2018年8月25日土曜日

大山の噴火と山陰への人類到来

〈火神岳〉もしくは〈大神岳〉 大山


 伯耆国の大山は、角盤山(大山寺)の山号をもつ。古来、ヒノカミダケ(火神岳)ともオホカミダケ(大神岳)ともいわれるのは、「出雲国風土記」の記述による。


 岩波文庫の『風土記』では、次のように書かれている。

「出雲國風土記」
持ち引ける綱は、夜見の島なり。固堅め立てし加志は、伯耆の國なる大神の岳なり。
(もちひけるつなは、よみのしまなり。かためたてしかしは、ははきのくになるおほかみのやまなり。)
〔岩波文庫『風土記』(p. 86)〕

 小学館の『風土記』では、次のように書かれている。

「出雲国風土記(意宇の郡)」[原文]
持引綱夜見嶋。固堅立加志者、有伯耆国火神岳、是也。
〔新編日本古典文学全集 5『風土記』 (p. 138) 〕


 岩波書店の日本古典文学大系 2『風土記』は、少し詳しく見てみよう。

「出雲國風土記」 意宇郡
[原文] 亦高志之都都乃三埼矣 國之餘有耶見者 國之餘有詔而 童女胸鉏所取而 大魚之支太衝別而 波多須々支穗振別而 三身之綱打挂而 霜黑葛闇々耶々爾 河船之毛々曾々呂々爾 國々來々引來縫國者 三穗之埼 持引綱夜見嶋 堅立加志者 有伯耆國火神岳是也
 (校訂注)
 ⇒ 底・諸本「桂」に誤る。
 ⇒ 底・諸本「聞」。解による。
三穗之埼(のあと) ⇒ 訂「也」がある。底・諸本により削る。
 ⇒ 底・諸本「接」。解の?による。
 ⇒ 紅葉山文庫本・訂「大」。底・諸本のまま。

[訓み下し文] 亦、「高志の都都の三埼を、國の餘ありやと見れば、國の餘あり」と詔りたまひて、童女の胸?取らして、大魚のきだ衝き別けて、はたすすき穗振り別けて、三身の綱うち挂けて、霜黑葛くるやくるやに、河船のもそろもそろに、國來々々と引き來縫へる國は、三穗の埼なり。持ち引ける綱は、夜見の嶋なり。堅め立てし加志は、伯耆の國なる火神岳、是なり。
(ふりがな文) また、「こしのつつのみさきを、くにのあまりありやとみれば、くにのあまりあり」とのりたまひて、をとめのむなすきとらして、おふをのきだつきわけて、はたすすきほふりわけて、みつみのつなうちかけて、しもつづらくるやくるやに、かはふねのもそろもそろに、くにこくにことひききぬへるくには、みほのさきなり。もちひけるつなは、よみのしまなり。かためたてしかしは、ははきのくになるひのかみだけ、これなり。
 (頭注)
高志 / 北陸地方(越前・越中・越後)の古称。
都都 / 所在不明。能登半島の北端珠洲(すず)岬に擬する説がある。
三穗の埼 / 島根半島の東端美保関町。その突端を地蔵崎という。下に美保埼と見える(一四一頁)。
夜見の嶋 / 夜見ガ浜(弓ガ浜)。下に伯耆の国郡内、夜見島と見える(一三九頁)。
火神岳 / 鳥取県の大山(だいせん)(一七一三米)。
〔日本古典文学大系 2『風土記』 (pp. 100-103) 〕


 ○ その伝承について鳥取県の『大山町誌』は、岩波版『日本古典文学大系』(『大系本 風土記』)の該当の個所を引用したうえで、次のように記述している。


『大山町誌』 「第三章 大山の開基と成立」
 今日、伝えられている『出雲風土記』は、その奥書からみて、中央に進達された公文書正文ではなく、編述責任者の出雲国造家に伝えられた副本を伝本祖としている。しかも、国造家本そのものは今日に伝わらず、国造家伝来本に後人の誤訂の手の加わった幾転写の一本を伝播祖としているため、従来「火神岳」か「大神岳」かは、にわかに定め難いものがあった。
 地方の大方の史家は、「大神岳」説に組しており、「おおかみのだけ」は山自体が神であるとともに、そこに大神が鎮まるとしている。『鳥取県史』はこの点にふれて、次のように記述している。
 伯耆大山は、『出雲国風土記』に「伯耆の国なる大神岳」とあり、「三穂の崎」や「夜見の嶋」と並記されているところから大山を指すことは明らかである。諸本に「火神岳」とあるのは、紅葉山文庫本(徳川氏の文庫、明治以後内閣文庫)が「大神岳」と訂正したものが正しいと思われる。したがって「大神」の読みはオオミワではなく、オオカミであるとも推定される。
 今日、幾つかの写本を比校して、原本の姿に復原することが可能となり、それによって、我が国の古典研究は一段と深まってきたのであるが、『出雲風土記』についても、伝本祖の姿を考えることができるようになった。上述の岩波版『日本古典文学大系』は、その成果の一つであり、したがって、紅葉山文庫の校訂には一考を要するものがあるように思う。
〔『大山町誌』 (pp. 142-143)

―― このあたりの詳しい資料の引用と考察は、ここでは省くけれど、Google サイト と、バックアップ・ページで行なっている。


 ここでの興味の中心として、大山火山の活動は、いつごろまであったのだろうか?

 ○ 次の文献で、確認してみよう。

『地質学雑誌』 90 巻 9 号 1984年09月15日 一般社団法人 日本地質学会/発行
津久井雅志「大山火山の地質」
( URL : https://www.jstage.jst.go.jp/article/geosoc1893/90/9/90_9_643/_pdf/-char/ja )
 (p. 644)
 大山火山は更新世中期以降に活動を開始し少なくとも 2 万年前以降までその活動を続けた。
…………
 (p. 655)
  草谷原軽石層 (KsP)・弥山火砕流堆積物 (MiF)
 三位・赤木 (1967)、赤木 (1973) は〝大山町上高田〟の〝火山砂礫層〟中の炭化木片から 17,200 ± 400 yBP (GaK383) という年代を報告している。これはおそらく本火砕流堆積物に相当すると思われるが試料採取地点、堆積物の詳細は不明である。
…………
 文 献
 赤木三郎、1973 : 大山火山の地質。日本自然保護協会調査報告、45, 9‐32.
 三位秀夫・赤木三郎、1967 : 5 万分の 1 土地分類基本調査「米子」表層地質各論。経済企画庁、1‐35.

