2017年10月31日火曜日

ミラーニューロン: 脳のランナウェイ

 〝ミラーニューロン〟と名づけられた神経細胞があります。
 まるで鏡のように相手の動きを真似している神経ということなのですが、ミラーニューロンは、サルの研究をしていたイタリアのパルマ大学で偶然発見されました。
 その偶然の時間は研究中のおやつタイムに訪れたということです。
―― アイスクリームを食べようとしたら、マカクザルの脳に刺しっぱなしだった電極が反応したらしい。
 ささやかなざわめきから転じて、部屋中が色めき立っていくグラデーションが目に浮かぶようですな。

 偶然というのはこのようにおそろしいもので、なにが大発見をもたらすのか、予想もつきません。
 かくしてミラーニューロンを知ってから、テレビなど見ているときに他人の口元を眺めていると、食事の風景を見ている側の口が動いているシーンに出くわしたりします。
 なにがすごいかというと、説明すれば、これは、他人の動作からその心境を読み取る能力につながっていくのだ ―― という、シナリオへと転じていくのです。

 ミラーニューロンは、パルマ大学のリゾラッティらの研究室で発見されたのですが、
『ミラーニューロン』(“SO QUEL CHE FAI.” 2006) という、ジャコモ・リゾラッティとコラド・シニガリアの共著になる単行本が、邦訳(柴田裕之訳/茂木健一郎監修 2009年 紀伊國屋書店刊)されています。
 人間の言葉の起源は「身振り」だったのではないかという説が、そこで詳しく語られています。動物の模倣能力について、以前からの研究を紹介しつつ、最新の理論展開がなされていくわけです。
―― 次の引用個所は、174-175 ページです。


私たちはミラーメカニズムのおかげで、相手が最初に動いた瞬間からその行為を理解するばかりか、自分の意図しない反応が生み出した結果についても確実に理解することになる。こうして、私たちの手と相手の手の間に相互に作用する関係が生まれるのだ。この相互作用は、「身振りによる会話」とさほど変わらない。ミードによれば、「身振りによる会話」は、戦いから求愛、子供の世話から遊びに至るまで、動物の多様な行動の予備段階の特徴となっているという。

ヒトよりも下等な動物にさえ、性質上、身振りとして分類してよさそうな行為の領域[……]がある。それは、他者から本能的な反応を引き出す行為の始まりから成る。これらの行為の始まりが引き出す反応は、すでに開始されていた行為の再調整につながり、この再調整がさらに別の反応の始まりにつながり、それがまた相手の再調整を引き出す[注19]
〔注19  MEAD, G.H. (1910), “Social Consciousness and the Consciousness of Meaning”. In Psychological bulletin, 7 (12), 398. Also in Selected Writings of George Herbert Mead. University of Chicago Press, Chicago.[『創造的知性』、清水幾太郎訳、河出書房、1941]〕

 この「相互再調整」によって、動物の行なう行為に社会的価値が加わり、それに伴い、多くの点で真に意図的なコミュニケーションの先駆けとなる、親密な関係が構築される。しかし、真に意図的なコミュニケーションには、ミラーニューロン系を制御したり、身振りが他者の行動に対して持つ効果を運動知識の中に組み込んだりする能力が必要となる。その能力があれば、他者がその身振りを行なったときに、そうと認識できるからだ。


―― ここで、相互に作用する再調整能力というのは、正のフィードバックをもたらすと、予想されます。
 巨大化した人間の脳が、その相互作用システムにじゅうぶん対応できる能力を備えていたというのは、あまり無茶な話でもないでしょう。
 霊長類の脳の大きさについて、リチャード・ドーキンス著『祖先の物語』(“THE ANCESTOR'S TALE” 2004)(上)〔垂水雄二訳 2006年 小学館刊 (pp.131-132, pp.133-134) 〕に、次のような記述がありました。

ハリー・ジェリソンは、特定の種が脊椎動物や哺乳類などの大きな分類群のメンバーであるときに、その体の大きさからして「あるべき」脳の大きさよりもどれだけ大きいか、あるいは小さいかを表す尺度として、大脳化指数( Encephalisation Quotient 、略して EQ )という指数を提案した。…… 現代のチンパンジーの脳は、典型的な哺乳類があるべき大きさのおよそ二倍であり、アウストラロピテクスもそうである。おそらくアウストラロピテクスと私たちとの中間段階であると思われるホモ・ハビリスとホモ・エレクトゥスは、脳の大きさでも中間型である。両者ともおよそ四という EQ をもち、このことは、同じ大きさの哺乳類がもつべき大きさよりも、およそ四倍大きな脳であることを意味する。
…………
いかなるダーウィン主義的な淘汰圧が過去三〇〇万年のあいだに脳の拡大に駆り立てたのだろうか。
 それは私たちが後ろ脚で立ちあがった後に起こったことだから、脳の膨張に駆り立てたのは、両手が自由に使えるようになり、そのために正確にコントロールできる手先の器用さが与えられたことではないかと述べる人々もいる。一般的には、私はこれが妥当な考えだと思っているが、他に提案されているいくつかの考え以上に説得力があるわけではない。私は、膨張的な進化には、特別な種類の膨張的な説明が必要だと考えている。私は自著『虹の解体』のなかの「脳のなかの風船」という章で、「ソフトウェアとハードウェアの共進化」と呼ぶ一般理論において、この膨張的なテーマを展開した。……
 大きくなった人間の脳、あるいはむしろボディペインティング、叙事詩、儀式的なダンスといった脳の産物が、一種の精神的なクジャクの尾羽として進化してきたということはありうるのだろうか。私は長いあいだこの考え方に特別な愛着をもっていたが、英国で研究中の若きアメリカ人進化心理学者ジェフリー・ミラーが『恋人選びの心』を書くまでは、それを適切な理論の形に発展させる人間は誰もいなかった。


 ドーキンスはこの著書で、〈性淘汰〉による脳の巨大化の仮説を展開しています。
 ジェフリー・ミラーが『恋人選びの心』(“THE MATING MIND” 2000) を単行本として出版したからなのです。きっかけとなったその本は、さいわいにも日本語(長谷川眞理子訳 2002年 岩波書店刊)で参照することができます。
 ここでもまた先人達の肩に乗ってその向こう側の景色を、なんとなくでも、眺めることができるのです。感謝。

2017年10月27日金曜日

ボールドウィン効果が有効だった時代を経て

 100 年以上前に、アメリカの心理学者ジェイムズ・マーク・ボールドウィンというひとが提唱した理論は、現在〈ボールドウィン効果〉として、進化論に大きな影響を与えています。

