2019年2月16日土曜日

渡来神スクナビコナ: 夜見の粟嶋

◈ 昭和三十六年 (1961) に発行された『篠村史』に、加太の「淡島明神」の説明がある。

『篠村史』

 粟島神社

 篠村の西端、東西に白く走る国道の南側、大字浄法寺[じょうぼうじ]の小高いところに粟島神社がある。
 …………
 現在粟島と称する神社は、例えば群馬県邑楽郡佐貫の地、鳥取県米子市彦名の地、さらに、大分県南海部郡米水津の地にそれぞれ鎮座するが、これらはみな、共通してその祭神が少彦名神[すくなひこなのかみ]である。なかでも紀州粟島宮は和歌山県海草郡加太の式内社、加太神社にほかならない。そしてこの加太社の祭神も一説によれば少彦名神なのである。少彦名神は、別に少名毘古那・少日子根命・小比古尼命・少御神などとも称され、不思議な霊力をもった小子[ちいさご]の説話の系列に位置を占める神話の神であって、天[あめ]のかがみの船にのり、海のかなたから帰って来、大国主命と力をあわせて国土の経営に当たったといわれる。海からやって来たかれは、熊野御碕からふたたび常世[とこよ]のくにへ帰って行ったとも、また淡島より粟茎[あわがら]に弾かれて常世のくにへ渡って行ったともいう。これが淡島明神としてあがめられ、のち加太の地に遷されたというのである。……
〔『篠村史』(pp. 106-107)

◉ さて。天平五年 (733) の編纂と記録される出雲国風土記は「〔嶋根郡〕蜈蚣嶋」の記事に「逹伯耆國郡内夜見嶋(伯耆の国郡内の夜見の嶋に達るまで)」と伝えている。そんな風土記の時代には、伯耆の国の夜見嶋の南の海上に粟嶋(あはしま・あわしま)があり、粟嶋は、その後いつしか夜見嶋が伯耆国とつながって半島となった後も、島のままだった。―― のであるが、江戸時代のおそらく 1700 年代、新田開発の工事で陸続きとなって、幕末期に成立した『伯耆志』の《粟嶋村》の項では「産土神粟島大明神」の説明文冒頭に、「粟島山」として記述されている。

―― 鳥取県米子市彦名町1405の、その山頂に、スクナビコナを祀る〈粟嶋神社〉がある。

出雲国風土記の《粟嶋》・その他


◈ 出雲国風土記には、二ヵ所に《粟嶋》の記事がある(『古風土記並びに風土記逸文語句索引』(p. 87) 参照)。
〔風土記の引用に際しては、日本古典文学大系『風土記』(以下『大系本 風土記』と表記)を用いる。〕

 そのひとつは『大系本 風土記』の頭注に「安来市の対岸、米子市彦名の粟島の地。もと島であった。(p. 121) と記される「意宇郡」の《粟嶋》で、

粟嶋 〔椎・松・多年木・宇竹・眞前等の葛あり。〕(p. 121)

が、「意宇郡」の《粟嶋》の記事、全文の訓み下し文である。
 もう一ヶ所は、「嶋根郡」に属する、島根半島沿岸の島であることが確認できる。こちらの《粟嶋》には、その頭注に「黒島の西南方、青島(p. 145) とあり、さらにその特徴として記事本文中に、

粟嶋 周り二百八十歩、高さ一十丈なり。(p. 145)

と、「意宇郡」の《粟嶋》の記事にはなかった、具体的な大きさが添えられている。すると「意宇郡」の《粟嶋》は、それほどでもなかったのだろうか。―― とも、思われるのだけれど「意宇郡」の島々の記事でその高さが添えられているのは、実際のところ《粟嶋》の次に記述されている《砥神嶋》だけなのだ。具体的には、

砥神嶋 周り三里一百八十歩、高さ六十丈なり。(p. 121)

