2018年6月27日水曜日

石上神宮の伝承

斬蛇剣の行方についての 異なる物語の記録をみていこう。


 ○ ここで参照する文献としてまず『式内社調査報告』を使用する。

石上布都御魂(イソノカミフツノミタマノ)神社
 (p. 331)
【由緒】 創立年代を詳らかにすることはできないが、日本書紀に「其素盞嗚尊断蛇之剣今在吉備神部許也」と、また「其断蛇之剣号曰蛇麁正此今在石上也」と記されており、種々の論考がなされているが、実証性に乏しい。…………
 (p. 333)
【所在】 現在の鎮座地は、赤磐郡吉井町石上字風呂谷一、四四八番地(旧赤坂郡石上村)である。…………
〔『式内社調査報告』第二十二巻 山陽道(人見彰彦)〕

石上坐布都御魂(イソノカミニマスフツノミタマノ)神社
 (p. 982)
【由緒】 社伝を正史と対照して略述すれば、主神布都御魂神は、建甕槌神が中洲平定の際に帯びていた平国之剣で、神武天皇の中洲平定に際して、熊野高倉下を介して天皇に奉って熊野平定の功をいたした(紀記に同じ)。天皇は即位後、物部連の遠祖宇麻志麻治命の忠節を褒めて、その神剣を授けた。宇麻志麻治命は、その父饒速日尊が天降の際に天神御祖から賜った天璽瑞宝十種を天皇に献り、亦神盾をたてて斎き祀った(旧事本紀)。その神気を称えて布留御魂神と云う(社伝)。この両神は以後宮中に奉斎されていたが、崇神天皇七年十二月、物部連の祖伊香色雄命が勅を奉じて石上邑に移し祭った(社伝)。次いで垂仁天皇三十九年に、五十瓊敷命が茅渟の菟砥川上宮にて剣一千口を作って石上神宮に蔵めた。後五十瓊敷命に命じて神宝を司らしめた(一説では、忍坂邑に蔵め、後石上神宮に移した。是の時神の乞によって、春日臣族の名は市河をして管掌せしめた。是が物部首の始祖である。)(以上書紀)。…………
 また、素盞嗚尊が八岐大蛇を斬った十握剣は、その神気を称えて布都斯御魂神と號し、吉備神部の許に奉齋されていた(書紀神代巻神剣奉天段第三・一書。第二・一書では石上にありと記す)が、仁徳天皇五十六年十月、物部首市川臣が勅を奉じて、石上振神宮高庭之地に奉遷して、地底石窟の内、布都御魂横刀の左座 東方 に加え蔵め、其上に霊畤を設けて并祭した(姓氏録に加上)。
 (p. 984)
【所在】 天理市布留町布留山(丹波市町大字布留)。和名抄の山邊郡石上鄕。…………
〔『式内社調査報告』第三卷 京・畿内 3(石崎正雄)〕


 ―― 以上に引用した記述内容のなかで、注目すべきことに、スサノヲが八岐大蛇を斬った剣については「仁徳天皇五十六年十月、物部首市川臣が勅を奉じて、石上振神宮高庭之地に奉遷して、地底石窟の内、布都御魂横刀の左座 東方 に加え蔵め、其上に霊畤を設けて并祭した(姓氏録に加上)」と説明されている。
 次の資料から『新撰姓氏録』の該当箇所を引用する、と。

『物部氏の研究 【第二版】』〔篠川賢/著 平成27年09月10日 第二版 雄山閣/発行〕
 第二章 物部氏の祖先伝承
 (p. 126)
布留宿禰
柿本朝臣同祖。天足彦国押人命七世孫米餅搗大使主命之後也。男木事命。男市川臣。大鷦鷯天皇御世、達倭賀布都努斯神社於石上御布瑠村高庭之地、以市川臣為神主。四世孫額田臣。武蔵臣。斉明天皇御世、宗我蝦夷大臣、号武蔵臣物部首并神主首。因茲失臣姓為物部首。男正五位上日向、天武天皇御世、依社地名改布瑠宿禰姓。日向三世孫邑智等也。