―― ここでは、「三位・赤木 (1967)、赤木 (1973) 」「弥山火砕流」「堆積物に相当すると思われる」「〝大山町上高田〟の〝火山砂礫層〟中の炭化木片から 17,200 ± 400 yBP (GaK383) という年代を報告している。」という論述を見ることができる。
 いまのところ、この、測定された年代そのものを否定するような論稿は、ないようである。

◎ ただし、次に参照する論文の 3 ページでは、津久井雅志氏は「大山火山の地質」で「弥山溶岩ドーム起源の火砕流」を考察する際、
「三位・赤木 (1967) が北麓の扇状地から報告した放射性炭素年代 (17,200 ± 400 yBP) がこの火砕流の噴出年代を示すものと考えていた。」が、
「しかしながら、三位・赤木 (1967) の測年試料採取地周辺には弥山溶岩ドーム起源の火砕流は到達しておらず、なぜこの年代を噴火年代と判断したのか理由は不明である。」
と述べられ、「弥山溶岩ドーム起源の火砕流」を考察する対象にはその「木片」のデータは含めない立場であることが、明記されている。

 ○ 原子力規制庁「平成 27 年度原子力施設等防災対策等委託費(火山影響評価に係る技術的知見の整備)」の成果の一部として、2017 年に公開されたものである。


『地質調査研究報告』 第 68 巻 第 1 号
公開日: 2017/03/17
山元孝広「大山火山噴火履歴の再検討」 (p. 15)
( URL : https://www.jstage.jst.go.jp/article/bullgsj/68/1/68_1/_pdf/-char/ja )
8. まとめ
 2) 大山火山の最新期噴火を弥山溶岩ドームの形成とする津久井 (1984) と、三鈷峰溶岩ドームの形成とする福元・三宅 (1994) の異なる主張があったが、本研究の結果は後者を支持している。新たに実施した放射性炭素年代測定の結果、三鈷峰溶岩ドーム形成に伴う阿弥陀川火砕流堆積物からは 20.8 千年前、弥山溶岩ドーム形成に伴う桝水原火砕流堆積物からは 28.6 千年前の暦年代が得られた。
文 献
福元和孝・三宅康幸 (1994)
大山火山、弥山溶岩ドームよりも新期に形成された三鈷峰溶岩ドームと清水原火砕流。第四紀、no. 26, 45‐50.津久井雅志 (1984)
大山火山の地質。地質学雑誌、90, 643‐658.

 この論文の 13 ページの表(第 3 表)に、次のデータが記録されている。

  • 20,800 年前  三鈷峰(溶岩)
  • 28,600 年前  弥山(溶岩)
  • 29,300 年前  烏ヶ山(溶岩)


―― 最新の研究では、大山の〈弥山・三鈷峰・烏ヶ山の溶岩ドーム〉形成の順序は〝烏ヶ山-弥山-三鈷峰〟で、それは上の数値で示された。
 このデータによれば大規模な大山の火山活動は、20,800 年前に終わったといえよう。
 ただし、それ以外の〔大規模とはいえない〕火山活動については、現在のところ〈16,800 ~ 17,600 年前と測定された〉データが有効のようである。


 ◉ では、大山の噴火を目の当たりにした人類は、果たしていたのか、やはりいなかったのか?

 ○ 大山山麓へ人類が到来した痕跡について、2005 年に次の報告があった。大山町の〈孝霊山〉の麓(ふもと)に展開する〝妻木晩田遺跡(むきばんだいせき)〟周辺の「発掘調査報告書」の記録である。

『門前第2遺跡(菖蒲田地区)』「第 2 章 第 2 節 歴史的環境」
1 旧石器時代
  名和小谷遺跡では黒曜石製国府型ナイフ形石器が出土している。門前第 2 遺跡(西畝地区)では、AT 層より下層(約 2 万 5 千年以上前の地層)からナイフ形石器と黒曜石の破片を含む石器群が確認されている。
〔『門前第2遺跡(菖蒲田地区)』 (p. 4) 〕

 ◉ 大山の大規模な噴火を目の当たりにした人類は、おそらく、存在したのだと推察される。


日本海の朝日

〈迎日湾〉 東海への船出


都祈(トキ)・都祁(ツゲ)

 韓国 ―― 大韓民国 ―― 慶州市の東に面した海に「迎日湾(げいじつわん)」がある。

 ○ 都祁(つげ)の地名が「迎日(日の出)」の意味をもつことについて、『三国遺事』の邦訳書で注釈があり、そこで参照されている「迎日県」についての記事も『三国史記』の邦訳書で確認することができる。


『完訳 三国史記』「三国史記 巻第三十四 雑志 第三」

地理 一 [原文抜粋(義昌郡)] (p. 608)
臨汀縣、本斤烏支縣。景德王改名。今迎日縣。

地理 一 [邦訳文] (p. 602)
 義昌郡はもと退火郡で、景德王は(義昌と)改名し、今は興海郡で、領県は六つである。…… ④臨汀県はもと斤烏支県で、景德王は(臨汀と)改名し、今の迎日県である。
〔以上『完訳 三国史記』より〕

『完訳 三国遺事』「巻一 紀異第一」

延烏郎 細烏女 [原文抜粋(地名譚)] (p. 88)
祭天所名迎日縣。又都?野。

延烏郎 細烏女 [邦訳文] (pp. 86-87)
 第八代、阿逹羅王の即位四年丁酉(一五七年)に、東海のほとりで、*1 延烏郎と細烏女という二人の夫婦が住んでいた。ある日、延烏が海へ行って藻を採っていると、急に一つの岩が〔一匹の魚だともいう〕(彼をのせて)日本へ運んでいってしまった。そこの国の人びとが見て、これはただならぬ人物だとして、王にたてまつった〔『日本帝紀』を見ると、(この出来事の)前後に、新羅人で(日本の)王になったものはいないから、これはあるいは辺鄙な地方の小王になったことであって、ほんとうの王ではないらしい〕。
 細烏は、夫が帰ってこないのを変に思い、(海辺へ)行ってさがしてみると、夫が脱いでおいた履物が岩の上にあった。それで彼女もその岩の上にあがると、岩ががまた前と同じように動いて運んで行くのであった。そこの国の人たちが彼女を見て驚き、王に申しあげたので、(ようやく)夫婦が再会し、(彼女は)貴妃に定められた。
 このとき新羅では、太陽と月の光が消えてしまった。日官(気象を司る役人)は、「太陽と月の精が、わが国にあったのに、日本にいってしまったため、このような異変がおこったのです」と言上した。(そこで)王は使者を日本にやって、二人をさがしたところ、延烏が、「私がこの国にきたのは、天がそうさせたからである。だから(今さら)もどれようか。だが、私の妃が織った細?[さいしょう](上等のきぎぬ)がある。これをもっていって天に祭ればよかろう」といって、その絹をくれた。使者が帰ってきて申しあげ、その言葉どおり祭ると、いかにも太陽と月(の光)がもとにもどった。その絹を御庫にしまっておいて国宝とし、その倉庫を貴妃庫と呼び、祭天した場所を *2 迎日県、または *3 都祈[トキ]野と名づけた。

