2021年8月26日木曜日

アレクサンドロス大王のインド攻略以降の文化交流

アレクサンドロス大王のペルシア進軍から死去まで

紀元前 334 年、アレクサンドロス大王、ペルシア征討のため、小アジアに進軍する。

紀元前 330 年、アケメネス朝ペルシアの滅亡。

紀元前 326 年、アレクサンドロス大王、さらに東方へと侵攻し、西部インドを攻略する。

紀元前 323 年、アレクサンドロス大王、東方遠征からバビロンへの帰還後に、急逝する。


 アレクサンドロス大王がペルシアに向けて進軍したのは、紀元前 4 世紀末のことでした。

 アレクサンドロス大王のインド侵攻後、インド西部はしばし、ギリシア人の軍事的制圧下にあったといわれます。

 ギリシア人のメガステネース(メガステネス)は、紀元前 300 年頃に、大使としてインドに駐在し、帰国後に『インド誌』という記録を残しました。


 また『ミリンダ王の問い』(全 3 巻)〔中村元・早島鏡正/訳 1963~1964 年 平凡社/発行〕の第 3 巻にある早島鏡正氏の解説 (pp.324-325) には、次のように記されています。


『ミリンダ王の問い』という題は、翻訳名であって、Milindapañhā あるいは Milindapañho が原名である。パーリ語で書かれた聖典の一つである。

〔中略〕

『ミリンダ王の問い』は、紀元前二世紀の後半、すなわち紀元前一五〇年ごろに、西北インドを支配したギリシアの王メナンドロス(インド名をミリンダという)と、仏教の経典に精通した学僧ナーガセーナとの間にかわされた対論の書である。



 ◎ さてアレクサンドロス大王によるインド遠征以降のインドに関する記録については、次のような文献が参考になると思われ、ここにその一部を抜粋し、紹介しておきたく思います。


『インド史Ⅱ』(中村元選集〔決定版〕 第 6 巻)

 〔中村元/著 1997年09月10日 春秋社/発行〕


 〔付篇 1 〕 マウリヤ王朝時代研究資料

 四 文献資料

 ㈠ ギリシア・ローマの記録

  ⑵ メガステネースの『インド誌』

 (pp.557-559)

 インドとギリシアとの接触を真に密接にしたのは、アレクサンドロスの遠征であった。ヘレニズムおよびローマ時代のギリシア人がインドについて知っていた主要点はメガステネース Megasthenēs 前三五〇~二九〇年ころ)の言明にもとづくものである。彼はもとは小アジアのイオーニア人であるが、『インド誌』(Indika) と称する四巻の書を著わした。この書はチャンドラグプタ王時代のインドの実情を伝えているものとしてきわめて重要である。

 アレクサンドロス大王は西紀前三二六年にインドに侵入し、西部インドを攻略したが、翌年西方に帰還し、三二三年七月バビロンで客死した。その後、西北インドはしばらくのあいだギリシア人の軍事的制圧下にあった。西紀前三一七年頃にチャンドラグプタ (Candragupta) という一青年が挙兵して、マガダ王となりマウリヤ (Maurya) 王朝を創始したが、彼は西北インドからギリシア人の軍事的勢力を一掃し、インド史上初めてインド全体を統一した。たまたまシリア王セレウコス・ニカトール (Seleukos Nikatōr) がアレクサンドロスの故地回復を志して、三〇五年にインダス河を越えて侵入して来たが、チャンドラグプタはその軍隊を撃破した。両王の講和が成立してのち、セレウコスの大使としてチャンドラグプタ王の宮廷に派遣されたのが、このメガステネースである。彼についてシャントレーヌは論じる。――

 メガステネースはギリシア人であり、イオーニアの純粋のギリシア人の家系の出身である。彼はシリア王セレウコス・ニカトールの使臣としてアラコーシア (Arachōsia) の太守 (Satrapēs) であるシビュルティオス (Sibyrtios) の宮廷に来たり、次にそこから王の大使としてパータリプトラ (Pāṭaliputra) のチャンドラグプタ王の宮廷に派遣された。インドに滞在していた期間は不明であるが、チャンドラグプタ王とセレウコスとの講和は西紀前三〇四年または三〇三年であるから、そののちまもなくインドに派遣され、西紀前二九二年ころにインドを去った。彼はおそらく西紀前三五〇~二九〇年のあいだの人であるから、したがって、後人の記すように、セレウコス・ニカトール(西紀前三五八~二八〇年)とほぼ同時代の人である。

 メガステネースはつねに首都パータリプトラに滞在し、しばしばチャンドラグプタ王と会見したが、また閑暇には視察・調査の小旅行を行なっていた。ただしこの小旅行も、今日のビハール以外の土地には及ばなかったらしい。ガンジス河以東については、彼は何も知っていない。また西方地域については、せいぜい往復の途中通過する際に皮相の観察を行なったにとどまる。デカン地方に関する記述もきわめて乏しい。メガステネースは、さほど広範囲の旅行は行なわなかった、とアリアノスは批評している。