 引用文中に「男木事命」とある「事」の文字は、原文では異なる文字が使われているが「事」で代用した。
 また、「大鷦鷯天皇」とは仁徳天皇のことであるけれども、ここには「仁徳天皇五十六年十月」というような具体的な年号の記述はない。―― 先に参照した『三種の神器』〔参考資料〕の記述では、「石上神宮の文献にはより具体的に、仁徳天皇の五十六年に市川臣が備前国の石上社から剣を遷して祀った」と、説明されていた。

 ○ 次に『神道大系』から石上神宮の社伝を参照する。
(佐伯秀夫による「解題」では、社伝「石上振神宮二座」の「成立は元禄六年(一六九三)十一月を下らないと思われる。」とされている。)

  石上振神宮二座
 (p. 45)
石上振神宮二座(イソノカミフルノカミツミヤフタハシラ)〔在大和國山邊郡石上布璢村、〕
 第一 建布都大神
 第二 布璢御魂神
  加祭之神一座
 第三 布都斯魂神

 (pp. 47-49)
素戔嗚尊斬蛇之十握剣剣、名曰天羽々斬、亦曰蛇之麁正、称其神気曰布都斯魂神、
旧事本紀曰、素戔嗚尊断蛇之剣、今在吉備神部許也、…………
新撰姓氏録曰、大鷦鷯謚仁德天皇御世、達倭賀布都斯魂神社於石上御布瑠高庭之地、以市川臣為神主、

天羽羽斬、自神代之昔至于難波高津宮御宇天皇〔謚曰仁徳為人皇十七代、〕五十六年、在吉備神部許〔今備前国石上社之地是也、〕焉、五十六年孟冬己丑朔己酉、物部首市川臣、〔布留連祖、〕奉勅、遷加布都斯魂神社於石上振神宮高庭之地、
高庭之地底石窟之内、以天羽羽斬加蔵于布都御魂横刀左座、〔為東方、〕是布都御魂横刀為中央之故、当其神器之上設霊畤、拝祭布都斯魂神、為加祭之神、
或説曰、中央座建布都大神為第一也、左座布都斯魂神為第二也、右座布瑠御魂神為第三、非是、布都御魂与布都斯魂、両剣長竝十握也、布都者断物之古語矣、御与斯〔或作之同音、〕是以別之而已、
右両剣者本連枝而[アニヲトヽニテ]、稜威雄走神之分身[ミコ]、是故竝祭于石上振高庭之地、
〔『神道大系』神社編十二 大神・石上 「石上」〕


 先の「新撰姓氏録」の内容は、簡便に「仁徳天皇の時代に市川臣が、布都努斯神社を石上布瑠村の高庭の地に賀(遷)した」という内容であったが、この社伝によれば、さらに詳しく「仁徳天皇の五十六年までは、〔備前国の石上社の地である〕吉備の神部のもとにあった天羽羽斬の剣は、五十六年孟冬(太陰暦十月)に、〔布留連祖である〕物部首市川臣が、石上振神宮(イソノカミフルノカミツミヤ)高庭の地に布都斯魂神社として遷し加えた」という、内容を読み取ることができる。

 これらをあらためて『式内社調査報告 3 』の記述に即してまとめると、
スサノヲの斬蛇剣は「布都斯御魂神として吉備神部のもとにあったのだけれども、仁徳天皇の五十六年十月、物部首市川臣が勅を奉じて、石上振神宮高庭の地に遷して、地底石窟の内、布都御魂横刀の左座(東方)に加え蔵められた」と、いうこととなる。

 このほかに、社伝には「フツノミタマは、タケミカヅチの神が国を平定したトツカノツルギのことで、その神気をたたえて建布都大神というのである」というような内容のことが書かれている。

