2019年1月18日金曜日

神魂の神 / 赤猪の神話

◎ 鳥取県の大山(だいせん)の火山活動が、コンパクトにまとめられた一節に、約 3000 年前の溶岩の記述がある。

『鳥取県農業と土壌肥料』

 Ⅱ 鳥取県の自然と土壌

1. 気候、地形、地質(元鳥取大学農学部 飯村康二)
 現在最も古い溶岩として側火山の鍔抜山で 0.96 ± 0.03 Ma という K-Ar 年代が得られており、同じく側火山の孝霊山では 0.30 ± 0.03 Ma が得られている。また最も新しいとされる弥山火砕流中の炭化木片について 17.2 ± 0.2 千年前という 14 C 年代が得られている。
〔鳥取県土壌肥料研究会/発行『鳥取県農業と土壌肥料』(p. 16)

―― 国立研究開発法人産業技術総合研究所「地質調査総合センター (GSJ)」の公式ページ
日本の火山(https://gbank.gsj.jp/volcano/) 内の  volcano ― Daisen
にも、およそ 3000 年前とされている火砕流噴火の記録が補足事項として掲載されている。

火山の概要・補足事項:
奥野・井上(2012、連合大会予稿集)によって、約3000年前の火砕流噴火(噴出火口は烏ヶ山と弥山の中間付近か?)が指摘されている。
(URL : https://gbank.gsj.jp/volcano/Quat_Vol/volcano_data/H17.html )


○ 上記報告の記録に、PDF で一般公開されている内容があるので、そこから抜粋すれば次のごとくとなる。

Japan Geoscience Union Meeting 2012
(May 20-25 2012 at Makuhari, Chiba, Japan)

大山火山の完新世噴火
Holocene Eruptions in Daisen Volcano, Western Japan
奥野充、井上剛(福岡大学理学部)
 …………
地点 1 の炭化木片から 3110 ± 60 BP が、地点 2 の火山灰層直下の土壌からは 3290 ± 40 BP の 14 C 年代が得られた。両者の年代値はほぼ一致しており、火砕流とその降下テフラであると考えられる。この火砕物の給源は、火砕流地形の分布から烏ケ山と弥山の中間付近である可能性が高い。なお、本研究の AMS 14 C 年代の測定は、(独)日本原子力研究開発機構の施設供用制度を利用したものである。
(URL : http://www2.jpgu.org/meeting/2012/session/PDF_all/S-VC53/SVC53_all.pdf )

◎ この〝約 3000 年前とされている大山の火砕物〟は、人類の記憶として刻まれているのだろうか?

The End of Takechan

いわゆる〝赤猪の神話〟の物語が、古事記に記録されている。
 この〝赤猪の神話〟がテーマとなった、青木繁の作品「大穴牟知命」(石橋美術館蔵、1905 年)のことは、前回の最後にも触れた。

 この神話でオホクニヌシの名は、オホナムヂと記されているのだけれど、八十神の下っ端扱いを受けていた彼はその直前の物語〝因幡の白兎〟の展開で、八十神の怒りを買うこととなった。そして〝赤猪の神話〟で八十神はオホナムヂの抹殺をたくらみ、赤く焼けた大石を大山のふもとに落としてそれをオホナムヂに受けとめさせ殺害に成功するのである、が ……。ところがどっこい、さすがは神話の世界! 母神の要請を受けた天上の介入によりオホナムヂはたちどころに生き返ってしまうのだった。
 すっとこどっこいとばかりにその後もオホナムヂは八十神に殺されては生き返りを繰り返したあげく、こともあろうについには生きたまま根の国に逃亡することとなる。
―― そのオホナムヂ最初の復活劇に絡むのが、カミムスヒに派遣されたキサガヒヒメとウムギヒメなのだ。

○ 出雲国風土記に描かれた〈神魂命〉の子〈支佐加比売命〉と〈宇武加比売命〉の説話をこれも、前回に確認した〔「出雲国風土記」嶋根郡(加賀郷・ 法吉郷)参照〕。カミムスヒは、カモスの神と同一であるとされているのだけれども、古事記では、それらの神々は上記のシーンに登場することとなる。

○ 伯耆大山の地元鳥取県内の自治体から 1975 年に発行された『西伯町誌』に〝赤猪の神話〟の項があり、その記述内容の一部には『伯耆志』からの引用文がある。
――『伯耆志』は幕末の頃に書かれた地誌である。なお安政五年 (1858) の完成であるともいわれる『伯耆志』の編集者、景山粛(字は雍卿・号は仙嶽・通称は立碩)は、安永三年 (1774) に生まれ、文久二年 (1862) に没したと伝えられる。