*1 延烏細烏=この烏(오)(o) は、新羅人の男女の名前によく添尾される語である。……
*2・3 迎日都祈=「迎日」は「돋이」(ᄒᆡ(해)도디)(tot-i, hʌj-to-ti)(日の出)。『三国史記』巻三十四、地理一に、「臨汀県、本斤烏支県 今迎日県」とあり、「斤烏支」は、「斧・斤」の訓「도ᄎᆡ(채)」(돗귀)(to-čhʌj, tos-kuj) の記写である。「都祈」は「도기」(to-ki) その音転は「도디・도치」(to-ti, to-čhi) で、ともに「日の出」(도디)の音訓借字。
〔以上『完訳 三国遺事』より〕

※ 引用文中の、〔〝ᄒᆡ(해)도디〟・〝도ᄎᆡ(채)〟と記述した個所で、〕〝(해)〟ないしは〝(채)〟と半角の括弧内に書いた文字は、直前の文字の一般的な組み合わせを引用者が想定して、引用に際し代替文字として追記したもので、原文にはありません。

 この「都祁」の名にかかわるであろう〈都介野岳〉は、大和の〈箸墓古墳〉から約 12 キロメートル、東北東約 25 度の位置にある。

 ◉ いにしえの、日本の文化は、渡来人によってもたらされたものに、まちがいなく大きく影響された。

朝日が昇る〈東海〉の向こうにある日本は、
渡来人が目指した土地でもあった。孝霊天皇の伝説だけじゃない、
〈東海〉の東の「日吉津(ひえづ)」付近は、渡来人の上陸地点のひとつだ。


Google サイト で、本日「伯耆大山 - 迎日湾」の地図を追加したものを公開しました。

日本海の朝日: 大山の噴火と山陰への人類到来
https://sites.google.com/view/emergence2/tsuge/toki

バックアップ・ページでは、大山の見える海上の範囲が、〝弧〟に描いてあります。

大山噴火:日本海の朝日 バックアップ・ページ
http://theendoftakechan.web.fc2.com/eII/tsurugi/toki.html

2018年8月18日土曜日

大山 と 隠岐 :〈伯耆大山〉と海上の道

 ○ 与謝野晶子は、大山から隠岐を見て歌に残した。

大山寺(だいせんじ)笹のいく葉の隱岐見えて伯耆の海の美くしきかな
378〔初〕山陰遊草 ― 冬柏 昭 5 ・ 6
〔『定本 與謝野晶子全集』 「落葉に坐す」 (p.142)

 ○ 田山花袋の紀行文では、沖から大山を見た、遠景の美しさが述懐された。
―― 先に語られる、御来屋の風景は、大山のふもとの日本海に面した名和町(現大山町)から隠岐の島が見えるという話題だ。

 御來屋[みくりや]に來ると、船上山はやゝ後に、大山[だいせん]の大きな山彙の一部が段々前にあらはれ出して來る。前には街道[かいだう]の松並木を隔てゝ、をりをり海が見える。好い景色である。
『隱岐[おき]は見えないかな』
『天氣[てんき]の好い日には見えるんですがね。今日は曇[くも]つて見えません』
 などと誰かが言つてゐる。
…………
地藏岬の少し手先の鼻が、右の方の海に突出[とつしゆつ]してゐる。大山から御來屋[みくりや]方面にかけて一目に見わたされる。
『絶景だ。江[え]の浦[うら]から見た富士よりも餘程好い』
 私は心の中で、こんなことを思つた。
 やがて美保[みほ]ケ關[せき]の一廓が繪のやうに前にあらはれ出して來た。
〔『田山花袋の日本一周』 (中編) 四十 山陰地方 (pp.616-617, p.630)

 大山は日本でも屈指の名山である。單に中國の名山でなく、日本の持つた多くの名山の十指の中に數へられるものゝ一つである。富士、鳥海、淺間、温泉、かう數へて來て次に指を折るのが此山である。
 富士がその背景に多くの複雜したものを持つたと同じやうに、この山もまた彼方此方から仰望の的となるやうなところにその位置を置いた。中でも、海から放つた眺望が一番すぐれてゐるのを私は見た。出雲の美保關あたりから眺めた山は殊に見事である。境から美保へ行く汽船の甲板の上から、夜見ケ濱の長松をその前景にした形がすぐれてゐた。
 遠く離れて、隱岐から望んだ形はことにすぐれてゐるといふことであつた。隱岐に行つたことのある私の友達は話した。『大滿寺山から見たさまは何とも言はれませんよ。前景も背景もなく、ぽつかりと海の中に浮んでゐるやうな氣がしますよ。實際、そこまで行つて見なくつちや、大山の名山たる價値がよくは分らないやうなもんだ。』成程それに違ひなからうと私は思つた。
〔『定本 花袋全集』 第十六巻 「山水小記」五一 (p.648)


大山〈剣ヶ峰〉が見えはじめる〝海の道〟を想定してみよう


◉ ここでは、大山の山頂を〈剣ヶ峰(標高 1,729 m)〉として、その頂が北と西の海上の、どの地点で見えはじめるかを試算する。

△ 山の頂が見える範囲を求める際の計算式(の考え方)として、たとえば円の(右側の)、円周上に接線を引けば、半径とその接線の一部で形成される、直角三角形が想定できる。―― この直角三角形の、斜辺と半径とで構成される角度、を求めればよい。

● 地球の赤道一周は 4 万キロメートルとして、その半径 r は、
 (円周の長さは直径に円周率をかける)という公式より、

2πr = 40,000 (km)
r = 40000 / 2π
40,000 ÷ (2π) = 6366.197723675814
≒ 6366.198 (km)

検算すれば、

2π × 6366.198 = 40000.00173619607 (km)


● そこで半径 6,366.198 ㎞ の円の、右側の円周上に接線を引いて、その接線と接する

6366.198 + 1.729 = 6367.927 (km)

の斜辺をもつ、直角三角形の cos θ ° を求めればよいことになる。
したがって、次の計算式を解けばよい。

6367.927 km × cos θ ° = 6366.198 km

これに数値を当てはめていくと、

cos θ ° = 6366.198 km ÷ 6367.927 km
0.9997284830683518 = 6366.198 km ÷ 6367.927 km
0.9997284418880508 = cos 1.3353 °


○ 大山〈剣ヶ峰〉の北緯は、35.371218 度なので、1.3353 度を足すと、約 36.7065 度となり、これを単純に考えれば、およそ 36.2 度の〈隠岐国〉つまり「隠岐諸島」からは見えても、 37.2 度付近の「竹島」からは見えないことになる。

―― この角度を距離に換算する。

● 地球の緯度 0 度(赤道)で、経度 1 度あたりの円弧の長さは、

40,000 km ÷ 360 ° ≒ 111.111 km

―― 111.111 ㎞を、経度の 1 度あたりの、円弧の長さの基準値として用いて、

1.3353 度の円弧の長さを求めれば、

111.111 (km) × 1.3353 ≒ 148.367 (km)

