2017年1月28日土曜日

〝フロギストン〟と〝カロリック〟と「熱量保存則」

フロギストン〟は〈燃素〉と
カロリック〟は〈熱素〉と、
日本語では、そう区別できるようです。

ラボアジエは、「物質の燃焼」を
――つまりモノが燃えるということは――
それまで流布していた〝フロギストン〟の放出ではなく、
モノと〈酸素〉との化学的な結合によるものである、
と、化学実験により、証明しました。
それは化学の曙、「質量保存則」の誕生でした。

〝カロリック (calorique = caloric) 〟というのは、
そのラボアジエが提唱した、新しい〝元素〟の一種です。

 1789 年の著書 『化学原論』 では、〈光〉や〈熱素 (calorique) 〉などが、元素とされています。
 つまり、ラボアジエは、〈熱〉を〈エネルギー〉ではなく〈物質〉だと、考えていたようです。
 すると、どうやら、〝フロギストン〟じゃなくて〝カロリック〟が、放出されるもようとなります。

 それ以前のこと。ラボアジエは 1783 年に、あのラプラスと共同研究を発表しています。
 〈ラプラスの魔〉で有名な、ラプラスです。
 それゆえに、ラプラスが科学に「不要」としたのは『聖書』の《神》です、が……
 神のごとき皇帝であるナポレオンに面とむかって、
すでに神という仮説は不要となった」と、いってのけた伝説をもつ、あのラプラスです。

 山本義隆氏の 『熱学思想の史的展開』 によれば、ラプラスの、熱量に対しての態度は、次のようであったとされています。

 ラプラス自身の熱にたいする見解について、これまでの多くの歴史書ではラプラスを単純に熱運動論者と捉えている。しかしフォックスは、すくなくとも 1803 年以降はラプラスが熱物質論に転向したとしている。実際ラプラスは、19 世紀に入ってからは熱素説の強力な学派を形成し領導するようになった。
〔ちくま学芸文庫『熱学思想の史的展開 2』 (p.24)

 ですから、ラボアジエとラプラスの共同研究では、熱が物質かそれともエネルギー(物質の運動)かという問題は深く問われず、どちらであっても通用する〈原理〉を採用することになりました。
 それが、「熱量保存則」です。
 ラボアジエは、実は「質量保存則」と「熱量保存則」のふたつを残して、世紀末に散ったのでした。
 その後の半世紀にわたって、〈熱〉が〈エネルギー〉じゃなく〈物質〉だという考えは、権威筋の信じるところとなります。

2017年1月26日木曜日

イギリス産業革命と『国富論』

the United Kingdom  ( of Great Britain and Northern Ireland )

1603 年、スコットランド国王ジェームズ 6 世が、イングランド国王ジェームズ 1 世として、その統治を開始しました。
 「グレート・ブリテン」というのは、その時代の「同君連合」と基本的には、同じ領域を指すように思われます。ジェームズ 1 世は、また、現在のイギリス国旗「ユニオンジャック」の原案を作った国王であることでも、知られています。
 その後、イングランドとスコットランドは清教徒革命と王政復古を経て、科学革命の時代へと移行していきます。
 1660 年の王政復古と同じ年が、ロンドン王立協会 (Royal Society of London) 設立の年とされています。
 1707 年には、イングランドとスコットランドは「合邦」して、ひとつの国となります。
 その世紀に、イギリス産業革命が興ります。
 蒸気機関で有名なジェームズ・ワット (〝ウォット〟のほうがもとの発音に近いといわれます) の生没年は、1736 ~ 1819 年で、その友人といわれる『国富論』の著者アダム・スミスは、1723 ~ 1790 年です。
 両者ともに、スコットランドの生まれで、当時は、イングランドよりもスコットランドのほうが学問的なレベルは、高かったともいわれています。
 ちなみに、百科事典『ブリタニカ』は、その当時に、スコットランドのエディンバラで初版が刊行されています。以前に調べた資料から、引用させていただきますれば――。

『ブリタニカ』 のアザミ
 エディンバラで、1768 年から 71 年にかけて刊行された百科事典『ブリタニカ』(初版は全 3 巻)は、スコットランドにおける学問研究のひとつの成果として、フランスの百科全書にも並ぶものであった。20 世紀には版権がアメリカ合衆国ヘ移るが、「スコットランド生まれ」を記念するアザミのデザインは、その後も長く表紙を飾り続けた。
図説『イギリスの歴史』増補新版 (p.134)