『西伯町誌』

第二編 歴史「第一章 原始・古代の社会」

赤猪の神話  神話は事実そのものではない、郷土の神話には古事記と旧事本紀に取りあげられた「手間の赤猪」があり、その内容は史実そのものではない。しかしそれは全然仮空といってよいものか、解釈はどうあろうとも古事記などには「そのように書かねばならない」理由があり素材があったとみねばならない。又古事記の編集された奈良時代以前にその素材ができていたことも疑いない。その上赤猪神話の場が「伯耆国の手間の山本」とあることにも注目せねばならぬ。八世紀以前に郷土に「書かねばならぬ理由と素材」のあったことも無視できない。手間とはいうまでもなく隣町会見町の旧郷名であり、赤猪神話の伝承地が本町の清水川にもあることは重視せねばならぬ。
…………
 (清水川の伝説)伯耆志に次のようにかいているから幕末にも伝説はのこっていたとみていい。

 「清水川村、おば御前、社はないが村の中の山につゞいた小さな林の名である。昔は社もあったか、「きさがいひめ」「うむがいひめ」を祭るという伝説は次のようである、泉があるがそれはおば御前の隣で人家に近く、周り五間ばかりの浅い井である。上に椋の木ありこの村の名はこの泉によってできた。土地の人々の話では「きさがいひめ」「うむがひめ」が「おおなむちのみこと」を蘇生させ給いし時あの貝の粉を此水に和して塗られたという。この話を知らないものも名水とたたえるのはもともと神話の地だからである。水の色が少し白味をおびていて蛤水に似ている。この話は古事記にある。一説ではこの水でねったのでなく蛤の水の余りを捨てたのがこゝの井だという。百日の旱魃にもかれることがない、その故に隣に「おばごぜん」を祭るのである。ああ、一掬してみると大古の事がしのばれる。美しく、不思議なことであるのに、村民は便利にまかせて洗いものに使っている歎げかわしい」と。
〔『西伯町誌』(pp. 48-49)

◎ この伝承が〝約 3000 年前とされている大山の火砕物〟の、人類の記憶であるとしても、検証は不可能だ。

The End of Takechan

〈カモス〉と〈ヘモス〉


 出雲の〈カモス〉を含めて朝鮮語の日本語への影響はさまざまな文献で指摘されている。
 次に見る全浩天氏の『キトラ古墳とその時代』は、〝朝鮮半島と古代出雲〟の関係性について「高句麗と新羅の東海に開かれた古代出雲の表玄関である美保関」とも述べられているのだけれど、〝神魂神社とカモス神〟について考察された個所を今回、ここで引用しておきたい。

○ 日本語の〝〟は朝鮮語の〝カムカル〟と音韻が通じるのだし、また日本語の〝〟は朝鮮語の〝コモ〟であったのだろう。このことと、当時は〈カモス〉と訓まれていた「解慕漱」の語の、朝鮮半島での現在の発音が〈ヘモス〉に変化したのだとする説は、矛盾しない。これも有力な仮説のひとつと思われる。