とあり、同じく『大系本 風土記』のその頭注には「安来港の東北突出部、十神山(九二・九米)の地。もと島であった。(p. 121) と説明されている。
 かたや出雲国風土記「嶋根郡」ではその 6 分の 1 程度の高さまでが記録されているというのは、これは出雲国のそれぞれの郡で、あるいはそれぞれの記録者で記録する基準が異なっていたためであるのか、それとも、出雲国風土記「意宇郡」の《粟嶋》を含む島々のほとんど全部は、まったくもって小さな島ばかりだったのか、いずれかであろうが、参考になりそうな記事として、出雲国風土記「意宇郡」の《蚊嶋》に、次の記述がある。

野代の海の中に蚊嶋あり。周り六十歩なり。(p. 123)

 いっぽう『新修 米子市史 第六巻』(p. 10) でも確認できるように、鳥取県の米子市で夜見ヶ浜の山となった《粟嶋》の標高は 36 メートルだった。
 以上の考察に加え、同じ名で呼ばれる島は、出雲国風土記「嶋根郡」の記事を追うだけでも複数存在することが確認できるので、そのことからも、上記「意宇郡」の《粟嶋》と、伯耆国風土記逸文の《粟嶋》が、その海上の同じ島をさしているとする解釈は、必ずしも妥当とはいえない、ということになる。まさにそのことを論じた研究者が、かつてあったのだ。
 そして新しくは 2003 年の『新修 米子市史 第一巻』(p. 501) でも、

国境が明確であった奈良時代に、伯耆と出雲の両国がそれぞれこの粟島の所属を主張していたとは考えられない。彦名町の粟島は『伯耆国風土記』逸文にあるように、伯耆国相見郡余戸里であった。

と結論づけられ、同様の主張が述べられているのだけれども、ここではこれ以上の考察は控える。それらの論稿のもう少し詳しい内容は、この文末に示すサイトに引用しているので、興味のある向きはそちらを参照されたい。

夜見ヶ浜半島 と 粟嶋


◎ ところで。夜見嶋が弓の形をした半島(夜見ヶ浜半島・弓ヶ浜半島)となったのは、歴史時代では、そもそもいつ頃なのか。―― ヒントとしては、『大山寺縁起』の「(十一段)大山と夜見ヶ浜、中海周辺の大景観。」(『企画展 はじまりの物語』(p.63) 参照)に、島根半島の北の海の上空から大山(だいせん)を望んだ絵があり、そこに半島の形状で弓ヶ浜が描かれている。

○ 原本は残っていないけれど『大山寺縁起』の絵を古い地形図として見れば、西暦 1300 年代、夜見嶋はすでに島ではなくなっていたことがわかる。

『企画展 はじまりの物語』

大山寺縁起〈模本〉 (東京国立博物館蔵)


 伯耆国大山寺の創建の経緯を描いた全十巻の絵巻。原本は、応永五年(一三九八)に前豊前入道了阿によって制作されたが、昭和三(一九二八)年に焼失。
〔鳥取県立博物館/編集・発行『企画展 はじまりの物語』(p. 58)

☞ C0047196 大山寺縁起_上巻(模本) - 東京国立博物館 画像検索

  (URL : https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0047196 )

米子(よなご); 米生郷(よなおうのさと)


倭名類聚鈔(わみょうるいじゅしょう)は、源順(みなもとのしたごう)が著した漢和辞書で、承平 (931~938) 年中、醍醐天皇の皇女勤子内親王の命によって撰進された。和名抄(わみょうしょう)もしくは倭名鈔は、その略称として一般に用いられている。
 その和名抄に当時の全国の地名が採録されているのだけれど〝伯耆國〟を見ると〝會見郡〟に、十二の郷(さと)が記される。

