2018年12月27日木曜日

穴師塚は 横枕火葬墓群の 約 600 メートル西にある

 夏ごろに検討を開始してもはや年末なのだけれど、「穴師塚」の場所について推定座標の決着をつけたい。
 まず地名辞書にも出てくる「穴師山」なのだがこれは「巻向山」なのだと、書いてある。

『角川日本地名大辞典』 29 奈良県

 あなしじんじゃ 穴師神社〈桜井市〉

桜井市穴師字宮浦にある神社。旧県社。当社は「延喜式」の神名上に見える穴師坐兵主神社・穴師大兵主神社・巻向坐若御魂神社の 3 社を合祀したもので、穴師神社はその総称である。当社はもと上社と下社に分かれ、下社が穴師大兵主神社で現在地に鎮座、上社は穴師坐兵主神社で巻向山中にあったが、応仁の乱の頃に焼失したので、御神体を下社に合祀し、同時に同じく山中に鎮座していた巻向坐若御魂神社も下社に合祀されたという(穴師坐兵主神社明細帳・大和志料)。現社殿 3 棟の中央社殿が穴師坐兵主神社、左殿が穴師大兵主神社、右殿が巻向坐若御魂神社。穴師坐兵主神社はもと巻向山(穴師山)にあり、垂仁天皇 2 年に鎮祭されたと伝える(穴師坐兵主神社明細帳)。……
〔『角川日本地名大辞典』 29 奈良県 (p. 96)

 この穴師山とは、現在は三角点が設定されている〈基準点名「穴師」標高 409m 地点〉と推定される。また、同じく巻向山中にあり応仁の乱の頃に焼失したと伝えられる巻向坐若御魂神社のかつての所在地は、小川光三氏の『大和の原像』に記された、穴師塚のある場所なのであろうと思われるのである。
 小川光三氏の『大和の原像』の 127 ページに、こう記述されている。

 このあたりには、現在大兵主神社に合祀されている「若御魂[わかみむすび]神社」があったという伝承がある。

―― 小川氏がその伝承に基づいて現地を歩き、そして地元のひとびとに取材した記録が、続いて次のようにつづられている。

 以前に面識のあった元区長の N 氏を訪れると、私の目差すあたりの山中に詳しいという T 翁を紹介された。幸い在宅中の翁は突然の申し出に快く応じて、座敷に広げた地図に私が指差す地点をしばらく見守っていたが、「ふうん、横枕[よこまくら]の先の方やと穴師塚やな」。低いがはっきりした声でそう言い切った。地図を覗き込んでいた同行の O 君が、思わずニヤッとして私の顔を見上げたが、私は期待していた言葉とはいえ、こうはっきりと開かされると思わずハッとして翁の口元を見詰めた。しばらくして再び口を開いた翁は、この山の南山麓に「都谷[みやこだに]」の地名がありこれは穴師社のあったことに由来すること、そこに小祠があってこの山の方角を拝むようになっていたこと、元檜原は都谷のあたりらしいこと、更にこの山の東方約六百メートルに横枕という所があり、ここから石帯・和同開珎のつまった壺、そのほか多数の土器類・骨壺等が出土したことなどをゆっくりした口調で話してくれた。これで B 点には穴師上社(兵主神社)の父神という若御魂社があったらしいことがほぼ明らかにすることが出来たわけだが、考えてみると、御食津神の父神という伝承はまことに奇妙ではないか。これが何を意味し、何に由来するのかという手がかりは全く無く、大兵主神社にその伝承について尋ねてみたが、ただそのように伝えられているというのみで、古文書がすべて散逸した今は詳しいことがわからぬとのことであった。父神というのは、新宮[にいみや]に対する本宮[もとみや]の意味なのか、単なる奥の院的なものなのかは不明である。だが、もし前者の意味があるとすれば、この上の郷一帯に注目する必要がある。
〔小川光三/著『大和の原像』 (pp. 128-130)


―― さてこの内容から推定される座標を記録しておこう。東から、次の通り。

横枕火葬墓群」標高 500.5 m 地点 (34.556720, 135.884930 )
巻向坐若御魂神社跡穴師塚」標高 500.0 m 地点 (34.556459, 135.877737)

穴師山と思われる山頂は、基準点名「穴師」標高 409m 地点 (34.548149, 135.867378 )

である。これらの所在地が、以前(2018年7月23日月曜日)に検討した「箸墓古墳」と「天神社」および「天神山」とを結んだ〝ほぼ直角三角形〟とどのような位置関係にあるのかも、以下に書いておこう。
 ちなみに、「箸墓古墳の中軸線が示す方角」(2018年7月25日水曜日)では、次に示す引用文を説明の一部に用いていた。

 ○ さて、北條芳隆氏の『古墳の方位と太陽』の 159 ページには、次のように書かれている。

箸墓古墳の軸線と弓月岳 409 m ピークは 0.1° (6′) の誤差をもち、西山古墳の軸線と高橋山 704 m ピークは 0.4° (24′) の誤差をもつ。これが資料の実態であるから、この誤差ゆえに私の主張する事実関係には厳密さが伴わないとの批判もありうることである。しかしこの程度の誤差は許容される範囲内だと私は判断するが、そのいっぽうで、纒向石塚古墳の場合には検討が必要である。その前方部は三輪山山頂を向くと判断できるか否かであるが、本古墳にたいする私の築造企画復元案では、3.2° の振れ幅をもって三輪山山頂方向に軸線を向けることになり、それを意味のある事実とみなすか単なる偶然とみなすべきかの判断は微妙である。
〔『古墳の方位と太陽』「第 5 章 大和東南部古墳群」 (p. 159)

 北條芳隆氏の『古墳の方位と太陽』(pp. 159-160) では、箸墓古墳の中軸線は 22.3 度と示されているので、自前の計算による弓月岳に向かうラインの角度 22.38 度とは、約 0.1 度の誤差が発生することになる。
 そして、その日の出の角度というのはおおよそ五月の中旬頃になるのであるが、奈良県のホームページなどでも、それは「田植えの始まる時期」だと記述されていることを、「箸墓古墳から夕月岳へのライン」(2018年7月28日土曜日)で確認したのだった。

 今回、改めてそれらの座標を示しておこう。

箸墓古墳」(34.53929, 135.84125)
天神社」(34.57365, 135.91587)
基準点名「天神山」標高 455.06 m 地点 (34.539126, 135.914891)


―― 自前の計算式で座標間の計算を行なったその他の結果は次の通り。

● ここで「横枕火葬墓群」(34.556720, 135.884930) を A 地点として、
● さらに「穴師塚」(34.556459, 135.877737) を B 地点として、

設定すれば、A 地点は角度にして 2.52 度、 B 地点よりも北にあって、

○ A - B 間の〔水平〕距離は、0.659 ㎞ と、計算された。

 これらの数値が何を意味するのかそれとも何も意味しないのかは、さっぱりわからない。

「箸墓古墳」から東北東に 29.21 度で「天神社」に到達し、その距離は、7.824 ㎞ である。
「箸墓古墳」から東北東に 29.74 度で「穴師塚」に到達し、その距離は、3.846 ㎞ であるので、
「箸墓古墳」から「天神社」に至るほぼ中間点に「穴師塚/巻向坐若御魂神社跡」は所在するといえる。

 また一方で、横枕の火葬墳墓は、龍王山 (34.561491, 135.874389) から東南東、約 30 度で天神山に向かうライン上に、ほぼ位置する。

「龍王山」から、東南東に 33.84 度で「天神山」に到達し、その距離は、4.462 ㎞ である。
「龍王山」から、東南東に 28.79 度で「横枕火葬墓群」に到達し、その距離は、1.101 ㎞ である。

 これらの数値が何を意味するのか何も意味しないのかは、やっぱりわからない。


Google サイト で、本日、もう少し詳しい内容のものを公開しました。

穴師塚: 夕月岳 / 穴師坐兵主神社
https://sites.google.com/view/geshi-lines/hijiri/anashi

バックアップ・ページでは、パソコン用に見た目のわかりやすいレイアウトを工夫しています。

穴師塚: 夕月岳 / 穴師坐兵主神社 バックアップ・ページ
http://theendoftakechan.web.fc2.com/eII/hijiri/anashi.html


座標間の水平距離と角度は、以下のページの座標データに基づいて計算しています。

修正版 一覧表データの座標間の距離と角度を計算するページ
http://theendoftakechan.web.fc2.com/eII/hijiri/nCoord.html

2018年12月14日金曜日

若草山に見られる野火の記憶

火は、土地を豊穣にし、やがて、鉄を精錬するに至る。

〈草薙剣〉の説話は国家権力によって、〈天叢雲剣〉へと変貌していき、
その剣の記念碑は、鳥取県と島根県の県境に聳える〈船通山〉の山頂に建っている。

―― と、前回の最後に書いた。
 製鉄以前の火の操作にかかわる、野焼きと、土器の製作は、日本ではともに縄文時代からの文化とされる。

◎ 人類にとっておそらく、発展的な火を制御する技術は、土器に始まったのではなく、もっと大規模な、山火事から派生した野火だったろう。

 現在でも「野火(のび)」の日本語は、「春に野山の草を焼く火」のことであり、古来それは年ごとに行なわれる「野焼きの火」であった。
―― 奈良市東部の春日山北西の丘にある、若草山嫩草山(わかくさやま)で、現在は毎年 1 月に行なわれている山焼きは、1950 年以前は 2 月 11 日の行事であったという。

 中国の歴史書に〝火耕〟という言葉がある。
 野焼き・山焼きのあとに採取される山菜は、まさに実践された火耕の成果ともいえようか。
 火が、土地を活性化することを知った人類はやがて、山地に農耕のため開墾地を求めた際にまず火耕 ―― 伐採の後の山焼き ―― を行なっただろうことは、容易に想像できる。
 そして記録に残るところでは、休耕地に、榛木(はんのき)が植樹された事例は多いようだ。ハリノキが転訛してハンノキと呼ばれたらしい。

 ○ ハイバラとも読まれる「榛原」は、もともと「榛原(ハリハラ)」であったろうし、また、野本寛一氏の著作である次の文献によれば「榛の木」は「墾の木」であるともいわれる。

『焼畑民俗文化論』

Ⅱ 焼畑系基層民俗文化の実際
 8 焼畑の循環と植物移植

 (pp. 151-152)

  1 榛

 中尾佐助氏は、ネパールでは「焼畑のあとにハンノキを植えますが、これは、空中窒素の固定をやり、土地を肥やすんです。ヒマラヤからアッサムまでの焼畑は、ハンノキ(ネパールハンノキ、ネパール名はユッティス)を使うというかなり高度な技術に達していた。台湾山地民もタイワンハンノキを使う」と述べておられる(『続・照葉樹林文化』中公新書)。
 榛の根に共生する根瘤菌が空中の窒素を蛋白質と化し、それが肥料となるともいわれ、多くの放線菌は細菌・カビ・原虫などにたいする抗生物質を生産するともいわれている。わが国の焼畑農民も経験的に榛の効用を伝承しており、榛の生えているところは焼畑に適していると伝えている。たとえば、石川県白峰村では、太い榛の木(オバル)があれば、その周囲一〇〇メートル四方は土が肥えているといい伝え、杉の植林にさいしても、初期には榛の木を伐らずに杉を植える習慣があった。……
 (pp. 153-154)
   (1) 榛と猪垣
 榛の木の苗を他の山から取ってきて、焼畑輪作の終了したところに二間間隔ほどに植え、二〇年から三〇年放置し、「アラス」と称した。二~三〇年たってふたたび焼畑にするときには、太いものは径一尺にも及んでいた。秋、木の葉のあるうちに木に登り、まず枝をおろし、幹はそのまま立てておいて焼いた。この残った幹のことを「ツモッ木」と称した。ツモッ木は春伐って、椎茸小屋で椎茸を乾燥させる燃料として利用した。さらに興味深いことに、この地では、秋、焼畑の収穫物に害を与える猪を防ぐために「せき」と呼ばれる木柵で焼畑地を囲んだのであるが、それをこの榛の木で作ったのである。……
 (p. 155)
   (2) 榛[ハリ]と墾[ハリ]
引馬野ににほふ榛原入り乱れ衣にほはせ旅のしるしに(『万葉集』五七)
白菅の真野の榛原心ゆも思はぬわれし衣に摺りつ(『万葉集』一三五四)
などと「榛原」は歌にも詠まれ、大和の榛原、遠州の榛原など古い地名として残っている。「榛」は、「はん」または「はり」と読まれており、静岡市大間ではいまでも「はり」といっている。「新墾[にいはり]」「墾間[はりま]」「墾道[はりみち]」など、わが国では開墾のことを「はり」と呼んでいるのであるが、榛の木の生えているところを好んで農地として開墾し、また、時に、新開の焼畑地の輪作を終えてアラす場合、榛の木を植える習慣があったことを考えると、「榛の木」が「墾の木」であったことが考えられるのである。榛は開墾と深くかかわった植物であった。
 静岡市日向では茶畑のなかに榛の木を植え、その説明として、昔、山犬(狼)に追われたとき、この榛の木に登って難を逃れるよう工夫したものだと語り伝えられている。『古事記』に、雄略天皇が葛城山で大猪に追われたとき、榛の木に登って難を逃れたという伝承が記されている。静岡市大間で猪垣に榛の木が用いられたことと脈絡があるのだろうか。大地を肥やし、染色の原料ともなるこの木に、一種の呪力をみてきたことはたしかであろう。

 14 野焼きの民俗
  二 野焼きの実際

  1 若草山の山焼き

 (p. 236)
 一月十五日は奈良若草山の山焼きである。この日、午前中から若草山の麓にある、春日大社摂社の野上神社をはじめ、山の周囲では山焼きの準備がすすめられる。野上神社の祠の背後には高さ一メートル、径一・五メートルほどの真ん中が割れた石があり、この石が野上神社の磐座であることがはっきりとわかる。野上は「野神」で、野焼きの行われる野の神であったことが推察される。……
 (p. 237)
 標高三四二メートル、三三万平方メートルの若草山にいっせいに点じられた火は瞬時に紅蓮の炎となり、蛇のように這い、驚くべき早さで闇のなかにひろがっていった。そして約三〇分後に火は鎮まっていた。昼みると、白味を帯びた黄土色に蔽われた萱山が炎となり、やがて夜が明ければ黒褐色に変じているのである。
 一般に、若草山の山焼きの起源は、興福寺と東大寺の境界争いに由来すると説かれているが、実際の起源は食用野草の採集や草の獲得にあったものと考えられる。そして、この山焼きは大和盆地周辺の草山焼きの象徴的残存でもあった。「若草山」という名もゆかしく、遠く菜摘みの習俗とのかかわりをも思わせる。奈良公園の茶店で売られている「ワラビ餅」の発生も、広大な若草山の野焼きと無関係ではなかったはずである。
〔野本寛一/著『焼畑民俗文化論』より〕

 ○ 山口隆治氏による『加賀藩林野制度の研究』では、焼畑用地が「あらし」等と呼ばれることに関しても詳細な研究がなされている。その考察がまとめられて記述された個所から参照してみたい。

『加賀藩林野制度の研究』

第七章 白山麓の「むつし」

 一 白山麓の焼畑

 加賀藩の焼畑名称について、前記「耕稼春秋」には金沢付近の山間部で「薙畑」と称したことを記す。…… 能登国羽咋郡続きの越中国射水郡三尾・床鍋両村では「薙畑」または「ノウ(11)」、飛騨国境に位置した新川郡東猪谷村や礪波郡五箇山では「薙畑」と呼称した(12)。つまり、加賀国の山間部では焼畑を「薙畑」、能登国鳳至・羽咋両郡および越中国射水郡の一部では「薙野」または「ノウ」とそれぞれ呼称していた。このように、焼畑を「薙畑」「薙」と呼称したのは、雑木・柴草を薙ぎ倒して焼くためであったという。したがって、焼畑のため雑木・柴草を伐採することを「薙苅り」といい、火入れすることを「薙焼き」といった(13)。……
…………
白山麓では焼畑を「薙畑」または「山畑」、その用地を「むつし」または「あらし」と呼称した。前述のごとく、「薙畑」の名称は山地斜面の草木を「薙ぐ」ことから始まったもので、草木の伐採を「薙刈り」、火入れを「薙焼き」と称した。また、火入れ初年目の畑地を「新畑[あらばた]」、地力が減退したそれを「古畑[ふるばた]」と呼称した。薙畑には稗を初年目作物とする「稗薙」、蕎麦を初年目作物とする「蕎麦薙」、大根を初年目作物とする「菜薙」の三種類があり、伐採や火入れの時期、二年目以後に栽培される作物の種類、経営される面積などに若干の差異がみられた(19)
 焼畑は入会山を原則とした百姓持山で行われたが、これは農民の持高に応じて山割し、個人所有として利用する場合もあった。白山麓の村々では、各村近くの山林に大なり小なり私有地を有していた。……

(11) 『とやま民俗・24号』(富山民俗の会)四七頁
(12) 『旧白萩村の民俗』(東洋大学民俗研究会)五二頁および『越中五箇山の民俗』(富山県教育委員会)六二頁
(13) 野本寛一氏は、焼畑呼称を「火・焼地名」「輪作地名」「循環地名」「伐採形状地名」「その他」に分類し、「薙畑」とは「薙ぐ」という動詞の連用形「薙ぎ」が名詞化したもので、「伐採形状地名」に属すると考えた(前掲『焼畑民俗文化論』三〇三~三〇九頁)。
(19) 『尾口村史・資料編第二巻』一七九~一八一頁。
〔山口隆治/著『加賀藩林野制度の研究』(p. 313, p. 317) 〕

The End of Takechan

◎ 人類は、草を焼き、土を焼き、やがて土塊(つちくれ)から、金属を得た。

 日本で縄文時代から弥生時代へと移行する頃、大陸では、すでに鉄の時代が始まっていたようだ。
 稲作と、青銅と鉄の文化が、日本列島に同時に入ってきたのだ。

 それから数世紀を経て、日本で〔全文が現存する〕歴史書が成立した西暦 700 年代。
 なぜ、古事記と日本書紀はともに、伯耆国と出雲国の国境にある鳥上の峰 ―― 鳥上之峯 ―― すなわち船通山(せんつうざん)を舞台とする戦闘神話を記録に残し、その地からの戦利品として、日本書紀にいう〈天叢雲剣〉すなわち〈草薙剣〉―― 古事記原文では〈草那藝之大刀〉―― をスサノヲによって、獲得させるという、出雲国重視の物語構成にいたったのか。
 のみならず、古事記には「其所神避之伊邪那美神者、葬出雲國與伯伎國堺比婆之山也。」という記述があって、