『キトラ古墳とその時代』

Ⅴ 古代出雲と妻木晩田遺跡
 3 古代出雲にみる朝鮮文化の重層 ―― 高句麗と新羅関係を中心にして ――

 一 神魂神社とカモス神
 古代出雲における新羅と高句麗文化の累積・重層化をさぐるために、出雲東部の意宇郡・大庭にある神魂[かもす]神社とカモス神を従来の理解から離れて検証する必要がある。というは、高句麗からの神話・信仰を基底に敷くものと解釈するからである。
 神魂神社のカモス神については、これまでさまざまな見解が加えられてきたが、そのカモス神とは一体何であるのだろうか。
 神魂神を『古事記』では神産巣日[かみむすび]神、『書紀』では神皇産霊尊としてカミムスビと仮名をふって訓[よ]んでいるが、神魂神のカモスはカモスであって他にならないはずである。
 門脇禎二氏は、このカモス神の「カモスの称が残りつづけたのは、朝鮮に発したコモスの始祖霊信仰によるとみられる(1)」と興味深い理解の仕方をしめしている。能登の珠洲市に式内社として登記された古麻志比古[こましひこ]神社がある。この神社については、神社名の古麻志比古から高麗(コマ)・魂(シ)・彦とみて、高句麗系渡来人の神社とみる解釈があった。
 ところが門脇氏は、古麻志比古神社の本来の祭神は、日子座王[ひこますおう]命であるから、祭神じたいをより重視すれば問題が残ってくるとして、「古麻志のコマは、コモ(熊)が呪術と修業によって天神の子を生むという朝鮮の平壌地方にあった呪術的な民間信仰のひとつでコモ(熊)・ス(霊)であった」という説をとりいれ、このコモ・スが神魂(カモス)信仰として出雲神話にみえるカモス信仰へと発達し、こうした始祖霊信仰が、つぎの始祖的人格信仰の前提、例えば彦坐王信仰になると解釈した。つまり、能登の古麻志比古神社の原像や出雲の神魂神社の原像を、「朝鮮の土着的な呪術信仰」にもとづくカモス(シ)信仰に求めたのであった。
 筆者はカモス神と神魂神社の原像を「朝鮮の土着的な呪術信仰」に求めるのではなく、すでに修飾化され、人間化された始祖的な人格信仰として、高句麗建国神話に登場してくる天帝の子・解慕漱(朝鮮語ではヘモス)から由来していると解釈している。解慕漱[ヘモス]とは言うまでもなく『旧三国史』や『三国史記』が伝えているように河伯の娘・柳花と結ばれた「天帝子」である。その天帝の子が高句麗始祖王の朱蒙である。
 『三国史記(2)』と『三国遺事(3)』が記載している解慕漱の解(ヘ)の古い読みは「カ」であるから、古代朝鮮語のように読めば解慕漱=カモスである。このカモスが出雲の神魂神社のカモス神の原像であると考える。
 柳烈氏は『三国時代の吏読についての研究』において『三国史記』と『三国遺事』に記載された解慕漱の解(ヘ)についてふれ、「『解[ヘ]』字の『ヘ』は、古い形態である『解[カ]』字の『カ』の音韻変化である(4)」と指摘している。
 このようにカモス神を理解すれば、出雲のカモス神と同時に、能登の古麻志比古神社の原像もふくめて高句麗的性格が解明されるのではないだろうか。
 カモス神は出雲国の本拠地である意宇の地にあって、この地の「土着信仰のカモス神」として根強かったが、本来の姿は高句麗渡来のカモス神であった。ところで意宇平野の元来の地主神・農業神は熊野大神であったが、出雲東部の政治経済的発展にともなって、より政治的なカモス神として生みだされていったものと思われる。門脇禎二氏が指摘しているように、畿内大和朝廷による出雲最初の支配者、すなわち最初の国司である忌部首小首[いんべのおびとこおびと]が、自らの祖先神とカモス神を結びつけて崇拝したものと思われる。こうして神魂神社は出雲国造の館におかれるようになった。
 カモス神が高句麗神話から創出された出雲在地の信仰であるとすれば、当然のことながら、それをもたらした高句麗からの直接の渡来か、出雲と朝鮮、この場合は日本海を介しての対岸交流の結果によるものであろう。この高句麗からの渡来と交流をより直截的に証しうるのは、考古学上の遺物・遺跡であろう。
 この点で注目されるのは、出雲意宇の東部の安来平野であるが、この地域の横穴古墳から「高麗剣」とよばれる双竜環頭大刀などが出土して高句麗系移民の来着をうかがわせる。

(1) 門脇禎二『日本海域の古代史』 東京大学出版会 一〇一~二頁。
(2) 『三国史記』巻一三 高句麗本紀 『始祖東明聖王 姓高氏 諱朱蒙』「自称天帝子解慕漱」。
(3) 『三国遺事』紀異第一 古朝鮮「以唐高即位五十年庚寅」紀異第二 高句麗「解慕漱私洞伯之女而後産朱蒙」。
(4) 柳烈『三国時代の吏読について』平壌 科学・百科事典出版社 二〇九~一〇頁。
〔全浩天/著『キトラ古墳とその時代』(pp. 223-225)


 次回は、〝カガミの舟に乗って〟やって来たという、スクナビコナの記録を参照する予定なのだが、古事記でスクナビコナは、カミムスヒの子とされている。
 食物の種を蒔き歩くスクナビコナは、各地の風土記にも多数の記録が残されている。―― スクナビコナのこの全国的展開はすなわち古事記の伝によれば、親が回収した〝五穀の種〟を、子が蒔くというシチュエーションなのであるが、ただしそれとは異なって、日本書紀ではスクナビコナはタカミムスヒの子と伝承される。
 一般に、カミムスヒは出雲系の神話に登場するので出雲神話の神とみなされているのだけれど、いっぽうでタカミムスヒは出雲系の神話以降もしばしば描かれており継続して天神の中心的役割が与えられるという、それぞれの立場の相違がある。

