2018年4月26日木曜日

スティグマ:聖なる〈烙印〉

 前回、フレイザーによる〈王殺し〉のテーマを金枝篇』初版の「第 2 章 第 1 節」の記述にみた。
 それによると超自然的な力をもつと考えられた王や祭司は、
その結果、自然の移り行きは多かれ少なかれ王や祭司の支配下にあるとみなされ、そのため王や祭司は、悪天候や穀物の不作やその他同類の惨禍の責任を負わされる。
それゆえ、旱魃や凶作や疫病や嵐が起これば、人々はこの災いを、彼らの王の怠慢もしくは罪であるとし、王にしかるべき罰を下す。鞭打ちや縛めという罰の場合もあれば、改悛の兆しが見られないと、廃位や死の罰が下される場合もある。
と、いう次第となる。
―― その、少しあとの「第 2 章 第 3 節」には、異邦人にかかわる危険を回避するための儀式が詳述されている。

 王のタブーの目的は王をあらゆる危険の源から隔離することであるから、その結果は概して、王に隠遁生活 ―― その隠遁の度合いは、王の守るべきタブーの数と厳重さ次第だが ―― を強いることになる。さて、あらゆる危険の源のうち、蛮人がもっとも恐れるのは呪術と妖術であり、蛮人はいかなる異邦人に対しても、この邪悪な魔法を行うのではないかと疑いの目を向ける。…… このため、ある地域に入ることを異邦人に許可する前に、あるいは少なくとも、その地域の住民と自由に交流することを許可する前に、しばしば土地の原住民は、ある種の儀式を執り行って、異邦人から呪術の能力を取り上げようとする。異邦人から発するものと信じられている破壊的な霊気を妨げようとし、原住民たちが取り囲まれることになる汚染された外気を、いわば消毒しようとするのである。
…………
 こうした異国からの訪問者に対して抱かれる恐怖は、しばしば相互に作用するものである。見知らぬ土地に入った蛮人は、自分が魔の土地に踏み込んだように感じる。そこで、その地に取りつく悪霊たちと住民の執り行う呪術に対し、警戒姿勢を取る。たとえばマオリ族〔ニュージーランドのポリネシア系先住民〕は、見知らぬ土地に入ると、そこが以前から「神聖」(tapu) な地であるといけないので、これを「普通」(noa) のものにするために、いくつかの儀式を執り行った。
〔 J・G・フレイザー/著『初版 金枝篇』(上) 吉川信/訳 2003年 ちくま学芸文庫 (pp.217-218, pp.222-223)

 タブー (taboo) とは、聖なる禁忌であり、ポリネシア語の「聖なる」を意味する語 (tabu, tapu) に由来する。そのものに触れたりその名を口に出したりしてはならないとされる存在・事柄のことだ。
 畏怖すべき対象については、だから本当のことは、決して口にしてはならないのだ。
 そんな、真実を語るべからざるは、聖別されたものに限らない。畏怖さえあれば、あらゆる権威に〈タブー〉が発生するようになる。そして、その〈タブー〉を冒すものは、冒涜者(ぼうとくしゃ)のレッテルを貼られる。
 レッテルは、オランダ語の letter からきたカタカナ語で、「レッテルを貼る」とは「札(ふだ)を付ける」行為にほかならない。英語では a label だ。「レッテルを貼られた」で be labeled となる。
 こうして「札付きの悪党」が誕生する。彼らは世間からマークされた状態となる。
 もっと強力に俗世間から〈排除〉もしくは〈聖別〉するために、つけられる特殊なラベルを「スティグマ (stigma) 」ということがある。
 これはギリシャ語の「スティグマ」に由来する語で、新約聖書「ガラテヤの信徒への手紙」の記述にも刻まれている。

わたしは、イエスの焼き印を身に受けているのです。
〔『聖書』新共同訳「ガラテヤの信徒への手紙」 6. 17 より〕

 この「焼き印」の語句は、聖書ギリシャ語原典で「スティグマタ」となっている。
 宗教的な言葉として、英語の stigmata は『新カトリック大事典』で〈聖痕(せいこん)〉の項目に該当の記述がある。
 英語では stigmatastigma の複数形だけどその複数形の形で「聖痕」を意味する。
 ちなみに、図書館にあった英語訳聖書の一冊でこの「ガラテヤの信徒への手紙」を確認すると、
イエスの焼き印」の個所は the marks of Jesus
と、英訳されていた。
 日本語で「スティグマ」といえば〈烙印〉のイメージが強いけれど、本来的には「焼き印」で、英語では the marks となるのだろう。

 かくしてそれ以降、「スティグマ」は「聖別された存在」にも顕われるとされるのだけれども、上にも書いたように俗世間では、〈聖別〉と〈排除〉は同じ操作を民衆に要求する。
 すなわち「烙印づけによる排除」と「聖痕による聖化」とは、同じ効果をもたらす、といわれる。つまりはいずれもともに、日常において〝触れてはならないもの〟としての〈禁忌〉の対象となるのだ。
―― このあたりの事情を歴史的な例を交えて解説してある文献から、引用する。