 ○ 国家平定の霊剣フツノミタマについては、古事記と日本書紀のいずれにも記述があって『大系本 日本書紀 上』から引用すると、次の通り。

『大系本 日本書紀 上』「神武天皇 即位前紀戊午年六月」
 (pp. 194-195)
[原文] 時武甕雷神、登謂高倉曰、予剣号曰韴靈。〔韴靈、此云赴屠能瀰哆磨。〕 今當置汝庫裏。宜取而献之天孫。
[訓み下し文] 時に武甕雷神、登ち高倉に謂りて曰はく、「予が剣、号を韴靈と曰ふ。〔韴霊、此をば赴屠能瀰哆磨と云ふ。〕 今當に汝が庫の裏に置かむ。取りて天孫に献れ」とのたまふ。
(ふりがな文) (ときにたけみかづちのかみ、すなはちたかくらじにかたりてのたまはく、「やつこがつるぎ、なをふつのみたまといふ。〔ふつのみたま、これをばふつのみたまといふ。〕 いままさにいましがくらのうちにおかむ。とりてあめみまにたてまつれ」とのたまふ。)
 (pp. 195-196)
韴霊(頭注)  記の分注には「此刀名云佐士布都神、亦名云甕布都神、亦名云布都御魂、此刀者、坐石上神宮也」とある。旧事紀、天孫本紀では、宇摩志麻治命が長髄彦を殺して帰順したことを天皇が嘉して「特加?寵授以神剣、参其大勲。凡厥神剣?霊剣刀、亦名布都主神魂刀、亦云佐士布都、亦云建布都、亦云豊布都神是矣」とある。

 ここに記述されているのは「神剣投下」に際して、タケミカヅチの語った言葉である。この直前に、アマテラスとタケミカヅチの会話がある。
 それが、2018年4月10日火曜日のブログ「布璢御魂(フルノミタマ)」でも紹介した場面で、抜き書きすれば次の個所となる。

 神武天皇が熊野で苦戦しているようすを見て、アマテラスが、タケミカヅチに、
「汝更往きて征て(いましまたゆきてうて)」と要請するのだけれども、
タケミカヅチは、自分が行くまでもなく「予が国を平けし剣を下さば、国自づからに平けなむ」といって、〈フツノミタマ〉を投下するのだ。こうして〈フツノミタマ〉は国家平定の宝剣として、記録に名を留めた。

 こういうことからも、日本書紀で出雲の国譲りの際に、タケミカヅチとともに使者となったフツヌシは、〈フツノミタマ〉の神格化であろうと推測される。

 フツヌシ、タケミカヅチの両者ともに、イザナミの死に際して、カグツチを斬ったイザナキの「剣の刃よりしたたる血」から生まれた神なのである。
 葦原中国の平定に送り出された神々は、破壊のうねりのなかで、それを活力として誕生した。
 そして古来、霊剣〈フツノミタマ〉は宝剣として、新しい活力を得るための、生命力再生の祭り〈鎮魂(オホミタマフリ)〉の祭祀に用いられているという。

―― という具合だが。
 創造的破壊とは、しばしばいわれる言葉だけれど、新しい基軸を創造する〈創発〉のためには、相当な活力が必要とされるだろうことは想像に難くない。
―― イノベーション (innovation) は、シュンペーターが「新機軸・刷新・革新」の意味で使った語だ。いにしえにはイノベーションを達成するために、祭政一致の方策が用いられた。それもかなり荒っぽい方法で。


Google サイト で、本日、引用文献の情報を含むもう少し詳しいバージョンを公開しました。

The End of Takechan : 布都御魂
https://sites.google.com/view/theendoftakechan/worochi/futsu-no-mitama

2018年6月25日月曜日

天蠅斫之剣

〈天蠅斫之劒(アマノハハキリノツルギ)〉 とも称される、
スサノヲの 斬蛇剣にまつわる名称を あらためて原典で確認する。


 ○ 今回、原典として使用する文献は次のとおり。

 「古事記」〔日本古典文学大系 1『古事記 祝詞』(以下『大系本 古事記』と表記)〕
 「日本書紀」〔日本古典文学大系 67『日本書紀 上』(以下『大系本 日本書紀 上』と表記)〕
  ― 同 上 ― 〔日本古典文学大系 68『日本書紀 下』(以下『大系本 日本書紀 下』と表記)〕
 「古語拾遺」〔岩波文庫『古語拾遺』(以下『岩波文庫 古語拾遺』と表記)〕

 『大系本 古事記』「天照大神と須佐之男命 6 須佐之男命の大蛇退治」(pp. 86-87)
[原文] 十拳劒
[訓み下し文] 十拳劒(とつかつるぎ)

 『大系本 日本書紀 上』「神代上 第八段〔本文〕」(pp. 122-123)
[原文] 十握劒
[訓み下し文] 十握劒(とつかのつるぎ)

