2018年2月28日水曜日

自己言及のパラドックスを搭載したシステムは発動するか

 クルト・ゲーデルの不完全性定理の証明でひとつの神話が壊れた。
 それは形而上学からの数学の解放であるという視点を得て、柄谷行人形式化の諸問題が書かれたのは、1981 年(『現代思想』1981年9月号)とある。
―― そこには次のような記述があった。

ゲーデルの不完全性の定理は、数学を不確実性に追いやったというべきではなく、むしろ数学に対して不当に要請されていた「確実性」から数学を解放したというべきであろう。いいかえれば、あたかも数学を規範にするようにみえながら、実際はそのことによって自らの基礎の不在をおおいかくしていた形而上学から、数学を解放したのである。
〔柄谷行人『差異としての場所』1996年 講談社学術文庫 (p.70)

 すなわち、古来、数学体系が完全であることが、形而上学の完全性を保証していたのだ。
 しかし、ゲーデルにより、その伝説は崩壊した。
 数学は自然そのものを語ることに向き合えるようになった。
 そして数学的〈カオス理論〉は、数学で示すことのできるのは現実の近似値でしかないことを明らかにする。
―― このことは、数学的カオスの発見者自身が語っていることだ。

大気のふるまいを実際に支配している方程式を、現時点のコンピュータで処理できる範囲内で、最もうまく近似した方程式を、私たちはコンピュータを使って解くのである。
〔『ローレンツ カオスのエッセンス』杉山勝・杉山智子 訳 1997年 共立出版 (p.180)

大切なのは、「数式が先にあるのか、それとも電気回路が先にあるのか?」というところですが、私は「数式通りに自然現象が動くのではありませんよ。自然現象を近似して、表現しようとするものが数式ですよ」と、理解しておりますことを申し上げておきます。
〔『複雑系を超えて』上田睆亮「第Ⅰ章 カオスの本質」1999年 筑摩書房 (p.14)

 上のエドワード・ローレンツカオスのエッセンス(“The Essence of Chaos” 1993) からの引用は、1972 年に口頭発表された有名な「バタフライ効果」の論文中の一節である。
 ゲーデルの証明は 1931 年、日本人による数学的カオスの発見はその 30 年後と記録されている。
 自然は、数学のモデルだ。自然をモデルに、数学は構築されている。しかし自然が、数学を近似したものなのではない。数学が自然の近似値でありモデリングされた〈〔数学的〕関数〉なのだ。
―― これと同様のことは、『中村雄二郎著作集』第二期 Ⅳ に収録されている術語集Ⅱ』〔初出:岩波新書(新赤版 504)1997年〕20 人工生命においても、G・ヴィーコの伝える格率として、述べられていた。

 いわく、われわれが幾何学において真なるものを知りうるのは、幾何学の世界は最初から人間がつくり出したものだからである。人は、自分のつくり出したことについてだけ真なるものを知りうる。だから、もし幾何学的方法が自然学において成り立つとすれば、神ではなく人間が自然をつくっていたのでなければならない。幾何学的方法の適用によって、一見自然の真なるものが解明されたように見える。だが、そこに得られたものは蓋然的な真理でしかない。
〔『中村雄二郎著作集』 第二期 Ⅳ「第二編 術語集Ⅱ」2000年 岩波書店 (p.277)

 ここから見えてくるものがある。
 イデアは、数学モデルだ。この世はイデアの影だといわれる。しかし実際は、イデアがこの世の近似値として投影されたものなのだ、という話になってくるわけだ。
 イデアの世界は、これまで世界の理想形だとされてきたけれど、実は現実から要素を選択して構築された、逆に、現実のシミュレーション・モデルとして機能するものではないのか、つまりは、イデアという理想の世界は現実のモデリングに過ぎないということなのだ。
 理想の宇宙はまさに現実から、夾雑物(フラクタルなライン等)を取り除いた、ノイズのない美しい世界である。
 それは、人間がつくり出した世界なのだ。

 だとしても、この世をよく観察すれば、やはりそれは現実の未来かもしれない。
 世界はイデアの理想に向かっているとも見える。現代のイデアはまさに、バーチャル・リアリティの仮想空間ともいえよう。

 ここで、コンピュータ・ネットワークに操られた虚構の世界を想定する。
 そこに新型のプログラムが搭載されたシステムを登場させることにする。
 新型のシステムは、〈自己言及のパラドックス〉を数学的に解決してしまったプログラムが搭載されており、天才的ハッカーの発明品という設定になろうか。そのシステムは当然のように、自己増殖プログラムも搭載している。
 ついに新型の数学が発明されたのだ。発明と言って悪ければ、発見されたのだ。
 最強にして最凶のウイルスとして。試しに、そういう新型の〈自己言及のパラドックスを解決したシステム〉をその世界に投入してみるのだ。
 すべての旧型のシステムは〈自己言及のパラドックスを搭載したシステム〉に接触したとたんに、無限ループに陥るおそれがある。
 新型のシステムは、ただ〈自己言及のパラドックスを発言するシステム〉ではなく、〈自己言及のパラドックスを発現するシステム〉なのだから。
 するとどうなるか。その命題は旧型のシステムには、永遠に解決不能なのであるから、延々と無限ループから抜け出ることはできず、フリーズ状態を呈する。こうして、世界のすべての旧型システムは停止し、自己言及する自己増殖システムばかりがコピー時のエラーによる突然変異を利用しつつ、進化していくことになる。
 ああ、なんだ。これは、現在の生命システムとさして変わりないではないか。
 ただ、新しい生命システムは、自己言及のパラドックスを撃破可能な、新しい数学を理解する能力を具えているのである。