となる。


◉ 西の海上から見える範囲は、円周が〈剣ヶ峰〉の北緯 cos 35.37 ° ≒ 0.81543 の割合で短くなるので、計算値は変わる。

参考値:
cos 35.37 ° = 0.8154309948913069

―― 同様の計算を、半径 (6366.198 × 0.81543) ㎞ の円に変更して、行なえばよい。

6366.198 × 0.81543 = 5191.18883514 (km)

● つまり半径 5,191.1888 ㎞ の円の、右側の円周上に接線を引いて、その接線と接する

5191.1888 + 1.729 = 5192.9178 (km)


の斜辺をもつ、直角三角形の cos θ ° を求めればよいことになる。

6366.198 × 0.81543 km = (6366.198 × 0.81543 km + 1.729 km) × cos θ °
6366.198 × 0.81543 km ÷ (6366.198 × 0.81543 km + 1.729 km) = cos θ °

0.9996670532970886 = cos θ °
0.9996670323501685 = cos 1.4786 °

  北緯 35.37 ° の円周における、1.4786 度の円弧の長さは、40,000 ㎞ に、cos 35.37 ° をかけて、

40,000 km × 0.81543 ÷ 360 ° × 1.4786 ° ≒ 133.966 km

となる。


 ○ 竹島の位置について。


【竹島DATA】
○ 隠岐諸島の北西約158キロメートル、北緯37度14分、東経131度52分の日本海上に位置する群島。島根県隠岐の島町に属する。
〔『竹島』 竹島問題10のポイント (p.2)

 ◎ 上記資料の 2 ページに掲載されている地図が、埼玉県公式ホームページ竹島を知ろう!に大きな図で転載されている。

 ( URL : https://www.pref.saitama.lg.jp/f2208/documents/ryoudo-pamphlet_p04.pdf )

日本海は、朝日の昇る海 ――「東海」という名も持つ。



Google サイト で、本日「伯耆国 - 隠岐国」の地図を追加したものを公開しました。

〈伯耆大山〉と海上の道
https://sites.google.com/view/emergence2/

バックアップ・ページでは、大山の見える海上の範囲を、〝弧〟に描いてみました

〈伯耆大山〉と海上の道 バックアップ・ページ
http://theendoftakechan.web.fc2.com/eII/tsurugi/dCoord.html

2018年8月11日土曜日

「帝室技芸員」宮本包則

〈印賀鋼〉最強伝説 / 伯耆・刀匠伝 Ⅱ


明治期の「帝室御刀鍛冶」能登守菅原包則


前回、「〈印賀鋼〉最強伝説 / 伯耆・刀匠伝 Ⅰ」で引用した『倉吉市史』に、安綱は「伯耆国大原」の刀匠であることが書かれていた。それに続けて「以後、伯耆の地には刀匠が輩出した」とあるけれど、伯耆の国には明治時代に活躍した宮本包則がいる。

 ○ 宮本包則(みやもとかねのり)の、郷土の資料にある記録から。

一、刀工宮本包則(竹田郷土誌より)
 宮本包則翁は我が郷土出身者中最も優れたる人にして、明治の正宗と称され恐れ多くも上は天皇の御守刀、伊勢の皇大神宮の御宝刀より、其の他全国名ある神社の御宝刀を鍛うる事其の数実に多し。校下大字大柿村の中央津山街道の横に翁の功を賞せし碑あり。
〔『宮本包則刀剣展』 (p.2)


刀匠 宮本包則伝
 彼の来歴の概略を知ることのできる書に「伯耆国刀工、元能登守菅原包則履歴」なる一冊子がある。それによって、郷土の刀鍛冶として名を知られた包則を知りたいと思う。
 この書の編者は河村郡西郷村の岩根則重であって、包則の弟子であると自記している。おそらく、最も信頼できる包則の研究書であろうと思う。その書によると、
 「吾が師、宮本包則は幼時は沢次郎、後に志賀彦と称す。姓菅原。元横木氏。後宮本氏に改む。父を惣右衛門といい代々醸家であった。母は石原氏(木地山村)で名は多加といった。師は其の第二子で、天保元年(一八三〇)八月二十五日(実は文政十三年)河村郡大柿村に生れた。
 其の隣接する大原の地は古昔、刀工の名手安綱・真守等の住せし処である。……
…………
 慶応二年(一八六六) 勅命によって、聖上(孝明天皇)の御太刀(長さ二尺三寸)を鍛えて奉る。
 同三年三月二十三日、能登守に任ぜられる。
 明治元年正月、官軍の東征に従い、大津の陣中にあって戦刀数口を造る。二月二十五日草津駅において大総督有栖川宮へ陣中鍛える太刀一口を献じた。
 同年夏、三条西卿(季知)より佩刀を作るべき旨を命ぜらる。卿に告げて曰く
 「洛東稲荷神社の後山、三か峰は名匠宗近が参籠して鍛冶せし遺跡である。包則も其の轍を踏み、閣下の刀を造らんと欲す。」
と、乃ち同神社の許可を得て仮居を構え、七月五日より沐浴斎戒して卿の刀を鍛うるに、同月十一日俄に勅命を蒙り、今上の御太刀(二尺三寸)及び御短刀(八寸五分)を鍛えて奉る。因って御賞として金四十三両を賜う。此の鍛錬中(八月十五日)卿自ら来りて見る。
 最後に刀一口を造りて神社に納参。…………
〔『続 三朝町誌』 (p.528, pp.529-530)


―― 伝記の詳細は各資料によられたいが、続 三朝町誌の 530 ページには、明治元年に伊勢皇太神宮の御造営につき、御太刀三十二口を鍛造して上納した。と続き、535 ページに大正十五年に他界した。と、記録されている。大正十五年( 1926 年)は 12 月 25 日に、昭和元年となった。


 江戸時代の末( 1830 年)に生まれた宮本包則が、「帝室技芸員」に任命されたのは、明治 39 (1906) 年のことであった。余談ではあるが。七十七歳の祝賀を喜寿という。

 同じ時代、明治 37 年に創業した米子製鋼所の鋼は、「少なくとも明治 41 年から大阪造幣局の貨幣極印用として買上げられてきた」ことが、先に〝〈印賀鋼〉最強伝説 〟(2018年7月10日火曜日付け)で確認できた。
 けれども、その原材料となったはずの砂鉄の採取地は、明確な記録が未だ確認できていない。資料を探していたおりのことだ。それには当時の事情が関係すると、教えられたことがある。おそらくは 21 世紀の現在と違い、門外不出の企業秘密としなければ、鉄製品の製法等は、すぐに盗まれ、あげくのはてにはブランド名を模した粗悪品の横行などが、当然の時代ではあったのだろう。

 ○ 日本刀の素材の砂鉄も、ならばいっそう原産地の明記されたものは皆無であろうと思われたなか、〝帝室御刀鍛冶〟宮本包則作の銘に「余川山ノ蹈鞴テ造ル」と刻まれた太刀があった。太刀の銘文と、その解説を参照しよう(次の資料には、太刀の銘文がはっきり読めるよう撮影された原寸大印影がある)。