    同上   「神代上 第八段一書〔第二〕」(p. 125)
[原文] 其斷蛇劒、號曰蛇之麁正。此今在石上也。
[訓み下し文] 其の蛇[をろち]を斷[き]りし劒をば、號けて蛇の麁正(をろちのあらまさ)と曰[い]ふ。此[こ]は今石上[いそのかみのみや]に在[ま]す。

    同上   「神代上 第八段一書〔第三〕」(pp. 126-127)
[原文] 素戔嗚尊、乃以蛇韓鋤之劒、斬頭斬腹。~~。其素戔嗚尊、斷蛇之劒、今在吉備神部許也。出雲簸之川上山是也。
[訓み下し文] 素戔嗚尊、乃[すなは]ち蛇の韓鋤の劒(をろちのからさひのつるぎ)を以[も]て、頭を斬[き]り腹を斬る。~~。其の素戔嗚尊の、蛇を斷[き]りたまへる劒は、今吉備[きび]の神部[かむとものを]の許[ところ]に在り。出雲[いづも]の簸[ひ]の川上[かはかみ]の山是[これ]なり。

    同上   「神代上 第八段一書〔第四〕」(同頁)
[原文] 天蠅斫之劒
[訓み下し文] 天蠅斫之劒(あまのははきりのつるぎ)

 『岩波文庫 古語拾遺』「素神の霊剣献上」(pp. 125-126, pp. 23-24)
[原文]  素戔嗚神、自天而降到於出雲国簸之川上。以天十握釼〔其名天羽々斬。今、在石上神宮。古語、大虵謂之羽々。言斬虵也。〕斬八岐大虵。
[訓読文]  素戔嗚神、天[あめ]より出雲国の簸[ひ]の川上[かはかみ]に降到[くだ]ります。天十握剣[あめのとつかつるぎ]〔其の名は天羽々斬(あめのははきり)といふ。今、石上神宮[いそのかみのかみのみや]に在り。古語に、大蛇[をろち]を羽々[はは]と謂ふ。言ふこころは蛇を斬るなり。〕を以て、八岐大蛇[やまたのをろち]を斬りたまふ。

『岩波文庫 古語拾遺』 解 説  (p. 159)
 古語拾遺は、平城天皇の朝儀についての召問に対し、祭祀関係氏族の斎部広成が忌部氏の歴史と職掌から、その変遷の現状を憤懣として捉え、その根源を闡明しその由縁を探索し、それを「古語の遺[も]りたるを拾ふ」と題し、大同二年(八〇七)二月十三日に撰上した書である。

 これらの記述で問題とされるのは、スサノヲの斬蛇剣の行方だった。
 日本書紀の文中にある「石上」というのは「大和の石上神宮」であるのか、それとも「吉備の神部(備前国の石上布都之魂神社)」であるのか、ということなのだ。

 先に参照した『三種の神器』〔参考資料〕の記述には、

『三種の神器』 (pp. 122-123)
 また後に蛇の麁正は「石上に在す」、蛇韓鋤の剣は「吉備の神部の許に在り」、天羽々斬は「石上神宮に在り」といった相違も見られる。これらの所在地については、備前国に石上布都之魂[いそのかみふつのみたま]神社があるので、石上または石上神宮というのは大和国のそれではなく、備前国の石上布都之魂神社を指しているのだという意見もある。しかし大和国の石上神宮は古代にあって神宮の号が付される数少ない神社であることから、石上神宮と表記されていればやはり大和国の石上神宮のことで、備前国の石上布都之魂神社とは別だろうと思われる。

とあるけれども、古語拾遺に記された「今、在石上神宮」とは、撰上された 807 年現在での「今」であろうし、日本書紀の「今」は、それぞれの伝承が記録された時期にもよるのだろう。
 ちなみに、『三種の神器』の上記引用文中に「大和国の石上神宮は古代にあって神宮の号が付される数少ない神社である」といわれていることについては、次の資料が参考になろう。