 ところで、ある人物の肉体に生じた、あるいは作られた宗教的意味を含むしるし(マーク)は一般に聖痕[せいこん]と呼ばれる。この語は、ラテン語やギリシア語のスティグマ (stigma) の訳語として用いられているが、本来は奴隷[どれい]や罪人の肉体に押した烙印[らくいん]・刻印を意味した。スティグマが聖痕の意味に用いられる代表的な例としては、アッシジの聖フランシスに現われたとされるイエス・キリストの傷痕がある。一二二四年の秋、聖フランシスは数人の弟子と共に、アペニン山中の孤峰ヴェルナ山に籠り、瞑想[めいそう]にふけっていた。
 ある日、彼はイエスの受難の想いに満たされていたとき、幻想の中で六枚の翼をもった天使が彼の頭上に立ち、翼を拡げて十字架上に釘づけにされるのを見た。短時間ではあったが、彼を忘我の境にさまよわせたのちに幻想は消えた。しかし程なく聖痕が現れた。彼の両手、両足には釘のしるしが現れ、脇腹には槍でつけられたしるしができ、そこには血がにじんでいたという。
 聖痕とは、このように、人間の肉体にたいする超自然的なの作用の痕跡であり、その人物を聖別する徴証なのである。聖フランシスは聖痕の出現という信仰的事実によってその聖性を高め、いよいよ一般人とは区別された存在になってゆくからである。
 それにしてもスティグマの語が、カトリックの聖者の聖なるしるしを意味すると同時に、奴隷や罪人に印されたしるしをも表わしていることは、きわめて示唆的であるように思われる。それは人間にとって、最高に善き、望ましき領域を示す指標であり、また最高(低)に悪しき、望ましくなき枠を表わす基準でもあるといえよう。またそれは神性と共に悪魔性をも含意する両義的な語であるともいえよう。
〔佐々木宏幹/著『宗教人類学』1995年 講談社学術文庫 (pp.118-119)

―― 最後にもうひとつ、このマーク(徴)づけの意味合いを考察した文献を紹介したい。

「徴を持たない」項というのは、範疇全体かまたは、「徴つき」項が他を切り捨てて残ったものとしての部分を示す。両者の違いは「徴なし」の方が意識にのぼらないことである。だから「徴なし」の方は全体の一部を示すものではあるのだが、「徴つき」の項ではその出現が強調されるような一定の弁別的特徴の存否は、不問に付されるのである。「不良少年」という表現(徴つき)があっても、「善良少年」という表現はない。
…………
 そこで我々は「異人[ストレンジャー]」は、こうした記号論的分裂を常に促進する媒体(モディファイアーでありアクチュアライザー)であるということを知るのである。つまり「徴を加える」変形主体または生気づけの主体のすでに存在している記号に対する関係は、より細かい、より微細な、より弁別的な基準を、以前は渾然としていた範疇に持ち込む働きをし、記号の細分枝化、記号論的コードの増殖を可能にする途を提供することを知るのである。それゆえ、行為の「徴あり」、つまり弁別性のある下位パターンの出現は、より広汎な役割における新しい「徴あり」の、より限定されたサブ・カテゴリーの認知につながるはずである。
 このように、意味の単位は、特定の記号そのものに内在するのではなく、それが対をなす他の記号との関係に求められる。我々が既に考察したように、神概念もそうした関係構造の中で限定されている。「徴あり」と「徴なし」は、そうした関係の存在する二項の摘出のための極めて有効な手法であるといえる。
〔山口昌男/著『文化と両義性』2000年 岩波現代文庫 (pp.65-66, pp.67-68)

 上記の文献は、排除はなぜ起きるのか、という考察なのだと、思っている。
 そのヒントは、神話にあるようにも思われる。
 よくはわからないけど全体としては、差異があることを理由に、排除し、排除される、という話なのだ。
 現実問題として ――。
 このことは、容易に排除の理由としての差異を設けるにいたる。排除のための、差異を見つけ出すことに、つながるのだ。
 理由は、なんでもいい。俗世間の日常では、もっともらしい理由があれば、すべては正当化が可能となる。
 かくして俗に、「つじつま合わせ」の思想がもてはやされる。


周縁 / 多義性
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2018年4月21日土曜日

殺害される神、追放される神

 プロメテウスは、天上の火を人間に与えて、連日の責め苦を負わされた。
 なにやら責任を取らされた責任者の構図をうかがわせる神話だ。

 結局のところ責任者とは本来、緊急時に責任を取るための立場にある。
 占拠された土地の人民は、スケープゴートとして、その土地の王を侵略者に差し出す。王は、領地の責任者として、すべての人民になりかわり、犠牲となって死ぬのだ。
 その犠牲の儀式により、新しい支配者にあらがった人民の罪までもが、解消されるのかもしれない。
 王国のための犠牲者は聖なる資格を有する、最高責任者でなければ、人民の罪までもは贖えない。―― 贖う(あがなう)とは、ヘブライ語では、
「本来は世俗的な経済活動に伴う法的義務を表し、誰かが零落して自分の土地を売却したり、自分自身を(債務奴隷として)身売りしなければならなくなった場合、該当者の親族がそれを買い戻すことを意味した」
〔参照:旧約聖書 Ⅰ[机上版]『律法』の「補注 用語解説」旧約聖書翻訳委員会/訳 2004年 岩波書店〕
という。

 西洋の闘争神話には、こういう贖罪の図式が好まれるようでもある。
 けれど新旧の物語で王や神の化身が追放されたり、死ぬことで、人民の罪が消え去る手法は洋の東西を問わない。
 祭られる王や神の役割に多義性があることが論じられたのは、ジェイムズ・フレイザーの大著金枝篇(The Golden Bough: A Study in Comparative Religion, 1890) においてだった。金枝篇』初版の「第 3 章 第 15 節」に〈マムリウス・ウェトゥリウス (Mamurius Veturius) 〉を追放する古代ローマの祭りが紹介されている。
―― フレイザー金枝篇』第 3 版 (1911) では、「第六部」にその記述がある。

