2016年1月27日水曜日

告発者としての〈サタン〉の役割り

ニール・フォーサイス『古代悪魔学』(2001年・法政大学出版局)という本がありまして、
副題が「サタンと闘争神話」という具合になっています。

 〈サタン〉という語とその概念の成り立ちなどが、ヘブライ語の記述方式にまで触れて詳しく説明されており、われわれ一般人にも、非常に参考になります。

学術書としても、事実と推測とが区別して理解できるように、書かれていて、
――推測の屋上屋を重ねていく――よくある方式とは、まったく異なるように思われます。
そこに聖書の「歴代誌」が取り上げられていて、思想の変遷が物語られていきます。

「歴代誌」というのは、日本聖書協会の聖書では、旧約聖書の歴史書の最後に配列されています。
聖書の中でも、前のほうにあるイメージですが、世界の名著『聖書』の解説には、

「歴代志上下」と「エズラ記」「ネヘミヤ記」は紀元前四世紀、すなわちイスラエルの指導者がバビロンに捕囚されたという大事件ののちに書かれたもので、いかにして共同体を再建すべきかの顧慮に満ちている。

とあり、バビロン捕囚後の時代区分となっています。
世界の名著『聖書』の解説ではまた、聖書と教会との関係について触れてあり

 ~~、これらはいずれもキリスト教会あるいはキリスト教徒のことであって、彼らによって聖書の精神が無視あるいは曲解されて、一部の人々の勢力を守るために他が犠牲にされた不祥事である。聖書と宗教体制としてのキリスト教会とを混同してはならない。

とありますが、最近では聖書の翻訳も体制という大人の事情に巻き込まれてきているようで、
上記のような混乱に拍車がかけられているのが現状かも知れません。

――〈敵する者〉とは、組織のことなのでしょうか?


告発者 〈サタン〉 の変遷
http://theendoftakechan.web.fc2.com/atDawn/Messias/enemy.html

2016年1月22日金曜日

〈イシュマエル〉 の民 と 〈イスラエル〉 の民

イスラエルの祖先であるアブラハムは、神のお告げで、
「アブラム」から「アブラハム」へと名前を変えるのですが、
〔「創世記」17 章〕
その直前の、まだアブラハムがアブラムだったころ、ハガルとの間に、
〈イシュマエル〉という男の子が生まれます。彼は、アラブの民(たみ)の祖となります。
〔「創世記」16 章〕

イシュマエルが生れて、13 年後に、アブラハムと正妻のサライとの間に、
これまた神に〈イサク〉と命名された男の子が、生まれることになります。
サライはこのときから、神の祝福によって、サラと言うことになりました。
〔「創世記」17 15 節以降〕

イサクの子が〈ヤコブ〉です。ヤコブは、神と戦ったことがあり、勝負がつかなかったため、
神に〈イスラエル〉と名のるように、言われました。
〔「創世記」32 28 節〕

旧約聖書でヤコブの名が〈イスラエル〉と記述されるようになるのは、
どうやら、再度の神による託宣を受けた後のことのようです。
〔「創世記」35 9 節以降〕

こうして、〈イシュマエル〉と〈イスラエル〉は同じ祖先をもつ者同士なのですが、
その子孫は、はなはだ仲がよろしくないようで、喧嘩の噂ばかりを耳にします。

今回は、あと、
『聖書外典偽典』に収録されている「アダムとエバの生涯」の逸話と同様の内容が、
世界の名著『コーラン』にも、ありまして、そのあたりも、引用させていただきました。


敵対者の伝承 及び 〈イシュマエル〉のこと
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2016年1月19日火曜日

バビロンのメシア〈キュロス王〉

 キュロス(クロス)というのは「バビロン王」と刻まれた碑文も残っている、歴史上に、実在したペルシャ王らしいのですが、彼は『聖書』で、〈メシア〉と称されています。
 ヨハネの「黙示録」で最終的に斃(たお)されるべき悪魔の支配下にある都市、バビロンの王様が、メシアとして聖書に記録されているというのは、少し妙な気もしますが、これは「旧約聖書」のメシアと、「新約聖書」の〈キリスト・イエス(キリストなるイエス)〉が唯一のメシアであるという、信仰表明ための概念とが、言葉の上で混乱を起こすためでしょう。