其の神避りし伊邪那美の神は、出雲の國と伯伎の國との堺の比婆の山に葬りき。
(そのかむさりしいざなみのかみは、いづものくにとははきのくにとのさかひのひばのやまにはふりき。)

ここにも、出雲国と伯耆国との国境が登場し、大地母神の墓所として〈比婆之山〉が記録される。

 船通山の北東に位置する伯耆大山の山麓には、鳥取大学の山本定博氏によって、「鳥取県内の黒ボク土腐植もその黒さはわが国でも第一級である」と評される黒ボク土がある。

 その黒ボク土は、おそらく数千年にわたって毎年焼かれ続けた、野火の記憶だろうと、推察されるのである。
 そして、そもそも戦闘は、新墾(あらき)もしくは、すでに開墾された土地を巡って繰り返されたはずだ。
 播磨国風土記によって、渡来の神との戦闘の神話が、現代にまで伝承されている。自然の災害に強い、豊饒な大地が、権力者の求めたものであったろう。
 敵対者や、反乱軍に遭遇することのない、広大で豊かな土地を、我が物と宣言したかったのだ。
 必然として。―― 権力者は、同時に、武力を欲したのだった。


Google サイト で、本日、もう少し詳しい内容のものを公開しました。

榛原(ハリハラ)・墾間(ハリマ)
https://sites.google.com/view/theendoftakechan/worochi/harima

バックアップ・ページでは、パソコン用に見た目のわかりやすいレイアウトを工夫しています。

榛原(ハリハラ)・墾間(ハリマ) バックアップ・ページ
http://theendoftakechan.web.fc2.com/eII/tsurugi/harima.html

2018年12月4日火曜日

焼畑の伝承と〈草薙剣〉

 前回参照した山野井徹氏による『日本の土』の書評が掲載された
GSJ 地質ニュース Vol.4 No. 10(2015 年 10 月)(https://www.gsj.jp/data/gcn/gsj_cn_vol4.no10_309-310.pdf)
の書評ページが PDF 化されてインターネット上にあった。それによれば、嚆矢となった論文は 1996 年に発表され、日本地質学会から表彰されている。

山野井徹「黒土の成因に関する地質学的検討」
(URL : https://ci.nii.ac.jp/els/contents110003013763.pdf?id=ART0003437151 )
(地質学雑誌 第 102 巻 第 6 号 526?544 ページ、1996 年 6 月)

 そのような新しい視点を含む、伯耆大山の土壌についての研究論文が、一冊の文献にまとめられて『鳥取県農業と土壌肥料』(1998) として発行されており、その中に次の論述が見られる。

 ○ ここでは引用に際して、「図 4」の〝図〟は省略するがその説明文は図 4 全国各地の火山灰土壌腐植層中の腐植酸の光学的特性(埋没腐植層は除く。黒印は大山起源)腐植酸型の分類は熊田の方法による。」とあり、その図の前後の本文中において、火山灰土壌を黒ボク土として特徴づける化学的理由についての考察が述べられ、火山灰土壌=黒ボク土であるかというと必ずしもそうではないと、ひとつの結論が出されている。

『鳥取県農業と土壌肥料』 Ⅱ 鳥取県の自然と土壌

「3. 鳥取の黒ボク土」(鳥取大学農学部 山本定博)

3 ) 鳥取県の黒ボク土のおいたち
 (2) 黒ボク土の腐植とその生成条件
 火山灰土壌を黒ボク土として特徴づけるのは、多量に集積した黒色腐植である。多量の腐植の集積は世界の陸成土壌のうちでは最も顕著であるが、黒ボク土の腐植はその集積量もさることながら黒色味の強さという点で、他の土壌の腐植とは質的に大きく異なる。一般に土壌からアルカリ性の溶液で抽出された腐植のうち酸で沈殿する画分を腐植酸、沈殿しない画分をフルボ酸と呼ぶ。腐植の黒味は腐植酸に起因する。黒ボク土では腐植酸は量的にフルボ酸を上回り、その黒色味は非常に強い(数ある土壌の中で最も黒い)。いわゆる熊田による A 型腐植酸である。鳥取県内の黒ボク土腐植もその黒さはわが国でも第一級である(図 4 )。
 ところで、火山灰土壌の中には、腐植が多量に集積し、活性アルミニウムにも富み、一人前の火山灰土壌の特性を持っているにもかかわらず、黒ボク土のものとは全く異なる黒色味の弱い腐植(非 A 型腐植酸)を含む土壌がある。身近な例では、大山山麓のブナ林下にもみられる。炭素含量は 10% 程度あり、真っ黒な土壌断面をしているが、腐植は黒ボク土とは化学構造的にも全く異なるものである。図 4 に示すように、含まれる腐植酸は A 型以外の腐植化度の低い B, P, Rp 型である。このような土壌は火山灰土壌ではあるが黒ボク土とはいえない。火山灰土壌=黒ボク土であるかというと必ずしもそうではない。腐植の量ではなく質が問題なのである。
〔鳥取県土壌肥料研究会/発行『鳥取県農業と土壌肥料』 (p. 28) 〕

 ○ 焼畑に関する近年の資料としては次のものがあり、冒頭で日本三代実録(貞観九年三月)の記事が紹介され、また、41 ページでは焼畑のオッタテビと記紀神話との関連が指摘されている。

『焼畑民俗文化論』

Ⅰ 焼畑系民俗文化論の視座
「1 焼畑系民俗文化論の経緯」

 かつて、焼畑は八重山諸島から北海道に及ぶ空間的な広がりの中で行われていたのであった。それは、時間的にも稲作以前から行われていた可能性が指摘され、近代に至るまで連綿と続けられてきたのだった。『三代実録』貞観九年三月二十五日の条に、「令大和国禁止百姓焼石上神山播蒔禾豆」とあり、石上の聖域近くにまで焼畑が及んでいたことがわかる。『万葉集』東歌には、「足柄の箱根の山に粟蒔きて実とはなれるを逢はなくも恠し」(三三六四)と歌われ、『拾遺和歌集』巻十六に「片山に畑やくをのこかの見ゆるみ山桜はよきて畑やけ」という藤原長能の歌がある。焼畑は都近くにおいても、地方においても属目の風景だったのである。
 こうして、昭和二十年代までは焼畑が生業として営まれていた地も多かったのであるが、三十年代に入り衰退の歩を早め、高度経済成長期に入り完全に終焉を迎えたのであった。

Ⅱ 焼畑系基層民俗文化の実際
「1 焼畑の名称」

 富山県・石川県・福井県・岐阜県では焼畑のことを「ナギ」と称した。ここでも夏焼きの焼畑のことを「菜ナギ」「蕎麦ナギ」など、作物を冠して呼ぶ風があった。福井県大野市の中洞では、菜ナギ・蕎麦ナギは草山畑、稗や粟を作る春焼きナギは木山畑という仕分けをしていた。「ナギ」も、北陸・中部のみではなく、遠く、大分県国東半島の富来に「ナギノ」という呼称があった。「ナギ」は「薙ぐ」という動詞の連用形の名詞化で、「刈り払う」という意味である。こうしてみると、焼畑呼称の一類型として<刈る>という意味を示すものが大きな勢力を占めていたことがわかる。「カノ」も「ナギ」も、発生的には、草地や叢林を「刈り」「薙ぐ」ことから始まったものと見てよい。…………

「2 焼畑の技術伝承」 二 火の技術伝承

  1 防火帯の技術と名称
 焼畑の火の延焼に関する話は各地で耳にする。…… 山の火は上へ上へとのぼり、横にもひろがるのである。
……………………
  3 火入れの技術
 焼畑地の火入れにはことのほか神経を使った。風のない日を選び、暦のまわりのよい日を選んだ。…………
 焼畑の火入れ方法として全国的に共通していることは、傾斜地の上部から火を入れるということである。土佐池川町椿山では上部を「ホクチ」(火口)と呼び、静岡市大間では、焼畑上部の右端を「ホサキ」(火先)、左端を「テシタ」(手下)と呼んだ。大間では、焼畑組の長老を「行司」と言い、行司が全体の火を見て、「ホサキをさげよ」「テシタをさげよ」などと号令をかけて作業を進めた。
……………………
 …… 椎葉では、春焼きは「オロシ風」が吹くのを見はからって火を入れるので夜になることが多かったという。
 こう見てくると、火入れは上から下へが原則であったことがわかる。下から火を入れることを避けた理由は、延焼の防止とともに、火が上走りをして焼け残りが出ることを避けたからである。静岡市中平には「ウシが残る」という言葉がある。火が表面を走って焼け残りが出ることである。しかし、上から火をつけて三分の二から四分の三焼けたところで下から火を入れるという方法は各地にあり、静岡県榛原郡川根町、同磐田郡水窪町などではこれを「オッタテビ」(追い立て火)と呼んだ。神奈川県山北町箒沢では「ムカエビ」と称しており、途中で火と火がぶっつかって消えることになり、まさに『古事記』の「ヤマトタケル」「迎え火」と一致しているのである。
 上下の原理は、左右の風速が激しい時には左右にも適用された。南風が強い時には四分の三ほど北側を焼いておいてから南からも火を入れたのであった。
〔野本寛一/著『焼畑民俗文化論』 (p. 3, pp. 26-27, p. 37, p. 40, p. 41) 〕

 ○ 注目すべき言葉として「颪(オロシ)」の語を国語辞典で見ておこう。

『日本国語大辞典 第二版』 第三巻

おろし【下・卸・颪】〔名〕

(動詞「おろす(下)」の連用形の名詞化)
① 高い所から下の方へ移すこと。おろすこと。「雪おろし」「神おろし」「たなおろし」などのように、名詞に付けて造語要素として使う場合が多い。
② 神仏の供え物をとりさげたもの。また、貴人の飲食物の残りや使い古しの品物のおさがり。御分(おわけ)。……
③ 家来に食糧を支給すること。……
④(颪)山など高い所から下へ向かって風が吹くこと。また、その風。秋冬の頃、山腹の空気が冷えて吹きおろす風。おろしのかぜ。……
…………
おろしの風(かぜ) 山から吹きおろす風。山おろし。*類従本元良親王集(943頃か)「惜みつつなげきのかたき山ならばおろしの風のはやく忘れぬ」
〔小学館『日本国語大辞典 第二版』 第三巻 (pp. 64-65) 〕

―― また、焼畑で用いられる「向火」は、国語的には「むかえび(ムカヘビ)」よりも「むかいび(ムカヒビ)」の訓みのほうが、どうやら意味が通じやすいようだ。

The End of Takechan

 ○ 文字構成として〈畑〉は〝火田〟であり、〈畠〉は〝白田〟となる。これらの語は和名抄にも載る。

『諸本集成 倭名類聚抄〔本文篇〕』を参照すれば、それぞれの語の冒頭で、

火田は夜歧波太(ヤキハタ)、
白田は陸田・波太介(ハタケ)、

と説明されている。

 ○ 紀元前に成立した中国の『礼記』に「火田」という言葉が出てくる。さらに、「火耕水耨」という語も紀元前成立の『史記』にすでに見られることもまた、次の文献で指摘される。

地球研ライブラリー 17『焼畑の環境学』

史料論1 中日火耕・焼畑史料考(原田信男)

 (1) 中国の火耕・焼畑
…… もちろん焼畑は日本語で、中国文献には、火田・火耕として、いくつかの文献に登場する。
 まず紀元前三世紀以前成立の『礼記』王制第五に、天子・諸侯・百姓の田猟の記事があり、火田を禁じている。

獺祭魚、然後虞人入沢梁、豺祭獣、然後田猟、鳩化為鷹、然後設罻羅、草木零落、然後入山林、昆虫未蟄、不以火田、不麛、不卵、不殺胎、不殀夭、不覆巣、(竹内照夫『礼記 上』新釈漢文大系二九、明治書院、一九七九年)

 田には、田猟すなわち狩猟の意味もある。「かり」の訓をもつ畋の文字も同様で、耕作と狩猟は近しい行為であった。
 そして『爾雅』釋天第八「祭名」も、火田を狩猟とする。

春猟為蒐。夏猟為苗。秋猟為獮。冬猟為狩。宵田為獠。火田為狩。(長沢規矩也編『和刻本 経書集成』正文之部 第三輯、古典研究会、汲古書院、一九七六年)

 つまり「火田」とは火を用いた焼狩りと理解すべきで、この場合にも焼畑が伴っていたと考えてよいだろう。
 なお火田に関する記事としては、『宋史』志大一二六食貨上一に、大中祥符四年(一〇一一)の詔があり、先の『礼記』を承けて宋代には、火田が明確に禁止されている。

火田之禁、著在礼経、山林之間、合順時令、其或昆虫未蟄、草木猶蕃、輒縦燎原、則傷生類。(脱脱等撰『宋史』第一三冊、中華書局)

…………
 なお火耕の語については、五世紀に成立した『後漢書』文苑列伝第七〇上の杜篤伝に、

田田相如、鐇钁株林、火耕流種、功浅得深、(范曄撰『後漢書』第九冊、中華書局)

とあり、おそらく後漢すなわち一~二世紀ごろには用いられていたものと思われる。この「火耕流種」とは、まさしく林を切り開く焼畑を指すものであろう。
 さらに唐代の欧陽詢撰『芸文類聚』巻二六人部十言志所載にも、以下のようにある。

夾江帯阡、布濩井田、通逵交迸、高門接連、人腰水心之剣、家給火耕之田、爾乃樹之榛栗、椅桐梓漆、(欧陽詢撰『芸文類聚 上』中華書局、一九六五年)

 ただ、江蘇という地域的な問題からすれば、これは次に述べる火耕水耨の田を意味する可能性が高い。

火耕水耨 古代中国の農業史研究では、長江南部における火耕水耨に関する論争が行われてきた。火耕水耨の語については、紀元前九一年ごろの成立とされる『史記』の二ヶ所に登場する。

平準書第八:
是時山東被河菑、及歳不登数年、人或相食、方一二千里。天子憐之、詔曰、江南火耕水耨。令飢民得流就食江淮間、欲留之処、遣使冠蓋相-属於道護之、下巴蜀粟、以振之。(吉田賢抗『史記 四』新釈漢文大系四一、明治書院、一九九五年)
貨殖列伝第六九:
楚越之地、地広人希、飯稲羮魚、或火耕而水耨。果陏臝蛤、不待賈而足。地勢饒食、無饑饉之患、以故呰窳偸生、無積聚而多貧。是故江淮以南、無凍餓之人、亦無千金之家。(重野安繹『史記列伝 下』増補漢文大系七、冨山房、一九七三年)
〔『焼畑の環境学』所収、原田信男「中日火耕・焼畑史料考」(p. 522, p. 523) 〕

 ○ 最後に、後漢書「火耕」についての注釈を、邦訳文とともに参照しておきたい。

『全譯後漢書』 第十七册

文苑列傳第七十上(范曄「後漢書卷八十上」)

 杜篤傳
【原文】
火耕流種、功淺得深[九]。
[李賢注]
[九]以火燒所伐林株、引水漑之而布種也。

《訓読》
火耕流種し、功は淺くして得ることは深し[九]。
[李賢注]
[九]火を以て伐る所の林株を燒き、水を引きて之に漑ぎて布種するなり。

[現代語訳]
田畑の雑草を焼いて種をまきますと、わずかな手間で多くの稔りを得られます。
[李賢注]
[九]火で伐採した株を焼き、水を引いてこれに注いで種をまくのである。
〔渡邉義浩・髙橋康浩/編『全譯後漢書』 第十七册 (pp. 759-764) 〕


―― 今回の内容は、錯綜している。
 整理すれば、まず「富山県・石川県・福井県・岐阜県では焼畑のことを「ナギ」と称した」という一文に、ヤマトタケルの〈草薙剣(くさなぎのつるぎ)〉の原型を見たように思った。
 すなわち、ヤマトタケルの神話に、焼畑で用いられる「向火」の技術が伝承されたのだと思われた。
 また、日本の「焼畑」の語は中国の「火耕」を元とするようである。
―― 野焼き・山焼きを、火耕と称してかまわないのなら、農耕の以前に、人類は、土地を火で耕すことから始めたのだとも、いえようか。

火は、土地を豊穣にし、やがて、鉄を精錬するに至る。


〈草薙剣〉の説話は国家権力によって、〈天叢雲剣〉へと変貌していき、
その剣の記念碑は、鳥取県と島根県の県境に聳える〈船通山〉の山頂に建っている。


Google サイト で、本日、もう少し詳しい内容のものを公開しました。

草薙ぎ / 狩り野 / 煆野畑
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2018年11月22日木曜日

伯耆大山噴火後の黒ボクの土壌

 日本神話に描かれた焼畑農業を連想させる神々の物語があった。
 ここで、鳥取県〈大山(だいせん)〉の黒い土(黒ボク土)は焼畑の名残りを連想させるという事柄に目を向ければ。
―― その、黒ボク土の話題の導入として、まずは「甲子園の土」が黒い理由には、鳥取県民として興味深いものがある。

◎「阪神甲子園球場」( http://www.hanshin.co.jp/koshien/ ) のサイトに、次の説明が掲載されている。

Q & A | 阪神甲子園球場

(URL : http://www.hanshin.co.jp/koshien/qa/answer06.html )

・黒土の産地
 岡山県日本原、三重県鈴鹿市、鹿児島県鹿屋、大分県大野郡三重町、鳥取県大山 などの土をブレンドしている。(毎年決まっているわけではない。)


 ○ さて黒ボク土は地質学上の用語であるが、詳しい解説を、まず次の資料から参照する。

『土壌の事典』

 黒ボク土 Andosols
(井上恒久)
 黒ボク土の名称は、黒い表土と、ぼくぼくと砕けやすい性質を言い表したわが国の農民によるこの土壌の呼称に由来する。国際的には日本語の「暗土」を音訳した Andosols と呼ばれ、アメリカの土壌分類では、Andisol 目(→アンディソル)にほぼ含まれる。
 わが国の黒ボク土の腐植層はよく発達し、腐植含量が高く、黒色味の強い腐植酸の割合が多い。土壌中の炭素とイネ科草本のプラントオパールの量には正の相関があり、腐植はススキ、ササなどイネ科草本から多量に供給され、活性アルミニウムと安定な複合体を形成して集積する。他の国々の黒ボク土は、わが国のものほど腐植層が発達していない。
 黒ボク土は主に火山灰を母材に生成するため火山灰土とも呼ばれる。火山灰は比表面積が大きく、火山ガラス等の易風化性鉱物は急速に風化する。風化の際に溶出するアルミニウムは、植物遺体の供給が十分な表層では腐植と複合体を形成するが、下層では和水ケイ酸アルミニウムであるアロフェンやイモゴライトが生成する。風化がいちじるしく進むとアロフェン等は消失し結晶性粘土が主となる。……。
〔『土壌の事典』(pp. 104-105) 〕

 さてさて、縄文時代は、縄文式土器の製作を特徴とする時代区分であり、約 1 万年前に始まったとされている。
 そして、その時代と、黒ボクの地層が重なるのである。
 伯耆大山の火山灰も、黒ボクの土壌を形成する基盤となっているようだ、しかしながら。
 黒ボク土が 20 世紀にいわれていたように一般的な火山活動の成果なのであれば、かつて繰り返された〈間氷期〉の最後の時期 ―― すなわち、おおよそ 1 万年前以降 ―― にのみ、それが残されている事実と一致しない。
 最後の 1 万年間にそれ以前とは異なる何があったのか?

