2018年9月30日日曜日

〈印賀鋼〉最終伝説 / 因伯刀匠伝

嘉仁(よしひと)皇太子「山陰道行啓」のこと

前回の記述の関連事項を再掲する

◎ 鳥取県の記録によると 12 代鳥取県知事(明治 39 年~明治 41 年)に「山田新一郎」の名がある。

 氏が鳥取県知事を拝命した翌年の明治 40 年 5 月には、当時は皇太子であったのちの大正天皇が、山陰鉄道の開通記念に〝風土記の時代には夜見島であった〟境港から上陸して鳥取県に来訪、米子・倉吉・鳥取に宿泊しつつ、鳥取県を東西に往復する鉄道の旅程を無事に終えて、その後、出雲大社のある島根県を訪問している。
 旅の途中鳥取市に宿泊した折には、〈印賀鋼〉を鉄材として、刀工日置兼次による刀鍛冶の実演が、皇太子の前で披露された。その刀剣の銘は「明治四十年五月吉日久松山麓に於て兼次作」と切られたと記録されている〔『山陰道行啓録』「鳥取縣」(p. 74) 参照(国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧可能)〕。

〖 ※ 日置兼次は、20 年前の明治 20 年 2 月 28 日、伊勢神宮の宝剣鍛造のために通勤していた靖国神社の鍛錬場にて鍛えた八寸五分の短刀一口「因幡兼光十二代日置兼次作」を皇太子(当時数え年九歳)に奉献した刀工である。〗

◎ ところで、かつて判明したところによれば、「米子製鋼所の鋼は、少なくとも明治 41 年から大阪造幣局の貨幣極印用として買上げられてきた」のだった〔〈印賀鋼〉最強伝説 のページ 参照〕。

―― そのような記録をたどれば、山田新一郎氏が鳥取県知事の職にあった時期はちょうど、鉄製品で、鳥取県の技術が日本一になる出来事が進行していたという、時代の流れを捉えることもできよう。

仁風閣の名称は皇太子に随行していた東郷平八郎によって命名された。余話として、現在は国の重要文化財となっている仁風閣の敷地内で、映画「るろうに剣心」の戦闘シーンを伴う撮影が 2011 年 9 月に行なわれた。


 さて、以上の情報をもとに前回からの一週間でいろいろと調べてみた。
―― 刀匠日置兼次が歿する三年前、当時は皇太子であった大正天皇の御前鍛冶を務めた経緯を、今回は少々物語風に書き記してみたい。

因幡刀工・日置兼次 刀剣鍛錬を披露のこと


 明治 40 年 (1907) の 5 月、嘉仁皇太子は山陰道行啓(さんいんどうぎょうけい)に際し、鳥取市にも数日滞在した。
 当初は池田家の別邸として「扇御殿」の跡地に計画されていた、宿泊先の「扇邸」は、鳥取城趾の石垣がいまも残る久松山(きゅうしょうざん)の麓、城と鳥取の城下町とを区分する〝お堀〟の内側 ―― 山側 ―― に位置し、宿舎として使用される直前の明治 40 年 5 月 11 日頃に竣工した。
 現在は鳥取県立博物館の建つ敷地部分は、扇邸の果樹園だったという。扇邸の仁風閣(じんぷうかく)が皇太子の宿とされた。前回に記した文中にもあるが「仁風閣」の名は東郷平八郎による。

 ○  2004 年に仁風閣から発行された資料『仁風閣の周辺』(p. 10) では、

 東郷は行啓の随行で鳥取に滞在中、高等小学校と樗谿の招魂社に松を手植えしています。また仁風閣には池田侯爵の依頼により揮毫・命名された「仁風閣」の直筆が今も 2 階ロビーに残されています。

と記されている。
―― 1907 年 5 月 20 日、扇邸の庭に設けられた鍛冶場に、刀工として日置兼次が参上した。

 ○ 明治 40 年に刀剣鍛錬が〔その 5 年後に天皇となる〕皇太子の前で実演された詳細な記録がある。

『紀念 山陰道行啓録』明治40年09月12日刊

刀鍛冶御覽

二十日午後二時半扇邸内に散歩松の御手植ありたる後本縣名譽の刀工日置兼次氏の刀劍鍛錬の事ありたり  殿下には扇邸内御山屋敷にて御覽あらせられたるが鐵材は伯耆國印賀鋼を以し鍛錬半にして水に漬し冷却せしめたる後之を叩き割りて鋼の目合せを驗し上中下の三に別ち上を皮金と爲し中を峰金となし下は等分に鐵を合せて眞金と爲し更に鍛錬前後九度に及びかくて京都稻荷山の土肥後天草の石因幡の堅炭を細末となして等分に混じ之を水に錬りたるものにて刀身を塗り再び火中にて熱し更に水に漬し此の如くして燒刄を入れ後研砥にて研ぎ峰に赤金を噛まし反を附けて最後に「明治四十年五月吉日久松山麓に於て兼次作」と銘を切り全く終へたるは午後三時五十分  殿下は終始熱心に御覽ありたりと承る兼次氏の名譽も大なりと謂ふべし
因に日置兼次氏は仁平と稱し先代は兼先と稱して鳥取藩の刀工なり仁平氏幼より父に學ひ長じて長船に到り後江戸に技を研きぬ廢藩後舊里に居りしが先年陛下の伊勢大廟に納劍あるに際し倉吉の宮本包則氏と共に召されたるなり當年六十八歳の老體なり鍛劍御覽の向ふ槌を打ちしは左の四名なりし
福嶋伊平賢路△同人門人林芳造△籔片原町植村榮治△同人忰秀雄
〔角金次郎/編輯『紀念 山陰道行啓録』「鳥取縣」 (p. 74)

―― 嘉仁皇太子の御前で「鉄材は伯耆国印賀鋼」と明記された玉鋼を用いて、因幡国を代表する刀匠により日本刀が鍛えられたという記録である。

 日置兼次が「明治四十年五月吉日久松山麓に於て兼次作」と銘を刻んだ〈印賀鋼〉の太刀。
 その行方をさっそく、〝秋分の日〟の休日明けの今週火曜日(2018 年 9 月 25 日)鳥取県庁の受付窓口で訊ねてみたのだけれど、県庁ではこの刀剣の情報を把握していなかったようで、そういうわけで県庁には担当の部署もないらしく ――。
 翌日ふたたび県庁を訪れると、受付の担当者があちこち問い合わせてくださった結果、現在のところ、その銘の刀はどこにあるのかわからないという、返答であった。

 かつて因州刀匠日置兼次が伯州刀匠宮本包則とともに伊勢神宮の宝剣鍛造を行なったのは、明治 40 年 (1907) から遡ること 20 年前の東京、九段靖国神社境内に造営された工場でのことだった。
 明治天皇の第三皇子で、明宮(はるのみや)と呼ばれた嘉仁皇太子は、その明治 20 年に、靖国神社に何度か足を運んでいる。
 ちょうどその年には、鳥取県を代表する二人の刀匠が国から委託されて、前年の 10 月よりおよそ 1 年間の契約で伊勢神宮の宝剣を鍛造していたのだ。その総数、3,800 本あまり。日置兼次の伝記に、その詳細が記録されている。その一部を抜粋すれば、
柳葉鏃及び斧形鏃の合計三千六百九十二本、これに要する鋼の量目二百五十八貫四百四十匁、古鍬が八十八貫六百匁、木炭・七千三百八十四貫、人件三千四百四十人と云う延人員である。
とあって、膨大な事業であることがわかる。

 明治 40 年に鳥取県に提出された日置兼次の履歴書には、
明治十九年五月 内務省造神宮鍛治御用被仰付宮本包則ト共ニ 御太刀六十六口 御鉾四十二本 及御鏃三千八百余本ヲ鍛フ
とあるが、「明治十九年五月」というのは国の命を受けて提出した、最初の見積もりの書類の日付であろう。その見積書に「明治十九年五月十日」と記されている。

 明治 20 年、数え年九歳(満七歳)の明宮が 2 月 28 日、靖国神社の宝剣鍛造を見学した記録は、『大正天皇実録』にも、
就中、二月二十八日には神宮宝剣鍛錬の状を御覧あらせらる。
と記載がある。
 その際、日置兼次と宮本包則の両名は、短刀を奉献している。
 兼次の伝記の記録を見よう。