 このように、旧約聖書と新約聖書では、メシアの観念が異なり、ギリシャ語聖書ではそれを、すべて小文字で書かれた〈キリスト〉と、頭文字(かしらもじ)大文字の〈キリスト〉とで、区別しているようでもあります。
 また、イエス・キリストという場合には、「キリスト」が人物名の一部と化していて、この場合の「キリスト」は無論〈メシア〉の意味なのですが、人物名なのでもはや「イエス・メシア」という翻訳は不可能です。
 その意味では、
〈キリスト・イエス〉の場合には、「キリストであるイエス」なので、
〈メシア・イエス〉つまり、「メシアであるイエス」と翻訳することが可能となります。

 こういうような混乱が、『新共同訳聖書』に対する批判のひとつとも、なっているようです。
 インターネット上でもよく意見が見られるように、『新共同訳聖書』では、原典であるギリシャ語聖書にある「キリスト」の多くが「メシア」という表記で記述されています。
 これは、「解釈」という名の改竄(かいざん)なのか、それともより正しくわかりやすい聖書を提供するための努力なのか――、
はてさて、それは世界的な潮流でもあるようなので、大人の事情でもあるのか、道を求めるひとに、未知の領域がそこには拡がっているようです。

 一方、ところでラテン語には、「メシア」という意味では「キリスト」しかないようなので、どうやら「キリスト」と書くしかなくて、この問題はいまのところ、回避されているのでしょうか。
 いやはやどうも。一見すると――、
頭文字小文字の「キリスト」も、頭文字大文字の「キリスト」に、なっているようでした。

 これまでに、幾多の事例を見てきたように、解釈には誤解がつきもので、多くの誤解はそこから独り立ちして、ついには「都市伝説」にまで成長を遂げていくものすらあります。


 おっと。そういえば、
バビロン王も『聖書』でメシア、という最初のお話しでしたっけ。


anointed : バビロンのメシア
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2016年1月15日金曜日

サタン(敵対者)とメシヤ(救済者)

 これまで、旧約聖書における〈サタン〉の概念についておおよそのところをみてきましたが、まずは「妨げる者」として登場したサタン(民数記 22 22 節)は、その後「道理を妨げる者」としての性格を一面として示しながらも(詩篇 109 6 節)、《神》の使者――エージェント(執行代理役)――として検察的役割から「告発者」としての立場を確立していく(ヨブ記各章各節)ことになります。
 しかしながら、これまでのところ、サタンは〝あくまでも〟《神》に許可された範囲内で行動しているにすぎません。
 すべては、おおいなる《神》の計画のもとに、事態は進行していくのが『聖書』の世界観なのです。
 そして、さらには、これから概観しようとしている〈メシヤ〉の登場シーンをみていきますと、イスラエルに敵対する王すらも《神》のしもべだというではありませんか。
 それらの敵対者も、《神》のいいなりに行動しているとされているのです。

いったい、世界はどうなっているのでしょうか。
それにしても、世界には〈悪〉がはびこり過ぎているのです。

 ――だからでしょう。新約聖書では、この問題を解決するために、〈サタン〉が《神》に至る道を妨げる敵対者として位置づけられることになりました。
 新約聖書は、キリストと呼ばれたイエスの生涯と教えを中心とする物語です。キリストは、ヘブライ語に発する〈メシヤ〉をギリシャ語で表現したものです。それがラテン語に音写されそのまま英語に引き継がれました。

 説明しよう、
・ヘブライ語の〈メシヤ〉がギリシャ語〈キリストス〉に翻訳された
・ヘブライ語の〈メシヤ〉がギリシャ語とラテン語の〈メシアス〉に音写された
・ギリシャ語〈キリストス〉がラテン語〈キリスタス〉に音写された
・そうこうしているうちに音写語〈クリストゥス〉が英語の〈クライスト〉になった
・その後ポルトガル語の〈キリスト〉が日本語の〈吉利支丹⇒切支丹〉になった
・いうまでもなく以上のカタカナ表記はいいかげんなものだが参考にはなるかもしれない
ちなみに英語の〈メシヤ〉は〝メサイア〟というような発音になる。

 この〈メシヤ〉という語は、それぞれ発行所の異なる『口語訳聖書』と『新改訳聖書』で用いられているもので、『口語訳聖書』と同じ日本聖書協会から発行されている『新共同訳聖書』では〈メシア〉と表現されています。