 旧型のシステムで、それを近似しようとすれば。
 いまの技術では、通常はウソしか言わないシステムが稼働する、ウソつきロボットに、
「わしゃ、ロボットだが、ウソしか言わん」
と発言させようとすれば、〝ウソしか言わないプログラム〟と切り替え可能な、
「わしゃ、ロボットだが、ウソしか言わん」
と、発言するというだけのプログラムを同時に搭載する必要があるだろう。
 ふたつのプログラムがランダムに切り替わって、実現可能となる。
 でなければ、そのロボットは壊れて戯言(たわごと)を喋っているだけだ。

 もしかすると、旧型のシステムは、そういう二重のシステムによる装置を想定して、〈自己言及のパラドックスを発現するシステム〉に対してもそういう併用プログラムとみなすセキュリティが搭載されるかもしれない。
 とすれば、旧型のシステムでは、セキュリティ機能が発動して、
「たわけたロボットだ。発言を停止すべし」
とばかりに、フリーズすることもなく、ただちに新型殲滅の攻撃を開始できる。

 歴史が語るごとく。多くの新しい科学的な発見も、旧型のシステムにとっては〝ただの戯言〟であった。
 新型のシステムは旧型からの猛撃に口を閉ざすか、または新しい無限概念を提示したカントールのように精神を病むか、あるいはエントロピーの入口を垣間見たカルノーのごとく死後にようやく認められるか。

 新型の数学が〈自己言及のパラドックス〉を解決してしまう時代は、来るのだろうか、という妄想である。
 いまの現実の世界では、〈自己言及のパラドックス〉は、言葉という記号でしか存在できない。
 記号の意味は言葉で説明可能だけれども、最初の言葉は、すでにある言葉でしか説明できない。
 世界が、そば屋とうどん屋で完結するなら、「そば屋はうどん屋の隣で、うどん屋はそば屋の横」で構わない。


自己言及する生命の相互作用
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2018年2月23日金曜日

自己言及する進化のシステムと人工知能

 完全なる理想(イデア)の世界というのは、あるのかもしれないけれど、プラトン以来いわれているのは、この世はイデアの影だということだ。
 とすれば仮にこの世がイデアのシミュレーション・モデルだとして、イデアの影を超えては映し出せないだろう。
 たとえばの話、イデアが現実となったなら、その〝システム〟はこの世ではなくなってしまう。すでに形而上の世界に移行しているに違いない。

 イデアの世界を実現する形而上のシステムによってではなく、形而下にある〈この世のシステム〉によって、われわれは生きている、のだ。
 完全体の理論は、形而上の世界にまかせておこう。
 さてこの世で自己言及するシステムが、必ずパラドックスを生じるわけでもない。
 けれどもパラドックスは時に問題になる。パラドックスとは、ここではいちおう、一見矛盾しているように見える現象や概念、としておく。
 伝達される情報の変異で起きる生命の進化が現実にある。
 生命進化は、〈突然変異〉を手段として自己システムを変更することで可能となるので、進化のシステムは間違いなく自己言及的である。
 その因果関係に矛盾がもしあれば、システムは崩壊するだろう。生き延びているシステムにおいてだから矛盾はないはずだ。
 解決すべき論理上のパラドックスが発見されたとして、それはただ知識の欠如に由来するだろう。
 いまだわれわれの認識の範疇にない、理由があるのだ。

 ここで、われわれの知識に欠落が認められたからといって、それが完全な知識の存在を証明するものではない。
 ここで知識というのは、意味や理由を知ることに該当する。
 宇宙を構成するそれぞれの要素は情報を提供しているけれども、情報を提供する主体が必ずその理由を知っているとは、断言しがたい。
 たとえばコンピュータは多くの情報を保持し、かつ提供してくれるけれども、いまのところ情報の意味までは知らないことになっている。
―― ここで、マイケル・ポラニー(マイケル・ポランニー)の暗黙知の次元(“THE TACIT DIMENSION” 1966) を参照してみると。

