向石塚古墳


 三輪山の山頂を東南東の方角 19.82 度〔補正計算を加えた角度は 23.75 度〕に見るのが、磯城郡田原本町八尾816に鎮座する〈鏡作坐天照御魂神社〉―― 通称「鏡作神社」である。
 繰り返しとなるがこの地域の北緯は約 34.5 度であり、前回も利用した国立天文台編集の『理科年表』によれば、北緯 34 度の立冬と立春の日の出は、南に 19.2 度の角度をもつ位置からとなる。
 実は「鏡作神社」は近く ―― 方角としては北北西 ―― にもう一社あって、そちらは磯城郡三宅町石見650に鎮座する。この二社は道路地図上の直線距離を定規で測ってみると 1.5 ㎞ も離れていない。
 石見の鏡作神社から桜井市太田253‐1の「纒向石塚古墳」へは東南東に 28.5 度の方角となっている。また、その延長した先には「三輪山の南側の峰 標高 326m 地点」があって、それは東南東に 29.04 度の方角なのだ。纒向石塚古墳から三輪山の南側の峰 標高 326m 地点へは、東南東に 29.97 度である。状況的に距離の短いほうが、角度が大きいとわかる。考えてみれば、山頂に近い位置で見ると、太陽が姿を見せるのはそれなりに日が高く昇ってからとなるので、山が近ければ冬の日の出も南側へとずれていくこととなるだろうけど、そういうことが関係するかどうかはわからない。
 再度『理科年表』を参照しよう。北緯 34 度の冬至の日の出は、南に 28.0 度の角度をもつ位置からとなる。

 ※ 小川光三氏の『大和の原像』に掲載されている図「三輪山を頂点とする巨大な正三角形」(p. 40) では、夏至の日の出を望む〝神武天皇陵から三輪山の山頂に向かうライン〟とともに、〝石見の鏡作神社から三輪山の山頂に向かうライン〟が冬至の日の出の観測ラインとして、東南東に 30 度の角度で図示されている。また〝石見の鏡作神社から神武天皇陵に向かうライン〟のちょうど中央にあるのが、「多神社」である。多神社は、三輪山の山頂とほぼ同じ緯度にあり、多神社と三輪山頂を結ぶラインで正三角形を二分することになる。
 ようするに多神社は三輪山頂を真東に見る位置に建てられている。それは春分の日の朝日を拝する場所なのだ。

 ○ 小川光三氏の著作から該当の記述を引用させていただこう。

〔『大和の原像』「三輪山の曙光」より〕
 (pp. 39-40)
 日の出の山三輪山に昇る新年の朝日を拝む位置を設定するとすれば、山頂より冬至の太陽の出る方角、東南東三〇度の線を山頂から逆に求めることによって得られるわけだが、地図上の三輪山頂からこの方角、西北西三〇度を求めて線を引くと田原本[たわらもと]町石見[いわみ]の鏡作[かがみづくり]神社に至った。だがここでもまた大変面白いことは、この社の真南が又々先の多神社に当り、先の大きな三角形とシンメトリックに全く同形の三角形が出来ることである。この二つの大三角形を合せると、三輪山頂を東の頂点として大和平野に南北に並ぶ三個の斎きの場を西の底辺とした、角辺八・六キロにも及ぶ巨大な正三角形が現出するのである(図 ③)。では次にこの鏡作神社を尋ねてみたい。
 鏡作りの名を持つ神社は、この石見の社のほかに図に示した如くほぼ固まって三座あり、この内で最も大きな本社格の社は、ここから約一キロ東南の田原本町八尾にある式内大社鏡作神社、正式には「鏡作坐天照御魂[かがみつくりにいますあまてるみたま]神社」である。このほか同町小坂にある鏡作麻気[まけ]神社と同町宮古にある鏡作伊多[いた]神社はともに延喜式内に名をとどめる古社であるが、かんじんの石見の社は延喜式にはその名を止めていない。しかしこの社の名前が正式には八尾の社と同じ鏡作坐天照御魂神社であることや、祭神も全く同じ三座であり(小坂・宮古の社は各一座)、距離もさほど遠くないことながから考えて、この石見の社は元来八尾の社と同一社ではなかったかと思うのである。こう考えると先の三角点から見て、もともと石見にあった鏡作社が何かの都合で八尾に遷座して、もとの社地を尊んで小祠を止めたものとして良いのではあるまいか。~~。
〔以上『大和の原像』「三輪山の曙光」より〕

―― この文中にある(図 ③)が、「三輪山を頂点とする巨大な正三角形」と題された図で、正三角形のもうひとつの頂点をなす石見の「鏡作神社」の近隣に、「鏡作神社(八尾)」「鏡作麻気神社」「鏡作伊多神社」が配置されているものである。

―― 次に、以下のことを再確認しておこう。

 〇 纒向石塚古墳を基準点として、三輪山の山頂を望む方向が「立春」、三輪山の南側の峰(標高 326 m 地点)を望む方向が「冬至」の朝日にあたると、『神社と古代王権祭祀《新装版》』(p. 12) に書いてあった。
 ここでまたまた『理科年表』を参照すれば、北緯 34 度の

立春・立冬の日の出は、南に 19.2 度
冬至の日の出は、南に 28.0 度

の角度をもつ、位置からとなっている。
 次に用意したサンプルページの計算では、〔東西方向の長さに対して、cos35° ≒ 0.819152 の〕補正計算を加えない値が、それぞれ、

〈纒向石塚古墳〉から見る〈三輪山の山頂〉(立春・立冬)の日の出は、南に 19.68 度
〈纒向石塚古墳〉から見る〈三輪山の南側の峰〉(冬至)の日の出は、南に 29.97 度

