2016年11月30日水曜日

弱いからこそ ひとは強くなれる

 まよいがなければ、きっとさとりもなく、闇がなければ光も輝けない。
 仏教の煩悩即菩提というのは、煩悩の自覚がそのまま救済への道標となることを、いう。
 なれば。まよいはさとりの一里塚あたりといったところか。

 道に迷わなければ、道を探す必要すら感じられないだろう。
 孤独すらも、他人にであわなければ、意識されない。
――光なくして闇もなく、正覚なくして迷妄なし、と標語のように妄語してみる、と。
 過去にも、次のタイトルで、このことはすでに言い及んでおりました。

 ジョン・ウェズリ 「悪魔なければ、神もなし」 (2016年2月3日水曜日)
ジョン・ウェズリ(一七〇三-九一年、オクスフォード大学教授、メソジスト派の祖)のことばを借りれば「悪魔なければ、神もなし」というわけであるが(16)
(16) Rudwin 1931 : 106. The Trial of Maist. Dowell (1599, p.8) の「悪魔なければ神もなし」という表現 ( K. Thomas 1978 : 559 で引用されている ) と比較せよ。
ニール・フォーサイス/著『古代悪魔学』序章「悪魔の物語」より
どうやら、1600 年頃にはすでに、そういうことが言われていたようです。
つまり、
――闇がなければ、光も認識できない、ということなのですね。

 ……と、そのときの文章は、そう締めくくっています。
 さて。いっぽうでパスカルは、自覚する人間の生命の尊厳を「考える葦」として語っていました。

 人間はひとくきの葦 (あし) にすぎない。自然のなかで最も弱いものである。だが、それは考える葦である。彼をおしつぶすために、宇宙全体が武装するには及ばない。蒸気や一滴の水でも彼を殺すのに十分である。だが、たとい宇宙が彼をおしつぶしても、人間は彼を殺すものより尊いだろう。なぜなら、彼は自分が死ぬことと、宇宙の自分に対する優勢とを知っているからである。宇宙は何も知らない。
『世界の名著 24』パスカル「パンセ」 (p.204)

 そして……西田幾多郎の哲学においては、たとえば次の如くです。

何処までも否定即肯定、肯定即否定的に、即ち矛盾的自己同一的に、創造的なものがなければならない。
新版『西田幾多郎全集』第十巻「場所的論理と宗教的世界観」 (p.329)

自己の自己矛盾的存在たることを自覚」〔同上 (p.313)
することが、生きていることの自覚であり、
上記の如き〈矛盾〉の自覚はそのまま〈迷い〉の自覚なのでしょう。

 ……そのような西田哲学というのは。
 西田幾多郎の説き明かす〈矛盾〉は彼自身の〈迷い〉の歴史を物語っているようです。
 発見しつつ、〈矛盾的自己同一〉だと、宣言していくのです。
 結局、何を言っているのかわからないというおおかたの評価でした。
 難解である――というのは、理解し難いことの、別表現でしょう。
 まともな試金石が与えられなかった悲しみがここにあるとは、戦前から指摘されていることでした。

 西田氏は、ただ自分の誠実というものだけに頼って自問自答せざるを得なかった。自問自答ばかりしている試実というものが、どの位惑わしに充ちたものかは、神様だけが知っている。この他人というものの抵抗を全く感じ得ない西田氏の孤独が、氏の奇怪なシステム、日本語では書かれて居らず、勿論外国語でも書かれてはいないという奇怪なシステムを創り上げて了った。氏に才能が欠けていた為でもなければ、創意が不足していた為でもない。
講談社文芸文庫『小林秀雄全文芸時評集 下』昭和十四年「学者と官僚」より

 生きていることの後ろめたさのようなものが、西田幾多郎の哲学の根源にあります。
 自己否定と。そしてそこから派生する使命感と。
 …………
 自己矛盾の自覚と、不安、戸惑いや恐れがひとを強くしました。
 遺伝子的には爬虫類が最大の〔生存〕能力を具えているようです。
 哺乳類としての、人類は、遺伝子から数々の生存能力を削ぎ落して、身軽になり、それらを道具というオプションとして、身に着ける能力を備えます。
 弱くなったからこそ、ひとはそれぞれの強さを求めることができたのです。
 生きていることの自覚と、弱さの自覚が、ひとの得た最大の能力かも知れません。

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