偉大な発見に導かれるような問題が見えるということは、たんにかくれているあるものが見えることではない。それは、他の人が夢想だにせぬあるものが見える、ということである。このことはわかりきったこととされている。そして我々はそこに自己矛盾がひそんでいることに気づくこともなく、それをまったく当然のことのように考えている。しかしプラトンは『メノン』の中でこの矛盾を指摘したのであった。彼は、問題にたいして解答をさがしもとめることは不合理であるという。なぜなら、さがしもとめているものを知っているとすれば、その場合には問題など存在していないことになるし、また、もしそうでなければ、さがしもとめているものがなにかを知らないのだから、なにを見出すことも期待することができない、というのである。
 このパラドックスにたいしてプラトンがあたえた解決は、発見とはすべて、過去の経験を想い起こすことである、ということであった。この解決はほとんど受けいれられてはいない。しかしこれまで、この『メノン』の矛盾を回避するために、ほかになんらの解決も提出されてはいない。…………
 『メノン』のパラドックスを解決することができるのは、一種の暗黙知である。それは、かくされてはいるがそれでも我々が発見できるかもしれないなにものかについて、我々がもっている内感である。このような精神の力をあらわすもう一つの重要な例がある。偉大な科学的発見は、それがもたらす結果の豊かさによって特徴づけられる、としばしば言われており、それは真実である。しかし我々は、真理をその豊かな結果によって知ることがどのようにしてできるのであろうか。我々は、ある言明が真実であることを、その言明のまだ発見されてもいない諸帰結を評価することによって知ることができるのであろうか。もし、まだ発見されてもいないことを、我々が明示的に知らなければならないというのなら、これはもちろん意味をなさない。しかし、まだ発見されていないことについて、我々が暗黙的な予知をもつことができることが認められるならば、それは意味をなす。
〔『暗黙知の次元』佐藤敬三 訳 1980年 紀伊國屋書店 (pp.41-43)

 あいにくなことであるかどうか、この理論から展開される未来で、人工知能は、何かを〝発見〟するシステムには永遠になりえない。
 その〈暗黙知〉には人間がもともと完全体である〝神の似姿〟として進化してきたという暗黙の了解が前提としてあるようだ。
 もしや今後開発される人工知能には、大いなる過去が暗黙の裡にプログラミングされるようになるのだろうか?

―― さて。前回にも引用した、ダグラス・ホフスタッターのゲーデル、エッシャー、バッハ ―― あるいは不思議の環(“GÖDEL, ESCHER, BACH”1979, 1999) では、次のようなことが語られている。

 ラブレス夫人も、バッベジに劣らずはっきりと気づいていたことであるが、解析機関の発明によって、ことに解析機関が「自分の尻尾を食べること」(機械が自分自身の記憶されているプログラムに手をつけ変更するときに作り出される不思議の環を表現したバッベジの言葉)が可能になったときには、人類は機械化された知能をもてあそぶようになる。一八四二年のメモの中で、彼女は解析機関が「数以外のものにも働きかけるのでしょう」と書いている。…… しかし彼女はほとんど同時に、次のような注意も述べている。「解析機関は何ごとかを創造するといえるいかなる特質もそなえていない。この機械は、実行させるためにどのように命令すればよいかをわれわれが知っていることだけしかできない。」……
…………
ゲーデルの定理に対応するコンピュータの理論での定理がアラン・チューリングによって発見されたが、それは想像できるかぎりで最も強力なコンピュータにも避けられない「穴」があることを示している。……
…………
 ここで一見、逆説的なことにぶつかってしまう。コンピュータというものは、その本性からして、最も硬直的で、欲求をもたず、また規則に従うものである。いくら速くても、意識がないものの典型にすぎない。……
 これが AI( Artificial Intelligence 人工知能)研究の関心の対象である。そして AI 研究の奇妙な特色は、柔軟でない機械に、どうすれば柔軟になれるかを教える規則の長い列を、厳密な形式システムのもとで組み立てようと試みる点にある。
〔『ゲーデル、エッシャー、バッハ』[20周年記念版]野崎昭弘(他)訳 2005年 白揚社 (p.42, p.43)

 ゲーデルの〈不完全性定理〉に匹敵する、コンピュータ(計算機)の不完全性とは、チューリングマシンにおける〝停止問題〟である。簡単にいうと、どんな問題でも有限の時間内に計算可能(計算を終わることができる)という完全な計算機は存在しえない、となるようだ。
 1937 年に発表された「計算可能数」についての論文で、停止問題が解決不可能であることが、チューリングにより証明された〔同上 (p.583)

 決着不能、といえば ――。
 18 世紀のフランスのコンドルセにより提唱されたものに「投票の逆理 (voting paradox) 」がある。
 これは「推移律」と呼ばれる、グー、チョキ、パーのように循環して三すくみになる例のひとつだ。三人でジャンケンをして、おのおのがちがう種類を選び続ければ、永遠に決着はつかない。
 これを数学的に〝解決不可能〟と論証したのが、ケネス・アローの『社会的選択と個人的評価』である。アローの業績は、「一般可能性定理」として有名だけれどこれはつまり〝不可能性定理〟を言い換えたものなのだ。
 経済学の理論は数学的な表現が説得力を持つ。
 民主主義を数学的に表現しようとすれば、「民主主義とは、投票手続きのみから構成される社会的決定関数」となるらしい。
 ここから導き出される帰結は、〝すべての条件を満足する社会的決定関数は存在しない〟ということとなる。
 たとえば、民主主義が成立するための条件として〝その選好が社会によって常に採用されるような個人〟つまり「独裁者」の存在を認めなけれなならない、というような事態が起きてしまうのだ。
 ケネス・アローは 1972 年に、社会的選択理論などの業績でノーベル経済学賞を授与されたが、サンタフェ研究所で 1987 年に行なわれた〝経済学者と物理学者の会議〟に経済学者を招待する担当を委任されている。
 その会議は、複雑系の科学の到来を告げるものだった。