 火山の大爆発で流され、焼き尽くされた山腹に、なだらかな斜面が残されることもあろう。
 実際、大山には現在に至るまで、広い高原が残っている。―― ではなぜ、現在そこは野原であり木が生えていないのか。大山の噴火後に戻ってきた人類が、繰り返し、高い山の草原を焼いてきたからではないのか?
 黒ボク土の分布に人類の営為が関与することに言及した論文は、20 世紀にもあった。

焼畑農耕以前 の 黒ボク土


 ○ 次に参照する論文には東海地方の非火山灰性の黒ボク土地帯では人為的な森林の破壊が行なわれたかもしれない。という記述がある。

『科学』 1987 Vol. 57 No. 6

「黒ボク土文化」(阪口豊)
 …… 日本に分布する大部分の黒ボク土の母材は火山灰である(27)。したがってその分布は火山の分布とほぼ一致し、北海道、中部地方以北の本州と九州に集中する。…… 黒ボク土の分布地域を黒ボク土地帯と呼ぶことにしよう。ただし、わずかながら火山灰を母材としない黒ボク土も東海地方に分布する(28)。この黒ボク土も黒ボク土地帯に含める。
…………
 …… 筆者は縄文文化は黒ボク土に根ざし旧石器時代からの焼狩の伝統を受け継いだ文化であると考える。旧石器時代を含め森林・草原混交地帯(黒ボク土地帯)で展開された野焼を生業の手段とする文化を黒ボク土文化と呼びたい。黒ボク土文化は火山活動の産物といえよう。黒ボク土文化は火山灰を母材とする黒ボク土の地域から近隣地域へと広がった。東海地方の非火山灰性の黒ボク土地帯では人為的な森林の破壊が行なわれたかもしれない。旧石器時代には浜名湖周辺で発見された三ケ日人、浜北人とその仲間がこの行為の担い手であったのではないだろうか。
(27) 加藤芳朗: 農業土木学会誌、46, 11 (1978)
(28) 加藤芳朗: 第四紀研究、3, 212 (1964)
〔『科学』 1987 Vol. 57 No. 6 (p. 358, p. 360) 〕

 ○ 新しい研究では、次の論文がインターネット上で公開されていた。

『第四紀研究』(The Quaternary Research) 54 (5) p. 323-339 2015 年 10 月

( URL : https://www.jstage.jst.go.jp/article/jaqua/54/5/54_323/_pdf )

「黒ボク土層の生成史:人為生態系の観点からの試論」(細野衛・佐瀬隆)

 黒ボク土層はテフラ物質を主体とした無機質素材を母材として、湿潤かつ冷温・温暖な気候と草原的植生下で生成してきた土壌である。酸素同位体ステージ (MIS) 3 以降の黒ボク土層の生成史には人為生態系の観点から 2 つの画期が認められる。最初の画期(黒ボク土層画期Ⅰ)は MIS 3 後半、後期旧石器時代初頭における〝突発的な遺跡の増加期〟に連動し、後の画期(黒ボク土層画期Ⅱ)は MIS1 初頭の急激な湿潤温暖化により人類活動が活性化した縄文時代の始まりと運動する。いずれの画期も草原的植生の出現拡大にヒトが深く関わったと考えられるので、黒ボク土層は人為生態系のもとで分布を拡大してきたといえる。


The End of Takechan

 ○ 最後に、クロボク土とは、微粒炭を一定の高密度で含み、多量の腐植の含有により黒色化した乾陸成の表土との定義を、研究の成果として構築するに至った文献を参照する。

『日本の土』 第 8 章 クロボク土の正体

広くクロボク土を観る

 (p. 170)
 クロボク土の様々な疑問を解くために調査した十和田東域では、クロボク土は火山灰ではなく、風成層の中に形成されていることが明らかになった。この際、風成堆積物が母材(堆積母材)として一般化できるのかという課題が出た。検討の結果、堆積母材こそが土壌の母材として普遍的であることがわかった。それがゆえに身近な地表でも、堆積母材による土壌の形成が観察され、それが旧土壌を含む表土の形成に及ぶことをみてきた。さらに、そのような表土を日本列島において分布の広い山地にまで広げて考えてきた。こうした表土に関する様々な視点はクロボク土の形成を考える背景としては十分に広がり、深まったと思われる。……
 (p. 171)
 十和田東域以外の一般的な風成層の調査地域としては、もはや火山灰が分布する火山の風下側を意識する必要はない。むしろ、火山灰とは関係が少ない地域のほうがクロボク土の本質に迫れるかもしれない。そんな期待もあって、次なる調査範囲は日本海側の山形県と新潟県を主体に、秋田県、宮城県、福島県、長野県、それに富山県に移した。
 (pp. 173-174)
 …… 測定数は必ずしも多くはないが、測定した限りでは、クロボク土の形成の始まりは七〇〇〇年代前から急に多くなり、三〇〇〇年代前以降は増え方が少なく、一〇〇〇年前より新しい箇所はない、という傾向が認められる。この調査の範囲では八〇〇〇年以前のものは見つからないが、十和田東域では八六〇〇年前の南部火山灰より下にもクロボク土の形成があった。また、後述する阿蘇の外輪山では九九八〇年前頃にクロボク土の形成が始まっている。
 以上のことからクロボク土の形成は完新世と考えるのが妥当であるが、形成開始時期と地域には関連性が認められない。つまり、クロボク土ができはじめる時期は地域的にバラバラなのである。十和田東域の中間層で見られたクロボク土化の層準が一律でないことは、他地域の調査範囲でも同様である。このことは、クロボク土形成のきっかけは気候変化のようなグローバルな現象ではなく、それぞれの地点に起こったローカルな事象の反映とみるべきなのである。それは一体何か?

微粒炭は活性炭

 (p. 183)
 ともあれ、私が扱ってきた台地や丘陵地などのクロボク土には必ず多くの微粒炭が含まれるという事実がある。これはクロボク土の最も重視すべき特徴なのである。すなわち、クロボク土の形成には微粒炭の存在が必要条件なのである。そうなると、「クロボク土とは、微粒炭を一定の高密度で含み、多量の腐植の含有により黒色化した乾陸成の表土」との定義が適切である。この基準では、黒土であっても微粒炭を含まないか、もしくはその密度が低いものは別の黒土土壌として区分される。こう規定することが今後の黒土全般の再区分により合理性を与えるであろう。……

『日本の土』 第 9 章 クロボク土と縄文文化

縄文時代と微粒炭

 (p. 192)
 微粒炭の堆積は一万年前以降(完新世)の大地では、乾陸地のみならず、沿岸、砂丘地、氾濫原、地すべり沼、湿地、湖の地層から普遍的であることは前述のとおりである。完新世の時代にのみ微粒炭の堆積が増加することは自然の山火事などによるものではなくて、人為的な火の使用によるものと考えられる。完新世の初期からの日本の古代人といえば縄文人である。火の使用に関して、縄文人は、土器を焼き、食物を料理していた。しかし、そうした火の使用だけで、広く大地に微粒炭が高密度で堆積するであろうか。否である。もっと大規模な火の使用、すなわち、「野焼き・山焼き」のような行為があったはずである。しかも、厚いクロボク土層の発達には、その行為が一時的ではなくて継続的でなければならない。野焼き・山焼きは長く続けられたのである。
 (p. 194)
 一九八七年、東京大学の阪口豊教授は、火山活動で草原化した野を旧石器時代から焼くことによる焼き狩り・焼き畑の仮説を出され、これを「クロボク土文化」と提唱した(阪口、一九八七)。その野焼きの「灰」(筆者註:正しくは「炭」)が微粒子として堆積しているらしいことを述べている。ただ、火山活動とクロボク土を切り離せなかったため、「灰」とクロボク土との関係が不明で、クロボク土が縄文期特有の産物であるとはしなかった。しかしクロボク土が古代人と関わることの指摘は卓見と思われる。

山形県小国の山焼き

 (pp. 204-205)
 山焼きをして一週間も過ぎると、焼けた植物の炭が黒く残る斜面にはぞくぞくとワラビが出てくる。……
 このように野焼き・山焼きをすると、樹木は焼かれて草原(疎林)になるが、火入れが繰り返されるとススキやササなどが優占する草原になる。そこには原生林の林床には見られない各種の草本・灌木類が交じるようになり、その中には食料として良好なワラビ以外の植物も豊富なのである。
 以上のように、野焼き・山焼きによる草原(疎林)の形成は、食料となる多様な植物を生育させ、より安定した生活を可能にしたはずである。クロボク土が厚く発達していることは、縄文人が野焼き・山焼きをずっと続けてきたことを意味する。こうした行為の継続は縄文文化の基盤に関わったに違いない。

縄文土器と植物食

 (pp. 205-206)
 …… 縄文文化とは何か、を探るにはこの時代を通して一貫して出土するあの縄模様のある土器、すなわち「縄文土器」の理解が必要に思える。「土器の出現をもって縄文時代とする」とさえいわれ、縄文土器は縄文文化の象徴であるばかりか、その内容の語り部でもある。

縄文遺跡と微粒炭

 (pp. 220-221)
 また、縄文期では、微粒炭とともにゼンマイの胞子が多産する。これは火入れでできた草原にゼンマイが生育し続けていたことを意味する。……
 今後、花粉分析では生産量の多いゼンマイの胞子は草原化の指標の一つとして、重要になるであろう。さらに花粉分析では、微粒炭は得体の知れない「黒い粒子」であり、邪魔者でもあった。しかし、微粒炭は基礎研究を重ねれば、花粉や胞子などの植物器官の微化石の一員として、当時の環境復元などに寄与する可能性がある。微粒炭を専門とする若い気鋭の研究者も現れたので、その成果が期待される。

日本のクロボク土の意味

 (pp. 221-222)
 日本の表土の最上部にあるクロボク土は、火山灰ではなく堆積物中の微粒炭が腐植の保持に関与したもので、その微粒炭は縄文期の野焼き・山焼きで発生したことを導いた。この野焼き・山焼きは、縄文人のニッチ(生活空間と食料)の確保のための草原(疎林)作りであったと考えた。こうした人為的なニッチ作りは、ヒトが自然を変える第一歩でもあった。縄文時代の自然の改変は台地や丘陵地の一部にとどまったが、弥生時代からは低地にも及んだ。そして、その後の人類は、ほかの生物のニッチなどは念頭に置かないヒトのためのニッチ作りへと暴走し、今日に至っている。こうした自然とヒトの関わりにおいて、縄文時代に始まった草原(疎林)作りは、ヒトが初めて自然を変えたという意味での画期でもある。
 (pp. 224-225)
 また、原始的農耕とされる焼き畑の有無であるが、これも火入れをする。しかし焼き畑は、焼かれた木を主体とした灰を肥料として作物を栽培し、数年続けると地力が消耗するので放置し、森林への回復を待って再び火入れを繰り返す農法である。クロボク土の微粒炭は、イネ科などの草本を主体とした燃焼で生じたものであることから、森林の燃焼によるものとは考えがたい。すなわち、クロボク土の微粒炭からは(今のところ)当時の焼き畑のための火入れを肯定することはできない。ただし、ハラの野焼きが予期せずにヤマに飛び火し、山林が燃えつきたあとの効果に焼き畑のヒントを得たかもしれない。ともあれ、縄文時代に植物栽培による農耕の萌芽はあって当然と考えられる。それにもかかわらず、縄文人はその芽を大きく伸ばそうとせず、火入れを繰り返し、もっぱら草原(疎林)を再生して生活の場を確保し、かつそこから食料などを採集する道を選び続けていたと考える。そうすることが、後氷期の温暖・湿潤な日本の気候のもとで、最も安定した生活を続けられたに違いないからである。このように日本列島特有の自然環境下で出現し、永続した縄文文化は「世界の縄文文化」に値するユニークさをもつものではあるまいか。
 以上のような縄文文化の特性は、一万年以降の風成堆積物に微粒炭が交じり、それが黒く着色する腐植を集め、相応に厚いクロボク土ができていることから導いた。日本の環境下での一般的な土壌、すなわち成帯性土壌はローム質の「褐色森林土」である。この「褐色森林土」に特殊性が加わったことでクロボク土ができた。その特殊性を与えたのは自然ではなくて縄文人であったという結論を得るに至った。
〔山野井徹/著『日本の土』より〕


オホゲツヒメの神話 と 黒ボク土 の関連性


 長々と引用したのだけれど、重要なキーワードとして、「縄文時代の自然の改変は台地や丘陵地の一部にとどまったが、弥生時代からは低地にも及んだ。」という一文に注目したい。
 実際、日本の焼畑農業は、焼畑以前の〝野焼き・山焼き〟を発端として、次第に山裾へと降りていったのだと、推測されている。

焼畑農耕の開始は、弥生時代になる頃の出来事なのだろう。


 人類の文化は、農耕 (culture) から始まったのだと、実はこれまで考えてきた。
 けれど、火で焼くだけで、耕さない文化が、日本でおよそ 1 万年続いていた事実がある。
 世界的に見ても〝土器は完新世の農耕社会に出現した〟とされている一方で、日本の縄文時代は〝土器を持つ狩猟採集文化のひとつ〟として数えられている。九州で出土した土器は紀元前 1 万 1000 年紀にさかのぼるといわれる。そして「土器の出現をもって縄文時代とする」という立場のあることが今回の参照内容にあった。
 火で焼かれた土器の出現をもって、人類の文化の発祥とみなす立場もあり得よう。


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オホゲツヒメの神話 と 黒ボクの土壌
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オホゲツヒメの神話と黒ボクの土壌 バックアップ・ページ
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2018年11月8日木曜日

喪山とカナヤマビコとカガヤケリ

 前に、谷川健一氏の『青銅の神の足跡』第一章を参照したとき「伊福部氏は雷神として祀られる」(p. 63) で、アヂスキタカヒコネの斫り倒した喪屋が美濃国の喪山になった説話に関連して紹介されていたのだけれど、岐阜県不破郡垂井町には「喪山」の地名が現存する。

岐阜県不破郡 垂井町 喪山 標高:54m

  • 南に 美濃国一之宮 南宮大社 (不破郡 垂井町宮代)
  • 西に 美濃国二之宮 伊富岐神社 (不破郡 垂井町伊吹)
  • 東に 金山彦神社 (大垣市 牧野町)

が、配置されている。

南宮大社は、式内社の仲山金山彦神社で、カナヤマビコを祭神とする。
伊富岐神社は、伊吹にあり、また伊福部氏とも関係があるといわれる。

 ○ 風土記逸文として、日本古典文学大系 2『風土記』に収録されているカグツチの伝によれば、カナヤマビコ鎮座の地は同じ岐阜県の垂井町となっている。

日本古典文学大系 2『風土記』

風土記 逸文
「美濃國」
 金山彥神(參考)
[原文] 風土記云 伊弉竝尊 生火神軻遇槌之時 悶熱懊惱 因爲吐 此化神 曰金山彥神是也 一宮也(神名帳頭註)
(頭注)
金山彥神
今井似閑採択。
伊弉竝尊
以下は神代紀四神出生の章の第四の一書と殆ど同文。
悶熱懊惱
熱さになやみ苦しむ。

嘔吐。へど。
金山彥神
山の鉱を神格化した神。嘔吐物が鉱と形状の類似するによる説話。
一宮
美濃国の一宮の神社。岐阜県不破郡垂井町宮代の式内社南宮神社(仲山金山彦神社)。
(校訂注)
一宮也
神名帳頭註の筆者(卜部兼倶)の附記であろう。新考はこの一句を含めて後代の風土記とする。

[訓み下し文] 風土記に云はく、伊弉竝尊、火の神軻遇槌を生みたまふ時、悶熱ひ懊惱みますに因りて吐しましき。此れ、神と化りて金山彥の神と曰ふ、是なり。一の宮なり。

(ふりがな文) ふどきにいはく、いざなみのみこと、ひのかみかぐつちをうみたまふとき、あつかひなやみますによりてたぐりしましき。これ、かみとなりてかなやまひこのかみといふ、これなり。いちのみやなり。
〔日本古典文学大系 2『風土記』(pp. 460-461) 〕

 ○ この逸文が記録された原典は、群書類従に「延喜式神名帳頭註」として収録されている。上の記載と同一文ではあれど、該当個所を参照しておこう。

『群書類従・第二輯』 神祇部

卷第二十三「延喜式神名帳頭註」卜部兼倶

美濃不破郡。
金山彥。
 風土記云。伊弉竝尊生火神軻遇槌之時。悶熱懊惱因爲吐。此化神曰 金山彥神是也。一宮也。
〔『群書類従・第二輯』 神祇部 (p. 255) 〕

 ○ この逸文は栗田博士の「古風土記逸文考証巻三」に、「神名帳頭注美乃不波郡金山彥神條」として引用されたあと、その考察に次のような記載がある。

『古風土記逸文考證』

古風土記逸文考證卷三
○ 美濃
 金山彥神
…… 古事記傳〔五の四十四〕 に、火之夜藝速男神、夜は迦の誤ならむか、…… 火之炫毘古神、炫は迦賀と訓べし、靈異記に、炫を加々也計利[カヽヤケリ]と訓り、火之迦具土神、迦具は赫[カヾヤク]と云意、其[ソ]は迦賀とも、迦具とも、迦宜[ゲ]とも活きて同言なり、さて此神を書紀一書に、火產靈ともあり、神名帳に紀伊國名草郡香都知神社、伊豆國田方郡火牟須比命神社あり、…………
〔栗田寬/著『古風土記逸文考證』卷三 (pp. 104-105) 〕