 この工事半ばの明治二十年春二月二十八日、時の皇太子殿下の行啓があつた。鍛錬方御見学のため靖国神社の鍛錬場へならせられ、包則兼次は謹んで八寸五分の短刀を造り奉献している。これに対して東宮殿下から御沙汰があつた。翌三月十四日のことである。

短刀一口 因幡兼光十二代日置兼次作
 明宮殿下於鍛冶所御覧被遊候一口御伝献相成早速入御覧候処御満足に被思召候因而此段申入候也
  明治二十年三月十四日
明宮御用掛宮中顧問官  土方久元
 高辻宮内書記官殿

 右の文書が土方久元から高辻子爵へ、高辻子爵から兼次へと伝達された。

 短刀一口伝献致候処土方御用掛より別紙被差送且羽織地被下候間則送進候也
  明治二十年三月二十六日
高辻修長(花押)   
   日置兼次殿

 こうして幾多の曲折をへて契約期限の満一ケ年、即ち明治二十年十一月に無事完納している。
〔山本天津也/著『因州刀工 日置兼次の伝記』 1962 年 (pp. 29-30)

The End of Takechan
―― 靖国神社に設けられた鍛錬場で、鳥取県の因幡国と伯耆国をそれぞれ代表する二人の刀匠により大量の刀剣が鍛え上げられたという、国が計画したこの事業は、古事記と日本書紀に残された記録を彷彿とさせるものがある。

◉ 古事記には垂仁天皇の時代に
次印色入日子命者、作血沼池、又作狹山池、又作日下之高津池。」に続いて、
又坐鳥取之河上宮、令作横刀壹仟口、是奉納石上神宮、即坐其宮、定河上部也。」とある。
◉ 日本書紀には垂仁天皇三十九年十月の条に
五十瓊敷命、居於茅渟菟砥川上宮、作劒一千口。因名其劒、謂川上部。」と記され、
藏于石上神宮也。」とするのも、古事記と同じである。

 現在の定説として「鳥取之河上宮」と「菟砥川上宮」は同じ場所を指す。鳥取は和名抄にある「和泉国日根郡鳥取郷」とされており、和名抄原典『倭名類聚鈔(わみょうるいじゅしょう)で、和泉国日根郡に鳥取〔止々利〕」が確認できる。「止々利」の読みは「トトリ」である。

The End of Takechan

宮本包則は 上野公園内美術協会前仮工場で
明治天皇に刀鍛冶を披露している


 ○ 宮本包則は明治 39 年に「帝室技芸員」となっている。草信博氏による解説を参照しよう。

宮本包則の「帝室技芸員」とは戦前迄の制度で、現在は重要無形文化財制度であり、その保持者が所請「人間国宝」である。この帝室技芸員制度は、明治二十三年に日本画・洋画・彫刻等々の他刀工・金工なども選ばれ、刀工では「宮本包則」と「月山貞一」との二名であった。
〔『帝室技芸員 宮本包則刀六十撰』平成08年01月10日 (p. 95)

―― 因幡 山内良千 撰「刀工菅原包則翁傳」に、次の記述がある。

〔明治〕二十四年(一八九一)四月二十日車駕上野公園内美術協会に行幸のとき、同館前仮工場に於て鍛冶術の御覧を給う。因て相州傳、備前傳の焼刀法を短刀に施し、又、特に叡旨を奉じ長さ二尺三寸の太刀の焼刀をも作る。即日金五円の恩賞あり。翁時に年六十二、真に古来未曽有の光栄と謂う可し。
〔みささ美術館/編集・発行『宮本包則刀剣展』昭和六十一年七月二十七日~八月十日 (p. 5)

 宮本包則の年譜には伊勢神宮の宝剣鍛造にかかわる記事が、明治元年 (1868) および明治 19 年と、明治 21 年・明治 39 年に見える。そして宮本包則は明治 39 年に「帝室技芸員」となった。

 いっぽう、明治 40 年の御前鍛冶の翌年のこと、日置兼次のほうは鳥取に帰省した記録がある。
 これも伝記から引用しよう。

 兼次は明治四十一年鳥取に墓参帰省している。当時の模様を兼次の四女太田垣よね氏は語られたが、元気であったらまた来るから、と東京に帰って行ったが、これが兼次の最後の郷里訪問であった。明治四十三年二月八日、東京下谷二長町の宗伯爵邸において波乱の生涯を終った。享年七十一才である。
〔『因州刀工 日置兼次の伝記』 (p. 61)

◎ 大正天皇は即位以前に、日置兼次の刀鍛冶を二度観覧したということになろう。数え年 9 歳の明治 20 年 2 月には東京の靖国神社で。明治 40 年 5 月には皇太子として行啓した先の鳥取市久松山麓扇邸の屋敷で。
 20 年の歳月を経て青年になった嘉仁皇太子は、老齢の刀匠日置兼次の面影に何かを見たのか?

 明治 40 年 5 月に鳥取城の山麓で鍛造された〈印賀鋼〉の太刀がある。
 その行方は、杳(よう)として知れない ―― 。


Google サイト で、本日「仁風閣・鳥取駅」の位置情報を含む地図を追加した、もう少し詳しい内容のものを公開しました。

〈印賀鋼〉最強伝説 / 因幡・刀匠伝
https://sites.google.com/view/emergence-ii/home/inaba

バックアップ・ページでは、パソコン用に見た目のわかりやすいレイアウトを工夫しています。

〈印賀鋼〉最強伝説 / 因幡・刀匠伝 バックアップ・ページ
http://theendoftakechan.web.fc2.com/eII/tsurugi/inaba.html

2018年9月23日日曜日

トリカミの峰 / ヒノカハの上

―― 古事記に、

出雲國之肥河上、名鳥髮地。

日本書紀には新羅の国を経由して、

是時、素戔嗚尊、帥其子五十猛神、降到於新羅國、居曾尸茂梨之處。乃興言曰、此地吾不欲居、遂以埴土作舟、乘之東渡、到出雲國簸川上所在、鳥上之峯。

と、書かれた「鳥上之峯(鳥上の峰)」は、そのあとに成立した出雲国風土記では「鳥上山」と記録されている。
 現在の地名で、鳥上山は「船通山(せんつうざん)」と呼ばれる。神話によると新羅からの渡航に際し、スサノヲが乗ってきたのは土で作った舟なので、だからこそ、尋常ではない威力で苦もなく山にまで登るのだろう。

越の国のこと


 出雲国風土記の冒頭に描かれた〝国引き神話〟には「高志」の名が書き留められていた〔日本古典文学大系『風土記』「出雲國風土記 意宇郡」(pp. 100-103) 参照〕。それによれば、美保関はもともと北陸地方の一部だった。続いて「意宇郡 母理郷」の条には〈越八口〉を平定した説話がありその直後に〝国譲り〟の記録が続いている。出雲国風土記に残された「越(高志・古志)」に関する記述は数多い。―― 加えて、これはあとで松前健氏の著書からの引用文にも出てくるけれど、〈クシイナダ〉の名をもつ姫も「飯石郡 熊谷郷」の条に登場する。

