2016年8月31日水曜日

主観・主体 と 客観・客体

客観的に見て、いうとすると……


 日常的に、日本語で「客観的立場に立って」語られる場面があるが、その際に「客観」とは、何を想定しているのか。
 無論、語られる内容が、「客観的立場に立って」語る人物の「主観的」な内容に過ぎないことは、明白である。
 つまり誰か常識人が「主観的」な自分を「客観的」な観点で自省できると、思い込んでいるのだろう。
 おそらくは「一般的」と「客観的」を混同しているものと思われる。

前回(2016年8月26日金曜日)のページ

一即多(いっしょくた):時間・空間・人間 - 生命 -
http://theendoftakechan.web.fc2.com/atDawn/transcend/issyokuta.html

の、最後のほうに書いたことなのですが、ついでにここへ再録させていただきましょう。

――――
 そして、もうひとつ確認しておきたいのは、「客観的」というのは、「主観的」な観点の多数集まったものだということだ。

 たとえば、小数点以下 10 ケタまで計測可能な温度計を、100 個つくって、部屋の温度を計った場合、どの温度計が、もっとも「客観的」であるか。100 個の数値を平均して、それに一番近い数値の温度計がもっとも「客観的」だというならば、温度計の数を増やして 200 個の数値から算出された平均値とでは「客観的」な数値に変化が出てしまう恐れがあるので、すると、温度計の個数が変わるだけで「客観的」な温度に変動が生じることにもなろう。
 つまり、〝純粋な客観〟とは、物理的には想定不可能なのだ。形而上の概念であり、現実には存在しない。
――――

さて、哲学者カントによれば、
「客観 (obiectum) 」だけを存在者と認める〈主観-客観関係〉の構図
というのが、成り立つらしいのです。〔参照:『岩波 哲学・思想事典』 (p.735)
ところが、その後、量子力学の理論は、
カントが「客観的認識」の拠り所とした〈因果律〉について、確率的にしか語れないとするに至ります。

今回は、辞書を調べて、次の見解を得ることができました。


 〈主観〉は対象を認識する主体であり、〈客観〉は主体により認識される対象である。
 つまり対象である〈客観〉がなければ、〈主観〉という言葉は概念として成立しない。

 また、わたしが〈主体〉であるとき、その〈主観〉はわたしの〈主観〉を基準とする。
 また、あなたが〈主体〉であるとき、その〈客観〉はわたしの〈主観〉かも知れない。


 〈主観〉と〈客観〉は、概念であり、現象ではない。
 〈主体〉も〈客体〉も、物理現象としては、実在しない。
 事実、わたしの〈主体〉は、あなたの〈客体〉である。
 いくら「絶対」と語句の頭に付け加えても、その〝絶対概念〟は、〈主観〉とか〈客観〉に過ぎない。
 ――認識される現象と、認識される概念とを、混同してはいけない。


そうするとなると、〝普遍的な客観性〟などという代物は、
あたかも降ってわいたようにどこからやって来るのでしょう?
わたしを照らす〈客観性〉など、虚妄に過ぎないことにもなろうかと、思われます。


主観 と 客観
http://theendoftakechan.web.fc2.com/atDawn/transcend/causality.html

2016年8月26日金曜日

一即多(いっしょくた)

 一即多 (いちそくた) は、仏教の華厳宗の言葉であるという。
 一即十 (いちそくじゅう) と同じであり、「十は一に含まれる」とする見解である。
 わかりやすくいうなら、十は、一があることによって、成り立つ ということだ。

 噂によれば、西田幾多郎の弟子である山内得立は、師の西田幾多郎に面と向かって、
先生の一即多はいっしょくた」だ、
といったらしい。この噂の出場所を訪ねて、『理想』 という雑誌に辿りついた。
 それは、高橋里美の思い出話として、記述されていた。

また次の話を聞いた時は、私も思わず噴き出した。「山内君が西田さんに先生の一即多はいっしょくたじゃないですかといったそうだ」。
渡辺義雄「高橋里美先生の一面」『理想』 333 (p.52)