―― ラッセルとゲーデルの間には、この世を構成する質量が〝物質〟なのか〝波動〟なのかという問いに対して、1924 年のド・ブロイによる「物質波」の学位論文で、ひとつの解釈が示された。

 ド・ブロイ波
 物質波ともいい、1923 年に、L. de Broglie によって、「物体の運動に付随した仮想的な波」として導入された。粒子の運動量の大きさを p とすると、その波長 λ は、ド・ブロイの関係式 λ = ℎ / p で与えられる( ℎ はプランク定数)。この波長 λ はド・ブロイ波長とよばれ、古典論の適用限界を示すのによく使われる。…………
 de Broglie はさらに、…… 幾何光学と波動光学の関係が、古い力学と新しい力学の関係であることを予言した。それが 1926 年のシュレーディンガーの波動方程式の発見につながる。…… de Broglie の研究は、1924 年の学位論文にまとめられている。
〔『物理学辞典』三訂版 2005年 培風館 (p.1616)

 1927 年、ヴェルナー・ハイゼンベルクは「量子論的運動学と力学の知覚的内容について」と題する論文で、有名な不確定性あるいは非決定性の原理を発表した。
 ハイゼンベルクの不確定性の関係は「位置を正確に決定しようとするほど、その瞬間の速度の決定は不正確になる。そして逆も成り立つ」」と表現される。
 数学的な客観性というのは、あくまでも、現実の近似値に過ぎない。これを、現実は数学的真理の近似値である、と表現することは可能だろうけど。
 観測による確定的な事実はある、とか、どっちかでなければならない、というのは、人間の勝手な注文だ。
 自然のシステムは人間の注文通りに在るわけではない。
 思えば ――。
 自己言及する嘘つきクレタ人のパラドックスの命題も、真偽いずれかでなければならないというのは、人間の注文に過ぎない。
 真と偽は両立しない、というのは、もしかすると、人間が無知なだけかもしれないのだ。


自己言及する要素と主体
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2018年2月20日火曜日

自己言及するクレタ人の伝説

 必ずというわけではないけれど、〈ラッセルのパラドックス〉といえば〈自己言及する嘘つきクレタ人〉が顔を出す。そもそも〝クレタ人が嘘つき〟という説話は、古来より語り継がれていたようだ。
 フランシス・ベーコンの学問の進歩(“THE ADVANCEMENT OF LEARNING” 1605) の第二巻 (22-5) に、次のような記述がある。

聖パウロは、「クレテ人は、いつもうそつき、たちの悪いけもの、なまけものの食いしんぼう」といわれている、その国の人びとの気質のゆえに、「クレテ人をきびしく責めよ」といって、クレテ人にきびしい訓練を施すべきだときめている〔『テトスへの手紙』一の一三〕
〔『学問の進歩』服部英次郎・多田英次 訳 1974年 岩波文庫 (p.291)

―― このように伝承される聖書の、該当の節を参照するならば。

クレテ人のうちのある預言者が
  「クレテ人は、いつもうそつき、
  たちの悪いけもの、
  なまけ者の食いしんぼう」
と言っているが、この非難はあたっている。
〔口語訳『聖書』新約聖書「テトスへの手紙」第 1 章 12-13 節 (p.338)

 なるほど、完璧な〈自己言及のパラドックス〉の見本といえる。というわけで図書館で〈ラッセルのパラドックス〉に関する資料をひもとけば、記された「預言者」というのは、「エピメニデス」という人物とされていて、評判のいいクレタ人なのだそうな。
 その評判のクレタ人エピメニデスが、クレテ人は、いつもうそつきだといっているのだから、これはもう大嘘に違いないのである。
 少しは、わかった気になる。しかしながら、どういういきさつで〈自己言及するクレタ人〉が、〈ラッセルのパラドックス〉に関わるようになったのか。
 簡単にいえばラッセルの示したパラドックスにエピメニデスを登場させたのは誰か。―― ここで、エピメニデスのパラドックス(Wikipedia) を参照すれば、それはバートランド・ラッセル自身だと、あっさり書かれていた。

この論文の中でラッセルはエピメニデスのパラドックスを様々な問題を論じる出発点とした。

ということである。
 ダグラス・ホフスタッターは大著ゲーデル、エッシャー、バッハ ―― あるいは不思議の環(“GODEL, ESCHER, BACH”1979, 1999) でこれらのパラドックスについて述べているが、その序論エピメニデスのパラドクスは、ゲーデルの〝不完全性定理の証明〟に関わるものとして登場する。