 ○ 出雲国風土記では最初に〈志羅紀〉すなわち新羅がやってくる。「鳥上山」の記述は仁多郡にある。

日本古典文学大系『風土記』「出雲國風土記」

 意宇郡
[原文] 所以號意宇者 國引坐八束水臣津野命詔 八雲立出雲國者 狹布之稚國在哉 初國小所作 故將作縫詔而 栲衾志羅紀乃三埼矣 國之餘有耶見者 國之餘有詔而 童女胸鉏所取而 大魚之支太衝別而 波多須々支穗振別而 三身之綱打挂而 霜黑葛闇々耶々爾 河船之毛々曾々呂々爾 國々來々引來縫國者 自去豆乃折絶而 八穗爾支豆支乃御埼 以此而 堅立加志者 石見國與出雲國之堺有 名佐比賣山是也
[訓み下し文] 意宇と號くる所以は、國引きましし八束水臣津野命、詔りたまひしく、「八雲立つ出雲の國は、狹布の稚國なるかも。初國小さく作らせり。故、作り縫はな」と詔りたまひて、「栲衾、志羅紀の三埼を、國の餘ありやと見れば、國の餘あり」と詔りたまひて、童女の胸鉏取らして、大魚のきだ衝き別けて、はたすすき穗振り別けて、三身の綱うち挂けて、霜黑葛くるやくるやに、河船のもそろもそろに、國來々々と引き來縫へる國は、去豆の折絶より、八穗爾支豆支の御埼なり。此くて、堅め立てし加志は、石見の國と出雲の國との堺なる、名は佐比賣山、是なり。
(おうとなづくるゆゑは、くにひきまししやつかみづおみつののみこと、のりたまひしく、「やくもたついづものくには、さののわかくになるかも。はつくにちさくつくらせり。かれ、つくりぬはな」とのりたまひて、「たくぶすま、しらぎのみさきを、くにのあまりありやとみれば、くにのあまりあり」とのりたまひて、をとめのむなすきとらして、おふをのきだつきわけて、はたすすきほふりわけて、みつみのつなうちかけて、しもつづらくるやくるやに、かはふねのもそろもそろに、くにこくにことひききぬへるくには、こづのをりたえより、やほにきづきのみさきなり。かくて、かためたてしかしは、いはみのくにといづものくにとのさかひなる、なはさひめやま、これなり。)

 仁多郡
[原文] 鳥上山 郡家東南卅五里 〔伯耆與出雲之堺 有鹽味葛〕
(頭注)
鳥上山 船通山(一一四二米)。鳥上村の南境にある。
[訓み下し文] 鳥上山 郡家の東南のかた卅五里なり。〔伯耆と出雲との堺なり。鹽味葛あり。〕
(とりかみやま こほりのみやけのたつみのかた35さとなり。〔ははきといづもとのさかひなり。えびかづらあり。〕)
〔日本古典文学大系『風土記』「出雲國風土記」 (pp. 98-101, pp. 228-229)

境界線の向こう側


 さて、記紀(古事記と日本書紀)の出雲神話は、〝スサノヲの〈鳥上之峯〉降臨〟に始まるといっていいだろうが、その記述内容は、出雲国風土記の記録と大きく異なる。
 それゆえに「出雲神話」を出雲国風土記の神話に限定し、記紀の神話を「いわゆる出雲神話」と、区別して取り扱う必要性も出てくるという。

 スサノヲが降り立った土地は、古事記では「出雲國之肥河上、名鳥髮地。」と表現され、日本書紀では「出雲國簸川上所在、鳥上之峯。」であった。
 川上(かはかみ)は、すなわち川の上であり、〝川の上〟は〝かはのへ〟と読める。「へ」を古語辞典で調べると、「上」を筆頭に「辺・瓮・家・戸・舳・艏・綜・言」という漢字が続く。どうやら「へ」という発音のイメージは古来、〝舟の舳先(へさき)〟のような「先端部のライン」を基本としているようなのだ。

 ○ 川の上(川上)とは、古代に何を意味していたのか。

『谷蟆考 ―― 古代人と自然』 〔『中西進 日本文化をよむ 三』所収〕
川をさかのぼる 〔初出:「ヤママユ」昭和五十五年八月〕

 川をさかのぼると異界に出る。時として、そこからは姿をかえた異類の者が下界に流れくだってきて、川下の人間との間に異類結婚が行なわれた。―― そう語るのが古代人であり、この川をめぐる観想は十分に幻想的で美しかったろう。ロマンにみちてもいるが、しかし異類との相婚を畏れる心情も一方にあった。……
〔『中西進 日本文化をよむ 三』 (p. 245)

 ○ 肥後和男氏の〈ヤマタノヲロチ〉論を参照しよう。

日本歴史新書『神話時代』「五 八岐の大蛇」

 この話は昔は有名なものでしたが、今はどうでしょうか。神話が作り話だということを誰もが知るようになった今日では、誰も驚きませんが、昔の学者はこの解釈に苦労したものでした。
………………
 明治以後の学者はこれが神話であることを知りましたが、さてこれを何と解釈するか、学説も出ない中に山田新一郎氏が、八岐大蛇は出雲の鉄山族であるという白石流の見解を提供しました。この人は島根県知事をし、後に北野神社の宮司になった人ですが、あの地方が砂鉄の産地であるところから思いついたもので、私もその人にあったこともありますが得意の説でした。こうした白石流の考え方はもとより学界に受け入れられず、研究はそれと別の方向に発展しました。津田左右吉博士が「神代史の研究」の中で「其の最も古い意味は恐らく地の精霊たる蛇と処女との結合から生ずる生殖作用によって穀物の豊饒を促す呪術であったらしく、此の物語に於いて処女の名がイナダヒメとなってゐることも、其の思想の痕跡として見るべきものではあるまいか。毎年蛇が処女をとりに来るというのも、年々の呪術に基づいた話だとすれば、よく了解せられよう」とのべられたのはまことに卓見でした。たしかにこれはそうした呪術から形成された話にちがいありません。
〔日本歴史新書『神話時代』 (p. 156, pp. 157-158)

皇太子の「山陰道行啓」のこと


◎ 引用文中に山田新一郎氏が「島根県知事」をしたという記述があるが、鳥取県の記録によると 12 代鳥取県知事(明治 39 年~明治 41 年)に「山田新一郎」の名がある。
 氏が鳥取県知事を拝命した翌年の明治 40 年 5 月には、当時は皇太子であったのちの大正天皇が、山陰鉄道の開通記念に〝風土記の時代には夜見島であった〟境港から上陸して鳥取県に来訪、米子・倉吉・鳥取に宿泊しつつ、鳥取県を東西に往復する鉄道の旅程を無事に終えて、その後、出雲大社のある島根県を訪問している。
 旅の途中鳥取市に宿泊した折には、〈印賀鋼〉を鉄材として、刀工日置兼次による刀鍛冶の実演が、皇太子の前で披露された。その刀剣の銘は「明治四十年五月吉日久松山麓に於て兼次作」と切られたと記録されている〔『山陰道行啓錄』「鳥取縣」(p. 74) 参照(国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧可能)〕。

〖 ※ 日置兼次は、20 年前の明治 20 年 2 月 28 日、伊勢神宮の宝剣鍛造のために通勤していた靖国神社の鍛錬場にて鍛えた八寸五分の短刀一口「因幡兼光十二代日置兼次作」を皇太子(当時数え年九歳)に奉献した刀工である。〗

◎ ところで、かつて判明したところによれば、「米子製鋼所の鋼は、少なくとも明治 41 年から大阪造幣局の貨幣極印用として買上げられてきた」のだった〔〈印賀鋼〉最強伝説 のページ 参照〕。

―― そのような記録をたどれば、山田新一郎氏が鳥取県知事の職にあった時期はちょうど、鉄製品で、鳥取県の技術が日本一になる出来事が進行していたという、時代の流れを捉えることもできよう。

 ○ 『日本の歴代知事』には、その任期は「明治三十九年(一九〇六)七月二十八日~四十一年三月二十七日」(1906.07.28 ~ 1908.03.27) と記録されている。評価はどのようであったのか、一部を抜粋する。

『日本の歴代知事』より

 山田知事は四十一年三月の地方官更迭で休職になったが、一年七カ月の在任中、境・賀露両港をはじめ県下各港湾の浚渫、農業試験場における採種試験などを行い、高く評価されている。
 さて、明治四十年になると山陰線上井-鳥取間が開通、鳥取地方の交通事情が一変してしまった。この交通の変化は経済、文化にも影響を与え、電灯、電話もこの年に開通したのである。この恩恵をこうむることになる鳥取市民の喜びようは、熱狂的と形容するのにふさわしいものだったといわれる。
〔『日本の歴代知事』 第三巻(上)(p. 149)