 高橋里美が、西田哲学に関するよもやま話として、語った ものらしい。


 話は変わるが、アインシュタインが、1905 年の〝特殊相対性理論〟を発表した年に、別の論文で言及していることがある。
 〈ボルツマンの原理〉 という。ボルツマンの墓には、〈ボルツマンの方程式〉 が刻んである。
 熱力学の 〈エントロピー増大の法則〉 にかかわるものである。
 ちなみに、〈ボルツマンの方程式〉は、量子論の元祖でもあるプランクが、最初に作成している
 この、〈エントロピー増大の法則〉は、熱力学の第二法則であり、宇宙はいずれ「熱死」する、という結論を導くものだ。
 だからそれは 〈涅槃原則〉 ともいわれる。
 ひらかなで「ねはんげんそく」、英語は nirvana principle である。

 すなわち――。
 時間が、一方通行なのは、「生命」の特権ではない。宇宙全体の〈原則〉なのである。
 ところが、この〈エントロピー増大の法則〉は、物理学を基盤とするはずの西田哲学には含まれないようだ。
 だから、〈時間の矢〉 により繰り返しがきかないのは、「生命」に限って語られることになる。
 西田幾多郎はまた、〝時空の相対性〟を「時間と空間はたがいに相対する」と解釈したりもする。
 西田哲学の基礎となる論理構成が正しいとする前提に立てば、理解が困難になるのは、もっともな話だと思われる。
 西田幾多郎が築いたものはすごいと思う。けれども人間なのだし、欠点もあるのだ。


一即多(いっしょくた):時間・空間・人間 - 生命 -
http://theendoftakechan.web.fc2.com/atDawn/transcend/issyokuta.html

2016年8月22日月曜日

世界の平和と個人的な人生

 きっと「世界の平和」を守ろうとするひとたちはどこかにいる。
 それを仕事として、報酬を得ているひとも、いるに違いないのだ。
 そういうひとたちは、「世界の平和」を守るためには、約束されたはずの報酬さえも、もしかして捨て去るだろう。

だからもし自分が、「世界の平和を守る」か、「自分の給料を守る」か、二択を迫られたなら、
ほかの誰かにでも任せられそうな「世界の平和を守る」ことよりも、
たぶん自分にしかできそうにない「自分の給料を守る」ほうを選ぶことになるだろう。

 おそらくは誰もが同じ選択をしないからこそ、大人たちの世界も成立している。
 そうして、このごろしばしば思い起こすのは、20 世紀の後半に高校生だった頃、思いついた、短編というほどの文字数もない小話だ。
 当時は、〝ショート・ショート〟という、短い話が流行ったりもしていた。


或る日の出来事


 ある日、突然、ひとがバタバタと死にはじめた。何が起こったのだろうと思っているうちにおれも死んでしまっ……

2016年8月19日金曜日

キリスト教国からの原爆投下と〈神義論〉

 上智大学神学会 『カトリック研究』 41号 (1982) に、
〈書評〉R・スウィンバーン著『神の存在』 の邦訳文がある。

 おそらく英文で書かれた〈書評〉が、日本語で紹介されているのである。

 オックスフォード大学の神学者 リチャード・スウィンバーン著『神の存在』 については、
リチャード・ドーキンス著 『神は妄想である』 (p.101) にも、その一部が紹介されている。
 邦訳本の、101 ページである。
 コメント欄 () に紹介されたそれを、ドーキンス自身のコメントとともに、紹介させていただくと、次の如くである。

 このやり取りは最終的に放映されたときには、編集でカットされた。このスウィンバーンの発言は彼の神学に典型的なもので、そのことは、『神の存在』(二〇〇四年)の二六四頁にあるかなりよく似たコメントによっても示されている。「ヒロシマの原爆で焼死した人間が一人少なかったと仮定してみてほしい。そのときには、それだけ勇気と同情のための機会が少なくなっていたことだろう……」。
ドーキンス『神は妄想である』 (p.101)

