2015年7月30日木曜日

アリストテレスのラテン語

アリストテレスの新たな思想が中世ヨーロッパにもたらされたとき、
それは最初、アラビア語からのラテン語訳に拠っていた、らしい。

しかしながら、やがて

アリストテレスのギリシア語に忠実なラテン語訳

というものが、中世ヨーロッパにおいて訳出されるにいたる。

であるからして、中世ヨーロッパのアリストテレスは、
最終的には、正統なアリストテレスである らしい。

どうやって、「アリストテレスのギリシア語に忠実なラテン語訳」であることが、
見極められたのか、そこのところは不明であり、推測に依らざるを得ないが、
とにもかくにも、イスラム思想の混入したアリストテレスではなかった、という次第である。

1600 年に、「地動説」で、火あぶりとなったジョルダーノ・ブルーノ も、
アラブの影響を受けたアリストテレスに基づいたキリスト教による断罪では、
死にきれないところであっただろう。

まずは、ひとつの懸念がこれで、払拭されたことになるわけではある。

詳しくは、以下にて。


アリストテレス主義 Ⅱ
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2015年7月22日水曜日

イスラムの神と「紙の道」

トマス・アクィナスのキリスト教的アリストテレス主義というものについて、
文献を抜き書きしていたら、その前段階における、

イスラムとアリストテレス主義の関係性について、
「神の道」ならぬ「紙の道」が大いに影響するような気がしてきました。

アリストテレスの思想は、彼の愛弟子である、
アレキサンダー大王と共に、インドにまで行きました。
その途中で、バビロニアから、‘zero’ の起源が加わっています。

領土の広さで、そのマケドニアの帝国にまさる、イスラムの大帝国は、中国にまで達しています。

イスラムの神が東進した結果、サマルカンドで、中国軍と激突

751 年 タラス川の戦いに勝利

その結果、それまで中国からの輸入品のみであった紙が、西洋に技術として
もたらされたのでした。


日本では、仏教と共に、大陸やら近場の半島やらから、大量の技術者が伝来し、
いにしえより、紙は日常の品となり、やがて日用の品となったと思われるのですが、
西欧では、そうではなかったのです。

紙はルネッサンスと共に中世のヨーロッパにもたらされた、画期的な技術であったわけです。
その結果として――
活版印刷の技術が発明され、本が大量に流布するようになった、という次第です。

コペルニクスの有名な本が出版されたのは、活版印刷の開発からおよそ 100 年後のことになります。


アリストテレス主義 Ⅰ
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2015年7月15日水曜日

プトレマイオス『アルマゲスト』とコペルニクス的転回


たとえば、コペルニクスにより、大いなるちゃぶ台返しの憂き目にあったとかいう噂の、

当時のキリスト教総本山が「天動説」の拠り所として絶大なる信頼を置いていたのが、


プトレマイオスの『アルマゲスト』という、ラテン語の書物なのです。

これはもともとギリシア哲学の流れにある、つまりギリシア語で書かれた、
アリストテレス主義の宇宙体系を決定づけたその代表的理論の書なのであります。

ギリシア語の原題は『数学的総合全 13 巻』
“ ἡ μαθηματικῆς συντάξεως βίβλια ιγ 

それがなぜラテン語の ‘Almagest’ というタイトルで読み継がれているのかというと、

―― 実は そのラテン語は ――


アラビア語に翻訳された際に付けられたタイトルである、
“ al-Majisṭī ” [マジェスティー] という書物の翻訳であり、
そのアラビア語のタイトルをラテン語で音写したのが、“ Almagest ” [アルマゲスト]、
という次第であることが、おおむね明らかではあるのです。

つまり、キリスト教会が後生大事にしていたキリスト教的アリストテレス主義というのは、
大いなるイスラム帝国が中国にまで及ぶ大帝国を築いた際に、
その新たな領土の学術的文化を摂取・保存した図書館を建設するという、
血と汗と涙の、一大事業の結果なのであります。

ようするにその典拠というのは、イスラム帝国の領土拡張の時期に、
当時の学術用語であったシリア語に翻訳されていた、ギリシア哲学原典を、
キリスト教圏が取り戻した際に、
アラビア語で再保存されていたものを、さらに中世風なラテン語化したものであったわけです。