◎ 明治 40 年には、山陰鉄道の「上井-鳥取間(倉吉-鳥取間)」が開通した。そうでなければ、その年に皇太子は、米子から東進して、鳥取までの山陰鉄道の旅程を完遂することができなかったはずだ。しかしながら、場合によって「倉吉-鳥取間」の鉄道の開通は明治 41 年と記録されている。
―― このことについて調べてみると、皇太子が「鳥取」で下車したのは、「古海(ふるみ)」に設けられた臨時の停車場で、それは「千代川(せんだいがわ)」の西岸にあった。現在の「鳥取駅」は、そこから千代川を東に渡った先にある。ようするに明治 40 年の皇太子行啓には千代川を渡る鉄橋の完成が間に合わなかったのだ。
 鳥取県庁や鳥取城跡のある久松山(きゅうしょうざん)〔敷地内の屋敷で刀鍛冶が披露された皇太子の宿泊先の「仁風閣」は久松山の麓にある〕を含む鳥取市街地は、千代川を渡った東側、鳥取駅の北に位置するので、つまり「倉吉-鳥取間」の鉄道の完全開通は千代川の鉄橋が開通した明治 41 年ということになるらしい。

※ 仁風閣の名称は皇太子に随行していた東郷平八郎によって命名された。余話として、現在は国の重要文化財となっている仁風閣の敷地内で、映画「るろうに剣心」の戦闘シーンを伴う撮影が 2011 年 9 月に行なわれた。

 山田新一郎氏は「神代史と中国鉄山」という論を雑誌『歴史地理』に連載したことがある。
 国立国会図書館のデジタルコレクションに『歴史地理』の該当号は 4 点含まれているのだけれど、残念ながら、いまのところ外部から閲覧することができない。
 鳥取県立図書館にも関連図書の蔵書はなく、山田新一郎氏の論が収録された資料の収集を担当者に何度かお願いしたのだが残念ながら図書館としては資料的な優先度が低いらしく、未だ所蔵されるに至っていない。

◎ 国立国会図書館のデータによってまとめると『歴史地理』に連載されたタイトルは次のとおりである。
◎ 連載第二回分のデータは欠落している。

山田新一郎「神代史と中国鉄山」収録分

『歴史地理』
日本歴史地理学会/編
吉川弘文館/発行

1917年03月 29(3)(210)

  • 歴史地理 神代史と中國鐵山――(一) / 山田新一郞 / p33~44

1917年06月 29(6)(213)

  • 歴史地理 神代史と中國鐵山――(三) / 山田新一郞 / p18~30

1917年07月 30(1)(214)

  • 神代史と中國鐵山――(四) / 山田新一郞 / p20~31

1917年08月 30(2)(215)

  • 神代史と中國鐵山――(五完) / 山田新一郞 / p11~16


〈都牟刈之大刀〉と アヂスキタカヒコネの〈大葉刈〉


―― ちなみに、西暦で 1917 年というのは、大正 6 年で、ちょうど柳田国男氏の「一目小僧の話」が『東京日日新聞』に連載(新聞連載は 8 月 14 日~ 9 月 6 日の間)されたのと同じ年となる。その半世紀以上ののち、谷川健一氏の『青銅の神の足跡』(1979) によって、新しい視点からの論述が展開された。

 ○ ここで『青銅の神の足跡』を、全集版から引用しておこう。

『谷川健一全集 9』より
『青銅の神の足跡』〔初出:1979年06月20日 集英社発行〕
第一章 銅を吹く人

 伊福部氏は雷神として祀られる
 (pp. 62-63)
 アジアにかぎらず、ギリシア神話の単眼の巨人キクロオペが、ゼウスの雷電をきたえる鍛冶屋であることは名高い話である。わが伊福部氏にもそのような伝承がまつわりついていたのであったろう。それの傍証に、アジスキタカヒコネが天若日子[あめのわかひこ]の葬儀の弔問にやってきたとき、自分を死人の天若日子とまちがえられ激怒したという話が『記紀』にある。

「時に味耜高彦根神、忿りて曰はく、『朋友喪亡せたり。故、吾即ち来弔ふ。如何ぞ死人を我に誤つや』といひて、乃ち十握劒を抜きて、喪屋を斫り倒す。其の屋堕ちて山と成る。此則ち美濃国の喪山、是なり。……
(ときにあぢすきたかひこねのかみ、いかりていはく、『ともがきうせたり。かれ、われすなはちきとぶらふ。いかにぞしにたるひとをわれにあやまつや』といひて、すなはちとつかのつるぎをぬきて、もやをきりたふす。そのやおちてやまとなる。これすなはちみののくにのもやま、これなり。)」

 これは『日本書紀』の文章である。ここにいう美濃国喪山というのは二説あって、一説は岐阜県武儀[むぎ]郡藍見[あいみ]村(現在の美濃市極楽寺付近)という。もう一つの説は岐阜県不破郡垂井町である。私は後者の説を採りたいが、その理由は、そこに雷神を祀る伊福部氏が居住するからである。垂井町には現に喪山と称するところもある。
 ではアジスキタカヒコネはどのような性格の神であるか。アジは美称であり、スキは鉏の意であるとふつう解されている。すなわちそれは鉄器を人格化し美化したものである。『日本書紀』には、また別の叙述もある。

 (p. 64)
 ここに大葉刈という剣の名が出てくる。これは大きな刃をもつ刀剣と解釈される。朝鮮語では刀をカルという。草薙剣[くさなぎのつるぎ]を都牟刈[つむかり]の大刀ともいう。この刈もまたおなじく刀剣の意である。アジスキタカヒコネは鉄製の利器を所有する神であったことがこれによってもわかる。
 さて、前の引用文では、アジスキタカヒコネは、うるわしい容儀をそなえていて、二つの丘、二つの谷の間に映り渡ったとあり、また、その歌には「み谷二渡[たにふたわた]らす」とある。いくつもの丘や谷に照りかがやく鉄器とは、何を表現する比喩なのであろうか。それは芭蕉の『猿蓑』の中の「たたらの雲のまだ赤き空」という去来の句のように、野だたらの炉の炎が空をこがしているありさまを叙したものではないだろうか。
〔以上『谷川健一全集 9』より〕

風土記と古事記には〈高志〉の記録が複数ある

◉ 八千戈神(やちほこのかみ:大国主神すなわち大穴持命)が、〈高志國之沼河比賣〉に言い寄るシーンが、古事記に描かれている。

日本古典文学大系『古事記 祝詞』

大国主神 4 沼河比売求婚
[原文] 此八千矛神、將婚高志國之沼河比賣、幸行之時、到其沼河比賣之家、歌曰、
[訓み下し文] 此の八千矛の神、高志の國の沼河比賣を婚はむとして、幸行でましし時、其の沼河比賣の家に到りて、歌ひたまひしく、
(ふりがな文) このやちほこのかみ、こしのくにのぬなかはひめをよばはむとして、いでまししとき、そのぬなかはひめのいえにいたりて、うたひたまひしく、

大国主神 6 大国主の神裔
[原文] 故、此大國主神、娶坐胸形奧津宮神、多紀理毘賣命、生子、阿遲 〔二字以音。〕 鉏高日子根神。次妹高比賣命。亦名、下光比賣命。此之阿遲鉏高日子根神者、今謂迦毛大御神者也。大國主神、亦娶神屋楯比賣命、生子、事代主神。
[訓み下し文] 故、此の大國主の神、胸形の奧津宮に坐す神、多紀理毘賣の命を娶して生める子は、阿遲 〔二字は音を以ゐよ。〕 鉏高日子根の神。次に妹高比賣の命。亦の名は下光比賣の命。此の阿遲鉏高日子根の神は、今、迦毛の大御神と謂ふぞ。大國主の神、亦神屋楯比賣の命を娶して生める子は、事代主の神。
(ふりがな文) かれ、このおほくにぬしのかみ、むなかたのおきつみやにますかみ、たきりびめのみことをめとしてうめるこは、あぢ 〔にじはおとをもちゐよ。〕 すきたかひこねのかみ。つぎにいもたかひめのみこと。またのなはしたてるひめのみこと。このあぢすきたかひこねのかみは、いま、かものおほみかみといふぞ。おほくにぬしのかみ、またかむやたてひめのみことをめとしてうめるこは、ことしろぬしのかみ。
〔日本古典文学大系『古事記 祝詞』(pp. 100-101, pp. 104-105) 〕