日下・細見・美濃・安曇・巨勢・蚊屋・天萬・千太・會見・星川・鴨部・半生

 これらの郷名のうち「半生」は「米生」の誤写であるとする説がある。半は米のくずれた形だったのだという。

米生(よなおう)については、短い記述ではあるが次の資料が参考となる。

米子市の農業

(URL : http://www.city.yonago.lg.jp/secure/7669/agridata18.pdf )
 「米子の地名は、稲作の米がよく実った地域でその昔「米生(よなおう)の里」と呼ばれ、またその後「米生の郷(よなおうのごう)」と呼ばれるようになり、この言葉の音がなまって変わったものが、現在の「米子(よなご)」という由来があります。」(佐々木古代文化研究室月報 1960・8・25 発刊資料から)
〔平成 19 年 3 月 米子市経済部農政課/編集発行『米子市の農業』(p. 1)

◈ 上記のごとく、一説に「米生郷」が「米子」の語源であるともいい、また上にも言及した、平成十五年 (2003) 年発行の『新修 米子市史 第一巻』(p. 501) においては「半生郷」について、《『和名類聚抄』の半生郷が米子市内にあったかつての「飯生村」が遺称地であるとすれば》という、仮説に基づく論が展開されている。


Google サイト で、本日、もう少し詳しい内容のものを公開しました。

渡来神スクナビコナ: 粟嶋・淡嶋(あはのしま)
https://sites.google.com/view/emergence2/tsuge/aha-shima

バックアップ・ページでは、パソコン用に見た目のわかりやすいレイアウトを工夫しています。

渡来神スクナビコナ: 夜見粟嶋 バックアップ・ページ
http://theendoftakechan.web.fc2.com/eII/tsurugi/aha-shima.html

2019年2月2日土曜日

オホクニヌシの帰還 : 夜見ヶ嶋

弓ヶ浜半島(夜見ヶ浜半島)[鳥取県]

◎ 夜見ヶ嶋が弓ヶ浜半島になっていく経過の研究に「弓ヶ浜半島の完新世における地形発達と海岸線変化」などがあるけど、中でもインターネットに公開されている資料として『地質ニュース』が参考となる。

地質ニュース 668 号, 29-40 頁, 2010 年 4 月

Chishitsu News no.668, p.29-40, April, 2010
(URL : https://www.gsj.jp/data/chishitsunews/2010_04_04.pdf )

砂と砂浜の地域誌 (23)

須藤定久「島根県東部の砂と砂浜 ― 弓ヶ浜から島根半島へ ―」

の 31 ページに「第 3 図 弓ヶ浜半島の形成過程。徳岡ほか (1990) の図を再構成し、一部加筆」とあり、

  1.  椿原京子・今泉俊文 (2003) :弓ヶ浜半島の完新世における地形発達と海岸線変化、山梨大学教育人間科学部紀要、5, 1, P.1-22.
  2.  徳岡隆夫・大西郁夫・高安克己・三梨昂 (1990) :中海・宍道湖の地史と環境変化、地質学論集、36, P.15?34.

等が、論稿の末尾に文献として挙げられている。31 ページに掲載された図の原論文は、国立国会図書館デジタルコレクションで一般公開されているので、そちらも全文を確認できる。

中海・宍道湖の地史と環境変化

(URL : http://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_10809875_po_ART0003485743.pdf?contentNo=1&alternativeNo= )

 その図によれば、「奈良時代(約 1,200 年前)」の弓ヶ浜は島の状態であった。つまりは西暦 700 年代、出雲国風土記が書かれたころのその場所は〝夜見の島〟だったと、推定されているのである。いうなればそこは〝弓ヶ浜〟ならぬ〝夜見ヶ嶋〟だったのだ。
 出雲国風土記には伯耆国の〈夜見嶋〉が「国引き神話」以外にも三ヶ所、合計で四ヶ所、記述されている。
 その〈夜見嶋〉の南にあたる海上に、スクナビコナの説話の伝承地でもある〈粟嶋〉があったのだけれど、江戸時代の干拓事業でその島も、そのころはすでに半島となっていた夜見ヶ浜とつながった。
 現在は鳥取県の米子市彦名町(よなごしひこなちょう)となっているその地に〈粟嶋神社〉がある。
 そして米子市夜見町として、いまも弓ヶ浜半島に〝夜見〟の名が残る。昭和 29 年まで「夜見村」という自治体名だったけれども、同年に米子市の「夜見町」となった。―― かつては、〝粟島村〟の北に〝夜見村〟があり、夜見村の北は〝美保湾〟に面していたとも、説明されたようだ。美保湾というのは、半島東側の湾曲部の海をいい、美保関とは異なる。現在島根県の美保関に対面している鳥取県の市町村は、境港市である。
 ちなみにというか「夜見ヶ浜(よみがはま)」の名称は、1970 年代の『新詳高等地図』〔帝国書院刊(帝国書院編集部編、文部省検定済)〕の「索引」に、記載がある。なぜかそこに「弓ヶ浜」の名はない。