無論、翻訳は、イスラムの思想で理解しやすいように、考慮されていたものなのであります。
それらイスラム的アリストテレス主義は、キリスト教徒が再発見した際には、
その翻訳されたラテン語文献は、当時のキリスト教会により禁書の憂き目にあっています。

「1210年、パリの管区教会会議はアリストテレスの自然学および形而上学を教えることを禁じた。1215年には、第四回ラテラノ公会議が同様の、しかしもっと厳しい反-アリストテレスの勅令を発表した」〔トマス・クーン『コペルニクス革命』常石敬一/訳 (P. 154)〕


それが、トマス・アクィナス『神学大全』などの功績により、
キリスト教のバイブル的扱いを受けるようになったという、次第なのであります。

そしてその結果、悲しいことには――すなわち、

コペルニクスの熱狂的なファンであったジョルダーノ・ブルーノは、
その著書のみならず、本人にまで火をつけられ、焚書と共に、
火あぶりの刑に処せられ、憤死した、という歴史が西暦1600年に刻まれることになりました。

これは、最初に禁書扱いをされたアリストテレスの呪いが、
キリスト教会総本山の感情に、火を点けたのでしょうか?――


そういうような、とても入り組んでいて、二転三転の説明が必要な、
大どんでん返しの、単純なちゃぶ台返しではとてもおさまらない、
ややこしい話になっていて、

――最終確認を怠っていた、

「コペルニクスの原理」の後半部分である、
「コペルニクス的転回」の資料チェックを一応は済ませました。

そもそも、カントが自身の立場を「コペルニクス的転回」で表現したという、
後世の哲学的主張が、
カント自身の直接的表現では確認できない、という話であったはずなのですが……

そこから、そもそも「コペルニクスの原理」は、
「人間原理」に対比されるところの「宇宙原理」に基づくものであるような、
それとも、「宇宙原理」が「コペルニクスの原理」に基づくのか……
日本語とても、かなり混乱するわけのわからなさに、
投げ出した、コペルニクスもびっくりの、お話しなのでした。


コペルニクス的転回
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2015年7月10日金曜日

『神学大全』とアリストテレスとデカルト

アウグスティヌスの《自然的神学》以降に、
《自然神学》の資料としてあるのが、

トマス・アクィナス『神学大全』なのですが、
これはもはや、
キリスト教というよりも、アリストテレス思想の書といってもよさそうな気がするのです。
実際、辞書にも、トマス・アクィナスは、

その立場はキリスト教的アリストテレス主義であるが、アウグスティヌス主義やディオニシウス・アレオパギタ偽書の神秘思想にも深く影響された。

とか、書いてあるのです。

この後、キリスト教と ‘zero’ とデカルトの関係のあたりの資料を整理しようとしたのですが、
まだまだ中途半端です。

今後、もう少し書き加えたく思います。


トマス・アクィナス『神学大全』
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2015年7月8日水曜日

《知は力なり》という学説 というより慣用句

つまりは


 ひとは間違えるものだ、といったベーコンの言葉を間違えて解釈した自然哲学者たちの系譜がある。――その通り。ひとは間違えるものなのだ。《知は力なり》といって、彼らは、ベーコンの言葉を自らの人生をかけて実証した。
  ここに、「巨人たちの肩」には「反面教師としての価値」すらも認められるのである。ありがたいことだ。先達には、あらためておおいに、感謝しなければなるまい。

ようするに


◆ 「《知は力なり》という名言を遺して自然支配を唱導した元祖とされるベーコン」という〈パラダイム(すりこまれた前提)〉を外してベーコンの邦訳文を読めば、ベーコンがそういうことをテーマに語る際の「知」は「人の知」ではなく「神の知」であり、その「力」は「神の力」であることは容易に読み取れるので、したがって、その支配は「神による支配」なのだという結論もまた、容易なはずであって、「人による自然支配」ということにはならないはずなのだが、どうもそうならないのはこれはきっと邦訳文が間違っていないのなら〈哲学者たちの前提〉には通常の人知の及ばないものがあるのだろう、と推測せざるを得ないものがあるのである。――それにしてもベーコンは、ひとは「神の知」に到達できると思いあがってはいけない、と繰り返しているではないか。

※ それともそれはやはり、最初に書いたように先達の「反面教師としての力」にすぎないのだろうか?