※ 『古風土記逸文考証』は国立国会図書館デジタルコレクションで全文が閲覧できる。
初版では上下巻本が一般公開されている
( URL: http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/993515/166 )
昭和に発行された一巻本〔昭和 11 年、帝国教育会出版部刊〕では 316 ページからが該当する。
( URL: http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1219675/167 )


〈火之炫毘古神〉の「炫」と

〝加々也計利〟の訓釈のこと


 ○ 本居宣長の『古事記伝』に記されたところは、おおよそ次の通りである。

『本居宣長全集 第九卷』

古事記傳五之卷
○ 火之夜藝速男 [ヒノヤギハヤヲ] ノ神、夜ノ字は迦 [カ] の誤リならむか、亦ノ名の炫迦具 [カガカグ] などと、同じ類なるべければなり、…………
○ 火之炫毘古 [ヒノカガビコ] ノ神、炫は迦賀 [カガ] と訓べし、靈異記に、炫を加々也計利 [カガヤケリ] と訓り、字書にも燿光也とも、火光也とも、明也とも注せり、【然るを舊事紀に、火々燒彥 [ホホヤケビコ] とあるに依て、延佳が、燒ノ字に改めつるは非なり、奮事紀は信 [タノミ] がたし、此記諸ノ本みな炫と作 [ア] り、又師は炫を用ひて、本能弖理 [ホノテリ] と訓れき、此レもいかゞ、】
〔『本居宣長全集 第九卷』(p. 217) 〕

 ○ 日本古典文学大系の『日本靈異記』で、該当する記述を確認してみた。

日本古典文学大系 70『日本靈異記』

「日本靈異記 上卷」

 捉電緣 第一
(雷 [いかづち] を捉 [とら] ふる緣 第一)
 (pp. 64-65)
[原文] 時電放光明炫
[訓み下し文] 時に雷[いかづち]光を放ち明[て]り炫[カカヤ]ケリ。
(頭注 二二) 「炫」は、名義抄カカヤク。
 (p. 66)
[訓釈 原文] 〔可〻ヤ介利(カヽヤケリ)〕

 信敬三寶得現報緣 第五
(三寶を信敬 [しんぎやう] し、現報を得る緣 第五)
 (pp. 84-85)
[原文] 卽到炫面
[訓み下し文] 卽ち到れば面に炫[カカヤ]ク。
(頭注 一八) 顔に照り映えた。→六五頁注二二「炫」。
 (p. 86)
[訓釈 原文] 〔加〻也久〕
〔日本古典文学大系 70『日本靈異記』より〕

 ○ 霊異記写本における「炫」訓釈の記事を、校本でさらに確認する。

『校本日本靈異記』

日本國現報善惡靈異記卷上

 捉雷緣第一 (訓釈)
 (pp. 8-9)
炫〔カヽヤケリ〕

 興福寺本訓釋
炬〔可々ヤ介利〕
(脚註)
○ 炬 ―― 本文炫。

 信敬三寶得現報緣第五 (訓釈)
 (p. 21)
 興福寺本訓釋
炫〔加々也久〕
〔武田祐吉/校訂『校本日本靈異記』より〕

◎ 確認できた限りでは、日本霊異記における「炫」の訓釈は〝可々ヤ介利〟ないしは〝加々也久〟であった。
―― このとき、〝可々〟と〝加々〟はどちらの文字を用いても片仮名にすれば同じ〝カヽ(カカ)〟でありかつ意味の違いは認められないと理解される。

 ○ 参考として、霊異記訓釈の研究から抜粋しておこう。

『訓点語と訓点資料』 第三十七輯

「日本霊異記諸本訓釈索引」 小泉道

注文索引
213 加〻也久・カゝヤケリ
214 可〻ヤ介利
〔『訓点語と訓点資料』 第三十七輯「注文索引」(p. 10) 〕

※ 『訓点語と訓点資料』は国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧可能となっているので、詳しくは、文献を直接参照されたい。

『訓点語と訓点資料』 第三十七輯 「日本霊異記諸本訓釈索引」注文索引 へのリンク
( URL: http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10481814?tocOpened=1 )
PDF : 「日本霊異記諸本訓釈索引」注文索引 (p. 10)
( URL: http://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_10481814_po_ART0004667515.pdf?contentNo=1&alternativeNo= )


The End of Takechan

カグツチと食物の神 

―― さて Google サイト では、以上の記録を含めた、かかやく〈火の神カグツチ〉から展開する物語となる。


Google サイト で、本日、もう少し詳しい内容のものを公開しました。

火産霊 / 神皇産霊
https://sites.google.com/view/theendoftakechan/worochi/homusuhi

バックアップ・ページでは、パソコン用に見た目のわかりやすいレイアウトを工夫しています。

火産霊 / 神皇産霊 バックアップ・ページ
http://theendoftakechan.web.fc2.com/eII/tsurugi/homusuhi.html

2018年10月25日木曜日

越と出雲と〈ヤツカハギ〉

神魂命十三世孫 八束脛命


 ヤツカハギのことは『新撰姓氏録』に〈天神〉の直系子孫として記録されている。
―― 吉川弘文館より刊行されたその本文の研究と「考証篇」を続けて参照しよう。

『新撰姓氏錄の硏究 本文篇』 〔佐伯有淸/著〕
第二 校訂新撰姓氏錄(左京神別中)
天神
竹田連
神魂命十三世孫八束脛命之後也。
〔『新撰姓氏錄の硏究 本文篇』 (p. 219)

『新撰姓氏錄の硏究 考證篇 第三』 〔佐伯有清/著〕
 竹田連。神魂命の十三世孫、八束脛命の後なり。
(たけたのむらじ。かみむすびのみことのとをあまりみつぎのひこ、やつかはぎのみことのすゑなり。)
八束脛命
 他にみえない。『越後国風土記』逸文に「美麻紀〔崇神〕天皇御世、越国有人、名八掬脛〈其脛長八掬、多力太強、……〉」とみえ、『日本書紀』白雉四年五月壬戌条に「高田首根麻呂〈更名八掬脛。〉」とあって、八束脛命と同名である八掬脛の人名が知られる。
〔『新撰姓氏錄の硏究 考證篇 第三』 (p. 135)

◉ ところで今回のテーマは〈ヤツカハギ〉にまつわる物語なのだが、上の引用文中に、

八束脛命
 他にみえない。『越後国風土記』逸文に「美麻紀〔崇神〕天皇御世、越国有人、名八掬脛〈其脛長八掬、多力太強、……〉」とみえ、『日本書紀』白雉四年五月壬戌条に「高田首根麻呂〈更名八掬脛。〉」とあって、八束脛命と同名である八掬脛の人名が知られる。

とあり、『越後国風土記』逸文の紹介に際しては美麻紀〔崇神〕天皇御世、越国有人、名八掬脛〈其脛長八掬、多力太強、……〉と一部が省略されている。
―― この全文を、国史大系本の「釈日本紀」から引用すれば、

越後國風土記曰。美麻紀天皇御世。越國有人。名八掬脛。(其脛長八掬。多力太强。是出雲之後也。)其屬類多。
〔新訂增補『國史大系 8』「釋日本紀」 (p. 144)

で、是出雲之後也其屬類多の計 10 文字が省略されたことは、容易にわかる。
 ところで岩波書店発行の、日本古典文学大系 67『日本書紀 上』「神武天皇 卽位前紀己未年二月」の記事を補足する「補注3-一七 土蜘蛛(p. 580) では、

越後風土記逸文には土雲

と見えることが、紹介されている。どうやら「釈日本紀」の「出雲」は誤植らしいのであるが ……。寡聞にして国史大系本に、「土雲」の文字もその他の注釈も見ることができない。というわけでさらに文献を参照する。
 新訂增補『國史大系 8』「釋日本紀」の「凡例」に、

舊輯國史大系第七卷には流布刊本に校訂を加へたりしが、幸に前田侯爵家に就き特に同家の秘本を披閲することを得、之を流布刊本と比校せしに、刊本がもと同家秘本を底本としたるものなるに係はらず、誤寫脱字等多く、その舊を損せる甚しきものあり、乃ちこゝに前田侯爵家所藏本を原本とし、「新訂增補國史大系第八卷」に收めて之を公刊す。
〔新訂增補『國史大系 8』「釋日本紀」 (p. 1)

とあったのでそちらも参照したが、国史大系本にはやはりいずれも、該当箇所に、頭注等の注釈はない。

◉ ちなみに流布刊本によったという「舊輯國史大系第七卷」の記述に近い写本が「早稲田大学図書館」の所蔵資料にあり、
『釋日本紀九、十、十一、十二』(PDF ; p.25)
(http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ri05/ri05_04819/ri05_04819_0003/ri05_04819_0003.pdf)
の、PDFデータ、および、画像データ
釋日本紀卷第十「以七掬脛爲膳夫」ページ
(http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ri05/ri05_04819/ri05_04819_0003/ri05_04819_0003_p0025.jpg)
で、公開されている。

早稲田大学図書館 : https://www.waseda.jp/library/
古典籍総合データベース :
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/search.php?cndbn=%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9B%B8%E7%B4%80

The End of Takechan
日本古典文学大系 1『古事記 祝詞』補注五「土雲」
 ツチグモについては、神武紀に「又高尾張邑、有土蜘蛛。其為人也、身短而手足長、与侏儒相類。皇軍結葛綱而掩襲殺之。」とあり、常陸風土記茨城郡の条には「昔在国巣。〔俗語曰、都知久母。又曰、夜都賀波岐。〕 山之佐伯、野之佐伯。普置掘土窟、常居穴。有人来、則入窟而竄之。其人去、更出郊以遊之。狼性梟情、鼠窺掠盗、無被招慰、弥阻風俗也。」とある。文化の低い地方の土着民で、その風俗習性を動物的に表象したものである。異民族ではない。
〔日本古典文学大系 1『古事記 祝詞』 (p. 344)

 日本古典文学大系 67『日本書紀 上』「景行天皇 四十年七月」
[原文] 天皇則命吉備武彥與大伴武日連、令從日本武尊。亦以七掬脛爲膳夫。
[訓み下し文] 天皇、則ち吉備武彥と大伴武日連とに命せたまひて、日本武尊に從はしむ。亦七掬脛を以て膳夫とす。
(ふりがな文) すめらみこと、すなはちきびのたけひことおほとものたけひのむらじとにみことおほせたまひて、やまとたけるのみことにしたがはしむ。またななつかはぎをもてかしはでとす。
(頭注)
七掬脛
 記には「凡此倭建命平国廻行之時、久米直之祖、名七拳脛、恒為膳夫以従仕奉也」とある。七掬脛は、脛の長いことを示したもの。釈紀十所引越後風土記逸文に八掬脛に関する所伝がみえ、白雉四年五月条([下]三一九頁二行)に「高田首根麻呂〈更名八掬脛〉」、姓氏録、左京神別、竹田連の項に「八束脛命」と類似の称がある。
補注7-二二「膳夫」
 カシハは槲葉で、古く酒食をもる容器とした。仁徳三十年九月条にミツナカシハ。→三九八頁注一二。デはクボテ(葉椀)・ヒラデ(葉盤)のデ。カシハデは食器を扱う者の意で、天皇の食膳に奉仕するトモ(伴)。膳夫は周礼、天官に「掌王之食飲膳羞、以養王及后世子」とある。大化前代の制度としては、諸国に膳部が設定され、膳臣に率いられて天皇・朝廷の食膳に奉仕した。のちの養老令制では、宮内省の被管である大膳職に一百六十人、同内膳司に四十人の膳部が所属していた。
〔日本古典文学大系 67『日本書紀 上』 (p. 303, p. 599)

日本古典文学大系 68『日本書紀 下』「孝德天皇 白雉四年五月」
[原文] 又大使大山下高田首根麻呂、〔更名八掬脛。〕
[訓み下し文] 又の大使大山下高田首根麻呂、〔更の名は八掬脛。〕
(ふりがな文) またのおほつかひだいせんげたかたのおびとねまろ、〔またのなはやつかはぎ。〕
(頭注)
大使
 第二組の大使。
大山下
 大化五年冠位の第十二位。
高田首根麻呂
 他に見えず。高田首は姓氏録、右京諸蕃に、高麗国人多高子使主より出るとある。
八掬脛
 標註に「景行紀に七掬脛と云人見えたり。脛の長き人にや」。
〔日本古典文学大系 68『日本書紀 下』 (pp. 319-320)

The End of Takechan
 ○ 続いて『大系本 風土記』〔日本古典文学大系 2『風土記』〕を参照する。

『大系本 風土記』 〔秋本吉郎/校注〕
風土記 逸文 越後國「八掬脛」
[原文] 越後國風土記曰 美麻紀天皇御世 越國有人 名八掬脛 〔其脛長八掬 多力太强 是土雲之後也〕 其屬類多
(釋日本紀 卷十)
[訓み下し文] 越後の國の風土記に曰はく、美麻紀の天皇の御世、越の國に人あり、八掬脛と名づく。〔其の脛の長さは八掬、力多く太だ强し。是は土雲の後なり。〕 其の屬類多し。
(ふりがな文) こしのみちのしりのくにのふどきにいはく、みまきのすめらみことのみよ、こしのくににひとあり、やつかはぎとなづく。〔そのはぎのながさはやつか、ちからおほくはなはだこはし。こはつちくもののちなり。〕 そのたぐひおほし。
(頭注)
八掬脛
 今井似閑採択。
美麻紀天皇
 崇神天皇。
八掬脛
 ツカ(握)は長さの単位(握り拳の幅、約九糎)。脛(すね)の異常に長い足長男の故に名としたもの。異種族の身体的特徴を異常と見て誇張したもの。記紀に見える大和国生駒の長髄彦(ながすねひこ)も同類の称呼。
土雲
 土蜘蛛に同じ。大和朝廷の統治下に容易に入らなかった先住勢力。
(校訂注)
土 / 底「出」。栗注によって訂す。
〔日本古典文学大系 2『風土記』 (p. 466)

 ○ ここで、栗田寬/編纂(纂訂)『古風土記逸文』(以下『纂訂 古風土記逸文』と表記)を参照する。

『纂訂 古風土記逸文』 〔栗田寬/編纂〕

古風土記逸文卷之上  ○ 越後
 八掬脛
越後國風土記曰。美麻紀 [ミマキ] 天皇ノ御世。越ノ國ニ有人名八掬脛 [ヤツカハギ] ト。〔其脛ノ長サ八掬アリ。多力 [チカラ] 太强 [イトツヨ] シ。是ハ出雲 [ツチクモ] 之後也。〕 其屬類多シ。〔釋日本紀述義第六〕
(頭注 ○ 出、恐土訛)
〔『纂訂 古風土記逸文』 (p. 56)

◉ さて『大系本 風土記』の「解説」によると、

風土記の近世的研究は栗田寛博士の標注古風土記明治三十二年刊・纂訂 古風土記逸文明治三十一年刊・古風土記逸文考証没後明治三十六年刊によって一応集大成せられた(以上栗注)
〔日本古典文学大系 2『風土記』 (p. 24)

とあり、「栗注」の示すところはさいわいにも「国立国会図書館デジタルライブラリー」〔古風土記逸文 上〕で閲覧することができる。
( URL : http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/993824/45 )

 栗田寬博士による『纂訂古風土記逸文』では、本文中に「其脛ノ長サ八掬アリ。多力 [チカラ] 太强 [イトツヨ] シ。是ハ出雲 [ツチクモ] 之後也。」と記述された上で欄外に「出、恐土訛」と注され、正当にも、この時点で本文が改竄されることはなかった。
 しかしながら栗田寬博士の指摘を受けた後学の研究者により、その本文は「其脛長八掬 多力太强 是土雲之後也」と〝訂正〟されてしまっている。これは果たして、写本の本文を元々記述されていたものに〝正した〟という研究の成果なのであろうか。疑問が残る。

 ここでは、最後に次の文献を参照して終わるが、末尾にリンクしたサイトでは、その他の各種資料を示したうえで若干の考察を加えた。

『神道大系』古典註釋編五「釋日本紀」

 〔小野田光雄/校注〕

解 題
 (pp. 33-34)
   ㈢ 前田本釈日本紀
 前田育徳会所蔵正安三年~四年書写の釈日本紀は、国の重要文化財に指定されており、披見を自由にすることはできない。幸いに、昭和五十年、二色刷りコロタイプ印刷の影印本が出版され、これには前田育徳会常務理事太田晶二郎氏の万全の「解説 附 引書索引」が付されているので、前田本の書誌は遺憾なく理解することができる。

凡 例
 (p. 85)
一 できるだけ底本に近い形の、通読できる活字本を作ることを目標とした。
二 底本。前田育徳会所蔵の「釈日本紀」を底本とする。しかし本書は、直接に原本に拠ったのではなく、前田育徳会尊経閣文庫編刊の写真影印本『釈日本紀』を座右にし、不審の箇所は原本と対照した。前田本釈日本紀は、現伝釈日本紀諸本の源流とされている。

釋日本紀卷第十 述義六
 (p. 251)
・以七掬脛爲膳夫
越後國風土記曰。美麻紀天皇御世、越國有人。名八掬脛。〔其脛長八掬。多力太强。是出雲之後也。〕 其屬類多。
兼方案之、七掬脛者、其脛長七掬。仍爲名歟。

 (p. 260)
校注「是出46雲之後也
46 出。板本も同じ。大永本の校異はない。狩谷說「出、疑土字」。栗田寬說「出、恐土訛」。植木直一郎、秋本吉郎等「土」に改める。
〔以上『神道大系』古典註釋編五「釋日本紀」より〕

◉ 原典をひもとく過程では寡聞にしてついに「越後国風土記逸文」に〈土雲〉の文字は見られなかった。
――案ずるに、いわゆる大和朝廷に最後まで抵抗した〈まつろはぬ〉勢力を「出雲=土雲」と現代の研究者がみなしたということなのだろう。

