(1) この標語の出所とフォン・ワイツェッカー自身の使い方については、Zum Weltbild der Physik (Stuttgart, 1958) S. 369. Die Einheit der Natur (München, 1971) S. 13‑14.
〔藤田晋吾『意味と実在』「付論 論理学復興をこえて」 (p.211) 〕
この標語の意味は、『意味と実在』 第三章において、次のように説明されています。
(前後の文脈は原文で確認してみてください)
「客観的認識の主観的条件と主観を対象世界のなかに組み入れること」が、ともに必要となる。言うまでもなく、これが「自然は人間より古く、人間は自然科学より古い」という標語の本来の意味である。
〔藤田晋吾『意味と実在』第三章「観測と実在 2 観測と意識」 (pp.180-181) 〕
ちなみに、ヴァイツゼッカーは 『岩波 哲学・思想事典』 に複数の項目があります。
こちらのヴァイツゼッカーは、物理学者・哲学者のヴァイツゼッカーのようです。
かつて、ハイゼンベルク も著書 『現代物理学の思想』 で、このヴァイツゼッカーの言葉の意味を説明して次のように語っています。
もし我々が現在の我々とちがった人間であったとすれば、どんなことができるかということを論じたところで何の役にもたたない。この点について、ヴァイツゼッカーがいったように「自然は人間より前からあるし、人間は自然科学より前から存在していた」ということをはっきりと認めなければならない。この言葉の最初の部分は完全な客観性の理想として古典物理学を正当化している。第二の部分は、量子論のパラドクス、すなわち古典的概念の使用の必然性から逃れることができないのは、なぜであるかを教えている。
…………
我々が観測するものは自然それ自身でなくて、我々の質問の仕方にさらされている自然だということを、考えておかなければならない。
〔河野伊三郎・富山小太郎 訳『現代物理学の思想』第三章「量子論のコペンハーゲン派の解釈」 (p.35, pp.36-37) 〕
同書でこのことに関連して、くりかえし語られます。
前に指摘しておいたように、量子論のコペンハーゲン派の解釈においては、なるほど、我々自身を個体としての取り扱いをせずに進んで行くことができるが、しかし我々は自然科学が人によって作られたものだという事実を、無視することはできない。自然科学は単に自然を記述し説明するものではない。それは自然と我々との間の相互作用からできるものである。それは、我々の問いの方法にさらされたものとしての、自然を記述する
〔河野伊三郎・富山小太郎 訳『現代物理学の思想』第五章「哲学的観念の発展と量子論」 (p.65) 〕
物理学だけでなく、科学の実験の結果は、使用された観測装置の種類と精度に限定される し、実験の内容はその理論によるわけなのです。
仮説に基づいた結果のみを期待する場合には、ひとがつくった理論の限定から逃れることはできない、のですね。
だから「予測された結果を追いかけるだけでは新しい発見はできない」と表題しましたが。
もうちょっと正確に書くとするなら。
予測された結果を追いかけるだけの実験では何も新しい発見はできないのは当然だ
とでも。
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