の角度をもつ結果となっている。これは、参照数値と非常に近い値といえるだろう。

 ○ 大和岩雄氏の『神社と古代王権祭祀《新装版》』には、鏡作神社についての詳しい記述もあるので、上記の件も含め、以下に参照しておきたい。


〔『神社と古代王権祭祀《新装版》』「他田坐天照御魂(おさだにますあまてるみたま)神社」より〕
 (p. 8)
太田の地から見る日の出の位置は、立春・立冬は三輪山々頂付近、春分・秋分は巻向山々頂付近、立秋・立夏は一本松付近(「一本松」と二万五千分の一の地図に記されているが、今は松はなく地名だけである。人の住まない峰の地名は、標識としての松があったことによるものであろう)、冬至は三輪山の南傾斜の隆起点(二万五千分の一の地図に標高点三二六メートルとある)付近、夏至は龍王山々頂付近である。
 このように、太田堂久保の他田坐天照御魂神社の地は、山と太陽の位置関係を巨大な自然のカレンダーとして観測できる「日読み」の地である。
 (p. 12)
 一方、石塚から見た立春の朝日は三輪山の山頂から昇るが、石塚の中軸線は、図のように山頂に向いている。これらの事実からみて、石塚は「日読み」の構築物であることが推測できる。ちなみに、石塚の中軸線を延長すれば、八尾の鏡作坐天照御魂神社に至る。
 石塚が箸墓[はしはか]古墳と関連した構築物であることは、多くの考古学者によって指摘されている。箸墓も含めて、当社の位置は広義の纏向遺跡の地といえるが、発生期の巨大前方後円墳を築造した権力者たちが、中国文明に無縁であったとは考えられない。そのことは、古墳の出土品からも証される。
 (p. 13)
 中国の暦法では、冬至は暦元といって暦法上の重要な基点であり、秦の時代までは冬至正月であったが、前漢の武帝の元封七年(紀元前一〇四)に太初元年と改め、立春正月にした。立春を正月とする思想が、いまわれわれの使っている二十四節気である。~~。この立春正月の暦法にもとづいて、石塚の中軸線は三輪山々頂に向けられたと推測されるが、くびれ部にわざわざ柱を立てたのは、やはり冬至が日祀りの原点として強く意識されていたからであろう。
~~。
 「冬至」「夏至」は、右端と左端の位置から朝日が昇る日をいう。~~。冬至の日は、朝日が右の極限から昇る日であった。とすれば、その日に三輪山々頂から昇る朝日を拝する地は、重要な観測点、つまり「マツリゴト」の場であった。それが、次の項で述べる石見の鏡作坐天照御魂神社の位置である。
 この天照御魂神社の位置に対して、他田の天照御魂神社は、立春とその前後に三輪山々頂から昇る朝日を拝する位置にある。当社はおそらく、日祀部の設置に伴って、立春の「マツリゴト」の場として創建されたのであろう。
〔以上『神社と古代王権祭祀《新装版》』「他田坐天照御魂(おさだにますあまてるみたま)神社」より〕

〔『神社と古代王権祭祀《新装版》』「鏡作坐天照御魂(かがみつくりにますあまてるみたま)神社」より〕
 (p. 15)
 「日読み」の地としての鏡作神社  鏡作坐天照御魂神社は、奈良県磯城[しき]郡田原本町八尾と、磯城郡三宅町石見にある。両地は、いずれも古代の城下[しきのしも]郡に属していた。『延喜式』神名帳では一座(大。月次新嘗)であり、この一座は八尾の鏡作神社の主祭神天照国照彦火照命に比定されているが、所在地の特殊性からみて、石見の鏡作神社の存在を無視することはできない。
 この両社も、太田の他田坐天照御魂神社と同じく「日読み」の地にある。~~、八尾の社地から見て、ほぼ立春・立冬の日に、朝日は三輪山々頂から昇り、夕日は二上山の雄岳・雌岳の間の鞍部に落ちる。同様に、春分・秋分の朝日は龍王山々頂、夕日は標高点二一四メートルの山頂、立夏・立秋の朝日は標高点四三四・六メートルの山頂、夕日は信貴[しぎ]山々頂という関係になる。山名のわからない山は、国土地理院の地図の標高点で示したが、山名のはっきりしている三輪山・龍王山・二上山・信貴山は、いずれも大和国の人々が霊山と仰ぐ山々である。
 これに対して、石見の地は、冬至・夏至の「日読み」の地であろう。そこから見ると、朝日は冬至に三輪山々頂、夏至に高峯山々頂から昇り、夕日は冬至に二上山鞍部、春分・秋分に明神山々頂、夏至に十三峠へ沈む(「山頂」と書いたが、現代人の「科学」的視点から厳密にいえば「山頂付近」である。だが、ここでは古代人の「祭祀」的視点から述べる)。
 石見の鏡作神社の南方、石見地域に入る場所に石見遺跡がある。~~。
 (p. 17)
 この石見遺跡と鏡作神社の関係には誰もふれていないが、それは太田の他田坐天照御魂神社と、石塚をふくむ纏向遺跡との関係と同じであろう。石見遺跡も単なる治水・農耕祭祀遺跡でなく、「日読み」の祭祀遺跡と考えられる。
 石見遺跡は五世紀後半のものであり、伊勢の王権祭祀の始まりも五世紀後半とみられている。おそらくこの時期に、中国の「天」の思想にもとづく「日知り」による「日読み」の祭祀が始まったのであろう。
 しかし、中国の暦や天の思想を「日知り」としての古代王権の権力者が利用する以前から、倭人の「春耕秋収」のための「日読み」は行なわれていた。そのことは、石見の鏡作神社と三輪山々頂を結ぶ線上にある、弥生時代の代表的遺跡、唐古・鍵遺跡の出土物からもいえる。
 鍵遺跡の弥生時代後期の祭祀用円形土壙(径約一メートル)から、土製の鶏の頭部が、他の祭祀用土器と一緒に出土している。鶏は日の出を予告する鳥だが、私は、この祭祀土壙の近くから三輪山々頂の冬至の日の出が拝せることを、昭和五十七年の冬至の日に確認した(当日は雨だったが、そ前日と翌日に、三輪山々頂から昇る朝日を見た)。三輪山々頂を冬至の日の出方位とする祭祀遺跡から、鶏の頭部が出土しているのは、弥生人の農耕祭祀の一面を語っている。「日読み」は祭祀であり、「日知り(聖)」にとっては「マツリゴト」であった。
 石見遺跡では、鍵遺跡の祭祀と同じ冬至の祭を寺川の川辺で行なったのであろう。もちろん、石見遺跡のほうが三世紀以上も後だから、弥生人の「ムラ」の祭の「日読み」が「クニ」の祭になっている点はちがう。だが、祭祀の方法が旧習を伝えていることは、石見遺跡から出土した長さ約一メートルの鳥形木製品(四点)からもいえる。ちなみに、太田の石塚の周濠からも、他の祭祀用土器と共に、鶏形木製品が出土している。
 「日読み」といっても、八尾と石見の鏡作神社については、三輪山々頂から昇る立春と冬至の朝日を拝する地にあることが重要である。
 「日読み」とは農耕儀礼であり、農政であり、マツリゴトそのものである。太陽祭祀、つまり鏡作や他田の日祀りは、種まきなどの時期を知り、一粒を万倍にするマツリゴトなのである。~~。
〔以上『神社と古代王権祭祀《新装版》』「鏡作坐天照御魂(かがみつくりにますあまてるみたま)神社」より〕

―― 上の引用文中では明らかでないけれども〈纒向石塚古墳〉の図について補足するなら、『日本の神々 4 』(p. 79) では、同じ図に「石塚古墳復原図(『天照大神と前方後円墳の謎』六興出版)」と説明文がついている。
  いずれにせよ、上記引用文からも、この〈纒向石塚古墳〉は墓ではなく、祭祀用の構築物であったことが予想される。そして文中には〝鏡作坐天照御魂神社(八尾)-纒向石塚古墳-三輪山の山頂〟を結ぶ線は、ほぼ一直線上にあって、〈纒向石塚古墳〉の中心軸はそれに沿って設定されており、それは「立春・立冬」の朝日の昇る方角だと記されているのだ。

