2019年8月31日土曜日

JavaScript: 時計回りのラジアン

 ✥ arc メソッドの説明:

   arc(x, y, radius, start, end [, boolean])

 JavaScript で Canvas に弧を描く命令文です。弧(円)の中心点となる座標 (x, y) と半径 (radius) を指定して、ラジアン単位で開始 (start) と終了 (end) の角度を定めます。また、描線する方向(回転方向)の初期値は時計回りなのですけれど、これは省略が可能となっており、弧を描く向きを指定するときは、真偽値 (Boolean) を使って最後に追記をする必要があります。

 * 真偽値とは、一般に false, true で表現され、false が初期値となっています。
 * 数字で書く際には、0 かそれ以外の数値を書きます。0 が初期値です。

 ● 弧を描く arc メソッドでは一般的に、arc(x, y, r, start, end, 0) と、終了角度を指定したあとに、描線の回転方向として 0 を記入しておくのが慣例になっているようです。
 ● 反時計回りは arc(x, y, r, start, end, 1) で、有効となります。

 ◎ 下のように書くと、円の全周を描線することができます。
 ⇒  arc(x, y, r, 0, 2*Math.PI)


 ✥ ラジアン (radian) 単位の説明:

   arc(x, y, r, rad, rad, boolean)

 数学の公式で、円周の長さは、2πr と書くことができます。
 パイ (π) は円周率で、半径 (r) にパイの 2 倍 (2π) を掛けると、円周の長さが算出できるのでした。

 ◆ 円周の長さというのは、円の弧の全周 360 度 ( 360 ° ) 分の長さにあたるのですけれども、( ° ) という単位を使う方法を度数法といって、いっぽう、パソコンで用いられているラジアン ( rad ) 単位の弧度法では、円の弧の全周分は 2π ラジアン ( 2π rad ) となっています。

 ◆ ラジアン (radian) は日本語で弧度といい、弧の長さと半径との比率を、円周上の角度(弧の長さ分の角度)として表しています。半径と同じ長さの弧が 1 ラジアン ( 1 rad ) で、π ラジアン ( π rad ) は半円(半周)です。

 * 一般的に数学の弧度法では、反時計回りに正の値となるのですけれども、JavaScript で Canvas に描線する際には、時計回りが正の値になります。
 * これはグラフの原点から x 軸のプラス方向である右向きへの角度が 0 rad で、そこから y 軸のプラス方向へと回転するのが基本的な回転方向になっているからだと思われます。


  ✥ Math.PI =
   arc(150, 150, 120, start, end, boolean)
 start :

 end :

 boolean :
 [ 0, 1 ]

[ false = 0, true = -1 ]
・ 180 ° = π rad なので、1 ° = π / 180 rad という計算になります。
・ 60 ° なら、60 ° = 60 * π / 180 rad = π / 3 rad です。
・ 直角は、π / 2 rad = 0.5π rad になります。

2019年8月28日水曜日

JavaScript: 球面座標の最短距離

◎ 実は、ユークリッド幾何学の定義では、直線と円を区分できないのではないかと、疑っているのです。

『ユークリッド原論』の邦訳を参照すると、その「第 1 巻」の最初の〈定義〉に、

  1. 点とは部分をもたないものである。
  2. 線とは幅のない長さである。
  3. 線の端は点である。
  4. 直線とはその上にある点について一様に横たわる線である。

などの、数学的な約束ごとが書かれています。
そこでいま一度、〈直線の定義〉であるところの、前提条件をよくよく考えてみると、その記述内容は必ずしも直線の方程式として、

  ax + by + c = 0

と書かれた二元一次方程式の枠内にあるとは、限らないのではないか、ということなのです。このことについて、次のように書いたことがあります。

 ✥ かくして「定義 4.」によって、ユークリッドの〈直線の定義〉は「直線とはその上にある点について一様に横たわる線である」と、いうことになるのですけれども、そこでは平面図形を考察の対象としているからでしょうか、曲率(曲線または曲面のまがりの程度)がゼロであることが示されていないため、あろうことか、〈円周〉についても「その上にある点について一様な曲がりかたで横たわる線である」と、同様の表現ができることになってしまいます。
―― となればならぬか、「その上にある点について一様に横たわる線」がそのまま、ただちに《無限の長さ》をもつことにはならなくなってしまうのですね。

 ◯ ここで手もとの辞書に記述されている内容を、再確認しておきましょう。

『広辞苑 第四版』

ちょくせん【直線】

①まっすぐのすじ。まっすぐな線。
②〔数〕終始同一方向をもつ線、二点間を最短距離で結ぶ線、n 次元空間内で助変数 t により座標が t の一次式 xiai + bi t (i = 1, 2, …, n ) で与えられる点 (x1, x2, …, xn ) の軌跡、などと定義される概念。ユークリッド幾何学においては、点・平面とともに基礎的な対象物、無定義用語として扱う。

ちょくせんきょり【直線距離】

二点を結ぶ直線に沿う距離。幾何学上の最短距離。


 ◈ 辞書の説明にあるように、直線が二点間を最短距離で結ぶ線だとして、その座標が〝球面座標〟である場合を、地球表面の 2 地点を例に考えてみましょう。
 たとえば飛行機が〝二点間を最短距離〟で飛ぼうとする際には、〝地球の中心と二点間を結ぶ線〟を想定して、その 2 つの線を含む平面で地球を半分に切った円を考えます。その円の円周をふたつに分けているふたつの地点を見て〝二点間の距離の短いほう〟が、〝二点間の最短距離〟になるので、その上空を飛べばいいわけです。


A  °   ||    B  °

[ ※ 上の図は球体ではなく、仮に、円を平面図形で表現していて、円周上の 2 点を A, B とします。円周の太線の部分を AB といい、また線分 AB AB といいます。]
[ ※ 下の図の円は、 AB の長さを直径としています。参考として、 AB と同じものも描いています。]

◎ そしてこのとき〝二点間の最短距離〟を一部分として含む「二点間を最短距離で結ぶ線」のすべては、その円の円周上の点の集合となりますので、さてこそとばかりにいくら、無限に伸ばそうとしてもいかんせん有限な長さとなってしまい、ようするに無限ではなくなるのです。