 そして、ワットのもうひとりの友人であった、ジョゼフ・ブラック( 1728 ~ 1799 年)は、熱理論の基礎を作りました。
 ところで、近代化学の父とは、フランス革命で処刑されたラボアジエをいいますが、化学革命はそのラボアジエによって始められたものをさすようです。――その最初期 1750 年代のなかばに、ブラックは二酸化炭素=炭酸ガスを発見しています。
 ブラックは、アイルランド人で、エディンバラ大学に学び、医学の学位論文のための実験で発見した気体(炭酸ガス)を固定空気と名づけました。

 アダム・スミスの遺稿を出版したグループのひとりは、ブラックなのですが、そのスミスの『国富論』は、1776 年の刊行で、それはアメリカが、独立宣言を行なった年です。
 「潜熱」という概念は、ブラックによりますが、ワットも、蒸気機関の研究のなかで独自にそれを発見していました。
 ブラックとワットという、化学と技術のふたりの巨頭と友人関係だったにしては、イギリス産業革命の機械化の波はさほど、スミスの『国富論』には反映されていないようです。
 ワットの蒸気機関が、回転型エンジンとして出現したのは、1782 年とされています。
 それは、中ぐり盤によるシリンダーの精密加工でワットの蒸気機関の精度にも貢献した、ウィルキンソンの工場に納入されたのでした。
 1783 年に蒸気船、1800 年代になって蒸気機関車が、登場することになります。
 最初に、高圧蒸気機関を搭載した自動車が走ったのは、1801 年のことでした。


駆動力としての ワットの蒸気エンジン
http://theendoftakechan.web.fc2.com/sStage/entropy/Watt.html

2017年1月23日月曜日

マクデブルクの半球実験

 マクデブルクの市長であったゲーリケが自分の発明した真空ポンプによって空気の圧力の効果を示すために行った実験の一つ。………… これについて一六五四年にレーゲンスブルクで皇帝や諸侯を前に行われたといわれることが多いが、誤りである。五七年にマクデブルクで初めて行われ、のち六三年にベルリンの王宮でも再現された。七二年に出版された著書『真空に関するマクデブルクの新実験』のなかに本人の報告がある。それによれば、八頭ずつ二組のウマで反対方向に引いたが、引き離すことが困難であり、ようやく離れたときには銃声のような大きな音がした。
〔高田紀代志「マクデブルクの半球実験」『日本大百科全書』 21 (p.837)

 この衝撃的な実験に関する伝承は、さまざまにあって、そのとき選んだ資料によっては、歴史的な事実も異なってくるかも知れません。
 ふたつの実験が具体的に詳しく記載されている文献には、次のように書かれていました。
 途中を省略せずに、引用させていただきます、と。

「マグデブルグの半球」とは、空気の圧力がいかに巨大なものであるかをアピールするために工夫された半球のことで、ドイツのガリレイと呼ばれたオットー・フォン・ゲーリケが行った公開実験で使われたものである。一六五四年、当時マグデブルグ市の市長も務めていたゲーリケは、神聖ローマ帝国の皇帝フェルディナンド三世を招いて、次のようなパフォーマンスを行った。
 まず、直径一メートルくらいの大きな注射器の格好をして、ぴったりと接しあうシリンダーとピストンを用意した。ピストンにはロープをつないで人が引っ張れるようにしておき、一人でも簡単にシリンダーからピストンが抜き出せることを見せておく。そしておもむろに、ゲーリケ本人が発明した空気ポンプで、シリンダーに取り付けた栓から空気を抜いていった。すると、ピストンがシリンダー内部に引き込まれていくではないか。そこで、見物していた人々に、ピストンを引っ張って固定するように頼んだのだが、どんどん空気を抜いていくと、五〇人が一生懸命にロープを引っ張ってもシリンダーの中に押し込まれていった。この実験で、まず、空気の圧力の巨大さを人々に実感させたのだ。
 次に、もっとびっくりするような実験に取り掛かった。縁に油を塗ってぴったり接合するようにした鋼製で中空の半球を二個取り出した。その大きさは直径三七センチくらいである。密着させた後、一方の半球に付けた栓から空気ポンプで中の空気を抜いていった。そして、この二個の半球の各々に付けた環にロープを結わえ、左右八頭ずつの馬に引っ張らせた。ところが、一六頭の馬が全力で引っ張り合ったにも拘わらず、二個の半球を引き離すことができなかったのだ。そこで、馬の数を増やしていっそう大きな力を掛けると、ようやく引き離すことができたが、そのとき大砲を撃ったときのようなものすごい音がした。後者の実験が、ゲーリケ自身の記述によるマグデブルグの半球物語なのである。
 〔池内了『天文学者の虫眼鏡』 (pp.17-18)