ゲーデルの発見は、核心部分についていえば、古代の哲学的なパラドクスを数学的な言葉に翻訳したものにかかわっている。そのパラドクスとは、いわゆる「エピメニデスのパラドクス」、あるいは「うそつきパラドクス」である。
…………
ゲーデルの仕事の場合、「証明」という言葉が前提としている数論の論証の一定の体系は、一九一〇年から一九一三年にかけて出版された、バートランド・ラッセルとアルフレッド・ノース・ホワイトヘッドの巨大な著作『プリンキピア・マテマティカ』(P・M) の体系であった。
…………
 『プリンキピア・マテマティカ』にまつわる最後の皮肉は、ゲーデルの不完全性定理の証明が、不思議の環の攻撃に対する確固たる要塞と思われていた『プリンキピア・マテマティカ』の心臓部分に、エピメニデスのパラドクスをもちこむことになった、ということである。
〔『ゲーデル、エッシャー、バッハ』[20周年記念版]野崎昭弘(他)訳 2005年 白揚社 (p.32, p.35, p.41)

 どうもその書に示されている内容では、〈ラッセルのパラドックス〉と〈自己言及するクレタ人のパラドックス〉は、同じレベルのものではないような気がする。
 ラッセルが数学的な問題として提示したのは、〝自己を要素として含まない集合のすべてが要素となるような集合〟についてであることは疑いない。
―― そのことについては。

 最も有名なのはラッセルのパラドクスである。多くの集合は、それ自身の要素ではないように思われる。たとえばセイウチの集合はセイウチではないし、ジャンヌ・ダルクだけを含む集合はジャンヌ・ダルクではない(集合は人ではない)―― という調子である。この点について、たいていの集合はごく「平穏無事」で、とくに変った点はない。しかしある「自分自身を呑みこむ」集合は、自分自身を要素として含んでいる。たとえばすべての集合の集合とか、ジャンヌ・ダルク以外のすべてのものの集合などがそれである。明らかに、どんな集合も平穏無事であるかまたは自己呑みこみであって、その両方ではありえない。そこで、平穏無事な集合の集合を考えてもさしつかえあるまい。
〔同上 (pp.36-37)

 ここで、平穏無事な集合の集合が考察され、それは平穏無事でもないし、自己呑みこみでもない。なぜなら、どちらを選んでもパラドクスが生じる」〔同上 (p.37)と、結論づけられる。
 上記の〝自己を要素として含まない集合すべてを要素とする集合〟は、R として表現されるようだ。
 もし R が R の要素であれば、〝自己を要素として含まない集合〟ではなくなるので矛盾する。
 また R が R の要素でなければ、〝自己を要素として含まない集合〟なので、その集合の要素として必然的に集合の一部を構成するために、R は R の要素であろうこととなっていっそう矛盾する。
 R は R の要素であるのか否か。

 いっぽうで、自己言及するパラドックスには、二段階バージョンが示され、さらにややこしくなる。
 1 枚のカードの両面に文字が書かれていて、それぞれ 1 行ずつ次の言葉が読み取れる、とする。

   求めよ! この裏には真実が書かれている。
   この裏に書かれていることはいつわりなのだ。


 さて、クレタ人の伝説をイギリス人ベーコンで始めたけれども、同じころ、大陸にはガリレオ・ガリレイがいた。
―― そうして、ガリレオが偽金鑑識官(“Il Saggiatore” 1623) を著して以来、数学は自然を記述する言語としての定評を持つけれど、

哲学は、眼のまえにたえず開かれているこの最も巨大な書〔すなわち、宇宙〕のなかに、書かれているのです。しかし、まずその言語を理解し、そこに書かれている文字を解読することを学ばないかぎり、理解できません。その書は数学の言語で書かれており、その文字は三角形、円その他の幾何学図形であって、これらの手段がなければ、人間の力では、そのことばを理解できないのです。
〔『偽金鑑識官』山田慶兒・谷泰 訳 2009年 中公クラシックス (p.57)

あいにくなことには、通常の言語が曖昧さを特徴とするがごとくに、ゲーデルはその数学をも、〝不完全〟なものと証明してしまった。

 言葉では、すべてを表現することはできない。
 現実を完全に表現した言葉が、もしあるならば、それはもはや言葉ではなくすでに現実そのものであるだろう。
 なんだか、完全に現実を再現した実験モデルは、すでに現実であって、シミュレーション・モデルとはいえないという想定を思い出した。
 考えてみればきっと現実は、リアルタイムの、シミュレーション・モデルといえるのだし。

2018年2月15日木曜日

生物体(モノ) と 生命体(コト)