この過程はボールドウィン効果と呼ばれる。多くの世代にわたってある経験に繰り返しさらされた種では、その経験に対処する遺伝的傾向を持つ子孫がいずれ生き残る。なぜか? その状況に対処する傾向を持つようにたまたま生まれついた子は、他の子より生き延びる確率が高いからだ。
〔マット・リドレー著『進化は万能である』大田直子(他)訳 2016年 早川書房刊 (p.86)

 そしてあらかじめセットになっているかのように、ボールドウィンといえばラクトースという話題が続きます。酪農の起源と牛乳にふくまれる乳糖(ラクトース)の消化能力のことです。
 人類も、初期設定では、成人になって牛乳をのむと、誰しもが具合悪くなる仕様だったようです。けれども、
ラクターゼ(訳注 乳糖を分解する酵素)遺伝子のスイッチを切らずにおくことで、ヒトは大人になってからも乳糖を消化する能力を進化させた。」〔同上〕
という次第です。

 一般に哺乳類は、離乳後には、ラクトースの消化能力を失ってしまうらしいのですが、人類は酪農を成功させることで、成人でも牛乳の飲める身体を手に入れてしまったわけです。
 これは人類誕生後の出来事なので、初期設定の変更された遺伝子が、酪農の開始以降に勢力をのばして繁栄したということになります。
 いまでは人類の行動や文化が、突然変異した遺伝子の自然淘汰に影響を与えた具体例の、説得力ある話として有名になりました。
 遺伝子と文化の共進化というのは、〝遺伝子と集団環境の共進化〟とも、いいかえられるのではないでしょうか。
 適者繁栄のことわりはすべての環境が作用した複合体です。
 地理的条件だけでなく、地域ごとに異なる集団の文化が、その土地ごとに選ばれ残されていく、遺伝子の傾向に関係ないはずはないでしょう。自然環境だけでなく、個体を取り巻く環境として、所属集団という環境は無視できないわけです。

 思えば、最初に環境を激変させた生き物は、植物の祖先でした。
 特に作意もなく、植物が発生させた大量の酸素は、それまで主流だった生き物を隅に追いやって、そうして猛毒のはずの酸素をうまく扱える生き物が誕生して繁栄していったわけです。
 植物と共生した葉緑体の遺伝子の効果が環境を変え、その環境にうまく適合した動物が植物と共存していったのです。

 遺伝子は環境を変える能力を持つし、それが文化的と称される環境であれば、随時変わっていくでしょう。
 そして、集団環境からのフィードバックは、適者とされる、遺伝子をさらに選択することになります。
 この過程は、ランナウェイ・プロセスだとしても。

 乳児期以降のラクトース分解能力を手に入れた人類の話も、千年単位のはずです。

 活版印刷術は、1450 年頃、グーテンベルクによって発明されたといわれますが。
 その後に人類が《脳の外の》外部記憶領域に記録した情報量は、拡散の一途です。
 インターネットの発明は、それを爆発状態にまで移行させました。
 このところというか、時代の変化スピードに人類の遺伝子は、とうに追いつけなくなっているはずと、思われるのです。
 共進化しているのは、遺伝子ではなく人類の技術、つまり〈技術と文化の共進化〉であって、生き物としての人間はそこからおいてけぼりをくらっているのに、気づけないまま慢心している霊長類なのかも知れません。
 ようするに、文化が進化するほどには人類の遺伝子は進化できないという、自明の理を隅に押しやって……

 ちなみに細菌が薬剤耐性を獲得する進化スピードはいまのところ、人間の対応技術よりも相当に速い、という進化スパンの違いもあります。


脳の巨大化 と 遺伝子と文化の共進化
http://theendoftakechan.web.fc2.com/ess/coevolution.html

2017年10月22日日曜日

共進化の拡張〈遺伝子と文化の共進化〉

〈遺伝子と文化の共進化〉というのは、学術的に提唱された研究テーマらしい。
サミュエル・ボウルズとハーバート・ギンタスの共著協力する種(2011)
日本語版(竹澤正哲監訳 2017年 NTT出版)29 ページで、
それは次のように説明されている。
―― ちなみに、この日本語版の副題は制度と心の共進化となってます。

 人間における遺伝子と文化の密接な相互作用を認識していたエドワード・ウィルソン、チャールズ・ラムスデン、ロバート・ボイド、ピーター・リチャーソン、ルイジ・ルーカ・カヴァリ=スフォルツァ、マーカス・フェルドマンといった人々は、1970 年代に遺伝進化と文化進化、そしてその相互作用に関する研究を独立に開始した。そこから生まれたのが遺伝子と文化の共進化 (gene-culture coevolution) と呼ばれるモデルである。

―― ということだ、が。
〈共進化〉というのはそもそも、
たがいに異なる種(しゅ)のあいだに発生する仕組みであって、
つまりは生き物の、種と種の関係性を示した
〝変化をともなう相互作用〟だと、認識していた。
そのもともとの意味と〈遺伝子と文化の共進化〉という成句が導き出された事情が、
チャールズ・ラムズデンとエドワード・ウィルソンの共著精神の起源について(1983)
第 5 章 プロメテウスの火」注 (1) に、けっこう詳しく述べられていた。
日本語版(松本亮三訳 1990年[新装版] 思索社)では、270 ページから。

 厳密な生物学上の用法では、共進化 (coevolution) という言葉は、第一の種の遺伝的進化が、第二の種の進化に反応して起こり、さらに第二の種が第一の種に反応して変化することをいう。つまり、二つの種のシステムが、ある程度一つの単位として進化するのである。二つの種が相互に依存しあっているときには、共進化は強く働く。たとえば、ミツバチは、花の特定の色や香りに対する自動的な反応を進化させた。ミツバチは、花を訪れ、その報酬に蜜と花粉をもらう。一方、花を咲かせる植物は、ミツバチを誘う色と香りを発達させた。その報酬は、異花受粉と生殖の成功である。われわれは、この用語を敷衍して、人類に見られる遺伝子変化と文化変化の互酬的効果をも意味させることにした。…… Durham は、共進化という言葉によって、遺伝子と文化が並行はするが別々に変化することを表現している。

―― もはや進化するのは、遺伝子をもつ生命体だけの話ではなくなっている。
なにしろ制度と心の共進化が研究される時代なのだ。
言語や技術がコピーミスの過程で、とんでもない〈突然変異〉を起こすのは昔から知られていることだった。
〈進化〉を〝生物に限定する〟用語だとこだわるのは、もう時代遅れなのだろう。
そんな時代だから〈遺伝子と文化の共進化〉以来、猫も杓子も共進化している。
いずれは猫と杓子が共進化する啓蒙書も期待できよう。
それでは〈文化〉の進化は、いつはじまったのか。
精神の起源について「第 5 章」では、
第三の課題:なぜ人間だけがというセクションの冒頭に、次のような記述があった。