 つまり、ゲーリケ本人が書いた著作物に、「マクデブルクの半球実験」のことは、報告されているようです。その実験の年が、一般的多数派としては、1654 年ということになっているけれども、云々……というのが、冒頭の資料の内容となります。
 結局ここで確実だろうと推測できるのは、ゲーリケ本人が「マクデブルクの半球実験」についての記録を残している、ということです。
 1654 年には、似たようなそのほかの実験が行なわれたかも知れません。
 1654 年に、何が行なわれなかったかについての、記載は、冒頭の文中に見えるだけです。おそらくは、その主張が正解なのでしょうが。
 それ以上は現在のところ、当面の資料では、未確認ということになりまして……。
 先にも触れたように、さまざまな伝承があり、文献によっては、〈マクデブルクの半球〉のことは語られず、〈シリンダーの実験〉のことだけが記述されているものもありますよってに。

 重要なことは、ゲーリケのパフォーマンスが、国内外の多くのひとびとの興味を引いた、というあたりでしょうか。
 この衝撃から約半世紀のちには、イギリスで産業革命のための新しい動力が、開発されることになります。
 シリンダー内の蒸気を冷やすことで、真空をつくってピストンを動かすという、それまで知られていなかった莫大な大気圧の力を利用する方法が、ついに実用化されたのです。


ニューコメン機関(大気圧機関):産業革命と技術革新
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2017年1月20日金曜日

シャルルは生き延びラボアジエは処刑された

 「質量保存の法則」を導き出したラボアジエが、燃焼の理論を確立したのは 1775 年のことだという。
 1789 年にフランス革命が起こり、1794 年、ラボアジエはギロチンにかけられ死んだ。
 処刑の理由は、彼は革命以前ずっと〝徴税請負人〟として生計を立てていたからだ。
 その死を、ラグランジュは、こう語った。
彼の頭はほんの一瞬で切り落とされたが、あれほどの頭脳を新たに生み出すには 100 年あってもたりないだろうと。
 ラグランジュというのは、ラプラスのことで次のような逸話を残した人物だ。

ラプラースは、その著書をナポレオンに献呈した。ナポレオンは、彼をなぶりものにしようとしたのか、明らかな見落としを指摘した。「あなたは宇宙体系について、このように巨大な本を書かれたが、宇宙の創造者については一言もふれておられない」。ラプラースはいい返した。「閣下、私にはそのような仮説は必要ございませんでした」。ナポレオンがこれと同じことをラグランジュにくり返したとき、ラグランジュは答えた。「はい、でもそれは立派な仮説でございます。そしてとてもたくさんのことが説明されております」。
E・T・ベル/著『数学をつくった人びと Ⅰ』 (p.352)

 そのフランスでは、革命の起きる前に、水素気球の公開実験が行われていた。

1766 年にイギリス人キャベンディッシュによって発表された「可燃性空気」は、
1783 年、ラボアジエに、「水素」と命名されている。

 1783 年というのは、1776 7 4 日に〝独立宣言〟をしたアメリカが、イギリスと「パリ条約」を締結した年だ。
 イギリスがアメリカの独立を承認したその条約は、パリで結ばれたから、「パリ条約」という。

 1783 8 月、シャルルの水素気球の実験が大騒ぎの中で行なわれた。
 その見物人の中には、アメリカの独立宣言の起草者のひとりにして当時駐仏大使だった、ベンジャミン・フランクリンがいた。タコでカミナリを捕えたあのフランクリンである。

 その後のフランス革命で、1792 8 月、民衆がチュイルリー王宮を襲撃して王を投獄した。
 まさにその時、シャルルはその王宮内に泊まっていた。
 彼を発見した暴徒に殺されそうになり、シャルルは訴えた。
 ――あの輝かしい気球実験のことを。
 大衆の顔に戻った暴徒は、シャルルを殺すのをやめた。

 シャルルは、「シャルルの法則」の発見者とされるが、論文では、そのことを発表していない。その法則とは「一定圧力のもとでは、気体の体積は絶対温度に比例する」という内容だ。
 その理屈でいくと、絶対零度で、気体の体積はゼロになる。つまり、もともとは絶対零度がここから導き出された。
 その法則は、「ボイルの法則」と合わせて、「ボイル・シャルルの法則」といわれる。
 実は「ボイル・シャルルの法則」は現実の気体ではなしに、実在しない〝理想気体〟とだけ一致することがすでに確認されている。

 「シャルルの法則」を世に出したのは、ゲイ・リュサックなので、シャルルの法則は、ときに「ゲイ・リュサックの法則」ともよばれる。
 リュサックはまた「気体反応の法則」を発表した。それは〈アボガドロ数〉にまでつながっている。
 〈アボガドロ数〉とは、モル単位で数える原子や分子の数のことだ。
 正しい者が、すべてにおいて正しいわけではないし、間違った者でも、あとで正しくなることさえあるだろう。――「アボガドロの法則」は、約半世紀もの間、正統派に顧みられることのない、ただの仮説だったという。