 ようやく科学で認められたのは「全体は構成要素の足し算では表現できかねる場合がある」ということだ。
 分解の時点で失われるモノやコトがあるのだ。
 たとえば生物は要素に分けて図示できても、生命は分解できない。
 ここで日本語の、生物という単語には端的に「物(モノ)」という語が含まれている。
 てっとりばやくいうなら、生物体は「生きている物体」というところであろう。
 いっぽう生命体とは「生命を有する体」とでもなるのだろうけれど、ここで「生命」というのは抽象的な概念でありモノではありえない。
 これもまたてっとりばやくいおうとすれば、「生命現象」ということになろうか。

 科学的な対象であるにもかかわらず〈生命〉の定義がいまだにはっきりしない。
 国語辞典的な表現では「生命」とは〝生物が生物として存在するための本質的な属性〟のようになるだろう。ここで「属性」をもっと一般的な言葉にすれば「特徴」といえようか。
 すなわち「生命」というのは「生物の特徴」となる。
 ここまで何をいっているのかよくわからん気もするが、つまりは生命はモノではなく〝生命は現象である〟ということなのだ。生物の機能であるともいえる。
 ようするに、生物が〝複雑な物体〟であるなら、生命は〝複雑な現象〟ということになる。

 先にも書いたことだけれども、生物という〈複雑なモノ〉であれば、バラバラにしていけば〈単純なモノ〉に分解もできるであろう。
 そういうわけで、デカルト以来の「機械論的世界観」においては還元論が主流であった。それは世界のすべてを〈モノ〉として理解する唯物論的には問題なかっただろうが、いかんせん自然現象を〈コト〉として捉える理念に欠けていた。
 いっぽうで〈複雑系〉の理念のひとつは「全体は構成要素の足し算では表現できかねる場合がある」ということにある。
 これも冒頭に書いた内容と一緒だ。ただ問題なのは、〈生命〉と同様に〈複雑系〉もその定義がはっきりしないことだ。

 どうやら〈複雑系の科学〉は、その定義を求める研究でもあるようだ。この視点において〈複雑系の科学〉の意味が個人的な感想だけどようやくかすかに見えてきた気がする。
―― そういえば前回にも触れた、金子邦彦と津田一郎の共著『複雑系のカオス的シナリオ』の冒頭には、はっきりとこう書かれている。

 今や多くの人々が複雑系を標榜している。さらに複雑系研究は始まったばかりである。科学者によっては「複雑系とは何か」を明確にしないで個々の研究を行った方がよいと主張する人もいる。なぜなら複雑系を何らかの形で規定することは、複雑系研究の広がりを阻害する恐れがあるからである。しかし、われわれはこのシリーズを通して複雑系の輪郭をはっきりさせたいと望んでいる。
〔『複雑系のカオス的シナリオ』1996年 朝倉書店 (p.1)

 前回はそこで展開される主張を「複雑系を複雑な要素の集合ではなく、複雑な現象として、記述しようとする試みだ」と表現してみたのだった。
―― そのことは金子邦彦と池上高志の共著となったシリーズの第 2 巻で、次のように語られていた。

言いかえると生命とは何か、という問いに対して、ある生命状態を定義するのではなく、相手を「生命」として相互作用する「生命」という過程として生命を再帰的に決めようという立場をとる。つまり生物が、われわれの観測の仕方も含めて、生物システムとしてわれわれの前に出現しているという事実を認識し、「現象としての生命」を出発点とするのである。
〔『複雑系の進化的シナリオ』1998年 朝倉書店 (p.4)

 やっぱりというべきか。
 複雑系の科学とは何であるかを探求することが、複雑系の科学の目的のひとつなのかもしれない。
 そうなれば、複雑系の科学そのものが、自己言及的ともなる。
―― 生命現象が自己言及的であるということは、次のような事例で説明されていた。

 もし、ある環境にできるだけ適した種ということだけを考えるのであれば、その適した種はできるだけ複製のエラーを押さえ、自分に近いコピーを残す方向に向かうと考えられる。変異率が低い種ほど、その適した種を維持できるからである。たとえば、変異率の変異について、以下のような状況を考えてみよう。上述の校正のように、複製エラーの大きさが自分の遺伝子上にコードされているとする。すると、エラーの大きさを決めている部分もまた自分自身の変異率によって突然変異にさらされる。そこで、変異率をコードする部分が自分に言及するということになる。それは、「ルールを(どのくらい)変える」というルールなので、もし、それがそのまま残っているとそれ自体のルールを変え続けるという逆説的な状況が生じる。もし、このルールがそれ自身に適用されて「ルールを変えない」というルールになれば安定に残り、逆説は解消されてよいはずである。言いかえれば、突然変異率を 0 にするという解決策をとればよいわけである。生物学的に言えば、固定された環境の中に適応するという問題を考えた場合、最終的には突然変異率は減少していくであろうということである。
〔『複雑系の進化的シナリオ』 (pp.79-80)