◉ 鳥取県米子市彦名町の〈粟嶋神社〉に祀られるスクナビコナは、伝承では、そのあたりを起点として、常世の国へと旅立った。出雲国風土記にも「粟嶋」の記述は複数個所ある。が、スクナビコナは、〈須久奈比古命〉の名でだた一度しか登場しない。そしてその類話は〈少日子根命〉の名で播磨国風土記にも収録されている。
 中央の神話として採録された形に近い〝スクナビコナの物語〟が、伯耆国風土記の逸文として『釈日本紀』に引用されていることは有名だ。伯耆国風土記逸文のスクナビコナは、自分の蒔いた粟の実りに弾かれて、「粟嶋」から〝常世の国〟に去った。日本書紀では、スクナビコナが常世に渡った場所は「淡嶋(あはのしま)」と記録されている。

―― ところで、出雲国風土記「神門郡」に登場するワカスセリヒメは、古事記のスセリビメと同じく、スサノヲの子として描かれている。

○ 古事記はスセリビメをオホクニヌシの正妻として位置づけるが、その直後に語られた物語で、高志の国のヌナカハヒメが登場するのである。スセリビメとオホクニヌシが、根の国から脱出するまでの、古事記の展開を次にみていこう。

The End of Takechan

黄泉比良坂(よもつひらさか)を通って生還する


 さてオホナムヂとも称されるオホクニヌシは、八十神の迫害を避けて、おそらくは伯耆の国の大山(だいせん)山麓から、木の国(紀伊国)へと脱出した。そこからさらに、追ってきた八十神を振り切るため、神話版・異次元装置のような「木の俣(きのまた)」をくぐり抜けてスサノヲの棲む根の国へと向かい、そこでまたまたさらなる種々の試練を受ける羽目となる。
 その揚句に、あろうことか根の国でのそれらの試練を乗り越える最大の協力者となったスサノヲの娘スセリビメを背にかつぎかっさらって、とっとと根の国から逃走している最中。―― 追い迫ったスサノヲにスセリビメを正妻とするよう宣告を受け、その前提の承認として、「爲大國主神」とも告げられたのは、すなわちスサノヲから「オホクニヌシとなれ!」とエールを送られた形だ。
 ようするに、オホクニヌシというのは、スサノヲから与えられた名でもあるのだ。
―― ここで余談程度の付記ではあるが。以下の『大系本 古事記』引用文中に原文を示すけれど、スサノヲが最初の邂逅シーンで「此は葦原色許男と謂ふぞ」といい、ヨモツヒラサカ付近で遠望して「オホクニヌシとなれ!」と〔絵的には拳を振りかざしつつ〕呼ばわったその最後に、ののしって「是奴也(是の奴・このやつこ)」といったのは、物語の流れから見るに、スサノヲ出し抜き試練をクリアしたばかりでなく娘を遠く連れ去るクソヤロウに対して、精一杯の感情の吐露であろうから、現代日本語で意訳すれば、賛辞としての「このスットコドッコイ!!」というようなあたりか。