―― 前回分も合わせて、各種資料を参照・引用したページを、以下のサイトで公開しています。
 ※ コピペしてそのまま使える、JavaScript の見本をテキスト化して掲載しています。

JavaScript / 直線の傾きとベクトル方程式
http://theendoftakechan.web.fc2.com/eII/hitsuge/arcus/vector.html

2019年8月26日月曜日

JavaScript《直線のベクトル方程式》

◎ 幾何学の直線について、各種参考書・解説書などの文献資料をひもといていますと、

直線の方程式》[ ※ 一般的な直線の方程式の形 ]

   ax + by + c = 0

のほかに、いつのまにやら、

ベクトル方程式》[ ※ 汎用的な形では ]

  p = sa + tb

という代物が登場してきます。化物の誤植ではありません。というわけで。
―― そのグラフのサンプル(見本の作図)を、JavaScript で試みる次第です。

◈ ここでたとえば、《直線のベクトル方程式》として、

  p = a + tb

を用いて、a = (0, y) としたとき、
この方程式の計算結果(解 = p )を座標に書き出せば、
[切片]と[傾き]の ベクトルの和(足し算)となりますので、

それを図示することによって、ただちにそのまま、
[切片]と[直線の傾き]を示すグラフになることが、容易に見て取れるわけです。

―― というつもりなのであります。そういうわけで。

[切片(ベクトル)]+[時間 (t)]×[傾き(ベクトル)]

のグラフを、これから JavaScript で作図してみるのですけれど、ただし、
〔理解しやすくするために補助的に描かれた〕円の半径を r として、

[時間 (t)]= 1 のとき、 [傾き(ベクトル)]の長さを r = 1 とします。

  [切片座標( x, y )] + [時間] × [傾き(角度)]
   =  a ( 0 , )  +  t   ×  b  °


◎ 余談ですけど、実は上の図で一番ややこしいのは、
数値で指定された任意の場所に、ベクトルの向き(―>)に合わせた角度で、
矢印の形(都合によりひとつは塗り潰し)のラインを引くことなのでした。

2019年8月22日木曜日

JavaScript :《楕円の方程式》に向けて

 JavaScript で、図形の基礎からはじめて、《楕円の方程式》を記述する方法を考えていくページを目指しています(いまから当面のテーマとして)。

 その手はじめに、〈直線〉については数学的にどう表現できるのか、ということをいろいろ調べてみたところ、「二元一次方程式」が一般的な書式になるらしいことがわかりました。
 その方程式にしたがって、グラフの座標上に、ふたつの点の位置を定めて、それをまっすぐな線で結べば、グラフ上に直線を表現することができるのです。
 ただし中学で学ぶ、ユークリッド幾何学では、「直線とは幅のない無限なまっすぐの線」であることになっていますので、リアルな直線を現実に描くことは数学的に不可能というわけです。図示された直線はすべてバーチャルな直線ということになります。

◎ たとえば図形に示されたラインなどは、幾何学の概念を現実的な表現で示したもの、ということができるでしょう。
 虚数 (Imaginary number) という概念が、数学にはあります。これは、想像上の数、という意味になりますが ……
 数学とは、言葉を変えれば、イメージ世界を現実にフィードバックするための道具なのではないでしょうか。


図形の基本(直線と線分)


 ◯ 鳥取市(鳥取県東部)の中学校で現在採用されている数学の教科書では、直線について、次のように書かれています。

『未来へひろがる 数学 1』

平成27年02月27日 検定済
61 啓林館 / 数学 732
平成30年度用 平成30年02月10日 発行
著作者 岡本和夫・森杉馨・佐々木武・根本博 ほか44名
発行所 新興出版社啓林館


5 章 平面図形

 (p. 138)

1 直線と図形

 直線と角
 まっすぐな線のことを直線といいますが、
これからは、直線といえば、
  まっすぐに限りなくのびている線
をいうことにします。

 直線の一部分で、両端[りょうたん]のあるものを 線分 [せんぶん] といいます。また、1 点を端[はし]として一方にだけのびたものを 半直線 [はんちょくせん] といいます。
〔以上『未来へひろがる 数学 1』より〕


『未来へひろがる 数学 2』

平成27年02月27日 検定済
61 啓林館 / 数学 832
平成30年度用 平成30年02月10日 発行
著作者 岡本和夫・森杉馨・佐々木武・根本博 ほか44名
発行所 新興出版社啓林館


3 章 一次関数

2 節 一次関数と方程式

 二元一次方程式のグラフについて学びましょう。
 (p. 77)
 これまでに調べたことをまとめると、次のようになります。

二元一次方程式とグラフ
二元一次方程式 axbyc のグラフは直線である。
特に、
  yk のグラフは、xに平行な直線である。
  xh のグラフは、yに平行な直線である。
〔以上『未来へひろがる 数学 2』より〕


直線のグラフ


 [ ※ 一般的な直線の方程式の形 ]  ax + by + c = 0

◎ a, b の値を -10 から 10 の間で、
そして、c は -100 から 100 の間で、
変化させたグラフを描いてみましょう。


 ◯ axbyc の グラフ 〔参考〕


x -  y = 


 計算式などには、間違いがないよう注意をして、何度も見なおしていますけれど、エラーの根絶はほぼ不可能です。
 計算方法の根本的なエラー等を含めて、お気づきの点がありましたら、コメントいただければ訂正いたします。

―― なお、各種資料を参照・引用した、詳しい内容のページを、以下のサイトで公開しています。
 ※ コピペしてそのまま使える、JavaScript の構文をテキスト化して掲載しています。

JavaScript《楕円の方程式》(JavaScript / 図形の基本)
http://theendoftakechan.web.fc2.com/eII/hitsuge/arcus/

2019年8月17日土曜日

日置部と刀剣と神話


アヂスキタカヒコネの剣


◉ 古事記でアヂスキタカヒコネが帯びていた剣は「其持所切大刀名、謂大量、亦名謂神度劒。」と記述され、日本書紀では「其帶劒大葉刈、〔刈、此云我里。亦名神戶劒。〕」であった。―― 記紀神話に描かれたアヂスキタカヒコネの剣の名称を、箇条書きにしてみよう。