 ギリシャ語にも、ラテン語にも、英語にも、〈キリスト〉と〈メシヤ〉の両方の語(ごい)がありますが、両方とも、もともと同じ言葉から作られたものですから当然同じく、「救済者」としての「救世主」を意味し、キリスト教では特に、〈インマヌエル――神は我らと共に――〉とも呼ばれたイエス個人を指し示すことになります。これは「イザヤ書」第 7 14 節をもとに作られた福音書の言葉(マタイ福音書 1 23 節)であり、由緒正しい表現なのですが、ユダヤ教では、預言された救世主は未だ現れていないことになっているので、新約聖書に基づく表現はまったく由緒正しくなどないのです。
 単語としては、ラテン語の辞書に〈メシヤ〉は発見できなかったのですが……。

――さて。

新約聖書では、
「多くの者がわたしの名を名のって現れ、自分がキリストだと言って、多くの人を惑わすであろう」
〔「マタイによる福音書」第 24 5 節〕と、イエス自身によって語られるごとくに
〈キリスト〉と偽預言者(にせよげんしゃ)である〈反(アンチ・)キリスト〉との最終戦争でもあります。
それが「ハルマゲドン」と呼ばれるのは、
偽預言者がハルマゲドンの丘に全世界の王たちを招集したからです(ヨハネ黙示録 16 16 節)。
ここでもやはり、〈サタン〉は《神》により許された期間だけ地上を支配可能となります。

「キリスト対アンチ・キリスト」これをもうひとつの表現で示せば「メシヤ VS. 裏メシヤ」とでもなりましょうか。
これこそが、キリスト教の最大テーマなのですが、少々具合が悪いので今後は〈メシヤ〉ではなく〈メシア〉としましょう。

 このように、敵対者〈サタン〉はキリスト教の必需品となった次第で――
このこと(キリスト教にサタンが必要だということ)は、研究者によって、しばしば言及されていることでもあります。
敵対者からの《神》による救済が信仰の基盤にあるならば、この「キリスト対サタン」の構図は必然ともいえるでしょう。

今回は、メシア教とも翻訳できるキリスト教の肝(きも)であるところの救済者〈メシア〉の
旧約聖書における画期的な登場シーンで、それなりに衝撃的なものを提示してみました。
有名な歴史的事実らしいです。次回以降に、少し詳しく調べてみるつもりです。


で、そのことにも言及されている『七十人訳聖書入門』の引用紹介ページも作成しました。
http://theendoftakechan.web.fc2.com/atDawn/Messias/Septuaginta.html


まずは先ぶれのインデックス・ページとして。

Messiah : Messias
http://theendoftakechan.web.fc2.com/atDawn/Messias/

2016年1月11日月曜日

魔王と呼ばれる伝説の堕天使

〈セラフィム〉と〈ケルビム〉


 ダンテ『神曲』で描かれる、地中深くに墜落した悪魔王は、六枚の翼を持つ。これは〈セラフィム〉の特徴だという。
 一方、トマス・アクィナスの論によれば、悪魔王とされる伝説の堕天使は〈セラフィム〉ではなく、〈ケルビム〉だという。
 〈セラフィム〉というのは「セラフ」の複数形である。そして、「ケルブ」の複数形が〈ケルビム〉なのであるが、これは「創世記」第三章で、回る炎のつるぎとともにエデンの東に置かれた守護者として『聖書』の冒頭から、いきなり登場している。
 両者ともに日本語では、単体でも複数形の語が慣用として使われているようなので、この場はそれにしたがうことにする。

 ―― 「出エジプト記」第二十五章では、
〈ケルビム〉はまた、一対で十戒の箱を守るべく向き合ってその蓋の上(両端)に乗る、〔その解釈によれば〕人面有翼の獅子〈スフィンクス〉でもある。
 ―― 「イザヤ書」第六章では、
〈セラフィム〉は、確かに六枚の翼を持つと記述されている。

 〈セラフィム〉は「熾天使」と翻訳されており、〈ケルビム〉は「智天使」となる。
 通例というか、一般的に、みずからの知恵におごりたかぶった天使が堕天使となったという、都市伝説があるようだが、おそらくそれは、トマス・アクィナスらの説によるものであろう。
 ――トマス・アクィナスはその『神学大全』でも「天使論」を展開しているのであるが、その説明は、語源的に、合致しないものがある。

 「ケルビム」 Cherubim とは『知の充満』 plenitudo scientiae の意に解され、これに対して、「セラフィム」 Seraphim というのは、『灼熱させる者』 ardentes 乃至は『燃えあがらせる者』 incendentes の意に解される。かくして明らかに知られるごとく、「ケルビム」なる名称は知に由来し、「知」scientia というものは然し、不治の罪 mortale peccatum と両立することができる。一方、「セラフィム」なる名称は、「愛」 caritas の「灼熱」 ardor に由来するものであり、「愛」なる徳は然し、不治の罪と両立することのできないものなのである。罪の天使の第一なる者に附せられた名称が、「セラフィム」でなくて「ケルビム」であったのはこのゆえにほかならない。
『神学大全』第六十三問題第七項