 化石時代の地層には、ひょっとすれば同じことをもっと早く達成していたかもしれない、脳の大きな動物の遺残が散らばっている。……「恐竜人」とは、古生物学者デイル・ラッセルが、高い知能をもった、恐竜の想像上の子孫につけた名前であるが、恐竜人が、人間に一億年も先んじてテープを切ることも可能だった。
 しかし、その機会は訪れなかった。巨大な頭足類も爬虫類も絶滅し、代わって大きな脳をもった哺乳類が分化した。…… まだどれも、遺伝子=文化共進化の自己推進的巡環に入ってはいない。無数の個体が生まれては死んでいった何億世代もの間、何百万種もの動物が、考えうるあらゆる環境変化と機会に直面し、小進化の実験のなかで天文学的な数の遺伝子を切り混ぜていった ―― このすさまじく膨大な活動すべてが、やっとただ一つの種に閾をこえさせ、高い文化へと至る自家触媒作用を起こさせたのである。非常に特殊で強力な何かが、それまでの進化のシステムを抑制していたに違いない。
〔邦訳『精神の起源について』 (pp.204-205)

―― じつはこの引用文中の、最後の一文が、どうにも気になるのだ。
非常に特殊で強力な何かが、それまでの進化のシステムを抑制していたに違いない。
ということであるなら、その非常に特殊で強力な何か抑制がはずれてしまったので、
現在の人類の進化が、ようやく達成された、ということになるのだろう。
そうして〝進化の原動力〟に変化が起きた。進化のシステムの変更が実現したのだ。
人類進化の解明には、そういう、未知の力学が必要になるらしい、となると。
なんだかハリウッド映画のような途中経過である。

2017年10月19日木曜日

延長された表現型 と ガイア仮説

相互作用する生き物たちの進化を追い求めていくと、
ひとつの生命体としての地球に、いつか思いが及ぶ。
〈ガイア仮説〉は、そのように誕生したのだろうか。

―― J・スコット・ターナー『生物がつくる〈体外〉構造』滋賀陽子訳 (pp.292-293) から、引用すると。


 延長された表現型から、ガイアが前提とする地球規模の生理作用へ向かうのは自然な道筋だと思われる。しかし進化生物学者たちは概してこの一歩を踏み出したがらない。……
 論争の中心は、ガイアの進化には、ほぼすべての進化生物学者が除外した方法で自然選択が働く必要があるという考えのようだ。群淘汰というのは、生物や遺伝子より上のレベルに働くすべての選択過程に与えられる名前だ。一般的には群淘汰はある種の利他主義の説明に使われてきた。その例は、群れの中のあるメンバーに「種のためを思って」肉食動物の犠牲となるように仕向ける遺伝子だろう。もちろんそういう遺伝子は長くは生き残らないはずだ。ほとんどのダーウィン進化の利他主義モデルが、「利他主義者の」遺伝子の利益を実際に増進する血縁淘汰のような、遺伝的な逃げ場を用意しているのはこのためだ。ガイアと群淘汰に関しては、リチャード・ドーキンスが問題の核心を突いている。

……もし植物が生物圏のために酸素を作っているのだとしたら、酸素生産のコストを省ける変異植物が現れたらどうなるか考えたらよい。明らかにこの植物は公共精神に富む仲間に勝って繁殖し、公共精神の遺伝子は消滅するだろう。酸素生産にはコストがかからないと強弁しても無駄だ。かりにコストがかからないとしても、最もコストを低く見積もる説明ですら……酸素は植物が自分の利益のためにおこなう反応の副産物だからという、いずれにせよ科学界が受け入れているものでしかない。(Dawkins 1982, p.236)
〔文献: Dawkins, R. (1982), The Extended Phenotype, Oxford: W. H. Freeman[『延長された表現型 ―― 自然淘汰の単位としての遺伝子』日高敏隆・遠藤彰・遠藤知二訳、紀伊國屋書店、1987 ]〕

 私はこの意見に異論はない。ただし不備なのだ。酸素生産がなぜ植物にとってよいのかを問うのを忘れている。……
 植物にとっての酸素生産の真の利益は、酸素の生産がどれほど困難かを考えてもわからない。酸素がどれほど強力に電子を引き戻すかを考えればよいのだ。……


―― 以上。引用文のなかに著者による引用があるので、確認すれば、延長された表現型』日本語版の 436 ページあたりの記述に概略こうあった。


…… ラヴロック (Lovelock, 1979) の「ガイア」仮説である。延長された表現型の影響が相互に絡みあっている私の織物は、ポップ・エコロジーの文献(たとえば「エコロジスト」誌)やラヴロックの本の中でやたらにかさあげされている相互依存や共生関係が織りなす織物と外見的な類似性がある。
〔文献: Lovelock, J. E. (1979). Gaia. Oxford: Oxford University Press.
…………
ラヴロックはさらに進めて、植物による酸素生産を地球/生物体あるいは(ギリシア語の地の神にちなんで命名された)「ガイア (Gaia) 」の一部に対する適応とみなしている。つまり、植物が酸素を生産するのは、それが生命全体の利益になるからだというのである。


―― はじめの引用文、スコット・ターナーによるドーキンスからの引用箇所。
「酸素生産のコストを省ける変異植物が現れたらどうなるか」
という思考実験の提案は、
酸素を生産しなくてもじゅうぶんやっていける植物が現れたらどうなるか
という内容を含むと思われる。

 すなわち、酸素が重要ではなくなった植物の物語なのだ。そういう存在が植物といえるかどうかはさておき、そういう未知の植物が想定されていると考えられる。
 だから、酸素の利点を数え上げるやり方は、まったくの「別の論」なので、それぞれの意見は異なることになる。
 というか、乖離していく方向を向いているようだ。

 ここで唐突ではありますが……。
 延長された身体論については、戦争中に西田幾多郎が、ボーアの論文を参照して、こう書き残していることが思い出されたのです。

器械は手の延長である。何処までも我々の身体の外界射影である。ボーアは暗室に於て軽く杖に触れれば、杖は単に対象であるが、強く之を握れば、自己の身体に直接して居ると云ふ(38)
注解 (38)  ボーア「作用量子と自然の記述 (Wirkungsquantum und Naturbeschreibung) 」一九二九年、『ニールス・ボーア論文集1 因果性と相補性』岩波文庫、七三頁。
〔新版『西田幾多郎全集』第十巻 「生命」(昭和十九年十月・昭和二十年九月初出〔未完〕) (p.248)