岩波文庫『学問の進歩』(p. 377)によれば、ベーコンは結論に付記して、次のように書いている。

……。しかし、それにもまして、わたくしは、他人がわたくしをふたたび追い越してくれることを望んでいるのであって、このことは、わたくしが論破によって他人の判断の自由を奪おうとはせずに、わたくしの意見をいわば裸のまま無防備のまま出したということによって、いっそうあきらかであろう。……。そして、わたくしが誤りを犯したような点においても、わたくしは、論争をこととする議論によって、真理をそこなわなかったと確信する。……。しかし、誤りは、わたくし自身のものとしてわたくし自身がひきうけよう。……


《 自然の光 》及び
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2015年7月7日火曜日

「ZERO」とデカルトと解析幾何学

以前に見た、
『数学をつくった人びと Ⅰ』 に、

出版しないというデカルトの決心は、すべての著作におよんだ。しかし一六三七年、四一歳のとき友人たちは、不承不承の彼を説き伏せて、ある傑作の印刷を許可させた。その傑作の題名を訳すと、『理性を正しくみちびき、科学における真理を探究する方法に関する叙説、さらに本方法による試論としての光学、気象学、幾何学』となる。この著作は簡単に『方法序説』という名で知られていて、一六三七年六月八日に出版された。従って解析幾何学は、この日に誕生したわけである。

と、近代数学の元祖のような紹介の仕方がされていたので、
数学者デカルトについての補足資料を、ピックアップしてみました。


すると、西欧に ‘zero’ が導入された際に、キリスト教会の総本山が震え上がり、

――彼らがよりどころとしていたはずの書物は『聖書』ではなく――

バイブルとしての『自然学』とその神としてのアリストテレスという著者を死守しようとした、
という構図が見えてきました。

その当時の権威はキリスト教会にあり、

――すなわち――

絶対者としてのアリストテレスに逆らうものは、火あぶりとなったのです。

というように読める内容で、あんなことこんなことが、
『異端の数 ゼロ』 という本に書かれていました、という話です。


Stage Zero
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2015年7月1日水曜日

謂ゆるスピノザの「神即自然」というガラパ学説 について

Deus sive Natura

 「スピノザの所謂神即自然」なのである。
 それが我が国日本では古来より、哲学的に「いわゆる」が抜け落ちたまま、
 「スピノザの神即自然」という思想、として伝統的に語り継がれ――流布しているのである。
 これはもう「わが国独自の進化を遂げた」としかいいようのない、いわば(いわゆる)
 ガラパ学説なのである。
 スピノザはどうやら日本以外の国では、そんなことは語っていないのである。
 しかし例えば、次の如くである。

『近代科学と聖俗革命 〈新版〉』
村上陽一郎/著
新曜社/発行
新版第 1 刷発行 2002年07月05日

 (P. 55)
 もちろん、「自然の光」という着想は、イデアの世界から発する光を受け取ることこそ「知」の本質である、というプラトン的な――したがってまた「反アリストテレス的な」ギリシア思想にまで遡ることのできるものであって、そこに、新プラトン主義を媒介として、近代の自然観、すなわち神即自然という理神論的傾向へと向っていく足がかりもあったと言えよう。

 (P. 56)
 こうしてみると、序章で提案した聖俗革命の最も重要な截断面の一つが、ここに現われていると言える。つまり、中世的な聖構造のなかでは、「理性」は、自然界に生起するあらゆる現象を理解するには不充分・不完全であり、「理性」が被覆するところは、その一部に過ぎないと考えられているのに対し、ガリレオが「神は数学の言葉で自然という書物を書いた」と主張したのを一つのきっかけに、スピノザの「神即自然」《 deus sive natura 》に到るまでの動きのなかで次第に明らかになっていったのは、人間の理性は、自然の光として、自然界すべてを原理的に覆うという立場が現われ、やがては、その光の源泉としての神自身が棚上げされることによって、俗構造が完成される、という移行過程が、この場面で起っていることが読みとれるだろう。