石原孟明氏蔵
太刀 銘
於東京□□□竹田生明治三十五年十一月吉日
帝室御刀鍛冶能登守菅原包則七十三歳作
□□□祖石原荘次郎ガ寛延二年伯耆国河村郡竹田谷
余川山ノ蹈鞴テ造ル□鋼ヲ以テ其五代孫石原平八郎君為作之

解説
包則の母方、石原家への為打である。石原家は、大柿村と同じ河村郡竹田村の「木地山」である。この木地山は、岡山県に近い国道一七九号線沿いにあり、中国山脈の懐にある。この近くの余川山より蹈鞴[たたら]にて造る鋼にて、この刀を鍛えたとあり、木地山字今井谷たたら遺跡との関連もある。ここの鉄山墓地には「村下[むらげ]孫四郎」なる宝暦年間の墓もある。母方の地より東京迄玉鋼を運ばせ、鍛えた貴重な一振りである。但し、この鋼を後に使ったとの作刀は今のところ無い。―――― 銘文中、於東京[伯耆国]、裏は[包則母]かと思われる。
〔『帝室技芸員 宮本包則刀六十撰』 (p. 59)


 先に引用した宮本包則刀剣展の 32 ページにも、同じ太刀の解説付き印影がある。その解説に余川山とは、当時で云う所の河村郡穴鴨村の近くである。という一文がある。

 現在の地図で「三朝町穴鴨」は確認できる。「穴鴨」の東に「木地山」がある。西には「下西谷」が接していて、その付近で国道 179 号線に国道 482 号線が合流しており、合流地点の少し西、国道 482 号線の南側に〈竹田神社〉があることが確認できる。


Google サイト で、本日、前回分と合わせ、「伯耆国 大山付近」の地図を追加したものを公開しました。

〈印賀鋼〉最強伝説 / 伯耆・刀匠伝
https://sites.google.com/view/emergence-ii/home/kohouki

バックアップ・ページでも、同様の内容で、書いてあります。

〈印賀鋼〉最強伝説 / 伯耆・刀匠伝 バックアップ・ページ
http://theendoftakechan.web.fc2.com/eII/tsurugi/kohouki.html

2018年8月9日木曜日

春日大社で発見された〈古伯耆物〉と「大山開山1300年祭」

〈印賀鋼〉最強伝説 / 伯耆・刀匠伝 Ⅰ


平安時代の〈古伯耆〉安綱


 ○ まずは最初に、今年( 2018 年)の正月に〈古伯耆〉が発見されたという記事を「朝日新聞」からの引用文で。

春日大社の太刀 最古級でした ―― 約80年前に発見 12 世紀作と判明
 奈良・春日大社が所蔵する太刀について、12 世紀の平安時代後期につくられた「古伯耆[こほうき]」と呼ばれる最古級の日本刀だったことが分かった。春日大社が 22 日発表した。……
 日本の刀剣は、古代遺跡での出土品や正倉院宝物などにみられる反りのない「直刀」から、平安後期に反りなどの付いた現在の日本刀の形が成立。伯耆国(現鳥取県中西部)で作られた「古伯耆」などが最初期のものとされる。
 刀は無銘で、刃の長さが 82.4 ㌢。鞘[さや]などの外装は南北朝~室町時代に作られた黒漆山金作太刀拵[くろうるしやまがねづくりたちこしらえ]とされる。大社によると、刃文の特徴などから古伯耆の中でも最古とみられる「安綱[やすつな]」の作の可能性がある。このほかに古伯耆は十数点の国宝・重要文化財がある。東京国立博物館の酒井元樹主任研究員(日本工芸史)は「これだけ長寸の古伯耆で、外装も残っているのは珍しい」と話す。
 太刀は 1939(昭和14)年、宝庫天井裏から発見された 12 振りのうちの 1 振り。刀身がさびていたので詳細が不明だったが、2016 年度から第 60 次式年造替[しきねんぞうたい]を記念して研磨したことで詳細が判明した。刀は 30 日から、春日大社国宝殿で展示される。3 月 26 日まで。…………(宮崎亮)
〔『朝日新聞』 2018 年 1 月 23 日 朝刊 (p. 33)


 ○ 伯耆の刀匠「大原安綱」について、郷土の資料を参照しよう。

 大原安綱 名は三郎太夫、または太郎太夫という。伯耆国大原刀匠の祖であって、古今屈指の名工である。以後、伯耆の地には刀匠が輩出した。源氏の鬼切、利仁将軍が越前気比宮に奉献した太刀[たち]、および、坂上田村麿が伊勢神宮に奉献した太刀は、いずれも安綱の作であるという。「源頼光から伝えられた新田義貞朝臣の鬼切という太刀は、伯耆国会見郡の大原五郎太夫安綱という鍛冶が一心清浄の誠を以て鍛え出した剣である。」とある。
 完成された太刀姿を示した安綱の作刀は、永延(九八七-九八八)ごろと伝える古備前友成などに共通するところが多いという学者もあるが、はっきりしない。けれども今、会見郡には大原の地名はない。『太平記』三十二番巻「直冬上洛のこと附鬼丸鬼切の事」の条に出ている。『伯耆民談記』には、安綱は、河村郡(今の倉吉市内)大原の者とし、鍛冶屋敷の地名が今もあり、ここに住んでいたとある。
 大原安綱が刀にそりをつけたことは、直刀の場合突くことが主であったのに対し切りつけることが主となり、片方だけ刃をつけることとなった。そして実用的効果を表わすとともに曲線美を得て優美な姿を持つことになった。
〔『倉吉市史』 (p. 868)

太刀 銘 安 綱(国宝名物童子切安綱) 東京国立博物館蔵
 刃長 二尺六寸四分、反り 八分九厘、鎬造り、庵棟。…… 中心生ぶ鑢目切り目釘穴棟寄りに二字銘「安綱」と切り「安」の字よりも「綱」の字が大きくなるのが特色である。
 室町時代より天下五剣の一として名高く、秀吉の所有となり家康に伝えられ、江戸時代は作州津山の松平家に伝来し現在国の所有となっている。この童子切が源頼光と結びついて伝説化したのは室町時代のこととおもわれる。安綱在銘刀中最右翼でありかつ典型作で、小板目の鍛えに地沸が厚く沸の深い小乱刃が変化に富んだ作風は天下五剣の称にふさわしい。
〔『因伯の刀工と鐔』 (p. 12)


 ○ 今年「大山開山 1300 年祭」を予定していた鳥取県では「古伯耆物」の報道を受けて、翌月には知事が春日大社を訪問したことが、地元紙で報じられている。伯耆国を代表する山の祭りに、まるで合わせたかのような「古伯耆物」の発見ではあった。