日本書紀

大葉刈 おほはがり
神戶劒 かむどのつるぎ

古事記

大量 おほはかり
神度の劒 かむどのつるぎ


 両方の神話でほぼ同じ名が併記されていることがわかる。――〝大葉刈・大量〟の語義を〝大刃剣〟とし、またアジスキタカヒコネ(阿遅須枳高日子命)は出雲国風土記の「神門郡(かむどのこほり)」に、二度登場するので、それ故に〝神戸剣・神度剣〟を〝神門剣〟とする解釈がある。

◎ 以上は、今年の春(3月15日)に「神度の剣 ― かむどのつるぎ ―」というタイトルで書いていたものからの引用です。


―― 今回は、日置氏の伝承にかかわって、最後のほうで〈阿遅須枳高日子命〉に関係すると思われる事項を少々述べています。


日置部の伝承


 ◯ 日置部について、日本書紀の記事を参照すると、刀剣に関わる内容となっています。

日本古典文学大系 67

『日本書紀 上』

日本書紀 卷第六「垂仁天皇 三十九年十月」

[原文] 一云、五十瓊敷皇子、居于茅渟菟砥河上。而喚鍛名河上、作大刀一千口。是時、楯部・倭文部・神弓削部・神矢作部・大穴磯部・泊橿部・玉作部・神刑部・日置部・大刀佩部、幷十箇品部、賜五十瓊敷皇子。
(補注)
日置部
日置部も前後の例と併せ考えて神事に関係ある部かとも思われる。日置部の伴造である日置氏は、のち主殿寮の殿部となり、燈燭・炭燎の仕事にあたっていたことから推察すると、この部は剣など武器鍛造の際の炭燎に当っていたものか。その分布はほぼ全国にわたる。

[訓み下し文] 一に云はく、五十瓊敷皇子、茅渟の菟砥の河上に居します。鍛名は河上を喚して、大刀一千口を作らしむ。是の時に、楯部・倭文部・神弓削部・神矢作部・大穴磯部・泊橿部・玉作部・神刑部・日置部・大刀佩部、幷せて十箇の品部もて、五十瓊敷皇子に賜ふ。

(ふりがな文) あるにいはく、いにしきのみこ、ちぬのうとのかはかみにまします。かぬちなはかはかみをめして、たちちぢをつくらしむ。このときに、たてぬひべ・しとりべ・かむゆげべ・かむやはぎべ・おほあなしべ・はつかしべ・たますりべ・かむおさかべ・ひおきべ・たちはきべ、あはせてとをのとものみやつこらもて、いにしきのみこにたまふ。
〔日本古典文学大系 67『日本書紀 上』(pp. 276-277, p. 593)


 ◯ 日置部について、しばしば引用される、上田正昭氏の論文を参照しておきましょう。

『日本古代国家論究』

 Ⅱ 部民制の展開

 第二 祭官の成立「四 日祀部と日置部」

 六世紀中・末期における中央祭官としての中臣氏の登場は、前述のような王権をとりまく国内外の状況を背景とするものであったが、それはひとり王権がひつぎのながれをうけつぐものであることを、改めて確認するために、宮廷祭祀の機構をととのえたり、ひつぎの系譜を完成していったのではない。そこには、磐井の乱に端的に描きだされるような、国造層の動向に対処するためでもあった。欽明・敏達朝の朝鮮出兵軍には、筑紫国造(「欽明天皇紀」十五年の条)・筑紫火君(「欽明天皇紀」十七年の条、『百済本記』)・倭国造(「欽明天皇紀」二十三年の条)・「国造」(「敏達天皇紀」十二年の条)などの軍が参加しているが、こうした畿内・西国を中心とする国造軍の編成を有効にするためにも、在地のイデオロギー的側面を、ひつぎとその主軸である神統へと集中化し、そして中央祭官体制をととのえることが不可欠となってくるのである。
 そのことを傍証するのが、欽明・敏達朝にかかわる日祀部・日置部の設定と拡大である。日祀部の職能および分布などについては、最近示唆にとんだ考察があり(25)、その分析によって、つぎのような諸点が明らかにされている。⑴ 日祀(奉)部の分布は、京師周辺を除いては辺境の地帯に偏在していること、⑵ 他田の宮号を冠するものがあるが、「敏達天皇紀」六年の条にみえる日祀部の設置は事実を伝えたものと考えられること、⑶ 日祀部は宗教的性格を帯びた部であって、太陽信仰との関係が深く、日祀部の設定地に象徴される国土の隅々までも天皇の奉ずる太陽神の神威の下に臣服せしめるという、呪術的効果を期待されたものであるらしいこと、⑷ 祭祀担当官司の整備の下に、あらたに独立の財源=品部を設置することが必要となり、中央では中臣の下に日奉造・日奉舎人造らがあって、地方の日祀部からは、ヒノマツリに関する費用の貢納や日奉舎人の上番ないしその資養がおこなわれたことなどがそれである。
 この指摘には、大日奉の「大」を多臣の一族と解したり、あるいは『延喜式』の「儺祭詞」を即自的に日祀部の分布と対比されるなど、その論証には若干の飛躍があるけれども、そのおよその結論には賛成すべき点が多い。このことは后妃の部民とされる私部の設定が、やはり「敏達天皇紀」六年の条にみえ、その記載がほぼ史実を伝えたものであることを考証された研究とならんで(26)、ますます敏達朝における部の編成強化の背景を具体的に推察することを可能にする。というのは、皇妃の経済的基礎としての私部の設定や、日の神のまつりとつながりをもち伊勢斎宮との関係を推定させる日祀部の設置は、前述の祭官体制整備にみる宮廷組織の確立過程と無関係のものではなかったと考えられるからである。
 このことをより明確にするために、日置部についての論究をこころみることにする。日置の古訓がなんであったかについては、その語義ならびに日置部の職能とからんで、これまでにもいろいろと論議されているが、その中でも最も注目すべき代表的見解としては、つぎのようなものがある。⑴ ヘキというのが古く、それは戸数を調べ置くの意であり、租の徴収と関係があるとするもの(27)。⑵ ヒオキというのが古く、暦法あるいは卜占と関係があるとするもの(28)、したがってこの見解では日置部は、日置祀部の略ないし日祀部は日置部の一種と解釈される。⑶ ヘキよりもヒオキが古く、浄火を常置し、神事とつながりがあるとするものなどである(29)
 しかし第一・第二の説には、つぎのような点からいって疑問がある。まず戸置きと解する説は、それを証するに足る史実を認めがたいし、後述するように、日祀部と日置部の分布状況もかなりの点で異なっていて、日祀=日置ないしあるいは日置部が日祀部と同種のものであるとは単純にはいいえない。第三の説は注目すべきものであるが、仮名づかいのうえで、日置の日は甲類であり、その字義をすぐさま乙類の火に求めるのには難点がある。
 しからば日置部の実態はいかなるものであったのか。これを可能な限りみきわめてみよう。まず日置部に関する史料としては、どのようなものが、最も注意すべきものであろうか。そのことから考えてみたい。日置部に関する史料にはつぎのようなものがある。