 古代の出雲と高志(越)の国とは文化的な交流があったことは「出雲国風土記」から読み取ることができた。

 すなわち、中央に敵対する一大勢力の象徴が、いわゆる《出雲》であり《高志》であったのだろうから、このことにより高志の国の風土記の記述に対しては、現代の研究者にとっては「出雲」と「土雲」が完全に同じ意味をなしたので、誰にでも容易な理解が得られるようにと意味の通じやすい文字に〝改訂〟したのだろう。と、以上のような推論は可能なのだが……。


Google サイト で、本日、もう少し詳しい内容のものを公開しました。

八束脛(八掬脛)
https://sites.google.com/view/theendoftakechan/worochi/yatsukahagi

バックアップ・ページでは、パソコン用に見た目のわかりやすいレイアウトを工夫しています。

八束脛(八掬脛) バックアップ・ページ
http://theendoftakechan.web.fc2.com/eII/tsurugi/yatsukahagi.html

2018年10月13日土曜日

火の神カグツチ

◉ 今回参照した原典として「勝見名跡誌 巻之五」の文章をまずここに採録する。
(※ 上野忠親/著『勝見名跡誌』宝暦二年 (1752) 成立)

「勝見名跡誌 巻之五」

思ふに大山の智明権現といふは其実は火神軻遇突智[ほのかみかくつち]命を祭也 故に大山を上古には火神の岳[みたけ]と称したる也事は出雲風土記に見えたり 火生土とて火より土を生す 火は土の母にて土は火の子なり 故に 神代巻にも 斬軻遇突智爲三段其一段爲雷神一段爲大山祗神一段是爲髙龗 としるせり 垂加の龍雷の秘傳といふも此本文よりや見出されけん 本は吉田より出たる口訣なりとも云り 是を以て當山には火土の二神を合祭して智明大明神といふ 智明は火土に属せる言なり 當山を角磐山大山寺といふ 角磐の山号は軻遇突智の神名より出 大山は大山祗の字を拊[つけ]て寺号とするならん 大山祗は土の神なれは地蔵菩薩を習合して智明権現と称すると見えたり 素戔鳴尊は根國にまします時は金の德の御神なり 根國より出現して牛頭天王と称し奉るときは木德の神なり 故に御本地を東方薬師如来と習合する也 しかれは大山の土の神をは鷲峰の木德たる武素戔鳴尊より木尅土と尅する故に 中わろし共いひ 神軍に勝たまふといひ 大石を授たまふも金德の金を捨たまふ表示にして是すなはち祓除なるへし やまひをはらふとの御神詠も思ひ合すへし かゝる様なる子細ありて郷語にてあるなるへし
(原文の「カタカナ」は「ひらかな」で表記した)
〔「勝見名跡誌 巻之五」の「河内村 村髙二百一石余」の直前の 2 ページ〕
※ 鳥取県立図書館蔵『勝見名跡誌 五』(旧鳥取県所蔵の『勝見名跡誌 五』原書墨書のコピー版)

◎ 引用文中是を以て當山には火土の二神を合祭して智明大明神といふと記述した個所は、原文では是ヲ以テ當山ニハ火五ノ二神ヲ合祭シテ智明大明神トイフと読めるが、「(もしくは )」は、
 東京大学史料編纂所 所蔵の「勝見名跡誌」の公開資料
 (https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/400/4141.72/5/5/00000078?m=limit&n=20)
で確認した結果「(丑)→ 」と改めた。

東京大学史料編纂所 | Historiographical Institute The University of Tokyo
URL : https://www.hi.u-tokyo.ac.jp/index-j.html
【データベース選択画面】 : https://wwwap.hi.u-tokyo.ac.jp/ships/

※ 上野忠親の「勝見名跡誌 巻之五」〔鳥取県立図書館所蔵の写本〕が引用して神代巻ニモ 斬軻遇突智爲三段其一段爲雷神一段爲大山祗神一段是爲髙龗 トシルセリと記述している箇所の漢文は、ここでは白文(はくぶん)で写したが、これは日本書紀「神代上 第五段 一書〔第七〕」に書かれているもので、訓みを『大系本 日本書紀 上』〔日本古典文学大系 67『日本書紀 上』昭和42年03月31日 岩波書店刊〕から参照すれば、軻遇突智を斬りて、三段に爲す。其の一段は是雷神と爲る。一段は是大山祇神と爲る。一段は是高龗と爲る。である。

◎ なぜこの文章を調べここに採録したかというと、以前に荻原直正氏による「宝暦のむかし上野忠親の記すところによれば」という記述の根拠(つまりは原典となる文献)がわからなかったためだ。きっかけとなったその一文は次のとおりである。

『因伯郷土史考』

 大神山神社はいま大己貴神を祀っているが、宝曆のむかし上野忠親の記すところによれば、此の山の祭神は迦具土の神で、迦具を角、土をハニと読んでハンとはねると盤になる。大山の別名を角盤山と呼ぶのは理由のあることだという。
〔荻原直正/著『因伯郷土史考』「山の名前」昭和36年01月20日 鳥取週報社刊 (p. 187)

大神山神社 と 迦具土の神


◉ 今回確認できた個所で、上野忠親はスサノヲを根國より出現して牛頭天王と称し奉るときは木德の神なりと説明しているけれど、スサノヲに「牛頭天王」の名称があるのは、日本書紀(神代上 第八段一書〔第四、第五〕)の新羅に関係する神だという記述が前提となっている。加えて、備後国風土記逸文に〝蘇民将来の物語〟があり、それが「祇園牛頭天王縁起」の根本縁起だと解釈されてきた歴史がある。

 このあたりが詳しく解説された文献に『神社の歴史的研究』〔西田長男/著、昭和 41 年、塙書房刊〕に収録された「『祇園牛頭天王縁起』の成立」〔民衆宗教史叢書 第五巻『御霊信仰』所収、柴田實/編、昭和 59 年、雄山閣出版刊〕がある。
 また「祇園牛頭天王縁起」は、『続群書類従』第三輯上 神祇部〔塙保己一/編纂(太田藤四郎/補)、昭和 61 年訂正三版第六刷、続群書類従完成会刊〕所収の、續群書類從卷第五十五「祇園牛頭天王緣起」に原典がある。

 ところでソシモリ曽尸茂梨)は日本書紀に記されたスサノヲに関係する地名で、曾尸茂梨は語源的には新羅と同語となるという解釈が『大系本 日本書紀 上』で紹介されていた。また、かつては「牛頭」と「ソシモリ」が関連づけられたこともあった、という先人の解説を以前に参照したことがある。

 ○ 別の論稿に、その関連づけが述べられていたので、ここに参照しておこう。

『キトラ古墳とその時代』

 『日本書紀』神代第四の一書には、スサノオノミコトが子の五十猛神[イソタケルノカミ]をつれて新羅の国に降りて「曾尸茂利[そしもり]」にいます、とある。ここにみえるソシモリとは、朝鮮語の 소머리 ソモリ のことでソ(牛)のモリ(頭)、即ち牛頭の意味である。牛頭[ごず]といえば、朝鮮各地に見える古地名が想起されるが、江原道春川の牛頭が最古例として著名である。スサノオは新羅と親縁関係にある神として常に牛頭天王と同一視されて奉じられている。
〔全浩天/著『キトラ古墳とその時代』2001年04月15日 未來社刊 (p. 192)

 ○ イソタケルについては、「釈日本紀」で〈伊太祁曾神(イタキソノカミ)〉に同一だという説が示されており、江戸中期の新井白石も同様に語る。

釋日本紀卷第七

五十猛命。
神名帳曰。紀伊國名草郡伊大祁曾神社。……
舊事本紀曰。五十猛握神。(亦云大屋彥神。)……
先師說曰。伊太祁曾神者。五十猛神也。
〔黑坂勝美/編輯 新訂增補『國史大系』 第八巻 平成11年07月20日新装版 吉川弘文館刊 (p. 109)

古史通卷之二

神名式紀伊國名草郡伊太祁曾[イタキソ]神社大屋都比賣[オホヤツヒメ]神社都麻都比賣[ツマツヒメ]神社共に名神大社と見へたり舊說に其伊太祁曾[イタキソ]は五十猛神也といふ
繹日本紀 ○ 按ずるに五十猛讀でイタケといふべし神名式出雲國の韓國伊太氐[カラクニイタテ]神社紀伊國の伊太祁曾[イタキソ]神社並に皆此神を祭れる也 イタケ。イタテ。イタキ。皆是一聲の轉ぜし也。
〔今泉定介/編輯兼校訂・吉川半七/発行『新井白石全集 第三』明治39年01月25日 (p. 252)

 ○ ここで「カグツチ」の「カグ」は「カグヤヒメ」の「カグ」に通じるという解説を参照しておこう。

『竹取物語評解』〔増訂版〕

解題 二 竹取物語の成立
 更に山田孝雄博士が近年「かぐや姫」を「かくや姫」と清音に読むことを主張された。主として中世以降の海道記以下の文献に赫奕、赫屋、赫映など「カク」の音の漢字を用い、また古写本や古版本の仮名書にも「ぐ」とするのがない事実による(昭和校註竹取物語)。これに対して塚原鉄雄氏は古事記に讃岐氏と深い関係にある迦具夜比売命があり、その「かぐ」の意は、かぐの木の実、香具山、かぐはし、火の神の軻遇突智、光を意味するかげなど関係ある、光り輝く意味をもつ語で濁音であったと説かれた(解釈二の二)。私も全く同感で、恐らく、かぐや姫と伝承されていたのを記録する折、「赫奕」「赫映」などと、中国で光明のかがやく貌をいう語として古くから熟用していた漢字に宛てたため、その漢字にひかされてカクヤと読むようになった。つまり変体漢文化されたためにあらわれた現象で、伝承上にはやはりカグヤとして伝っており、後世復活したものではなかったかと思っている。

評解 一 かぐや姫のおひたち
 三、翁竹を取る事[語釈・語法]
 ○ なよ竹のかぐや姬 ―「なよ竹」は撓[たわ]み寄るような柔い竹で、女竹とも言われる。姫の柔軟性とその生れとを示している語。…………「かぐや姫」という名は歴史上に見られ、開化天皇の御孫に讃岐垂根王[さぬきのたりねのみこ]が居られ、その垂根王[たりねみこ]の女に迦具夜比売[かぐやひめ]が見え、垂仁天皇と結婚されている。「讃岐」と言い、姫の名と言い、何か竹取物語と関連があるように思われる。その他遙か後世の大鏡によると、小野の宮の大臣実頼の女に、「かぐや姫」がいる。恐らく「かぐや姫」という名は天照大神[あまてらすおおみかみ]、光明皇后、衣通姫[そとおりひめ]、源氏物語の光君の如く、光る美によって美の円満具足を表現しているものと思われる。「かぐ」は古事記に「火之炫毘古[かがびこ]神」「火之迦具[かぐ]土神(ツチのツはノ、チは男称)」とある「カガ」「カグ」と同じく、光り輝く貌というのであろう。なお「輝」は古く清音でカカヤクであり、姫の名も「かくや姫」が正しいという説がある。(「解説」参照)
〔三谷栄一/著『竹取物語評解』〔増訂版〕1988年09月10日 有精堂出版刊 (p. 103, p. 125)

 ○ 次に「カグツチ」ではないが「カグヤマ」の「カグ」が「」の文字で表現されることについての資料を参照したい。

日本古典文学大系 4『萬葉集一』

  中大兄 [なかつおほえ]〔近江宮御宇天皇〕 三山歌
13
高山波 雲根火雄男志等 耳梨与 相諍競伎 神代從 如此尒有良之 古昔母 然尒有許曾 虚蟬毛 嬬乎 相挌良思吉

  中大兄〔近江宮に天の下知らしめしし天皇〕 の三山の歌
香具山は 畝火雄々しと 耳梨と 相あらそひき 神代より 斯くにあるらし 古昔も 然にあれこそ うつせみも 嬬を あらそふらしき
(かぐやまは うねびををしと みみなしと あひあらそひき かみよより かくにあるらし いにしへも しかにあれこそ うつせみも つまを あらそふらしき)

香具山 高をカグと訓む。➝補注。
畝火 畝傍山。奈良県高市郡畝傍町(現在、橿原市)。
雄々しと 男らしく立派だと感じて。
耳梨 耳梨山。奈良県磯城郡耳成村(現在、橿原市)。
相あらそひき 互に競争した。香具山と耳梨山とは共に女性の山と認められる。
然にあれこそ そうであるからこそ。
うつせみ 現世。
〔大意〕香具山は畝火山を男らしく立派だと感じて、その愛を得ようと耳梨山と競争した。神代からこうであるらしい。昔もこのようであったからこそ、現世でも一人の愛を二人で争うことがあるものらしい。○ 畝火山を女性、他の二山を男性と見て、ヲヲシを「を愛(を)し」と解する説もある。
補 注
 香具山  原文の高の字音はカウであるから、カグの音にあてて用いるはずはない、従ってタカヤマと訓むべきであるという論がある。しかしカウは呉音以後の音であって、漢魏の音は別である。董同龢氏の「上古音韵表稿」(歴史語言研究所集刊第十八本)(一九四八年)によれば、高は上古音の宵部に属し、kɔg の音と推定される。従って、カグの音にあてて用いることは、十分考えうることである。孝徳紀の猪名公高見、天武紀の韋那公高見について、威奈大村の墓誌銘に、卿諱ハ大村、檜ノ前五百野ノ宮御宇天皇之四世、後ノ岡本ノ聖朝、紫冠威奈ノ鏡ノ公之第三子也」とあるのを見れば、高見は鏡にあたる。すなわち、ここにも高をカガにあてた例がある。呉音カウは kɔg の g が u に転じて成立した音で、上古音の韻尾の g が中古音において u に転じる例は少なくないのである。
〔日本古典文学大系 4『萬葉集一』1957年05月06日 岩波書店刊 (pp. 16-17, p. 327)

―― 現実として 万葉集の時代に「高山」は「香具山」の表記として用いられた ――


◉ またいつの頃か「高見」は「鏡」と訓まれた。


◎ 火の神カグツチは、日本書紀でホムスヒ「火產靈(火産霊)」とも書かれている。
 古事記でワクムスヒ「和久產巢日神(和久産巣日神)」は、イザナミの「尿に成れる神の名」であり、その神の子は伊勢外宮の祭神トヨウケビメ「豐宇氣毘賣神(豊宇気毘売神)」となっている。
 ワクムスヒは日本書紀では「稚產靈(稚産霊)」と表記され、火の神カグツチ「軻遇突智(軻遇突智)」と土の神ハニヤマビメ「埴山姬(埴山姫)」の子で「軻遇突智、埴山姬を娶きて、稚產靈を生む。此の神の頭の上に、蠶と桑と生れり。臍の中に五穀生れり。」〔 神代上 第五段一書〔第二〕〕とある。
 ムスヒの神は、タカミムスヒとカミムスヒが有名だけれども、ホムスヒとワクムスヒの系譜もここに語られているのだ。この系譜でイザナミを〝地母神〟と考えれば、山野の大地を焼いて五穀豊穣に至る〝焼畑(やきばた)〟の起こりが連想されよう。また、分断される神〈カグツチ〉が五穀を生む〈ワクムスヒ〉の父である、というのは「ハイヌウェレ型神話」と呼ばれる農業の起源を説明する神話につながる要素ともなる。この神話型については、今後オホゲツヒメが登場したときに詳しく参照する予定だ。

豐宇氣毘賣神(とようけびめのかみ)


「豊は美称、宇気は食物の意で、食物を掌る女神。伊勢の外宮の祭神である。」
『大系本 古事記』頭注 (p.60) より

 伊勢神宮の「建久三年皇太神宮年中行事」〈矢乃波波木(やのははき)〉の神があり、

「宮北矢野波々木ノ御前ニ各二筋。豐受宮ヲ奉祝石疊ニ二筋。」
「至于其外別宮並宮 比矢乃波波木御料者。彼祭ノ間ハ奉納外幣殿也。」

などと書き記されている。〔『続群書類従 第一輯上』(p. 364, 444) 〕

 〈波波木神〉は辰巳(南東)の方角を守護するので、一説に、〈伯伎国〉〔伯耆国(ははきのくに)〕に関係するという。ハハキについては、あらためて検討してみたい。

Google サイト で、本日「鳥取県立図書館所蔵『勝見名跡誌 五』」の 2 ページ分の画像を追加した、もう少し詳しい内容のものを公開しました。

火の神カグツチ
https://sites.google.com/view/theendoftakechan/worochi/hinokami

サブページ「火産霊 / 稚産霊(火の神カグツチ)」
https://sites.google.com/view/theendoftakechan/worochi/hinokami/kagutsuchi

バックアップ・ページでは、見た目のわかりやすいレイアウトを工夫しています。

火の神カグツチ バックアップ・ページ
http://theendoftakechan.web.fc2.com/eII/tsurugi/hinokami.html

2018年9月30日日曜日

〈印賀鋼〉最終伝説 / 因伯刀匠伝

嘉仁(よしひと)皇太子「山陰道行啓」のこと

前回の記述の関連事項を再掲する

◎ 鳥取県の記録によると 12 代鳥取県知事(明治 39 年~明治 41 年)に「山田新一郎」の名がある。

 氏が鳥取県知事を拝命した翌年の明治 40 年 5 月には、当時は皇太子であったのちの大正天皇が、山陰鉄道の開通記念に〝風土記の時代には夜見島であった〟境港から上陸して鳥取県に来訪、米子・倉吉・鳥取に宿泊しつつ、鳥取県を東西に往復する鉄道の旅程を無事に終えて、その後、出雲大社のある島根県を訪問している。
 旅の途中鳥取市に宿泊した折には、〈印賀鋼〉を鉄材として、刀工日置兼次による刀鍛冶の実演が、皇太子の前で披露された。その刀剣の銘は「明治四十年五月吉日久松山麓に於て兼次作」と切られたと記録されている〔『山陰道行啓録』「鳥取縣」(p. 74) 参照(国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧可能)〕。

〖 ※ 日置兼次は、20 年前の明治 20 年 2 月 28 日、伊勢神宮の宝剣鍛造のために通勤していた靖国神社の鍛錬場にて鍛えた八寸五分の短刀一口「因幡兼光十二代日置兼次作」を皇太子(当時数え年九歳)に奉献した刀工である。〗

◎ ところで、かつて判明したところによれば、「米子製鋼所の鋼は、少なくとも明治 41 年から大阪造幣局の貨幣極印用として買上げられてきた」のだった〔〈印賀鋼〉最強伝説 のページ 参照〕。