質量保存の法則 及び シャルルの法則
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2017年1月18日水曜日

空気玉の弾く力を研究した二人のロバート

 それは熱力学の、黎明でもありました。
 当時の英国王立協会の会合は、ロバート・ボイルの自宅兼実験室で行なわれたようです。
 その場所で、ロバート・フックは、ロバート・ボイルの助手として、実験を繰り返していました。
 ちなみに、それぞれ、
ロバート・ボイル( Robert Boyle 1627 年 ~ 1691 年)
ロバート・フック( Robert Hooke 1635 年 ~ 1703 年)
でありますので、
「ボイルの法則」は「ゆでる (boil) 卵の法則」ではなく、
「フックの法則」は「かぎ針 (hook) の法則」でもなく、
いずれも、人名に由来しています。

 どちらの法則も、圧縮や弾性の力学に関わっています。
 前回にも書いたように、空気の体積と圧力とが反比例するというのが「ボイルの法則」です。
 さても。圧力釜が、自然と連想させられる名称では、ありませんか。
 そしてその成果を出すために精巧な〝真空ポンプ〟などの実験装置を作成し、助手として実験をしたのが、フックです。
 こちらは、「のびは力に比例する」というのが、「フックの法則」です。
 まったくもって、バネ秤(ばねばかり)にぶら下がっている〝フック〟を連想させるしあがりとなっています。

 フックはまた、顕微鏡を使った研究でも「細胞」という名を世に残しています。
 つまりそれまでは誰も、細胞など見たことも聞いたこともなかったわけです。
 そのあたりの研究では、顕微鏡を使って最初に微生物を観察したのは、アントニー・ファン・レーウェンフックとされています。
 ところで、以前に調べた資料を参照すれば、自然哲学者スピノザは腕のいいレンズ職人としての評判を得ていたことがうかがえます。

レーウェンフック(一六三二-一七二三)がデルフトで一六七〇年頃からかなり高倍率の顕微鏡を自作したことが、次の大きなエポックになる。レーウェンフックは、一六七三年にロンドンのロイヤル・ソサエティにその成果を書簡のかたちで伝えている。その報告が認められ、彼は一六八〇年にはロイヤル・ソサエティのメンバーになっている。このことは、ホイヘンスがフランスのアカデミーのメンバーになったこととともに、オランダ科学史のハイライトでもある。
〔塚原東吾「 17~18 世紀オランダ科学における望遠鏡・顕微鏡・科学機器」 2.一七世紀、望遠鏡から顕微鏡へ〕

 しかし、このころはまだ器具製作を専門とする業者がいたわけではない。つまり、科学器具の製作自体を専門とする業者(プロフェッション)はまだ成り立っていなかった。レンズ(顕微鏡)を売って生計を立てていたのは、ハーグ近郊フォールブルグに住んでいた哲学者スピノザと、ライデンのミュッセンブルグ一家の工房くらいであり、きわめて少数であったと考えてもよいだろう。
〔塚原東吾(同上)/『科学機器の歴史:望遠鏡と顕微鏡』所収 (p.117)

 ガリレオの望遠鏡にしろ、フックの顕微鏡にせよ、研究のためには精緻なレンズが求められます。
 スピノザは、意外なところで、近代的精神への貢献をしていたわけです。
 時代は、蒸気機関の発明を待たずして、優秀な技術者の存在なくしては成立しなくなりはじめていました。


ボイルの法則 及び フックの法則
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2017年1月16日月曜日

「パスカルの原理」は流体版「梃子の原理」

パスカルの原理と流体力学の開闢(かいびゃく)


さて、時は 17 世紀にさかのぼり、1600 年代のヨーロッパといえば、
ガリレオやデカルト、ニュートンが活躍した時代であります。
そこにはもうひとりの天才パスカルがいました。

実験装置を使って最初に「真空」を作りだしたのは、
ガリレオの弟子のトリチェリで、彼が水銀柱の上部にあらわした真空は、
「トリチェリの真空」と呼ばれたものです。

ガリレオといえば、近代科学の象徴ともいえましょうが、
彼はアリストテレスの
「自然は真空を嫌う」という教えを、継承していました。
だからなのでしょう、自然が真空を嫌う度合いに応じ、
水銀柱は 76 ㎝ まで、吸い上げられるのです。

迷信にまみれていた、その真空を理論化したのが、パスカルで、
水銀柱の高さに応じて計算される水銀の重さと、大気の重さとが、
(面積ごとの量として)釣合っているという、
当時としてはとんでもない考え方を発表したのです。