⑴ 石上神宮の創祀にまつわる「垂仁天皇紀」三十九年の註記にみえる一〇箇の品部、その中の日置部。
⑵ 神を審神する人を求めた時に、日置部の祖が卜にあって審神にたずさわったとする『尾張国風土記』逸文の記述。
⑶ 出雲国には日置部臣 ― 日置部首 ― 日置部の存在が『出雲国風土記』「出雲国計会帳」「出雲国大税賑給歴名帳」などによって知られるが、その職能は「政を為す所」と関係があり、日置伴部や日置志毘らは欽明朝に派遣されたものであるとする『出雲国風土記』の所伝。
⑷『三代実録』元慶六年十二月二十五日の条に主殿寮殿部の異姓入色に関して「先是、宮内省言、主殿寮申請、検職員令殿部卌人以日置、子部、車持、笠取、鴨五姓人為之」とある記載。

 もとよりこれ以外にも、日置ないし日置部に関連のある記述または所伝は、「応神天皇記」の分註祖先系譜にみえる「幣岐君」、『万葉集』『続日本紀』「計帳」『新撰姓氏録』などに散見する日置造・日置首・日置、『和名抄』『延喜式』にみえる日置郷・日置神社など、さらに『延喜式』に記す「出雲の内外日置田」などがあげられる。けれどもその職能や性格を知るのに最も注目すべきものとしては、前記の事項が重要である。
 これらの各事項から帰納される日置部の実態とはいかなるものであろうか。まず関心をひくのは、日置の古訓の多くは、ヒオキとされており、⑵ および ⑶ の所伝よりも指摘しうるように、その職能は神事ないし宗教と密接な関係にあり、⑴ および ⑷ の事項も、石上の神事や宮廷儀礼とかかわりの深いものであることである。日置部の性格には祭祀的機能が濃厚であるといってよい。次に ⑴ のいわゆる石上神宮創祀をめぐる一〇箇の品部の内容についてみると、それらは楯部・神弓削部・神矢作部・大刀佩部などのように神への貢納物としての武器製作や、玉作部・倭文部・泊橿部(泥部)・大穴磯部などというように、神事とつながりをもつ手工業関係のものが多い。これとならんで記述される日置部も、神事にかかわる職能をもっていたのではないかと推定される(30)
 ⑷ の記載についてみると、殿部が本来日置ら五姓の負名氏によって形づくられていたことが知られるが、ここにいう五姓は、「職員令」(宮内省主殿寮条文)と対比すると明瞭なように、「供御輿輦」が車持の職能であり、「蓋笠・緻扇」が笠取、「帷帳・湯沐・殿庭の酒掃」が子部、「松柴・炭燎」が鴨であって、日置のたずさわったのは「燈燭」であったことが判明する(31)。そしてそれは、たんなる火の管掌でなく、律令官司制下にあっては、庭火などは鴨に、油火・蠟火が日置の管掌するところであった(『令義解』『令集解』)
 これらの史料にみえるところを整理すると、日置部は神事や祭祀と関係のある部であって、日祀部とは職能を異にするものであったこと、律令官司にあっては中央日置は浄火の管理にたずさわるものであったことなどが示されている。日祀=日置ではなく、日の神つまり太陽霊の輝きとかげりをみる日置であって、審神や日読みなどの仕事にたずさわる形態より、やがて日の神の霊をうける日継ぎの神事とのかかわりから、その象徴としての火継ぎの行事にも関係するようになり、やがて日置のなかには、本来の日置より火置へという混同がおこり、宮内省の日置のように浄火の管掌にたずさわるものがでてきたのではなかろうか。その点では、日嗣の象徴としての火継ぎ神事の伝習を長く保持した出雲国造の関係地域に日置集団が濃厚に分布し、かつ日置田などが特設されているのは興味深いものがある。そして『出雲国風土記』のいうところでは日置伴部や日置志毘の派遣が、中央祭官組織の整備の過程で、重要な画期となる欽明朝に求めていることも見逃せない。

  註
(25) 岡田精司「日奉部と神祇官先行官司」(『歴史学研究』二七八)。
(26) 岸俊男「光明立后の史的意義」(『ヒストリア』二〇)。
(27) 栗田寛『栗里先生雑著』、太田亮『姓氏家系大辞典』。
(28) 折口信夫『全集』三・八、柳田国男「妹の力」(『全集」九所収)。松前健「日置部の一考察」(『神道宗教』三二)の論究によれば、日置部は帰化人系の団体であり、卜占暦法を主とするものであって、それが本来の姿であったと推定されている。折口・柳田説を継承した見解である。
(29) 中山太郎「日置部異考」(『日本民俗学』歴史篇)、前川明久「日置氏の研究」(『法政史学』一〇)。
(30) 前川明久「日置氏の研究」(『法政史学』一〇)。ただしこの伝承によってただちに、火の製作・管理の部としての性格が、本来的なものとすることはできないと考える。なお『釈日本紀』所引の『尾張国風土記』逸文にみえる日置部らの祖という建岡君の審神伝承も注目すべきものである。
(31) 井上光貞「カモ県主の研究」(『日本古代史論集』上)。
〔上田正昭/著『日本古代国家論究』昭和43年11月30日 塙書房/発行 (pp. 236-240)