 スクナビコナを、古事記がカミムスヒの子としたのも、日本書紀がタカミムスヒの子としたのも、いずれもそれなりの理由に基づいて記録されたに違いないとは推察できるけれども、さてどのような事情が絡んでいたのだろうか、もはや、知るすべはないようだ。


Google サイト で、本日、もう少し詳しい内容のものを公開しました。

神魂(カモス)の神 / 赤猪の神話
https://sites.google.com/view/emergence2/tsuge/kamosu

バックアップ・ページでは、パソコン用に見た目のわかりやすいレイアウトを工夫しています。

神魂(カモス)の神 / 赤猪の神話 バックアップ・ページ
http://theendoftakechan.web.fc2.com/eII/tsurugi/kamosu.html

2019年1月9日水曜日

加賀の郷 / 三穂の埼

―― 日本海文化の交流という視点から
 古代の出雲と高志(越の国)とは文化的な交流があったことが「出雲国風土記」から読み取ることができた
「トリカミの峰 / ヒノカハの上」のページ 参照 )
https://sites.google.com/view/theendoftakechan/worochi/torikami

 特記すべき事項として「出雲国風土記」の嶋根郡には、天の下造らしし大神の命、高志の國に坐す神、意支都久辰爲命のみ子、俾都久辰爲命のみ子、奴奈宜波比賣命にみ娶ひまして、産みましし神、御穗須須美命、是の神坐す。故、美保といふ。の記述が見える。

 この「出雲国風土記」の記述は、古事記にある「此の八千矛の神、高志の國の沼河比賣を婚はむとして」云々の、原形となった説話であろうと思われる。

○ 八千戈神(やちほこのかみ:大国主神すなわち大穴持命)が、〈高志國之沼河比賣〉に言い寄るシーンが、古事記に描かれていた。日本古典文学大系 1『古事記 祝詞』によって原文を改めて確認しよう。

「大国主神 4 沼河比売求婚」

[原文]
 此八千矛神、將婚高志國之沼河比賣、幸行之時、到其沼河比賣之家、歌曰、
[訓み下し文]
 此の八千矛の神、高志の國の沼河比賣を婚はむとして、幸行でましし時、其の沼河比賣の家に到りて、歌ひたまひしく、
(このやちほこのかみ、こしのくにのぬなかはひめをよばはむとして、いでまししとき、そのぬなかはひめのいえにいたりて、うたひたまひしく、)
〔日本古典文学大系 1『古事記 祝詞』 (pp. 100-101)

○ 一方で、出雲国風土記の嶋根郡の地名起源譚で語られていたのは、次の内容だった。

「出雲國風土記」嶋根郡

[原文]
 美保鄕 郡家正東廾七里一百六十四歩 所造天下大神命 娶高志國坐神 意支都久辰爲命子 俾都久辰爲命子 奴奈宜波比賣命而 令産神 御穗須須美命 是神坐矣 故云美保
[訓み下し文]
 美保の鄕 郡家の正東廾七里一百六十四歩なり。天の下造らしし大神の命、高志の國に坐す神、意支都久辰爲命のみ子、俾都久辰爲命のみ子、奴奈宜波比賣命にみ娶ひまして、産みましし神、御穂須須美命、是の神坐す。故、美保といふ。
(みほのさと こほりのみやけのまひむがし27さと164あしなり。あめのしたつくらししおほかみのみこと、こしのくににいますかみ、おきつくしゐのみことのみこ、へつくしゐのみことのみこ、ぬながはひめのみことにみあひまして、うみまししかみ、みほすすみのみこと、このかみいます。かれ、みほといふ。)
(頭注)
美保鄕 島根半島の最東部。美保関町、森山附近以東にあたるのであろう。
意支都久辰爲命 クシヰはクシビ(霊)の音訛か。遠(おきつ)近(へつ)に分けて父子の二神の名としたもの。
奴奈宜波比賣命 古事記に大国主命が婚した越の沼河比売とある女神に同じ。
御穂須須美命 下の美保社に鎮座。
〔日本古典文学大系 2『風土記』 (pp. 126-127)