―― そのような記録をたどれば、山田新一郎氏が鳥取県知事の職にあった時期はちょうど、鉄製品で、鳥取県の技術が日本一になる出来事が進行していたという、時代の流れを捉えることもできよう。

仁風閣の名称は皇太子に随行していた東郷平八郎によって命名された。余話として、現在は国の重要文化財となっている仁風閣の敷地内で、映画「るろうに剣心」の戦闘シーンを伴う撮影が 2011 年 9 月に行なわれた。


 さて、以上の情報をもとに前回からの一週間でいろいろと調べてみた。
―― 刀匠日置兼次が歿する三年前、当時は皇太子であった大正天皇の御前鍛冶を務めた経緯を、今回は少々物語風に書き記してみたい。

因幡刀工・日置兼次 刀剣鍛錬を披露のこと


 明治 40 年 (1907) の 5 月、嘉仁皇太子は山陰道行啓(さんいんどうぎょうけい)に際し、鳥取市にも数日滞在した。
 当初は池田家の別邸として「扇御殿」の跡地に計画されていた、宿泊先の「扇邸」は、鳥取城趾の石垣がいまも残る久松山(きゅうしょうざん)の麓、城と鳥取の城下町とを区分する〝お堀〟の内側 ―― 山側 ―― に位置し、宿舎として使用される直前の明治 40 年 5 月 11 日頃に竣工した。
 現在は鳥取県立博物館の建つ敷地部分は、扇邸の果樹園だったという。扇邸の仁風閣(じんぷうかく)が皇太子の宿とされた。前回に記した文中にもあるが「仁風閣」の名は東郷平八郎による。

 ○  2004 年に仁風閣から発行された資料『仁風閣の周辺』(p. 10) では、

 東郷は行啓の随行で鳥取に滞在中、高等小学校と樗谿の招魂社に松を手植えしています。また仁風閣には池田侯爵の依頼により揮毫・命名された「仁風閣」の直筆が今も 2 階ロビーに残されています。

と記されている。
―― 1907 年 5 月 20 日、扇邸の庭に設けられた鍛冶場に、刀工として日置兼次が参上した。

 ○ 明治 40 年に刀剣鍛錬が〔その 5 年後に天皇となる〕皇太子の前で実演された詳細な記録がある。

『紀念 山陰道行啓録』明治40年09月12日刊

刀鍛冶御覽

二十日午後二時半扇邸内に散歩松の御手植ありたる後本縣名譽の刀工日置兼次氏の刀劍鍛錬の事ありたり  殿下には扇邸内御山屋敷にて御覽あらせられたるが鐵材は伯耆國印賀鋼を以し鍛錬半にして水に漬し冷却せしめたる後之を叩き割りて鋼の目合せを驗し上中下の三に別ち上を皮金と爲し中を峰金となし下は等分に鐵を合せて眞金と爲し更に鍛錬前後九度に及びかくて京都稻荷山の土肥後天草の石因幡の堅炭を細末となして等分に混じ之を水に錬りたるものにて刀身を塗り再び火中にて熱し更に水に漬し此の如くして燒刄を入れ後研砥にて研ぎ峰に赤金を噛まし反を附けて最後に「明治四十年五月吉日久松山麓に於て兼次作」と銘を切り全く終へたるは午後三時五十分  殿下は終始熱心に御覽ありたりと承る兼次氏の名譽も大なりと謂ふべし
因に日置兼次氏は仁平と稱し先代は兼先と稱して鳥取藩の刀工なり仁平氏幼より父に學ひ長じて長船に到り後江戸に技を研きぬ廢藩後舊里に居りしが先年陛下の伊勢大廟に納劍あるに際し倉吉の宮本包則氏と共に召されたるなり當年六十八歳の老體なり鍛劍御覽の向ふ槌を打ちしは左の四名なりし
福嶋伊平賢路△同人門人林芳造△籔片原町植村榮治△同人忰秀雄
〔角金次郎/編輯『紀念 山陰道行啓録』「鳥取縣」 (p. 74)

―― 嘉仁皇太子の御前で「鉄材は伯耆国印賀鋼」と明記された玉鋼を用いて、因幡国を代表する刀匠により日本刀が鍛えられたという記録である。

 日置兼次が「明治四十年五月吉日久松山麓に於て兼次作」と銘を刻んだ〈印賀鋼〉の太刀。
 その行方をさっそく、〝秋分の日〟の休日明けの今週火曜日(2018 年 9 月 25 日)鳥取県庁の受付窓口で訊ねてみたのだけれど、県庁ではこの刀剣の情報を把握していなかったようで、そういうわけで県庁には担当の部署もないらしく ――。
 翌日ふたたび県庁を訪れると、受付の担当者があちこち問い合わせてくださった結果、現在のところ、その銘の刀はどこにあるのかわからないという、返答であった。

 かつて因州刀匠日置兼次が伯州刀匠宮本包則とともに伊勢神宮の宝剣鍛造を行なったのは、明治 40 年 (1907) から遡ること 20 年前の東京、九段靖国神社境内に造営された工場でのことだった。
 明治天皇の第三皇子で、明宮(はるのみや)と呼ばれた嘉仁皇太子は、その明治 20 年に、靖国神社に何度か足を運んでいる。
 ちょうどその年には、鳥取県を代表する二人の刀匠が国から委託されて、前年の 10 月よりおよそ 1 年間の契約で伊勢神宮の宝剣を鍛造していたのだ。その総数、3,800 本あまり。日置兼次の伝記に、その詳細が記録されている。その一部を抜粋すれば、
柳葉鏃及び斧形鏃の合計三千六百九十二本、これに要する鋼の量目二百五十八貫四百四十匁、古鍬が八十八貫六百匁、木炭・七千三百八十四貫、人件三千四百四十人と云う延人員である。
とあって、膨大な事業であることがわかる。

 明治 40 年に鳥取県に提出された日置兼次の履歴書には、
明治十九年五月 内務省造神宮鍛治御用被仰付宮本包則ト共ニ 御太刀六十六口 御鉾四十二本 及御鏃三千八百余本ヲ鍛フ
とあるが、「明治十九年五月」というのは国の命を受けて提出した、最初の見積もりの書類の日付であろう。その見積書に「明治十九年五月十日」と記されている。

 明治 20 年、数え年九歳(満七歳)の明宮が 2 月 28 日、靖国神社の宝剣鍛造を見学した記録は、『大正天皇実録』にも、
就中、二月二十八日には神宮宝剣鍛錬の状を御覧あらせらる。
と記載がある。
 その際、日置兼次と宮本包則の両名は、短刀を奉献している。
 兼次の伝記の記録を見よう。


 この工事半ばの明治二十年春二月二十八日、時の皇太子殿下の行啓があつた。鍛錬方御見学のため靖国神社の鍛錬場へならせられ、包則兼次は謹んで八寸五分の短刀を造り奉献している。これに対して東宮殿下から御沙汰があつた。翌三月十四日のことである。

短刀一口 因幡兼光十二代日置兼次作
 明宮殿下於鍛冶所御覧被遊候一口御伝献相成早速入御覧候処御満足に被思召候因而此段申入候也
  明治二十年三月十四日
明宮御用掛宮中顧問官  土方久元
 高辻宮内書記官殿

 右の文書が土方久元から高辻子爵へ、高辻子爵から兼次へと伝達された。

 短刀一口伝献致候処土方御用掛より別紙被差送且羽織地被下候間則送進候也
  明治二十年三月二十六日
高辻修長(花押)   
   日置兼次殿

 こうして幾多の曲折をへて契約期限の満一ケ年、即ち明治二十年十一月に無事完納している。
〔山本天津也/著『因州刀工 日置兼次の伝記』 1962 年 (pp. 29-30)

The End of Takechan
―― 靖国神社に設けられた鍛錬場で、鳥取県の因幡国と伯耆国をそれぞれ代表する二人の刀匠により大量の刀剣が鍛え上げられたという、国が計画したこの事業は、古事記と日本書紀に残された記録を彷彿とさせるものがある。

◉ 古事記には垂仁天皇の時代に
次印色入日子命者、作血沼池、又作狹山池、又作日下之高津池。」に続いて、
又坐鳥取之河上宮、令作横刀壹仟口、是奉納石上神宮、即坐其宮、定河上部也。」とある。
◉ 日本書紀には垂仁天皇三十九年十月の条に
五十瓊敷命、居於茅渟菟砥川上宮、作劒一千口。因名其劒、謂川上部。」と記され、
藏于石上神宮也。」とするのも、古事記と同じである。

 現在の定説として「鳥取之河上宮」と「菟砥川上宮」は同じ場所を指す。鳥取は和名抄にある「和泉国日根郡鳥取郷」とされており、和名抄原典『倭名類聚鈔(わみょうるいじゅしょう)で、和泉国日根郡に鳥取〔止々利〕」が確認できる。「止々利」の読みは「トトリ」である。

The End of Takechan

宮本包則は 上野公園内美術協会前仮工場で
明治天皇に刀鍛冶を披露している


 ○ 宮本包則は明治 39 年に「帝室技芸員」となっている。草信博氏による解説を参照しよう。

宮本包則の「帝室技芸員」とは戦前迄の制度で、現在は重要無形文化財制度であり、その保持者が所請「人間国宝」である。この帝室技芸員制度は、明治二十三年に日本画・洋画・彫刻等々の他刀工・金工なども選ばれ、刀工では「宮本包則」と「月山貞一」との二名であった。
〔『帝室技芸員 宮本包則刀六十撰』平成08年01月10日 (p. 95)

―― 因幡 山内良千 撰「刀工菅原包則翁傳」に、次の記述がある。

〔明治〕二十四年(一八九一)四月二十日車駕上野公園内美術協会に行幸のとき、同館前仮工場に於て鍛冶術の御覧を給う。因て相州傳、備前傳の焼刀法を短刀に施し、又、特に叡旨を奉じ長さ二尺三寸の太刀の焼刀をも作る。即日金五円の恩賞あり。翁時に年六十二、真に古来未曽有の光栄と謂う可し。
〔みささ美術館/編集・発行『宮本包則刀剣展』昭和六十一年七月二十七日~八月十日 (p. 5)

 宮本包則の年譜には伊勢神宮の宝剣鍛造にかかわる記事が、明治元年 (1868) および明治 19 年と、明治 21 年・明治 39 年に見える。そして宮本包則は明治 39 年に「帝室技芸員」となった。

 いっぽう、明治 40 年の御前鍛冶の翌年のこと、日置兼次のほうは鳥取に帰省した記録がある。
 これも伝記から引用しよう。

 兼次は明治四十一年鳥取に墓参帰省している。当時の模様を兼次の四女太田垣よね氏は語られたが、元気であったらまた来るから、と東京に帰って行ったが、これが兼次の最後の郷里訪問であった。明治四十三年二月八日、東京下谷二長町の宗伯爵邸において波乱の生涯を終った。享年七十一才である。
〔『因州刀工 日置兼次の伝記』 (p. 61)

◎ 大正天皇は即位以前に、日置兼次の刀鍛冶を二度観覧したということになろう。数え年 9 歳の明治 20 年 2 月には東京の靖国神社で。明治 40 年 5 月には皇太子として行啓した先の鳥取市久松山麓扇邸の屋敷で。
 20 年の歳月を経て青年になった嘉仁皇太子は、老齢の刀匠日置兼次の面影に何かを見たのか?

 明治 40 年 5 月に鳥取城の山麓で鍛造された〈印賀鋼〉の太刀がある。
 その行方は、杳(よう)として知れない ―― 。


Google サイト で、本日「仁風閣・鳥取駅」の位置情報を含む地図を追加した、もう少し詳しい内容のものを公開しました。

〈印賀鋼〉最強伝説 / 因幡・刀匠伝
https://sites.google.com/view/emergence-ii/home/inaba

バックアップ・ページでは、パソコン用に見た目のわかりやすいレイアウトを工夫しています。

〈印賀鋼〉最強伝説 / 因幡・刀匠伝 バックアップ・ページ
http://theendoftakechan.web.fc2.com/eII/tsurugi/inaba.html

2018年9月23日日曜日

トリカミの峰 / ヒノカハの上

―― 古事記に、

出雲國之肥河上、名鳥髮地。

日本書紀には新羅の国を経由して、

是時、素戔嗚尊、帥其子五十猛神、降到於新羅國、居曾尸茂梨之處。乃興言曰、此地吾不欲居、遂以埴土作舟、乘之東渡、到出雲國簸川上所在、鳥上之峯。

と、書かれた「鳥上之峯(鳥上の峰)」は、そのあとに成立した出雲国風土記では「鳥上山」と記録されている。
 現在の地名で、鳥上山は「船通山(せんつうざん)」と呼ばれる。神話によると新羅からの渡航に際し、スサノヲが乗ってきたのは土で作った舟なので、だからこそ、尋常ではない威力で苦もなく山にまで登るのだろう。

越の国のこと


 出雲国風土記の冒頭に描かれた〝国引き神話〟には「高志」の名が書き留められていた〔日本古典文学大系『風土記』「出雲國風土記 意宇郡」(pp. 100-103) 参照〕。それによれば、美保関はもともと北陸地方の一部だった。続いて「意宇郡 母理郷」の条には〈越八口〉を平定した説話がありその直後に〝国譲り〟の記録が続いている。出雲国風土記に残された「越(高志・古志)」に関する記述は数多い。―― 加えて、これはあとで松前健氏の著書からの引用文にも出てくるけれど、〈クシイナダ〉の名をもつ姫も「飯石郡 熊谷郷」の条に登場する。

 ○ 出雲国風土記では最初に〈志羅紀〉すなわち新羅がやってくる。「鳥上山」の記述は仁多郡にある。

日本古典文学大系『風土記』「出雲國風土記」

 意宇郡
[原文] 所以號意宇者 國引坐八束水臣津野命詔 八雲立出雲國者 狹布之稚國在哉 初國小所作 故將作縫詔而 栲衾志羅紀乃三埼矣 國之餘有耶見者 國之餘有詔而 童女胸鉏所取而 大魚之支太衝別而 波多須々支穗振別而 三身之綱打挂而 霜黑葛闇々耶々爾 河船之毛々曾々呂々爾 國々來々引來縫國者 自去豆乃折絶而 八穗爾支豆支乃御埼 以此而 堅立加志者 石見國與出雲國之堺有 名佐比賣山是也
[訓み下し文] 意宇と號くる所以は、國引きましし八束水臣津野命、詔りたまひしく、「八雲立つ出雲の國は、狹布の稚國なるかも。初國小さく作らせり。故、作り縫はな」と詔りたまひて、「栲衾、志羅紀の三埼を、國の餘ありやと見れば、國の餘あり」と詔りたまひて、童女の胸鉏取らして、大魚のきだ衝き別けて、はたすすき穗振り別けて、三身の綱うち挂けて、霜黑葛くるやくるやに、河船のもそろもそろに、國來々々と引き來縫へる國は、去豆の折絶より、八穗爾支豆支の御埼なり。此くて、堅め立てし加志は、石見の國と出雲の國との堺なる、名は佐比賣山、是なり。
(おうとなづくるゆゑは、くにひきまししやつかみづおみつののみこと、のりたまひしく、「やくもたついづものくには、さののわかくになるかも。はつくにちさくつくらせり。かれ、つくりぬはな」とのりたまひて、「たくぶすま、しらぎのみさきを、くにのあまりありやとみれば、くにのあまりあり」とのりたまひて、をとめのむなすきとらして、おふをのきだつきわけて、はたすすきほふりわけて、みつみのつなうちかけて、しもつづらくるやくるやに、かはふねのもそろもそろに、くにこくにことひききぬへるくには、こづのをりたえより、やほにきづきのみさきなり。かくて、かためたてしかしは、いはみのくにといづものくにとのさかひなる、なはさひめやま、これなり。)

 仁多郡
[原文] 鳥上山 郡家東南卅五里 〔伯耆與出雲之堺 有鹽味葛〕
(頭注)
鳥上山 船通山(一一四二米)。鳥上村の南境にある。
[訓み下し文] 鳥上山 郡家の東南のかた卅五里なり。〔伯耆と出雲との堺なり。鹽味葛あり。〕
(とりかみやま こほりのみやけのたつみのかた35さとなり。〔ははきといづもとのさかひなり。えびかづらあり。〕)
〔日本古典文学大系『風土記』「出雲國風土記」 (pp. 98-101, pp. 228-229)

境界線の向こう側


 さて、記紀(古事記と日本書紀)の出雲神話は、〝スサノヲの〈鳥上之峯〉降臨〟に始まるといっていいだろうが、その記述内容は、出雲国風土記の記録と大きく異なる。
 それゆえに「出雲神話」を出雲国風土記の神話に限定し、記紀の神話を「いわゆる出雲神話」と、区別して取り扱う必要性も出てくるという。

 スサノヲが降り立った土地は、古事記では「出雲國之肥河上、名鳥髮地。」と表現され、日本書紀では「出雲國簸川上所在、鳥上之峯。」であった。
 川上(かはかみ)は、すなわち川の上であり、〝川の上〟は〝かはのへ〟と読める。「へ」を古語辞典で調べると、「上」を筆頭に「辺・瓮・家・戸・舳・艏・綜・言」という漢字が続く。どうやら「へ」という発音のイメージは古来、〝舟の舳先(へさき)〟のような「先端部のライン」を基本としているようなのだ。

 ○ 川の上(川上)とは、古代に何を意味していたのか。

『谷蟆考 ―― 古代人と自然』 〔『中西進 日本文化をよむ 三』所収〕
川をさかのぼる 〔初出:「ヤママユ」昭和五十五年八月〕

 川をさかのぼると異界に出る。時として、そこからは姿をかえた異類の者が下界に流れくだってきて、川下の人間との間に異類結婚が行なわれた。―― そう語るのが古代人であり、この川をめぐる観想は十分に幻想的で美しかったろう。ロマンにみちてもいるが、しかし異類との相婚を畏れる心情も一方にあった。……
〔『中西進 日本文化をよむ 三』 (p. 245)