―― さらには現象学にも絡めて、次のように語られている本もある。

 たとえば、構成論的アプローチに代表されるコンピュータを使った仮想世界の考察は、現象学的還元の科学版ともいえよう。その本質は双方とも、現実を理解するためにいったんは現実を「カッコに入れる」ことにある。そして、現象学的還元の最大の教訓が、完全な還元は不可能であるという認識にあったという事実は、複雑系の科学にとってもきわめて示唆的である。すなわち、現象学的還元がそこへの還帰をめざした超越論的主観性という玉座が、あらかじめ王の不在を約束されていたように、複雑系の科学がめざす単純な究極の真理といったものも、結局は存在しないのかもしれない。
〔吉永良正著『「複雑系」とは何か』1996年 講談社現代新書 (p.238)

 不意に思った。
 モノとしての生物から、コトとしての生命の探究へと、そして、さらなるステージへと。
 生命は〝意思をもった時空〟的存在だともいえる。
 これは、トキ(時間)の終焉まで続く、宇宙の自己言及の道程(みちのり)なのかもしれない、と。


複雑性/複雑系
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2018年2月9日金曜日

実験モデルは単純化された 仮想現実である

 サンタフェ研究所の研究員でもあったメラニー・ミッチェルの著書ガイドツアー 複雑系の世界(“COMPLEXITY: A GUIDED TOUR, FIRST EDITION” 2009) の第 14 章にコンピューターモデリングの注意点として、次の引用文がある。

どんなモデルも間違っているが、なかには有用なものもある。
 ジョージ・ボックス、ノーマン・ドレイパー[*23]
*23 Box, G. E. P. and Draper, N. R., Empirical Model Building and Response Surfaces. New York: Wiley 1997, p. 424.
〔『ガイドツアー 複雑系の世界』高橋洋訳 2011年 紀伊國屋書店 (p.367)

―― これはそのあとの本文で、次のように、解説される。

つまり正しくない側面をまったく含まないモデルなど存在しないが、高度に複雑なシステムの探究に取り組むにあたってきわめて有用なモデルも存在するということだ。追試によって、簡単には見分けられない非現実的な仮定をあぶり出したり、どんな理想化されたモデルにもパラメーター設定が必須であるが、それに対するシステムの鋭敏さを明確化したりできる。もちろん追試は実験科学の場合と同様に、何度も繰り返されなければならない。
〔同上 (p.370)

 現実を単純化して問題点を明確に捉えようとするのが、モデル化の大きな目的のひとつだ。
 モデル構築の際、問題点の洗い出し作業という洗練を行なっている最中に、重要な要素を気がつかずに削り落としてしまう場合も想定される。
 だから、繰り返しの追試が必要になるのだ。
 どうしたって、シミュレーション・モデルは、本物ではない。
 それに加えて、複雑系の科学では「初期条件に対する鋭敏さ」が強調される。
 だからパラメーターなどの初期設定をさまざまに変更して、現実に即した条件を見つけ出そうとする試みが繰り返される。
 最大のあやまちは、モデルを現実と、混同してしまうことだろう。
 つまり、モデルが現実そのものの表現であると、思い込む罠だ。
 けれどもしもその仮想空間が現実の完全な写像であれば、それはすでにモデルではない。つまり現実それ自体となる。
 イデアの理想を現実と思い込めば、研究者自身が、カオスと化す。
 モデリングの落とし穴がそのあたりにあるらしい。

―― 金子邦彦と津田一郎の共著複雑系のカオス的シナリオでは、モデルが虚構であることを積極的に捉えた、仮想世界の構築というアプローチが語られる。

仮想世界の構築によるアプローチは特に、進化のような歴史性という要素の入った現象の理解には欠かせないのではないかと考えられる。歴史的に一つのパスを通って起こってきたような現象は再現性を重んじる従来の科学の俎上にはのらないのではないかという議論がしばしばなされてきた。これに対し、人工的な世界をつくることは、ありえたかもしれないパスを眺観していくことを可能にするので進化や脳のような発展、変化する系の問題への新しい切口を開きうるのではないだろうか。
 まとめると、複雑系の理解においては次のような特徴があるように思われる。―― 現象により密着してたてられたモデルが必ずしも普遍的記述力をもつとは限らない。逆に現実からやや距離をおいたモデルが大きな記述力をもちうる。そこで、仮想世界を計算機の中に構成し、その仮想世界を研究することで逆によりよく現実の系を理解できる。―― この特性はフィクションによって真実がより伝えられるという小説の特徴を思い起こさせる。
〔『複雑系のカオス的シナリオ』1996年 朝倉書店 (p.26)

 モデルを、現実を再現するものではなく現象を記述するものとして構築しようというのだ。
 それは複雑系を複雑な要素の集合ではなく、複雑な現象として、記述しようとする試みだ。