刀工安綱 広く世に ―― 鳥取県、春日大社が顕彰組織設立
最古級日本刀「古伯耆物」―― 県に貸し出し検討
 鳥取県の平井伸治知事が 14 日、平安時代末期の伯耆国(県中西部)で作られた最古級の日本刀「古伯耆物[こほうきもの]」を所蔵する春日大社(奈良市)を訪ねた。花山院弘匡宮司は、伯耆国の刀工「安綱[やすつな]」顕彰組織を発足する平井知事の提案に同調。春日大社の国宝殿で現在展示中の古伯耆物を鳥取県に貸し出す可能性も検討する意向で、奈良に眠る「伯耆の名刀」は広く脚光を浴びつつある。(深田巧、今井壮)

 鳥取県は伯耆国「大山開山 1300 年祭」の一環として、安綱ゆかりの刀展示を今夏に予定。鬼の酒呑童子[しゅてんどうじ]の首を切ったという伝承がある国宝「童子切[どうじぎり]」(東京国立博物館所蔵)で名高い安綱に焦点を当てることにしている。
 一方、神殿に奉安された神宝は「神社界として美術品扱いできない」(春日大社関係者)事情がある。特に、古伯耆物であることが最近判明したばかりの日本刀についてはまだ「門外不出」だが、安綱顕彰や日本刀の魅力を発信する組織の趣旨を踏まえ、花山院宮司は「(貸し出しも含め)前向きな話をしていきたい」と語った。
 両氏が申し合わせて 14 日に設立した組織の正式名称は「名刀『古伯耆物』日本刀顕彰連合」。平井知事は「刀剣に憧れる若い人も増えている。日本文化を見直すチャンス」と呼び掛け、花山院宮司は「大和と伯耆の歴史の中で進めていきたい」と応えた。
〔『日本海新聞』 2018 年 2 月 15 日 (p. 23)

―― 春日大社で発見された〈古伯耆物〉についての、鳥取県の公式見解は、
 ● 鳥取県公式ホームページ「とりネット」報道提供資料ページ に、次のように記されている。

4 「古伯耆物」日本刀について

○春日大社の宝庫で見つかった太刀が伯耆国(鳥取県の中西部)の刀工によって平安時代後期に製作された最古級の日本刀と判明したとの発表が1月22日になされた。
○持ち手付近の反り、刃文等の形状から平安時代末期に伯耆国で製作された「古伯耆物」と判断。また、古伯耆物であることは識者の一致するところであり、作者の銘はないものの、刀身の古さから、国宝「童子切」で有名な伯耆の刀工「安綱」の作の可能性があるとされている。

 ○ 詳細は、 http://db.pref.tottori.jp/pressrelease.nsf/webview/AF617C7F09FE4D914925822E0013F0FF?OpenDocument で確認されたい。

 ● また、鳥取県公式サイト「とりネット」知事のページ には、知事の会見が掲載されている。

7 大山開山1300年祭
 大山[開山]1300年祭も始まりまして、おかげさまで大山寺で販売をされていましたけれども、特別の御朱印帳も完売をしたり、それから大山の切手も完売をしたり、非常に出だしは好調なのかなという手応えも関係者は感じておられます。このたび、私も向こう[春日大社]へ出向きまして、花山院[弘匡(かさんのいんひろただ)春日大社]宮司と御相談させていただきましたけれども、春日大社の宝刀であります安綱の刀を、春日大社の絶大な御協力をいただき、里帰りとして7月29日から始まります展覧会[特別展示「大山山麓の至宝」]に展示物としてお迎えをする、そういう話がまとまりました。このほかにも安綱ゆかりの刀を打診をしているところでございます。春日大社さんには心から感謝申し上げたいと思いますし、春日大社の刀剣のコレクションのすばらしさ、これもこうした機会を通じて、我々も一緒になってアピールをしてまいりたいというふうに考えております。
〔知事定例記者会見(2018年5月25日)( https://www.pref.tottori.lg.jp/275403.htm#7 )

 ○ この、春日大社からの〈古伯耆物〉の〝貸し出し〟は実現した。

米子市美術館 Yonago City Museum of Art
【好評開催中!】2018/7/29 ~ 8/26 大山山麓の至宝 ~「大山」ゆかりの刀を中心に~
 伯耆国の刀匠「安綱(やすつな)」在銘の太刀3口をはじめ、春日大社所蔵の古伯耆(こほうき)などの大山ゆかりの刀を中心に、国重要文化財《銅造観世音菩薩立像》などの大山の重宝、あわせて計97点を一堂に展示します。
〔米子市美術館 -Yonago City Museum of Art- ( http://www.yonagobunka.net/y-moa/ )

―― 展示内容の詳細は、上記のリンクからたどって確認されたい。

 さて鳥取県西部、伯耆国(ほうきのくに)に位置する、海抜 1,729 m の大山(だいせん)は、〈伯耆大山〉とも〈伯耆富士〉ともいわれる。その頂上が一般には標高が 20 m 低い、1,709 m の〝弥山〟とされていることについては、

鳥取県公式サイト「とりネット」警察本部 にて、次の情報が確認できる。

大山登山情報
 大山(だいせん)は、中国地方の最高峰(弥山から標高1,709メートル)であり、北西側の姿から別名「伯耆富士」との愛称が付けられ、全国各地から愛好家の方などが来訪され登山を楽しまれています。
※大山の最高峰は、標高1,729メートルの剣ヶ峰ですが、そこまでの縦走路は崩落が激しく危険なため立入り禁止になっています。現在、大山の頂上は標高1,709メートルの弥山となっています。
〔大山登山情報/鳥取県公式サイト「とりネット」警察本部 ( https://www.pref.tottori.lg.jp/policedaisen/ )


――〝弥山〟のほぼ真東に〝剣ヶ峰〟は位置し(東北東に約 1.45 °)、座標間の計算によると、水平距離で 567 m ほど離れている。

 地元紙の報道では、本日 2018年 8月 9日に、米子市で「大山開山 1300 年祭」の記念式典が開かれる、ということだった。
 そういえば、今年ももう、〈立秋〉をすぎたそうな。

2018年8月6日月曜日

橿原の日知りの宮

 前回、神武天皇(神日本磐余彦天皇)が、菟田の「高倉山」で磐余を遠望した伝承について見た。
 菟田の周辺の地名に関して、大系本 日本書紀 上(p.199) の頭注には、次のように解説されている。

高倉山 奈良県宇陀郡大宇陀町守道にある山。大宇陀町松山の東南方にあり、標高約四四〇メートル、展望がよい。近世の検地帳に、この山の東西山麓に高倉の地名のあることを伝えている。
国見丘 古来諸説があるが、確実に比定すべき地がない。字陀郡大宇陀町と桜井市との間にある経ヶ塚山は、高倉山の西にあたってよく見える所なので、地理にはあう。国見丘の名を伝えていないが、国見をする丘の意味の普通名詞ともとれる。