The End of Takechan


◎ 上田正昭氏の論に紹介されていた、『釈日本紀』所引の『尾張国風土記』逸文にみえる日置部らの祖という建岡君の審神伝承と、少しばかり関連しそうな説話が出雲国風土記にあります。


 ◯ 尾張国風土記逸文には、〝タクの国の神〟である《アマノミカツヒメ(阿麻乃弥加都比女)》が登場しますが、いっぽう出雲国風土記の「楯縫郡 神名樋山」の条には、「阿遅須枳高日子命之后(アヂスキタカヒコノミコトのきさき)」である《アメノミカヂヒメノミコト(天御梶日女命)》が〝タクの村でタギツヒコノミコトを産んだ〟という古老の伝が、記されているのです。出雲国風土記「秋鹿郡 伊農郷」の条には、同じ神と思われる《アメノミカツヒメノミコト(天𤭖津日女命)》が登場しています。

 ◯ また、同じ尾張国風土記逸文では、記紀にも記録されている〝ホムツワケノミコがものを言わない状態〟が描かれていますけれども、出雲国風土記には、同様に〝アヂスキタカヒコノミコトがものを言わない状態〟が、「仁多郡 三沢郷」の条で詳しく記述されているのです。
出雲国風土記に登場する《アヂスキタカヒコノミコト》の別伝は、出雲国風土記「神門郡 日置郷」の条につづく「神門郡 塩谷郷」の条などにあって、さらに「意宇郡 賀茂神戸」には次の伝承もあります。

所造天下大神命之御子 阿遅須枳高日子命 坐葛城賀茂社 此神之神戸 故云鴨

天の下造らしし大神の命の御子、阿遅須枳高日子命、葛城の賀茂の社に坐す。此の神の神戸なり。故、鴨といふ。
(あめのしたつくらししおほかみのみことのみこ、あぢすきたかひこのみこと、かづらきのかものやしろにいます。このかみのかむべなり。かれ、かもといふ。)

―― この記録は今回参照した〝「松柴・炭燎」が〟であったり、あるいは〝日置氏燈燭・炭燎の仕事にあたっていた〟ことなどと、関連するのでしょうか。

◎ そして《ヒノキミ》の関連事項として。―― 肥前国風土記の冒頭には、崇神天皇の時代に〝肥後の国の益城の郡の朝来名の峰〟に土蜘蛛がいたので、朝廷は〝肥君らの祖〟である《タケヲクミ(健緒組)》を派遣したことが記録されています。この名称が《タケヲカノキミ(建岡君)》に少し似ていてちょいとばかり気になるのです。


Google サイト で、本日、もう少し詳しい内容のページを公開しました。

日置部・忍海部と古代の製鉄神(日置部・忍海部と製鉄の神)
https://sites.google.com/view/hitsuge/arcus/hioki


―― パソコン向けに、同じ内容のページを、以下のサイトで公開しています。

日置部・忍海部と古代の製鉄神(日置部・忍海部と製鉄の神)
http://theendoftakechan.web.fc2.com/eII/hitsuge/hioki.html

2019年8月8日木曜日

解慕漱:《カモス》の神と《クマソ》の神

 ◯ 熊は《山の神》でもありますが、地名研究の書には、熊本はもと隈本であったという説が、述べられています。
〔金沢庄三郎/著『日韓古地名の研究』平成06年09月01日 草風館/発行「第三部 地名の研究」(pp. 399-400)

 ◯ また、クマは「おくまった」場所を指すことが、古い記録(『出雲国風土記』「飯石の郡 熊谷 [くまたに] の郷」など)に残されています。

―― いっぽう、クマだけでなく「こもる」に通じるコモについて、以前に資料を参照したことがありました。


 今年の初め(2019年1月18日金曜日)に、「神魂の神 / 赤猪の神話」と題して書いた内容から、抜粋します。

○ 日本語の〝〟は朝鮮語の〝カムカル〟と音韻が通じるのだし、また日本語の〝〟は朝鮮語の〝コモ〟であったのだろう。このことと、当時は〈カモス〉と訓まれていた「解慕漱」の語の、朝鮮半島での現在の発音が〈ヘモス〉に変化したのだとする説は、矛盾しない。これも有力な仮説のひとつと思われる。