『古代神社史論攷』 (pp. 3-4) より

 ○ 史料別の検討で、〈日本書紀〉については、まず

㋑ 固有名詞に「社」がつけられた例

として 9 例があげられ、続いて

㋺ 固有名詞に「神社」がつけられた例は『日本書紀』には全く見えない。

とあり、また、次の例を示して「神宮についてはこの三例がある」と補足される。

 ㋩ 固有名詞に「神宮」がつけられた例としては、

1  伊勢神宮 景行紀四十年。仁徳紀四十年。用明即位前紀。天武紀三、十、乙酉。天武紀朱鳥元、四、丙申。天武紀四、二。
2  石上神宮 天武紀三、八、庚辰。雄略紀三、四。
   石上振神宮 履中即位前紀。
3  出雲大神宮 崇神紀六十、七。
と、なっている。

 上記の〝 ㋑ 固有名詞に「社」がつけられた例〟というのは、出雲に関係したものでたとえば「斉明紀 五年是歳条」にある、次の記述があげられよう。

『大系本 日本書紀 下』 (pp. 340-341)
[原文] 是歲、命出雲國造〔闕名。〕 修嚴神之宮。狐嚙斷於友郡役丁所執葛末而去。又狗嚙置死人手臂於言屋社。〔言屋、此云伊浮琊。天子崩兆。〕
[訓み下し文] 是歲、出雲國造〔名を闕せり。〕 に命せて、神の宮を修嚴はしむ。狐、於友郡の役丁の執れる葛の末を嚙ひ斷ちて去ぬ。又、狗、死人の手臂を言屋社に嚙ひ置けり。〔言屋、此をば伊浮琊といふ。天子の崩りまさむ兆なり。〕
(ふりがな文) (ことし、いづものくにのみやつこ〔なをもらせり。〕 におほせて、かみのみやをつくりよそはしむ。きつね、おうのこほりのえよほろのとれるかづらのすゑをくひたちていぬ。また、いぬ、まかれるひとのただむきをいふやのやしろにくひおけり。〔いふや、これをばいふやといふ。みかどのかむあがりまさむきざしなり。〕)
【「琊」は 原文「王偏+耶」】

 ここに「言屋社」というのは、「出雲国風土記」の意宇郡にある「伊布夜社」とされ、延喜式巻十の「神祇 神名 下」では「揖夜神社」となっている。

斬蛇剣の行方についての 異なる物語の記録は、次回に追っていく予定。


Google サイト で、本日、引用文献の情報を含むバージョンを公開しました。

The End of Takechan : 天蠅斫之剣
https://sites.google.com/view/theendoftakechan/worochi/hahakiri-no-tsurugi

2018年6月21日木曜日

夏至の観測ライン上に建つ神社

〈太陽の道〉を示すもの: 日知りの民


 一説に、「聖(ひじり)」は「日知り(ひしり)」であるという。
 かつてそれは〈太陽の道〉を知り示し、「暦(こよみ)」を司るものたちだった。

 数日前、鳥取県立図書館の司書のかたから、『日本の歴史の根源』という本をご紹介いたただいた。
 同じ日に、鳥取県立図書館の別の司書のかたから、『続 秦氏の研究』という本をご紹介いたただいた。
 いずれの文献も、古くから和歌にも詠まれた「纒向の夕槻嶽(夕月岳)」についての考察を含むものだ。
 夕月岳は、応仁の乱で焼失する以前「穴師坐兵主神社(あなしにますひょうずじんじゃ)」があった場所だと、『大和志料』には書いてある。その『大和志料』を含め夕月岳の場所についてはさまざまに考証がなされていて、「纒」の一文字で「巻向山」を指すこともあり「纒向(まきむく)の」といわれるからには「巻向山の夕月岳」であるともされるけれど、この場合「纒向」はおそらく地域の名称・総称の意味であって「纒向=巻向山」と断定するのは少々乱暴な気もする。
(ちなみに『式内社調査報告 3 』(pp. 562-563) によれば、「穴師坐兵主神社」は「アナシニマスヒヤウズノカミノヤシロ」と訓むべきであるらしい。現在は下社「穴師大兵主神社」に上社「穴師坐兵主神社」も合祀されているが、上社は以前には巻向山中にあったという。)