―― 以上の解説文を検証すると、現在、〝神武天皇聖蹟菟田高倉山顕彰碑〟の立つ宇陀市大宇陀守道の〈高角神社〉に近い山頂(南西側)には三角点があって、〝基準点名「大東」〟標高は約 428 m 地点であることが国土地理院の「基準点成果等閲覧サービス」で確認できる。
 この数字では上の解説と標高が合わないので、さらに調べてみると、その北に「城山」という名称が見え、城山の南側の山頂にも、三角点があった。そちらは〝基準点名「拾生」〟で標高は約 440 m 地点だった。
 計算してみると、「高倉山 伝承地付近の山頂」から「城山の南側の山頂」までは、水平距離で、約 1.4 ㎞ であった。
 ちなみに城山の住所は「宇陀市大宇陀春日」となっている。

―― もうひとつの〝国見丘〟の参考地「経ヶ塚山」は、「神武天皇聖蹟菟田高倉山顕彰碑」のほぼ真西(西北西約 6 度の方角)にあって、水平距離では約 4.8 ㎞ 離れている。
 ちなみに、「神武天皇聖蹟菟田高倉山顕彰碑」から「天香久山」へは約 11.6 ㎞ 離れていて、「畝傍山」は「天香久山」からさらに 3 ㎞ ほど西にある。

 ○ 神武天皇は畝傍山に「橿原宮」を造営して、そこで即位した。

 九月の壬午の朔乙巳(二十四日)に、媛蹈韛五十鈴媛命を納れて、正妃としたまふ。
 辛酉年の春正月の庚辰の朔に、天皇、橿原宮に即帝位す。是歳を天皇の元年とす。正妃を尊びて皇后としたまふ。
(ながづきのみづのえうまのついたちきのとのみのひに、ひめたたらいすずひめのみことをめしいれて、むかひめとしたまふ。
 かのとのとりのとしのはるむつきのかのえたつのついたちのひに、すめらみこと、かしはらのみやにあまつひつぎしろしめす。ことしをすめらみことのはじめのとしとす。むかひめをたふとびてきさきとしたまふ。)
〔『大系本 日本書紀 上』「神武天皇 即位前紀庚申年九月-元年正月」 (p. 213)

 ○ かくして、神武天皇が即位した「橿原宮」も畝傍山にあったと伝承され、万葉集に「橿原の日知の御世」と、歌われている。万葉の時代から「聖」は「日知り」のことであった。

じり[日知・聖](名)① 天皇のことをさす。
 「玉だすき畝傍[ウネビ]の山の橿原の日知[ひじり]の御世ゆ」(万二九)
【考】 ヒは日、シリは領知する意のシルの名詞形であろう。日を知る者の意で天皇をさす。「聖」の字に応ずる訓としても用いられた。
〔『時代別 国語大辞典 上代編』 (pp.610-611)

―― この歌についての解説を注釈本で参照してみたい。

玉たすき 畝傍の山の
橿原の 聖[ひじり]の御世ゆ〔或ハ云フ 宮ゆ〕
あれましし 神のことごと
栂[つが]の木の いやつぎつぎに
天の下 知らしめししを〔或ハ云フ めしける〕
 天[そら]にみつ 大和をおきて
…………
 【口譯】 畝傍の山の橿原の地にましました、英明な神武の御世より〔或ハ云フ、宮より〕 お生れになつた歴代の天皇方が、つぎつぎに天の下を治めてをられたのを、〔或ハ云フ、治めてをられた〕 大和の地をさしおいて、…………
 【訓釋】 …………
 橿原の聖の御世ゆ ―― 橿原は畝傍山の東南麓、今の橿原市畝傍町のあたり。神武紀に「觀夫畝傍山東南橿原地者、蓋國之奥最中墺[モナカ]區乎。可治之[ミヤコツクルベシ]」とある。古事記には「坐畝火之白檮原宮治天下也」とある。「ひじり」の語については考に「日知てふ言は、先月讀命は夜之食[オス]國を知しめせと有に對て、日之食國を知ますは大日[ヒル]女の命也、これよりして天つ日嗣しろしをす御孫の命を日知と申奉れり、」とあるが、全註釋には「ヒジリは、日知と書いてあるのが語義であつて、日を知る人の謂なるべく、古代、農耕の上に暦日を知る人を尊んで言つた語と考へられる。暦のことをヒヨミといふは、日を數へる義であり、月のことをツクヨミといふも、月數を數へる義であつて、共に農耕の生活から來た語であり、日知も同樣の造語であらう。しかしながら漢字の入り來るに及んで、その聖の字の訓として用ゐられ、聖の字の意味に習合した。」とあるに從ふべきであらう。……
〔『萬葉集注釋』卷第一 二九 (p.253, p.255) 〕


―― 最後に、次のことを再確認しておこう。
 今回の日本書紀からの引用文では省いたけれど、神武天皇の正妃は、「事代主神(ことしろぬしのかみ)」の子である。事代主神は、国譲りの神話に登場する、オホクニヌシ〔大己貴神(おほあなむちのかみ)〕の息子だ。
 いわゆる出雲神話によればオホクニヌシのサキミタマ・クシミタマ(幸魂・奇魂)は、オホモノヌシであって、つまり古事記に「御諸山(三輪山)の山の上に坐[ま]す神」と記述されている神に同じ、ということだ。
 三輪山の山頂に坐す神オホモノヌシは、オホクニヌシのミタマ、なのである。
 そして、第二代綏靖天皇の母は「媛蹈鞴五十鈴媛命」と、日本書紀に書かれている。つまりそれは、〈神に坐す(ミワニマス)〉オホクニヌシの神の子孫でもある、ということなのだ。

また、初代天皇〈神日本磐余彦天皇〉の神話で、その皇后の名は、
〈媛蹈鞴五十鈴媛命〉――〝たたらの姫〟とされている。
鉄と武力は、この神話でも最初から密接な関係として描かれた。


Google サイト で、本日、前回分と合わせ、地図を追加した内容のものを公開しました。

橿原神宮:畝傍山の日知りの宮
https://sites.google.com/view/geshi-lines/hijiri/kashihara

バックアップ・ページでは、もう少し詳しい情報など、書いてあります。

橿原神宮:畝傍山の日知りの宮 バックアップ・ページ
http://theendoftakechan.web.fc2.com/eII/hijiri/kashihara.html


座標間の水平距離と角度は、次のページの座標データに基づいて計算しています。

修正版 一覧表データの座標間の距離と角度を計算するページ
http://theendoftakechan.web.fc2.com/eII/hijiri/nCoord.html

2018年8月4日土曜日

菟田・高倉山より 磐余邑へと

磐余邑・磐余山


 高天原より国家平定の霊剣フツノミタマの投下を受けてのち、吉野の山中を進軍した神武天皇(神日本磐余彦天皇・神倭伊波礼毗古命)は、菟田の地から磐余邑を遠望する。
―― 日本書紀から、その場面を引用する。