―― 注解された岩波文庫の該当ページを確認すれば、
「しばしば心理学者によって引き合いに出される、暗い部屋のなかで杖で触ることによって位置を確認しようとするときに誰もが経験する感覚を思い出すだけでよい。杖をゆるく持つならば、触覚にとって杖は客体のように思われる。しかし、杖をきつく握るならば、それが外部の物体であるという感じをなくし、接触の感覚は、探っている物体に杖が接触している点に瞬時に局所化される。」
と、記述されていた。
 当時すでに、道具が手の延長として機能することは、世間に一般的な話ではないにしても、ひとつの説として認められていたのだとわかる。


セントラルドグマ〈中心命題〉
http://theendoftakechan.web.fc2.com/ess/dogma.html

2017年10月16日月曜日

進化の〈セントラルドグマ〉

 現代の進化の総合説〈ネオダーウィニズム〉の理論が、いわゆるラマルク説〈獲得形質の遺伝〉を否定するのは、いくらキリンが切磋琢磨して首を伸ばそうと、首を伸ばした努力に見合う突然変異を DNA に起こさせるような能力はそなわっていないのだから、「首の長さは努力の賜物(たまもの)」という理屈は金輪際無理なのだ、という信念によります。
 これは、遺伝子型は表現型に影響を及ぼすけれども、その逆の作用はあり得ない、という前提によっています。

発現ではまずは DNA から RNA が転写され、タンパク質をコードする遺伝子の場合は mRNA からタンパク質がつくられる。この遺伝子発現にかかわる遺伝情報の流れの大原則を分子生物学におけるセントラルドグマ[中心命題]といい、DNA 二重らせん構造を発見した人物の一人、クリックによって提唱された。
〔田村隆明著『分子遺伝学』 (p.29)

―― つまりこの〈セントラルドグマ〉によって定められたルートを逆に進む現象はあり得ないということです。

 発生学の歴史をたどると、たった一つの細胞からどうやっておとなの生物ができあがるのかについて、二つの対立する学派がありました。後成説(レシピとケーキの関係)の学派と前成説(青写真と家の関係)の学派です。もしも私たちが青写真発生学の世界に生きていたとしたら、獲得形質の遺伝も可能だったでしょう。ラマルク理論では、ある世代に生じたからだの変化が次の世代に組み込まれるために、からだから遺伝子に向かっての情報の流れが必要です。もしも発生が青写真的に起こっているのならば、からだと遺伝子(または DNA 、遺伝子が遺伝に関する情報を担っているところの物質)という発生的プロセスの両端は同じ構造を持っているはずです。形は違ってももとは同じというわけで、自動的に、指示のプロセスは逆行も可能なようにできてくるでしょう。そうなると、表現型(ワイズマンの言う体細胞 ―― 目、翼、貝殻、花びらなどなど、遺伝子が自らの影響を表現したもの)は、遺伝子型(生物の遺伝的ななりたち、それが持っている特定の遺伝子のセット)に読み直されることが可能で、その情報がまた次の世代の表現型に読み返されることが可能となるでしょう。
〔ヘレナ・クローニン著『性選択と利他行動』長谷川真理子訳 (p.76)

―― この引用文の前提にある共通の理解が必要なので、説明しよう。
「レシピとケーキの関係」では、調理過程という環境の作用が大きく影響するので、目の前の「ケーキ」からもとになった特定の「レシピ」を決定するのは困難だけれども、「青写真と家の関係」では、目の前の「家」から「青写真」を再現するのは容易である、という、たとえ話が、その界隈には流布されているのだ。
 そういうわけだから、このたとえのように、遺伝子型から表現型が形態形成される際には、環境の影響が大きいので、同じ遺伝子型でも、表現型に違いが起きるだろう、という予測は容易となります。
 だから人間ではそこらへん実際どうなのだろうと、一卵性双生児の成長過程に、興味がもたれるわけです。

―― ラマルク説は、〈用不用説〉ともいわれます。
「不用なものは退化する」という説明なんかに使われます。

英国では、一九世紀の後半までには、(ダーウィン自身も含めて ―― ただしウォレスは違いましたが)ほとんどのダーウィン論者が「用の遺伝」の概念を進化を生み出す補助的経路として認めていたのです。彼らは、自然選択こそもっとも強力な要因だと考えていましたが、それ以外のメカニズムが少しは手助けしてくれることも歓迎したのです。「用の遺伝」の概念、さらにもっと一般的に獲得形質の遺伝ということに反対の声をあげたのは、ドイツの著名な生物学者で熱心なダーウィン論者であった、アウグスト・ワイズマンでした。
〔『性選択と利他行動』 (p.65)

―― てことは、もう一度説明しよう。
ようするにダーウィンの進化論は、最初、〈獲得形質の遺伝〉を補助的な説明として受け入れていたのだ。
 それを問題視したのがワイズマン (August Weismann) ということになります。カタカナでは、ワイスマンともヴァイスマンとも表記されるようです。
 ダーウィンは、1882 年に死んでいます。そして〈獲得形質の遺伝〉を捨て去ったダーウィンの進化論〈ダーウィニズム〉は強化されて新世紀を迎えることになります。
 新世紀初頭には、すでに〈ネオダーウィニズム〉という呼び名が、この強化型ダーウィンの進化論にあたえられていたようです。

 新世紀の進化論では、遺伝する獲得された変異というのは、もっぱら有利な突然変異を起こした遺伝子だということになり、進化の〈セントラルドグマ〉は、20 世紀の半ばを過ぎて提唱されました。
 核となる中心的教義として進化の〈セントラルドグマ〉は揺るぎないものですが、それに逆行するのではなくて、まるで円を描くように一周して表現型は、直接、遺伝子型に影響を及ぼす時代が、新世紀には到来しました。
 それは、遺伝子操作であったり、人為的に選ばれた遺伝子をもつ配偶子を、人工授精の技術で、ひとりの人間として誕生させたりするものです。
 思いがけないことには……
 表現型としての人間の技術が、進化の〈セントラルドグマ〉を無効にする日は、未来へのルートにあるのでしょうか。

2017年10月11日水曜日

ダーウィンと中立的な淘汰 その後

 ダーウィンは『種の起原』で〈自然選択〉と同時にその作用にひっかからない進化について語っています。
 進化というのは、生き物の変化のことです。

 第 4 章「自然選択」の冒頭部分です。この章題は第五版で「自然選択」のあとに「最適者生存」が追加され、文中にある〈自然選択〉の説明文も同様に「〈自然選択〉あるいは〈最適者生存〉」と改められています。
 その説明部分は、もともと次のように記述されていました。岩波文庫から邦訳を引用させていただきますと。