 この一連の神話で、スセリビメは、オホクニヌシがスサノヲから与えられた試練を克服するための協力者として描かれているのだけれど、そういえばヤマタノヲロチの神話でも、スサノヲの妻となったクシナダヒメも櫛に変化(へんげ)して、神話の解釈としてはどうやらスサノヲの戦闘能力ないしは霊力を加護した形となっていた。
 そしてオホクニヌシの協力者といえば、根の国から生還したオホクニヌシの国づくりのための新たな協力者として、しばしスクナビコナが登場する次第となる。

○ かくして根の国から帰還する際、オホクニヌシは〈黄泉比良坂〉を通過した。その坂の名は、現在島根県松江市の東出雲町揖屋に残されている。そして今では伯耆の国と地続きとなった、夜見嶋(夜見ヶ浜・弓ヶ浜)に近い、鳥取県西伯郡大山町の唐王(とうのう)725にスセリビメを祀る〈唐王・松籬神社〉がある。口碑等による伝承では、「唐王神社(とうのうじんじゃ)」境内に、夜見の国からこの地に鎮座したスセリビメの御陵があるとする。

The End of Takechan

――『大山町誌』にある「唐王松籬神社」の記述をここに記録しておこう。

唐王松籬神社 (大山町唐王字村屋敷七二五番地)

祭 神 須勢理毘売命、菅原道眞命
例祭日 四月二十五日  氏子部落 唐王
由 緒 創立年月は不詳、須勢理毘売命は昔から唐王御前神といい、庶民の信仰が深く、他に異なった古い神社である。神社の言い伝えによれば、須勢理毘売命は大国主大神と共に夜見の国から帰り、土地を引きよせて、農事を開発し、医療の道を広めて患者を救い、神呪の法をもって世を治められ、その功績は大変大きなものであった。
 大国主大神はながく日隅宮(出雲大社)に鎮座され、須勢理毘売命はこの地に鎮座されたといい、古くは毎年出雲大社から祭官が参向されたということである。字御前畑という所の西側に、井屋敷という御手洗の井泉がある。今、民家の邸内になっているが、汚れのある者がこの水をくむと、すぐ濁り、社前の砂を投げ入れて清めると、自然に清水になるという。また、この神井の水はどんな干ばつにも乾いたことがなく、毒虫にさされたときには、いち早くこの神水を塗るとすぐ治ると言われている。
 したがって、神験もあらたかで、害虫、毒虫、まむしよけの守護神として、人々は玉垣内の砂をいただいて帰り、田畑にまいて害虫よけ、家屋敷にまいて毒虫よけにしている。
 この地は、須勢理毘売命を葬ったところと伝えられ、本殿の下に一間四方余りの玉垣があり、その中に高さ五尺ばかりの古い石碑がある。菅原道眞命は元一宮神社の摂社であったが、明治元年十月神社改正のとき、唐王神社の境内に移転し、松籬神社と言っていたのを明治四十二年、唐王神社に合祀された唐王松籬神社となった。
〔『大山町誌』(pp. 986-987)


▲ 上記引用文の農事を開発し、医療の道を広めて患者を救い、神呪の法をもって世を治められというスセリビメにかかわる記述は、日本書紀の一書に語られた、オホクニヌシとスクナビコナが国造りに際して行なった共同作業の内容に近い。―― 訓み下し文で、以下に採録する。

夫の大己貴命と、少彦名命と、力を戮せ心を一にして、天下を経営る。
復顕見蒼生及び畜産の為は、其の病を療むる方を定む。
又、鳥獣・昆虫の災異を攘はむが為は、其の禁厭むる法を定む。
是を以て、百姓、今に至るまでに、咸に恩頼を蒙れり。
嘗、大己貴命、少彦名命に謂りて曰はく、「吾等が所造る国、豈善く成せりと謂はむや」とのたまふ。
少彦名命対へて曰はく、「或は成せる所も有り。或は成らざるところも有り」とのたまふ。
是の談、蓋し幽深き致有らし。
其の後に、少彦名命、行きて熊野の御碕に至りて、遂に常世郷に適しぬ。
亦曰はく、淡嶋に至りて、粟茎に縁りしかば、弾かれ渡りまして常世郷に至りましきといふ。
自後、国の中に未だ成らざる所をば、大己貴神、独能く巡り造る。