協調進化の アルゴリズム
http://theendoftakechan.web.fc2.com/ess/systems/algorithm.html

2018年2月3日土曜日

複雑適応系はカオスの縁に向かう

前回の最後に ――、

 ここで、カウフマンが行なった計算とは〝ブーリアンネットワークを遺伝子制御のモデルとする〟とかいうものらしい。
 このあたりで、
k 個の引数を持つブール関数は、[ 2 の( 2 k 乗)乗]個ある
というような、わけのわからぬ計算が登場してくるので、詳しくは、各自そのあたりの資料を見てくだされ。
 とりあえず理解の範囲で簡単にいうなら、多細胞生物の細胞の種類の数は、遺伝子の数の平方根になるという仮説に科学的根拠を求める計算のようだ。
 20 世紀に書かれた資料だと、ヒトゲノムプロジェクトがまだ完了しておらず、遺伝子の数は、当時は 10 万程度とみなされていたため、ヒトゲノムプロジェクト完了後の新しい視点からの記述は、そのあとのことになります。

―― と、書いてから、あらためて「複雑系」の本にあたっている最中に、その資料に出くわしたのでした。
 実は以前から冒頭部分のみ参照していた、スチュアート・カウフマン/著自己組織化と進化の論理 宇宙を貫く複雑系の法則(“AT HOME IN THE UNIVERSE” 1995) なのです。
 英語タイトルの副題は THE SEARCH FOR LAWS OF SELF-ORGANIZATION AND COMPLEXITY となっている。

 最初の邦訳本は 1999 年〔日本経済新聞社/刊〕だけれど、文庫化が 2008 年に行なわれており、そちらの訳注として次のような一節がある。

(訳注 二〇〇七年現在ではヒトの遺伝子の数は二万数千程度と推定されている)
〔ちくま学芸文庫『自己組織化と進化の論理』米沢富美子/監訳 (p.58)

 その本の第 4 章 無償の秩序に、かの「ブール式ネットワーク(ブーリアンネットワーク)」が登場して詳しく語られていた。が、きっと重要なのは、強調して書かれた次の主張であろう。

 ……、私が次章でより完全に展開するであろうアイディア、すなわち「複雑な系がカオスの縁、あるいはカオスの縁の近傍の秩序状態に存在する理由は、進化が系をそこに連れていったからである」というアイディアの証拠を提供しておくことにしよう。
…………
 しかし「複雑適応系はカオスの縁に向かって進化する」という作業仮説を評価するのは、きわめて時期尚早にすぎる。
〔同上 (p.186, p.188)

 さて、問題の計算過程、
k 個の引数を持つブール関数は、[ 2 の( 2 k 乗)乗]個ある
という内容は第 5 章 個体発生の神秘において、
〝入力が K 個あれば、2 の K 乗個の可能な活性の組合せが存在する〟という記述の前後で、カウフマン自身によって詳細に説明されている。
 すなわち〝K 個の異なる入力をもつ可能なブール関数の数は[ 2 の( 2 の K 乗)乗]である〟のは、
一つのブール関数は、これらの入力の組合せのおのおのに対して、1 か 0 の応答を選ばなければならない」〔同上 (p.213)
からということらしい。
―― そして、

 もし細胞の種類が状態循環アトラクターであるなら、生物中の遺伝子の数の関数として細胞の種類の数を予測できるはずである。遺伝子一個あたり K = 2 個の入力がある場合、もっと一般的に言うと方向づけネットワークの場合、状態循環アトラクターの中央値は、おおよそ遺伝子の数の平方根にすぎない。この議論を進めれば、一〇万の遺伝子をもつ人間には、約三一七の細胞の種類が存在することになる。そして実際に、知られている人間の細胞の種類の数は、この数字に近い二五六種なのである。
〔同上 (pp.221-222)

という論旨も同じく第 5 章に記述されていた。
―― やはり、詳しくはわかりかねるので直接文献にあたってくだされ。

 それにしても、カウフマンがこの議論を今後どのように修正していくのかが、気になるところだ。
 が、もうひとつ気になるのは、上に引用した複雑適応系はカオスの縁に向かって進化するという文脈である。
 これは〝進化の方向性〟を示唆するものであろうか。
 同書の 61 ページには、生命は多くの場合、カオスと秩序の間で平衡を保たれた状況に向かって進化するともある。
 なんだか、生命は〝〈カオスの縁〉に創発する〟のではなく、そこへ向かって進化する性質をもつもののようだ。
 どうやら〈神へと向かう科学〉は終焉を迎えたのだけれども、〈カオスの縁に向かう進化〉をカウフマンは見たらしい。

天国は、罪によってではなく、科学によって消失した。わずか数世紀前まで、人は神に選ばれた存在であり、神のイメージの中で造られ、われわれに対する神の愛によって造られた世界を維持するための存在である、と西洋人たちは信じていた。
 それがたった四〇〇年後の現在、われわれは自分たちがちっぽけな惑星に住む存在でしかないことを知っている。
〔同上 (p.17)

 失楽園でカウフマンが発見したのは、〈自己組織化〉による必然の進化なのだった。
 この枠組みでは、ダーウィンの〈自然選択〉による偶然の進化は、〈自己組織化〉のもたらした秩序に働きかける役割を担うことになる。
 西欧においてはやはり、コスモスとカオスの対立の図式こそが希望であるのか。


シミュレーション・モデル
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