有利な変異の保存と有害な変異の棄却とを、私は〈自然選択〉とよぶのである。有用でもなく有害でもない変異は、自然選択の作用をうけず、不定的な要素としてのこされるであろう。そのことは、たぶん、多型的とよばれる種において、みられるであろう。
〔岩波文庫『種の起原』(上)八杉竜一 訳 (p.108)

 ダーウィンの考察した、有用でもなく有害でもない変異が自然選択では不定的な要素としてのこされるというのは、もっともな話です。自然選択では個体の形質とか表現型と呼ばれるもの、つまり強さや見た目や言動の違いなどが淘汰の対象になるわけです。この表現型の違いが生存条件と無関係だったならば、特に適者でも不適者でもないのです。
 表現型は遺伝子型と環境との相互作用により、また遺伝子型は、遺伝情報の実体である DNA の相違で定まります。
 まったくもって、DNA の突然変異が自然淘汰に中立であれば、自然淘汰では無視されることでしょう。

 現実の事例として、個体の表現型に影響しない DNA の突然変異には、次のようなものがあります。
 タンパク質を構成するアミノ酸には 20 種類があるのですが、それを指定する DNA とはぶっちゃけ 4 種類の塩基の連なりとして、染色体上にあります。
 簡単な説明だと、DNA 塩基 3 個がアミノ酸 1 個に対応しているのですが、セットになった 3 番目の塩基が突然変異で他の種類のものに変化したところで、まったく影響のない場合があるということです。

たとえば、ヴァリンというアミノ酸には四種類の遺伝暗号が対応する。おもしろいことに、第一、第二位置はすべて GT だが、第三位置はアデニン (A)、シトシン (C)、グアニン (G)、チミン (T) という四種類の塩基すべてが存在している。
〔斎藤成也著『自然淘汰論から中立進化論へ』 (pp.131-132)

 つまり 3 番目は、塩基 4 種類のうち、どれでもかまわん、という現実がここにあります。
 どういうことなのでしょうか。
 4 種類のもので、20 種類のアミノ酸を指定するのですが、セットになった 3 つの位置すべてが指定に関わるなら、

  4 × 4 × 4 = 64

で、64 種類のモノを指定できてしまい、2 番目までだと、

  4 × 4 = 16

で、16 種類しか、指定できません。
「オビに短しタスキに長し」とか、いいますが、オビかタスキか、場合に応じて二者択一にするという方法は、有効でしょう。
 3 番目の塩基の違いが大きな違いの場合もあるでしょう。
 一方で、3 番目の塩基はあまり気にならないシチュエーションも遺伝子にあるようです。
 その詳細が気になれば、20 種類のアミノ酸すべてでどうなっているのか、インターネットで調べることも可能かと。
 さらには、アミノ酸の違いが、タンパク質にどう影響するのかも。

―― それはさておき。
 人間の例では遺伝情報の伝達形式として、遺伝子を乗せた「配偶子(生殖細胞)」は「減数分裂」で作られます。
 普通に細胞分裂したのでは、もとと同じものが増えるだけです。
 減数分裂で染色体の数を半分に減らした生殖細胞を、その後、母体中で(もしくは人為的に)合体させればもとの数、という仕組みになっています。
 前回にも ――、こういう生き物を「二倍体」と称すといいました、が。
 二倍体の生き物で、もともとある遺伝子タイプのすべては、子孫へと伝来するわけではありません。
 二倍体の生き物でも、相同位置にある「遺伝子座」に「遺伝的多型」が存在しなければ、いかに「減数分裂」の際に半分しか遺伝子が確保できなくても、もともとある遺伝子タイプのすべては、子孫へと伝来していくでしょう。
 けれど、現実に、遺伝子多型は存在して、その遺伝情報のいずれが配偶子ごとに、選ばれるのかは、偶然によるわけです。

 問題は、つまり、「減数分裂」は「自然淘汰」とはまったく関係のないシステムだということなのです。
 以前に本を読んだ記憶では、まったく省エネルギーなメモリーですが〝ワンペアの染色体が減数分裂ではいったん混ざり合ってから半分になる〟とされていました。
 結局、ありあわせで作られたその「配偶子」の遺伝子構成は、生存に有利なこととは関係なく、定まるのです。
 つまり偶然が、その後に繁殖していく子孫の遺伝子タイプを左右していることになります。
 これが、「遺伝的浮動」と呼ばれて、「分子進化中立説」の基盤となっているようです。

 実際の進化の過程では、生物集団中には常に新しい突然変異が生じており、その多くは有害で、数代の後には集団から自然淘汰により除去される。しかし有害でない、すなわち自然淘汰に無関係(中立)、またはごくまれには有利な突然変異が生じており、これらが進化の原動力となっているわけである。注意すべき点は、中立な突然変異は言うに及ばず、有利なものでも、集団にたった 1 個だけ起こった突然変異について言えば、大部分が集団の中から消失する点である。
 その理由は、生物は繁殖に際して自己の持っているあらゆる遺伝子を、子供に伝えるわけにはいかないからである。もし子供の数が無限大であれば、親の代のすべての遺伝子は子供に伝えられるので、すべての遺伝子は個体レベルでの淘汰すなわち自然淘汰(ダーウィン淘汰)を受けることになる。しかし生物集団は多くの場合、その大きさが代々ほとんど一定に保たれ無制限に大きくなることはないわけで、ある遺伝子が親から子へ伝えられるのは、自然淘汰に有利であっても偶然に依存する。
 脚注
 遺伝的浮動(ドリフト)/ある生物の個体数が仮に無限大であれば、対立遺伝子の頻度はメンデルの法則に従うが、実際には個体数が有現であるために、世代間で偶然的に変動する。これを遺伝的浮動(ドリフト)という。
〔太田朋子著『分子進化のほぼ中立説』 (pp.18-19)

 この分子進化のほぼ中立説では、同じページの本文で、
「繁殖にともなう遺伝子頻度の偶然による変動」
が、遺伝的浮動だと、説明されています。また、その後に短い記述で、中立説の説明が次のようにおこなわれています。

 分子進化中立説(中立説)は、分子レベルの進化の大部分は、「自然淘汰によくも悪くもない中立な突然変異が、偶然、すなわち遺伝的浮動によって集団中に広がり固定することによる」と主張する。
〔同上 (p.28)