 このスウィンバーン 『神の存在』 (p.264) の原文は、グーグルブックスによると、次の如くである。

Suppose that one less person had been burnt by the Hiroshima atomic bomb. Then there would have been less opportunity for courage and sympathy;
RICHARD SWINBURNE “The Existence of God” Second Edition (p.264)

――余談として、また。
 ドーキンス『神は妄想である』の 504 ページに書いてあるのだが、
「アリと怠け者」の起源が聖書にあることを、このたび初めて知らされた次第である。

 なまけ者よ、ありのところへ行き、
 そのすることを見て、知恵を得よ。
〔口語訳 『聖書』 「箴言」第六章六節〕


The God Delusion : ドーキンス『神は妄想である』
http://theendoftakechan.web.fc2.com/atDawn/Dawkins.html

2016年8月14日日曜日

長崎原爆/照準点 : 114061 「常盤橋」

 長崎原爆の投下目標地点としての〝照準点〟は、市街地のただ中にある「常盤橋」付近であったという。――この発見は、1994 8 4 日、朝日新聞朝刊で、全国的に報道された。

 広島原爆では「相生橋」が、照準点であったとされている。
 だがその一方で、長崎原爆の照準点は未だ「諸説がある」という状況らしいのは、不思議な気がする。
 なぜ「常盤橋」が定説とならないのか? 実に不可思議なのである。
 公開されて、出版されている米軍資料の邦訳文を信用するならば、

資料 G 第 509 混成群団、作戦計画の要約
 PAGE 50
照準点は長崎港の東の、市の商業地区に置かれた。7,500 フィート [2.3km] の半径に基づけば、正確に投弾すれば、港の東の市の大部分と、おそらくは西側の海岸まで破壊が及ぶであろうと信じられた。
『米軍資料 原爆投下の経緯』 (p.217)

 その正確な目標地点を示す地図資料も、公開されて、実際に確認できる。

資料 I その他の資料
資料 I‐2 〔同上 (p 237) 
長崎原爆投下用
XXI 爆撃機集団石版集成図、長崎地区、三菱製鋼および兵器工場、目標 No.90.36546
照準点 : 114061

 〝資料 I‐2〟は、アメリカから持ち帰った「石版集成図」の、実物複写図(爆弾投下用航空写真)であるという。
 目標番号〝546〟は、実際の投下地点に近い「三菱製鋼および兵器工場」あたりを示す。
 これは、作戦では、投下目標の参照地点となっている。
 つまり、 〈指月のたとえ〉 でいうなら、「三菱製鋼および兵器工場」は〝指〟に該当し、〝月〟は〝照準点 : 114061〟で、それは、「常盤橋」付近なのだ。
 ここまで、はっきりした記述があるにもかかわらず、未だそれが定説として認められていないのは、どういう理由によるのか、さっぱりわからない。
 最初に書いたように、市街地が投下目標と判明したのは 1994 年のことである。

 読売新聞、2012 5 26 日朝刊( 31 ページ[長崎])によれば、

長崎市は、「原爆投下目標地に案内板」を設置した、という。

 長崎原爆資料館の運営協議会委員を務めていた高橋眞司・長崎大客員教授(平和学・哲学)は 2010 年、「個人的に周知に取り組んでいるが限界がある」として、案内板設置の提案書を市に提出。今年 3 月、爆心地と当初の投下目標地を示す地図や、日・英・中・韓の 4 か国語の説明文を表記した縦 45 ㌢、横 60 ㌢の案内板が設置された。

 二発目の原爆投下の作戦決行は、数日間早められた。天気が悪くなると予想されたためだ。
 原爆の投下された 8 9 日から 5 日間ほどは、実際に悪天候であったという。
 ぎりぎりのタイミングで落とされた原子爆弾の爆心地は、目標から、大きく逸れてしまったのだった。