(かのおほあなむちのみことと、すくなびこなのみことと、ちからをあはせこころをひとつにして、あめのしたをつくる。
またうつしきあをひとくさおよびけもののためは、そのやまひををさむるみちをさだむ。
また、とりけだもの・はふむしのわざはひをはらはむがためは、そのまじなひやむるのりをさだむ。
ここをもて、おほみたから、いまにいたるまでに、ことごとくにみたまのふゆをかがふれり。
むかし、おほあなむちのみこと、すくなびこなのみことにかたりてのたまはく、「われらがつくれるくに、あによくなせりといはむや」とのたまふ。
すくなびこなのみことこたへてのたまはく、「あるはなせるところもあり。あるはならざるところもあり」とのたまふ。
このものかたりごと、けだしふかきむねあらし。
そののちに、すくなびこなのみこと、ゆきてくまののみさきにいたりて、つひにとこよのくににいでましぬ。
またいはく、あはのしまにいたりて、あはがらにのぼりしかば、はじかれわたりましてとこよのくににいたりましきといふ。これよりのち、くにのなかにいまだならざるところをば、おほあなむちのかみ、ひとりよくめぐりつくる。)
〔岩波文庫『日本書紀』(一)(pp. 102-104)、日本古典文学大系『日本書紀 上』(pp. 128-129)

 この箇所の叙述は印象に残るものがある。日本書紀の記録者の想いはどのようであったろうか。
―― 昔、オホナムチがスクナビコナに訊いたという。
「なあ、俺たちうまくやれたかなあ」
「さあて。うまくやれたこともありゃ、そうでもないところもあるだろうさ。それなりには、せいいっぱいやったさ」と、そう応えたあと、いつかスクナビコナは、常世の国に去った。

▽ スサノヲは、日本書紀の一書に新羅を経由した渡来神のように描かれていた。またその子イタケルは「釈日本紀」で〈伊太祁曾神(イタキソノカミ)〉に同一だという説が示されており、江戸中期の新井白石も同様に語っている。

 すなわち、五十猛神(いたけるのかみ)は、『釈日本紀』に「先師說曰。伊太祁曾神者。五十猛神也。」とある。
 同じく、新井白石の書に「按ずるに五十猛讀でイタケといふべし神名式出雲國の韓國伊太氐[カラクニイタテ]神社紀伊國の伊太祁曾[イタキソ]神社並に皆此神を祭れる也 イタケ。イタテ。イタキ。皆是一聲の轉ぜし也。」と、述べられている。

 出雲国風土記には明記されてないけれど、渡来神である〈イタテ〉の神も、「延喜式」を見れば丹波国などでは〝伊達神社〟その他の表記が用いられ、また出雲国には〝韓国伊太氐神社〟として複数の記載がある。

◎ 草木の種を日本に伝えたあと紀伊国に鎮座したイタケルは渡来神〈伊太氐〉の神に通じ、またいっぽうで、スサノヲの娘にしてオホクニヌシの妻スセリビメに、〈唐王御前〉の名が伝承される。
―― 伯耆の国と出雲の国が交差する地点には、新羅の国ばかりでなく、高句麗の文化につながる遺跡も多い。
 〈孝霊山〉は〈高麗山〉なのだともいう。


Google サイト で、本日、もう少し詳しい内容のものを公開しました。

オホクニヌシの帰還 : 夜見嶋(よみのしま)
https://sites.google.com/view/emergence2/tsuge/yomi-shima

バックアップ・ページでは、パソコン用に見た目のわかりやすいレイアウトを工夫しています。

オホクニヌシの帰還 / 夜見ヶ嶋 バックアップ・ページ
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