 そのパスカルの名が冠された原理が、「パスカルの原理」なわけです。
 これは、油圧ブレーキの仕組みになくてはならない原理でして、
 これがなければ、自動車も容易には止まれなくなるというものです。

 力学的な梃子(てこ)の原理は、〝支点と力点との距離〟と〝支点と作用点との距離〟の比に応じて、働きます。
 簡単にいって、棒の長さが長ければ長いほど、棒の端っこを大きく動かさなければならないのですが、その分だけ、楽に動かすことができます。
 油圧ブレーキの場合は、ブレーキを大きく踏み込む仕組みになっていればいるほど、その分だけ、楽に押すことができます。
 小さい面積を大きく踏んで、大きな面積の装置をじわじわと、作動させる仕組みになっています。

――説明しよう。「パスカルの原理」とは。
 密閉された流体の中では、その圧力は単位面積あたり、どこでも同じである。したがって、
 ブレーキを踏み込む〝力点の断面積〟と、ブレーキが実際に作動する〝作用点の断面積〟との比が、梃子の棒でいうところの距離の比となって、「パスカルの原理」が働く仕組みなのだ。
 つまりは面積がでかいと、その分、そこに働く力は大きくなる。
 これが、油圧式ではなく冗談で中に空気が入っていたりすると、途中で極端に体積が圧縮されてしまい、効くものも効かなくなる。つまり伝えたい力が伝わらなくなっちまう。
 いくら押してもあっちは動かない。力は空気にばかり、作用する破目になる。
 だから〈油圧ブレーキ〉に、〝気泡〟は厳禁なのだ。

さて。1654 年に、その理論は発表されたといいます。
そういうわけで、パスカルは、流体力学の創始者でもありました。
一方で、同時代を生きた、パスカルと同じフランス人のデカルトは、
真空の存在を信じちゃなかった派だといいます。
パスカルより少し年長なデカルトは、解析幾何学の創始者です。

大陸と海を隔てたイギリスでは、その直後に、ニュートンの力学が出現しました。

 1660 年、王政復古を果たしたイギリスで、王立協会につどう自然哲学者たちの集団が勢いを増していました。
 1661 年、その中心人物、ロバート・ボイルが会合で、気体の圧力に関する研究を報告しています。
 空気の体積と圧力とが反比例するという「ボイルの法則」です。
 それは熱力学の、黎明でもありました。


トリチェリの真空 ⇒ パスカルの原理
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2017年1月14日土曜日

熱力学のゼロ・サム・ゲーム

 熱力学の第一法則というのが、「エネルギー保存の法則」というわけです。
――エネルギー収支のバランスシートは全体では釣合っているということになります。

つまり、どこかで、エネルギー量(熱量)が高まれば、
やはり、どこかで、エネルギー量(熱量)が奪われている、
ということに、ほかなりません。

 このエネルギー量をポイントであらわせば、そのままゼロ・サム・ゲームの基本ルールとなります。
 プレイヤーの得点総合計は、いつだって、プラス・マイナス・ゼロなのですから。
 ゲームの舞台である宇宙船地球号では、常に太陽エネルギーを獲得しているので、エネルギー量総計は、加算されていかなければならないとも、想定されます。ところが、放射熱などで同時に宇宙空間に発散しているので、熱量(エネルギー量)の帳尻はそこそこに合っているようです。

 ほぼ話題にのぼらない熱力学の第零法則は、「熱平衡の法則」であります。
 ここで〝熱平衡〟というのは、

水が高きから低きへと流れるように、
熱もまた、高きから低きへと流れる、
つまり、エネルギー量は、全体で均一になろうとする傾向があるため、
放っておくと、その場の温度は、周囲の温度と同じになっていき、
そうして均一温度になった、その状態が熱平衡です。
熱量の移動や変化を喪失した時代となります。

 ところで、熱力学の第二法則は「エントロピー増大の法則」であります。

エントロピーが増大するというのは、たとえば、
エネルギーや資源の消費に伴いどんどん〝排熱〟が増え、
ついにはそれらが再利用不可能な〝廃熱〟になってしまう現象を、さしていいます。
これが〈不可逆的現象〉なものですから、エントロピーは増大する一方で、
宇宙が膨張して大きくなっていかないと、宇宙は〈熱死〉するともいわれてます。