 そして、5 日後の 8 14 日には、日本はポツダム宣言を正式に受諾して、降伏した。

1945年; ヤルタ・ポツダム会談とポツダム宣言
http://theendoftakechan.web.fc2.com/atDawn/Potsdam.html

2016年8月9日火曜日

8 月 9 日、ナガサキの日

 むずかしいことは、わからないのだが、簡単なことなら、ある程度は理解できるつもりでいる。
 ところが、専門家の簡単な日本語の展開で、理解に苦しむことがある。

―― 1945 7 月、敗戦国ドイツに、米英ソ三ヵ国の首脳が集まった。
 ベルリンのポツダムで行なわれた会談での記録だ。

 ソ連のスターリン大元帥自身の、対日本戦への参戦は「 8 月中旬」に用意している、
という発言の記録が残っているにも関わらず、どうやらそれを受けた、
アメリカ大統領トルーマンの、スターリンは「 8 15 日」に対日本戦に参戦すると発言した、
という日記などへの記載によって、日本の研究者の間では、
ポツダム〔会談〕で、スターリンは「 8 15 日」に日本戦に参戦する旨の発言をした、
という具合になっているらしいのだ。

 繰り返すが、「 8 15 日」にソ連が参戦すると記録したのは、
アメリカのトルーマン( 7 17 日付日記)であり、
ソ連のスターリンは、ヤルタ会談での約束通りに「 8 月中旬」には参戦すると、
7 17 日の昼間)トルーマンに直接伝えたのである。

 寡聞にして、閲覧できた文献・記録を確認した限りでは、そうなっている。
 根拠としての、スターリンの発言個所が、その他にあるのならば、明示してほしいのである。

 そういう混乱があると、〝ナガサキ〟に投下された原爆のいきさつについての解釈にも、
ささいな誤解の積み重ねが、事実として主張されているのではないかと、思われてしまうのである。

 すなわち、ソ連は、8 15 日の約束を 1 週間前倒しして、8 8 日に、日本に宣戦布告した、という解釈である。
 それで、慌ててアメリカは、急遽、二発目の原子爆弾を、8 9 日に、長崎に投下した、というのである。

 事実としてはソビエト連邦のスターリンは、ヤルタ会談での約束に基づいて、期限ぎりぎりまで待ってから、日本へ宣戦布告し、それから作戦を遂行しただけだ。
 ヤルタ会談からの、経緯については、また次回にでも、改めて確認したい。
 今回は、そういうことではなく、〝ナガサキ〟の、日本側の資料を検討してみたいと思っていたのだ。


ヒロシマ・ナガサキの日 2
http://theendoftakechan.web.fc2.com/atDawn/Nagasaki.html

2016年8月6日土曜日

8 月 6 日、ヒロシマの日

 オバマ米国大統領による、被爆地ヒロシマの訪問が、今年 5 月 27 日に実現した。
 世界で最初に〝原子爆弾を対戦国に投下した〟アメリカ合衆国の B29 爆撃機「エノラ・ゲイ号」を博物館に展示するという計画があったことについて、その訪問直後にも、触れた(2016年5月30日)。

 B29 爆撃機エノラ・ゲイは、実際に、1995 年、空港敷地内に建設された博物館別館に展示された。
 アメリカ合衆国の国立航空宇宙博物館が企画した「戦後 50 年の企画展」のことである。
 当初は、日本側の協力による、「広島・長崎」の資料も展示される計画になっていた。
 ところが、退役軍人会や議会などの〝圧力〟により、学術的資料は、国立航空宇宙博物館には必要ないという結論に至る。
 その〈原爆展〉の企画が頓挫した後、ハーウィット館長は辞任を余儀なくされた。
 彼はそれ以前に、こう語っている。
博物館は、過去の歴史を伝えるだけでなく、今日に関わる問題を問いかける教育的役割も果たさなければならない (“Air and Space” Magazine, April‐May, 1992)
マーティン・ハーウィット著『拒絶された原爆展』「監訳者あとがき」より〕