 人々の罪と悲しみをその身に引き受けて運び去るために、なぜ死にゆく神が選ばれなければならないのか。それは、神を身代わりに用いる慣習がかつてはまったく別個の独立した二つの慣習の合わさったものだからである。これまでみてきたように、一方には、神の命が老いて弱っていくのを救うために人間神や動物神を殺す慣習があった。また、他方では、やはりすでにみてきたように、毎年一度、災厄と罪の総祓いをする慣習もあった。ところで、人々がこの二つの慣習を合わせてしまおうと思いついたとしたら、きっと死にゆく神を身代わりにしようと考えるはずだ。死にゆく神が殺されたのは、本来は罪を取り除くためではなく、老いて衰えていく神の命を救うためであった。ところが、とにかく殺される運命にある死にゆく神なのだからと、自分たちの苦しみや罪を背負ってもらうのに、この機会を逃す手はないと人々が考えたとしても無理はない。人々は、死にゆく神に墓の向こうの未知の世界へ自分たちの苦しみや罪をもっていってもらおうと思ったにちがいない。
 ヨーロッパの「死の追放」という民間の慣習は、前にも述べたように、その意味がいまひとつ曖昧だが、神をいけにえにすると考えれば、よくわかる。この儀式のいわゆる「死」がもともとは植物の霊で、若さの活力をみなぎらせて復活するために、毎年、春に殺されたと信ずべき根拠は、すでに示した。
…………
 さて、いよいよ次は古代における人間をいけにえにする慣習に話をすすめよう。毎年三月十四日、革の衣をまとった一人の男が、長い白い棒で打ちすえられながら、通りから通りへと引きまわされたあげく、ローマから追放された。この男はマムリウス・ウェトゥリウス、すなわち「古きマルス」と呼ばれた。この儀式は、古ローマ暦年(三月一日に始まる)の最初の満月の前日に行われたので、この革の衣をまとった男は前年のマルスを表していたにちがいなく、新年のはじめに追放されたのである。ところで、マルスはもともとは戦いの神ではなく、植物の神だった。ローマの農夫が自分の穀物やブドウの豊作、果樹や林の繁茂を祈願したのが、ほかならぬこのマルスだったからだ。
〔 J・G・フレーザー/著『図説 金枝篇』(下) 吉岡晶子/訳 2011年 講談社学術文庫 (pp.145-146, p.148)

 日本の神話には、死んで地上に五穀(常食の穀物)をもたらすことになる、殺される豊穣神が登場する。
 古事記ではオホゲツヒメという神をスサノヲが殺し、日本書紀ではウケモチという神をツクヨミが殺す。
 この神話は、南洋でドイツの民族学者アドルフ・イエンゼンによって 1937 年から 38 年に記録された「ハイヌウェレ型神話」と呼ばれる神話の、日本版であるといわれている。
 ハイヌウェレの神話というのは、祭りのさなかに殺害されてその後ばらばらに土に埋められた精霊的少女の屍体から、主食となる各種の芋類が生えてくるというものだ。
―― 日本で、縄文時代の土偶が破かれ壊された形状で発見されるのは、この神話の影響ではないかという論もある。

ところで繩文中期以後の土偶の取り扱われ方には、記紀のオオゲツヒメ神話と共通する信仰が、明瞭に反映しているという指摘が、近年坪井清足[きよたる]氏や藤森栄一など、一部の有力な考古学者たちによってなされているのである。
 つまり繩文時代の中期以後に作られるようになる、典型的な大型の土偶には、土中から完全な形で発見されるものがなく、かならず胴体や手足などが、明らかに人為的と思われるしかたで、ばらばらにされ、離れたところから発見される。このような壊された土偶の破片は、住居趾からも出るが、時には焼畑にされるのに適している、住居から離れた山や丘でも発見されている。この出土状況から判断すれば、これらの土偶は、最初完全な形で作られたものを、後にわざわざばらばらに壊して、離れた場所にばらまくか埋めるかした、と結論せざるをえないという。
 …… つまり繩文土偶は、殺され、ばらばらにされることによって、身体から作物を生じさせるオオゲツヒメ的女神格をかたどったものであったというのが、この説の要旨なのである。
 この説には、現状においてはたしかに重大な難点がある。それは、破壊されたと目される問題の土偶が、住居趾などから大量に発見される繩文中期に、すでにわが国で農耕が行なわれていたかどうかが、疑わしいということである。わが国における農耕の起源を、繩文時代にまでさかのぼらせる見解は、こんにちのわが国の学界においては、なお異端的少数意見としか見なされていない。
〔吉田敦彦『日本神話の源流』1976年 講談社現代新書 (pp.67-69)

―― さて、神殺しに至るフレイザーによる〈王殺し〉のテーマは金枝篇』初版の「第 2 章 第 1 節」に記述がある。

 前章でわれわれが見てきたのは、初期の社会において、しばしば王や祭司が、超自然的な力を与えられている、もしくは神の化身である、と考えられたことである。その結果、自然の移り行きは多かれ少なかれ王や祭司の支配下にあるとみなされ、そのため王や祭司は、悪天候や穀物の不作やその他同類の惨禍の責任を負わされる。ここまでのところでは、王の自然に対する力は、臣民や奴隷たちに対する力と同じように、明確な意志によって行使される、と仮定されているように見える。それゆえ、旱魃や凶作や疫病や嵐が起これば、人々はこの災いを、彼らの王の怠慢もしくは罪であるとし、王にしかるべき罰を下す。鞭打ちや縛めという罰の場合もあれば、改悛の兆しが見られないと、廃位や死の罰が下される場合もある。
〔 J・G・フレーザー/著『初版 金枝篇』(上) 吉川信/訳 2003年 ちくま学芸文庫 (pp.163-164)