 そういうわけで、熱力学の第二法則は、「涅槃原則」ともいわれます。

不可逆的なエントロピーの増大、
それが〈時の矢〉の正体であるといわれてから、また、幾許かの時が経ちました。

 最後に、熱力学の第三法則は「絶対零度に到達することは不可能である」となります。


熱力学の法則・原理
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2017年1月12日木曜日

〈トレードオフ〉の関係の成立と崩壊と……

そこにトレードオフの関係性がある、といっただけで、
それはアプリオリな事実であり、はたまた原理となって、
うっかりと現実すらも規定してしまう。

――かも知れないという、とある話。
 つまりそれは思考停止のためには、便利な言葉だ。
 同時に、経済学のエッセンスともいわれる重要な言葉でも、ある。
 ここで、トレードオフというのは、まず統計を説明するために発明された言葉のようだ。
 ついでながら、アプリオリというのは、哲学で使われる言葉で「先天的(先験的)」とも、和訳される。
 ところで統計というのは、過去のデータから選別したものだ。
 つまりそれはいかに図式化しようと過去を説明するグラフでしかない。

 経済学で多く語られる trade-off は、辞書で調べれば、
〔“The Oxford English dictionary” Second Edition XVIII (p.351) 〕
trade-off
 A balance achieved between two desirable but incompatible features; a sacrifice made in one area to obtain benefits in another; a bargain, a compromise.
 1961 Hovering Craft & Hydrofoil Oct. 32/2
 Propulsion system integration allowing trade-offs between the requirements of lift and forward thrust can be achieved in a variety of ways.

に見るように、1961 年が文献での初出であるなら、1958 年に発表された「フィリップス曲線」の直後に、発明されたものであろうし、次の解説文ではそれに関する有名な議論は 1960 年にはじまったと具体例をあげて説明されている。

 トレード・オフという言葉が、経済政策を巡る問題として注目を浴びた最も有名なケースは、1960 年代アメリカの物価と失業をめぐってのそれであった。後に二人ともノーベル経済学賞を受賞したポール・サミュエルソンとロバート・ソローによる、有名なトレード・オフ曲線の議論がその始まりである 1)
1)  Samuelson, P. and R. Solow (1960) “Analytical Aspects of Anti‐Inflation Policy,” American Economic Review, Vol.50, No.2.
〔清家篤「労働を巡るトレード・オフを考える」『経済セミナー』 No.647 2009 年 4‐5 月号 (p.47)

「フィリップス曲線」というのは、
「失業率と貨幣賃金率の上昇率との間に存在すると考えられる関係を示す曲線」で、
その(失業率と貨幣賃金率の)両者が〝負の相関関係〟を示すという、統計グラフに基づく。
 この〝負の相関関係〟を trade-off と、表現すれば、すっかり〈二律背反〉の原理となる。

 ここにいうところの〈二律背反〉というのは、「両立しない」のではなく、「両立しがたい」ふたつの主張の関係性を表現する。
 両立しがたいので、妥協点とか、折衷策が模索されることになる。
 なぜか。それが〈トレードオフ〉の関係にあるからだ。
 説明としては便利だし、根本的な解決から目を背けるのにも、適している。

 くり返すが、このあたりの〈トレードオフ〉は、説明であって、事実でも原理でもない。
 さらには〈二律背反〉と似ているかもしれない言葉に「排他原理」とか「排中原理」とかあるが、それらはいずれも、〝中間点〟という妥協を許さないものだ。「排他原理」にも「排中原理」にも、和解という〝原理〟は通用しない。
 けれども、一般に使われる〈二律背反〉には、〝中間点〟の模索が許される。
 だから、政策も、それに基づいて、模索される。
 だが、1958 年に発表された「フィリップス曲線」は、1970 年代には、早くも、統計資料との整合性を失い始める。
 つまり説明が、現実と乖離(かいり)し始める。
 過去に対する説明というのは、自分に都合のいい、ただのつじつま合わせでしかない場合もあるだろう。
 経済政策がまたひとつの、よりどころを失う。

 もしも、正しい理論に基づいて政策が推進されるならば、万一それが失敗するときは、
その理論が実は正しくなった、か、
民衆の理性とか合理性が正しくない、か、
のどちらかだろう。

 ましてや、それが実証された原理でも理論ですらもなく、ただ過去を説明したものに過ぎなければ、未来は混迷の彼方に遠ざかる。
 現在という、現実だけが、そこに残る。

 そこに経済学のエッセンスともいわれる、現実を読み解くための重要な言葉として残された〈トレードオフ〉は、正しく用いられなければ、〝二者択一の原理〟などということにすら、なりかねない。


Antinomie : 二律背反と経済の理論との関係性
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2017年1月10日火曜日