◎ このように古事記にも、出雲の神話に関連して「高志」の名称を伴う、複数の記述が認められる。

◎ 出雲国風土記に〈越八口〉を平定した説話があることは先に見た。また、出雲国風土記では〝国引き神話〟にも「高志」の名が書き留められていた〔日本古典文学大系『風土記』「出雲國風土記 意宇郡」(pp. 100-103) 参照〕。それによれば〝美保関はもともと北陸地方の一部だった〟のである。そして「夜見嶋」と「伯耆國火神岳」が、その神話の最後に登場することも見逃せない。

◎ それぞれは断片的な描写ではあるが、出雲と越との強い関係性がうかがえる。加えて、国引き神話成立当時の出雲圏は、その後の伯耆国にまで広がっているようだ。そう考えれば、あるいは …… もしかして高志の国引きの意味するところは、神話に残された〝伯耆大山の麓に越地方からの移住者があった〟ことの記憶なのであろうか。

―― そうなると、志羅紀の〝国引き神話〟は、朝鮮半島からの移住者を物語っていることになる。
  彼らが、紀元前後から、強力な鉄剣を携えて出雲地方へとやってきた可能性については、否定できない。
  言葉の通じない神々は〈韓鋤(からさひ)〉を出雲にもたらしたのだ。それは強靱な〈神の剣〉だった。

◉ ヤマタノヲロチの尾から出てきた〈神剣〉は〈都牟刈之大刀〉ともいわれる

―― 古事記の訓み下し文から引用する。

爾に速須佐之男の命、其の御佩せる十拳劒を拔きて、其の蛇を切り散りたまひしかば、肥の河血に變りて流れき。故、其の中の尾を切りたまひし時、御刀の刃毀けき。爾に怪しと思ほして、御刀の前以ちて刺し割きて見たまへば、都牟刈の大刀在りき。
〔日本古典文学大系『古事記』(p. 87-89) 〕

◎ スサノヲの斬蛇剣には「蛇韓鋤之劒(蛇の韓鋤の剣・をろちのからさひのつるぎ)」の名があった。―― これは朝鮮半島渡来の〈霊剣〉を意味する〔三品彰英『建国神話の諸問題』(pp. 36-37) 参照〕。

 ヤマタノヲロチを斬り殺して〈鳥上之峯・鳥髮地〉で獲得した「都牟刈之大刀(都牟刈の大刀・つむがりのたち)」は、強度においてそれを凌ぐ剛剣だ。
 そして、出雲国風土記「仁多郡 三澤郷」に「大神大穴持命御子 阿遲須枳高日子命」とも記されている、オホクニヌシの息子アヂスキタカヒコネのもつ十握剣〈大葉刈〉の「刈」の音は、〈都牟刈之大刀〉の名辞に含まれる「刈」と同じく、現代韓国語の「剣(칼 ; khal〔カリ・カル〕)」に通じる。
―― 韓国語の「 칼 ; khal ・ 검 ; kɔm 」などの検討は、あとで少しばかり詳しく行なう予定にしている。

◎ 日本書紀には「下照媛」の兄として、
◎ 出雲国風土記に「大神大穴持命御子 阿遲須枳高日子命」
と記録された〈アヂスキタカヒコネ〉は、
◎ 古事記で「阿遲鉏高日子根神者、今謂迦毛大御神者也」と伝えられている。

その所持する十握剣を〈大葉刈〉といい、また〈神度剣〉ともいう。



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2018年9月11日火曜日

〈天叢雲剣〉の出現 Ⅱ

―― 昨日引用した文章中に、

「天子の気」とは王者たるものが発散する一種の気体、むろん特定のものにしか見えない(本冊「項羽本紀」四六ページ参照)。

というのがあったけれど、まずその「項羽本紀」の参照ページを、追加して引用しておこう。

『史記』楚漢篇 より

當是時。項羽兵四十萬。在新豐鴻門。沛公兵十萬。在覇上。范增說項羽曰。沛公居山東時。貪於財貨。好美姬。今入關。財物無所取。婦女無所幸。此其志不在小。吾令人望共氣。皆爲龍虎成五采。此天子氣也。急擊勿失。
是[こ]の時に当り、項羽の兵は四十万、新豊[しんぽう]の鴻門[こうもん]に在り。沛公の兵は十万、覇上[はじょう]に在り。范増[はんぞう]、項羽に説きて曰く、「沛公の山東に居りし時は、財貨に貪[たん]にして、美姫を好[この]めり。今、関を入りては、財物も取る所なく、婦女も幸する所なし。此れ其の志、小に在らざるなり。吾[われ]、人をして其の気を望ましむるに、皆竜虎と為[な]り、五采を成す。此れ天子の気なり。急ぎ撃ちて失う勿[なか]れ」と。
〔朝日選書『史記』中 楚漢篇「項羽本紀」(pp. 46-47)

―― これが天子の気の説明となる。また、

『大系本 古事記』は八岐大蛇を斬った「この剣は最初からクサナギという名であった」とする。

と書いたのは、『大系本 古事記』(日本古典文学大系『古事記 祝詞』)の頭注にそのように記されている、ということで、なぜわざわざそう注釈されているのか、今回の最後に謎解きとなる。問題はなぜ、日本書紀が割注に「一書云」として、〈天叢雲劒〉の名を記したのか、ということなのだ。
 訓み下し文では、次のように記述されていた。

草薙劒、此をば倶娑那伎能都留伎と云ふ。一書に云はく、本の名は天叢雲劒。蓋し大蛇居る上に、常に雲氣有り。
〔日本古典文学大系『日本書紀 上』(p. 122) より〕

 さて、昨日の続き。

スサノヲが蛇を斬った剣の名称は

〈韓鋤剣〉とも伝えられる


○ 中国の『三国志』に残された記録で、当時の、朝鮮半島の情勢がうかがえる。

『正史 三国志 4』 「魏書 Ⅳ」 烏丸鮮卑東夷伝 第三十 〔東夷伝〕より
 辰韓[しんかん]は、馬韓の東方に位置する。その地の古老たちが代々いい伝えるところでは、自分たちは古[いにしえ]の逃亡者の子孫で、秦の労役をのがれて韓の国へやって来たとき、馬韓がその東部の土地を割[さ]いて与えてくれたのだ、とのことである。…… 現在でも彼らのことを秦韓と呼ぶものがいる。もともと六国であったが、だんだんと分かれて十二国になった。
 弁辰[べんしん]も十二国からなり、さらにいくつかの地方的な小さな中心地があって、それぞれに渠帥[きょすい](首領)がいる。…… 弁韓と辰韓とで合わせて二十四国、大きな国は四、五千家からなり、小さな国は六、七百家からなって、あわせて四、五万戸がある。そのうちの十二国は辰王に属している。辰王の王位は、かつて馬韓の者が即[つ]くことになって以来、代々ずっとそのままで来た。辰王の位は〔馬韓にかぎられていて、辰韓のものが〕自ら王位に即くことはできない〔一〕。
 土地は肥えていて、五穀や稲を植えるのに適し、人々は蚕桑の業に通じて、縑布[かとりぎぬ]を織る。牛や馬に乗ったり車を引かせたりする。婚姻の礼には、男女ではっきりとした区別がある。大きな鳥の羽根を死者に随葬するが、死者に天高く飛んで行かせようと意図してそうするのである〔二〕。この国は鉄を産し、韓・濊・倭はそれぞれここから鉄を手に入れている。物の交易にはすべて鉄を用いて、ちょうど中国で銭を用いるようであり、またその鉄を楽浪と帯方の二郡にも供給している。……
〔一〕『魏略』にいう。確かに彼らが流亡の民であればこそ、馬韓の支配下にあるのである。
〔二〕『魏略』にいう。その国で建物を作る時には、木材を横につみ重ねて作る。牢獄のような格好である。
〔『正史 三国志 4』(pp. 467-469)