 ● ここで、引用文中の次の角度を計算してみたい。

太田の地から見る日の出の位置は、立春・立冬は三輪山々頂付近、春分・秋分は巻向山々頂付近、立秋・立夏は一本松付近(「一本松」と二万五千分の一の地図に記されているが、今は松はなく地名だけである。人の住まない峰の地名は、標識としての松があったことによるものであろう)、冬至は三輪山の南傾斜の隆起点(二万五千分の一の地図に標高点三二六メートルとある)付近、夏至は龍王山々頂付近である。
〔『神社と古代王権祭祀《新装版》』「他田坐天照御魂神社」(p. 8) 〕

 ● 他田坐天照御魂神社から望む 朝日の角度

(夏至などの節気のあとの数値は 北緯 34° の日出入方位 / またカッコ内の数値は緯度による補正計算なしの値)
夏至 + 29.3 °
⇒ + 28.15 ° ( + 23.66 ° ) 龍王山
立夏・立秋 + 20.5 °
⇒ + 19.22 ° ( + 15.93 ° ) 一本松
春分・秋分 + 0.6 °
⇒ - 6.06 ° ( - 4.97 ° ) 巻向山
立春・立冬 - 19.2 °
⇒ - 25.33 ° ( - 21.19 ° ) 三輪山
冬至 - 28.0 °
⇒ - 37.87 ° ( - 32.5 ° ) 三輪山の南側の峰

 ところで小川光三氏の『大和の原像』(p. 195) によれば、有名な〈箸墓古墳〉は、中心軸がいわゆる「斎槻岳」―― 標高 409 m の「穴師」基準点あたり ―― に向けて設定されている。そのラインをさらに延長していくと、桜井市笠にある「笠山荒神社北側 標高 503 m 地点」に到達する。

 ○ ここで、さらに『大和の原像』(p. 127) を参照するなら、

桜井文化叢書によると、「穴師塚(笠)・穴師神社はもとここにあったともいう」
〔『大和の原像』(p. 127) 〕

と、書かれているのだ。すなわち、一説としてだけれど「笠」の地に〈穴師神社〉があったという。
 そこは、〈都祁の国〉の入口に位置する。
 小川光三氏はその少しあとで、都祁について考察するにあたって、「圜丘・方丘」という節 (p. 156) を設けているが、そこではまず、三国志の「魏書」にある〝景初元年(二三七)の条〟が紹介されている。

郊の字を辞書に求めると、天地のまつりの名とあって、古[むかし]は天子が冬至の日に天を南郊に、夏至には地を北郊に祀り、郊が都の外にあったので郊外の名が出たとある。夏至と冬至の祀りのことは二至の祀といい、記事の最後に二至の祀を南北の郊に於てす、とあるのがこれに当る。
〔『大和の原像』(p. 156) 〕

―― このあとの記述で、天を祀る祭壇は丸く、地を祀る祭壇は四角だったと説明されている。円丘と方丘は、この場合、冬至と夏至の祭壇を意味するのだ。

 そして纒向石塚古墳も箸墓古墳も、前方後円墳の形をしている。こうなればもう、見た目からしても、おそらくは冬至と夏至の祭壇と無関係ではなかろうと思われる次第なのである。


古墳の形状については、山陰地方に多い「四隅突出型」の墳丘墓というものもあって、情報の多彩さに、いまのところ、圧倒されている次第 ――。


Google サイト で、本日、〈纒向石塚古墳〉の図と地図を追加した内容のものを公開しました。

纒向石塚古墳: 立春の祭祀遺跡
https://sites.google.com/view/geshi-lines/hijiri/makimuku

バックアップ・ページでは、もう少し詳しく書いてあります。

纒向石塚古墳: 立春の祭祀遺跡 バックアップ・ページ
http://theendoftakechan.web.fc2.com/eII/hijiri/makimuku.html

2018年7月14日土曜日

三輪山: 神坐日向神社から初瀬山を望む

神坐日向神社 と 高宮神社 のこと


―― 三輪山の山頂にあるという神社についての資料を、まず引用紹介しておきたい。
○ その神社については〝『日本の神々』神社と聖地 第四巻 大和〟 (以下『日本の神々 4 』と表記)に収録されている。

神坐日向(みわにますひむかい)神社
 鎮座地 『延喜式』神名帳の城上郡「神坐日向神社〔大。月次新嘗〕」は現在、三輪山麓の本宮の少し南の通称「御子森[みこのもり]」に鎮座する神社とされているが、中世以来の諸書は三輪山の山頂「神[こう]の峰[みね]」に坐すとし(『大和志』『大和名所図会』『大和志料』、伴信友『神名帳考証』、『神社覈録』『大日本地名辞書』、志賀剛『式内社の研究・第二巻)、明治十八年九月、大神神社宮司松原貴遠も、内務卿山県有朋に対して「摂社神坐日向神社ト摂社高宮神社ト名称互ニ誤謬ニ付訂正御届」を提出している。

摂社神坐日向神社之義ハ延喜式内ニシテ大神神社ニ格別御由緒玉有之。古来本社神体山絶頂ニ坐シテ、其地名ヲ神[カウ]ノ峯[ミネ]ト云、又神[カウ]ノ宮[ミヤ]トモ称セシヨリ、維新後設テ高宮[カウノミヤ]社ヲ是ニ宛。而シテ日向神社ヲ高宮[タカノミヤ]ニ宛タルハ甚シキ非ナリ。謹テ検スルニ、神ノ峯殿内峯遷坐神坐日向神社幸魂奇魂神霊ト書セル標札アリ。裏ニ弘化三年歳閏十一月十五日祭主大神(高宮)朝臣和房前神主民部勝房ト書セリ。是維新前神坐日向神社タリシ確書ナリ。又高宮神社ハ地名ナリ。今も高宮垣内に接続シテ社地ノミ現在ス。是字ヲ俗御子森[ミコノモリ]ト称ス。
〔『日本の神々 4 』所収、大和岩雄「神坐日向神社」 (p.29) 〕

―― 大和岩雄氏は、この神社についての考察をさらに進めて、自著『神社と古代王権祭祀』に収録している。
 引用に用いるのは、『神社と古代王権祭祀』《新装版》〔 2009 年 2 月 20 日 白水社刊〕であるが、その初版は 1989 年に同社より発行されている。ちなみに上の『日本の神々 4 』は、同じく白水社から 1985 年の発行であった。

 従来の一般的見解は、天照太神と大物主神を、天つ神と国つ神の代表神として、机上で図式化したものであり、この図式では、三輪山の神は日神であってはならなかった。
 この発想は、明治政府が神道を天皇制国家の統治思想の中核に置いたとき、神社統制の基準となった。その結果、国つ神を祀る三輪山々頂に日神祭祀の日向神社があるはずはないし、あってはならないとして、『延喜式』の神名帳に載る「神坐日向神社〔大。月次新嘗〕」が、三輪山々頂にあることを認めなかった。だから、現在の本宮の南の高宮垣内(通称「御子森[みこのもり]」)の神社を日向神社、山頂の日向神社を高宮神社にしてしまったのである。これは、日神祭祀は伊勢皇大神宮を氏神とする天皇家のものと規定しようとする、神社行政にかかわる神道家たちの考え方であって、三輪山を祭祀してきた人々の考え方ではない。
…………
 信仰の問題を行政の次元で統制・整理しようとしたのが、神仏分離を強行した明治新政府の方針であった。その方針にもとづく内務省社寺局長の見解と、大神神社の宮司の主張は、かみ合わないのが当然で、「当局の見解が正しい」のではない。人々は三輪山々頂の神社を、日向神社として祀っていたのである。
〔『神社と古代王権祭祀《新装版》』 (p.55, p.57) 〕