 ちなみに、日本では『金枝篇』の初版が出版された 1890 年というのは、明治 23 年である。ちょうどその前年に発布された〝大日本帝国憲法〟が施行された年にあたる。
 第 1 回帝国議会が開かれ、対外的には、不平等条約の改正に向けて苦心惨憺していた時期だ。当時は近代的な国家実現のために欧化政策が進んで〈鹿鳴館時代〉と呼ばれる。
 時を経て『金枝篇』第 3 版が出版された翌年の 1912 年に明治から大正となり、そして、大正 6 年の『東京日日新聞』に柳田国男一目小僧の話が連載された。
―― この連載論考は昭和 9 (1934) 年に刊行された一目小僧その他一目小僧のタイトルで収録されている。

大昔いつの代にか、神様の眷属[けんぞく]にするつもりで、神様の祭の日に人を殺す風習があった。おそらくは最初は逃げてもすぐつかまるように、その候補者の片目をつぶし足を一本折っておいた。そうして非常にその人を優遇しかつ尊敬した。犠牲者の方でも、死んだら神になるという確信がその心を高尚にし、よく神託予言を宣明することを得たので勢力を生じ、しかもたぶんは本能のしからしむるところ、殺すには及ばぬという託宣もしたかも知れぬ。
〔柳田国男/著『一目小僧その他』2013年 新版 角川学芸出版/角川ソフィア文庫 (p.60)

 隻眼(片目)の神は世界的にも類例があるというけれど、日本においてもなぜ一つ目の神や妖怪が想定されたのか。
 この考察は、谷川健一青銅の神の足跡』(1979) で異なった展開を見せる。精銅・製鉄の技術をもつものたちが、神格化されたのだという、新しい主張が発展していくこととなる。
 製錬とか精錬の技術は、火を使って、岩石から金属を鍛え上げる。―― これは、火により、カオスからコスモスを抽出する技法であるともいえよう。
 秩序(コスモス)は、全体から余分な要素を除去することで創世されると、いつしか人類は気づくことになるのだ。
 コスモスは、カオスの排除で、誕生する。
 これは、ケガレ(穢れ)とハラエ(祓)の思想に通じる。
 コスモス創世を語る思想は、コスモス維持のために不純物を排除する儀式を必然とした。
 年ごとに厄介払いされる神は、コスモスを維持するために必要な装置となる。

 人類に火をもたらしたプロメテウスは、新たなコスモス創世の圧倒的な力を伝授したのだ。
 その責任はたしかに重いといえるだろう。
 人類は、都合のいい部分だけを観察して、そこに秩序があると、いうようになった。
 彼らにとって観察の対象外のエリアは、まさに、存在すらしないも同然なのだ。
 そして、随時発生するゴミを除去することでクリーンな環境が維持されるのと同様に、発生した余計なものの除去でコスモスは維持可能であると、気づいた。
 不純物だと区分される、余計なものの、判断基準は排除する側にある。


連続 と 不連続
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2018年4月16日月曜日

まつろわぬ 国魂(くにたま)たちの末路

 風土記(ふどき)の時代の、各地方の土豪たちを示して、国魂(くにたま)と表現したつもりだ。
 歴史上の記録では、712 年「古事記」献上の翌年、713 年の元明天皇の詔によって、諸国に撰進させた地誌が「風土記」である。ちなみに「日本書紀」の完成は 720 年だ。
 日本書紀や、各地方の国風(くにぶり)を記した風土記には、天皇にまつろわぬ土豪を称して、土蜘蛛(つちぐも)・国栖(くず)などが、しばしば見られる。官軍すなわち正義にとって土蜘蛛や国栖は、悪い国魂なのだ。
 負けた側が賊軍となるのは歴史の常識といえるし、徹底抗戦した勢力が悪くにしか書かれないにしても、名称からして悪印象を与えるものになっている徹底ぶりだ。

 まつろう(まつろふ)は『広辞苑』をひもとけば「マツラフの転」であるとされ、まつらう(まつらふ)と同じ「服ふ・順ふ」という漢字があてられて、同様に「服従する。従いつく。」の意味があるとされている。このことから、敵対せず服従する従順さが理解できる。
 だからその反対の、まつろわない(まつらはぬ)、というのは、不服従を示す。
 その善悪の基準が、歴史の公文書に判然と遺されている。

 いっぽうで善い国魂とは、上(おかみ)に追従し服従を明らかにする地方の勢力のことだ。明らかにするとは、それぞれの国の魂を、支配者に差し出すのである。
 それが、そもそもの〈鎮魂〉の儀式だったのだ、ともいう。
―― 折口信夫大嘗祭の本義」(昭和三年)でこう述べられている。

 昔は、大嘗祭の時には、ゆき・すき二国からして、風俗歌が奉られた。……
 この風俗歌は、短歌の形式であって、国風[クニフリ]の歌をいうのである。この国ふりの歌は、その国の寿詞に等しい内容と見てよろしい。国ふりのふりは、たまふりのふりで、国ふりの歌を奉るということは、天子様にその国の魂を差し上げて、天寿を祝福し、合せて服従を誓う所以である。
〔折口信夫『古代研究Ⅱ』2003年 中公クラシックス/中央公論新社 (p.164)