―― 上記の弁辰の条に記述されているごとく、3 世紀当時に、倭(ヤマト)も鉄を持ち帰っていたようだ。

○ 古代の朝鮮半島の製鉄技術に関する情報は、『朝鮮古代中世科学技術史研究』に収録された論文に詳しい。

康忠熙「古代朝鮮の製鉄技術」
 (p. 77)
 朝鮮における鉄生産がいつから始まったかを正確にすることはむずかしいことであるが、朝鮮西北地方と遼東地方で、青銅器冶金が盛んであった BC8~7 世紀頃、既に、鴨緑江中上流と豆満江流域では錬鉄が生産されていたことがわかった。また、BC7~5 世紀頃と推定される茂山虎谷遺跡第 5 文化層から出土した鉄斧の分析結果は、それが完全に溶けた銑鉄から鋳造されたものであることもわかった。
 同じく、BC4~3 世紀のものと思われる同じ遺跡の第 6 文化層と慈江道魯南里、豊清里、土城里、平安北道細竹里など BC2 世紀前後の遺跡から出土した鉄器の分析結果によると、銑鉄製品とともに鋼の製品もあることが確認された。これらのことから朝鮮で銑鉄が生産され始めた時期は BC6 世紀前後で、銑鉄から鋼を生産したのは BC3 世紀頃と推定される。
 (p. 80)
 鋼製品の遺物としては斧、槍、小刀、鉄片などが出ているが年代としては BC3 世紀から紀元前後の時期に属する。
 (pp. 81-82)
 朝鮮の古代製鉄技術発展のなかでもう一つ注目されることは、鋼材の質を高めるための熱処理がなされていたことである。豊清里から出土した斧は袋の部分を左右に重ねて鍛造したもので、その金属組織はフェライト・パーライトで結晶粒が非常に微細なことから充分に鍛錬されたものであったことがわかる。
 また、虎谷の斧などの組織は頭部と刃の部分が異なっていて、頭部はパーライト・セメンタイトで刃部は粒状パーライトのみで組織は緻密である。熱処理が施されたものとしては BC3~2 世紀のものと思われる細竹里遺跡の鋼製品でも見られる。とくに注目されるのは小刀で鋼質は炭素工具鋼で、焼入れ焼き戻しが行われたと思われることである。その顕微鏡組織観察では表面が青みを帯びていて、高い温度で焼き戻しされていたものと判断される。
…………
 古代の製鉄・製鋼技術を考察するのに欠かせない製鉄炉跡について見ることにする。これまで判明した最も古い製鉄炉の一つとして慈江道魯南里の第二文化層のものを上げることができる。BC2 世紀頃のものと思われる匚型の溶湯設備の備わった製鉄跡である。表土を除去した後に現れた製鉄跡は長さ 1.5 m、巾 1.2 m 程度の石積みが残っていて、破壊された後の炉の一部と判断される。溶湯設備が一辺 2 m にもなることから、元の炉は現在残っている石積みよりはるかに大きかったと思われ、製鉄初期の製鉄炉ではないと判断される。炉の遺物の様子から、完全な溶融状態の鋼鉄を生産する炉であったろうと推測される。
〔『朝鮮古代中世科学技術史研究』より〕

―― 興味深いことには、77 ページに、

朝鮮で銑鉄が生産され始めた時期は BC6 世紀前後で、銑鉄から鋼を生産したのは BC3 世紀頃と推定される。

と記述されている。

 銑鉄(せんてつ)を辞書〔たとえば『広辞苑』など〕で参照すると、「鉄鉱石から直接に製造された鉄で、不純物が多い。製鋼用と鋳物用に大別」されるという。
 鋼鉄(こうてつ)は「鋼(こう)に同じ」とあり、(こう)は「きたえた鉄。はがね。鉄と炭素との合金。広義には他の諸元素を添加した特殊鋼をも含み、炭素だけを含むものは炭素鋼または普通鋼という。」と説明されている。
 また、鋳鉄(ちゅうてつ)は「鋼に比し機械的強さは劣るが融けやすく鋳造が容易。耐摩耗性・切削性などに優れる。」とある。

 これらの鉄材が、紀元前の朝鮮半島で製造されており、さらには鋼材の質を高めるための熱処理がなされていた(p. 81) と、いうのだ。

 半島渡来の鋼鉄で鍛造された切れ味鋭い剣が、日本で武力を象徴するものだったとしても、不思議はない。

―― 歴史書などによれば、日本は任那(みまな)を足掛かりとして朝鮮半島へと進出したが、任那は 562 年に新羅に併合され亡んだ。日本書紀「欽明天皇二十三年」の冒頭に、次のように記されている。

廿三年春正月、新羅打滅任那官家。

 任那というのは、伽耶諸国のうち金官国の別称らしいけれども、当時の日本では新羅に滅ぼされた朝鮮半島南部の諸国を総称していたようだ。

◎ さらに 663 年には、朝鮮半島の南西、錦江河口の〝白村江(はくすきのえ・はくそんこう)〟で、日本・百済連合軍と唐・新羅連合軍との間に海戦が行なわれ、日本は敗れて百済は滅亡した。

◎ 日本が朝鮮半島への足場を失ったこの戦闘を〝白村江の戦(はくそんこうのたたかい)〟という。
―― 古事記が撰録・献上される、半世紀前のことだ。


〈八岐大蛇〉と スサノヲの〈韓鋤剣〉のこと


○ 八岐大蛇(ヤマタノヲロチ)の原義を、韓鋤剣(カラサヒノツルギ)と関連づける論がある。

三品彰英「出雲神話異伝考」
第一節 ヤマタノオロチ退治 【付記】
ヤマタノオロチ ヤマタについて「書紀」本文に「頭尾各八岐[やまた]あり」と述べているが、八乙女に対するヤマタであり、八は本来神事的な満数ないしは聖数と解してよい。世界的に広く分布する怪物退治物語にはその怪物が多頭であり、最も多くは七つの頭を持つ話が多い。日本では民族の数観念或いは数信仰から八に変化していると考えてよかろう。オロチのオロは朝鮮語の泉・井の古訓 ŏr (ɔl) と同語、チも日本・朝鮮共通の古語で神霊を意味している。新羅の始祖が降臨した神井を奈乙 (na-ŏr) すなわち「みあれ (na) の井 (ŏr) 」と呼び、そこに始祖廟が建てられていた。ヤマタノオロチを斬った剣が韓鋤剣[からさひのつるぎ](サヒは朝鮮語の鋤・刃物を意味する sap )と呼ばれているところからしても、オロチの原義を右のように語釈してもよいであろう。すなわちオロチは水霊・河神の意であり、ミヅチと同意語である。オロチの姿について「八丘八谷[やをやたに]の間にはひわたれり」(「紀」)と説明しているのは、谷川の神霊にふさわしい形容である。
〔三品彰英『建国神話の諸問題』(pp. 36-37)

 ようするに、オロチのオロは朝鮮語の泉・井の古訓に同じであり、チも日本・朝鮮共通の古語で神霊を意味しているので、すなわちオロチは水霊・河神の意であり、ミヅチと同意語であるという。
―― また八は本来神事的な満数ないしは聖数と解してよいという見解は、この論稿が最初ではない。

○ 次に参照する「水の女」の稿は『折口信夫全集 2 古代研究(民俗学篇 1 )』に収録されているものだ。

折口信夫「水の女」(昭和二年九月、三年一月「民族」第二巻第六号、第三巻第二号)
九 兄媛弟媛
 やをとめを説かぬ記・紀にも、二人以上の多人数を承認している。神女の人数を、七[ナヽ]処女・八[ヤ]処女・九[コヽノ]の処女などと勘定している。これは、多数を凡[おおよ]そ示す数詞が変化していったためである。それとともに実数の上に固定を来[きた]した場合もあった。まず七処女が古く、八処女がそれに替って勢力を得た。これは、神あそびの舞人の数が、支那式の「佾[イツ]」を単位とする風に、もっとも叶うものと考えられだしたからだ。ただの神女群遊には、七処女を言い、遊舞[アソビ]には八処女を多く用いる。現に、八処女の出処[でどころ]比沼山にすら、真名井の水を浴びたのは、七処女としている。だから、七[ナヽ] ―― 古くは八処女の八も ―― が、正確に七の数詞と定まるまでには、不定多数を言い、次には、多数詞と序数詞との二用語例を生じ、ついに、常の数詞と定まった。この間に、伝承の上の矛盾ができたのである。
〔折口信夫『古代研究Ⅰ』 ― 祭りの発生 (p. 99)