 (P. 145)
 明らかにベーコンは、人類の神学的、哲学的な知識の双方が、「無限の進歩と上達」を遂げ得ると信じていたように見える。ここには、明示的ではないが、人類の歴史が、世俗的な意味で、直線的進歩の歴史なのだ、という暗黙の前提がある。「救済」の世俗化ともいうべきこの前提は、たとえばベーコンの場合には、明らかに前代の羅針盤などの技術的発展に刺激されている。

 ……救世主は、理性の一般概念と言語の規則とによって、聖書の真の意味を理解することができるように、われわれの理解力を啓き給うばかりでなく、とりわけわれわれの信仰の目を開いて、神の御業にとくに明確に刻印されている神の全能を、十分に省察するよう、われわれを導き給うのである。

と言って、学問の進歩が神の意志に叶うものであることを保証してみせたあと、技術と学問の進歩がいかに人間の進歩に連るものであるかと、いろいろな角度から記述するのである。


講談社学術文庫
『デカルト、ホッブズ、スピノザ』
上野修/著
2011年10月12日 講談社/発行
《本書の原本『精神の眼は論証そのもの』は 1999年、学樹書院より刊行されました。》
 (P. 10)
 それぞれの哲学体系の中心部には、だれもが知るように「コギト」があり「神即自然」があり「可滅の神リヴァイアサン」がある。~~。

講談社現代新書 1783
『スピノザの世界』
上野修/著
2005年04月20日 講談社/発行
 (P. 75)
「神あるいは自然」(Deus seu Natura)。「神即自然」と訳されることも多いこの言葉はたいへん有名で、ほとんどスピノザ思想のキャッチコピーの感がある。~~。



 これではもう「だから日本は歴史認識が間違っているのだ」などという、
 わけのわからぬいいがかりにも、
 「スピノザに関しては、一部同意せざるを得ないものがあります」
 と答弁せざるを得なくなってしまうのである。
 つまり例えば、次の如くである。


『岩波 哲学・思想事典』
廣松渉・子安宣邦・三島憲一・宮本久雄・佐々木力・野家啓一・末木文美士/編
1998年03月18日 岩波書店/発行
 (P. 261, l)
 神即自然 〔ラ〕Deus sive Natura
 スピノザの汎神論を特徴づけることば。スピノザはユダヤ・キリスト教の伝統的な神(創造主)と自然(被造物)の二項対立の考え方をとらず、神と自然とを同一視した。しかしこの場合の自然とは従来の被造物としての、あるいは単なる現象としての可視的、物質的自然ではない。むしろそれはまず唯一、永遠・無限の実体としての〈能産的自然〉である。それはそれ自身の本性によってあらゆるものを実体の様態あるいは変様として自己のうちに産出する内在因である。産出されたあらゆる様態、つまり〈所産的自然〉は実体のうちにあると考えられるため、因果的には能産的自然から区別されても、実在的には区別されない。両自然は対立しているのではなく、一つに統一されている。かくて彼において存在するものは実体とその諸様態のほかにないとすれば、結局この統一された自然のみが存在することになる。神即自然である。18 世紀のドイツ・ロマン主義哲学者たち、たとえば、シェリング、ヘルダーリンなどはこの意味の神即自然をとらえて、スピノザ哲学をヘン・カイ・パーン(一即全)と特徴づけ、新スピノザ主義の時代をつくった。
 〘文献〙 E. Curley, Behind the Geometrical Method, 1984   〔工藤喜作〕


【再掲】
Oxford Reference
http://www.oxfordreference.com/view/10.1093/acref/9780199541430.001.0001/acref-9780199541430-e-908

deus sive natura

(Latin, god or nature)The slogan of Spinoza's pantheism: the view that god and nature are interchangeable, ...


※ 引用に誤植があれば、お知らせくだされば、訂正いたします。


 というわけで、以下に、
「自然神学」という用語の概念について、モンテーニュとアウグスティヌスに関して、
資料を抜き出してみました。

それにともない、デカルトを後に回して、スピノザにまで、手をかけてしまったわけです。


モンテーニュ「レーモン・スボンの弁護」
http://theendoftakechan.web.fc2.com/nStage/Montaigne.html

アウグスティヌス『神の国』
http://theendoftakechan.web.fc2.com/nStage/Augustinus.html

《 自然という書物 》
http://theendoftakechan.web.fc2.com/nStage/LiberNaturae.html