2016年11月15日火曜日

数学的真理と デカルトの《神》の確実性と

 その鎧(アーマー)は、すべての攻撃を撥ね返そうとするだろう。
 しかしそれは、ある意味で、時代に対する自殺行為でもあろうか――?

 つまりここでの完全勝利を目指せばもしかすると次の時代には生き残れない。
 西田幾多郎の論文にデカルト哲学の一部が要約紹介されていた。

デカルトは「第五省察」に於て再び神の存在問題に触れて居る。そこでは認識論的である。明晰にして判明なるものが真である。神の存在と云ふことは、少くとも数学的真理が確実であると同じ程度に於て自分に確実である。然るに三角形の三つの角の和が二直角であると云ふことが、三角形の本質から離すことができない如くに、神の存在と云ふことは、神の本質から離すことはできぬ。存在と云ふことの欠けた最高完全者と云ふものを考へることは、谷のない山を考へる如く自己撞着である。故に神は存在する。
新版『西田幾多郎全集』第十巻「デカルト哲学について」 (pp.126-127)

 その該当箇所を、『デカルト著作集』 の邦訳で参照する。

そしてそれらが私をして、神を私が識らないとしたならば、容易に意見を転向させることとなり、かくして、いかなる事物 (もの) についても私は、けっして真にして確実な知識をもたず、移ろいやすく変わりやすい意見をのみもつこととなる、ということもありうるからである。このようにして、三角形の本性を私が考察するという場合を例にとるに、なるほどいとも明証的に私に、その私には幾何学の原理が染みこんでいるゆえ、その三つの角の和は二直角に等しいということが明らさまとなるし、その論証に私が注意しているかぎりは、このことは真であると私は信じないではいられないのであるが、精神の眼をその論証から私が背向けた途端、私がいとも明晰にそれを洞察したことを今なおどれほど想起しようとも、しかし [それでも] 、神を私が識らないともしもするならば、そのことが真であるかどうかを私は疑う、という事態が容易に起こりうるのである。
『増補版 デカルト著作集 2』省察「第五省察」所雄章/訳 (pp.90-91)

 あらゆる試金石をものともしない理論は、数は少なくともあるだろうか。
 そして、それぞれの、常識的立場がある。――それが、いわゆる〝いうまでもない〟ところの、前提だったとしても。
 けれど想定外にも、ユークリッド幾何学の常識は、非ユークリッド幾何学では必ずしも通用しない。
 デカルトの時代と異なりいまや、三角形の内角の和は、二直角とは限らなくなったのだ。
 ひとの曇った目には《神》の目も曇ろう。
 さらにくりかえすべきか。

 あまりに頑固というか頑健・強固な鎧は、新しい時代に対しては、自殺行為かも知れない。
――それでもその時代の数学的真理程度には、《神》の存在は確実なのだろう。


多様性の世界:多様なるべき世界
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