 11 月の祭りの中で鎭魂は、新訂增補 國史大系 26延喜式」(p.42)オホムタマフリと訓読されている。
「中寅日」と日の指定があり、続く卯の日に〈新甞(ニヒナヘ)〉の記述がある。
 比較的身近な資料としてはまたもや『広辞苑』でも、
鎮魂祭(たましずめのまつり・ちんこんさい)・御霊振(みたまふり)は〝陰暦 11 月の中の寅の日(新嘗祭の前日)に〟おこなわれたと説明されている。
―― また折口信夫大嘗祭の本義には、
外来魂を身に附けるのが、古い意義の、日本伝来のみたまふりだと、書かれており、それに続けて、

 とにかく、鎮魂式というのは、群臣から天子様に、魂を差し上げることだ、とわかればよい。同時に、冬というても、時代によっては、十月のことでもあり、十一月のことでもあり、また十二月のことでもあった、ということを承知してかからねばならぬ。
〔『古代研究Ⅱ』 (p.143)

と、ある。これは、〈ふゆ〉を〝殖ゆ・触る〟と解釈した上での話だ。
―― すなわちそれ以前に書かれたらしい、折口信夫ほうとする話」(昭和二年六月頃草稿)には、次のように記されている。

先輩もふゆは「殖ゆ」だと言い、鎮魂すなわちみたまふりのふると同じ語だとして、御魂が殖えるのだとし、威霊の信頼すべき力をみたまのふゆと言うのだとしている。すなわち、威霊の増殖と解しているのである。触るか、殖ゆか、栄[ハ]ゆか。古い文献にも、すでに、知れなかったに違いない。
…………
霊の分裂を持つことは、後代の考え方では、本霊の持ち主の護りを受けることになる。それで、恩賚[おんらい]などいう字をみたまのふゆと読むようになり、加護からさらに、眷顧[けんこ]を意味することにもなった。給ふ・賜はる・みたまたまふなどいう語さえも、霊の分裂の信仰から生れた。みたまのふゆという語は、鎮魂の呪詞から出たものであろうが、その用途はしだいに分岐していったらしい。……
 家の祝言が、同時に、家あるじの生命・健康の祝福であり、同時にまた、家財増殖を願うことにも当る。時としては、新婚の夫婦の仲の遂げるよう、子の生み殖えるように、との希望を予祝する目的にも叶うのであった。このみたまのふゆの現れる鎮魂の期間が、ふゆまつりと考えられたのであろう。そして、ふゆだけが分離して、刈り上げの後から春までの間を言うようになり、刈り上げと鎮魂・大晦日との関係が、しだいに薄くなっていって、間隔ができたため、冬の観念の基礎が替っていった。そして暦の示す三か月の冬季を、あまり長過ぎるとも感じなくなったと見える。
〔折口信夫『古代研究Ⅰ』2002年 中公クラシックス (p.393, p.396)

 引用文の冒頭に先輩とあるけれど、それが誰のことなのか、その場に記述はない。
 しかしながらも、松村武雄日本神話の研究 第四巻』〔昭和33年 培風館 (p.266) 〕を読んでいくと、江戸末期の国学者「鈴木重胤」に同様の考説があることが知れた。

 さて日本書紀 巻第二十九 天武天皇下 十四年十一月」に記された、
爲天皇招魂之。」とある個所は、
天皇の為に招魂しき(すめらみことのおほみためにみたまふりしき)。」と訓まれている。
 さきほど確認したように本来は、鎮魂祭(たましずめのまつり・ちんこんさい)が、御霊振(みたまふり)といわれたのだろうけれども、日本書紀の訓読文に招魂みたまふり)」がある。
 いまいちど確認してみれば、招魂(しょうこん・たまよばい)は、「儀礼士喪礼」の注にある言葉だと『広辞苑』に書かれている。
 そのあたりを見ていくとこの〈招魂〉は〈復〉という語句に関しての注釈である。
 たとえば北京大學出版社による、十三經注疏 整理本 11『儀禮注疏』卷第三十五 (p.761)復者、有司招魂復魄也とある。
 また、十三經注疏 整理本 12『禮記正義』卷第九 (p.309)復謂招魂とある。
 かくして〈復〉は〝死者の魂魄をよびもどす儀礼〟であると、日本語の資料を見ても同様に書かれている。

 あらためて調べると鎭魂については、新訂增補 國史大系 22令義解(りょうのぎげ)」(p.29) に。
謂。鎭安也。人陽氣曰魂。魂運也。言招離遊之運魂。鎭身體之中府。故曰鎭魂。
と注されている。
「令義解」は「養老令」の注釈書で 834 年から施行され、そののちの「延喜式」は 967 年からの施行だという。

 鎮魂(おほみたまふり)の内容は、そもそもから、多義的に解釈されはじめているらしいことがわかってくる。
 前回、国家平定の宝剣〈フツノミタマ〉については、
〝新しい活力を得るための、生命力再生の祭り〈鎮魂(オホミタマフリ)〉の祭祀に用いられている〟と、その最後に書いたけれど、
〝生命力再生〟の中身は、〝まつろふ国魂の統合と再分与〟だったかもしれない。

 ひるがえって 1300 年前も、いつの世も、まつろはぬ国魂は、殲滅された。
 あるいは、異なるという理由だけで、排除されたのだ。


冬(殖ゆ)/ 風(振り)
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2018年4月10日火曜日

布璢御魂(フルノミタマ)