『キトラ古墳とその時代』

Ⅴ 古代出雲と妻木晩田遺跡

 3 古代出雲にみる朝鮮文化の重層 ―― 高句麗と新羅関係を中心にして ――

 一 神魂神社とカモス神
 古代出雲における新羅と高句麗文化の累積・重層化をさぐるために、出雲東部の意宇郡・大庭にある神魂[かもす]神社とカモス神を従来の理解から離れて検証する必要がある。というは、高句麗からの神話・信仰を基底に敷くものと解釈するからである。
 神魂神社のカモス神については、これまでさまざまな見解が加えられてきたが、そのカモス神とは一体何であるのだろうか。
 神魂神を『古事記』では神産巣日[かみむすび]神、『書紀』では神皇産霊尊としてカミムスビと仮名をふって訓[よ]んでいるが、神魂神のカモスはカモスであって他にならないはずである。
 門脇禎二氏は、このカモス神の「カモスの称が残りつづけたのは、朝鮮に発したコモスの始祖霊信仰によるとみられる(1)」と興味深い理解の仕方をしめしている。能登の珠洲市に式内社として登記された古麻志比古[こましひこ]神社がある。この神社については、神社名の古麻志比古から高麗(コマ)・魂(シ)・彦とみて、高句麗系渡来人の神社とみる解釈があった。
 ところが門脇氏は、古麻志比古神社の本来の祭神は、日子座王[ひこますおう]命であるから、祭神じたいをより重視すれば問題が残ってくるとして、「古麻志のコマは、コモ(熊)が呪術と修業によって天神の子を生むという朝鮮の平壌地方にあった呪術的な民間信仰のひとつでコモ(熊)・ス(霊)であった」という説をとりいれ、このコモ・スが神魂(カモス)信仰として出雲神話にみえるカモス信仰へと発達し、こうした始祖霊信仰が、つぎの始祖的人格信仰の前提、例えば彦坐王信仰になると解釈した。つまり、能登の古麻志比古神社の原像や出雲の神魂神社の原像を、「朝鮮の土着的な呪術信仰」にもとづくカモス(シ)信仰に求めたのであった。
 筆者はカモス神と神魂神社の原像を「朝鮮の土着的な呪術信仰」に求めるのではなく、すでに修飾化され、人間化された始祖的な人格信仰として、高句麗建国神話に登場してくる天帝の子・解慕漱(朝鮮語ではヘモス)から由来していると解釈している。解慕漱[ヘモス]とは言うまでもなく『旧三国史』や『三国史記』が伝えているように河伯の娘・柳花と結ばれた「天帝子」である。その天帝の子が高句麗始祖王の朱蒙である。
 『三国史記(2)』と『三国遺事(3)』が記載している解慕漱の解(ヘ)の古い読みは「カ」であるから、古代朝鮮語のように読めば解慕漱=カモスである。このカモスが出雲の神魂神社のカモス神の原像であると考える。
 柳烈氏は『三国時代の吏読についての研究』において『三国史記』と『三国遺事』に記載された解慕漱の解(ヘ)についてふれ、「『解[ヘ]』字の『ヘ』は、古い形態である『解[カ]』字の『カ』の音韻変化である(4)」と指摘している。
 このようにカモス神を理解すれば、出雲のカモス神と同時に、能登の古麻志比古神社の原像もふくめて高句麗的性格が解明されるのではないだろうか。
 カモス神は出雲国の本拠地である意宇の地にあって、この地の「土着信仰のカモス神」として根強かったが、本来の姿は高句麗渡来のカモス神であった。ところで意宇平野の元来の地主神・農業神は熊野大神であったが、出雲東部の政治経済的発展にともなって、より政治的なカモス神として生みだされていったものと思われる。門脇禎二氏が指摘しているように、畿内大和朝廷による出雲最初の支配者、すなわち最初の国司である忌部首小首[いんべのおびとこおびと]が、自らの祖先神とカモス神を結びつけて崇拝したものと思われる。こうして神魂神社は出雲国造の館におかれるようになった。
 カモス神が高句麗神話から創出された出雲在地の信仰であるとすれば、当然のことながら、それをもたらした高句麗からの直接の渡来か、出雲と朝鮮、この場合は日本海を介しての対岸交流の結果によるものであろう。この高句麗からの渡来と交流をより直截的に証しうるのは、考古学上の遺物・遺跡であろう。
 この点で注目されるのは、出雲意宇の東部の安来平野であるが、この地域の横穴古墳から「高麗剣」とよばれる双竜環頭大刀などが出土して高句麗系移民の来着をうかがわせる。

(1) 門脇禎二『日本海域の古代史』 東京大学出版会 一〇一~二頁。
(2) 『三国史記』巻一三 高句麗本紀 『始祖東明聖王 姓高氏 諱朱蒙』「自称天帝子解慕漱」。
(3) 『三国遺事』紀異第一 古朝鮮「以唐高即位五十年庚寅」紀異第二 高句麗「解慕漱私洞伯之女而後産朱蒙」。
(4) 柳烈『三国時代の吏読について』平壌 科学・百科事典出版社 二〇九~一〇頁。
〔全浩天/著『キトラ古墳とその時代』(pp. 223-225)


 ◯ 今回、日置氏について調べていたところ、《クマソ》も「解慕漱」の語からの転訛であるという論説に遭遇しました。


『トンカラ・リンと狗奴国の謎』

 狗奴国(肥の国)を建てた高句麗族「二 肥の国に遺る高句麗の痕跡を探す」

 3 固有名詞に見られる高句麗的特色

 クマソの正体は何者か
 (p. 176)
 ⑵ 族名 ―― 熊襲と解慕漱、狗古・火の君・日置
a 熊襲と解慕漱 古代史の多くの謎の中で、今なお不明のままになっている問題の一つに「クマソ」がある。その成分や性格などについては何ひとつ解明されていない。記紀の中に見えるクマソ関係記事は、多分に伝承的な説話であって、史的要素は皆無である。ではいったいクマソというのは何であろうか。実は、このクマソこそほかならぬ九州中西部へ移住してきて定着していた高句麗族なのである。したがって狗奴国を建て、長年にわたって女王卑弥呼と不和、対立、相戦った張本人である。つぎにクマソの語義や、それを族名にしたわけを説明しよう。

 クマソとは最高神の名
 (pp. 179-180)
 クマソは、高句麗、夫余、沃沮などの北方諸族が、彼らの信仰上の最高の神の名号、「解慕漱[カモソ]」ᄀᆡᆷ소[갬소]・kʌjm-so←kʌ-mï-so)と同意語の異写である。九州の中西部一帯に勢力をもっていた高句麗族の集団は、自分らの居住地を「肥[コマ]の国」と呼び、自分たちの集団(種族)を「クマソ・カムソ」と自称していたのである。では、つぎにこの「解慕漱」の語義と、この「解慕漱」が熊襲と一致するわけを述べることにする。
 朝鮮側の史書、『三国史記』(高句麗本紀・始祖東明聖王)と『三国遺事』(「北夫余・高句麗」)にはいずれも高句麗の建国神話がのっており、それによると、天帝の子(「北夫余」条には「天帝」となっている)である解慕漱(一名、天王郎)が河伯の女と結婚して朱蒙をうんだとある。一方、『三国遺事』や『帝王韻記』、『世宗実録』(地理志条)に引用されている『古記』の記録には、檀君神話がのっている。それによると、天帝の子である桓雄が太伯山のうえにあった神壇樹に降りてきて、熊女と結婚し、檀君をうんだというのである。この両神話は同じ構造と内容のものである。

 (p. 182)
 梁柱東博士は、「解慕漱」を「カム・ス」(ᄀᆞᆷ[감]・수、kʌm-su)の音借字であると解し、「カム」は「神」、「ス」は「雄」とみている。つまり「男神」のことで、「神雄」(桓雄)と書いたのは「カム・ス」の朝鮮語を漢文で訳した表記だという。
 解慕=熊、漱=襲となる。
 (あるいは、曾=tsö、漱=tso であって、甲・乙類の相違を問題視するかも知れないが、上古の表記はのちの奈良朝の万葉仮名表記のように厳格でもなく、例外も多い。これは上古時代の人々の発音の不安定にもよるし、また漢音ですべての外国人の発音を正確に全部を表記できなかった事情にもよるのである。)