神坐日向神社 から見た 初瀬山 の角度


 これまで、〔上記に神坐日向神社のある場所とされる〕三輪山の山頂から拝する朝日 ―― 初瀬山の山頂から昇る日の出を角度を、夏至のラインの基準として考えてきた。理由としては、初瀬山-三輪山-大神神社を結ぶラインが、ほぼ一直線上にあるということだけだ。
 今回は、その角度が、夏至の日の出の角度と一致するかどうかを計算式によって求めたいと思う。
 この地域の北緯は約 34.5 度であり、国立天文台編集の『理科年表』によれば、北緯 34 度の夏至の日の出は、北に 29.3 度の角度をもつ位置からとなるので、ここでの手順としては、計算した結果を単純に夏至の日の出を拝するその『理科年表』の数字と比較するということとしたい。

 計算方法として、円のなかに描かれる直角三角形の三角関数を使う。
 円の中心点から円周上にのびる線分は円の半径と同じ長さとなるのだけれど、そこに描かれた半径と同じ長さの線分を直角三角形の斜辺として考える方法である。円の中心点を水平に貫くラインを x 軸として、それと直角に y 軸を想定しよう。
 まずは、三角形の斜辺は理解しやすいように x 軸 y 軸ともに、正(プラス)の値になるように想定することが肝心だ。
 たとえば、水平ラインから 30 度の角度で、斜辺を設定すると、〔半径を r 、 x 軸 y 軸の値をそれぞれ ( x, y ) とすれば〕残りの二辺は半径の長さに対して、

x = cos30°
y = sin30°

の、計算式で求めることができるので、( r * cos30°, r * sin30°) の長さとなるわけだ。
 この場合、y 軸の値 ―― ようするに 30 度の角に対面する〔向かい合った〕1 辺の長さ ―― は、斜辺すなわち半径の 2 分 1 に等しくなる、ということを思い出した向きもあろうかと思われる。
 下に、JavaScript で計算する選択ボックスを設けたので、sin30° が、約 2 分 1 の値として表示されていることを〔手軽に選択を繰り返しつつ〕改めて確かめられたい。

北緯 35 度 での 東西の円周の長さ = 赤道一周 × cos35°

 ※ cos35° = COS(PI()/180*35) = 0.819152044
 ( Excel での計算式と値の例 )

 ● JavaScript による計算

cos35 ° = 0.8191520442889918
sin30 ° = 0.49999999999999994

 ※ ( 111,111 ㍍ × 0.819152 = 91016.797872 ㍍ )

 先に、緯度が 1 度違えば 111 km 違うという計算をした。
 その計算を振りかえる、なら ――

 鏡作神社は北緯 34.56154 度で、龍王山の山頂は北緯 34.56148 度である。
 赤道あたりで地球を 1 周する距離はおよそ 4 万㎞ でそれを 360 度で割ると、約 111.11 ㎞ なので、1 度違えば最大で約 111 ㎞ の距離が発生することになるのだが、この計算は縦に周回しても同じだ。
 (ここで「最大で」と断ったのは、経度の違いを距離に換算する場合、 1 度の違いは、北緯 34 度では、それよりも小さい値[あたい]になるからなのだけれども、このことは、北極に近づくにしたがって、1 周の長さが短くなっていくことを思い出せば理解できるだろう。)

34.56154 - 34.56148 = 0.00006 なので、誤差は、
111 km × 0.00006 = 111 m × 0.06 = 6.66 m ということになる。

 このように緯度に注目した場合の位置関係は、わずかに、6.66 ㍍ ずれているだけだということが計算できる。

―― と、いうことであったが、では、北緯 35 度の地点で、経度の 1 度の違いは、東西距離にしてどのくらい違うのだろうか。
 円周の全体が徐々に短くなっていく状態は、半径が小さくなる比率として計算することができる。地球を縦にまっぷたつにした断面の形は、ほぼ円形なのであるから、北緯 35 度では、最初の(最大の)半径に cos35° をかけたものを半径として計算した円周の値を用いればよいことになる。
―― それはつまり最初の円周に cos35° をかけた値と同じだ。
 ということであれば、北緯 35 度あたりで地球を東西に 1 周するときの 1 度あたりの長さは、およそ 4 万㎞ を 360 度で割った約 111,111 ㍍ に cos35° ≒ 0.819152 をかけて、約 91016.8 ㍍ という計算になる。
 1000 分の 1 度違えば、約 91 ㍍ の違いが発生することとなる。
 南北方向では、繰り返すが、1000 分の 1 度違えば、約 111 ㍍ の違いが発生するのである。

※ 上の計算式をもとに「三輪山-初瀬山」のラインについて、角度を計算してみよう。
 〔三輪山の山頂の座標は (34.53518, 135.86722) を用いる。〕
 〔初瀬山の山頂の座標は (34.54657, 135.89402) を用いる。〕

 まずは、初瀬山の山頂の座標の値から三輪山の山頂の座標の値を引いたうえで、見た目がわかりやすい数字になるように、両方に 1000 をかける。

34.54657 - 34.53518 = 0.01139
135.89402 - 135.86722 = 0.0268
0.01139 × 1000 = 11.39
0.0268 × 1000 = 26.8

 東西方向に 26.8 、南北方向に 11.39 の値が出たわけだが、東西方向の長さは、南北方向に対して、cos35° ≒ 0.819152 を考慮しなければならないので、

x = 11.39
y = 26.8 × 0.819152 = 21.9532736 ≒ 21.953

この長さの二辺をもつ直角三角形の角度を求めればよい。
 ( Excel での計算式 ) =ATAN2(21.953,11.39) * 180 / PI()

= 27.42189575

 ● JavaScript による計算(四捨五入して、小数点以下第二位まで求める)
  〔 = Math.round(Math.atan2(11.39, 21.953) * 180 / Math.PI * 100) / 100; 〕

= 27.42

 こうして計算結果が出た。東北東に 27.42 度の角度だった。
 この地域の北緯は約 34.5 度であり、国立天文台編集の『理科年表』によれば、北緯 34 度の夏至の日の出は、北に 29.3 度の角度をもつ位置からだったので、単純に日の出を拝するこの数字と比較するなら、やや浅い角度であると認められる。

※ 東西方向の長さに対して、cos35° ≒ 0.819152 の補正計算を加えない場合の角度は、東北東に 23.03 度の角度だった。

 角度の計算方法として、この考え方でいいと思うのだけれど、間違っていたなら、正しい計算式に訂正したい。
―― というのは、東西方向の長さに対して、cos35° ≒ 0.819152 の補正計算を加えないほうが、実測値に近いようだからだ。