 そもそも最初は、夕月岳ではなく、奈良県桜井市の三輪山北西部に位置する ―― 天理市との境界付近 ―― 穴師に鎮座する「穴師神社」について、調べていたのだ。その〝上の社〟である「穴師坐兵主神社」は〝応仁の乱の前には夕月岳にあった〟というのだけれども、その鎮座場所がはっきりせず、いつのまにかそれは巻向山だということになっている。
 だけど普通に考えて上と下の社があるのは、上の社(かみのやしろ)まで参拝するのは遠いので、手近に下社として遥拝所を設けて、便宜を図ったものであろう。
 そのことは『続 秦氏の研究』にも、記述があった。

 で、紹介された本の該当部分だけを読んでとりあえず図書の貸出手続きを済ませつつ、同日に図書館で国土地理院発行の 5 万分の 1 地形図「桜井」を A3 サイズで左右 2 枚に分けてカラーコピーしてもらい、夜更けにそれをきれいに張り合わせてから、『続 秦氏の研究』とか以前から借りていた同じ著者の『神社と古代王権祭祀』で紹介されている記述にしたがって赤やオレンジなどのカラーマーカーで線を引いてみた。
 するとどうだろう。夏至(げし)の観測ラインに沿って、いくつもの〝神の社〟が建立されているではないか。
 かつて〈太陽の道〉を知り「暦(こよみ)」を司るものたちが存在したのだ。
 びっくりしたあまり、これは関連の図書があるに違いないと確信するに至った次第である。

 翌日には、鳥取県立図書館のこれまた別の司書のかたから、『神社の系譜』という本をご紹介いたただいた。
 その本には、『続 秦氏の研究』と同じく、小川光三氏の本(『大和の原像』)が引用紹介してあった。―― 小川光三氏のその本はあいにく近隣の図書館にも蔵書がなく、現在のところ引用してある文献でしか内容を把握できていない。

 さて、下社が遥拝所として機能するための、位置関係というものがある。
 穴師神社の南約 1.8 ㎞ に位置する大神神社(おおみわじんじゃ)は、そこから拝めばちょうど夏至の日の太陽が三輪山の山頂から昇ってくる場所にあるという。大神神社の場合、有名な三つ鳥居は、拝礼の方角を示す「東向き」を禁足地として定める機能も有するようだ。
 その方角例を参考に、穴師神社の下社から見て夏至の日の太陽が昇る方向に上社があると想定すると、山に向かって下社から直線距離で約 900 m 離れた地点に「国土地理院の基準点・穴師」があった。地形図には標高 409 m の山頂として、示されている。

 おそらくは、そのあたりにかつて「穴師坐兵主神社」があったのだ。
 小川光三氏の『大和の原像』を参照すると、そういう結論が自然と導かれてくるようだ。夕月岳は、その場所なのだ、と。


夏至の観測ライン上にあると思われる神社をピックアップしてみよう


 基準線は、大神神社から三輪山(山頂: 467m)を拝するラインである。
 そのライン上、三輪山の先には、初瀬山の山頂 (548m) がある。
 またそのラインのすぐ南には、神武天皇陵と三輪山頂の南側標高 326 m 地点を結ぶ夏至の観測ラインがある。

その三輪山頂の南側ラインから始めて、北向きに平行にずらしていき、全部で 5 本のラインを描く。
それぞれのライン上で北から順に、神社名等をグーグルマップで調べた住所とともに記述していくことにする。
※ 標高で示される地点は、国土地理院の「基準点成果等閲覧サービス」の地図上で検索した緯度と経度を使用した。