ゼロ・サム・ゲーム

ものごころついたときにはもう、
ぼくらはゼロ・サム・ゲームの、
ただなかにほうりこまれていた。

おさない子は、食べ物を与えられたときに、
ふたつの行動から選択するという。
 ひとつは、食べ物を口に入れる。
 もうひとつは、食べ物をほかの子供に与える。
これは、自分と世界の区別がついていないからだ。
食べ物をぽいとほうり投げるというまた別の選択肢もあるけれど、
資源を粗末にしないという観点からは、おおまかにこの二種となる。

おとなになって、お金や物を与えられたときに、
ひとはそれと別の行動を発明することになる。
保存可能な形態にそれを変換して、貯蔵する、のだ。
所有物、という概念がそこに発生している。

ゼロ・サム・ゲームというのは、宇宙船地球号の資源を巡る戦いだ。
「ゼロ・サム」の「サム」というのは、たし算とか総和を意味する。
だから「ゼロ・サム」は「ゼロ和」と日本語で書かれることもある。
「ゼロ和」というのは、ゼロのたし算ではない。
全部たすと、「ゼロ」になることを意味する。
ゲーム終了時に、プレイヤーの得点を合計すると、ゼロになっている。
参加者の総得点は、いつでもゼロになる。それが、ゼロ・サム・ゲームなのだ。

参加者のすべてに席は与えられている。
けれども、余分な席はない。同じ席もない。
ゲームを 1 段階クリアするごとに、戦績が評価されて席替えが行なわれる。
その都度、だれもが、よりよい席を狙って、そこに座ろうとする。
参加者の目的は、ゲームをクリアしていくことじゃなくなる。
プレイヤー相互の、戦略ゲームが、ゼロ・サム・ゲームの正体だ。

ぼくらは、ものごころついたときには、ゲームに参加させられていた。
ゲームに参加するさいには、その能力にかかわらず、ゼロ・ポイントが与えられるという。
その後に獲得した得点をほかのだれかに渡すことはできない。

仲間と協力して、大きな成果を上げても、それはだれかのポイントを奪うことと同じだ。
全員と協力したってそもそも序列はつけられる。
 これは、ぼくがのぞんだ、ゲームのかたちだろうか?
参加を希望する者たちだけで、ゲームは行なわれるべきだろう……。
そうしてぼくは、戦略を放棄して、席替えの都度、残っている席に座ることにした。
あるとき、空いた席を探して、そこに座ろうとして、席がなくなっていることに気づく。
 リタイア、1 名。とアナウンスされ――
ぼくのマイナス・ポイントが、ほかの全員に配分されて、ブーイングが起きる。
ゲームに参加しないのは、ただの裏切り者でしかない。

2017年1月7日土曜日

〈マッハ原理〉を携え 世界の中心で回転すること

水をなみなみと入れたバケツを片手に持って、ぐるんぐるんと振り回せば、
うまいこと遠心力が働いて、水が落ちなくなる原理を、逆に考えてみませう。
――ということなのでしょう。

 ニュートンはこのバケツをコマのごとくに回転させる実験について、語っているようです。
 表面張力よりも強い遠心力の働きで、水面のフチ側の水位が高くなるということです。
 つまり、回転しなければ、中央部分がわずかながらでも盛り上がるはずが、回転の作用で、中央部分が、少しずつへこんでいくという現象についてです。
 このことからも明らかなように、基準となるべき絶対空間に対して相対的に運動が行なわれるというのです。

 ところが、マッハがこれに待ったをかけました。
 あの、エルンスト・マッハです。衝撃波でも有名な、音速のマッハです。
 バケツを静止させて、その周囲で宇宙全体を轟々と回転させた場合には、水の中央部分がへこんでいかないというのは、いったい誰が確かめてそういっているのか、と。
 確認もされないままに、「いうまでもなく」それが事実だと、権威が語っているにすぎません。

 このことは、マッハの追悼文で、1916 年にアインシュタインが論じています。
 一般相対性理論が最初に発表された翌年のことです。
 アインシュタインは語ります。いうなれば――
 権威である彼らは、「何をいうまでもないことに対していおうとするのか」と、若造にいきどおるというのです。
 そのせいで、相対性理論などという、わけのわからぬ妄言がもてはやされるようでは、権威の失墜するさまはもはや見る影もないでしょうから。

 そういうわけで、理論上は、コマのように回転する人物は、世界の中心で回っているのか、それとも、世界がその人物を中心に回っているのか、区別できない、などということも考えられてしまうのです。
 だから、世のなかの真ん中にいたければ、どこでもその場でくるくると回り続ければ、
「世界はわたしを中心に回っている」と、宣言することすら、可能になるという始末です。