 故木村資生の論じた「分子進化の中立説」は、海外でも、注目されています。
 オレン・ハーマン著親切な進化生物学者の日本語版 363 ページあたりにも、そのことが触れてありました。
 ジョージ・プライスがイギリスで研究していたころ、ジョン・メイナード・スミスとの共同研究の直前のことだとされています。
―― その共同研究で、進化的に安定な戦略 (ESS) のモデルが誕生する、前夜のことでした。

 ジョージは最適突然変異率のモデルを研究していた。それは、「木村のものよりはるかにすぐれています」と、彼は先頃ノーベル賞を受賞した MIT のポール・サミュエルソンに書いた。

―― グールドは著作の「日本語版への序」で、次のように記しました。

しかし進化理論の多くの新しい潮流(そのなかでも特筆すべきは、木村資生氏ら日本の集団遺伝学者が発展させた中立説である)が、淘汰主義の支配をうち破り、生物体全体とその成長と相関を進化生物学の中心へと引戻してきたのである。
〔スティーヴン・J・グールド著『個体発生と系統発生』 (p.6)

―― ドーキンスも、「光が投げかけられるであろう」という一文で、次のように詳しく論じています。

 ダーウィン主義的な視点からすれば、中立的突然変異はそもそも突然変異とはいえない。しかし、分子的な視点から見れば、一定の変異速度が分子時計を信頼できるものにするので、きわめて有益な突然変異である。木村によってもたらされた唯一の論争点は、どれだけ多くの突然変異が中立的かという点である。木村は、大多数がそうだと考えており、もしそうなら、分子時計にとって非常に好都合である。適応的な進化については、ダーウィン主義的な淘汰が依然として唯一の説明であり、巨視的な世界(分子のあいだに隠れた世界に対するものとしての)で実際に見られる進化的な変化のすべてとはいわなくとも大部分が適応的で、ダーウィン主義的であると主張することが可能である(私はそう主張したい)。
〔リチャード・ドーキンス著『悪魔に仕える牧師』 (p.135)

―― 続けて収録されている「ダーウィンの勝利」では、同じく日本語版の 156 ページあたりに次の記述があります。

木村資生が〝遺伝的空間における進化的な歩みの大部分は誰にも舵を取られない歩みである〟と言い張るのが正しい可能性はきわめて大きい。…… 木村自身は正しく、自分の「中立説は、形態と機能の進化はダーウィン主義的な淘汰によって導かれるという大切にされてきた見方に対立するものではない」と力説している。

 ドーキンスはこのあと「原注」で、メイナード・スミス経由のこぼれ話を紹介する熱の入れようです。引用部分を箇条書きにまとめますと、

 ダーウィン主義的な視点からすれば、中立的突然変異は …… 突然変異とはいえない。
 木村によってもたらされた唯一の論争点は、どれだけ多くの突然変異が中立的かという点である。木村は、大多数がそうだと考えて〔いる〕。
 適応的な進化については、ダーウィン主義的な淘汰が依然として唯一の説明で〔ある〕。
 実際に見られる進化的な変化のすべてとはいわなくとも大部分が適応的で、ダーウィン主義的であると主張することが可能である(私はそう主張したい)。
 木村資生が〝遺伝的空間における進化的な歩みの大部分は誰にも舵を取られない歩みである〟と言い張るのが正しい可能性はきわめて大きい。
 木村自身は正しく、自分の「中立説は、形態と機能の進化はダーウィン主義的な淘汰によって導かれるという大切にされてきた見方に対立するものではない」と力説している。

 この論点では、「適応的な進化」であるダーウィン主義的な進化と、偶然による突然変異の淘汰を主張する「分子進化中立説」は、かならずしも対立するものではない、ということのように思われます。
 自然選択は「適者生存」で、雌雄選択は「適者繁栄」ならば、分子選択も「たまたまの組み合わせによる伝来」で、どの生き残り方にしたって、それぞれの事情はあるというものでしょう。


淘汰に中立な突然変異(ほぼ中立説): 分子進化中立説
http://theendoftakechan.web.fc2.com/ess/Kimura.html

2017年10月8日日曜日

有害か有益か 環境でことなる

 進化論で「有害」な突然変異というのは、「自然淘汰に不利」な場合をいうらしい。つまり「淘汰されやすい」ので、次世代に残りにくい、突然変異ということです。
 人間の遺伝子でも逆に「自然淘汰に有利」な場合には「有益」な突然変異となります。
 マラリア発生地域では、鎌状赤血球の遺伝子は、ひとつの場合、生き残りに有利です。

 ざっくりとした説明ですが……。
 片方の親からやって来る染色体を、ひと組の「ゲノム」といい、合わせてワンペアの「ゲノム」をもつ生き物を「二倍体」といいます。たとえば人間のようにふたりの親から、ペアとなるべき染色体つまり DNA の組み合わせを得て、ひとつの細胞になる形態です。
 父母から伝わった特徴がそれぞれの遺伝子で同じタイプだと「ホモ接合体」といい、違うタイプでは「ヘテロ接合体」といいます。
 異なるタイプの遺伝子があることを「遺伝的多型」と称すようです。
 専門家の文章から引用しますと……

 生物集団において、ゲノムの中の相同位置にある塩基配列(遺伝子座)を比較したとき、一塩基でも異なっている場合に、その集団のその塩基配列には「遺伝的多型」が存在すると言う。
〔斎藤成也著『自然淘汰論から中立進化論へ』 (pp.215-216)

 たとえば、血液型は、
ABO 式血液型は、人間で最初に発見された遺伝的多型であるが、A 、B 、O という主要三対立遺伝子が一遺伝子座に共存して〔同上 (p.79)いると、説明されます。
 この本ではまた、ロナルド・フィッシャーが 1922 年に発表した優性比率についてという論文の内容が、次のように語られています。

〔フィッシャーは、〕ヘテロ接合体のほうがホモ接合体よりも生存に有利であれば、平衡状態になると述べている。これは数的に明記されているわけではないが、超優性淘汰(ヘテロ接合体のほうがホモ接合体よりも生存に有利である場合)を指摘した最初であろう。
…………
鎌状赤血球を引き起こすヘモグロビン S 遺伝子も、アフリカの一部では、野生型のヘモグロビン A 遺伝子と共存している。このような多様性をもっている遺伝子座には、まさにフィッシャーの予想した、ヘテロ接合体のほうがホモ接合体よりも生存に有利となる、超優性淘汰が働いている可能性が高い。
〔同上 (p.75, p.79)