○ さて、神宝としての剣について、稲田智宏氏の『三種の神器』に興味深い考察がある。

「第二章 三種神器の神話的な背景」鏡と剣と玉
天石窟籠もりの以前にも、天照大神と素戔嗚尊による誓約[うけい]神事の際に剣が大きな役割を果たしているように、決して呪具としての価値が低いわけではない。だが記紀の五種類の天石窟神事伝承において、四つの伝承にて鏡と玉がつくられるが剣はなく、一つの伝承のみ、鏡と思われる「神」と日矛とがつくられている。
 諸説あるのは、「天の金山の鉄[まがね]を取りて、鍛人天津麻羅[かぬちあまつまら]を求[ま]ぎて、伊斯許理度売命[いしこりどめのみこと]に科[おほ]せて鏡を作らしめ」という『古事記』の記述に関してで、伊斯許理度売命に鏡をつくらせたのはわかるけれども、天津麻羅に何をさせたのか抜けているように見えるからである。もちろん「鍛人」で鍛冶神だから鉄を鍛えたのだろうが、それを何かの脱落ではなく単に鏡を鋳造するための鉄を精錬したと見るか(新編日本古典文学全集『古事記』頭注)、本居宣長のように『日本書紀』で日矛がつくられた伝承と考え合わせて「此名の下に、矛を作[つくら]しむることの有[あり]しが、脱[おち]たるなるべし」(『古事記伝』)と見るか、あるいは剣をつくらせたという文が落ちたのか(日本古典文学大系『古事記 祝詞』頭注)と分かれる。
 しかしこの場面に関する記紀のすべての伝承で剣は登場しないので、『古事記』のみ文が脱落したのではなく、はじめから剣が必要でない場面だと考えるのが妥当だろうか。先に挙げた神夏磯媛らが掲げた神宝に剣が含まれているのには、武力を天皇に献上する意味がある。一方で、天照大神の復帰を願う高天原の神々はもとから天照大神側の立場なので、剣を捧げる必要はない。もしこの祭祀を主催したのが反省した素戔嗚尊であったなら、自身の剣を捧げていたのだろう。
 あるいは、後に八岐大蛇から出現した草薙剣が天照大神のもとに至り、それが天石窟神事のときの鏡と玉とともに地上に下されるという神話の整合性を保つために、天石窟神事の剣が消されたのかもしれない。草薙剣が大切な神宝として下されるなかに加えられたため、天照大神の復帰に重要な役割を果たしたかもしれない剣は意味を失ってしまったのだと考えられなくもない。
〔稲田智宏『三種の神器』(pp. 142-144)

○ 日本古典文学大系『古事記 祝詞』――『大系本 古事記』の頭注は倉野憲司氏によるが、倉野憲司氏はそれ以前から「剣をつくらせたという文が落ちた」とする考察を展開していたことが、次の資料で知られる。

松前健『出雲神話』4 スサノオの神話
 大蛇[おろち]退治の話が世界大の「ペルセウス型」の人身御供譚であることや、大蛇の尾に剣があることが民譚にもあるらしいことなどから、この話の起源は民間のものであったらしいことはわかるのであるが、最後にその草薙剣[くさなぎのたち]を皇祖神に献じたというモチーフは、もちろん後世的な付加物に違いない。後につづく天孫降臨神話で、皇孫がこの剣を加えた三種の神器をもって天降ることになるから、この献上の話は、天孫降臨の伏線として、置かれたものである。
…………
 ところが、この献上の話が加えられる以前の、いわば「原天石屋[プロトあめのいわや]神話」ともいうべきものには、鏡と玉とだけでなく、剣の製作も語られていたらしい。『古事記』に「天の金山[かなやま]の鉄を取りて、鍛冶天津麻羅[かぬちあまつまら]を求[ま]ぎて、伊斯許理度売命[いしこりどめのみこと]に科[おほ]せて鏡を作らしめ、玉祖命[たまのやのみこと]に科[おほ]せて八尺[やさか]の五百津[いおつ]の御統[みすまる]の珠を作らしめて」とある文には、脱文があったらしい。「天津麻羅を求ぎて」と「伊斯許理度売命に科せて」の間には、「剣を作らしむ」という文があったのを、後に草薙[くさなぎ]剣の献上の話が出てきたため、この場ではこの剣の部分だけ、わざと削り、鏡と玉との二者だけを、岩戸の祭りに登場させたというのが、倉野憲司氏の主張である(『日本神話』)が、おそらく正しい。
 この剣の削除やスサノオの神剣の貢上というモチーフが、出雲神話への橋わたしとなっているのであり、この文筆作業によって、出雲神話が巨大化し、宮廷神話の中枢[ちゅうすう]に割りこませられているのである。こうした文筆作業によって、中央神話に割りこませられた時期は、どう見ても、文筆による削訂作業が行なわれた七、八世紀の記紀編纂時代になると考えられる。
〔『出雲神話』(pp. 82-84)

―― 倉野憲司氏の『日本神話』は、昭和 13 年に初版が刊行されているのであるが、そこでは、中央政権による記録の改変があった可能性が論じられているという。

○ 最後に、参考資料として示された、倉野憲司氏による論述内容を確認しておこう。

倉野憲司『日本神話』
 鎭魂祭に不可缺な天璽の瑞寶十種は、結局鏡・玉・劒・比禮の四種に歸するが、鎭魂祭と關聯のある天石屋戶の條には、鏡・玉・和幣の三種は擧げてゐるが、劒は見えてゐない。これは甚だ怪しむべきことであるが、その理由は極めて簡單である。それは劒の出現は次の大蛇退治の條に語られてゐるからである。併し石屋戶の條に於て、もともと劒の製作が語られてゐたであらうといふ事は、古事記にその痕跡をとゞめてゐる。卽ち、

取天安河之河上之天堅石。取天金山之鐵而。求鍛人天津麻羅而。科伊斯許理度賣命。令作鏡。

の文を仔細に見ると、どうしても文意が通じない。天津麻羅を求ぎての下には脱文があるらしく思はれる。宣長もこれに氣附いて、「鏡をば伊斯許理度賣命に作らしむとあれば、此麻羅を求[マギ]たるは、何物を造ラしめむとてにか、甚[イト]も意得難し。…… 此名の下に、矛を作ラしむることの有しが、脱[オチ]たるなるべし(6)。」と言つてゐる。併し私は矛ではなくて「劒」を作らしむといふやうな文が落ちたのではないかと考へるのである。それも偶然の脱落ではなくして、意識的に削除されたものと考へる。卽ち最初は石屋戶の條に劒の事が語られてゐたのであるが、草薙劒の由來 ―― 熱田神宮の御神體の緣起 ―― を語る大蛇退治の神話が加へられた爲に、劒の事が重複するやうになつた結果、前のを削除したと思はれる。さうして古事記天孫降臨の條に於ける三種の神器に關する記述は、まさに石屋戶の條に鏡・玉・劒の三種が作られたとする原初的な所傳を承けたものに他ならないのである。
 かく見ることによつて、古事記に於ても、天石屋戶神話と天孫降臨神話とが直接に連なつてゐたことが一層明瞭となる。石戶隱れの際に鏡・玉・劒が作られたとすることは、ひとり鎭魂祭に必須な天璽の瑞寶と一致するばかりでなく、一面には大八洲國をしろしめす天つ神の御子たる天皇の御資格をあらはす「アマツシルシ」(天璽)の起原を語るものとして、天孫降臨の神話と符節を合するものである。
註 (6)  古事記傳、卷八
〔『日本神話』(pp. 170-171)

 これが冒頭に予告していた謎解きである。こういうことも関係して、倉野憲司氏による日本古典文学大系『古事記 祝詞』の頭注で、八岐大蛇を斬殺した「この剣は最初からクサナギという名であった」と注釈された理由が、無理なく推察できるのだ。

―― この考察が示唆するのは、どういうことかというと ――
杜撰(ずさん)な辻褄合わせ(つじつまあわせ)を意図した結果、
国家文書の改竄(かいざん)は、古来から連綿と、
安直かつ秘密裡に行なわれていたかもしれない、ということなのだ。

◎ 古事記には、「出雲國之肥河上、名鳥髮地」
◎ 日本書紀に「出雲國簸川上所在、鳥上之峯」
と記録された鳥上の峰 ―― 船通山は、
◎ そのあとに成立した出雲国風土記で、「鳥上山」と伝えられている。



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〈天叢雲剣〉の出現
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2018年9月10日月曜日

