「哲学的自我と身体論としての境界線」(2016年7月29日金曜日)
というタイトルでブログに書いた、その最後の部分の問いが、どう説明できるのかを、以来ずっと知りたく思っておりました。
該当個所をここに再度掲載しますと。
――〔再掲開始〕――
一方、西田幾多郎は、「場所的論理と宗教的世界観」〔新版『西田幾多郎全集』第 10 巻〕で語る。
外に神を見ると云ふならば、それは魔法に過ぎない。 (pp.323-324)
我々の自己の根源に、かゝる神の呼声があるのである。私は我々の自己の奥底に、何処までも自己を越えて、而も自己がそこからと考へられるものがあると云ふ所以である。 (p.334)
ここで、疑問が生じる。
西田幾多郎は「内即外」かつ「外即内」等と、「即」の大盤振る舞いを繰り返してきたはずだ。
ここへきて、「外に神を見ると云ふならば、それは魔法に過ぎない」というのであれば、
「内に神を見ると云ふならば、それは魔法に過ぎない」とも同時にいえるはずではないのか?
――〔再掲終了〕――
疑問の要点を、もう一度書いてみますと、次の 2 行になります。。
「外に神を見ると云ふならば、それは魔法に過ぎない」と、主張するのであれば、
「内に神を見ると云ふならば、それは魔法に過ぎない」とも、同時にいえるはずでしょう。
そうすると、ただ、
「神を見ると云ふならば、それは魔法に過ぎない」
という、表現でこと足りるのではないかと。
すると、「我々の自己の根源」にある「神の呼声」など無意味にしか思われなくなって……。
しかしながらよもや、西田幾多郎の最終完成論文が、そんなナンセンスとも思われず。
全体として、このことに関しては、どう論述されているのか?
それ以前に語られたことに、ヒントがあると推測して、溯って読んでみました。
そうしてようやっと、一応の落としどころを、自分なりにみつけました。
説明としての、そのまとまった文章は、やはり昭和 20 年 (1945) の当該の論文にありましたので、引用いたします。
仏教に於て観ずると云ふことは、対象的に外に仏を観ることではなくして、自己の根源を照すこと、省みることである。外に神を見ると云ふならば、それは魔法に過ぎない。
〔新版『西田幾多郎全集』第十巻「場所的論理と宗教的世界観」 (pp. 323-324) 〕
禅宗では、見性成仏と云ふが、かゝる語は誤解せられてはならない。見と云つても、外に対象的に何物かを見ると云ふのではない、又内に内省的に自己自身を見ると云ふのでもない。自己は自己自身を見ることはできない、眼は眼自身を見ることはできないと一般である。然らばと云つて超越的に仏を見ると云ふのではない。さう云ふものが見られるならば、それは妖怪であらう。
〔新版『西田幾多郎全集』第十巻「場所的論理と宗教的世界観」 (p. 336) 〕
ここで西田幾多郎は、西洋的な〈神〉を語る際にも、仏教においての〈仏(ぶつ)〉を〈観ず〉がごとくに、観想しているようです。
禅宗には「摩訶止観(まかしかん)」という用語がありまして、「摩訶」は「偉大な」とかいうような意味の〈マハー〉というサンスクリット語の音訳であります。
一方「止観」は、『佛教語大辞典』の記述を要約しますれば、
「乱れぬ心で特定の対象に心を注ぐ」ことをいう「止」と、
「その止によって正しい智慧を起こして対象を観る」という「観」とから成り立ちます。
天台宗の「止」は「定(じょう)」で「観」は「慧(え)」の意味とされているようです。
さらに辞書を繙けば。
「定」は「禅定(ぜんじょう)」の「定」で、「瞑想」を意味を意味し、「三昧(さんまい)」ともいいます。
そもそも「禅」も「禅定」も、同じ「瞑想」という意味であって、言葉が違ってもそれらは大きく区別されるほどの違いはなさそうです。「三昧」も「禅定」と同じ意味なので、ですから「禅三昧」と書けば、仏教的には「禅禅」ということを表現しているわけです。
現代日本語的に翻訳してみますれば、「禅三昧」とは、
「瞑想また瞑想」の境地を指すこととなりましょう。
話がそれたようで、実は、このあたりが核心と思われるのです。
西田幾多郎の論を「止観」というキーワードをもとに再構成すると、
〝内にも外にも、神仏を自分以外の何物かとして対象的に見る、ということは迷いである〟
のであって、そうではなく、
〝対象として見るというのは、姿形(すがたかたち)を追い求めるのではなく、まさに〈観〉ずることなのである〟
ということと、なりましょうか。
昭和 18 年 (1943) の論文に、
「物来つて我を照らすと云ふ。」
〔新版『西田幾多郎全集』第九巻「知識の客観性について」 (p. 426) 〕
とあります。
対象としての「何物か」というのは、世界の根源にあって〈わたしを照らし出す〉超越的存在者をいうようです。
そこには〈照らし出されたわたし〉が、在るのみです。
それで、〝物として見るんじゃない、観じるんだ〟という、妙な表現に落ち着いてしまいました。
ちなみに「内即外」と「外即内」という記述は西田幾多郎の論文に、それほど多くはなく、もう少し文字数の多い語法が多用されていることがことのついでに確認できた次第です。
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