 〇 纒向石塚古墳を基準点として、三輪山の山頂を望む方向が「立春」、三輪山の南側の峰(標高 326 m 地点)を望む方向が「冬至」の朝日にあたると、『神社と古代王権祭祀《新装版》』(p. 12) に書いてあった。
 ここでまたまた『理科年表』を参照すれば、北緯 34 度の

立春・立冬の日の出は、南に 19.2 度
冬至の日の出は、南に 28.0 度

の角度をもつ、位置からとなっている。
 次に用意したサンプルページの計算では、〔東西方向の長さに対して、cos35° ≒ 0.819152 の〕補正計算を加えない値が、それぞれ、

〈纒向石塚古墳〉から見る〈三輪山の山頂〉(立春・立冬)の日の出は、南に 19.68 度
〈纒向石塚古墳〉から見る〈三輪山の南側の峰〉(冬至)の日の出は、南に 29.97 度

の角度をもつ結果となっている。これは、参照数値と非常に近い値といえるだろう。
 ここでさらに考えるなら、東西に対して北半球の緯度のラインは徐々に北へ向かってカーブしていくので、北緯 34 度の真東の空も、遥か彼方では赤道の上空にあたることになる。
 そういうわけなので、スケールの程度によっては、真東という条件に対して、さらなる補正も考慮していかなければならないのだろうと思われる。

―― ちなみに、
 ※ 神武天皇陵から三輪山の山頂に向かう角度を、補正を加えて求めると、30.12 度であった。
 ※ 神武天皇陵から三輪山の山頂に向かう角度をこの補正なしで求めると、25.42 度であった。

 ※ あらためて詳しく見ていく予定なのだが、小川光三『大和の原像』〔大和書房、1973 年 1 月 25 日 (p. 40) 〕に、このラインが、夏至の日の出の観測ラインとして 30 度の角度で図示されている。

⇒ JavaScript を使って角度を計算するサンプルページ
http://theendoftakechan.web.fc2.com/eII/hijiri/aCoord.html


Google サイト で、本日、同じ内容のものを公開しました。
そこからもリンクしている、バックアップ・ページのほうがもう少し詳しく書いてあります。

三輪山: 神坐日向神社 バックアップ・ページ
http://theendoftakechan.web.fc2.com/eII/hijiri/miwa.html


三輪山: 神坐日向神社
https://sites.google.com/view/geshi-lines/hijiri/miwa

2018年7月10日火曜日

〈印賀鋼〉最強伝説

 その記録は、鳥取県による資料からは、明治四十五年以来、姿を消した。
 残されている最後の文献は、『鳥取県産業案内』〔鳥取県内務部、明治 45 年 5 月 18 日発行〕という。
―― 明治 45 年は西暦で 1912 年である。今年は 2018 年なので 100 年以上前のものとなる。

100 年忘れられていた〈印賀鋼〉にまつわる物語


 この貴重な資料は、鳥取県立図書館の司書のかたが地下書庫から探し出してきてくださったものだ。
 ○ その 98 ページに「合資会社米子製鋼所」の項を設けて、こう書いてある。

 合資會社米子製鋼所 …… 而して本所に於て製造する鋼鐵は、硬度非常に高く、本邦生産の鋼鐵中之れに比すべきものなし、故に大阪造幣局は、貨幣刻印用地金として、之を採用せり。製品は、海軍工廠、砲兵工廠、造兵廠、造幣局、其他鐵道工業用に使用せらる。
〔『鳥取縣産業案内』 (p. 98) 〕

 鳥取県が刊行した文献のなかに、このような大阪造幣局の刻印用地金に関する記録があるだろうと確信したのは、先月『日野郡史』〔日野郡自治協会、大正 15 年 3 月 1 日発行〕の復刻版(前篇)を読んでいて、久米邦武博士による『裏日本』〔大正 4 年 11 月 30 日発行〕という本が、引用参照されていたのがきっかけだった。

 復刻版『日野郡史』(前篇)は、昭和 47 年 4 月 28 日に発行されているけれど、その「第三章 第五節 原史時代概括」(pp. 39-43)に、『裏日本』の 222~383 ページが抄録されていた。
 ○ 抄録された内容にも興味深いものがあるのだけれども、今回は、引用参照された、その直後の記述による。

 今度米子の博覽會に陳列したる鐵の説明を聞に、石見の江ノ川上より安藝備後備中の諸谿はみな鐵の産地なれど、伯州より出す鋼鐵は非常の硬度にて諸國の鐵中に之に比すべき物なし、大阪造幣局は是を以て貨錢に打込む刻印[こくいん]用となし、今は海陸軍の砲廠[はうしやう]にも採用せられ、世界の特産に數へらるといへり。
〔『裏日本』 (p. 383) 〕

 実に、この段落の直前の段落の最後は「從つて叢雲の劍は伯州鐵にて鍛成したるものと見るを適當と判定したり。」と結ばれており、そこまでが『日野郡史』(前篇)「第三章 第五節」に抄録されていた。―― 鳥取県立図書館に『裏日本』の蔵書があったので、参考までに、と閲覧していたところ「大阪造幣局」云々の記述を発見したわけである。

 久米博士の記した「米子の博覽會」というのは、明治 45 年の 5~7 月に米子町で開催された「山陰鉄道全通記念全国特産品博覧会」が該当する。この博覧会に関しては、なにゆえにか公的な記録が何も残されてないという(『米子博覽會の想い出』〔野坂寬治、昭和 26 年 12 月 1 日発行 (p. 67) 〕より)。
 そしてこれまた鳥取県立図書館の司書のかたに教えていただいたのであるが、『鳥取縣産業案内』と久米邦武『裏日本』はともに、国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧可能なので、随時インターネット上で原文を確認することができるという次第なのだった。

 ○ 大阪造幣局が米子製鋼所の製品を高く評価していたということは、戦後に編集された『鳥取県史』「近代 第三巻 経済篇」〔鳥取県、昭和 44 年 4 月 30 日発行〕にも記載されている。―― が、それは、明治期の記述と較べて相当に控えめな表現となっている。実はこの記載も、鳥取県立図書館の司書のかたに見つけていただいたものだ。

 坂口は明治三十七年、合資会社米子製鋼所を設立し、広島県の比婆・双三・山県の三郡内に計十五か所の分工場をおいて原料の鉄鋼を生産し、本工場の米子では、三十八年十一月以降イギリスの技術を導入したルツボ法により工具鋼の生産に当たった。そして四十三年六月には、大阪造幣局から「本局従来使用ノ英国製鋼ニ劣ラザル成績」との証明を得た。
〔『鳥取県史』 近代 第三巻 経済篇 (p. 479) 〕

 この大阪造幣局による「本局従来使用ノ英国製鋼ニ劣ラザル成績」という評価は、日本一という表現とは一致しない。明治末年には「大阪造幣局は、貨幣刻印用地金として、之を採用」したという、鳥取県の資料があるにもかかわらず、戦後の資料はそれを採用していないのである。1912 年から、1969 年の間に何があったというのか。