「神武天皇 即位前紀戊午年九月」
 九月の甲子の朔戊辰に、天皇、彼の菟田の高倉山の巓に陟りて、域の中を瞻望りたまふ。時に、國見丘の上に則ち八十梟帥〔梟帥、此をば多稽屡と云ふ。〕有り。又女坂に女軍を置き、男坂に男軍を置く。墨坂に焃炭を置けり。其の女坂・男坂・墨坂の號は、此に由りて起れり。復兄磯城の軍有りて、磐余邑に布き滿めり。〔磯、此をば志と云ふ。〕

(ながづきのきのえねのついたちつちのえたつのひに、すめらみこと、かのうだのたかくらやまのいただきにのぼりて、くにのうちをおせりたまふ。ときに、くにみのをかのうへにすなはちやそたける〔たける、これをばたけるといふ。〕あり。まためさかにめのいくさをおき、をさかにをのいくさをおく。すみさかにおこしずみをおけり。そのめさか・をさか・すみさかのなは、これによりておこれり。またえしきのいくさありて、いはれのむらにしきいはめり。〔し、これをばしといふ。〕)
〔『大系本 日本書紀 上』 (pp.198-199)
 
「補注 3 巻第三 神武天皇」
 神日本磐余彦天皇 神日本磐余彦天皇は、記に神倭伊波礼毗古命とある。神日本は美称。磐余は大和の地名。奈良県磯城郡桜井町・安倍村・香久山村付近(今、奈良県桜井市中部から橿原市東南部にかけての地)で、桜井町谷には磐余山がある。大和の平野部から宇陀の山地部に入る咽喉の位置にある。
〔同上 (p.576)

 上の引用文補注 3に、磐余は現在の奈良県桜井市中部から橿原市東南部にかけての地とある。また磐余山があるという。

 ○ その〝磐余山〟がある場所を調べてみた。桜井市谷に鎮座する〈石寸山口神社〉が、式内社の「石村山口神社」であるかもしれないと論じられたなかで、〝磐余山〟のことも言及されていた。その一部を引用する。

石村山口(イハレノヤマクチノ)神社
【所在】
〔A〕 石寸山口神社 櫻井市大字谷五〇二番地
〔B〕 山口神社 櫻井市高田、舊十市郡池上鄕
【論社考證】
ことにA社の方は用明天皇の磐餘雙槻宮の地と考へられてをり、その南の山はコモ山といふが、また磐餘山とも稱されてをり、A社を式内社と考へてよいやうにも考へられる。しかし、『磯城郡誌』『大和志料』はいづれも本社をA社とすることは否定してをり、A社を式内社と斷定することもできない。「イハレ」の地が櫻井市中部から橿原市東南部にわたる地域と考へられ、その地に續く山塊 ―― 多武峰山塊をも含むとすることは十分考へられるところであり、B社を式内社と考へる餘地も存するから今日ではいづれを式内社と斷ずることは困難といはざるを得ない。
〔(堀井純二)『式内社調査報告 3 』 (p.912, p.913)

―― 一説に、この場合の「寸」は「村」を省略した字体であるともいわれていることを、追記しておこう。
 さてここで、A社とB社のいずれが式内社であるか、という結論は保留されているけれど、〈石寸山口神社〉の南にある山が〝磐余山〟だということは、前段階(前提の段階)ですでに結論が出ている。
 それに従えば、〝磐余山〟は〈石寸山口神社〉の南の〝コモ山〟のことである。2 万 5 千分の 1 の地形図に山頂の記号(三角点)が記されている個所であると特定できる。その三角点のすぐ南に「桜井小学校」がある。
 調べてみたら、その基準点(三角点)の名称は、「桜井公園」で、標高は 126.42 m であった

畝傍山の天皇陵


 先日、神武天皇陵は畝傍山東北陵(うねびやまのうしとらのすみのみささぎ)といわれるように、畝傍山の北東部に位置するのだけれども、その場所が定まったのは、ペリー来航の 10 年後にあたる幕末期、文久三年( 1863 年)だったのだということを書いた。
 神武天皇陵の場所決定のいきさつは、各種文献に詳細があるけれども、ここで、その頃に整備された第四代までの天皇陵について、外池昇氏の『検証 天皇陵』を引用しつつ、その他のページも参考に簡単に紹介しておこう。

 ○ まずは「文久の修陵」に関する資料と「橿原神宮」の鎮座についての引用文から。

『文久山陵図ぶんきゅうさんりょうず
 文久二年(一八六二)閏[うるう]八月の宇都宮[うつのみや]藩主戸田忠恕[とだただゆき]による「山陵修補[さんりょうしゅうほ]の建白[けんぱく]」に端を発する文久の修陵における山陵の絵図。朝廷の御用絵師鶴澤探眞[つるさわたんしん]によって描かれた。
  文久の修陵は、今日の宮内庁による陵墓管理の原形を形作ったものと位置づけられるが、それに至るまでには各天皇陵に巨額の費用をかけての大掛かりな普請が繰り広げられた。『文久山陵図』はその大規模な普請以前の様子を「荒蕪[こうぶ]」図として、普請が完成した後の様子を「成功[せいこう]」図として両者を対比させているのが特徴的である。本書に掲げた『文久山陵図』のうち「荒蕪」図と「成功」図をともに載せた例を一覧すれば、文久の修陵における普請で何がなされたかが一目瞭然である。墳丘は整備され、鳥居をしつらえた拝所が新設され、陵全体が天皇による祭祀の対象、つまり侵すべからざる聖域とされたのである。
〔『検証 天皇陵』 (p.30)

明治二十三年(一八九〇)四月には、神武天皇陵の隣地に神武天皇・同皇后媛蹈鞴五十鈴媛命を祭神とする橿原神宮[かしはらじんぐう]が鎮座し、昭和十五年(一九四〇)の紀元二六〇〇年に至るまで神武天皇陵は拡張・整備が続けられた。
〔同上 (pp.34-36)

 文久の修陵では、文久三年 (1963) に、神武天皇陵が定められた。同じく文久の修陵で、第三代安寧天皇陵と、第四代懿徳天皇陵が修補されている。
 明治十一年 (1878) に、第二代綏靖天皇陵が定められた。
 いずれも〝畝傍山〟にある。それぞれの所在地をリスト形式で書けば、次の通り。
  1.  神武天皇陵 / 橿原市大久保町
  2.  綏靖天皇陵 / 橿原市四条町
  3.  安寧天皇陵 / 橿原市吉田町
  4.  懿徳天皇陵 / 橿原市西池尻町

 神武天皇が即位した「橿原宮」も畝傍山にあったと伝承される。古事記には畝火の白檮原宮(うねびのかしはらのみや)」〔『大系本 古事記』 (p. 161) とある。この白檮原について『大系本 日本書紀 上』の頭注 (p. 213) で解説があり、先年の発掘によって、この地に昔白檮の林のあったことが確認されたと記されている。

―― 万葉集(巻第一の二九)橿原の日知の御世と歌われているのは、神武天皇の「橿原宮」を意味する。