 ○ 肥後和男氏の〈ヤマタノヲロチ〉論を参照しよう。

日本歴史新書『神話時代』「五 八岐の大蛇」

 この話は昔は有名なものでしたが、今はどうでしょうか。神話が作り話だということを誰もが知るようになった今日では、誰も驚きませんが、昔の学者はこの解釈に苦労したものでした。
………………
 明治以後の学者はこれが神話であることを知りましたが、さてこれを何と解釈するか、学説も出ない中に山田新一郎氏が、八岐大蛇は出雲の鉄山族であるという白石流の見解を提供しました。この人は島根県知事をし、後に北野神社の宮司になった人ですが、あの地方が砂鉄の産地であるところから思いついたもので、私もその人にあったこともありますが得意の説でした。こうした白石流の考え方はもとより学界に受け入れられず、研究はそれと別の方向に発展しました。津田左右吉博士が「神代史の研究」の中で「其の最も古い意味は恐らく地の精霊たる蛇と処女との結合から生ずる生殖作用によって穀物の豊饒を促す呪術であったらしく、此の物語に於いて処女の名がイナダヒメとなってゐることも、其の思想の痕跡として見るべきものではあるまいか。毎年蛇が処女をとりに来るというのも、年々の呪術に基づいた話だとすれば、よく了解せられよう」とのべられたのはまことに卓見でした。たしかにこれはそうした呪術から形成された話にちがいありません。
〔日本歴史新書『神話時代』 (p. 156, pp. 157-158)

皇太子の「山陰道行啓」のこと


◎ 引用文中に山田新一郎氏が「島根県知事」をしたという記述があるが、鳥取県の記録によると 12 代鳥取県知事(明治 39 年~明治 41 年)に「山田新一郎」の名がある。
 氏が鳥取県知事を拝命した翌年の明治 40 年 5 月には、当時は皇太子であったのちの大正天皇が、山陰鉄道の開通記念に〝風土記の時代には夜見島であった〟境港から上陸して鳥取県に来訪、米子・倉吉・鳥取に宿泊しつつ、鳥取県を東西に往復する鉄道の旅程を無事に終えて、その後、出雲大社のある島根県を訪問している。
 旅の途中鳥取市に宿泊した折には、〈印賀鋼〉を鉄材として、刀工日置兼次による刀鍛冶の実演が、皇太子の前で披露された。その刀剣の銘は「明治四十年五月吉日久松山麓に於て兼次作」と切られたと記録されている〔『山陰道行啓錄』「鳥取縣」(p. 74) 参照(国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧可能)〕。

〖 ※ 日置兼次は、20 年前の明治 20 年 2 月 28 日、伊勢神宮の宝剣鍛造のために通勤していた靖国神社の鍛錬場にて鍛えた八寸五分の短刀一口「因幡兼光十二代日置兼次作」を皇太子(当時数え年九歳)に奉献した刀工である。〗

◎ ところで、かつて判明したところによれば、「米子製鋼所の鋼は、少なくとも明治 41 年から大阪造幣局の貨幣極印用として買上げられてきた」のだった〔〈印賀鋼〉最強伝説 のページ 参照〕。

―― そのような記録をたどれば、山田新一郎氏が鳥取県知事の職にあった時期はちょうど、鉄製品で、鳥取県の技術が日本一になる出来事が進行していたという、時代の流れを捉えることもできよう。

 ○ 『日本の歴代知事』には、その任期は「明治三十九年(一九〇六)七月二十八日~四十一年三月二十七日」(1906.07.28 ~ 1908.03.27) と記録されている。評価はどのようであったのか、一部を抜粋する。

『日本の歴代知事』より

 山田知事は四十一年三月の地方官更迭で休職になったが、一年七カ月の在任中、境・賀露両港をはじめ県下各港湾の浚渫、農業試験場における採種試験などを行い、高く評価されている。
 さて、明治四十年になると山陰線上井-鳥取間が開通、鳥取地方の交通事情が一変してしまった。この交通の変化は経済、文化にも影響を与え、電灯、電話もこの年に開通したのである。この恩恵をこうむることになる鳥取市民の喜びようは、熱狂的と形容するのにふさわしいものだったといわれる。
〔『日本の歴代知事』 第三巻(上)(p. 149)

◎ 明治 40 年には、山陰鉄道の「上井-鳥取間(倉吉-鳥取間)」が開通した。そうでなければ、その年に皇太子は、米子から東進して、鳥取までの山陰鉄道の旅程を完遂することができなかったはずだ。しかしながら、場合によって「倉吉-鳥取間」の鉄道の開通は明治 41 年と記録されている。
―― このことについて調べてみると、皇太子が「鳥取」で下車したのは、「古海(ふるみ)」に設けられた臨時の停車場で、それは「千代川(せんだいがわ)」の西岸にあった。現在の「鳥取駅」は、そこから千代川を東に渡った先にある。ようするに明治 40 年の皇太子行啓には千代川を渡る鉄橋の完成が間に合わなかったのだ。
 鳥取県庁や鳥取城跡のある久松山(きゅうしょうざん)〔敷地内の屋敷で刀鍛冶が披露された皇太子の宿泊先の「仁風閣」は久松山の麓にある〕を含む鳥取市街地は、千代川を渡った東側、鳥取駅の北に位置するので、つまり「倉吉-鳥取間」の鉄道の完全開通は千代川の鉄橋が開通した明治 41 年ということになるらしい。

※ 仁風閣の名称は皇太子に随行していた東郷平八郎によって命名された。余話として、現在は国の重要文化財となっている仁風閣の敷地内で、映画「るろうに剣心」の戦闘シーンを伴う撮影が 2011 年 9 月に行なわれた。

 山田新一郎氏は「神代史と中国鉄山」という論を雑誌『歴史地理』に連載したことがある。
 国立国会図書館のデジタルコレクションに『歴史地理』の該当号は 4 点含まれているのだけれど、残念ながら、いまのところ外部から閲覧することができない。
 鳥取県立図書館にも関連図書の蔵書はなく、山田新一郎氏の論が収録された資料の収集を担当者に何度かお願いしたのだが残念ながら図書館としては資料的な優先度が低いらしく、未だ所蔵されるに至っていない。

◎ 国立国会図書館のデータによってまとめると『歴史地理』に連載されたタイトルは次のとおりである。
◎ 連載第二回分のデータは欠落している。

山田新一郎「神代史と中国鉄山」収録分

『歴史地理』
日本歴史地理学会/編
吉川弘文館/発行

1917年03月 29(3)(210)

  • 歴史地理 神代史と中國鐵山――(一) / 山田新一郞 / p33~44

1917年06月 29(6)(213)

  • 歴史地理 神代史と中國鐵山――(三) / 山田新一郞 / p18~30

1917年07月 30(1)(214)

  • 神代史と中國鐵山――(四) / 山田新一郞 / p20~31

1917年08月 30(2)(215)

  • 神代史と中國鐵山――(五完) / 山田新一郞 / p11~16


〈都牟刈之大刀〉と アヂスキタカヒコネの〈大葉刈〉


―― ちなみに、西暦で 1917 年というのは、大正 6 年で、ちょうど柳田国男氏の「一目小僧の話」が『東京日日新聞』に連載(新聞連載は 8 月 14 日~ 9 月 6 日の間)されたのと同じ年となる。その半世紀以上ののち、谷川健一氏の『青銅の神の足跡』(1979) によって、新しい視点からの論述が展開された。

 ○ ここで『青銅の神の足跡』を、全集版から引用しておこう。

『谷川健一全集 9』より
『青銅の神の足跡』〔初出:1979年06月20日 集英社発行〕
第一章 銅を吹く人

 伊福部氏は雷神として祀られる
 (pp. 62-63)
 アジアにかぎらず、ギリシア神話の単眼の巨人キクロオペが、ゼウスの雷電をきたえる鍛冶屋であることは名高い話である。わが伊福部氏にもそのような伝承がまつわりついていたのであったろう。それの傍証に、アジスキタカヒコネが天若日子[あめのわかひこ]の葬儀の弔問にやってきたとき、自分を死人の天若日子とまちがえられ激怒したという話が『記紀』にある。

「時に味耜高彦根神、忿りて曰はく、『朋友喪亡せたり。故、吾即ち来弔ふ。如何ぞ死人を我に誤つや』といひて、乃ち十握劒を抜きて、喪屋を斫り倒す。其の屋堕ちて山と成る。此則ち美濃国の喪山、是なり。……
(ときにあぢすきたかひこねのかみ、いかりていはく、『ともがきうせたり。かれ、われすなはちきとぶらふ。いかにぞしにたるひとをわれにあやまつや』といひて、すなはちとつかのつるぎをぬきて、もやをきりたふす。そのやおちてやまとなる。これすなはちみののくにのもやま、これなり。)」

 これは『日本書紀』の文章である。ここにいう美濃国喪山というのは二説あって、一説は岐阜県武儀[むぎ]郡藍見[あいみ]村(現在の美濃市極楽寺付近)という。もう一つの説は岐阜県不破郡垂井町である。私は後者の説を採りたいが、その理由は、そこに雷神を祀る伊福部氏が居住するからである。垂井町には現に喪山と称するところもある。
 ではアジスキタカヒコネはどのような性格の神であるか。アジは美称であり、スキは鉏の意であるとふつう解されている。すなわちそれは鉄器を人格化し美化したものである。『日本書紀』には、また別の叙述もある。

 (p. 64)
 ここに大葉刈という剣の名が出てくる。これは大きな刃をもつ刀剣と解釈される。朝鮮語では刀をカルという。草薙剣[くさなぎのつるぎ]を都牟刈[つむかり]の大刀ともいう。この刈もまたおなじく刀剣の意である。アジスキタカヒコネは鉄製の利器を所有する神であったことがこれによってもわかる。
 さて、前の引用文では、アジスキタカヒコネは、うるわしい容儀をそなえていて、二つの丘、二つの谷の間に映り渡ったとあり、また、その歌には「み谷二渡[たにふたわた]らす」とある。いくつもの丘や谷に照りかがやく鉄器とは、何を表現する比喩なのであろうか。それは芭蕉の『猿蓑』の中の「たたらの雲のまだ赤き空」という去来の句のように、野だたらの炉の炎が空をこがしているありさまを叙したものではないだろうか。
〔以上『谷川健一全集 9』より〕

風土記と古事記には〈高志〉の記録が複数ある

◉ 八千戈神(やちほこのかみ:大国主神すなわち大穴持命)が、〈高志國之沼河比賣〉に言い寄るシーンが、古事記に描かれている。

日本古典文学大系『古事記 祝詞』

大国主神 4 沼河比売求婚
[原文] 此八千矛神、將婚高志國之沼河比賣、幸行之時、到其沼河比賣之家、歌曰、
[訓み下し文] 此の八千矛の神、高志の國の沼河比賣を婚はむとして、幸行でましし時、其の沼河比賣の家に到りて、歌ひたまひしく、
(ふりがな文) このやちほこのかみ、こしのくにのぬなかはひめをよばはむとして、いでまししとき、そのぬなかはひめのいえにいたりて、うたひたまひしく、

大国主神 6 大国主の神裔
[原文] 故、此大國主神、娶坐胸形奧津宮神、多紀理毘賣命、生子、阿遲 〔二字以音。〕 鉏高日子根神。次妹高比賣命。亦名、下光比賣命。此之阿遲鉏高日子根神者、今謂迦毛大御神者也。大國主神、亦娶神屋楯比賣命、生子、事代主神。
[訓み下し文] 故、此の大國主の神、胸形の奧津宮に坐す神、多紀理毘賣の命を娶して生める子は、阿遲 〔二字は音を以ゐよ。〕 鉏高日子根の神。次に妹高比賣の命。亦の名は下光比賣の命。此の阿遲鉏高日子根の神は、今、迦毛の大御神と謂ふぞ。大國主の神、亦神屋楯比賣の命を娶して生める子は、事代主の神。
(ふりがな文) かれ、このおほくにぬしのかみ、むなかたのおきつみやにますかみ、たきりびめのみことをめとしてうめるこは、あぢ 〔にじはおとをもちゐよ。〕 すきたかひこねのかみ。つぎにいもたかひめのみこと。またのなはしたてるひめのみこと。このあぢすきたかひこねのかみは、いま、かものおほみかみといふぞ。おほくにぬしのかみ、またかむやたてひめのみことをめとしてうめるこは、ことしろぬしのかみ。
〔日本古典文学大系『古事記 祝詞』(pp. 100-101, pp. 104-105) 〕

◎ このように古事記にも、出雲の神話に関連して「高志」の名称を伴う、複数の記述が認められる。

◎ 出雲国風土記に〈越八口〉を平定した説話があることは先に見た。また、出雲国風土記では〝国引き神話〟にも「高志」の名が書き留められていた〔日本古典文学大系『風土記』「出雲國風土記 意宇郡」(pp. 100-103) 参照〕。それによれば〝美保関はもともと北陸地方の一部だった〟のである。そして「夜見嶋」と「伯耆國火神岳」が、その神話の最後に登場することも見逃せない。

◎ それぞれは断片的な描写ではあるが、出雲と越との強い関係性がうかがえる。加えて、国引き神話成立当時の出雲圏は、その後の伯耆国にまで広がっているようだ。そう考えれば、あるいは …… もしかして高志の国引きの意味するところは、神話に残された〝伯耆大山の麓に越地方からの移住者があった〟ことの記憶なのであろうか。

―― そうなると、志羅紀の〝国引き神話〟は、朝鮮半島からの移住者を物語っていることになる。
  彼らが、紀元前後から、強力な鉄剣を携えて出雲地方へとやってきた可能性については、否定できない。
  言葉の通じない神々は〈韓鋤(からさひ)〉を出雲にもたらしたのだ。それは強靱な〈神の剣〉だった。

◉ ヤマタノヲロチの尾から出てきた〈神剣〉は〈都牟刈之大刀〉ともいわれる

―― 古事記の訓み下し文から引用する。

爾に速須佐之男の命、其の御佩せる十拳劒を拔きて、其の蛇を切り散りたまひしかば、肥の河血に變りて流れき。故、其の中の尾を切りたまひし時、御刀の刃毀けき。爾に怪しと思ほして、御刀の前以ちて刺し割きて見たまへば、都牟刈の大刀在りき。
〔日本古典文学大系『古事記』(p. 87-89) 〕

◎ スサノヲの斬蛇剣には「蛇韓鋤之劒(蛇の韓鋤の剣・をろちのからさひのつるぎ)」の名があった。―― これは朝鮮半島渡来の〈霊剣〉を意味する〔三品彰英『建国神話の諸問題』(pp. 36-37) 参照〕。

 ヤマタノヲロチを斬り殺して〈鳥上之峯・鳥髮地〉で獲得した「都牟刈之大刀(都牟刈の大刀・つむがりのたち)」は、強度においてそれを凌ぐ剛剣だ。
 そして、出雲国風土記「仁多郡 三澤郷」に「大神大穴持命御子 阿遲須枳高日子命」とも記されている、オホクニヌシの息子アヂスキタカヒコネのもつ十握剣〈大葉刈〉の「刈」の音は、〈都牟刈之大刀〉の名辞に含まれる「刈」と同じく、現代韓国語の「剣(칼 ; khal〔カリ・カル〕)」に通じる。
―― 韓国語の「 칼 ; khal ・ 검 ; kɔm 」などの検討は、あとで少しばかり詳しく行なう予定にしている。

◎ 日本書紀には「下照媛」の兄として、
◎ 出雲国風土記に「大神大穴持命御子 阿遲須枳高日子命」
と記録された〈アヂスキタカヒコネ〉は、
◎ 古事記で「阿遲鉏高日子根神者、今謂迦毛大御神者也」と伝えられている。

その所持する十握剣を〈大葉刈〉といい、また〈神度剣〉ともいう。



Google サイト で、本日「船通山 - 鳥上滝」の地図を追加した、もう少し詳しい内容のものを公開しました。

鳥上之峯 / 簸川上(トリカミの峰 / ヒノカハの上)
https://sites.google.com/view/theendoftakechan/worochi/torikami

バックアップ・ページでは、見た目のわかりやすいレイアウトを工夫しています。

鳥上之峯 / 簸川上 バックアップ・ページ
http://theendoftakechan.web.fc2.com/eII/tsurugi/torikami.html

2018年9月11日火曜日

〈天叢雲剣〉の出現 Ⅱ

―― 昨日引用した文章中に、

「天子の気」とは王者たるものが発散する一種の気体、むろん特定のものにしか見えない(本冊「項羽本紀」四六ページ参照)。

というのがあったけれど、まずその「項羽本紀」の参照ページを、追加して引用しておこう。

『史記』楚漢篇 より

當是時。項羽兵四十萬。在新豐鴻門。沛公兵十萬。在覇上。范增說項羽曰。沛公居山東時。貪於財貨。好美姬。今入關。財物無所取。婦女無所幸。此其志不在小。吾令人望共氣。皆爲龍虎成五采。此天子氣也。急擊勿失。
是[こ]の時に当り、項羽の兵は四十万、新豊[しんぽう]の鴻門[こうもん]に在り。沛公の兵は十万、覇上[はじょう]に在り。范増[はんぞう]、項羽に説きて曰く、「沛公の山東に居りし時は、財貨に貪[たん]にして、美姫を好[この]めり。今、関を入りては、財物も取る所なく、婦女も幸する所なし。此れ其の志、小に在らざるなり。吾[われ]、人をして其の気を望ましむるに、皆竜虎と為[な]り、五采を成す。此れ天子の気なり。急ぎ撃ちて失う勿[なか]れ」と。
〔朝日選書『史記』中 楚漢篇「項羽本紀」(pp. 46-47)

―― これが天子の気の説明となる。また、

『大系本 古事記』は八岐大蛇を斬った「この剣は最初からクサナギという名であった」とする。

と書いたのは、『大系本 古事記』(日本古典文学大系『古事記 祝詞』)の頭注にそのように記されている、ということで、なぜわざわざそう注釈されているのか、今回の最後に謎解きとなる。問題はなぜ、日本書紀が割注に「一書云」として、〈天叢雲劒〉の名を記したのか、ということなのだ。
 訓み下し文では、次のように記述されていた。

草薙劒、此をば倶娑那伎能都留伎と云ふ。一書に云はく、本の名は天叢雲劒。蓋し大蛇居る上に、常に雲氣有り。
〔日本古典文学大系『日本書紀 上』(p. 122) より〕