―― 県編集の文献・資料としてあまりにも不自然なので、鳥取県立公文書館に問い合わせることにした。
 先週のことだ。7 月 5 日に訪問して、戦後の『鳥取県史』の「大阪造幣局」にまつわる記述がどのような資料に基づくものなのか、調査を依頼したところ、翌 7 月 6 日に、さっそく文書による回答があった。

「鳥取県立公文書館による回答文書」より抜粋
――
 調べましたところ、アジア歴史資料センターが所蔵する史料で、次のような記述がありました。

明治 43 年 10 月 21 日付 鳥取県知事 岡喜七郎が外務省通商局長に宛てた照会文の中に、米子製鋼所が「佐世保・横須賀・舞鶴ノ各海軍工廠及大阪造幣局・大阪砲兵工廠等ヘモ納品シタル」と書かれており、さらに「該鋼ノ英国製鋼ニ劣ラサルコトハ大阪造幣局ニ於テ別紙写ノ通り証明セラル」(別紙は当該史料に綴られているのを確認できず)とあります。

 同史料に綴られている合資会社米子製鋼所の沿革に「大阪造幣局ニテハ貨幣極印用トシテ四十一年以降引続キ買上ノ命」があったこと、また「造幣局貨幣極印下地金ハ最モ優良ナル品質ヲ精撰セラレ、外国品ト雖モ一二会社ノ外容易ニ採用セラレタルコトナシ」と書かれていることから、

 ●米子製鋼所の鋼は、少なくとも明治 41 年から大阪造幣局の貨幣極印用として買上げられてきた。
 ●明治 43 年 10 月には「英国製鋼に劣らず」という評価があった。
ことが分かります。

「清国造幣局貨幣極印用ノ鋼鉄買上方出願ノ件 明治四十三年十月」
 (レファレンスコード:B11091682100)インターネットで閲覧できます
――
〔ここまで「鳥取県立公文書館による回答文書」より抜粋〕

ということであったので、
―― 資料名もしくは資料コードの入力でファイルが閲覧できると、説明されていた ―― ので、
 国立公文書館 アジア歴史資料センター
 https://www.jacar.archives.go.jp/aj/meta/default
にアクセスして、PDF ファイルをダウンロードし、その内容を読もうとしたのだけれど、公開されている資料は画像でおまけに活字でないため、上記の回答文書がなければどのあたりの記述なのかもわからない始末である。

 鳥取県立公文書館に問い合わせた際、調査を担当してくださったかたは、「大阪造幣局の貨幣極印用」の件は知らなかったとまったくもって正直におっしゃられたが、さすがにプロである。翌日までには、ほぼ解決に等しい資料を提示してくださったのである。―― ほぼ解決に等しい、というのは、『鳥取県史』「近代 第三巻 経済篇」の記すところでは明治「四十三年六月に」大阪造幣局から「本局従来使用ノ英国製鋼ニ劣ラザル成績」とされているわけだから、明治 43 年 10 月の資料に基づいたのではないことが明らかだからだ。しかしながら、本来の目的は当時の『鳥取県史』編集担当者に対する疑念の解決ではなく、〈印賀鋼〉最強伝説の証明であった。

 ちなみに、大蔵省造幣局・編集兼発行『造幣局百年史 資料篇』〔昭和 49 年 3 月 15 日発行 (p. 189) 〕では、

a の欄「創業当時」の 3 行目に「極印材は英国製炭素鋼」との記述はあるが、4 行目以降に、明治年間に極印材変更の記述はない。

 ○ 次の資料は、7 月 5 日に、鳥取県立図書館の司書のかたが見つけたものだ。
(インターネット検索で「大阪朝日新聞 山陰の事業 米子製鋼所」と入力すれば、該当のサイトが見つかるだろう。さらにページ内検索で「大阪造幣局」とすれば簡単に目的の記述が見つかるはずだ。)

神戸大学 電子図書館システム --一次情報表示--
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00481967&TYPE=HTML_FILE&POS=1

大阪朝日新聞 1913.8.30-1913.9.5 (大正2) 
(二) 米子製鋼所
 販路は枝光製鉄所、海軍工廠、砲兵工廠等が重なるもので出来るのを待ち兼ねてサッサッと飛んで行くそうな、大阪造幣局の貨幣刻印用として茲の鋼が買上げを受けた事は余程の御自慢らしく「余程堅くなければ納まりませんのですから」と

―― 以上が、〈印賀鋼〉最強伝説を追った顛末だ。
 さまざまなかたがたの本気の協力によって、短い期間で本当に多くの資料が発見されたのである。
 〈印賀鋼〉は、明治以前より、素材の品質については高い評価を得ていたという。それが、明治の末にいたってようやく〝技術が素材のポテンシャルに追いついた〟のだろう。
 米子製鋼所の製品に関しては、国産の製品が、世界レベルで戦えるようになったということでもある。
 それが〈印賀鋼〉なのかどうかは、公式の資料ではわからない。原料までも含めて鳥取県産だと書き残した文献は『裏日本』で、「米子の博覽會に陳列したる鐵」のうち、「伯州より出す鋼鐵は非常の硬度にて、諸國の鐵中に之に比すべき物なし、大阪造幣局は是を以て貨錢に打込む刻印用となし」た、と記録されている。
 この文章の妥当性は、以上の調査から、そこそこ認められるのではなかろうか。

〈玉鋼(たまはがね)〉最強伝説


 最強伝説の締めくくりに、〈たたら製鉄〉関連の文献に残された、こぼれ話などを紹介しておきたい。
 たたら製鉄に従事した者たちにかかわる現代の文献を集めた『民衆史の遺産』 第九巻「金属の民」〔以下『民衆史の遺産 9 』と表記〕には、それらの記録が編集収録されている。
 ○ 窪田蔵郎氏による『鉄の文明史』(抄)のなかから引用させていただく。

 ロンドン・ケンジントン公園の科学博物館に、日本の復元たたらによって造られた玉鋼(鉧塊)が、他の原始製鉄の製品とは別格の扱いで丁重に展示されている。同館のグリナウエイ副館長から一九四五年に見学した折、著者にこれが(名刺箱一杯分)ほしいと言われた時には、記念にするためぐらいの軽い気持にとっていた。ところがタタラスチールは日本刀の原料になる鉄ということで、外人の間では超貴重品だったのである。今日の科学的研究によって、低温還元による純粋の炭素鋼であることがはっきりし、鍛造時の鉄鋼の組合わせと熱処理の妙によって、くろがねの芸術にまで昇華したものであるが、岩を切ったの鎧甲を切ったのと言うことが余りにも強調され過ぎ、途方もなく過大評価されてしまいさらには神秘的な認識へと至っている。
〔『民衆史の遺産 9 』所収『鉄の文明史』(抄)窪田蔵郎 (p. 223) 〕