● 神武天皇陵から三輪山頂の南側標高 326m 地点 を拝する

奈良県桜井市三輪 三輪山頂の南側標高 326m 地点

奈良県桜井市西之宮135 三輪神社

奈良県橿原市出合町145 春日神社

奈良県橿原市大久保町 神武天皇陵

奈良県橿原市山本町152 八幡神社


● 大神神社から三輪山の山頂 を拝する

奈良県桜井市白河 初瀬山の山頂 548m 地点

奈良県桜井市三輪 三輪山の山頂 467m 地点

奈良県桜井市三輪1422 大神神社

奈良県桜井市東新堂269 八阪神社

奈良県橿原市山之坊町304 山之坊山口神社

奈良県橿原市四条町192春日神社

奈良県橿原市東坊城町857 八幡神社


● 耳成山北側から三輪山頂の北東部標高 512m 地点 を拝する

奈良県桜井市白河760 高山神社

奈良県桜井市 三輪山の北東部・巻向山の北西部/標高 512m 地点

奈良県桜井市茅原 神御前神社

奈良県桜井市新屋敷181 春日神社

奈良県橿原市木原町490 耳成山口神社

奈良県橿原市木原町 耳成山

奈良県橿原市今井町4丁目4 今井町4-138 八幡神社

奈良県橿原市今井町3丁目162 春日神社


● 大兵主神社(穴師坐兵主神社)から笠山荒神社標高 503m 地点 を拝する

奈良県桜井市笠2415 笠山荒神社

奈良県桜井市穴師 基準点名「穴師」山頂 409m 地点

奈良県桜井市穴師493 大兵主神社(穴師坐兵主神社)

奈良県桜井市箸中1128 国津神社

奈良県桜井市箸中 箸墓古墳

奈良県桜井市芝 豊慶大神

奈良県桜井市大泉830 天満宮

奈良県橿原市東竹田町495 竹田神社

奈良県橿原市中町272 阪門神社(武内阪門神社)

奈良県橿原市葛本町 葛本神社

奈良県橿原市上品寺町37 稲荷神社

奈良県橿原市地黄町445 人麿神社


● 纒向遺跡の石塚古墳から龍王山の山頂 585m 地点 を拝する

奈良県天理市田町 龍王山の山頂 585m 地点

奈良県天理市渋谷町 景行天皇陵

奈良県桜井市太田 太田253-1 纒向石塚古墳

奈良県橿原市土橋町538 春日神社

奈良県橿原市土橋町537‐2 春日神社


Google サイト で、本日、グーグルマップで場所チェックしたバージョンを公開しました。

日知りの民:夏至の観測ライン上に建つ神社
https://sites.google.com/view/geshi-lines

2018年6月18日月曜日

八岐大蛇 と 踏鞴

八岐大蛇(やまたのおろち)とは〝踏鞴(たたら)の炎〟である、とも伝承される。

八岐大蛇とは、何であったのか。
スサノヲの蛇退治の神話にまつわる外伝がある。蛇を斬った〈剣〉の伝承を調べていくと、さまざまの資料から、別の物語が新たに見えてきた。
スサノヲの〈斬蛇剣〉の行方を追うきっかけとなった最初の文献から、以下に引用する。

〔参考資料〕
『三種の神器』〔稲田智宏/著 2007年06月15日 学習研究社刊〕 より引用

第二章 三種神器の神話的な背景
 宝剣
 (pp. 122-123)
 ① 大蛇を斬った剣
 素戔嗚尊が出雲の地で八岐大蛇を斬ったという剣は伝承によって相違が見られ、『古事記』および『日本書紀』本文では十拳剣(十握剣)、紀第二の一書で蛇の麁正、第三の一書では蛇韓鋤[おろちからさひ]の剣、第四の一書では天蠅斫剣、『古語拾遺』では天羽々斬という名の天十握剣だとされる。~~。
 また後に蛇の麁正は「石上に在す」、蛇韓鋤の剣は「吉備の神部の許に在り」、天羽々斬は「石上神宮に在り」といった相違も見られる。これらの所在地については、備前国に石上布都之魂[いそのかみふつのみたま]神社があるので、石上または石上神宮というのは大和国のそれではなく、備前国の石上布都之魂神社を指しているのだという意見もある。しかし大和国の石上神宮は古代にあって神宮の号が付される数少ない神社であることから、石上神宮と表記されていればやはり大和国の石上神宮のことで、備前国の石上布都之魂神社とは別だろうと思われる。したがって八岐大蛇を斬った十握剣の所在地は吉備国とする伝承と石上神宮とする伝承の二つが古典に見られるということだが、『新撰姓氏録[しんせんしょうじろく]』には仁徳天皇の御代に市川臣[いちかわのおみ]が布都努斯[ふつぬし]神社を「石上の御布瑠邑[みふるのむら]の高庭」に祀って神主となったとあり、石上神宮の文献にはより具体的に、仁徳天皇の五十六年に市川臣が備前国の石上社から剣を遷して祀ったという。


EMERGENCE II として新しい試みを模索中
Google サイト で、本日、同一内容を公開しました。

The End of Takechan
八岐大蛇 と 踏鞴
https://sites.google.com/view/theendoftakechan