 進化論の本ではこのようにしばしば、鎌状赤血球の話題が出てきます。
 上に引用した本では、基礎知識の項目で、次のように説明されていました。

 アミノ酸の変化は、タンパク質の中の起こる場所によってさまざまな影響を与えうる。…… ヘモグロビン S の場合には、タンパク質の表面における変化なので、立体構造に大きな影響はない。ところが、ヘモグロビン分子表面のこのわずかな変化が、以下に示すような大規模な影響を引き起こすのである。すなわち、アミノ酸一個の変化のために、ヘモグロビンの別の場所に以前から存在していた部分と結合しやすくなり、ヘモグロビン S が数珠つなぎになる。柱状に連なったヘモグロビン S が赤血球の中を横断し、ついには赤血球全体の形態変化が引き起こされるのである。
 この新しい形状の赤血球は、丸くて中央がくぼんでいる正常な赤血球と異なり、鎌の形に似ているので「鎌状赤血球」と呼ぶ。なんと、塩基一個という分子レベルの変化が、光学顕微鏡で観察できる細胞レベルの変化を引き起こしたのである。さらに、このような鎌状赤血球をもつ個体は貧血になるが、マラリア耐性となることが知られている。
〔同上 (p.208)

―― マラリア耐性と貧血が遺伝子によって表現された形質のセットとなって現れるのです。
 いろんな本で説明されているところによれば、鎌状赤血球の遺伝子がひとつなら、死ぬほどの貧血にはならず、またマラリアが流行した際には、生き残りやすいらしいのです。
 そのひしゃげた赤血球では、マラリアの病原体が増殖できないということのようです。
 ようするに、両方の親から鎌状赤血球の遺伝子をひとつずつ、つまり合わせてふたつ受け継いだ際には、それは死を引き起こすような「致死遺伝子」となるのですが、片親からだけであれば、マラリアに強い人生が送れるということなのです。
 以上のざっとした表現でも、マラリアさえなければ、これは有害な遺伝子だと、判断が可能でしょう。でも、地域によっては、マラリアはときに流行し、その遺伝子は、有益な遺伝子として、生き残っていくわけです。

 ある日、その突然変異は、滅亡に至る災厄を生き残って、選ばれた、ということなわけです。
 であれば、ときに有害である突然変異は、やがては人類の滅亡さえも、救うのかもしれません。―― かすかな希望として。

2017年10月3日火曜日

威信を誇示する〈ハンディキャップ原理〉

 先日来、アモツ・ザハヴィ/アヴィシャグ・ザハヴィ著『生物進化とハンディキャップ原理』をざっと読んだのです。
 前回にも書いたけれど、原著 “The Handicap Principle” は 1997 年の出版です。
 日本語版は、大貫昌子訳で、2001 年に白揚社から発行されています。
 著者アモツ・ザハヴィは、〝テルアヴィヴ大学自然保護研究所動物学教授〟とあります。
 アヴィシャグ・ザハヴィは、彼の夫人で、〝 1969 年から 1988 年まで、イスラエル国立農業研究所ヴォルカニ・センター植物生理学教授〟と紹介されています。

 日本語版ハードカバーの表紙と背表紙に「解説:長谷川眞理子」と記されています。
 解説者の名が宣伝、アピールされるのは、あまりみかけません。
 訳者のプロフィールには在米翻訳家とあり、訳書紹介のなかに『QED・私の量子電磁力学』が記載されています。
 その邦訳本の原題は QED: THE STRANGE THEORY OF LIGHT AND MATTER で、著者はリチャード・ファインマンです。
 QED: ……” の日本語版は 1987 年に『光と物質のふしぎな理論』(副題:私の量子電磁力学)というタイトルで岩波書店から発行され、2007 年には、岩波現代文庫『光と物質のふしぎな理論 ―― 私の量子電磁力学』として刊行されています。
 長谷川眞理子著『クジャクの雄はなぜ美しい?』〈増補改訂版〉第 1 章の終わりに、そのファインマンの著作から、引用がありました。

ファインマン先生は、クジャクの雌の配偶者選びの研究を知らずに亡くなりましたが、彼が次のように述べたとき、それはまったく正しかったのです。
「皆さんもきっと、あのクジャクやハチドリの羽のまばゆいほどの色はどうしてできるのだろうと不思議に思ったことがあると思いますが、これでわかったはずです。どのようにしてあの輝かしい色に変化してきたかということも、また興味ある問題です。私たちがクジャクに感心して見とれるときには、何世代もの間つれあいを選ぶ鋭い目を持ち続けた、あのぱっとしない雌鳥たちに大いに敬意を表さねばならないと思います。」(『光と物質の不思議な理論 ――私の量子電磁力学』、岩波書店より)

 さて ――、生き物の世界で不自然なほどの装飾といえばまずはその〝クジャクの尾羽〟でしょうが、
本当はあれは尾羽ではない。尾の上にかぶさっている上尾筒という羽が長く伸びて美しくなっているのであり、本当の尾羽はその下にあってつつましいものだ。
と、解説に書いてありました。そういえばこのことは『クジャクの雄はなぜ美しい?』〈増補改訂版〉でも触れてあったと記憶にあります。
 さまざまの事情はさておき。
 その、上尾筒(じょうびとう)は、実はクジャクのオスがハンデとして身につけたディスプレイだというわけなのです。
 それが〈ハンディキャップ原理〉の中心を構成します。―― 『生物進化とハンディキャップ原理』は、〈ハンディキャップ原理〉を提唱した本人による、一般向けの手引書です。
 解説にも述べられているごとく思考の回路をひっくり返させるような、意表をついたアイデアが述べられた本です。

 群れをなして生活する鳥類、哺乳類などが、捕食者をいち早く捕捉した際、発見者が警告の言動を行なうらしいことは、ずいぶんと以前から知られていました。
 それはいずれも仲間に報せるための〝警告の叫び〟の一種だと、考えられていました。ところがそれは、捕食者に対しての〝警告〟なのだという話に、一転してしまうのですから、天地もひっくり返ろうというものです。
 被食者(たべられてしまうがわのもの)が、捕食者(たべてしまうがわのもの)を威嚇するというか、自分の強さを誇示して、食べられるのを未然に防いでいるというのです。
―― こんなに強靭かつ勇猛優秀なワタシを食べようとしているアンタは、そのあいだ腹ペコのままなのさ。
―― だから、未練たらしくしてないで、もっと弱っちいヤツ等のいる場所にいきなされ。

 ここで強さを誇示する余裕をもたない被食者のなかでの弱者は、威嚇する間もなく、いち早く逃げ出してしまいます。
 威嚇してくるような被食者には目もくれず、捕食者は、とっとと逃げ出した弱者に狙いを定めるというのですから。
 効果的な威嚇は、効率的な生存には欠かせないわけです。