 さて、昨日の続き。

スサノヲが蛇を斬った剣の名称は

〈韓鋤剣〉とも伝えられる


○ 中国の『三国志』に残された記録で、当時の、朝鮮半島の情勢がうかがえる。

『正史 三国志 4』 「魏書 Ⅳ」 烏丸鮮卑東夷伝 第三十 〔東夷伝〕より
 辰韓[しんかん]は、馬韓の東方に位置する。その地の古老たちが代々いい伝えるところでは、自分たちは古[いにしえ]の逃亡者の子孫で、秦の労役をのがれて韓の国へやって来たとき、馬韓がその東部の土地を割[さ]いて与えてくれたのだ、とのことである。…… 現在でも彼らのことを秦韓と呼ぶものがいる。もともと六国であったが、だんだんと分かれて十二国になった。
 弁辰[べんしん]も十二国からなり、さらにいくつかの地方的な小さな中心地があって、それぞれに渠帥[きょすい](首領)がいる。…… 弁韓と辰韓とで合わせて二十四国、大きな国は四、五千家からなり、小さな国は六、七百家からなって、あわせて四、五万戸がある。そのうちの十二国は辰王に属している。辰王の王位は、かつて馬韓の者が即[つ]くことになって以来、代々ずっとそのままで来た。辰王の位は〔馬韓にかぎられていて、辰韓のものが〕自ら王位に即くことはできない〔一〕。
 土地は肥えていて、五穀や稲を植えるのに適し、人々は蚕桑の業に通じて、縑布[かとりぎぬ]を織る。牛や馬に乗ったり車を引かせたりする。婚姻の礼には、男女ではっきりとした区別がある。大きな鳥の羽根を死者に随葬するが、死者に天高く飛んで行かせようと意図してそうするのである〔二〕。この国は鉄を産し、韓・濊・倭はそれぞれここから鉄を手に入れている。物の交易にはすべて鉄を用いて、ちょうど中国で銭を用いるようであり、またその鉄を楽浪と帯方の二郡にも供給している。……
〔一〕『魏略』にいう。確かに彼らが流亡の民であればこそ、馬韓の支配下にあるのである。
〔二〕『魏略』にいう。その国で建物を作る時には、木材を横につみ重ねて作る。牢獄のような格好である。
〔『正史 三国志 4』(pp. 467-469)

―― 上記の弁辰の条に記述されているごとく、3 世紀当時に、倭(ヤマト)も鉄を持ち帰っていたようだ。

○ 古代の朝鮮半島の製鉄技術に関する情報は、『朝鮮古代中世科学技術史研究』に収録された論文に詳しい。

康忠熙「古代朝鮮の製鉄技術」
 (p. 77)
 朝鮮における鉄生産がいつから始まったかを正確にすることはむずかしいことであるが、朝鮮西北地方と遼東地方で、青銅器冶金が盛んであった BC8~7 世紀頃、既に、鴨緑江中上流と豆満江流域では錬鉄が生産されていたことがわかった。また、BC7~5 世紀頃と推定される茂山虎谷遺跡第 5 文化層から出土した鉄斧の分析結果は、それが完全に溶けた銑鉄から鋳造されたものであることもわかった。
 同じく、BC4~3 世紀のものと思われる同じ遺跡の第 6 文化層と慈江道魯南里、豊清里、土城里、平安北道細竹里など BC2 世紀前後の遺跡から出土した鉄器の分析結果によると、銑鉄製品とともに鋼の製品もあることが確認された。これらのことから朝鮮で銑鉄が生産され始めた時期は BC6 世紀前後で、銑鉄から鋼を生産したのは BC3 世紀頃と推定される。
 (p. 80)
 鋼製品の遺物としては斧、槍、小刀、鉄片などが出ているが年代としては BC3 世紀から紀元前後の時期に属する。
 (pp. 81-82)
 朝鮮の古代製鉄技術発展のなかでもう一つ注目されることは、鋼材の質を高めるための熱処理がなされていたことである。豊清里から出土した斧は袋の部分を左右に重ねて鍛造したもので、その金属組織はフェライト・パーライトで結晶粒が非常に微細なことから充分に鍛錬されたものであったことがわかる。
 また、虎谷の斧などの組織は頭部と刃の部分が異なっていて、頭部はパーライト・セメンタイトで刃部は粒状パーライトのみで組織は緻密である。熱処理が施されたものとしては BC3~2 世紀のものと思われる細竹里遺跡の鋼製品でも見られる。とくに注目されるのは小刀で鋼質は炭素工具鋼で、焼入れ焼き戻しが行われたと思われることである。その顕微鏡組織観察では表面が青みを帯びていて、高い温度で焼き戻しされていたものと判断される。
…………
 古代の製鉄・製鋼技術を考察するのに欠かせない製鉄炉跡について見ることにする。これまで判明した最も古い製鉄炉の一つとして慈江道魯南里の第二文化層のものを上げることができる。BC2 世紀頃のものと思われる匚型の溶湯設備の備わった製鉄跡である。表土を除去した後に現れた製鉄跡は長さ 1.5 m、巾 1.2 m 程度の石積みが残っていて、破壊された後の炉の一部と判断される。溶湯設備が一辺 2 m にもなることから、元の炉は現在残っている石積みよりはるかに大きかったと思われ、製鉄初期の製鉄炉ではないと判断される。炉の遺物の様子から、完全な溶融状態の鋼鉄を生産する炉であったろうと推測される。
〔『朝鮮古代中世科学技術史研究』より〕

―― 興味深いことには、77 ページに、

朝鮮で銑鉄が生産され始めた時期は BC6 世紀前後で、銑鉄から鋼を生産したのは BC3 世紀頃と推定される。

と記述されている。

 銑鉄(せんてつ)を辞書〔たとえば『広辞苑』など〕で参照すると、「鉄鉱石から直接に製造された鉄で、不純物が多い。製鋼用と鋳物用に大別」されるという。
 鋼鉄(こうてつ)は「鋼(こう)に同じ」とあり、(こう)は「きたえた鉄。はがね。鉄と炭素との合金。広義には他の諸元素を添加した特殊鋼をも含み、炭素だけを含むものは炭素鋼または普通鋼という。」と説明されている。
 また、鋳鉄(ちゅうてつ)は「鋼に比し機械的強さは劣るが融けやすく鋳造が容易。耐摩耗性・切削性などに優れる。」とある。

 これらの鉄材が、紀元前の朝鮮半島で製造されており、さらには鋼材の質を高めるための熱処理がなされていた(p. 81) と、いうのだ。

 半島渡来の鋼鉄で鍛造された切れ味鋭い剣が、日本で武力を象徴するものだったとしても、不思議はない。

―― 歴史書などによれば、日本は任那(みまな)を足掛かりとして朝鮮半島へと進出したが、任那は 562 年に新羅に併合され亡んだ。日本書紀「欽明天皇二十三年」の冒頭に、次のように記されている。

廿三年春正月、新羅打滅任那官家。

 任那というのは、伽耶諸国のうち金官国の別称らしいけれども、当時の日本では新羅に滅ぼされた朝鮮半島南部の諸国を総称していたようだ。

◎ さらに 663 年には、朝鮮半島の南西、錦江河口の〝白村江(はくすきのえ・はくそんこう)〟で、日本・百済連合軍と唐・新羅連合軍との間に海戦が行なわれ、日本は敗れて百済は滅亡した。

◎ 日本が朝鮮半島への足場を失ったこの戦闘を〝白村江の戦(はくそんこうのたたかい)〟という。
―― 古事記が撰録・献上される、半世紀前のことだ。


〈八岐大蛇〉と スサノヲの〈韓鋤剣〉のこと


○ 八岐大蛇(ヤマタノヲロチ)の原義を、韓鋤剣(カラサヒノツルギ)と関連づける論がある。

三品彰英「出雲神話異伝考」
第一節 ヤマタノオロチ退治 【付記】
ヤマタノオロチ ヤマタについて「書紀」本文に「頭尾各八岐[やまた]あり」と述べているが、八乙女に対するヤマタであり、八は本来神事的な満数ないしは聖数と解してよい。世界的に広く分布する怪物退治物語にはその怪物が多頭であり、最も多くは七つの頭を持つ話が多い。日本では民族の数観念或いは数信仰から八に変化していると考えてよかろう。オロチのオロは朝鮮語の泉・井の古訓 ŏr (ɔl) と同語、チも日本・朝鮮共通の古語で神霊を意味している。新羅の始祖が降臨した神井を奈乙 (na-ŏr) すなわち「みあれ (na) の井 (ŏr) 」と呼び、そこに始祖廟が建てられていた。ヤマタノオロチを斬った剣が韓鋤剣[からさひのつるぎ](サヒは朝鮮語の鋤・刃物を意味する sap )と呼ばれているところからしても、オロチの原義を右のように語釈してもよいであろう。すなわちオロチは水霊・河神の意であり、ミヅチと同意語である。オロチの姿について「八丘八谷[やをやたに]の間にはひわたれり」(「紀」)と説明しているのは、谷川の神霊にふさわしい形容である。
〔三品彰英『建国神話の諸問題』(pp. 36-37)

 ようするに、オロチのオロは朝鮮語の泉・井の古訓に同じであり、チも日本・朝鮮共通の古語で神霊を意味しているので、すなわちオロチは水霊・河神の意であり、ミヅチと同意語であるという。
―― また八は本来神事的な満数ないしは聖数と解してよいという見解は、この論稿が最初ではない。

○ 次に参照する「水の女」の稿は『折口信夫全集 2 古代研究(民俗学篇 1 )』に収録されているものだ。

折口信夫「水の女」(昭和二年九月、三年一月「民族」第二巻第六号、第三巻第二号)
九 兄媛弟媛
 やをとめを説かぬ記・紀にも、二人以上の多人数を承認している。神女の人数を、七[ナヽ]処女・八[ヤ]処女・九[コヽノ]の処女などと勘定している。これは、多数を凡[おおよ]そ示す数詞が変化していったためである。それとともに実数の上に固定を来[きた]した場合もあった。まず七処女が古く、八処女がそれに替って勢力を得た。これは、神あそびの舞人の数が、支那式の「佾[イツ]」を単位とする風に、もっとも叶うものと考えられだしたからだ。ただの神女群遊には、七処女を言い、遊舞[アソビ]には八処女を多く用いる。現に、八処女の出処[でどころ]比沼山にすら、真名井の水を浴びたのは、七処女としている。だから、七[ナヽ] ―― 古くは八処女の八も ―― が、正確に七の数詞と定まるまでには、不定多数を言い、次には、多数詞と序数詞との二用語例を生じ、ついに、常の数詞と定まった。この間に、伝承の上の矛盾ができたのである。
〔折口信夫『古代研究Ⅰ』 ― 祭りの発生 (p. 99)

○ さて、神宝としての剣について、稲田智宏氏の『三種の神器』に興味深い考察がある。

「第二章 三種神器の神話的な背景」鏡と剣と玉
天石窟籠もりの以前にも、天照大神と素戔嗚尊による誓約[うけい]神事の際に剣が大きな役割を果たしているように、決して呪具としての価値が低いわけではない。だが記紀の五種類の天石窟神事伝承において、四つの伝承にて鏡と玉がつくられるが剣はなく、一つの伝承のみ、鏡と思われる「神」と日矛とがつくられている。
 諸説あるのは、「天の金山の鉄[まがね]を取りて、鍛人天津麻羅[かぬちあまつまら]を求[ま]ぎて、伊斯許理度売命[いしこりどめのみこと]に科[おほ]せて鏡を作らしめ」という『古事記』の記述に関してで、伊斯許理度売命に鏡をつくらせたのはわかるけれども、天津麻羅に何をさせたのか抜けているように見えるからである。もちろん「鍛人」で鍛冶神だから鉄を鍛えたのだろうが、それを何かの脱落ではなく単に鏡を鋳造するための鉄を精錬したと見るか(新編日本古典文学全集『古事記』頭注)、本居宣長のように『日本書紀』で日矛がつくられた伝承と考え合わせて「此名の下に、矛を作[つくら]しむることの有[あり]しが、脱[おち]たるなるべし」(『古事記伝』)と見るか、あるいは剣をつくらせたという文が落ちたのか(日本古典文学大系『古事記 祝詞』頭注)と分かれる。
 しかしこの場面に関する記紀のすべての伝承で剣は登場しないので、『古事記』のみ文が脱落したのではなく、はじめから剣が必要でない場面だと考えるのが妥当だろうか。先に挙げた神夏磯媛らが掲げた神宝に剣が含まれているのには、武力を天皇に献上する意味がある。一方で、天照大神の復帰を願う高天原の神々はもとから天照大神側の立場なので、剣を捧げる必要はない。もしこの祭祀を主催したのが反省した素戔嗚尊であったなら、自身の剣を捧げていたのだろう。
 あるいは、後に八岐大蛇から出現した草薙剣が天照大神のもとに至り、それが天石窟神事のときの鏡と玉とともに地上に下されるという神話の整合性を保つために、天石窟神事の剣が消されたのかもしれない。草薙剣が大切な神宝として下されるなかに加えられたため、天照大神の復帰に重要な役割を果たしたかもしれない剣は意味を失ってしまったのだと考えられなくもない。
〔稲田智宏『三種の神器』(pp. 142-144)

○ 日本古典文学大系『古事記 祝詞』――『大系本 古事記』の頭注は倉野憲司氏によるが、倉野憲司氏はそれ以前から「剣をつくらせたという文が落ちた」とする考察を展開していたことが、次の資料で知られる。

松前健『出雲神話』4 スサノオの神話
 大蛇[おろち]退治の話が世界大の「ペルセウス型」の人身御供譚であることや、大蛇の尾に剣があることが民譚にもあるらしいことなどから、この話の起源は民間のものであったらしいことはわかるのであるが、最後にその草薙剣[くさなぎのたち]を皇祖神に献じたというモチーフは、もちろん後世的な付加物に違いない。後につづく天孫降臨神話で、皇孫がこの剣を加えた三種の神器をもって天降ることになるから、この献上の話は、天孫降臨の伏線として、置かれたものである。
…………
 ところが、この献上の話が加えられる以前の、いわば「原天石屋[プロトあめのいわや]神話」ともいうべきものには、鏡と玉とだけでなく、剣の製作も語られていたらしい。『古事記』に「天の金山[かなやま]の鉄を取りて、鍛冶天津麻羅[かぬちあまつまら]を求[ま]ぎて、伊斯許理度売命[いしこりどめのみこと]に科[おほ]せて鏡を作らしめ、玉祖命[たまのやのみこと]に科[おほ]せて八尺[やさか]の五百津[いおつ]の御統[みすまる]の珠を作らしめて」とある文には、脱文があったらしい。「天津麻羅を求ぎて」と「伊斯許理度売命に科せて」の間には、「剣を作らしむ」という文があったのを、後に草薙[くさなぎ]剣の献上の話が出てきたため、この場ではこの剣の部分だけ、わざと削り、鏡と玉との二者だけを、岩戸の祭りに登場させたというのが、倉野憲司氏の主張である(『日本神話』)が、おそらく正しい。
 この剣の削除やスサノオの神剣の貢上というモチーフが、出雲神話への橋わたしとなっているのであり、この文筆作業によって、出雲神話が巨大化し、宮廷神話の中枢[ちゅうすう]に割りこませられているのである。こうした文筆作業によって、中央神話に割りこませられた時期は、どう見ても、文筆による削訂作業が行なわれた七、八世紀の記紀編纂時代になると考えられる。
〔『出雲神話』(pp. 82-84)

―― 倉野憲司氏の『日本神話』は、昭和 13 年に初版が刊行されているのであるが、そこでは、中央政権による記録の改変があった可能性が論じられているという。

○ 最後に、参考資料として示された、倉野憲司氏による論述内容を確認しておこう。

倉野憲司『日本神話』
 鎭魂祭に不可缺な天璽の瑞寶十種は、結局鏡・玉・劒・比禮の四種に歸するが、鎭魂祭と關聯のある天石屋戶の條には、鏡・玉・和幣の三種は擧げてゐるが、劒は見えてゐない。これは甚だ怪しむべきことであるが、その理由は極めて簡單である。それは劒の出現は次の大蛇退治の條に語られてゐるからである。併し石屋戶の條に於て、もともと劒の製作が語られてゐたであらうといふ事は、古事記にその痕跡をとゞめてゐる。卽ち、

取天安河之河上之天堅石。取天金山之鐵而。求鍛人天津麻羅而。科伊斯許理度賣命。令作鏡。

の文を仔細に見ると、どうしても文意が通じない。天津麻羅を求ぎての下には脱文があるらしく思はれる。宣長もこれに氣附いて、「鏡をば伊斯許理度賣命に作らしむとあれば、此麻羅を求[マギ]たるは、何物を造ラしめむとてにか、甚[イト]も意得難し。…… 此名の下に、矛を作ラしむることの有しが、脱[オチ]たるなるべし(6)。」と言つてゐる。併し私は矛ではなくて「劒」を作らしむといふやうな文が落ちたのではないかと考へるのである。それも偶然の脱落ではなくして、意識的に削除されたものと考へる。卽ち最初は石屋戶の條に劒の事が語られてゐたのであるが、草薙劒の由來 ―― 熱田神宮の御神體の緣起 ―― を語る大蛇退治の神話が加へられた爲に、劒の事が重複するやうになつた結果、前のを削除したと思はれる。さうして古事記天孫降臨の條に於ける三種の神器に關する記述は、まさに石屋戶の條に鏡・玉・劒の三種が作られたとする原初的な所傳を承けたものに他ならないのである。
 かく見ることによつて、古事記に於ても、天石屋戶神話と天孫降臨神話とが直接に連なつてゐたことが一層明瞭となる。石戶隱れの際に鏡・玉・劒が作られたとすることは、ひとり鎭魂祭に必須な天璽の瑞寶と一致するばかりでなく、一面には大八洲國をしろしめす天つ神の御子たる天皇の御資格をあらはす「アマツシルシ」(天璽)の起原を語るものとして、天孫降臨の神話と符節を合するものである。
註 (6)  古事記傳、卷八
〔『日本神話』(pp. 170-171)

 これが冒頭に予告していた謎解きである。こういうことも関係して、倉野憲司氏による日本古典文学大系『古事記 祝詞』の頭注で、八岐大蛇を斬殺した「この剣は最初からクサナギという名であった」と注釈された理由が、無理なく推察できるのだ。

―― この考察が示唆するのは、どういうことかというと ――
杜撰(ずさん)な辻褄合わせ(つじつまあわせ)を意図した結果、
国家文書の改竄(かいざん)は、古来から連綿と、
安直かつ秘密裡に行なわれていたかもしれない、ということなのだ。

◎ 古事記には、「出雲國之肥河上、名鳥髮地」
◎ 日本書紀に「出雲國簸川上所在、鳥上之峯」
と記録された鳥上の峰 ―― 船通山は、
◎ そのあとに成立した出雲国風土記で、「鳥上山」と伝えられている。



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〈天叢雲剣〉の出現
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