 島根県仁多[にた]郡横田町大呂(現出雲町大呂)の鳥上木炭銑工場の構内では、昭和五二年に日本美術刀剣保存協会の事業として、靖国高殿の施設を改修して造られた日刀保たたらが毎年一二月から一月にかけて操業されている。第二次世界大戦の終了とともに廃滅した、伝統の玉鋼[たまはがね]製造法を復活させこの技法を後世に伝えるべく、秘伝書の記述や伝承を現場で復原実験しつつ技能保持者の養成に苦心を払っている。
〔同上 (pp. 231-232) 〕

 聞くところによれば、日刀保たたらで使われている原料となる砂鉄は、大菅峠あたりの島根県と鳥取県との県境の両側から採取されているという。
 大菅峠の県境を鳥取県側に入れば「阿毘縁(あびれ)」という地区で、阿毘縁は〈印賀鋼〉で有名な「樂樂福神社(ささふくじんじゃ)」の所在地である「日南町印賀」のちょうど西側にあたる。
 大菅峠の北側の県境にはまた、古事記に記された〝イザナミの葬られた出雲国と伯伎(伯耆)国との堺の比婆山〟であるともいわれる〈御墓山(おはかやま)〉〔標高 758.3 ㍍〕が位置しており、阿毘縁側からの登山口がある。〈御墓山〉近隣の山並みは〈日向山(ひなやま)〉とも称されるらしい。

―― 孝霊天皇の山陰での鬼退治にまつわる樂樂福神社ゆかりの伝承などを含めて、またの機会に調べたい。


Google サイト で、本日、同じ内容を公開しました。

EMERGENCE II : 〈印賀鋼〉最強伝説
https://sites.google.com/view/emergence-ii/home/hagane

2018年7月7日土曜日

七夕と鳥取にまつわる「タナ」の話

鳥取の祖: 天湯河板挙(アメノユカハタナ)


―― 鳥取部の伝承について次のような論述がある。
(『谷川健一全集 14』所収の『日本の地名』〔初出:岩波新書 1997年4月21日刊〕からの引用)

 鳥取部のはじまり (pp. 139-140)
 …… 『古事記』によると、垂仁天皇の条に「印色入日子[いにしきいりひこ]命、鳥取の河上宮に坐して、横刀一千口[たちちふり]を作らしめ、是れを石上[いそのかみ]神宮に納め奉り、即ち其の宮に坐して、河上部を定めたまひき」とある。
 この鳥取は『和名抄』の和泉国日根郡鳥取郷で、現在大阪府泉南郡阪南町に鳥取中[ととりなか]の地名が残されている。『新撰姓氏録』に和泉国神別として「鳥取、角凝命三世孫天湯河桁命[あめのゆかわたなのみこと]の後なり」と記されており、和泉の鳥取氏はアメノユカワタナの後裔である、とされている。アメノユカワタナが鵠を捕らえて天皇にたてまつるとホムツワケが物を言うようになったので、天皇はそれを賞して、アメノユカワタナに鳥取造[ととりみやつこ]という姓[かばね]を与え、それにちなんで鳥取部、鳥養部[とりかいべ]、誉津[ほむつ]部を定めたと『古事記』は記している。これらのことから和泉の鳥取の河上宮で印色入日子命が一千本の太刀を鍛えたというのも鳥取造であったアメノユカワタナに関わりがあるのではないかと考えられる。和泉国日根郡鳥取郷には大阪府泉南郡岬町多奈川も含まれている。多奈川は『土佐日記』には「田無[たな]かは」と出てくる地名であり、もと谷川[たなかわ]と記していた。『地名辞書』は谷川は桁川[たながわ]に由来するとし、鳥取連の祖である天湯河桁はこの地の人ではなかったか、と言っている。したがって鳥取の河上宮は鳥取郷の桁川のほとりに作られた宮と解せられる。
 折口信夫は湯河は斎河[ゆかわ]であって、川の淵や池や湖などの水の上につき出したタナの上に神の嫁となるべき村の処女がすわって機を織りながら来訪神のおとずれを待つという習俗があったとし、ユカワアミ(ユアミ)する場所にタナを作って坐っている乙女がタナバタヒメである、と言っている。たしかにユカワ(湯河、斎河)というのは潮水と真水のまじりあった河口のように生あたたかい水のある場所を指すことがある。しかしその一方では、鉄や銅や鉛などが高温で溶解した状態を「湯」と呼ぶことは、たたら炉や鋳物工場にたずさわる人々の常識である。このことを考慮に入れると、天湯河桁(天湯河板挙)の名前の解釈がまるきりちがってくるのはやむを得ない。

―― 鳥取部の由来については、日本書紀にも、細部は異なるけれど似たような記述があり、このあと続いて引用する個所では日本書紀からの参照を含めて、物部氏と鳥取氏の関係についての興味深い論述がある。

 物部氏と鳥取氏 (pp. 141-142)
 五十瓊敷命[いにしきのみこと]が菟砥川上宮[うとのかわかみのみや]で鍛えた一千口の剣は石上神宮に神宝として納められ、物部十千根大連[もののべのとをちねのおおむらじ]がながく管理したと『日本書紀』は記している。このことから物部氏と鳥取氏の関係が推測されるが、それを示す記事が『日本書紀』の崇峻天皇即位前記にある。
 それによると物部守屋が滅亡したとき、その側近に捕鳥部万[ととりべのよろず]という人物がいて、奮戦したが力及ばず、難波から逃げて、茅渟県[ちぬあがた]の有眞香[ありまか]邑にいった。そこは彼の妻の実家のあるところであった。彼はその近くの山中で討ち死にした、とある。捕鳥部万が逃げたさきの茅渟県の有眞香邑は、阿理莫[ありま]神社のある大阪府貝塚市久保のあたりと見られている(一説に岸和田市八田[はった]という)。『新撰姓氏録』に安幕首[あんまくのおびと]は物部十千根大連の後裔であるとしているが、安幕は阿理莫[ありま]のことで、阿理莫神社はニギハヤヒ、あるいは物部十千根を祀ると言われている。これからして物部氏が鳥取(捕鳥)部を配下に置いていたことが分かる。

―― さて。
 日本書紀では、垂仁天皇三十九年の十月に「菟砥川上宮」の記載がある。『大系本 日本書紀 上』の頭注に「川上宮は記に鳥取之河上宮とあるのも同じ」(p.276) と解説されている。
 日本書紀の「崇峻天皇即位前記」については、山本昭氏の著書『謎の古代氏族 鳥取氏』〔1987年12月5日 大和書房刊 (p.47)〕でも紹介されており、物部氏との強い関係性が、同様に語られている(『新撰姓氏録』の和泉国神別 天神 に「鳥取 角凝命三世孫天湯河桁命之後也」と記されていることについての説明文中で)。
 山本昭氏は『謎の古代氏族 鳥取氏』(p.100) で谷川健一氏の説に言及しているが、谷川健一氏もまた山本昭氏の『謎の古代氏族 鳥取氏』を肯定的に紹介している(『谷川健一全集 21』所収の『四天王寺の鷹』(p.78))。