 このシステムでは、真実優秀な個体でなければ、威嚇した瞬間に、カブリとやられてしまうだけでしょう。
 捕食者も命がけなのですから、安直なイカサマに引っかからないだけの眼力は、共進化で獲得する方向へと進むでしょう。
 そして両者ともに、その資質を発現させるための「コスト」の負担に耐えられる能力がなければなりません。
 ザハヴィはこれを〈信号選択〉と呼びました。
 マネのできない有能さこそが、互いにやり取りされるメッセージとして生き残るわけです。
 信号は、本物だけが、個体の生き残りをかけて選ばれ進化していくのです。

 この理屈は、ダーウィンの〈雌雄選択〉にも応用が可能です。
 クジャクのオスは、勇者の証明である勲章をジャラジャラとぶら下げひきずりながら誇り高く、まさに雄々しさをみせびらかしつつ生きているという次第なのです。
 そういうわけでインチキ野郎には到底マネのできない、〝負荷(ハンデ)〟をしょって生きていくことこそが、モテる秘訣なのだそうです。
 人間の男でも、やたらと重い物を持ち上げたがる〝祭り(イベント)〟に生きザマを求めたりします。
 やはり他者の追随を許さない運動能力の持ち主はカッコイイのです。
―― そのことわりを、邦訳された本文から引用してみましょう。

 自然選択はしばしば相反する二つの異なった過程を含むものと、私たちは考える。その一つは直接的な効率性をめざす選択で、信号以外のすべてに働く。これは信号を除き、効率がよく浪費の少ない特徴を作る選択で、私たちはこれを実用的選択と呼ぶことにしたい。もう一種の選択はいかにも「浪費」と見えるような「高価な」特徴や形質を生むもので、これによって信号が進化するのだ。その高価さ、つまり発信者が信号に投入する大きな努力こそが、その信号の真実さを証明するのである。この過程を「信号選択」と呼ぶことにしよう。
〔『生物進化とハンディキャップ原理』 (p.78) 〕

 ハンディキャップとは恣意的なものではない。特定のハンディキャップは、ある特定の資質や能力を正直に表すための信号として、進化するのだ。そしてこの自然選択のうちの「信号選択」という一チャンネルは、能率性を目指す単純な「実用選択」の逆に働くのである。
〔同上 (p.158) 〕

このあたり、なかなかに納得力を喚起される議論に満ちていました。
第 12 章にある威信と利他行動の進化 ―― 利他行動はハンディキャップかというセクションでは、次のごとくです。

 ひとたび利他行動を、その実行者の能力と意図を示す信号として見れば、利他主義はもはや進化の謎ではなくなる。利他行動に注がれる努力は、その信号の信憑性を保証する要素なのだ。利他行動のコストつまり無駄は、言うなればあの華麗で巨大な重い尾を生やして背負って歩かなくてはならないクジャクが強いられるエネルギーの浪費や、複雑なあずまやを作らなくてはならないニワシドリの無駄な努力と、ちっとも違ったところはない。こうした信号も他のどの信号も、それにかかるコストは、その信号がたしかに信用できるもので、発信者は正真正銘彼の宣伝どおりの者なのだということを証明するハンディキャップなのだ。そう考えれば、利他主義の進化を説明する特別な進化のしくみなど、もはや探す必要はない。それどころか利他行動を信号とする私たちの説明は、チメドリなどの鳥だけでなく、人類も含む哺乳動物、おまけに社会性昆虫にも単細胞生物にさえも当てはまるものと、私たちは信じる。
〔同上 (p.243) 〕

―― ここで利他行動とはハンディキャップであり、オスの威信をかけたモテるためのディスプレイだというわけです。実力がなければ保護などかないません。
 だからこそ、実質を伴わないという、評判の、フィッシャーの〈ランナウェイ・プロセス〉は否定されるのです。イカサマなインチキ野郎のペテン師からは子孫繁栄の栄誉は未来永劫、取り上げられてしかるべきなのです。
 かくして〈ハンディキャップ原理〉は、勇者を選別するための装置として、機能していくことになります。
 このあとも、魅力的な論はもちろん続くのですが、実は先の引用文の直前に、しばし納得できない理屈があったのです。
それは。

 私たちがここで提唱するハンディキャップの原理は、フィッシャーのモデルとは異なり、求愛の結果配偶者も手に入ればライバルにも勝って退けることのできるその動物の資質と、それが示す特定の誇示との関係を説明するものである。私たちのモデルによれば、その誇示のコストあるいは「浪費」こそが、その信号の信憑性を増す要素そのものなのだ。このモデルでは、雌はただ単に他の雌が皆選ぶからというだけの理由で、派手な雄に惚れこむ面食いの尻軽女ではなく、とりわけ立派なディスプレーをするだけの力のある雄を選ぶことによって、その子のために最高の父親を選んでいるのだ。
〔同上 (p.78) 〕

―― という叙述は、
このモデルでは、雌はただ単に他の雌が皆選ぶからというだけの理由で、派手な雄に惚れこむ面食いの尻軽女ではなく、とりわけ立派なディスプレーをするだけの力のある雄を選ぶことによって、その子のために最高の父親を選んでいるのだ。
という説明文を、次のように書き換えても、同じ意味を表現している気がするのです。
―― 個人的な好みよりも多数派の意見にしたがうことで、堅実性と将来性と安定を求める安全パイ指向型ではなく、とりわけ派手なディスプレーで目を引いて力のパフォーマンスを見せつけようとするオスに目移りする尻軽女は、その子のために最高の父親を選んでいるはずなのだ。

―― こうなると、ただのわるくちにしか、思えず。
 そういうこともあって、本文もなかばあたりから、理論というより、強引な理屈で自論を展開している感じになってきたような印象があるのです。
 ザハヴィが語るのは、誇り高き勇者の物語が中心となっているようです。
 むろん、個人的な感慨にすぎません。
 でも個人的には、なんだか、統一的な理論を求めるあまりに、ほかの可能性を排除していく姿勢に、旧約聖書の神に通じるものを感じてしまったのです。
 ハンディキャップの原理の考え方はもっと広まっていてもいいと思うだけに、なんだか残念な展開なのでした。
 人間の女性にも、キズついたひとが好きなタイプ、だという意見はあるようです。
 こんなになってそれでもまだ生きている、というあたりがいいのでしょう。


進化的に有利な ハンディキャップ (ハンディキャップ原理)
http://theendoftakechan.web.fc2.com/ess/Zahavi.html