〈天叢雲剣〉の出現 Ⅰ

『日本書紀』に描かれた 上空に雲気を凝集する〈天叢雲剣〉名称譚
そのモチーフは『史記』にあるという


『史記』楚漢篇 より

秦始皇帝常曰。東南有天子氣。於是因東游以厭之。高祖卽自疑。亡匿。隱於芒碭山澤巖石之間。呂后與人倶求。常得之。高祖怪問之。呂后曰。季所居。上常有雲氣。故從往。常得季。高祖心喜。沛中子弟或聞之。多欲附者矣。
秦[しん]の始皇帝[しこうてい]、常に曰く、「東南に天子の気あり」と。是[ここ]に於て東游するに因りて、以てこれを厭[しず]めんとす。高祖、即ち自[みずか]ら疑い、亡[のが]れ匿[かく]れて、芒碭[ぼうとう]の山沢巌石[さんたくがんせき]の間に隠る。呂后、人と倶[とも]に求め、常にこれを得。高祖、怪しみてこれを問う。呂后曰く、「季[き]の居る所、上[うえ]に常に雲気あり。故に従い往[ゆ]けば、常に季を得」と。高祖、心に喜ぶ。沛[はい]中の子弟、或るいはこれを聞き、附かんと欲する者多し。

 秦[しん]の始皇帝[しこうてい]はいつもいっていた、「東南の方角に天子の気がある。」そこで、東方を旅する機会に、この天子の気を発散するものをかたづけようとした。「天子の気」とは王者たるものが発散する一種の気体、むろん特定のものにしか見えない(本冊「項羽本紀」四六ページ参照)。
 高祖は、始皇帝がしんぱいする天子の気のぬしこそは、この自分だと思い、芒[ぼう]・碭[とう](江蘇省北西境にある二つの山)の山沢地帯の、岩石のあいだに身をひそめていた。人といっしょに探す呂后[りょこう]は、いつもかれの所在をつきとめた。ふしぎにおもった高祖がたずねると、呂后はいった、「季[あなた]がいらっしゃるところは、そのうえにいつも雲気がただよっています。だから、それをたよりに行きますと、いつも季[あなた]が見つかるのです。」
 高祖は心ひそかによろこんだ。沛[はい]の青年たちのなかにも、この話を聞き、高祖の部下になりたいという連中がたくさん出た。「子弟」は「父兄」に対する語、わかい世代をいう。
〔朝日選書『史記』中 楚漢篇「高祖本紀」(pp. 142-143) 〕


◎ 日本書紀「神代」の巻(上・下)では、本文に続いて異伝を「一書曰」として記録しているが、「神代上 第八段」本文中の割注に「一書云」として、〈天叢雲劒〉の名が登場する。
 訓み下し文では、次のように記述されている。

草薙劒、此をば倶娑那伎能都留伎と云ふ。一書に云はく、本の名は天叢雲劒。蓋し大蛇居る上に、常に雲氣有り。
〔『大系本 日本書紀 上』(p. 122) より〕

 思うにこれは、おそらく読者は『史記』の記述を知っているだろうと予想したうえで、ここに付加された伝承なのであろう。
 その伝承をさりげなく関連づけることによって、〈天叢雲劒〉に天子のまとうエネルギーが暗に印象づけられ、そうして〝蛇の尾から出てきた剣〟が〝三種の神器〟のひとつに数えられる資格を獲得するのだ。
 如何なる理由でか、スサノヲが船通山の山中 ――〝鳥髪(鳥上)の峰の付近〟で手に入れた剛剣が、神の剣として、天皇家の神宝(かむたから)と定められる必要があったのだ。

◎ おまけに、その剣が八岐大蛇を斬殺した剣よりも強靱であることは、すでに実証済みなのであった。

 『大系本 古事記』は八岐大蛇を斬った「この剣は最初からクサナギという名であった」とする。
 日本書紀の記録は多岐にわたり、複数の異伝で、スサノヲと朝鮮半島との関係性が語られる。
 古い時代から、渡来人は、山陰地方へ訪れていたようだ。

◎ 人類が伯耆大山の麓に残した痕跡には、2 万年以上前のものがあるけれど、古墳時代の、朝鮮半島の影響下にあると思われる発掘資料も多い。

―― スサノヲの神話と、『三国遺事』に記録された延烏郎・細烏女の物語を関連づけて、次のように述べている論稿もある。


金元龍「古代出雲と韓半島」

曽尸茂梨については、それが韓語のソモリ(手頭)であり、韓国中東部、春川地方の古名(『三国史記』牛首州、『日本書紀』牛頭州)と結びつけて考えられていたこともあったが、上記『日本書紀』の注で、九世紀の惟良宿禰が「今の蘇之保留[ソノボル]のところか」と解したことをあげ、新羅を指すものとしたのは正しい解釈と思われる。新羅発祥の地慶州は、初め徐那伐、徐羅伐 (sŏ‐na‐pŏl, sŏrapŏl) 、また金城とよばれたが、Sŏnapŏl は Soe(金属、鉄) ‐Pŏl(村、原)、即ち金城の意であり、慶州王族金氏の都邑地ということになる。因みに現在のソウルも、この Soepŏl の轉訛である。
 結局、素戔鳴尊の降りた「そしもり」は、慶州を指す「 Soe‐pŏl 」であり、「 Pŏl 」の代りに、村町を意味する「 Ma‐ul 」の転記として「もり」をつけたものであろう。
…………
 さて、素戔鳴尊の渡来神話と何か関係のありそうな説話が、『三国遺事』に出てくる。『三国遺事』は、高麗時代の一三世紀に、一然という仏僧によって編纂されたものであるが、それ以前の古文献や伝説に基づく伝承的、民族的故実を集めたもので、政府編纂の『三国史記』には見られない貴重な民間伝承を多く含んでいて重要である。この『三国遺事』によると、「新羅阿達羅王(第八代)四年(西紀一五七年)に、東海岸に住んでいた延鳥郎 (Yŏno‐rang) という男が海辺の岩で海藻をとっていたのに、岩がそのまま彼をのせて日本に渡ってしまった。すると、日本の住民達は、これは尋常の者(非常人)でないとし、国王に推戴した。その後、海辺で夫を探していた妻の細鳥女 (Se‐o‐nyŏ) もまた、岩に負われて日本に渡り、相会して王妃となった。ところが新羅では、突然日月が光を失ったので日宮に尋ねたところ、日月の精が日本に行って了ったためだと答えた。それで人を日本によこして、延鳥郎の帰国を請うたが、彼は天が我をこの国に送ったのであるから帰れない。身代りに、王妃の織った絹をくれるから、持ち帰り天を祭れという。それで、その絹を持ちかえった天を祭ったところ、日月の光がもとのようになった。その時の祭天場所が、迎日縣である」とある。
 即ち、延鳥郎夫婦は、新羅の日月神・天神であり、新羅から日本(迎日湾から恐らく出雲地方)に渡っているものである。これは新羅人の太陽崇拝と関わる説話かもしれないが、新羅人の日本移住を反映する新羅側の伝説である。
 以上、甚だ飛躍的な憶測をたくましくした感が深いが、主に東海を距てて相対する新羅と、古代出雲地方の緊密な関係が、神話・説話を通して明白に反映されており、それは恐らく、新羅からの多数の渡来集団の存在を背景としているものであろう。慶州の東南方、仏国寺、石窟庵のある吐含山に登ると、東側は、長い谷間となって、そのまま東海岸につづいて居り、そこから少し北に上ると、上述の迎日湾となる。この迎日湾から漕ぎ出すと、船は潮流によって自然と出雲につくが、洛東江河口の釜山あたりから船を出しても、それが河口の西側でないと、潮流のために船は対馬につけず、東海(日本海)の方に流されて、矢張り山陰の海岸につく。素戔鳴尊の「そしもり」神話や、延鳥郎の渡海説話は、そうした古代航路を通じた韓半島東南部住民の、出雲地方往来を背景としていることに違いない。
〔『山陰地域における日朝交流の歴史的展開』(p. 2, pp. 3-4) 〕


スサノヲが蛇を斬った剣の名称は〈韓鋤剣〉とも伝えられる

都合により、以下次回。