ディオニシウス『天上階序論』を援用して、このように説明されたもののようであるが、実は、
〈セラフィム〉は語源的には「蛇」のようなものであり、
〈ケルビム〉のそれは「祈る者」であるとされている。

 あいにく思い上がるための「知」も燃え上がる「愛」も関係なさそうなのだ、が――。
 しかしながら、当然ではあろうけれども、

 語源と、都市伝説あるいは信仰ともまた、関係があろうはずもないのである。


ダンテとトマス・アクィナス : ― 魔王の墜落 ―
http://theendoftakechan.web.fc2.com/atDawn/Dante.html

2016年1月5日火曜日

〈ルシファー〉 という 堕天使伝説の誕生

前回、
暁の星 ― あかつきのほし ―(2015年12月28日月曜日)で、

黎明の子 〈 ベン・シャハル 〉

 今年も年の瀬が見えて、ようよう『聖書』の「イザヤ書」第 14 章に辿りついた。
 〈ルシファー伝説〉はここから始まる。
 ここでラテン語〈ルーキフェル〉のもとになっているヘブライ語は、これまで見てきたように、「ヘレル・ベン・シャハル」ないしは「ベン・シャハル」である。「ヘレル」は「輝く」とか「栄光の」を表現する語であって、それがいわゆる「ハレルヤ」となるのだが、また同時に「狂った・愚かな」というような意味をあわせもつ。

 このあたりを詳しく辞書で見るのは、年を越してからになるが、残りの「ベン・シャハル」で「黎明の子」を意味することは、今回、『新聖書大辞典』で確認した。

と、このように書いたのだが、今回、『新聖書大辞典』などで改めて確認したところによると、
表現に、若干語句が足らなかったことが、判明した。
――つまり、前回の記述には、辞書の見間違いによる勘違いがあったので、句を挿入・追加して、
完成形に近づけようという魂胆なのである。

■修正後
 〈ルシファー伝説〉はここから始まる。
 ここでラテン語〈ルーキフェル〉のもとになっているヘブライ語は、これまで見てきたように、「ヘレル・ベン・シャハル」ないしは「ベン・シャハル」である。「ヘレル」――すなわち、ヘブライ語「ヘーレール」は単に「輝くもの」を意味するに過ぎない(『新共同訳 旧約聖書注解Ⅱ』288 ページより)が、それによく似た語に「ハレル」があり、「ハレル」は「輝く」とか「栄光の」を表現する語であって、それがいわゆる「ハレルヤ」となるのだが、「ハレル」はまた同時に「狂った・愚かな」というような意味をあわせもつ。
 なお、ヘブライ語「ヘーレール・ベン・シャハル」の「ヘーレール(輝く者)」と「ベン・シャハル(黎明の子)」は、ここでは併置とか等置の関係にあって、「輝ける者すなわち黎明の子」という表現であると思われる。


――さて、と。
気を取り直して、魔王〈ルシファー〉の誕生を迎えうとう。

 これまでのあらすじによると、伝説の〈堕天使ルシファー〉の席は不在のままであった。
 その席に座っていたのは、最初はあるいは〈堕天使アザゼル〉だったかも知れない。
 俄 [にわ] かに浮上した〈ルシファー(ルーキフェル)〉という堕天使の名は、どこから現れたのか。
 それを最初に記述したのが『諸原理について』をラテン語に翻訳したルフィヌスなのか、それともそれ以前からの慣用であったのか、はたまたそれはそのころの通常の翻訳語であっていわるゆる「時代」が〈ルーキフェル〉をそこに記録したのであったのか、そのことは未確認のままという現状だ。
 わかっているのは、どうやら紀元 400 年前後にあいついで、ヒエロニムスもアウグスティヌスも、そこに〈堕天使ルーキフェル〉の姿をまざまざと見たらしいということだ。
 ちなみに、グーグルブックスなどで確認したところによれば、ルフィヌスの『諸原理について』ラテン語訳の「イザヤ書」引用の該当箇所には、“Lucifer” と記述されているようである

 〈ルシファー伝説〉は、恐らくはここから始まる。
 恐るべき、権威による思い込みと、それへの追従なのである。


Lucifer ― 魔王の誕生 ―
http://theendoftakechan.web.fc2.com/atDawn/Lucifer.html