―― 前回の最後に、スサノヲの斬蛇剣のことを書いた。
 霊(靈・たま)といえば、神武東征の際にタケミカヅチが天より投下した霊剣〈フツノミタマ〉の名称は、スサノヲがヲロチを斬った斬蛇剣、韓鋤(からさひ)の別名である、ともいう。

 岩波文庫で該当の箇所を確認すれば、古事記と日本書紀「神代上 第八段〔正文〕」では、ヲロチを斬った剣は〈十拳劒・十握劒(トツカノツルギ)〉と書かれている。この〈十拳劒・十握劒〉は、特定の剣の固有名詞ではなく、
「十つかみほどの長さの剣」の意味で、剣の長さ・大きさを示しているのだという。
―― そのスサノヲの剣にまつわる名称を整理してみると。

 日本書紀「神代上 第八段一書〔第二〕」では、
剣の名は〈蛇之麁正(ヲロチノアラマサ)〉として、
「此今在石上也(こはいま、いそのかみのみやにます)」と記されている。
 日本書紀「神代上 第八段一書〔第三〕」では、
剣の名は〈蛇韓鋤之劒(ヲロチノカラサヒノツルギ)〉として、
「今在吉備神部許也(いまきびのかむとものをのところにあり)」とする。
 日本書紀「神代上 第八段一書〔第四〕」では、
剣の名は〈天蠅斫之劒(アマノハハキリノツルギ)〉となっている。

 また「一書〔第二〕」の「石上」に注釈して、
一説に、下文第三の一書に吉備神部とあるので、備前の石上布都之魂神社か、という。〔『日本書紀(一)』1994年 岩波文庫 (p.99)
と書かれており、大和の石上神宮とは限らないことが述べられている。

 斬蛇剣〈フツノミタマ〉とは物部氏の「平国剣(くにむけのたち)」すなわち国家平定の剣であったといわれる。
 また神社で神体として祀られる霊剣〈フツノミタマ〉は特に剣の固有名詞というわけでなく、複数あっても構わないともされる。
〔松前健『出雲神話』1976年 講談社現代新書 (pp.172-173) 参照〕

 神武東征の際にタケミカヅチが天より投下した霊剣〈フツノミタマ〉はその後、石上神宮(いそのかみじんぐう)にあると、記録されている。
―― そのことについて、日本書紀(岩波文庫版)の注釈で、古事記の記述が紹介してあるので、そこから引用すると。

記の分注には「此刀名云佐士布都神、亦名云甕布都神、亦名云布都御魂、此刀者、坐石上神宮也」とある。
〔『日本書紀(一)』 (p.211)

 石上神宮は、奈良県天理市布留にあって、祭神は布都御魂大神。布留社(フルノヤシロ)ともいわれるらしい。
―― そんなこんなを整理して、三品彰英建国神話論考』(1937, 昭和12年) には、次のようにまとめられている。

 スサノヲノミコトがヒノ川のほとりで大蛇を斬り給うたいわゆる蛇ノ韓鋤[からさひ]ノ剣も、これまた「フツノミタマ」として祭られている。「紀」の一書は「素戔嗚尊の、蛇を断[き]りたまへる剣は、今吉備[きび]の神部[かむとものを]の許に在り」とて備前国赤坂郡石上布都之魂神社に斎き祀るといい、他の一書は「今石上に在す」とて大和の石上布留ノ社に坐すと伝えている ……
〔『建国神話の諸問題』1971年 平凡社 (pp.264-265)

 このあたりで、石上(いそのかみ)に関連する名に「布都(フツ)」と「布留(フル)」が混在していることがみてとれる。
 詳しい資料をみていくと「石上振神宮(イソノカミフルノカミツミヤ)」という記述もある。
その祭神は、資料原文の漢字を使えば、
第一 建布都大神
第二 布璢御魂神
また「加祭之神」として
第三 布都斯魂神
と、されている。
「璢」は「琉・瑠」と同じ漢字なので、「布璢御魂」は「布瑠御魂」という表記と同等になる。
―― すなわち、第二の祭神は、布瑠御魂〈フルノミタマ〉の神である。

 さて、タケミカヅチは神剣〈フツノミタマ〉を、出雲の国譲りの際にも用いていたようだ。
 神武天皇が熊野で苦戦しているようすを見て、アマテラスが、タケミカヅチに、
「汝更往きて征て(いましまたゆきてうて)」と要請するのだけれども、
タケミカヅチは、自分が行くまでもなく「予が国を平けし剣を下さば、国自づからに平けなむ」といって、〈フツノミタマ〉を投下するのだ。こうして〈フツノミタマ〉は国家平定の宝剣として、記録に名を留めた。

 こういうことからも、日本書紀で出雲の国譲りの際に、タケミカヅチとともに使者となったフツヌシは、〈フツノミタマ〉の神格化であろうと推測される。

 その由来として、国譲りの段、日本書紀「神代下 第九段〔正文〕」では、
タカミムスヒが国譲りの使者の最終候補を選んでいた際、まず、フツヌシが候補に挙がったのだけれど、
そこへ、タケミカヅチがみずから名乗りを上げたので、両者を葦原中国平定へと送り出した、となっている。
 そのとき両者の類縁として書きならべられた神々の名が、イザナキがカグツチを斬り殺した際に誕生した神々の一部と合致する。
 フツヌシ、タケミカヅチの両者ともに、イザナミの死に際して、カグツチを斬ったイザナキの「剣の刃よりしたたる血」から生まれた神なのである。
 葦原中国の平定に送り出された神々は、破壊のうねりのなかで、それを活力として誕生した。
 そして古来、霊剣〈フツノミタマ〉は宝剣として、新しい活力を得るための、生命力再生の祭り〈鎮魂(オホミタマフリ)〉の祭祀に用いられているという。