上記「監訳者あとがき」から、順不同で引用してみたい。

 予算の四分の三を国に握られているスミソニアン協会は、一年以上にわたる圧力を受けて、譲歩を重ねるばかりとなった。協会長官職がロバート・アダムズからマイケル・ヘイマンに替わった直後の九四年一〇月、航空宇宙博物館は展示案の大幅変更を発表した。原爆投下を「核時代の始まり」と位置づけた第一次案から、「日本が始めた戦争を終わらせた」とする案への大転換であった。

 情報と知識を豊富に備えた市民の存在が大前提となるデモクラシー(民主国家)にあっては、国立博物館の役割は「市民に情報と知識を提供する」ことだと、ハーウィット氏はいう。その試金石ともいえる重大テーマが政治的圧力で打ち砕かれた。この論争の最大の敗者はアメリカ国民であると言わねばなるまい。

 人類の戦闘史上最大の殺戮を果たしたエノラ・ゲイ号は、脈絡も説明もなく、ただ機体だけが展示されることになった。博物館学芸員たちの学問の自由は無視され、展示企画に賭けた彼らの努力は水泡に帰した。


 つまり、1995 年当時は、正義の国「強いアメリカ」に疑念を抱かせるような考えは、〝反米的〟なものであったのだろう。
 自由の国アメリカでも、予算獲得がからむと、学術も政治に敗北する、という一例である。
 しかしそれは、市民・国民の総意によるとは限らない。

 意見というのは、必ずしも多数の意見ではなく、間違いなく発言した者の、
――「意見を言った者」の意見なのだから。
 その発言は、立場にも、左右される程度の、「揺るぎなさ」を誇る。


ヒロシマ・ナガサキの日 1
http://theendoftakechan.web.fc2.com/atDawn/Hiroshima.html

2016年8月1日月曜日

その年八月九日、戸坂潤獄中に死す

 高山岩男 (こうやまいわお) は、西田幾多郎の指名により、昭和 10 年 (1935) に、『西田哲学』を著した。
 西田幾多郎が退官した昭和 3 年 (1928) に、高山岩男は、京大を卒業している。
 同じ年、「三・一五事件」が起きている。
―― 1928 年 3 月 15 日の、日本共産党に対する全国的大検挙をいう。

 その翌年、昭和 4 年 (1929) に、先輩である戸坂潤のマルクス主義者としての見解を、高山岩男は直接、耳にすることになる。高山は耳を疑ったろう。
〝スターリンが言っているから、それは真理なのだ!〟
 高山岩男「京都学派の回想」(1) 〔『心』第 33 巻第 7 1980 7 月〕 の 57 ページに、その発言は記録されているらしい。
 そして、高山岩男と戸坂潤の交流は断絶することとなる。
 戸坂潤は、昭和 10 年 (1935) に自著を西田幾多郎に献呈し、西田幾多郎はその西田哲学批判に対して、手紙で応答した。
 それを示す、昭和 10 年 7 月 20 日付けの西田幾多郎による戸坂潤宛の手紙が残っている。
 その前後に、戸坂潤は、マルクス主義者としての足跡を残して、そして終戦を知らずに獄中の死を遂げた。

昭和 5 年 (1930)  治安維持法違反で三木清が法政大学の職を失った。
昭和 6 年 (1931)  戸坂潤が、三木清の後任として法政大学に迎えられる。
昭和 9 年 (1934)  戸坂潤は、マルクス主義的思想のゆえに法政大学の職を罷免された。
昭和 13 年 (1938)  治安維持法違反で、戸坂潤は、逮捕された。
昭和 20 年 (1945)  戸坂潤、疥癬 (かいせん) を病んで、獄死。
 その死の前日に、
 領土の保全不可侵と中立友好を約した「日ソ中立条約」を一方的に破棄して、
昭和 20 年 8 月 8 日、ソビエト連邦が、日本に宣戦布告、ソ連軍は南下を開始。

 戸坂潤が獄死した、同年 8 月 9 日、ふたつめの原子爆弾が、長崎上空から、投下された。


〝純粋経験〟と〝語りえぬもの〟
http://theendoftakechan.web.fc2.com/atDawn/transcend/successor.html