 どうやら、〈マッハの原理〉というのは、そういう結論すらも導いてしまうという恐るべき理論のようです。
 1918 年のアインシュタインの一般相対性理論の論文で、〈マッハの原理〉という名称は文献に初登場したということになっています。
 アインシュタインの一般相対性理論は、そういう視点からの考察も、一時は考えられていたということなのです。
 一般的な言葉で表現される〈マッハの原理〉とは次の解説に記されるようなものであります。

あらゆる質量、あらゆる速度、したがってまたあらゆる力は相対的なものなのだ。相対的なものと絶対的なものを区別する必要はない。そんなものに出くわすことはありえないし、その判定を迫られることもない。そう区別したところで、何らかの知的利益やその他の利益がひき出されるわけでもない。
〔エルンスト・マッハ『時間と空間』訳者解説より(『マッハ力学』邦訳 211 ページからの引用)〕

 〈マッハ原理〉をたずさえて、正月に独楽を回せば、我々は、独楽の周囲で回転しているまぼろしかもしれません。

Mach's Principle : マッハの原理
http://theendoftakechan.web.fc2.com/sStage/Mach.html

2017年1月4日水曜日

スーパー・オーガニック 超有機的進化

 イギリス人スペンサーの「社会進化論」は、戦後には、評判を落としたようです。
 人種差別の理論ともなったというのです。
 たしかに、その著書 『第一原理』 には、次のような文章があります。
(昭和初期の邦訳を参照しましたが、ここでの引用文は、漢字はいまふうのものに変更しています。)

 頭蓋骨の顔面骨に対する比率がより大になる事も同一の真理を例証するものである。…………。そしてこの象跡は他のいかなる動物よりも「人間」に於てより強烈に現れてをり、更にヨーロツパ人の方が野蛮人よりもより強烈である。
 加ふるに、その表示するところの機能について、その範囲と変化とがより大なることによつて、われ等は、文明人なるものが非文明人よりもより複合的な、或はより異質的な神経組織をもつてゐるといふ事を推理する事ができる。そしてまたこの事実は、その脳髄が下方神経節に対して有する比率の増加によつて、一部可見なものがあるのである。
澤田謙/訳『第一原理』 § 121 第二編 第十五章 6 (p.426)

――しかしながら、その〝超有機体〟の理論には、参考にすべきものが、あるように思われます。
 20 世紀最後の年である、2000 年に出版された書に、スペンサーの思想を擁護するものがありました。スペンサーの進化論を〝社会進化論〟と混同してはいけないというものです。
 それは次のように、論じられています。

 以上考察してきたスペンサーにおける進化概念は、今日の分子生物学の知見における「中立」説にもとづくとその本質的な特徴がより明確に浮上してくる。中立説は、ダーウィンの提示した自然選択における「適者生存」概念に新たな解釈を加えて展開された理論である。従来の「適者生存」概念には、自然環境に対して適用する種が進化を遂げ、逆に適用することのできない種は進化することができずに絶滅する、という二元的な進化現象観が前提におかれていた。しかし、中立説では「適用」と「不適用」のいずれにも属さないニュートラルな位置にある「中立」の変異をミクロレベルで保有する種が理論化されている。すなわち「適用」「不適用」の種は従来通りの進化、絶滅を繰り返し、その一方で「中立」の種も自然環境の影響を受けて存在し続ける。しかしその途上で、「中立」の種も分子や遺伝子といったミクロレベルにおいて確実に多様化し、長い時間をかけて可視的な変化を発現させる場合がある。これが「中立」説の骨子である。
挾本佳代/著『社会システム論と自然/スペンサー社会学の現代性』 (pp.191-192)

 『社会静学』においてスペンサーはひとつの重要な概念を明確に提示している。それが、ワインステイン他の政治学研究者がスペンサーの論理の根幹部分であると見なす「公平な自由」概念である。「すべての人間は、他の人間が保持する公平な自由を侵害しない限り、望むところすべてのことを行ないうる自由を保持している」。スペンサーはこれこそが人間の社会関係における「第一原理」であると明言した。
(p.157)

 スペンサーは、「科学」によって、すべてが知られるようになるとは、思っていませんでした。
 どんな理論でも、ある程度までは正しくとも、人類はどこまでいっても、ある程度は間違っているだろうというのです。
 19 世紀。時代は、神の「創造説」にかわる「科学」を求めていたのでしょうか。
 それでも、そこで語られているスペンサーの「進化論」は、〈不可知〉という《神の領域》を前提としたものだったようなのです。
 ダーウィンの『種の起原』に先立つこと、二年、
 1857 年に、〝スペンサーの〈進化論〉〟は上梓されたといわれています。


First Principles : スペンサーの〈第一原理〉
http://theendoftakechan.web.fc2.com/sStage/Spencer.html