◎ 美保神社ゆかりの美保関(みほのせき)近辺の地名譚には、さらに注目すべき記述がある。


「出雲國風土記」嶋根郡 : 加賀鄕 / 法吉鄕


加賀の鄕 郡家の北西のかた廾四里一百六十歩なり。佐太の大神の生れまししところなり。御祖、神魂命の御子、支佐加比賣命、「闇き岩屋なるかも」と詔りたまひて、金弓もちて射給ふ時に、光加加明きき。故、加加といふ。〔神龜三年、字を加賀と改む。〕
(かがのさと こほりのみやけのいぬゐのかた24さと160あしなり。さだのおほかみのあれまししところなり。みおや、かむむすびのみことのみこ、きさかひめのみこと、「くらきいはやなるかも」とのりたまひて、かなゆみもちていたまふときに、ひかりかがやきき。かれ、かがといふ。〔じんきさんねん、じをかがとあらたむ。〕)

法吉の鄕 郡家の正西一十四里二百卅歩なり。神魂命の御子、宇武加比賣命、法吉鳥と化りて飛び度り、此處に靜まり坐しき。故、法吉といふ。
(ほほきのさと こほりのみやけのまにし14さと230あしなり。かむむすびのみことのみこ、うむかひめのみこと、ほほきどりとなりてとびわたり、ここにしづまりましき。かれ、ほほきといふ。)
〔日本古典文学大系 2『風土記』 (pp. 126-129)

―― ここに、訓み下し文を抜粋した個所は〈神魂命〉の子、〈支佐加比売命〉〈宇武加比売命〉の説話である。これらの神々は、古事記の物語の一部にも組み込まれているのだが、説話の成立としては、古事記よりも出雲国風土記のほうが先ではないかと予想される。なぜなら、推察するに、地方の文献があえて中央で語られた内容と異なるシチュエーションで神々を語るというのは、古来それぞれの土地に伝承されてきた神話そのものだったからなのだろう。土地の伝承を語るうえで、中央政府の都合に迎合する理由がなかったからだと思われるのである。

 ところで、

『出雲国風土記註論』(嶋根郡・巻末条)

では、

 まだ一例に過ぎないがかつてこの地域を「みほ」ではなく「副良」と呼んでいた事実は重要である。…… どちらにしても注目すべきは「みほ」の地名が前面に登場したことである。そこに『古事記』『日本書紀』の大国主神の国造り、国譲り神話の影響を読み取ることが出来る。
〔関和彦/執筆『出雲国風土記註論』(嶋根郡・巻末条) (p. 15)

と逆向きの影響が語られているけれど、この影響というのは、いつの時代に発生した影響なのであろうか。考察のヒントとしては、その直前の説明において、

 『出雲国風土記』が「今も前に依りて用ゐる」としたのは『播磨国風土記』が言及する「庚寅年(六九〇年)」における郷名変更を意識したものであろう。すなわち「美保郷」の古名は藤原京時代の六九〇年までは「副良里」であり、同年に「美保里」と改名され『出雲国風土記』編纂段階では「前に依り」、「美保」の名を継承したというのである。
〔関和彦/執筆『出雲国風土記註論』(嶋根郡・巻末条) (p. 13) 〕

と、されているのが参考となろう。690 年には古事記 (712) も日本書紀 (720) も、成立していないことは明らかで、藤原京時代の 690 年に「美保里」と改名された当時には、古事記と日本書紀の影響を受けていないことは、歴史時間を考えれば明白なのである。可能性として、その後に古事記と日本書紀に記録されることとなった神話の影響は、それ以前にあったかも知れないけれども。―― さらには。出雲国風土記が中央政府をおもんばかって朝鮮半島との関係性(親和性)を前面に出していないという説は、各種文献で説得力をもって語られているけれども。
 関和彦氏により『出雲国風土記註論』で論じられた解釈では、出雲国風土記が中央の神話の影響を受けて、その土地に伝承されてきた神話の地名を安易に改竄したということになってしまう。

 国引き神話で國來々々と引き來縫へる國は、三穗の埼なりと、高らかに宣言されているではないか。
 この神話が、中央政府の影響を受けた結果だとする説には、賛同できかねる。

堅め立てし加志は、伯耆の國なる火神岳、是なり。


 鳥取県内、伯耆大山の山麓が舞台となって展開する古事記に記録された物語は、〝赤猪の神話〟として絵本にもなっているけれども、有名なところでは、日本神話をテーマとした洋画家青木繁の作品「大穴牟知命」(石橋美術館蔵、1905 年)がある。


Google サイト で、本日、もう少し詳しい内容のものを公開しました。

加賀の郷 / 三穂の埼
https://sites.google.com/view/emergence2/tsuge/miho

バックアップ・ページでは、パソコン用に見た目のわかりやすいレイアウトを工夫しています。

加賀の郷 / 三穂の埼 バックアップ・ページ
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