 豪族名も高句麗系を証明する
 (pp. 184-186)
b 狗古・火の君・日置 菊池川流域から八代平野にかけて、勢力をもっていたいく人かの豪族の名が伝わっており、それらもみな高句麗系である。その中から後世まで影響力をおよぼした豪族名についてみることにする。
狗古氏 狗奴国における行政上の最高責任者であった狗古智卑狗の狗古は、高句麗の貴族の称号である「古離加」と同じであることはすでに前に説明したとおりであるが、この「狗古」があとになって「菊」また「古閑」という字におきかえられて、地名、人名に使われている。「菊」の字のつく例は、「菊池川・菊池郡・鞠智[くくち]城」などの水名や名称があり、古閑は地名として玉名郡の菊水町に多い。大字の中の用水・蜻浦・内田・久井原・竈門一帯に集中している。古閑を名のる姓もある。菊・古閑の地名はみな狗古氏の後孫の居住地である。
火の君 この豪族は、「城南町付近に発生し、四世紀に宇土地方に本拠をおき、五世紀末には八代平野に移っていた」(松本雅明編『熊本の装飾古墳』)ようである。火の君系の古墳として知られているのは大野窟古墳(八代郡竜北村大字大野芝原所在)であるが、封土墳の構造形式は典型的な高句麗の二室墓制を備えており、九州最大の規模のものである。「火[ひ]の君」は、前の 「肥の国条で述べたとおり、「肥[コマ]の君」と読むべきである。「肥[コマ]の国」があとで火(肥)の国」 と読み方が変ったように、「火の君」もすでに説明したとおり四世紀ごろからすでに存在していたのが事実であるならば、当然「肥[コマ]の君」と呼ばねばならない。この正しい呼び名が、何時の時代から誤読され、そのまま今日におよび、あげくのはては、根拠のない「火の君」という「火」にこだわる異説まで派生する始末になったのは心外である。地下の「肥[コマ]の名」はさぞ失笑しているにちがいない。「火(肥)の君」の葬地が「芝原[セバル]」であるのも、船山古墳の清原[セバル]と同名で、これは「肥の君」の身分が船山古墳被葬者の身分と同格であったことを示唆している。宇土を根拠地にしていたことは、この地点が高句麗へ向けて大船団が出航したり入航したりした地点と思われ、したがって「肥(火)の君」は輸送のことをつかさどる最高責任者であったろう。
日置氏 菊池川流域に大勢力を持っていた豪族の一人に日置[ヘキ]氏がいた。そして日置氏の職分は製鉄の専門技師であったらしいことを、*井上辰雄教授は述べている。井上によると、菊池川流域は古代から砂鉄の産地であり、緒方勉氏によって発掘された菊水町の諏訪原遺跡から、弥生時代に原始的な製鉄が行なわれていたことが証明されているし、玉名市に接する伊倉の地には鍛冶と関係の深い宇佐社が進出するのは、この地の砂鉄に着目したからだと述べている。

* 日置はヒオキ→ヒキ→ヘキとその名を変えて呼ばれるが、その中心勢力は玉名の立願寺あたりにあったらしい。ここには延喜式の神名帳に記されている疋野[ひきの]神社が祀られているが、疋野は「日置野」乃至「日置の」の意味であろう。「玉名郡人、外少初位下、日置卸(郡)公、権擬少領」と記した火葬骨蔵壺の墓誌銅板が発見されており、菊鹿町にも「疋田[ひきた]」という地名が残されている。さらに菊池川の中流域の山鹿市付近にも「日置[へき]」という地名もあり、菊池川全流域は日置氏の領域下にあったのである(「菊池川流域の古代祭祀遺跡」・『東アジアの古代文化』第五号)。

 (p. 187)
「日」の朝鮮語の訓は「へ」(ᄒᆡ[해]、hʌj)である。「ヘキ」は「日官」の意をあらわし、天文、気象などのことをつかさどり、上で言及した製鉄の専門技術師でもあったようである。
〔金思燁/著『トンカラ・リンと狗奴国の謎』〕



 ◯ 日置氏の謎は、あらためて考えるとして、日置氏の勢力圏とされる〈疋野神社〉の北東部にある、江田船山古墳出土の太刀の「大王」名は、昭和 53 年 (1978) に、稲荷山古墳出土の鉄剣銘の解読で「雄略天皇」仮説が登場し、どうやら、ひとまずは落ち着いたようです。


『東アジア世界における 日本古代史講座』 第 3 巻

「九 江田船山古墳出土大刀の銘文 ― 付・隅田八幡宮画像鏡銘関係文献目錄 ―」

佐伯有清 [さえき・ありきよ]

 6 稲荷山鉄剣銘文の発見

 このように江田船山古墳出土大刀銘の研究が混沌としている状況の中で、あらたに埼玉県行田市稲荷山古墳の鉄剣銘文が発見されたのであった。それは金象嵌された百十五文字からなる銘文であり、江田船山の大刀銘の解読に資するところ大なるものがあると判断された。いまここに私見をまじえて判読した銘文を掲げるとつぎのごとくである。

辛亥年七月中記乎[犭隻[獲]]居直上祖名意冨比垝其児多加利足尼其児名[丂―[弖]]已加利[犭隻]居其児名多加[爿皮[狓]]次[犭隻]居其児名多沙鬼[犭隻]居其児名半[丂―]比其児名加差[爿皮]余其児名乎[犭隻]居直世々為杖刀人首奉事来至今[犭隻]加多支[占九[卤]]大王寺在斯鬼宮時吾左治天下令作此百練利刀記吾奉事根[原]也

