ただ、帝国大学といえども予算が不足していた事実は否めないようだ。
第二次世界大戦直前に、湯川秀樹が海外からの招待に応じて洋行しようとした際のことだ。
京都大学には、その旅費が捻出できなかった。それで東京の理研が旅費を出した。
その経緯を、湯川秀樹本人が、著書で語っている。
ノーベル賞関連の資料によると、湯川秀樹の「中間子の予言」に関する英語論文は、科学誌 『ネイチャー』 から、掲載を拒否されたという。次の文中では「有力な学術雑誌」とあるのが、それであろう。
あくる昭和十年(一九三五年)の二月に、予定どおり論文が掲載された。この時には、まだ中間子の存在を直接証明する事実は何ひとつ知られていなかったのであるが、私は不思議と強い自信をもっていた。そこで私は、ヨーロッパのある国の有力な学術雑誌のひとつに、中間子論の要点だけ書いて送った。すると間もなく原稿は送り返されてきた。私の考えを支持する実験的証拠がないから、雑誌に掲載できないという返事が、それに添えられていた。遠いアジアの一国の無名の研究者の妄想と片づけられたわけである。もっともなことである。
〔『湯川秀樹著作集 7 』「遍歴」 (p.58) 〕
つまり当時の枠組みの中では、現実的ではなく、また実験も困難であったから、もっともなのだ。
しかし日本人の発想力は、大正時代の最後の日に、世界に先駆けて〝ブラウン管に文字を映し出した〟ことでも立証済みなうえに、湯川論文に対する国内の評価は好意的であった。
湯川秀樹本人は、楽観的だったという。
(〔高柳健次郎/著『テレビ事始』 (p.77) 〕を参照のこと)
敗戦後の昭和 22 年 (1947) に、湯川秀樹が予言した「中間子」は、イギリス人パウエルにより発見された。
そういえば、アインシュタインの「一般相対性理論に基づく重力による空間の歪みの予測値」を非常な困難の末に観測、肯定的な結果を発表したのも、イギリスだった。
湯川秀樹は 1949 年にノーベル賞を受賞した。
極微の世界:リアルな時間
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