排除と破壊がもたらす秩序
http://theendoftakechan.web.fc2.com/ess/emergence/removal.html

2018年4月4日水曜日

天神きたりて 地祇をうつ

 高天原を去った天神スサノヲは出雲の地に降臨して、その土地を支配していたヲロチを殺した。スサノヲは渡来神であるともいわれるが、複雑になるので、前提として天を追放された神としておく。
 出雲神話は、スサノヲ(素戔嗚)のヤマタノヲロチ(八岐大蛇)退治にはじまり、その子孫であるオホクニヌシ(大國主・おおくにぬし)の国造りを経て、出雲の浜での国譲りに終わる。
 古事記では、国譲りの命を完遂した天からの使者は、タケミカヅチ(建御雷)とアメノトリフネ(天鳥船)とする。

 そもそも一般的なこのストーリーだと、因幡の白兎でも有名な大国主の神は、天神由来の血を持っている。
 スサノヲの蛇退治によって、(天神)と(地祇)という対比での支配者の交代劇が語られているのだから、天神の血はすでに出雲の血脈となったわけだ。で、日本では古来、この「血(ち)」が「霊(チ)」と同じ、活力源とされる。日の霊の場合は「霊(ヒ)」という。
 蛇退治におけるヒロイン、クシナダヒメ(奇稻田姫)の〈霊力〉については、すでに触れた。

 その呪力は、忌串すなわち、斎串(いぐし)であると考察されてもいる。クシナダヒメの化身であるこの〝櫛〟は、一般にイメージされる「櫛」ではなく、〝かんざし〟のような「串状のもの」であるという。

と前回書いたのだけれども、このことについて、少しばかり掘り下げるなら。
―― たとえば、三品彰英出雲神話異伝考の付記を見ると次のような記述がある。

すなわち神霊の憑依する聖性的な人間は、俗性者と区別するために、大切な「しるし」として櫛をさしたのである。とすれば神を招ぎ迎えるイナダヒメが、その聖女的象徴として櫛を挿し、また櫛そのものに化[な]ったのは当然といえる。奇[くし]イナダヒメであるとともに、まさしく櫛イナダヒメである。この場合の櫛はすき櫛ではなく指し櫛であり、櫛の最も古い形式である指し串のことである。それが巫女的女性の呪力を象徴する「忌み串」ともされた。
〔三品彰英『建国神話の諸問題』1971年 平凡社 (pp.27-28)

―― 同じ論者であるが三品彰英神武伝説の形成では、呪杖の話題から考察が展開されていた。

むかしイハタツヒコノミコトとイハタツヒメノミコトが水路を争い、ヒメ神が「指櫛[さしぐし]を以ちて、其の流るる水を塞[せ]きて岑の辺より溝を闢[ひら]きて、泉の村に流して相あらそひたまひき」とある。指櫛(今日のすき櫛ではなく串状のもの)は女性の呪能を示す道具でもあるが、指櫛は指串に通ずる水の呪杖と解釈してよい。……
 女神の櫛が一層神話的に語られている例としてスサノヲノミコトのヤマタノオロチ退治における櫛名田比売(クシイナダヒメ)の話がある。スサノヲノミコトがオロチを退治する時、「ここにスサノヲノミコトすなわちユツツマグシにその童女[をとめ]を取り成[な]して、みみづらに刺して」(「記」)オロチに立ち向ったという。「書紀」では「化奇稲田姫、為湯津瓜櫛」とあり、意味するところはともにイナダヒメが櫛によって象徴されているのである。古い言い方をすれば櫛はイナダヒメの物実[ものざね]であった。ユツのユは斎(イ)・忌の意で、すなわち聖女の名は忌串に通意している。イナダヒメはヒノ川(神霊の川)のほとりの稲田宮主の女であり、神田の聖女ないしは水の巫女とも解釈されよう。
〔三品彰英『日本神話論』1970年 平凡社 (pp.313-314)

 なぜだかこの引用文中の、「書紀」では「化奇稲田姫、為湯津瓜櫛」とされている個所に、誤植がある。
―― 岩波文庫での、白文と訓み下し文は、次のようになっている。

故素戔嗚尊、立化奇稻田姫、爲湯津爪櫛、而插於御髻。

故、素戔嗚尊、立ら奇稲田姫を、湯津爪櫛に化為して、御髻に挿したまふ。
(かれ、すさのをのみこと、たちながらくしいなだひめを、ゆつつまぐしにとりなして、みづらにさしたまふ。)
〔『日本書紀(一)』1994年 岩波文庫 (p.446, p.92)

 なぜかこのになっていたのだ。
 ちなみに岩波文庫からの引用部の、訓読前半にある「たちながら」は「たちどころに」とも訓まれるらしい。
―― キーワードともなる爪櫛(つまぐし)〟について広辞苑を見ると歯のこまかい櫛とあり、そこで例文として挙げられていた日本書紀「神代上 第五段 一書〔第六〕」を、岩波文庫の訓み下し文・注釈で参照すれば次の通り。