 この新銘文を読み下し文にしてみると、

辛亥の年七月中、記す。乎獲居直[をのわけのあたひ]の上祖[かみつおや]の名は、意冨比垝[おほひこ]、其の児は多加利足尼[たかりのすくね]、其の児の名は弖已加利獲居[てよかりのわけ]、其の児の名は多加狓次獲居[たかひしのわけ]、其の児の名は多沙鬼獲居[たさきのわけ]、其の児の名は半弖比[はてひ]、其の児の名は加差狓余[かさひよ]、其の児の名は乎獲居直[おのわけのあたひ]。世々、杖刀人の首[おびと]と為[な]り、事[つか]へ奉[まつ]り来りて、今に至る。獲加多支卤大王[わかたけるのおほきみ]の寺[つかさ]斯鬼宮[しきのみや]に在[あ]る時、吾[われ]天下を治むることを左[たす]け、此の百練の利刀を作ら令[し]めて、吾事[つか]へ奉[まつ]る根[原]を記す也。

 江田船山古墳出土の大刀銘との関連で、新銘文の記載の、注目されるところを指摘すれば、すでに言及されているように、それは「獲加多支卤大王」の部分である。
 「獲加多支卤大王」は「ワカタケルノオホキミ」であって、最初に新銘文を判読した岸俊男・田中稔・狩野久の諸氏によって、雄略天皇の諱、『古事記』の大長谷若建命の「若建」、『日本書紀』の大泊瀬幼武天皇の「幼武」に比定されたように雄略天皇とみなしてよいであろう。
 …………
 最後に江田船山古墳出土の大刀銘の私見による釈文と読み下し文を掲げて、今後の参考に資したい。

〔釈文〕
治天下獲[加多支]鹵大王世奉事典曹人名无[利]弖八月中用大錡釜幷四尺[辶手[逓]]刀八十練六十捃三寸上好利刀服此刀者長寿子孫注〻得三恩也不失其所統作刀者名伊太[於]書者張安也

〔読み下し文〕
天下を治[しろ]しめす獲[加多支]鹵大王の世に、事[つか]へ奉りし典曹人、名は无[利]弖[むりて]、八月中、大錡釜幷びに四尺の逓刀を用ひ、八十練六十捃三寸せし上好の利刀なり。此の刀を服せば、長寿にして子孫注々として三恩を得る也。其の統[す]ぶる所も失はず。刀を作りし者、名は伊太[於]、書く者は、張安也。
〔佐伯有清「江田船山古墳出土大刀の銘文」『東アジア世界における 日本古代史講座』 第 3 巻 (pp. 268-270)



 ◯ 記紀の記録に雄略天皇の宮は「長谷朝倉(泊瀬朝倉)」とされていて、それは〝シキの宮〟とはなっていないのですけれど、それをたとえば〝ヤマトのシキのハツセのアサクラの宮〟のように理解することで、まったくもって矛盾はないというのが、主流派の論であるようです。
―― 蛇足ながら、稲荷山古墳の南方約 40 km に位置する、埼玉県志木市とも、関係がないようです。


『倭王と古墳の謎』

「三 斯鬼宮と朝倉宮 ―― 雄略の宮所 ――」

高野政昭 [たかの・まさあき]

 朝倉宮と斯鬼宮

 朝倉宮  雄略天皇の和風諡号[わふうしごう]は大泊瀬幼武[おおはつせわかたける]天皇といいますが、最初の「おお」は立派とか素晴らしいといった美称です。「はつせ」は地名で、そのあたりに宮を定めたからといいます。「わかたけ」は若々しくて力強いといった意味あいでしょうか。
 その宮の名が『日本書紀』では泊瀬朝倉宮、『古事記』では長谷朝倉宮と記されています。泊瀬は現在の奈良県桜井市初瀬町から、出雲・黒崎町あたりといわれています。近鉄の大阪線の電車で行きますと桜井のひとつ先に朝倉という駅がありますが、そこから次の長谷寺までの谷筋にあたります。
 泊瀬という地名は、川の上流域を意味する地名といわれていまして、初瀬・長谷も同じです。長谷は、「飛鳥[とぶとり]の明日香」と同じ使い方で、「長谷の初瀬」という枕詞になっています。また、山に取り囲まれた谷間を意味する「隠国[こもりく]」も初瀬にかかる枕詞です。『万葉集』巻一三の雄略天皇の歌に「隠国の 泊瀬小国[はつせをくに]に よばひ為[せ]す …」とみえる泊瀬小国は現在の桜井から宇陀郡に至る渓谷の総称です。

 斯鬼宮  一方、埼玉県の稲荷山古墳から出土した鉄剣には、「辛亥年七月中記す …」で始まる銘文が、表裏合わせて一一五文字、金象嵌されて発見されました。そこには、雄略天皇を指す「獲加多支鹵の大王の寺、斯鬼の宮に在る時、…」と続いています。
 ここに出てくる寺とは、朝廷とか役所の建物を意味します。そして、その寺の名はシキ宮と書いてあるわけです。では、朝倉宮とシキ宮との関係はどうなっているのでしょうか。
 実はこの二つの宮の名は同じものを指しているとみられます。それは、鉄剣銘のシキ宮については、泊瀬朝倉宮の所在地が広義の磯城の地域に含まれていますので、当時は斯鬼宮と呼ばれていたと考えられるからです。
 『古事記』の垂仁天皇の段に「名を曙立王[あけたつのおう]に賜いて、倭[やまと]は師木[しき]の登美[とみ]の豊朝倉[とよあさくら]の曙立王[あけたつのおう]と謂ひき」という記載があります。曙立王というのは開化天皇の曾孫にあたります。このことから、倭の中にシキがあり、さらにその中に登美があって、そこに朝倉と呼ばれるところがあることがわかります。つまり、朝倉を含めた地域がシキなので、泊瀬朝倉宮はより地域を限定した呼び方だといえるわけです。
〔高野政昭「斯鬼宮と朝倉宮」『倭王と古墳の謎』(p. 87, pp. 89-90)


◎ 肥の熊本から出土した太刀の銘を追っていて、どういうわけだかまたしてもクマだけでなく「こもる」に通じる「隠国[こもりく]」の語が、雄略天皇の記事に登場しました。


Google サイト で、本日、もう少し詳しい内容のページを公開しました。

トンカラリンと船山古墳
https://sites.google.com/view/hitsuge/arcus/triangle


―― 内容をそれよりもやや詳しくしたページを、以下のサイトで公開しています。

九州の三角形 / トンカラリンと船山古墳
http://theendoftakechan.web.fc2.com/eII/hitsuge/triangle.html