―― 鷹というのは、古事記で、物いわぬ皇子のために鳥を追い「和那美の水門」で捕えた「山辺之大鶙(ヤマノベノオホタカ)」に関係する話でもある。こういうこともあって、鳥取部とか鳥取氏とかには、物部氏や石上神宮の武器庫に加えて製鉄と鷹・白鳥(鵠)の話題などが自然と絡んでくるわけだ。
 ちなみに、「天湯河桁」は新撰姓氏録での表記であり、日本書紀では「天湯河板挙」となっている。
 その新撰姓氏録の記述によれば天湯河桁が鵠を捕獲したのは「出雲国宇夜江」とされているが、その地は現在の「荒神谷遺跡」がある場所といわれる。荒神谷遺跡からは昭和 59 年に銅剣 358 本などが発掘された。
 出雲の国のその場所で鳥を捕獲したという伝承は、おそらくその地域で祭祀などの行事に成功したという物語の暗喩であろうけれど、説話の表現そのままに〝鳥取は鳥を捕獲する民である〟という伝説はいまだに、昔と変わることのない形で幅を利かせている。

 日本書紀では、垂仁天皇の 23 年に鳥取部が定められた記述がある。
 五十瓊敷命が菟砥(鳥取)川上宮で 1000 振りの剣を鍛えたのは、垂仁天皇の 39 年だ。
 その間、垂仁天皇の 26 年には天皇の詔勅により物部十千根大連を出雲に遣わして、神宝の検校を行なわせている。
 背景としては、このころに政治力と軍事力の増強が急ピッチで進み、まさに富国強兵の時代へと突入したのだろう。

―― この先、鉄とたたらと鳥取にまつわる物語を少しずつでも追っていきたい。

2018年7月3日火曜日

龍王山 と 都祁の国

夏至の観測ライン上に 並び建つ神社(承前)

―― 前回、夏至の観測ライン上にあると思われる神社をピックアップしてみた。

 基準線は、大神神社から三輪山(山頂: 467m)を拝するラインである。
 そのライン上、三輪山の先には、初瀬山の山頂 (548m) がある。

と書いたのだけれど、三輪山の山頂に、神社があるという。
―― その神社についての資料は次回に詳しく見ていくとして、おそらくは、三輪山の山頂から初瀬山を望むラインが、夏至の日を知らす自然の暦として、最初に利用されていたのではなかろうか。

 ところで、纒向石塚古墳から三輪山頂の南側、標高 326 m 地点を結べば、冬至の日の出が見えるという。
 いっぽうで纒向石塚古墳から、三輪山の山頂を望むラインは、立冬と立春を示すらしい。そのラインを纒向石塚古墳から三輪山とは逆方向に延長していくと、鏡作神社( 鏡作坐天照御魂神社)がある。その鏡作神社から見て東の方向には、龍王山がある。
 また纒向石塚古墳から龍王山の山頂へ向かうラインの延長上には、奈良市藺生町の龍王神社が確認できる。

 ここで、鏡作神社と、龍王山の山頂の緯度を較べると、偶然にしても、わずかにしか違わない。
 鏡作神社は北緯 34.56154 度で、龍王山の山頂は北緯 34.56148 度である。
 赤道あたりで地球を 1 周する距離はおよそ 4 万㎞ でそれを 360 度で割ると、約 111.11 ㎞ なので、1 度違えば最大で約 111 ㎞ の距離が発生することになるのだが、この計算は縦に周回しても同じだ。
(ここで「最大で」と断ったのは、経度の違いを距離に換算する場合、 1 度の違いは、北緯 34 度では、それよりも小さい値[あたい]になるからなのだけれども、このことは、北極に近づくにしたがって、1 周の長さが短くなっていくことを思い出せば理解できるだろう。)

34.56154 - 34.56148 = 0.00006 なので、誤差は、
111 km × 0.00006 = 111 m × 0.06 = 6.66 m ということになる。

 このように緯度に注目した場合の位置関係は、わずかに、6.66 ㍍ ずれているだけだということが計算できる。


 前回使用した地図データのポイントに少々手を加え、さらに夏至の日の出の方向へ延長していけば奈良市の都祁(つげ)に至る。―― 兵主神社から笠山荒神社を遠望するライン上、奈良市に入ったらまもなくほぼ同一の場所、奈良市都祁南之庄町の龍王神社と都介野岳が位置する。
 都祁は、和名抄の大和国山辺郡に「都介」と記され、日本書紀では仁徳天皇六十二年・是年条に「闘鶏(つけ)」及び允恭天皇二年条に「闘鶏国造(つげのくにのみやつこ)」の伝承を記録に留めた地域だ。

 ちなみに、龍王神社は他にもあったので、それもデータに加えておいた。


● 東南東に三輪山 東に龍王山の山頂を望む(北東に石上神宮)
石上神宮 天理市布留町384
都祁山口神社 天理市杣之内町
龍王神社 天理市長滝町
鏡作坐天照御魂神社 奈良県磯城郡田原本町八尾816
三輪山 標高 326 m 地点 桜井市三輪 三輪山頂の南側

● 大神神社から三輪山の山頂 を拝する
初瀬山の山頂 548 m 地点 桜井市白河
三輪山の山頂 467 m 地点 桜井市三輪
大神神社 桜井市三輪1422
八阪神社 桜井市東新堂269
山之坊山口神社 橿原市山之坊町304
春日神社 奈良県橿原市四条町
八幡神社 橿原市東坊城町857

● 大兵主神社(穴師坐兵主神社)から笠山荒神社標高 503m 地点 を拝する
龍王神社 奈良市都祁南之庄町
都介野岳 631 m 地点 奈良市都祁南之庄町
都祁山口神社 奈良市都祁小山戸町640
笠山荒神社北側 標高 503 m 地点 奈良県桜井市笠
笠山荒神社 桜井市笠2415
夕月岳の山頂 409 m 地点 桜井市穴師 基準点名「穴師」
大兵主神社(穴師坐兵主神社) 桜井市穴師493
国津神社 桜井市箸中1128
箸墓古墳 桜井市箸中
豊慶大神 桜井市芝
天満宮 桜井市大泉830
竹田神社 橿原市東竹田町495
稲荷神社 橿原市上品寺町37
人麿神社 橿原市地黄町445

● 纒向遺跡の石塚古墳から龍王山の山頂 585m 地点 を拝する
都祁水分神社 奈良市都祁友田町182
龍王神社 奈良市藺生町
三十八神社 天理市藤井町218
龍王山の山頂 585 m 地点 天理市田町
景行天皇陵 山邊道上陵 天理市渋谷町
纒向石塚古墳 桜井市太田 太田253-1
春日神社 橿原市土橋町538
春日神社 橿原市土橋町537‐2

(※ 標高で示される地点は、国土地理院の「基準点成果等閲覧サービス」の地図上で検索した緯度と経度を使用した。)


Google サイト で、本日、グーグルマップで場所チェックしたバージョンを公開しました。

日告げの民:都祁の国
https://sites.google.com/view/geshi-lines/hijiri/tsuge

日知りの民:夏至の観測ライン上に建つ神社(先月夏至の日にアップロード)
https://sites.google.com/view/geshi-lines