伊奘諾尊、聴きたまはずして、陰に湯津爪櫛を取りて、其の雄柱を索き折きて、秉炬として、見しかば、膿沸き虫流る。
(いざなきのみこと、ききたまはずして、ひそかにゆつつまぐしをとりて、そのほとりはをひきかきて、たひとして、みしかば、うみわきうじたかる。)

湯津爪櫛/ユツはイツに同じ。神聖なるもの。タブーされたものの意。ツマはツマム(爪む)の語根。手先に持つ意。
雄柱/ホトリは辺。はずれの所。ハは歯。櫛の両端の太い大きい歯をいう。古代の櫛はカンザシのように長かったので、その先に火をつけて物を見るに適した。
秉炬/手に持つ火。 
〔『日本書紀(一)』 (pp.42-45)

 これでみる限りでは、イザナキの櫛は 1 本の串状ではなく、そこから折り取った〝歯〟の部分が〝串〟に相当するようだ。
(話題は異なるけどここで気がついたことがあるので参考に書いておく。「いざなぎ」とウィンドウズで書けば、〝伊弉諾〟という変換候補がでてくる。これは、日本書紀の伊奘諾尊の漢字とは違うので調べてみると、神社の名前にあった。)
 さて先に引用した、三品彰英出雲神話異伝考の 36 ページには、ヤマタノオロチについて付記があって、
オロチのオロは朝鮮語の泉・井の古訓 …… と同語、チも日本・朝鮮共通の古語で神霊を意味している。
と、いうことが書いてあった。

 ここでにわかに、イザナミ(いざなみのみこと・日本書紀では伊奘冉尊と書いてある)が生前に生んだ、日本書紀「神代上 第五段」の冒頭に出てくる〈野槌〉の神の名が問題となる。この神の名は、古事記では〈野椎〉となっているが、ともに読みは同じで「のつち」とされている。
 一般的には、「のつち」は「の」と「ち」に意味があって、真ん中の「つ」は、今でいう「~の」に当たるらしい。
 すなわち「野の霊(チ)」である。しかしながら、これを「野+槌(椎)」であるとする解釈もある。
―― たとえば谷川健一古代海人の世界での論はこのようだ。

野槌(ノツチ)のツは助詞であり、チは勢威あるものという解釈もあるが、『新撰字鏡』には、野に棲む蝮[まむし]や蝎[さそり]の類をいうとされており、『俚言集覧[りげんしゅうらん]』には「野槌 信濃黒姫妙光(高)山の間の山に野槌ヘビといふ物あり、三尺ばかりなるもあり至[いたつ]て大なるもあり、芋虫の如くにて、ころころしたるもの也、といへり」とある。……
『古事記』によると、スサノオは出雲国の肥[ひ]の河上[かわかみ]で、国つ神の大山津見[おおやまつみ]の子の足名椎[あしなづち]と妻の手名椎[てなづち]に出会い、その願いをいれてヤマタノオロチを退治している。椎(ツチ)は蛇を意味するから、足名椎・手名椎は肥の河の主である蛇であったと思われる。あるいは河の主の蛇に奉仕する祠官であったのかも知れない。
〔『谷川健一全集 4』2009年 冨山房インターナショナル (p.296)

 今年のはじめに広辞苑の最新版が出て話題となったけど、初版以外では、
(イカヅチ)」は、イカ(厳)ツ(助詞)チ(霊)の意と、解釈がほどこされている。
―― このことについて以下のような指摘がある。

新村出はツチを一語と考えて、神威を示す語としていたが、『広辞苑』は、新村出編と銘打ちながらも、ツを助詞とし、チを霊格としている。
〔三浦茂久『銅鐸の祭と倭国の文化』 (p.316)

――その「註」にあった、新村出雷の話」(昭和 23 年 9 月 18 日「新聞苑桃」)を参照すれば、次の通り。

イカツチ、今は濁ってイカヅチとなり、イカズチと無理にもズチと書けと強制されるが、実はイカヅチのツチは、夕立のタチ等とおなじく、神威を示す語で、ツチもタチも共に接尾語の一種とみることが出来る。
〔『新村出全集 第十三巻』1972年 筑摩書房 (pp.384-385)

 あああ、ららら。―― 話の収拾がつかなくなってきた。
 一応、「ヲロチ」は「ヲロ+チ」だろうし、「イカヅチ」は「イカ+ツチ」もあるとして。
 足名椎(アシナヅチ)・手名椎(テナヅチ)も古事記の表記では「~+ツチ」のパターンと思われるのだけど、日本書紀での表記は「脚摩乳・手摩乳」となっている。
 では、大山津見(オホヤマツミ)はどうなのだろう。日本書紀では、「大山祇(オホヤマツミ)」もしくは「山祇(ヤマツミ)」と表記されている。
 漢和辞典を調べると〈祇〉は、「くにつかみ」という訓が記されていた。
 これは霊(チ)に対しての、祇(ミ)という霊格となろうか。
 けれど、これもまた「ヤマ+ツミ」のパターンがあるかもしれない。
 また(カミ)に対しての、(ミ)であるかもしれない。
 かくして、日本の〈カミ〉の霊についての謎は深まるばかりなのだ。
 かてて加えて中国渡来の、魍魎(もうりょう)・山の神、魑(チ)や魅(ミ)もあったりして、これを古くから〈すだま〉というらしい。
 霊(靈・たま)といえば、神武東征の際にタケミカヅチが天より投下した霊剣〈フツノミタマ〉の名称は、スサノヲがヲロチを斬った斬蛇剣、韓鋤(からさひ)の別名である、ともいう。


境界(臨界)領域
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